①城下町へ
2015.8/19 更新分 1/1 誤字を修正
・今回は、14話+αの更新となります。
・なお、本日は当作品の掲載開始1周年目に当たりますので、それを記念してキャラクターの人気投票を企画いたしました。ご興味のある御方は活動報告をご参照くださいませ。
白の月の15日。
日の出とともに目を覚ました俺は、まず鼻先に転がっている可愛らしい少年の寝顔と対面することになり、心の底から仰天させられてしまった。
少女ではない。少年である。
黄褐色の髪をした、女の子みたいに柔らかい顔立ちの少年――ルド=ルウだ。
(……えーと?)
そのあどけない寝顔を見つめながら、俺は記憶をたぐり寄せる。
ズーロ=スンたちを迎えた晩餐会の後、俺とアイ=ファはルウの本家で、バルシャはシン=ルウの家で夜を明かすことになったのだ。
普段使用している空き家はズーロ=スンらに譲らなくてはならなかったためである。
バルシャはきっと、シン=ルウとリャダ=ルウに交代で警護と監視をされつつ眠ることになったのだろう。
ズーロ=スンたちは、同じようにルウの集落に留まることになったグラフ=ザザたちによって、同じ待遇を受けているはずだ。
で――俺とアイ=ファである。
ルウの本家に空き部屋はなかったので、アイ=ファはジバ婆さんの寝室で、俺は男衆の寝室で、それぞれ眠りを得ることになった。
ここだけの話、アイ=ファと寝室を引き離されてしまうと、つい数日前までの苦悩に満ちた虜囚生活の記憶を呼び起こされてしまい、俺はなかなか寝苦しい一夜を過ごすことになってしまったのだが――それでも気心の知れたルド=ルウとぽつぽつ言葉を交わしている内に、いつの間にか寝入っていたものらしい。
窓からは、朝のやわらかい陽光が差し込んできている。
男衆にしては早起きであるルド=ルウも、さすがに夜明けと同時に目を覚ますことはないようだ。
(……本当に可愛らしい寝顔だな)
ようやく記憶の整理ができた俺は、寝そべったままぼんやりそのようなことを考えた。
もともと中性的な顔立ちをしているため、無防備に笑うと女の子みたいに可愛らしくなってしまうルド=ルウであるが、むにゃむにゃと子供のように口もとを動かしながら安らかな寝息をたてているその姿も、可愛らしさではまったく引けを取るものではないようだった。
(まあ、本人にそんなこと言ったら、殴られそうだけど)
俺は仰向けに体勢を入れ替えて、うーんと大きくのびをする。
それから何気なく逆方向に目を向けると、再び仰天させられることになった。
反対の側には、なんとダルム=ルウの寝顔が転がっていたのである。
(……そういえば、この御仁も相部屋だったんだっけ)
ルウの本家は大家族であったため、おおよそ2人でひと部屋ずつの寝室があてがわれていたのだ。
で、本家に未婚の男衆はこの2名しかいないのだから、何も不思議な組み合わせではない。
ただ、ダルム=ルウの寝顔というのは、一驚に値した。
野生の狼じみた双眸は、当然のことながら、まぶたに隠されている。
普段はぴりぴりと張りつめて、他者を寄せつけぬ迫力に満ちた顔も、今は穏やかだ。
で、女衆のように長い漆黒の髪が、さらりと頬や首にかかっている。
そういえば、父親譲りの物騒な目つきを差し引けば、森辺でもちょっと珍しいぐらい顔立ちの造作は整っているダルム=ルウなのである。
それに――やっぱりルド=ルウの兄なのだ。鼻は高く、唇は薄く、頬などは鋭く引き締まっていても、どこか繊細で、柔らかい線が残っている。ルド=ルウやラウ=レイほど中性的な感じはしないが、それでもやっぱりまだ19歳の若者なのだな――という感慨をかきたてられるような、それはとびきり穏やかで健やかな寝顔であった。
