⑧雌伏の日々(下)
2015.8/26 更新分 1/1
ルウの集落に客人がやってきたのは、それから数時間後のことだった。
竜田揚げの試食を終えて、その他の献立の内容を検討し、そろそろ本日の晩餐の準備に移行しようか――という頃合いで、かまどの間にその報が届けられたのである。
「やあ、ジーダ。どうしたんだい?」
まず、やってきたのはジーダであった。
なんと彼は5日前からルウの集落に居残って、リャダ=ルウらとともに警護役をつとめてくれているのである。
「またカミュア=ヨシュらがやってきた。アスタと話をしたいと申し出ているのだが、応じるか?」
「カミュアが? それはもちろん。……というか、カミュアだったらずかずかここまで踏み込んできそうなものだけど」
「カミュア=ヨシュが、厄介な者たちまで引き連れてきてしまったのだ。アスタが応じなければこのまま引き返すので、まずは返事をいただきたいとのことだ」
むっつりとした無表情で、ジーダが述べてくる。その黄色い瞳には、ゆらゆらと穏やかならぬ火がちらついていた。
「同行してきたのは、サイクレウスの娘と、その従者であるシム人だ。ジェノス領主の承諾を得て、この集落に連れてきたそうだが。……応じるか?」
むろんのこと、俺は驚きの声をあげることになった。
「リ、リフレイアとサンジュラを連れてきたっていうのかい? カミュアが? どうして?」
「俺は知らん。理由を問いたいのならば、本人に問うがいい」
マルスタインの承諾を得ているというのならば、応じるしかないだろう。
それにしても、カミュア=ヨシュとリフレイアという組み合わせは、あまりにも想像を絶していた。
「話も聞かずに追い返すわけにもいかないだろうね。……レイナ=ルウ、ちょっと抜けるからよろしくね」
「はい。アスタ、どうかお気をつけて」
心配そうなレイナ=ルウらにうなずき返し、俺はジーダとともにかまどの間を出た。
歩きながら、ジーダが低くつぶやく。
「あのシム人は刀を持っていない。カミュア=ヨシュが裏切らない限り危険なことはないから、心配は不要だ」
ジーダは俺よりも10センチばかりは背が低い。
それに、骨を砕かれたという肩の負傷も完全には癒えていないはずだ。
しかし、その小さな身体には森辺の狩人にも負けない力の波動がみなぎっていた。
「あれ? アイ=ファ?」
少し進むと、本家の母屋の前でアイ=ファがギルルの手綱を木に繋げていた。
強い光を浮かべた青い瞳が、俺を見る。
「いま、戻った。……ちょうどよいところに戻ってこれたようだな」
「お前も帰ってきたか。これならば、なお磐石だな」
ジーダに劣らず警戒心をあらわにしたアイ=ファとともに、さらに歩を進めていく。
ルウの集落の大広場、その最果てにはすでに他の男衆たちも集結していた。
リャダ=ルウとミダ、そしてもうじき狩人としての資格を得る少年たちだ。
それと向かい合う格好で、物々しい一団が待ちかまえている。
白い甲冑に身を包んだ3名の兵士たちと、カミュア=ヨシュ、それにフードつきのマントで人相を隠した大小の人影――あれがリフレイアとサンジュラなのだろう。
広場の外には、彼らが乗ってきたらしい箱型の車とそれを引くトトスの姿もあった。
「やあ、アスタ。驚かせてしまって悪かったね。そこのジーダに伝えた通り、ジェノス侯の了承は取りつけてあるからさ。良かったら、彼らと少し話をしてもらえるかな?」
カミュアは、のんびりと笑っている。
アイ=ファとジーダににらまれて、その笑顔がやや苦笑っぽいものに変じた。
「言っておくけど、俺だってジェノス侯に護衛役を頼まれただけなんだよ? 彼らがこの場に参じたのは彼らの意志だ。俺は何ひとつ関与していないからね?」
俺はうなずき返しつつ、アイ=ファが許す距離まで彼らに近づいた。
まずは大きなほうの影が、少しぎこちない動きでマントのフードをはねのける。
「おひさしぶりです、アスタ。……話し合い、了承してくれて、感謝しています」
ほぼ半月ぶりぐらいに相対する、サンジュラである。
