⑨顔合わせ
2015.8/27 更新分 1/1
そして、その日がやってきた。
白の月の30日――ジェノスの貴族たちとの、親善の晩餐会である。
料理番と護衛役の一団は、日の高い内からトゥラン伯爵邸に入ることになった。
城下町で言うところの、二の刻。
晩餐会の開始までに4時間半ばかりを残す昼下がりである。
近衛兵団の準備してくれたトトスの車で、半月前と同じように城門をくぐる。
初の城下町となるリミ=ルウたちは、小窓から垣間見える未知なる世界の情景に感嘆の声をおさえることはできなかった。
「すごいすごーい! 石の都って本当に石でできてるんだね!」
「本当にすごいですね……まさか、自分が城下町に足を踏み入れることになるなんて、わたしは夢にも思っていませんでした」
さすがに護衛役の狩人たちは張り詰めた表情をしていたが、それでも先日に比べればいくぶんその眼差しも穏やかであったと思う。
そうして屋敷に到着すると、今度は俺がひとりで驚きの声をあげることになった。
ギバの肉やらポイタン粉やらを詰め込んだ革袋を抱えながら、近衛兵の案内で入館すると、そこには蜂蜜色の巻き毛と紫色の瞳を持つ美麗なる女性が待ち受けていたのである。
「ようこそ、森辺よりの皆様方……お待ちしておりましたわ……」
「シフォン=チェル! あなたはこの屋敷に留まっていたのですか?」
「はい……なかなかわたくしのようなものを余所に移すのは難しかったのでしょう……このジェノスにおいては、この館とトゥランの荘園にしかマヒュドラの民というものは存在しませんので……」
俺よりも5センチばかり高い位置から、シフォン=チェルはにこりと微笑みかけてくる。
「現在は、わたくしがリフレイア様の身の周りのお世話をさせていただいております……アスタ様は、ご壮健のようで何よりでございます……」
「ええ、あなたもお元気そうで何よりです」
かつての苦悩に満ちた幽閉生活の中で、俺に少しでも安息をもたらしてくれたのは、このシフォン=チェルと、ディアルと――あとはせいぜい、日を重ねる内に気心の知れてきたロイぐらいのものであった。
その中で、立場の弱さからどのような境遇に陥るかが心配であったのは、シフォン=チェルだけだ。
そんなシフォン=チェルとこうして無事に再会できたことは、想像していた以上の安堵と喜びを俺に与えてくれた。
「それでは、ご案内いたします……こちらにどうぞ……」
「あれ? 刀は預けなくてもいいのかよ?」
シフォン=チェルのたおやかな姿をじろじろと眺め回しつつルド=ルウが発言すると、近衛兵のほうが「はい」と応じた。
「刀がなくては護衛の役目を果たすことはかなわぬであろう、とのことです。ただし、我らの案内する場所の他には足を踏み入れぬようお願いいたします」
「……了解した」
ダルム=ルウが低く答える。
族長筋たるルウ本家の次兄であるのだから、この護衛隊の長はダルム=ルウになるのだろう。
アイ=ファ、ダルム=ルウ、ルド=ルウ、ラウ=レイ――わずか4名であっても、これほど心強い顔ぶれはそうそうないはずだ。
「では、こちらに……」
シフォン=チェルと2名の兵士の案内で煉瓦造りの回廊を進む。
今回は、左ではなく右の棟に導かれた。
ということは――かつて俺が幽閉されていた側の棟である。
サイクレウスやリフレイアたちは、どの部屋に閉じ込められているのだろう。
それに、さっぱり話題にあがらないが、ディアルやその父親などはどこにその身柄を移されたのか。
そのようなことをつらつらと考えている間に、俺たちは最初の目的地に到達していた。
で、その見覚えのある扉の造りに、俺はギクリと立ちすくんでしまう。
「あ、あの、シフォン=チェル、もしかしたら、ここは浴堂ではないのですか?」
「はい……厨に入る前には、身を清めていただかなければなりませんので……」
「と、当主が代替わりしてもその習わしは有効なのでしょうか?」
「はい……わたくしはそのように仰せつかっているのですが……」
シフォン=チェルの視線を受けて、近衛兵がうなずいた。
