⑤審問(下)
2015.8/23 更新分 1/1 8/24 誤字を修正
「馬鹿な!」と叫んだのは、シルエルだった。
「どうして貴様がこんなところに……俺の部下たちは何をしていたのだ!」
「護民兵団の皆様がたは、きっちり職務を果たしておられましたよ。あれほどの大部隊がすべての街道に配置されているとは、驚きの一言でありました」
飄々と笑いながら、カミュアはドンダ=ルウのほうに視線を転じた。
「ドンダ=ルウ、ルウ家からお借りした3名の男衆も、無事に帰還いたしました。彼らは通行証の持ち合わせがなかったので、城門前に待機していた狩人らと合流いたしましたよ」
ドンダ=ルウは、無言でうなずく。
適当に受け流された格好のシルエルは、また座ったまま地団駄を踏み始めた。
「貴様には、農園に野盗を仕向けた嫌疑がかけられていたはずだ! まさか、貴様――護民兵団の兵士らを、手にかけたのか?」
「まさかまさか。俺たちは情理をつくして説得し、道を空けてもらったまでです。嫌疑をかけられたといっても、正式な手配書が出回っていたわけでもないようでしたからね」
カミュアは、本当に相変わらずであった。
長旅によっていくぶん身に纏っているものは薄汚れているようであるが、そのすっとぼけたたたずまいにも飄然とした笑顔にも変わりはない。
そうしてカミュアは、まだ開け放たれたままであった扉の外へとひょろ長い腕を差しのべた。
「ところでもう1名、お客人をご案内いたしました。メルフリード、君から託されていた通行証を無駄にせずに済んだよ」
そこから姿を現したのは、いかにも貴族然とした風貌の若者であった。
西の民としては珍しい黒髪で、肌はあまり日に焼けていない象牙色。いくぶん幼さの残った面立ちではあるが、厳しく表情を引き締めた、中肉中背の青年だ。
カミュアと同じような長マントを纏っているため、足もとから覗く上等そうな足衣や革靴ぐらいしか身なりはわからない。
誰も見知った人間はいないのか、鋭い探るような視線がその人物に集中した。
「こちらはバナーム侯爵家のウェルハイド殿です。現侯爵の妹君の第二子息で、爵位継承権は第六位でありましたかね」
「バ、バナーム侯爵家だと!?」
シルエルが、ひび割れまくった声でわめきたてた。
気丈に口を引き結んだまま、青年はそちらに茶色がかった瞳を向ける。
青年というか――もしかしたら、年齢は俺とそんなに変わらないぐらいなのかもしれない。
「10年前に襲撃された使節団の長は、このウェルハイド殿の父君でありました。ウェルハイド殿にも真実を知る権利があると思い、こうしてご同行を願ったのです」
あっけらかんと答えるカミュアの笑顔を陰気にねめつけながら、サイクレウスは「ジモンよ……」と低くつぶやいた。
「客人はこの2名のみであるな……? では、その扉を早々に閉ざすがよい」
「は――」と応じながら、ジモンはいくぶん逡巡の態度を見せた。
しかし、主人に反問しようとはせず、重そうな扉をゆっくり閉ざす。
「約束の刻限に遅れたあげく、予定以上の人数になってしまって申し訳ありません。ああ、座席の準備などは不要でありますよ。レイト、ウェルハイド殿に席を譲ってもらえるかな?」
「はい」とレイトは席を立ち、ウェルハイドなる若者は無言でその椅子に座した。
「カミュア=ヨシュ……貴殿はいったいどういう心づもりであるのかな……?」
サイクレウスの問いかけに、「心づもりでありますか?」とカミュアは首をひねる。
「そうですね。ウェルハイド殿をお招きするというのは、かねてよりの計画であったのです。とにかくサイクレウス卿の権勢はジェノス侯に匹敵するぐらいの勢いであったため、それにも心を乱されない見届け人というのが必要なのじゃないかなあと思い立ったのですよ。……それならば、事件の関係者であられるウェルハイド殿かその母君が適任であろうと思い、つい昨日までその説得に励んでいたのです」
「…………」