淡い栗色をした長い髪に、鳶色の瞳。それに漆黒の肌を有する、東の民のごとき西の民――やわらかく微笑むその姿に、どこも変わりはないようだった。
「……トゥラン家の従者はすべて他の場所に遠ざけられたと聞いているのだが、どうしてお前はそうしてぬけぬけと主人のもとに留まっていられるのだ?」
鋭い声でアイ=ファが問うと、サンジュラは穏やかに微笑したまま、そちらに向きなおった。
「私、トゥラン家の従者、異なります。サイクレウス、銅貨で雇われていましたが、家、持たない風来坊です。……そして現在は、罪を贖い、自由の身です」
「そうだからといって、悪逆な真似をしでかしたお前が主人のかたわらに控えたままというのは腑に落ちん」
そんなアイ=ファの疑念に答えたのは、カミュアだった。
「その件に関しても、ジェノス侯の裁量で許されているのだよ。……許されているというか、すでに自由の身であるこの御仁を野放しにするよりは、目の届くところにいてくれたほうが安心できるので、特別にリフレイア姫のもとに留まることが許されたらしい」
「しかしそれは……」
「うん。この御仁は卓越した剣技を備えているようだし、サイクレウスの配下としてあちこちの町を飛び回っていたらしいという調べもついている。……それゆえに、メルフリードも徹底的に身もとを洗ってくれたんだけどね、罪人としての証しを見つけだすことはできなかったんだ。そうなると、こちらとしても身柄をおさえる理由がどこにもなくなってしまうので、こうして自分から目の届く場所に留まってくれるというのは、むしろ好都合なのじゃないかな」
もしかしたら、サンジュラにはサイクレウスの血が流れているのかもしれない、という話がジェノス侯爵の耳にも届いたのだろうか。
何にせよ、野放しにするよりは監視下に置いておきたいというのは、納得できなくもない話である。
アイ=ファがいくぶん不本意そうにしながらも口をつぐんだので、俺はあらためてサンジュラと言葉を交わすことにした。
「本当におひさしぶりですね。……だけど、今さら俺たちにどのようなご用件があるというのですか?」
「私、ただの付き添いです。話、リフレイア、あります」
その言葉を受けて、小さなほうの人物も、ほっそりとした指先でフードを払いのけた。
やはり栗色をした髪を胸のあたりまでのばし、鳶色の瞳を強く光らせる、華奢な身体つきをした小さな女の子――リフレイアだ。
日に焼けていない象牙色の肌に、くっきりとした目鼻立ち、気丈そうな表情にも、傲慢そうな眼差しにも、変わりはない。
飾り物は身につけていないし、マントの下の白い装束も、それほど華美ではないようだ。が、いかにも貴族然とした彼女が森辺の集落に立ちはだかっている、その姿はとてつもない違和感を俺にもたらした。
「ファの家のアスタ。今日はあなたに頼みたいことがあって、わざわざこのような場所にまで足を運んだのよ」
甲高く、ちょっと舌足らずな声でリフレイアはそう言った。
たちまち、アイ=ファが「おい」と目を光らせる。
「先日の非礼も詫びぬ内に、ずいぶん居丈高なふるまいではないか。お前は卑劣な手段を用いてアスタをかどわかしたのだぞ、貴族の娘よ」
「あなたはあの夜に商団の娘と偽ってアスタを連れ戻しに来た森辺の民ね。名前はたしか、ファの家のアイ=ファだったかしら?」
リフレイアの目が、面倒くさそうにアイ=ファを見る。
「わたしはすでにその罪を裁かれた身よ。6ヶ月の禁固がたった数日に縮まったのはわたしの意思とは関わりのないことだわ。すでに罪は贖っているのに、この上、謝罪を要求するというの?」
「お前はあの夜も、一言たりともアスタに詫びようとはしなかった。悔いる気持ちもないままそのようにふるまうのは、あまりに非礼であろう」
「ふうん? 非礼を詫びなければ話はできないというのなら、いくらでも詫びてみせるけど」
そんなことを言いながら、リフレイアは小さな手を胸の前で組み合わせて、俺にぺこりと頭を下げてきた。