「貴き身分の方々に料理を供するのですから、これは必要な措置となります。すべての出入口には近衛兵団の警護が配置されておりますので、何卒ご心配なきよう」
「左様でありますか……」
まあ、俺は幽閉されている間に毎日この風習を強制されていたので、さして抵抗はない。
しかし、女衆たちは大丈夫なのだろうか。
「それではまず、ご婦人方からご案内いたしましょうか……?」
クエスチョンマークを浮かばせたリミ=ルウ、レイナ=ルウ、シーラ=ルウを引き連れて、シフォン=チェルが扉をくぐろうとする。
そこにルド=ルウが「ちょっと待ってくれ」と声をかけた。
「要するに、そいつは水浴びみたいなもんなんだな? だったら、アイ=ファもついていってくれよ。全員が目を離しちまうと、護衛の役を果たせねーからな」
「うむ」
そんなわけで、男性陣はしばらくその場にぼんやり立ちつくすことになった。
いや、ぼんやりしていたのは俺だけで、ルド=ルウたちは常に油断なく周囲の気配を探っている様子である。
そうして15分ばかりの時間が経過して、再び扉が開かれると――いずれも髪を湿らせて、頬をうっすらと上気させた女衆らが舞い戻ってきた。
何だかみんな心地よさげな顔をしていたので、俺はほっと息をつく。
が、アイ=ファがひとりだけことさら赤い顔をしているなあ……とか考えていたら、リミ=ルウがいつもの調子でアイ=ファの胸もとに飛びついた。
「何だか気持ちが良かったね! ……でも、アイ=ファがそんなくすぐったがりだとは思わなかったよ」
「そのようなことはない! 他者にあれこれ身体をいじり回されるのが好かぬだけだ!」
「えー? そう思ってリミが手伝ってあげたのに、リミでも駄目なのー?」
「ア、アイ=ファも身体を清めたのか?」
思わず口をはさんでしまうと、八つ当たり気味ににらみつけられてしまう。
「リミ=ルウがどうしてもと言うからつきあっただけだ。……お前はこの屋敷に捕らわれている間、毎日このような習わしを強要されていたのか?」
「う、うん」
「……それは、難儀なことであったな」
ぷいっとそっぽを向く、そのはずみでいつもの甘い香りがふわりと俺の鼻に忍び込んできた。
ヨモギを思わせる薬湯の蒸気も、ギバ寄せの実の香りを消し去ることはできなかったらしい。むしろそれは熱気と水気の効果も相まって、普段以上の活発さでぐいぐいと俺の嗅覚を圧倒してくるかのようだった。
「それでは、アスタ様もどうぞ……」
「あ、ああ、はい」
俺の護衛はどうするのだろう、と視線を巡らせると、ルド=ルウと目が合った。
「めんどくせーけど、俺がついていくよ。ダルム兄、ちびリミたちをよろしくな」
「ああ」
ダルム=ルウらに見送られつつ、俺とルド=ルウは扉に足を向ける。
すると、シフォン=チェルがまた率先して扉をくぐろうとしたので、俺は慌てて制止の声をあげることになった。
「あの! 身の清め方は忘れていませんので、ご案内は不要であります」
「ああ、そうでしたわね……失礼いたしました……」
シフォン=チェルが、くすりと笑う。
頼むから、俺のいない間に余計なことを口走らないでくれよと願いつつ、俺はルド=ルウとともに控えの間を抜けて、蒸気の満ち満ちた浴堂へと踏み入った。
「うわー、何だこれ! 真っ白じゃん!」
「うん、俺も最初は驚いたよ」
とにかくとっとと済ませてしまおうと、俺は草かごに衣服を脱ぎ捨てた。
で、竹べらのようなものを使って、身体をまんべんなくこする。いわゆる垢擦りの作業でもって、身を清めるのだ。
残念ながら、この浴堂に浴槽というものは存在しない。どうせだったらゆっくり湯船につかりたいところだよなあとか考えていると、服を着たまま暑そうに胸もとをあおいでいたルド=ルウが声をかけてきた。
「なあ、何だか拍子抜けしちまうよな。どうもジェノスの親分様は、悪巧みも何もなく森辺の民と縁を結びなおそうとしてるみたいじゃねーか?」
「うん。だけどそいつは喜ばしいことだろう?」
「そりゃあもちろんその通りなんだけどよ……でも、今までさんざん知らんぷりしておきながら、サイクレウスたちの罪が暴かれたとたん、これだろ? なーんか、しっくりこねーんだよなあ」