「メルフリードには紹介状というものを準備してもらいましたが、何せ寄る辺ない風来坊の身でありますからね。侯爵家の貴き方々と面会がかなうまでには、ずいぶん時間がかかってしまいました。……で、その間にジェノスでは森辺の装束に身を包んだ野盗などというものが出没していたそうですが、我々は白の月の6日から13日までバナームに留まっておりましたため、少なくともその実行犯ではありえません。何せマヒュドラの民のごとき風体をしたこの俺と森辺の民の4人連れですから、宿屋の親父さんたちも見間違えることはないでしょう」
野盗どもは、たしか俺がサイクレウス邸から解放されるまで――白の月の9日までは、農園を騒がせていたはずである。
もしかしたら、カミュアはアリバイを確保するためにも堂々とバナームの町に居座っていたのだろうか。
「何やら俺にはその野盗どもをけしかけたという嫌疑がかけられていたそうですが、しょせんは証しのない話です。バナームの貴人たるウェルハイド殿の《守護人》としてジェノスに向かわねばならないのだと説明すると、護民兵団の皆様がたも快く道を空けてくださいましたよ?」
「貴殿は……己の悪辣な策謀に、バナーム侯爵家までをも巻き込む心づもりであるか」
「巻き込んだのは、俺ではありません。10年前に使節団を襲った何者かです。そんな痛ましい事件さえなければ、ウェルハイド殿がジェノスの地を踏むこともなかったでしょう」
肩をすくめるカミュアのかたわらで、そのウェルハイドが「僕は――」と初めて口を開いた。
「僕は、真実を知るために来ました。この場に来れば、父の死の真相を知ることができる、と聞いて。……何の連絡もなく城門をくぐった非礼は、のちほどジェノス侯マルスタインに直接お詫びを申し述べさせていただこうと考えています」
襲撃された使節団の長の遺児、ということは、この若者もレイトやミラノ=マスと同じ立場の人間である、ということだ。
確かに彼はカミュア=ヨシュではなく、10年前の事件の犯人によってこの場に導かれた、ということになるのだろう。
「さて、役者はそろいましたかね。……バルシャ、あなたがこの場にいてくれていることを、俺は何よりも得難いことだと感じています」
「ああ、昨日の夜まではさんざん迷っていたんだけどさ、あたしも肚をくくることにしたよ」
バルシャの猛々しい眼光と、カミュアの不思議な眼差しが中空でからみあう。
証人としてこの場に馳せ参じれば、バルシャ自身も罪人として処断されることになる――そんなことは、カミュアにとっても最初から確定事項であったに違いない。
カミュアはしばらく透徹した目でバルシャを見つめてから、サイクレウスに向きなおった。
「見たところ、一通りの審問は終了したご様子ですね。ジェノス侯爵家の第一子息メルフリードに、バナーム侯爵家のウェルハイド殿、それにそちらはジェノス城の法務官であらせられるようですね。これだけの顔ぶれを前にして、いまだにあなたがたは過去の罪をお認めになられないのでしょうか?」
「カミュア=ヨシュ……貴殿はどうしてそうまでして、ジェノスに災いをもたらそうなどと思い至ってしまったのであろうかな……」
「ジェノスに災いを? いえいえ、俺が願っているのは、ジェノスの繁栄と公正なる裁きのみです」
にこやかに笑いながら、カミュアは右腕を大きく横に広げた。
長いマントがばさりとたなびき、まるで巨大な鳥が片翼を広げたかのようなたたずまいである。
そうしてカミュアは、残った左腕で心臓をつかむような仕草を見せた。
「俺の神は、西方神セルヴァです。北方神マヒュドラは、15年もの昔に捨て去りました。……そんな俺が願うのは、セルヴァの一領土たるジェノスの安寧のみなのです」
「不遜な……真なる心もなく神への礼をほどこせば、その魂は4つに引き裂かれるであろう……」
「ええ。俺が自身の魂を犠牲にしてまで、セルヴァに災いをもたらす理由がありましょうか? 確かに西の王国はそれほど優しく俺のことを迎え入れてはくれませんでしたが、それを言ったら、マヒュドラでの扱いなどそれはひどいものでありました」
翼をたたみながら、カミュアはにんまりと笑う。