「ファの家のアスタ。わたしは家に帰りたいというあなたの言葉を聞き届けず、自分の浅ましき思いからその身の自由を奪ってしまいました。数々の無礼をどうぞお許しくださいませ。……さ、これで気は済んだのかしら?」
アイ=ファはいよいよ物騒な目つきになりながら、口をへの字に結んでしまった。
リフレイアは、顔の前に流れてきた長い髪を「ふん」と優雅に払いのける。
たったひとりの父親が大罪人として捕縛され、裁きを待つ身となった。そんな苛烈な出来事によって、彼女がどのような思いを抱くことになったのか――少なくとも、その立ち居振る舞いから内心をうかがうことはまったく不可能であるようだった。
「わたしたちは、五の刻までに戻らないといけないの。時間がないのだから、さっさと話をさせてもらうわね。……ファの家のアスタ、あなたはジェノス侯の計画した晩餐会に、料理人として招かれているのでしょう?」
「うん、そうだね」
まもなく伯爵家の当主となる人物にこのような口のきき方でいいのだろうかと危ぶみつつ、俺はそのように応じてみせた。
リフレイアは、頭ひとつぶん以上も低い位置から、俺の顔をにらみあげてくる。
「その晩餐会には、わたしも招待されることになったわ。というか、わたしの館で執り行われることに決定されたようなのよね」
「え? 本当ですか、カミュア?」
俺の言葉に、カミュアは「うん」とうなずく。
「ジェノス侯の目的は、森辺の民との和睦だからね。それならば、悪縁あるリフレイア姫も同席させるべきだろう、とのことだ」
「それはそうかもしれませんが……それで場所は、トゥラン伯爵の館になるのですか?」
「そう。ジェノス城に貴族ならぬ人間を呼びつけるにはまた色々と煩雑な手続きや準備が必要となってしまうから、その方向で話を進めているらしい。トゥラン家でねじくれてしまった縁であるならば、同じ場所で和睦をなすのも理にかなうのではないか、とかいうお考えであるようだね。幸いというか何というか、トゥラン伯爵邸にはジェノス城にも劣らぬ立派な厨が設えられているようだし」
まあ、トゥラン家の護衛部隊が一掃されて、近衛兵団が警護を受け持つなら、場所はどこでもかまわないのだろう。
マルスタインがそのように定めたというのなら、こちらも従う他ない。
しかし――
「その話を耳にして、ひとつ思いついたことがあるの。……ファの家のアスタ、あなたの料理をわたしの父様にも食べさせてもらうことはできないかしら?」
「はあ!?」と今度こそ俺は抑制のきかない声をあげることになってしまった。
アイ=ファのほうは、呆れたように目を細めてしまっている。
「そ、それはどういうお話なのかな? まさか、君の父君まで参列するわけではないだろう?」
「当たり前じゃない。父様は、わたしと違ってこれから審問を受ける身なのよ? そんな父様が、そのような場に招かれるはずはないでしょう?」
「だ、だったらどうして――」
「父様は、この世の料理をすべて味わいつくしたいと願っているのよ。だからこそ、シムやジャガルからもたくさんの食材を買いつけたり、料理人を呼びつけたりしていたのだわ」
まったく悪びれた様子もなく、リフレイアはそのように言った。
「だけど、渡来の民の料理なんていうものは、これまで口にしたことはないはずよ。審問が始まれば、きっと死罪か、あるいは一生を牢獄で過ごすことになるんだろうから、あなたの料理を食べるのはこれが最後の機会になるの。……娘として、父親に最後のはなむけを捧げたいと願うのは当然でしょう?」
「願うのは勝手だが、こちらにはそれを聞き届ける筋合いなどひとつもない」
低い声で、アイ=ファが応じた。
リフレイアは、また面倒くさそうにそちらを振り返る。
「わたしはファの家のアスタに話しているのだけど? それとも、アスタに願うにはまず家長であるとかいうあなたの許しが必要になるのかしら?」
「その通りだ。そしてまた、私よりも先に森辺の族長の許しが必要となる話でもあろう」
