⑪集う者たち
2015.7/17 更新分 1/1
*明日は2話分を同時に公開しますので、読み飛ばしのないようご注意ください。
翌日――白の月の14日である。
サイクレウスとの会談の、前日だ。
町には、じわじわと不穏な雰囲気が漂いつつあった。
ザッシュマの流した噂話が、いよいよ本格的に広まりつつあるのだろう。
森辺の民は、サイクレウスが大罪を犯しているのではないかと疑っている。
そんな森辺の民が明日、森辺の大罪人ザッツ=スンの血族の処遇を巡って、サイクレウスと会談を果たす。
もしも双方の意見が折り合わなければ、どのような事態に発展してしまうかもわからない。
そんな切迫した裏事情が、宿場町の人々の知るところになったのだ。
さしあたって、明日の15日は屋台の商売も休業することに決定された。
宿屋の商売も同様で、ただ3日分の生鮮肉が今日の内に卸されることになる。
明後日以降がどうなるかは、明日の会談の結果次第である。
そんな中で、ヤンの商売は順調であるようだった。
聞くところによると、初日には200食の料理を売り切ったらしい。
赤銅貨1枚で売られるミニサイズの料理であったので、売り上げ的には『ミャームー焼き』の屋台などと同額であるが。それにしても、通常は50食ていどでおさまるのが屋台の商売である。1名で2食分を購入するお客が多かったとしても、これは快挙だ。
宿屋の商売へと向かう行き道に観察したところ、ヤンの屋台は本日も昨日に劣らぬ賑わいを見せているようだった。
ただ、客層には若干の変化が生じたように感じられる。
昨日は均等であった男女の比率が、女性に偏っているように思えたのだ。
なおかつ、幼い子供も増えたように見受けられる。
甘さを味の主軸に定めたための、これは必然的な結果であったのだろうか。
色とりどりの生地というのも、女性や子供の人気に繋がったのかもしれない。
それにやっぱり東や南の民は極端に少ないし、西の民でも、昼から果実酒をかっくらっているような無頼漢はひとりとして見当たらなかった。
何というか、ますます我が店とは対極的な客層になってきたようである。
裏を返せば、我が店が逃している客層をヤンの店が捕らえている、ということだ。
これは今後の参考にさせていただくべく、記憶の戸棚にしっかり保管させてもらうことにした。
何はともあれ、ヤンの店が繁盛していることに間違いはなかった。
そして本日からは、3つの宿屋、4つの屋台で焼きポイタンを使った料理が販売されることになった。
料理の内容はこれまで通りで、ただフワノの代わりにポイタンが使用されるのだ。
宿場町の領主であるサトゥラス伯爵家の協力を得て、ポルアースがそれだけの数の店にポイタンを売り込んでみせたのである。
粉状に精製したポイタンを、手間賃ぬきの原価で卸す。なおかつ色付けの調理方法も伝授する、という条件で、実験的な販売を依頼したらしい。
露店区域を歩いていると、それらの店がそれなりに賑わっている姿を確認することができた。
ネェノンやナナールで色付けされた物珍しさと、そしてこれまでは見向きもされていなかったポイタンにこのような調理法が存在する、ということで、人々の関心を集めることがかなったのだろう。
もちろん宿場町で評判になりつつあるヤンの店が同じように焼きポイタンを使用しているという事実も、良い方向に作用しているに違いない。
しかも、今回の依頼に応じてくれた店には、乳脂の作製方法も先立って伝授されるらしい。
すると、焼きポイタンを扱っている店から順に乳脂が使われることにもなり、いっそうの評判を呼ぶことも可能である、というからくりだ。
本当に、周到である。
そして、乳脂の登場などはカミュアにとっても想定外であったはずだから、その点においては完全にポルアースやヤンたちの戦略であるはずだった。
このままでいけば、ポイタンとフワノの立場を逆転させようという計略も、まんざら夢ではないのかもしれない。