(……何だか見ちゃいけないものを見ちまったような気分だなあ)
俺がそのようなことを考えたとき。
ダルム=ルウのまぶたが、ゆるやかに見開かれた。
半覚醒の不明瞭な眼差しが、至近距離から俺を見る。
「……何をしているのだ、貴様は」
「え、いや、あの……普段の習性で、夜明けとともに目が覚めてしまいました」
俺は冷や汗を禁じ得なかったが、ダルム=ルウのまぶたはまたゆるやかに閉ざされていく。
「……男衆は、まだ眠っている頃合いだ。目が覚めたのなら、女衆の手伝いでもしてこい……」
「はい。そうさせていただきますです」
俺はそろそろと身を起こし、なるべく音をたてないように戸を開けて室外に脱出を果たした。
それで息をついたところで、隣の部屋の戸がからりと引き開けられる。
「あらぁ、アスタ……」
「おはようございます、アスタ」
ヴィナ=ルウとレイナ=ルウであった。
彼女たちも、きちんと日の出とともに目を覚ましたらしい。
「アスタはまだ眠っていてもいいのよぉ……? 洗い物は、わたしたちが受け持つからぁ……」
などと言いながら、ヴィナ=ルウは「あふぅ……」とあくびを噛み殺した。
朝からフェロモン全開のヴィナ=ルウである。
「いえ、いったん起きたらもう眠れないタチなので、こちらは料理の下ごしらえでも――」
と、言いかけて、今日は宿場町での商売も休業なのだと思い至る。
本日は、ついにサイクレウスとの会談の日なのである。
「とりあえず、外に出ましょう……?」
3人で連れ立って、広間のほうに足を向ける。
すると、反対側の通路から、ちょうどアイ=ファとリミ=ルウが出てくるところであった。
普段はティト・ミン婆さんがジバ婆さんに付き添っているのだが、アイ=ファが宿泊するとあって、リミ=ルウが寝室の交換を申し入れたのである。
そのティト・ミン婆さんとララ=ルウも、やがて寝室から姿を現した。
小声で朝の挨拶を交わしつつ、みんなでぞろぞろと家を出る。
「おやおや、みんなおそろいだね」
で、家の外にはミーア・レイ母さんが待ち受けていた。
サティ・レイ=ルウを除く本家の女衆が、これで勢ぞろいである。
「それじゃあヴィナたちは洗い物をよろしくね。あたしたちはピコの葉を乾かして、あとは薪割りだ」
「それなら俺は、薪割りを手伝わさせていただきますね」
俺がそのように声をあげると、ミーア・レイ母さんは不思議そうに目をぱちくりとさせた。
「ああ、今日は商売も休みなんだっけ。それならあたしたちがひと仕事終えるまで、のんびりしていなよ。それでまた一緒に香草や薪を集めに行けばいいだろう?」
「いえ。毎日寝床を拝借している恩義もありますし、それぐらいは手伝わせてください」
「そうかい。あんまり意固地に断るのも何だから、そういうことなら手伝ってもらおうか」
というわけで、みんなで連れ立って家の裏に向かう。
どれほど特別な日であっても、日々の仕事をおろそかにすることはできないのだ。
朝の仕事の内容は、ファの家でもルウの家でも大差はない。晩餐の後片付けや衣類の洗濯、水汲みなどから始まって、ギバが目覚める中天までに薪や香草の採取作業、あとは薪割りや食糧庫の管理や干し肉の作製や――やれることは、その日の内にきっちりやりとげてしまう。
めまぐるしいまでの忙しさ、というほどではない。
ただし、どれもが肩代わりのきかない大事な仕事ばかりである。
家人とゆるやかに情愛を育みながら、のんびりと、しかし粛々と仕事をこなしていく。これが森辺の女衆の日常なのだった。
今日の会談でジェノスとの関係性が破綻してしまったら、こんな平和で愛すべき日常も木っ端微塵に粉砕されてしまうことになる。