アイ=ファの声が、厳しい響きをおびてくる。
「かつて森辺の族長であったザッツ=スンと、サイクレウス、それにその弟であるシルエルという者たちは、長きに渡って数々の大罪を犯してきた。富と力を得るために、その者たちは罪もなき人々の生命までをも奪ってきたのだ。そのような大罪人に情けをかけることが正しいとは、私には思えぬ」
「だけど、審問はまだ始まっていないのよ? 罪人といっても、まだその罪の重さは量られていない。だからわたしも、これが最後の機会だと思ったのよ」
反して、リフレイアの声には不思議な静けさが宿り始めていた。
「裁きが下されてしまったら、たとえ死罪を免れたとしても、一生牢獄で粗末な食事を食べ続けるしかないわ。美食にしか興味のない父様にとって、それは死罪と変わらぬ罰となるでしょう。……だから、父様が罪人であると断じられるその前に、最後の晩餐らしい晩餐を口にしてほしいのよ」
「…………」
「もちろん今のわたしには、1枚の銅貨を自由に扱うことも許されていないわ。だから、相応の代価を支払うこともできないけれど――」
言いながら、リフレイアはかたわらに立つ近衛兵のほうに視線を飛ばした。
「ねえ、その腰の短剣をわたしに貸してもらえないかしら?」
白甲冑の近衛兵は、表情ひとつ動かさなかった。
金褐色の頭をかきながら、カミュアが逆側から進み出る。
「俺がお貸ししましょうか。ただし、自害されるわけにはいかないので、妙な真似をしたら、ちょっと手荒にでも取り押さえさせていただきますよ?」
「かまわないわ。そんな馬鹿な真似をするつもりはないから」
カミュアはうなずき、長マントの中から魔法のように短剣を取り出した。
そして、その短剣を手に、サンジュラのほうを振り返る。
「申し訳ないけど、あなたには少し離れていてもらおうかな、サンジュラとやら」
「……私、無力です。何をする力も、残ってはいません」
「いやあ、鞭叩きの刑をくらってまだ数日しか経過していないというのに、そうして当たり前に動けているだけで、十分に脅威的だと感じられてしまうのだよね。同じ罰をくらったお仲間は、いまだに眠ることもできず寝台でのたうち回っているのだろう?」
人の悪い笑みを浮かべながら、カミュアはぷらぷらと短剣を振る。
「手負いの獣は、何よりも恐ろしい。それぐらいのことは、狩人ならぬ俺でもよくわきまえている。森辺の集落を罪人の血で濡らしたくはないので、ほんの少しだけご主人様から離れていておくれよ」
淡い微笑みをたたえたまま、サンジュラはリフレイアのほうを見た。
リフレイアは小さくうなずき、それでようやくサンジュラは後退する。
2名の兵士が、すかさずその腕を左右から捕獲した。
「そうそう。それぐらいの用心は必要だと思えるね。……さ、リフレイア姫、短剣をどうぞ」
リフレイアは無言で短剣を受け取った。
そして、革鞘だけをカミュアに返却する。
「何だか手間取ってしまったわね。……わたしには代価を支払うこともできないから、その代わりに、これを捧げるわ」
リフレイアが、逆手に短剣を持つ。
そうして、誰が止めるいとまもなく――リフレイアは、胸もとにまで垂れていた栗色の髪を、首の横あたりからざくざくと切り落としてしまった。
綺麗に手入れをされた長い髪が、陽光を受けて黄金色にきらめきながら、森辺の集落に散っていく。
「わたしにはもはや、何の力も残っていない。ジェノス侯が命じるままに、木偶人形として生きていく他ないわ。……まあ、わたしは父様から与えられた生をのんべんだらりと享受していただけなのだから、父様が失脚するのと同時に何もかもを奪われてしまうというのも、当然の話よね」
不格好なざんばら頭をさらしながら、リフレイアは毅然とそのように宣言した。
「尼僧になれと言われれば尼僧になるし、どこかの貴族を娶って家督を継がせろというなら、その言葉にも従いましょう。もう二度と森辺の民に災厄をもたらさないと誓うこともできるし、そもそもわたしにはそのように害をなす力も残されていない。……だから最後にひとつだけ、わたしの望みをかなえてもらえないかしら?」