それはたぶん、マルスタインの措置がトカゲの尻尾切りみたいに感じられてしまうからだろう。
サイクレウスが失脚して以来、マルスタインは全面的にジェノス側の非を認め、事態の修復に精一杯取り組んでいるように見える。
ただ――ここまでのお膳立てを整えたのは、やっぱりカミュア=ヨシュなのである。
カミュアがバルシャという証人を見つけだし、バナーム侯爵家までをも巻き込んでいなかったら、いったいどのような結末になっていたのか。
森辺の民だけでは、きっと連中の罪を暴くことはかなわず――おそらく、ジェノスを見限る結果になってしまっていただろう。
もしもそのような事態に陥ってしまったら、マルスタインはどのようにふるまっていたのか。
もしかしたら、そのときは森辺の民のほうこそが切り捨てられていたのかもしれない。
そういう懸念を捨てきれないからこそ、ドンダ=ルウたちもマルスタインを全面的には信頼することができないのだろう。
(にこにこと無邪気そうに笑ってばかりいたけど、そんなに簡単な相手ではないんだろうな)
そんなことを考えながら、俺は奥のほうにある桶から水を汲んで、清めた身体を洗い流した。
人肌より少しぬるいていどの水温だが、蒸気で蒸らされた身体にはとても心地好い。
そうしてバスタオルのように大きく柔らかい布で水気をぬぐい、脱いだ衣服をそのまま着用する。
浴堂を出ると、森辺の仲間たちは何も変わらぬ様子で俺たちを待っていてくれた。
とりたてて冷たい視線を向けられたりはしなかったので、シフォン=チェルも余計な思い出話などを語ったりはしなかったのだろうと思う。
「それでは、厨にご案内いたします……」
ここからの道筋は、俺もぼんやりと記憶していた。
ほんの20日前までは、毎日歩かされていた道なのだ。
それはわずか5日間の非日常的な体験でしかなかったが、俺の胸には苦い痛みとともにくっきりと刻みこまれている。
あれはあれでいい経験だった――とまで思えるようになるには、もうしばらく時間がかかるだろう。
「こちらです……」
やはり見覚えのある扉の前で、シフォン=チェルが立ち止まる。
そこでまた衛兵のひとりが声をあげた。
「この厨には、この扉の他に出入口は存在しません。あらかじめ内部をあらためていただいたのちは、我々とともにこの扉の外で警護の任を果たしていただきたく思います」
ダルム=ルウがうなずき、ラウ=レイとともに室内に踏み込む。
そうして彼らが安全を確かめてから、俺たちはようやく入室を許された。
そこでリミ=ルウがまた「うわあ」とはしゃいだ声をあげる。
俺にとっては20日ぶりの、トゥラン伯爵家の厨房だ。
使用人のための小さな厨であったとしても、その設備の規模と充実度はとてつもない。
森辺の集落どころか宿場町でさえ目にすることのかなわない数々の調理器具に、立派なかまどと、作業台。鉄のオーブン。戸棚にぎっしりと詰め込まれた、木や陶磁や金属や硝子の食器類。
何もかもが、以前に見たときと同じ様相であるようだった。
リミ=ルウに続いて入室したレイナ=ルウなどは、まるで恋する乙女のような眼差しになってしまっている。
「すごいですね! ここはまるで……かまど番にとっての、楽園のごとき部屋です!」
あのときの俺も、こうして正式に客人として招かれた身であったのならば、彼女たちのようにひたすら幸福な気持ちを得ることができたのだろう。
本日、苦い記憶を楽しい記憶で上書きすることができれば、幸いだ。
さらに備えつけの食糧庫まで案内してみせると、リミ=ルウは「きゃー!」とさらなる喜びの声を炸裂させた。
「見たこともない野菜がいっぱい! ねえねえ、これはどんな味がするのかな?」
「この香草は何でしょう? すごく苦そうな匂いをしているようですが」
子供のようにはしゃく仲良し姉妹のかたわらで、シーラ=ルウも感じ入ったように息をついている。
そこにはやはり俺が働かされていたときとほぼ大差のない質量の食糧が保管されていた。