だが、ルウ家の女衆らはみんな常と変わらぬ明るい表情で、朝の仕事に取り組もうとしている。
ドンダ=ルウを、信じているのだろう。
この先に何が起きようとも、彼らの家長であり族長でもあるドンダ=ルウが、最善の道を選び抜いてくれるだろう、と。
(万が一――本当に万が一、森辺の民がこのモルガの森辺を捨てざるを得ないようなことになってしまっても――ルウ家のみんなは、同じ表情でドンダ=ルウの示す道を歩いていくんだろうな)
そんなことを考えながら歩を進めていると、さりげなくアイ=ファが近寄ってきた。
「ああ、アイ=ファ。昨晩はジバ婆さんとゆっくり喋れたか?」
「うむ」とうなずきながら、何か強めの視線を向けてくるアイ=ファである。
「どうしたんだ? こっちも別に何事もなかったぞ?」
「そうか。……あの次兄めも、何かおかしなちょっかいを出してはこなかったか?」
「ああ、ダルム=ルウはさっさと眠ってしまったし、俺もルド=ルウと少しばかりおしゃべりをしたぐらいだよ」
「そうか」と再び言いながら、アイ=ファは視線を外そうとしない。
「……どうしたんだ? 何か心配そうな目つきに見えるけど」
「心配というか……」
アイ=ファはアイ=ファらしくもなく口ごもり、それから俺の耳もとに口を寄せてきた。
「……ただ、お前と寝床を別にしてしまうと、あの忌々しい日々を思い出してしまい、いささか胸が苦しくなってしまうだけだ」
俺は驚いてアイ=ファの顔を見つめ返した。
アイ=ファは不満げに唇をとがらせる。
「お前のほうは、そのような苦しさとも無縁で健やかな眠りが得られたようだな」
「いや、実は俺も昨晩はまったく同じ心情だったよ。……ただ、気恥かしくて口には出せなかったけど」
小声でそのように応じると、脇腹を肘で小突かれた。
なぜ小突かれたのかは、よくわからない。
何にせよ、俺たちもまた、今日という日を乗りこえて、ファの家の日常を取り戻さなくてはならないのだ。
「おや、あんたも起きてたのかい?」
そうしてみんなで家の裏手に到着すると、バルシャがぼんやり突っ立っていた。
唐獅子のごとき厳つい顔が、俺たちのほうを向いて、にやりと笑う。
「ああ。そっちはもう仕事の時間かい? 薪割りをするんなら、手伝うよ」
「そいつはありがたい話だけどさ。タリ=ルウなんかは一緒じゃないのかい?」
いちおうバルシャには、単独で集落をうろつかぬように、という命令というか要請が下されているのだ。
バルシャは頭をかきながら、いくぶん申し訳なさそうな顔をした。
「……実はちょっとゆっくり考えたいことがあったもんで、ひとりでぶらぶら散歩をさせてもらっていたんだよ。あたしが無理を通したんだから、あの気のいいおっかさんを叱らないであげてくれるかい?」
「ふうん?」とミーア・レイ母さんはいぶかしそうに眉をひそめる。
「別にあんたが悪巧みをしているとは思わないけどさ。……それは、あんたには必要なことだったんだね?」
「ああ。必要なことだったんだよ」
しばし奇妙な沈黙が漂った。
そのすえに、ミーア・レイ母さんはにこりと笑う。
「わかったよ。今日はあんたにとっても正念場なんだろうから頑張っておくれよ、バルシャ?」
「ああ、ありがとうね、ミーア・レイ=ルウ」
ミーア・レイ母さんはひとつ大きくうなずいてから、アイ=ファを振り返った。
「それじゃあ悪いけど、アイ=ファは洗い物じゃなくて薪割りをお願いできるかね? 狩人の見張りがないとバルシャに鉈を持たせられないからさ。水浴びは、あとであたしらと一緒にしよう」
「うむ。了解した」
そうして若い娘たちは洗い物を抱えて水場におもむき、年配組はピコの葉を乾燥させる準備に取りかかり始めた。
で、俺とアイ=ファとバルシャで薪割りである。