「そうでなかったら、どうして西方神に神を乗り換える必要などあったでしょう? 俺はマヒュドラで生を受けましたが、母親ともども迫害を受けました。だからこそ、母親を失った後は何の未練もなく神を乗り換えることができたのです。俺がこの身の血を呪うとしたら、セルヴァではなくマヒュドラに災いをもたらそうと考えたでしょうね」
「…………」
「しかし幸いなことに、マヒュドラを遠く離れたこのジェノスなどでは、俺みたいな者でもそうそう迫害されたりはしませんでした。だから、心置きなくジェノスの繁栄を願うことができるのです。……むしろ、この世を呪っていたのはあなたがたなのではないのですか、サイクレウス卿?」
「…………」
「あなたがたは、ジェノスではなく自身の繁栄のみを願った。ジェノスの繁栄、トゥランの繁栄ではなく、自分自身の繁栄のみを願ったのです。思えば、それがすべての悲劇の始まりだったのでしょう」
のほほんと笑いながら、カミュアの瞳にはまた透き通った光が浮かび始めていた。
ジバ婆さんを思い起こさせる、不思議な眼差しだ。
「あなたはもともと第二子息であったそうですね、サイクレウス卿。このジェノスにおいて、伯爵家の身分はさほど貴いものとはされていない。第二子息では永久に日陰者として生きていくしか道はないのだと、ダレイム家のポルアース殿もそのように嘆いておりましたよ」
「…………」
「だけどポルアース殿には、父君や兄君をおしのけてまで栄華を手にしたい、というほどの野心は芽生えなかったようです。しかし、あなたはどうだったのでしょうね? トゥランという小さな領土を預かる伯爵家の、第二子息というささやかな身分に生まれついたあなたの胸には、いったいどのような気持ちが渦巻いていたのでしょう?」
「……貴殿は、この上まだ我を誹謗するつもりであるのか……?」
「誹謗ではありません。弾劾です」
カミュアは、あっさりとそのように言い放った。
「10年前の、森辺の民と《赤髭党》にまつわる数々の事件――あなたは、森辺の族長ザッツ=スンをそそのかし、シムに向かう商団や、バナームからの使節団、護民兵団の前団長などを襲撃させた。俺がつかめたのはその3つの事件のみですが、きっとそれ以外にも数々の罪を犯してきたのでしょう。さらにさかのぼり、30年ほどの昔には、自分の父親たるトゥラン家の前当主と、次期当主の立場であった兄君をも殺害したのだろうと俺は疑っています」
「な――」
「一生を日陰者として過ごすことなど、あなたには耐えられることではなかった。だからあなたは、父君や兄君をもその手にかけたのでしょう? 証しを見つけることはできませんでしたが、まずは兄君がトトスから落ちて首の骨を折り、それから1年と待たずして前当主は病魔で身罷られた。その病死にはシムから取り寄せられた毒草が使用されたのだろうと俺は踏んでいます」
「貴殿は……証しもないままに、トゥラン家の当主たる我をそこまで貶めるつもりであるか……?」
サイクレウスの眼光は、アメーバのごとくカミュアの長身をねっとりとからめとるかのようだった。
が、カミュアは透き通った瞳をしたまま、のんびりと笑っている。
「不敬の罪で、俺を訴えますか? あなたが潔白の身であったのならば、どうぞご随意に。これから俺は、さらなる不敬を重ねるつもりでありますからね。……これまで語ってきたのは、すべてが過去における罪です。しかしあなたは、これからもその野心を抑えるつもりはないのでしょう?」
「貴殿は――」
「俺は限界まで想像力の翼を広げてみたのですよ。まずは父君と兄君を弑逆し、奴隷を使役して富の拡大をはかり、森辺の民を利用してさらなる繁栄を手中にした――では、その先にどのような絵図を描いているのかな、とね」
「…………」
「3つの伯爵家の中で、トゥランは最大の力を得ることになった。その力は、もはやジェノス侯爵家にも匹敵するほどです。……となると、その次の獲物となるのは、ジェノス侯爵家の富しかありますまい。まずは食糧の交易を支配することに成功したあなたは、今度は鉄具の交易に手をのばしている。先月には、ついにジャガルの鉄の町ゼランドと独自に通商の契りを結ばれたそうですね」