サイクレウスは虜囚となり、大勢いた従者たちもそのほとんどが解雇されてしまったのだから、もはやこれほどの食糧は必要もないはずであるのだが、行商人たちとの商売をいきなり打ち切ることもできないため、相変わらずこの館には毎日どっさりと食材が届けられてしまっているそうなのである。
「それに加えて、サイクレウスが管理していた料理屋や、ジャガルの鉄具屋なんかとの商売もどうにかしないといけないから、後見人の受け持つ苦労というのは並大抵ではないらしいよ」
などと、カミュアは言っていた。
その大半は、ジェノス家が引き継いで管理していくことになるのだろうが、とにかくサイクレウスはさまざまな方面に商売の手をのばしていたので、それらのすべてに始末をつけるのにはまだまだ時間と労力が必要であるらしい。
まあ、そのような苦労は貴族の皆様方に一任するとして、俺たちには俺たちの仕事がある。
「それじゃあ作業を開始しようか。まずはスープの作製だね」
歓喜の極みにあるリミ=ルウたちを何とかなだめつつ、俺は必要な食材を調理場に移動させるよう指示を出した。
13名分の料理に、かまど番と護衛役の食するまかないまで含めて、なかなかの分量である。
アリア、ネェノン、チャッチ、ギーゴ、それにタウ油や岩塩やフワノ粉といったものどもを運搬し、いざ――と刀を取ろうとしたところで、閉ざされた扉が外から叩かれた。
「アスタ。城下町の料理人らが、お前に挨拶をしたいと言っている」
そんなアイ=ファの声とともに扉が開かれて、白装束の男たちがぞろぞろと厨に踏み入ってきた。
その内のひとり、象牙色の顔にそばかすを散らした若者の姿に、俺は「あっ!」と声をあげてしまう。
「ロイ! あなたも今日の晩餐会に参加するんですか?」
「ああ。俺は調理の助手に過ぎないけどな」
かつてトゥラン家の料理人のひとりであったロイは、怒っているようなそうでもないような複雑な面持ちでそのように応じてきた。
俺がアイ=ファやポルアースの手引きでこの館を出ることになった際、彼も玄関口から見送りをしてくれたのだが、サイクレウスやリフレイアの手前、まともに別れの挨拶をする時間は作れなかったのだ。
「……彼はその若さに似合わずなかなかの手腕を有しておりますため、本日は手伝いをお頼みしたのです」
と、妙に張りのよいテノールの声で割り込んでくる者があった。
白装束の男たちは4名おり、その中で一番年かさの人物がうやうやしく俺のほうに頭を下げてきた。
「あなたが森辺の料理人、ファの家のアスタ殿ですね? わたしは《セルヴァの矛槍亭》の料理人であり、かつてはこのトゥラン伯爵家で副料理長をつとめさせていただいていた、ティマロと申します」
年の頃は、四十路を少し越えたぐらいであろうか。痩せ気味なのにお腹だけがぽこんと膨らんだ、柔和で穏やかそうな人物であった。
肌の色は黄褐色で、筒形の帽子からこぼれた髪と瞳は濃い褐色。つるりとした血色のいい顔をしており、何故だか口もとに白い布きれをあてている。
「初めまして。ファの家のアスタと申します。……あの、今宵はどうぞよろしくお願いいたします」
「はい。ジェノスと森辺の絆を深めるために、ともに力を振り絞りましょう」
白い布きれの下で、ティマロとやらはにっこり微笑んだようだった。
実に悠然とした立ち居振る舞いである。
ただ――その目もとはあんまり笑っていないようにも感じられてしまう。
「聞いていた通り、そちらは4名で本日の仕事をつとめあげられるようですね。……それに合わせて、こちらも同じだけの人手を準備させていただきました」
「はい? こちらに合わせて、ですか?」
「ええ。それに、こちらの厨ではもっとさまざまな食材が用意されておりますが、そちらの厨で用意されていない食材は一切使用しないということを、この場でお約束させていただきます」
「はあ。それはいったいどういうお話なのでしょう?」
何だか不穏な言い様であった。
そんな俺の顔色を見て取って、ティマロはまた微笑する。
「何もご心配する必要はございません。わたしはただ、ファの家のアスタ殿と対等の条件で料理を作りあげたいと願っているだけなのです。……物珍しく希少な食材を使えば料理の質が向上する、という話でもありませんので、わたしも限られた食材から最高の料理を作りあげてみせましょう」