大振りの鉈をバルシャに手渡しながら、アイ=ファは「どうしたのだ、マサラのバルシャよ」と問うた。
「何やら思い悩んでいるようだが。サイクレウスとの会談を前にして、何か懸念でも生じてしまったのか?」
「いや、懸念とかそういう話じゃないよ。ただ、あたしも覚悟を決めただけさ。亭主のゴラムを罠に嵌めた貴族連中と、真っ向から喧嘩してやろうってね」
バルシャは白い歯を見せて笑う。
「昨日の晩餐で、あんたたちの覚悟は知れたからさ。あたしもきっちり肚をくくることにしたんだよ。……だけどその前に、一目でいいから馬鹿息子の顔を拝みたかったんだよねえ」
「もしかしたら、そのためにひとりで集落をうろついていたのか?」
「鋭いね! まわりに人がいなければ姿を現すかも、とか考えたんだけど、どうやらあの馬鹿息子はあたしが森辺の集落にご招待されたことにも気づいてないみたいだね」
そう言って、バルシャは少し遠い目をした。
「まあ、いいさ。顔を合わせて何が起きるわけでもないし。あたしはあたしの仕事を果たさせてもらうよ。……あの馬鹿息子のためにもね」
「うむ。サイクレウスの罪さえ暴くことがかなったならば、また心穏やかに日々を過ごすこともできよう。私たちとて欲しているのは、これまでと変わらぬ平和な日々、それのみであるのだ」
「これまでと変わらぬ平和な日々、か。とても素敵な言葉だね。そいつには、きっと生命をかけるに値するぐらいの大きな価値があるんだろう」
バルシャはいっそう遠くを見るように目を細める。
とても穏やかな表情をしながら、その声には何か底の知れないほどの覚悟と決意が込められているように、俺には感じられてしまった。
◇
そうして俺たちは数々の仕事をこなしてから、ルウの集落を出立することになった。
大人数なので、荷車は使えない。
会談に参加する9名と、ズーロ=スンたち7名、それを警護する10名で、総勢26名の大所帯なのである。
会談に参加するのは、ドンダ=ルウ、グラフ=ザザ、ダリ=サウティの三族長に、ガズラン=ルティム、フォウの家長、ベイムの家長、それに俺とアイ=ファとバルシャを加えた9名。
ジェノスに罪を審問されるのは、ズーロ=スン、ディガ、ドッド、ミダ、ヤミル=レイ、オウラ、ツヴァイの7名。
そして、警護役に任命されたのは――ダルム=ルウ、ルド=ルウ、ダン=ルティム、ラウ=レイ、といったお馴染みの4名に加えて、ザザ、ドム、ジーンから選出された2名ずつの、精鋭部隊10名である。
特筆すべきは、ガズラン=ルティムとダン=ルティムの両名が顔をそろえていることだろう。
変事においては、家長かその跡取りのどちらかが自分の家に残って家人を守る、というのが森辺の習わしであるのだ。昨晩も、会談に参加するメンバーはルウの集落に居残ってズーロ=スンらの監視と警護を受け持ったが、ダン=ルティムはラウ=レイとともにいったん帰還したのである。
それでも今回は例外として、ダン=ルティムが警護役に選ばれることになった。
それを命じたのは、ドンダ=ルウだ。
未知なる城下町に踏み入るとあって、ドンダ=ルウも最強の布陣でこの会談に臨む決断を下したのだろう。
思えば、そこにはアイ=ファとミダまで居合わせているのだから、これはルウ家の狩人の闘技会で8名の勇者に選ばれた内の7名までもが顔をそろえていることになるのだ。
唯一の欠席者はジザ=ルウで、彼だけは集落を守ることになる。
守るのは、ルウの集落ばかりではない。ルウの眷族百余名の安全が、親筋の家長の後継者たるジザ=ルウに託されたのだ。
護衛のメンバーに選出されなかったシン=ルウも、そちらで自分の仕事を果たすことになる。
それに加えて、北の集落から駆けつけた猛者どももまた圧巻であった。