「そうまでして……父親に、俺の料理を食べさせたいのかい?」
「そうよ」
リフレイアは、俺のほうを見すえたまま、短剣をつかんだ右手を横にのばした。
それをつまみあげたカミュアが、厳かな手つきで革鞘に収める。
「この件に関しては、すべてをアスタと森辺の族長らに一任する、とジェノス侯は仰られていたよ。ただし、十数年に渡って森辺の民を欺き続けてきたサイクレウスと、アスタの身をさらったリフレイア姫に温情などを与える必要はないのだろう、とも仰っていたけどね」
俺は、カミュアを振り返った。
カミュアは、べつだん気負う風でもなく微笑んでいる。
「ただ、サイクレウスは日に日に弱っていき、現在では病魔を抑えるための薬膳をすするのが精一杯で、他にはまともな食事を口にする気力もないらしい。このままでは審問まで生命が持ちそうにないので、アスタの料理で少しでも滋養を与えることができれば幸いである、と――有益に考えられるのはせいぜいそれぐらいであるので、ご判断はおまかせするとのことだ」
「そうですか……」
俺の胸には、実にさまざまな想念が入り乱れることになった。
リフレイアに対してもサイクレウスに対しても、俺はとうてい一言では言い表せぬような思いを抱え込んでいたのである。
怒りや反感というものも、もちろんその中には含まれている。だが、それと同じぐらいの割合で、どうして彼らはこのように道を踏み外すことになってしまったのか――もっと他に、情愛や希望にあふれた生き方をすることはできなかったのか――という、やるせなさや虚しさや切なさというものが、どうしようもなく俺の胸中にはあふれかえってしまっていたのだった。
しかし、幸いというか何というか、これは俺ひとりの裁量で決められるような話ではなかった。
俺はぐるぐると渦巻く感情のうねりを腹の底に抑えつけながら、なるべく平静な顔をしてリフレイアに向きなおった。
「それじゃあ俺は、森辺の族長や家長のアイ=ファと相談してみるよ。それで反対の意見がなかったら、俺は君の父親のために料理を作る。……俺に言えるのは、それだけだね」
「そう……」
リフレイアはまぶたを閉ざし、再び胸の前で指先を組み合わせた。
「どうかわたしの願いが聞き届けられるように祈っているわ。……ありがとう、ファの家のアスタ」
◇
そうしてさらに日は進んでいく。
サイクレウスの病は回復せず、シルエルは沈黙を守り続け、無法者どもの行方はいっこうにつかめない。劇的な変化などは望めないまま、ただ時間だけが過ぎ去っていった。
そんな中、晩餐会の詳細は無事に取り決められることになった。
日時は、白の月の30日。
場所は、トゥラン伯爵家の本邸。
参列者は、13名。
森辺の集落から、ドンダ=ルウ、グラフ=ザザ、ダリ=サウティ、ガズラン=ルティム、フォウの家長、ベイムの家長。
ジェノスから、マルスタイン、メルフリード、リフレイア、トゥラン家の後見人、サトゥラス家の代表者、ダレイム家の代表者――これは、第二子息のポルアースが選出されたらしい。
そして見届け人として、バナーム侯爵家のウェルハイド。
以上の13名である。
厨を預かる料理番としては、俺と、レイナ=ルウと、シーラ=ルウと、リミ=ルウの4名が出向き、さらにその護衛役として、アイ=ファ、ルド=ルウ、ダルム=ルウ、ラウ=レイの4名が付き添うことになった。
リミ=ルウは快哉の声をあげ、ダン=ルティムが悲嘆の雄叫びをほとばしらせたことは言うまでもない。
その後、サイクレウスにもささやかな晩餐が供されることが決定されたが、これは森辺の族長とジェノス侯爵マルスタインの認めた、非公式の裏イベントである。
族長たちの間でも、この議題についてはかなり紛糾することになったのだが、最終的には何とかかんとか害のある話ではないとして、認められることになったのだ。
決め手になったのは、たぶんドンダ=ルウの一言であっただろう。