それは――あのディアルの父親が長をつとめる商団のことなのだろう、きっと。
「そのゼランドからの鉄具屋には、城下町で売られる調理器具と、兵団の武具の調達が一任される契約となっているそうですね。それが済んだら、今度は石具屋や建築屋の通商をおさえる目論見であったのでしょうか? あなたはジェノス侯マルスタインが公務に励んでいる間に、城下町における通商の利益をすべて強奪するつもりであったのでしょう、サイクレウス卿」
「……いわれなき誹謗である……」
サイクレウスの小さな身体から、どす黒い瘴気がたちのぼっているかのように、俺には感じられてしまった。
その色の淡い瞳には、いよいよ手負いの獣じみた炎が宿っている。
それと相対しながら、カミュアはうっすらと笑っていた。
「証しがなければ、すべて誹謗の一言で済まされてしまうのでしょうかね。まあ、俺も筋道だって弾劾できるのは、10年前の事件のみです。そちらの罪が証し立てられればそれで雌雄は決せられるのですから、あとの采配はジェノス侯に一任いたします」
「……愚か者め! 誰がマヒュドラの血を引く貴様などの言葉を真に受けるものか!」
と、ひさびさにシルエルが爆発した。
「ザイラス殿! 法務官の次長たる貴殿から、はっきり申し述べてやるがいい! このような不埒者めには、鞭叩きとジェノス追放の刑罰こそが相応であろう!?」
「……貴殿らが不敬の罪を申し立てるおつもりならば、ジェノスの法においてそれは裁かれましょう」
老人は、静かな声でそう述べた。
「ただし――その前に、まずはこのカミュア=ヨシュなる者が述べる10年前の事件についての審問が必要でありましょうな」
「何!? 馬鹿を抜かすな! そのようなものは、すべて我々を陥れんとする讒言だ!」
「ならば、それを讒言とする証しが必要となりましょう。この者たちは、こうして証人を準備してきたのです」
言いながら、ザイラスはちらりとバルシャのほうを見た。
「正式なる審問の場で、このバルシャなる者と貴殿らの言葉のどちらに真実があるのか、まずはそれを見極める他ありません」
「ふざけるな! 盗賊風情と貴族の言葉が同じ重みで語られてたまるか!」
「盗賊が、自分の罪を認めた上で、貴殿の罪を告発しているのです。その言葉の重みに貴賎はありません」
「ザイラス殿、貴殿は――貴殿は、サトゥラス家の傍流の血筋であったな?」
シルエルは、サイクレウス以上に追い詰められた目つきでそのようにつぶやいた。
そして、シルエルが激昂すると、またサイクレウスはまぶたを閉ざしてしまう。
「サトゥラス家は、ダレイム家の愚鈍な第二子息にそそのかされて、トゥラン家に牙を剥かんとしている! 貴殿らは、この陰謀を利用してトゥラン家を失脚させんと目論んでいるわけか!」
「それこそいわれなき讒言でありましょう。わたしはサトゥラス家の人間としてではなく、法務官の立場としてこの場に招かれたのです」
「そんな言葉が信用できるものか! 貴様たちは、トゥラン家の富を狙ってこのような策謀を打ち立てたのだ! 貴様たちは、腐肉をあさるムントそのものだ!」
ザイラスは、心底から不愉快そうに白い眉をひそめる。
「お口をつつしみなさるよう、シルエル殿。貴殿らは、森辺の族長らの筋道だった問いかけに対しても、言葉を濁し、恫喝し、答えをはぐらかすばかりでありました。どちらの言葉に理があるのか、そのようなものは正式な審問を待つまでもなく、誰の目にも明らかなのではないでしょうか?」
「森辺の民が何だというのだ! このような連中は、おぞましいギバの血肉をすする蛮族の集まりだ!」
シルエルは完全に我を見失っていた。
ザイラスは憮然と口をつぐみ、それに代わってカミュアが笑いかける。
「護民兵団団長シルエル殿。実は、この期に及んで、俺にはまだ確証をつかめていない部分がひとつだけ存在したのですよね。そういう意味では、確かにさきほどの言葉も誹謗とそしられてもしかたがなかったのかもしれません」