勇猛さではルウの眷族にも劣らない、ザザとドムとジーンの精鋭たちである。
そこから選び抜かれた2名ずつの狩人らは、そのひとりひとりが凄まじいばかりの気迫を放っていた。
「警護役の取り仕切りは、ディック=ドムとダン=ルティムにまかせるということで異存はないな?」
宿場町への道を辿りながら、グラフ=ザザがドンダ=ルウにそう呼びかけた。
ディック=ドムというのは、どうやらドム家の家長であるらしい。
頭にギバの頭骨をかぶった、魁偉なる大男である。
ドンダ=ルウやグラフ=ザザを上回る体格で、顔面や腕には無数の傷痕が刻まれている。俺がこれまでに目にしてきた森辺の民の中でも、最上級に凶悪な風貌をした狩人である。
「俺とディック=ドムがそろっていれば、何百人の兵士に囲まれようとも遅れを取ることはないであろうな!」
ダン=ルティムが豪快に笑っている。
ディック=ドムは、無言だ。
ただ、ギバの上顎の骨の下では、黒い瞳が火のように燃えていた。
「お待ちしていました、森辺の皆様がた」
森と町の境界線に到着すると、そこにはレイト少年が待ち受けていた。
バルシャは本来、カミュア=ヨシュの招いた証人という立場である。ゆえに、レイトが同伴して城下町に乗り込むのだ。
「こちらの通行証はメルフリードが準備してくれましたが、やはり私用で近衛兵団を動かすことはできないようなので、このままサイクレウスの屋敷までご一緒させていただいてもよろしいですか?」
「ふん。カミュア=ヨシュは、けっきょく間に合わなかったのだな」
「中天にはまだ時間がありますので、何とも言えません。僕としても、是非とも間に合ってほしいところなのですが」
ともあれ、ここまできてレイトの同伴を拒む理由はない。
俺たちは、ともに城門を目指すことになった。
しかし、普段ドンダ=ルウたちが会談などに向かう際は、雑木林の裏を抜けて、なるべく宿場町の人々の目に触れぬようにしていたはずであるが、この大人数ではそれも難しい。
「何も人目をはばかる必要はない。貴様が貴族の娘にさらわれたときは、もっと大勢の同胞が町に下りていたのだからな」
「え……だけど今日は、ズーロ=スンたちもいるのですよ?」
ディガとドッドは拘束を解かれていたが、ズーロ=スンだけは今日も革紐で腕と足を結ばれている。そんなズーロ=スンを引き連れて、宿場町を堂々と練り歩くというのは――かつてザッツ=スンが引き回されていたときと同じ恐怖と混乱を人々に与えてしまうのではないだろうか。
それに、ミダである。
ミダもかつては、気に入らない料理を出した宿場町の屋台を破壊するなどの無法を働いていたのだ。
ほんの少しだけ無駄肉の減じてきているミダではあるけれども、その姿を見間違う人間は宿場町にも存在しないだろう。
「何も人目をはばかる必要はない。……同じ台詞を何度も言わせるな」
そう言い捨てて、ドンダ=ルウは同胞らを振り返った。
「ズーロ=スンらは、輪の中心に。貴様も女衆らのそばにいろ、ファの家のアスタよ」
「はい」
それで俺も、これは必要な措置なのだということをようやく理解することができた。
宿場町でも無法を働いてきたスン家の者たちは、ジェノスの人々に許されるのかどうか。それを決めるのはジェノスの領主ばかりではないと、ガズラン=ルティムはそのように言っていたではないか。
これもまた、彼らにとっては審判の刻なのだ。
見てみると、ズーロ=スンは山道の行軍がよほどこたえたのか、ヒキガエルのように大きな口を開けてぜいぜいとあえいでいた。
ディガとドッドは、それぞれ煩悶の表情で足もとに視線を落としている。
ディガはもともと町の民を恐れていたし、ドッドも酒が入っていなければ、ディガに劣らず心が弱い。