俺にしてみれば、レテンの油やパナムの蜜だって十分に物珍しく感じられるのだが、そちらの食糧庫にはもっとさまざまな食材が準備されている、ということなのか。
そういえば――本丸の食糧庫はサイクレウスにとって宝物庫も同然なのだ、とかミケルも言っていたような気がする。
何にせよ、俺の胸中に生じた不安感が緩和されることはなかった。
「あの、今日は味比べが目的ではなく、ジェノス侯や族長らに料理を楽しんでもらうための晩餐会なのですよね?」
「おお、もちろんです! わたしはただ、リフレイア様にあそこまでの賞賛を浴びることになったアスタ殿と再び同じ卓の料理を作る機会を得られて喜んでいるだけなのです。本日は、たがいに料理人としての誇りをかけて仕事に取り組みましょう」
「はい。よろしくお願いいたします」
ティマロはうなずき、芝居俳優のような優雅さできびすを返した。
その背に、ロイが言葉を投げかける。
「ティマロ、ほんの少しだけ時間をもらっていいですか? こいつとは、同じ厨で働いていたよしみもあるので」
「ええ、かまいませんよ。……同じ条件というのならば、調理にかける時間も同じくしなければ意味はありませんからね。あなたが厨に戻ってから、わたしたちも仕事を始めることにしましょう」
「ありがとうございます。すぐに戻りますので」
そうしてティマロと2名の調理助手は厨を出ていき、ロイだけがその場に居残った。
小さく息をついてから、ロイはじろりと俺をにらみつけてくる。
「まあ、そういうわけだよ。ティマロは全力でお前に立ち向かうつもりだから、お前も下手を打つんじゃねえぞ?」
再会の余韻もへったくれもない、性急な物言いであった。
まあ、ロイらしいといえば実にロイらしい。
「ええ、それはもちろん俺だって全力でこの仕事に臨むつもりではありますけど。……あのティマロという方は、やっぱり俺にいい感情を抱いていないのでしょうかね?」
「当たり前だろ。何を作ってもお前の料理の上をいけなかったんだから、料理人としての誇りを取り戻そうと必死なんだ。俺だって、同じ立場だったら同じ気持ちになっただろうよ」
言いながら、ロイは眉根に深いしわを刻んだ。
直情的で、口調は荒っぽい。やはり彼もシフォン=チェルと同様に、まったく変わりはないようだった。
それが少し嬉しくなって口もとをほころばせてしまうと、ロイは「何を笑ってやがるんだよ」といっそう怖い顔をした。
「言っておくけど、ティマロが得意にしているのはカロン料理なんだ。あのときは、リフレイア様の言いつけでキミュスの料理しか作れなかったからな。同じ相手だと思って油断してると、足をすくわれるぞ?」
「いやあ、油断も何も、俺は味比べをするつもりもないので……」
「それでも客人たちがティマロの料理ばかりを賞賛することになったら悔しいだろうがよ?」
「ああ、まあ、それは少なからず悔しいでしょうね」
「しかもお前は、ギバなんざの肉を使わなきゃいけねえんだろ? そんな肉で、まともな料理を作れるのかよ?」
「それは大丈夫です。……といっても、俺はカロンの胴体の肉なんて、ロイの作る料理の味見ぐらいでしか味わったことはないのですけどね」
どうせ森辺や宿場町ではカロンの胴体の肉を扱うことなどできそうもなかったので、そのあたりのことはおざなりにしてしまっていた俺なのである。
「頼りねえなあ」とロイはぼやいた。
「お前の腕前は俺が誰よりもわきまえてるけどよ。ギバの肉なんて、臭くて固くてとても食べられたものじゃないっていう評判じゃねえか。本当に大丈夫なのか?」
「大丈夫ですよ。ロイにもギバ肉の美味しさを知ってもらえれば良かったんですけどね」
そんな風に応じると、ロイの目がすっと細まった。
「……お前、本当に自信があるんだな?」
「ええ。ギバ肉の味には自信があります」
ミケルやヤンだって、ギバ肉の美味しさは認めてくれたのだ。
城下町の人間にだって、ギバ肉の味は通用すると信じることはできる。