シルエルは、惑乱の極みにある目つきでカミュアを振り返る。
カミュアは薄く笑ったまま、垂れ気味の目を細めてそれを見返した。
「これまでに俺が語った話は、いずれもあなたとサイクレウス卿が強固な協力関係を築いていなければ成し得なかった話ばかりです。それで、トゥラン伯爵家の当主を担っているのはサイクレウス卿のほうであったので、俺はそちらが主犯格なのであろうと目していたのですが――本日、あなたと初めてしっかりと顔を合わせたことによって、その考えが揺らいでしまいました」
「…………」
「もしかしたら……そもそもの始まりにおいて、このような陰謀劇の図面を描いてみせたのは、サイクレウス卿ではなくあなたのほうだったのですかね、シルエル殿?」
カミュアがその言葉を口にした瞬間――
シルエルが、腰のあたりに手をのばした。
しかし、その革帯に刀は装着されていない。
それゆえに、咄嗟に反応できる者はいなかった。
シルエルが腰に下げていたのは、丸い銀色の飾り物であり、どこをどう見ても武具には見えなかったのだ。
また、実際にそれは武具ではなく、鈴か何かであったようだった。
そうして、シルエルがその銀色の鈴を打ち鳴らすと――シルエルらの背後に引かれていた大きな幕が、音をたてて左右に引き開けられた。
そこに立ちはだかっていたのは、アイ=ファが知覚していた通り、数十名にも及ぶ兵士たちであり、しかもその手には、いずれも引き絞られた弓と矢が携えられていた。
「動くな! 動けば全員、セルヴァのもとに召されることになるぞ!」
勝ち誇ったように、シルエルが哄笑をあげる。
「馬鹿な……」とザイラスがうめいた。
「しょ、正気か、シルエル殿? この場にはメルフリード殿と、それにバナーム家のご子息が――」
「死んでしまえば、爵位もへったくれもない! それは俺たちの愚かな父と兄がその身をもって証し立てたことだ!」
吠えながら、シルエルはその図太い身体を椅子の上で縮めていた。
その巨大な背もたれには、もしかしたら流れ矢を防ぐための鉄板か何かでも仕込んであるのだろうか。
兵士たちは、その半数が中腰の体勢になり、二段構えで矢をかまえていた。
総勢は、30名にも達するだろう。その矢が放たれれば、室内にいる限りどこにも逃げ場はない。
「愚かな男だ、カミュア=ヨシュ! ……それに、このようなうつけ者の口車に乗った貴様たちもな! トゥラン家は、貴様たちが滅んだ後も永劫にジェノスを支配し続けるだろう!」
狂乱するシルエルのかたわらで、サイクレウスはまだまぶたを閉ざしていた。
その青黒い顔からは、笑みも消えてしまっている。
そうして表情をなくしてしまうと、サイクレウスは無力で老いさらばえた病人にしか見えなかった。
そして、アイ=ファを始めとする森辺の狩人らは――その瞳に深甚なる怒りの炎を宿しながら、誰ひとりとして動揺する素振りも見せてはいなかった。
「審問を待つまでもなく、ご自分の罪を認めるわけですか」
カミュア=ヨシュが、のんびりと言った。
「手間がはぶけた、と言いたいところですが……どの道、審問は避けられませんよ。これまでの罪に、新たな罪がかぶせられるだけです」
「ほざくな、痴れ者め! 貴様たちは、全員この場で息絶えるのだ!」
「本当にジェノス侯爵家やバナーム侯爵家をも敵に回すおつもりですか? いかに伯爵家の血筋といえとも、それでは死罪を免れられなくなってしまいますよ?」
「……会談の場において、森辺の族長らは突如として凶行に及ぼうとした。我々も、身を守るために矢を射かけるよう命ずる他なかったのだ」
ぶあつい唇を舌で湿しつつ、シルエルは煮えたった汚泥のような声を振り絞る。
「その際に、メルフリード殿やバナームからの客人まで巻き添えになってしまったのは、きわめて不幸な結果であった……大事な跡取りを失って、ジェノス侯はさぞかしお嘆きになられるであろうな」