だが――昨晩の晩餐の前までに比べれば、彼らの瞳にはまだしも人間がましい光が宿っているように感じられた。
「行くぞ」
レイトを加えて28名にふくれあがった一団が、建物の間の路地を抜け、石の街道へと足を踏み入れる。
中天までもう半刻ていどしかない、そろそろ町の賑わってくる頃合いである。
当然のこと、街道には恐怖と混乱の気配がすみやかに渦を巻いていった。
狩人たちに取り囲まれて、ズーロ=スンなどの姿はそれほど目には触れなかったかもしれない。
それよりもむしろ、ギバの頭部つきの毛皮や頭骨をかぶった北の狩人たちの姿のほうこそが、一番如実に衝撃を与えているように感じられた。
ザザやドムの集落は、宿場町から遠く離れている。荷車を手に入れた現在でも、町に下りるのはきっと女衆のみだろう。
だから、もしかしたら北の一族の狩人たちが宿場町の人々にその姿をさらすのは、数十年ぶりのことなのかもしれなかった。
そしてやっぱり、輪の中心に追いやられても、ミダの巨体は頭半分以上も飛び出してしまっている。
ザッツ=スンたちなどはおもにジェノスの外で悪行を働いていたのだから、ここ近年で宿場町の人々を脅かしていたのは、ミダやドッドであったのだ。
この、外見的にはもっとも人間離れしているミダが暴れる姿を見たことがある者などは、さぞかし強烈な恐怖心を刷り込まれてしまっていることだろう。
若い女性や老人などの中には、悲鳴をあげそうになったり、その場にへたりこんでしまっている者たちもいた。
西の民ほど強い差別感情は抱いていない南の民でも、ミダの風貌にはぎょっとして立ちすくむ者も少なくなかった。
そんな恐怖と混乱の視線を一身にあびながら、森辺の狩人たちは石の街道を闊歩していく。
衛兵すらも、こちらには近づいてこようとしない。
(あ……)
しばらく進むと、見覚えのある姿が見えた。
ミラノ=マスだ。
《キミュスの尻尾亭》の前に立ち、厳しい視線を俺たちに向けてきている。
罪人たちは死に絶えた、残された民に罪はない――そのように言ってくれていたミラノ=マスであるが、ズーロ=スンたちはその罪人らの直系の血族である。
ミラノ=マスの胸中には、いったいどのような感情が渦巻いているのだろう。
さらに進んで、露店区域に差しかかると、ちょうどヤンが屋台の準備に取りかかっているところだった。
その手伝いをしていた娘さんは真っ青な顔になって立ちすくみ、ヤンもハッとしたようにこちらを振り返る。
ヤン自身は、城下町の料理人という立場から、サイクレウスに対して穏やかならぬ心情を抱えているのだ。森辺の民とサイクレウスの確執については、何も関与していない。主人のポルアースから、通りいっぺんの事情を聞いているぐらいだろう。
だけどヤンは、いくぶん顔色を失いつつも、俺の姿を探して、力強くうなずきかけてきてくれた。
アイ=ファやルド=ルウの肩ごしに、俺もそちらにうなずき返す。
そうしてようやく宿場町の終わりが見えてくると――ひとつの人影が、一団の前に飛び出してきた。
ドーラの親父さんである。
先頭を歩いていたドンダ=ルウは足を止め、みなにも止まるようにと右腕を振りかざした。
「も、森辺の族長、ドンダ=ルウだね? お、俺のことを覚えているかい? アスタがさらわれちまったとき、あんたとは何回か顔を合わせているはずなんだけど」
親父さんも、顔面蒼白になってしまっていた。
それなりに大柄で力も強そうな親父さんであるが、この一団の前では、子犬のように弱々しく見えてしまう。
輪の中心にいた俺はアイ=ファに目配せをしてからそちらに足を急がせたが、その間も問答は続いていた。
「名前を聞いた覚えはねえな。たしか、宿場町の野菜売りであったと思うが」