「あのシルエルというもう一方の罪人を正しく裁くためには、サイクレウスの生命が必要なんだ。サイクレウスやその娘が気に入らないから森辺の料理を食べさせたくはない、などというのは、あまりにも子供じみた考えなんじゃねえのか?」
グラフ=ザザなどは最後まで頑強に反対意見を述べていたが、それで口をつぐむことになった。
俺としては、もとより異論もなく――それよりも、俺の料理を「森辺の料理」と言い切ったドンダ=ルウの言葉に、ひそかに胸を震わせることになったものである。
そうしてカミュアには族長たちの返答が届けられることになり、カミュアからは晩餐会についてのさらなる詳細が届けられることになった。
「当日、アスタには勝手知ったるトゥラン伯爵家の小さなほうの厨で仕事に励んでいただきたいそうなんだけど、カロンの乳だとかキミュスの卵だとか、そのあたりの腐りやすい食材なんかは事前に必要な量を申告してほしいとのことだよ」
「そうですか。了解しました」
「でね、ジェノス側の料理番には、かつてトゥラン家で副料理長をつとめていたという御仁が選出されたようなのだけれども……その御仁は、何かアスタと縁のあるお相手なのかな?」
「トゥラン家の副料理長? ……ああ、それはたぶん俺がトゥラン家に幽閉されたとき、別の厨で晩餐をこしらえていたという人物ですね。リフレイアはその人物と俺の料理を客人にもふるまって、味比べをさせていたそうです」
「なるほどね! その人物は自分からこの晩餐会の料理番をつとめたいと熱望していたそうなのだよ。そういう経緯があるなら、まあ納得だ」
「熱望ですか? ……まさかその人は、俺や森辺の民に敵対意識なんかを持っていたりはしないでしょうね?」
あまり詳細は知らされていないが、味比べの際にはリフレイアもディアルたちもこぞって俺の料理のほうが美味であると評していたらしいのである。
本人にしてみれば、こんな胸の煮える話もないだろう。
「敵対意識というよりは、料理人としての純然たる対抗意識なのじゃないかな? あの館で働いていた料理人たちは、富と名声を求めていただけで、サイクレウス個人に忠誠を誓っていたわけでもないんだから、特に心配することはないと思うよ。現在ではトゥラン家を引き払って、もといた料理屋に出戻った身でもあるしね」
トゥラン家は、すでに後見人とやらの手腕によって、大改革が執り行われているらしい。
正確な素性など知るすべもないが、トゥラン家の傍流の血筋でありながら、サイクレウスからは排斥されて、トゥラン領の片隅でひっそりと余生を過ごしていた人物であるそうだ。
で、その人物とマルスタインの采配により、護衛部隊が解任されたのはもちろんのこと、料理人や使用人たちものきなみ別の働き場所に移されて、現在はサイクレウスと縁故のない人間だけが屋敷に詰めているそうなのである。
サイクレウスのもとには近衛兵団と医師団しか近づくことは許されず、リフレイアのもとにはサンジュラしか留まることは許されていないのだろう。
(ロイやシフォン=チェルなんかは、いったいどうなったんだろうなあ)
シフォン=チェルに関しては、カミュアに行く末を問うてみたりもしたのだが、「まったくわからない」とのことであった。
「というか、それはマヒュドラの民なのだろう? サイクレウスは、奴隷として使役されているマヒュドラの民を救うために、俺がこのような陰謀を企てたと言い張っていたらしいじゃないか。そんな馬鹿げた疑いを他の貴族たちに持たれてしまったら厄介だから、俺はなるべく関与しないように気をつけているんだよ」
「……カミュアはマヒュドラを憎んでいるんですか?」
思わずそのように問うてしまうと、カミュアは「まさか」とにんまり笑った。
「それはもちろん、俺の母親を迫害していた連中には怒りの感情を持つことしかできないけれど、それでマヒュドラという国そのものやマヒュドラの民の全員を恨むなんて筋違いじゃないか? ……あえて責任の所在を問うならば、迫害されるのを承知で敵対国の人間と通じ合った両親を恨むしかなくなってしまうしねえ」