「なるほど。そういった思惑もあって、メルフリードからも刀を取り上げていたわけですか。しかしメルフリードとて、森辺の狩人に劣らぬ力量を持つ英傑であり――」
「これ以上の問答は不要だ!」
シルエルの指先が、再び銀の鈴を打ち鳴らす。
それと同時に、すべての矢が放たれた――のだろうと思う。
しかし俺に、それを知覚することはできなかった。
鈴の音色が響いた瞬間、何者かに椅子の足を蹴り飛ばされて、俺はその場にひっくり返ることになったのである。
したたかに背中を打ちながら、俺は奇妙な2種類の音色を耳にした。
その内のひとつは、何者かのくぐもったうめき声であり、残りのもうひとつは、森辺の民の吹き鳴らす鋭い草笛の音色であった。
「……どこにも手傷は負っていないな、アスタ?」
と、アイ=ファの声が頭上から降ってくる。
やはり俺の椅子を蹴倒してくれたのはアイ=ファだったのだろう。
見上げると、アイ=ファは俺のすぐかたわらに膝をついていた。
その手には、何本かの矢が突きたった丸椅子の足が握られている。
どこにも逃げ場はなかったが、自分の座っていた椅子を盾として、射かけられた矢を防いだらしい。
兵士たちとの距離は5、6メートルていどであったのに、呆れるばかりの反射神経と身体能力である。
寝転がったまま周囲を見回してみると、すべての狩人がアイ=ファと同じ方法で自分と同胞たちの身を守ったようであった。
スン家の人々の前には、グラフ=ザザとガズラン=ルティムが仁王立ちになっている。
ザイラスの身はメルフリードが、ウェルハイドの身はバルシャが守ったようである。
誰ひとりとして手傷は負っていないようだ。
ほっと安堵の息をついたところで、カミュアの声が耳に忍びこんできた。
「いやあ、危ないところだった。まさかここまで強引な手を打ってくるとはねえ」
ずいぶん声が近いなと思ったら、カミュアは俺のすぐ後ろで這いつくばっていた。
そのマントの内側には、レイトが幼子のように抱きかかえられている。
椅子という盾を有していなかったカミュアは、アイ=ファの背後に倒れこむことによって難を逃れたらしい。
「サ、サイクレウスたちは――?」
「大丈夫だよ。思わぬ来客が登場したようだけども」
意味がわからず身を起こすと、確かに思いも寄らぬ情景が目に飛びこんできた。
シルエルの図太い身体が、宙に吊り上げられてしまっている。
吊り上げているのは、ドンダ=ルウである。
左腕には矢の刺さった丸椅子を、右腕にはシルエルの胸もとをひっつかみ、ドンダ=ルウが部屋の中央に立ちはだかっていた。
「大罪人めが、よくも俺の同胞にこのような真似を仕掛けてくれたな」
地鳴りのような、ドンダ=ルウの声。
それに、息もたえだえのシルエルのうめき声がかぶさる。
ふたりの足もとには、背もたれのついた重そうな椅子が横倒しになっていた。
そして、サイクレウスである。
サイクレウスもまた、その身の自由を奪われていた。
その咽喉もとに、半月刀の刃を突きつけられている姿が、狩人の衣に包まれた肩ごしに見える。
燃えるような赤毛の蓬髪と、まだほっそりとした黄褐色の手足――後ろ姿でも見間違えることのない、マサラの狩人の少年がサイクレウスの身柄をおさえていたのだ。
「ジーダ……どうしてあんたがこんな場所にいるんだい?」
静かな声で、バルシャが問うた。
ジーダの背中は、何も答えない。
答えたのは、俺の身体を引き起こしつつ、まだ油断なく丸椅子をかまえているアイ=ファであった。
「あの者は、天井裏にでも潜んでいたらしい。何度か気配がこぼれていたが、お前は気づかなかったのか、マサラのバルシャよ」
「恥ずかしながら、ちいとも気づかなかったねえ。どうやら狩人としては、あんたにも馬鹿息子にもかなわないみたいだ」
長い髪を垂らしたバルシャの横顔には、いくぶん悲しげな表情が浮かんでいるように感じられた。
「ジーダ、そいつを傷つけるんじゃないよ。そいつに必要なのは復讐の刃じゃなく、法の裁きなんだからさ」
それでもジーダは答えない。
天井裏に潜んでいたということは――彼も、覚悟を秘めたバルシャの言葉を聞いてしまったのだろう。