「あ、ああ、そうさ。ダレイムの農園で野菜を育ててそれを売っている、ドーラってもんだ。あんたの息子さんや娘さんにも、俺の店はごひいきにしてもらっているんだよ?」
「ならば――俺たちが普段食べているアリアやポイタンも、貴様が育てて売っているということか」
仁王立ちのまま、ドンダ=ルウは底ごもる声でそのように応じた。
往来の人々は、2人が言葉を交わす姿を、息を詰めて見守っている。
「そ、そうだよ。アスタやルウ家の人たちがたくさん野菜を買ってくれるもんだから、俺の店は万々歳さ。……お、俺はこれからもあんたたちと商売を続けていきたいと願っているよ、ドンダ=ルウ」
そこでようやく、俺とアイ=ファはドンダ=ルウのかたわらまで進み出ることができた。
その肉づきのいい身体を小さく震わせながら、ドーラの親父さんが力なく笑いかけてくる。
「俺たちも、変わらぬ生活を続けていきたいと――変わるならば、良い方向に変わった生活を手に入れたいと願っている」
ドンダ=ルウは、そう言った。
「そのための、今日の会談だ。……無事に終われば、また俺の娘たちが野菜を買いにおもむくだろう」
「そうなることを、心から願っているよ。西方神セルヴァの加護のあらんことを。……アスタたちも、頑張ってな」
「はい。ありがとうございます」
ドーラの親父さんは身を引いて、ドンダ=ルウは何事もなかったかのように歩を進め始める。
それを見送る親父さんの足もとに、ターラが飛びついた。
俺は首をねじ曲げて、ふたりが見えなくなるまでその姿を目で追い続けた。
そうして宿場町を抜けると、街道の左右はまばらな雑木林となる。
さらに進むと、左手の方向に新たな道が現れて――その先にあるのが、城下町だ。
雑木林の隙間からちらちら見えていた城壁が、それではっきりとあらわになる。
6、7メートルの高さはあろうかという石の壁に囲まれた、城下町。
明るい内にその姿を目にするのは、これが初めてのことだった。
城壁は、街道に沿って果てしなく西の方向にのびている。
20メートルばかりもその街道を進むと、やがて城門が見えてきた。
アーチ形にぽっかりと口を開けた、巨大な門だ。
そこから渡された大きな架け橋の上を、裕福そうな身なりをした商人や、兵士に守られた長衣の老人などがちらほらと行き交っている。
そして――ついに俺たちがその架け橋の前まで歩を進めると、南側の雑木林から大勢の人影がわらわらと姿を現した。
「お待ちしていました、族長」
その内のひとりが、グラフ=ザザの前に進み出る。
グラフ=ザザと同じように、頭部つきの毛皮をかぶった長身の若者――ジーン本家の長兄である。
彼の背後に付き従っている30名ばかりの男たちも、すべて森辺の狩人らであった。
ザザやジーン、それにサウティなどの集落から駆けつけた混成部隊だ。
城下町の護民兵団が、何かおかしな動きを見せないか――そして、族長たちが無事に帰還してくるかをこの場で見届けるのが、彼らに託された使命であった。
族長たちは、自分たちが城下町に出向いている間に、サイクレウスが森辺の集落を襲ったりはしないかと、そこまでを警戒しているのである。
「この城下町では、中天から日が落ちるまでの間に6回鐘が鳴るらしい。3回目の鐘までに会談が終わらぬようなら護衛役のひとりを使いに出すので、それまではこの場で待機していろ」
「了解いたしました」
狩人らは、また雑木林へと姿を隠す。
すると、それを見計らったかのようなタイミングで、ひとりの兵士が架け橋のほうから近づいてきた。
「お待ちしておりました、森辺の族長がた」
トゥラン家の紋章を胸当てに刻みこんだ、大柄な兵士――ジモンである。