「だったら、まかないの料理を多めに作れ。……いや、多めに作る必要はないな。同じ4人同士なんだから、こっちとそっちの料理番が食べる料理を半分ずつ分け合えばいい。俺のほうから、ティマロにそうするよう掛け合ってやるよ」
「ええ? どうしてそんなことをしなくちゃならないんですか?」
「客人たちの言葉だけじゃあ、ティマロが納得しないかもしれないだろ? 森辺の民は貴族の厚意につけこんで、美味くもない料理を美味いと言わせたんだ、なんて吹聴されたら、お前だって納得いかないだろうがよ?」
「……あの人は、そんなことを吹聴するようなお人なんですか?」
「まあ少なくとも、自分の舌で確かめない限り、自分の負けを認めるような人間ではねえな」
そう言って、ロイは苛立たしげに鼻を鳴らした。
「それに、料理の腕は確かだけどよ。厨を出た後の人間性までは請け負えねえ。さっきだって、これ見よがしに口もとを押さえてたじゃねえか? あれは、下賤の人間と同じ空気なんか吸いたくないっていう意思表示なんだよ。……貴族ばかりを相手にしてると、貴族の悪い部分が伝染しちまうもんなのかね」
「あー、それはずいぶん困った御仁であるようですね」
とはいえ、今日の仕事に私情を持ち込むつもりはない。
どうしたものかと考え込んでいると、横合いからくいくいとTシャツの袖を引っ張られた。
「アスタ。道理をわきまえぬ人間にどのような目を向けられてもかまいはしませんが、ただ、城下町の料理人がどのような料理を作るのか、ということにはとても興味を引かれてしまいます」
それは、レイナ=ルウだった。
その目には、純然たる好奇心と向上心の光だけがきらめいている。
「晩餐の会に同席できるのはアスタだけなのでしょう? かなうことなら、わたしも城下町の料理をこの目で見て、味を確かめてみたいと思うのですが……いかがでしょう?」
「うーん、そうだねえ。まあ、おたがいの料理を味見し合うぐらいなら、別に問題はないかなあ」
城下町で悪評を流されても、宿場町にはさしたる影響もないのだろうとは思う。
しかし、食べてもいない料理の悪評を流されるというのは、やはりはなはだしく不愉快な話であった。
「あ、だけど、余所のかまどで作られた晩餐を口にするのは、森辺の習わしに反するんだよね?」
俺が言うと、レイナ=ルウは悪戯小僧のように微笑みながら首をすくめた。
「あくまで味見ということなら、きっとドンダ父さんにも怒られないと思います」
描き文字をつけるなら「てへ」という言葉がぴったりの仕草である。
まだこのようにチャーミングな表情を隠し持っていたのかと、俺は苦笑しながらロイに向きなおる。
「わかりました。それじゃあ、ティマロという方にはロイのほうから――」
そのように言いかけて、俺は口をつぐむことになった。
ついさきほどまで不機嫌そうな顔をしていたロイが、ぽかんと口を開けてしまっていたのである。
その驚きに見開かれた目の先には、レイナ=ルウの姿があった。
「……あの、何か?」
レイナ=ルウが、少し困惑したように微笑む。
ロイはぶんぶんと頭を振り、頭にかぶった帽子を落としそうになりながら、俺のほうをにらみつけてきた。
「じゃ、じゃあそれでいいんだな? それだけ大口を叩いて粗末な料理を作ったら、言い訳のしようもなく嘲笑われることになるぞ?」
「はい。そうならないように頑張ります」
「……ふん!」と意味もなく鼻息をふき、最後にまたレイナ=ルウのほうをちらりと見てから、ロイは厨を出ていった。
ずっと無言でこのやりとりを見守っていたアイ=ファとルド=ルウの手によって、扉は再び閉ざされる。
「何だか騒がしいお人でしたね」
何も理解していない様子で、レイナ=ルウはにっこり微笑んだ。
宿場町で商売をしているときと同じように、薄物のヴェールとショールを巻きつけた、とても可愛らしい姿である。顔立ちはとても整っており、ちまちましているがプロポーションは抜群だ。これほど魅力にあふれた女の子はそうそう存在しないと思う。
(……だからといって、ドンダ=ルウも町の人間にばっかり娘を嫁がせる気にはなれないだろうなあ)
などと余計なお世話を心中に秘めつつ、俺は「それじゃあ仕事に取りかかろう」と声をあげることにした。