その胸中を思いやると、俺まで息が詰まりそうになってしまった。
「……さあどうする? 貴様たちの主人は、こうして俺の手の中にあるぞ?」
ドンダ=ルウが、重々しい声で言った。
正面の壁を埋めつくした兵士たちは、第二の矢をつがえた体勢のまま、全員が石像と化したかのように凍りついていた。
「そんなちっぽけな弓矢なんぞで、俺たちを黙らせることはできねえ。今度はその腰の刀でも抜いてみるか? ……何をしようが、結果は変わらねえがな」
兜についた面頬のせいで、兵士たちの表情は読み取れなかった。
ただ、その内の何名かはメルフリードのほうをちらちらとうかがっているように感じられる。
「何をしている……こいつらを、殺せ!」
と、高々と宙に浮遊させられたまま、シルエルがわめく。
「貴様たちは、メルフリードに矢を射かけたのだ! このまま奴を生かして返したら、貴様らも全員首くくりだ! 生命が惜しければ、皆殺しにしろ!」
「そのようなことはない。すべての罪は、叛逆者シルエルのものである」
感情の欠落した声で、メルフリードはそう言った。
「護民兵団たる其方たちには、その命令に抗うことも許されなかったのであろう。だが、たった今、この男は護民兵団の長たる資格を失った。今後は近衛兵団の長たる私の言葉に従うがいい」
「だまされるな! 刀を置けば、一族郎党まで根絶やしにされてしまうぞ!」
きりりと引き絞られたまま、行き先を探すように鏃が揺れる。
そのとき、俺たちの背後の扉がいきなり開け放たれて、ジモンが室内に転がり込んできた。
否、自分の意思で踏み入ってきたのではない。ジモンは背中から絨毯に倒れ込むと、身体をよじりつつ苦悶の声をこぼし始めた。
「うわははは! ずいぶん派手にやっておるな、ドンダ=ルウよ! このまま出番もなく終わってしまうのではないかと、やきもきしていたぞ!」
ダン=ルティムである。
それに、ルド=ルウやダルム=ルウたちまでもが、刀や鉈を手にどやどやと踏み込んできた。
「何だ、窓から踏み入るのではなかったのか、ダン=ルティムよ」
いぶかしそうにダリ=サウティが問いかけると、ダン=ルティムは再び呵々と笑った。
「この部屋の窓には、鉄の格子がはまっていたのだ! だからまずは隣の室の窓によじのぼり、そこからお邪魔させてもらったわけだな! ディック=ドムらは、窓の下で兵士どもを食い止めてくれておるぞ」
それからダン=ルティムは、丸い鼻の下をこすった。
「それにしても、ひどい匂いだ! 便利は便利かもしれないが、ギバ除けの実なんぞはルティムの集落には不要だな!」
俺はすっかり意識の外に追いやってしまっていたが、どうやらダン=ルティムはギバ除けの実の香りを辿ってこの部屋に行き着いたらしい。
それで、おそらくはガズラン=ルティムが吹いた草笛の音色を合図に、駆けつけてきたのであろう。
何にせよ――雌雄は決したようであった。
狩人の火を両目に燃やしながら、ダン=ルティム、ルド=ルウ、ダルム=ルウ、ラウ=レイが刀を手に立ちはだかっている。わずか4名でありながら、30名からの兵士たちを圧倒するには十分な迫力であり戦力であった。
「……武器を捨てて投降せよ。今この言葉に従えば、禁固以上の罰は与えぬと約束しよう」
そんなメルフリードの言葉とともに、兵士たちは弓矢を下ろした。
「馬鹿者どもが!」とシルエルは怒声をあげる。
その身体を、ドンダ=ルウはおもいきり足もとに叩きつけた。
シルエルは、瀕死のヒキガエルのように「ぐええ」とのたうち回る。
「メルフリードといったな。ジェノス領主の息子であるという貴様に、問うておきたいことがある」
ドンダ=ルウが、うっそりとメルフリードを振り返った。
「このシルエルとかいう男の罪は、この場で明らかとなった。しかし、サイクレウスにどれほどの罪があるのかはまだ判然としていない。……俺たちは、今後もこの男をジェノス領主の代理人として扱わねばならねえのか?」
「……シルエルの罪は、明らかとなった。サイクレウス卿の罪は、これから正式な審問の場で裁かれることになろう」