俺やルド=ルウには横柄であった彼も、族長らの前では口調と態度を改めていた。
「トゥラン伯爵家の警護隊第一隊長ジモンと申します。トゥラン伯爵のお屋敷まで、小官がご案内いたします。……会談に臨む人員が8名、審問を受ける罪人が7名、おつきの護衛役が10名ということで、間違いありませんな?」
「人数に間違いはねえが、ひとつだけ訂正させてもらおう。この7人の内、
罪人と呼ばれる立場の人間は1名だけだ。残りの6名に罪はあるのか、それを確かめるための審問だろうが?」
「……これは言葉が足りずに失礼いたしました」
無表情に、気持ちばかりジモンは頭を下げる。
これほどの数の狩人を前にして、彼はいったいどのような心情でいるのか、それを推し量ることは難しかった。
「それに、2人ばかりおまけがくっついてきているな。こいつらを扱うのは、俺たちの本来の仕事ではない」
ドンダ=ルウの言葉に、レイトとバルシャが進み出た。
「僕たちは、近衛兵団団長メルフリード殿のお招きによって、本日の会談に参加させていただく者です。通行証の準備はありますので、案内をよろしくお願いいたします」
「……伯爵からも、そのように承っております」
言いながら、ジモンは右手で架け橋のほうを指し示した。
「族長らの通行証はこちらで用意しましたので、まずはあちらの荷車にどうぞ」
「荷車?」
見ると、確かに何台もの荷車がしずしずとこちらに向かってくるところであった。
2頭引きの、ひときわ巨大な荷車が、4台だ。
密閉式の箱型で、側面にはもちろんトゥラン家の紋章が掲げられている。
「荷車で出迎えとはご苦労なこったな。俺たちを貴族の姫君か何かと勘違いしているのか、貴様たちは?」
「いえ。ですが、城門からお屋敷まで徒歩で行かれては時間がかかりすぎますし、それに――無為に人心を騒がせることにもなりましょう」
ジモンは慇懃に述べ、ドンダ=ルウは不愉快そうに鼻を鳴らす。
「1台につき10名までは乗り込むことが可能ですので、お好きなようにお乗りください」
「ふん……」
当然のこと、刀を有する狩人とそうでない者が均等に割り振られることになった。
俺と同乗することになったのは、アイ=ファ、ルド=ルウ、ダルム=ルウ、バルシャ、レイトである。
実に広々とした箱型の荷車の中で、3名ずつが向かい合って座る。
アイ=ファとルド=ルウに左右をはさまれながら、俺は御者台の人物に声をかけた。
「あの、この窓の布は開けてもかまいませんか?」
「……ご随意に」
その人物の声はわずかに震えており、ジモンほど感情を押し殺すことには成功できていなかった。
ともあれ、小窓のカーテンは遠慮なく開放させていただく。
「ああ、周りの様子がわからないってのは、あまりに無用心だものねえ」
向かいの席でも、バルシャが俺の行為を真似ていた。
その腰にも半月刀が戻っていたので、彼女もこの場では戦力のひとりである。
「それでは出発いたします!」
ジモンの号令とともに、荷車は1台ずつ架け橋を渡り始めた。
同胞たちの潜んだ雑木林が、ゆっくりと後方に遠ざかっていく。
(いよいよだ……)
いよいよ決着の時である。
ここまで複雑にねじくれたジェノスとの関係性が、この日だけでどれぐらい改善されるのかはわからない。
しかし、カミュア=ヨシュはバルシャの存在を足がかりにサイクレウスの旧悪を暴く算段を立てていたし、族長たちも、今日という日を決着の時と定めていた。
サイクレウスという人間に――ひいてはジェノスの領主マルスタインという人間に、森辺の民が刀を捧げる価値があるのかどうか、それを見極めるための会談である。
さまざまな思いを胸に抱えながら、俺たちは、ついにジェノスの城下町へと乗り込むことになったのだった。