それではカミュアは、どんなに迫害をされても誰を恨もうともしないまま――そうして、このように飄然と生きる道を選んだということなのだろうか。
チェシャ猫のように笑うそのとぼけた顔から真意を読み取ることは、むろん俺などには不可能な話であった。
そうして日々は過ぎ去っていき、俺は晩餐会に向けて粛々と料理の勉強を続けることになった。
貴族の人々は初めてギバの料理を口にするのだから、何も目新しい献立を用意する必要はない。が、すべての料理をいちどきに供するのではなく、ひと品ずつを順番にお出ししなければならないとあっては、色々と工夫をする必要が生じてしまったのだった。
これまでの料理をアレンジしたり、まったく新しい料理に手をつけてみたり、悩ましくも楽しい日々である。
何にせよ、俺としては森辺の族長らとジェノスの貴族たちの双方に美味しい料理をお届けできるようにと、誠心誠意努める他なかった。
で――そのように料理の勉強と研究に取り組みながら、俺はその何日目かでアイ=ファとこっそり密談することになった。
「なあ、アイ=ファ。晩餐の前にちょっとハンバーグでもこさえてみようかと思うんだけど、どうだろう?」
その日もいち早く帰還していたアイ=ファは、ぴくりと眉を動かしつつ俺の耳に口を寄せてきた。
「何故だ? 晩餐会では、たつたあげという料理をふるまうのであろう? はんばーぐを作る必要などないのではないのか?」
「うん、だけど、アイ=ファが最後にハンバーグを食べてから、もう20日以上も経ってるじゃないか? いいかげん忍耐も限界だろう?」
アイ=ファはあの、ズーロ=スンたちを招いた晩餐会においても、ハンバーグを口にしなかったそうなのだ。
理由はひとつ、それは俺でなくシーラ=ルウたちがこさえたハンバーグだったからである。
ルウの本家において、あまりハンバーグという献立は歓迎されていない。それゆえに、いずれファの家に戻れる日までは――と先延ばしにされてきてしまったのだが。このまま城下町の晩餐会を終えるのを待つだけで、それこそひと月近くもハンバーグ断ちを続けることになってしまうのだ。
いくら何でも、そこまでアイ=ファの忍耐が持つはずもない。
そう思って、遅ればせながらも俺はそのように提案してみせたのだが、アイ=ファはゆるゆると首を横に振るばかりであった。
「私の精神はそこまで脆弱ではない。余計なことに気など回さず、お前は自分の仕事に励むがいい」
「ええ? でも、まだいつファの家に戻れるかの目処も立っていないんだぞ?」
「大事ない、と言っている。はんばーぐに関しては、もはや私もそれほど気にならなくなっていたところなのだ」
それはあまりにもアイ=ファらしからぬ言い分であった。
もしかしたら、はらわたを煮えくりかえらせながら、鋼の精神力でそれを抑制しているのではないのか、と俺は心配になってしまったが――当のアイ=ファは、実に涼しい顔をしていた。
「うーん、何だか信じられないなあ。あれほど大好きだったハンバーグのことがどうでもよくなっちまったのか?」
「そのようなことはない」と、アイ=ファが再び顔を寄せてくる。
「ただ思ったのだ。これだけ私を待たせてくれたのだから、ファの家に戻ったあかつきには、さぞかし素晴らしい晩餐をこしらえてくれるのだろうな、と。……その日のことを考えると、苦しいどころか楽しいような気持ちになってきてしまうのだ」
「…………」
「だから、何も案ずることはない」
そう言って、アイ=ファは静かに俺の顔を見つめ返してきた。
何というか、全幅の信頼を込めた眼差し、とでも言いたくなるような目つきである。
(……なんちゅー高いハードルを設定してくれてるんだよ)
これは城下町の晩餐会と同じぐらい全精力を振り絞らなくては立ち行かないぐらいの試練であるのかもしれなかった。
ともあれ――その後は大きな変事に悩まされることもなく、俺たちは白の月の30日を迎えることになったのだった。