灰色の瞳を冷たく光らせながら、メルフリードはそのように答えた。
「その審問が済むまでは、すべての公務から遠ざけられるのがジェノスの法である」
「なるほどな。……しかし、すべての罪を弟にかぶせて、こいつが生き残るという道もありうるわけだ」
「いやいや、本当に潔白の身でない限りは、決してそのような事態には陥らぬはずであるよ」
と――聞き覚えのない声が、両者の会話に割り込んだ。
一番扉の近くにいたラウ=レイが、部屋の外を鋭く振り返る。
「何だお前らは? まだ手勢を潜ませていたのか」
白い甲冑に身を包んだ新たな一団が、不気味な静けさをともなって室内におし寄せてくる。
たちまちルド=ルウらも油断なくその兵士たちと相対したが、出口をふさぐ格好で隊列をなすと、その者たちは機械のような正確さでぴたりと動きを静止させた。
そして――その隊列の真ん中から、長身の男がよどみのない足取りで進み出てくる。
淡い褐色の髪を長くのばした、壮年の男性だ。気取った口ひげをたくわえており、すらりとした優美な体格を有している。
飾り気はないがいかにも質のよさそうな、ジャガル風の襟つき胴衣に筒形の足衣という格好で、端正な面にはゆったりとした笑みを浮かべている。
装束はジャガル風でも、肌の色は黄褐色で、西の民であることに間違いはない。
力と自信に満ちあふれた、若々しいながらも威風堂々とした貴族の男であった。
「ああ、おひさしぶりだね、ウェルハイド殿。バナームの第一息女の婚礼以来か。お元気そうで何よりだ」
青い顔をしてドンダ=ルウらのやりとりを見守っていたウェルハイドが、ハッとしたように頭を垂れる。
弓矢を捨てた兵士たちのほうからは、驚愕のうめき声があがり始めていた。
「表の武官たちにも刀を置くように命じておいたよ。森辺の同胞らに手傷を負った者はいないようであったから、まずは安心してくれたまえ」
ドンダ=ルウは、無言でその笑顔をにらみ返した。
俺のかたわらから、カミュアがすっとぼけた声をあげる。
「これはこれは。まさか不精者のあなたが自ら足を運ぶとは思ってもいませんでした」
「何を言っているのだ。ウェルハイド殿をお迎えしたと使者に告げさせたのは其方ではないか。そうまでされたら、さすがにのほほんと待ち受けているわけにもいかないだろうさ」
そしてその人物は、いまだジーダに刀を突きつけられているサイクレウスのほうに視線を飛ばしてから、小さく息をついた。
「このようなことになって残念だよ、サイクレウス卿。トゥランの領主として貴殿はこの上もなく有能であったから、今後のことを考えると頭が痛くなってしまうね」
玉座のごとき椅子に身体を押しつけられたまま、サイクレウスがゆっくりとまぶたを開く。
その青黒い顔はほとんど土気色に染まり、しわぶかい皮膚にはじっとりと脂汗が浮かんでいた。
「……我の天命も、ここまでであったか……」
「そうだね。後のことは、どうにか私の裁量で丸くおさめてみせるから、貴殿は心置きなく審問の時を待つといい」
「ふん……どのようにおさめるつもりなのか、そいつをじっくり聞かせてほしいものだな」
そのように言葉をはさんだのは、ドンダ=ルウだった。
もう、誰もがその人物の正体には気づいていただろう。
その人物は、にこやかに笑いながらドンダ=ルウに一礼した。
「察するところ、貴方が森辺の新たなる族長のおひとりであるようだね。まずは貴方がたと正しい縁を結ぶのが、私の最初の仕事となるのだろう。……ジェノス侯爵マルスタインの名において、これまでの非礼は詫びさせていただくよ」
森辺の集落を訪れて、およそ80日――
俺はついに、ジェノスの最高権力者を眼前に迎えることになったのだった。
ただしその目は、まだ俺の姿をしっかりとは捕らえていない。
俺がこの人物と正面から向かい合い、言葉と気持ちを交わすには、もういくばくかの時間が必要だった。
ともあれ――サイクレウスと森辺の族長の3度目の会談は、こうして騒乱の内に幕を下ろすことになったのである。