かつてポルアースが言っていた通り、フワノよりは格段に安価であるポイタンであるのだから、売る側にせよ買う側にせよ、それを忌避する理由はどこにも存在しなかったのである。
「この状況も、そろそろサイクレウスの耳に届いた頃だろう。今はまだ鼻で笑っているかもしれないが、ダレイムとサトゥラスの両家がそれに一枚噛んでいると知れれば、まあ平静ではいられないだろうな」
ザッシュマは、そのように言って笑っていた。
しかしこれは、あくまでもサイクレウスを追い詰めるための布石だ。
実際的な効果を生み出すのはまだまだ先の話であるのだから、この現状をもって、サイクレウスに何か痛撃を与えられるわけではない。
ただ、お前の栄華も永久に続くものではないのだぞ、と言外に圧力をかけ――その堅固なる城壁に穴を穿とうという計略なのだろう。
だから、むしろこれはサイクレウスの周囲にいる人々への牽制なのかもしれない。
現に、ダレイム家の領主などは、自分の息子の暴挙とも思える行いを、黙認してしまっている。
サトゥラス家も、どこまで本腰を入れているのかは不明なれども、ポルアースに手を貸している。
サイクレウスの牙城はゆるやかに、しかし着実にほころびつつあるのだ。
「――いよいよ明日、城下町に乗り込むんだな」
営業後、晩餐のための野菜を購入するためにドーラの親父さんの店に立ち寄ると、深刻きわまりない顔に迎えられた。
「その会談ってやつは中天から始まるんだっけ? それじゃあ、二の刻か三の刻には終わるはずだよな」
「ええ。俺にもはっきりしたことはわかりませんが」
「何にせよ、日が落ちるまでかかることはないだろう。……それまでにアスタたちが城門から出てこなかったら、また大変な騒ぎになっちまうぞ?」
そう言って、親父さんは怒っているような笑っているような顔をした。
「少なくとも、この俺なんかはまた城門まで出向くことになるだろうしな。南や東の民たちだって、絶対に黙ってはいられないだろう」
「はい。そうなる前に、無事な姿で帰ってこられるように最善を尽くします」
「ああ、心配だな! その中にアスタまで含まれてるってのが1番心配だよ!」
と、今度はしょげた顔をする親父さんである。
森辺の民がジェノスを滅ぼしてしまうのではないか、という懸念を抱えていた親父さんは、それに加えてまた森辺の民の安否までをも心配しなくてはならなくなってしまったのだ。
それはもちろん、森辺の族長らが全面的にサイクレウスからの条件を飲んだためだった。
さすがは血を分けた兄弟というべきか、リャダ=ルウの言葉通り、ドンダ=ルウたちはサイクレウスがこのような対応をしてくることを最初から想定していたのである。
「護衛の狩人をたんまり引き連れていくってのは、ガズラン=ルティムも言っていた通り、俺たちの覚悟をわかりやすく示すためだった。そちらの出方によっては力ずくで抗ってやろうという、まあ、威嚇だな」
昨日の晩餐の折、ドンダ=ルウはそのように言っていた。
「しかし、スン家の連中を引き連れていくと伝えただけで、そこまで大仰に反応するってことは……向こうも向こうで荒事になることを少なからず覚悟しているということだろうな」
「それで、どうするんだよ? 向こうの出してきたふざけた条件をそのまま飲みこんじまうのか?」
不満そうに言うルド=ルウに向かって、ドンダ=ルウは野獣のように笑った。
「それを突っぱねる理由がどこにある? 会談の場には、俺とグラフ=ザザがそろっている。ダリ=サウティに、ガズラン=ルティムもいる。足手まといが何人いようが、遅れを取る恐れなんざ、これっぽっちも存在しねえ。10人もの護衛役が許されたってんなら、なおさらにな」
「しかし、会談の場では刀を取り上げられてしまうのでしょう? それであちらには完全武装の兵士たちが控えているのでしょうし――」
思わず俺も口をはさんでしまうと、ドンダ=ルウは同じ表情のまま、こちらに向きなおってきた。
「だから、荒事になっちまったときは、その兵士どもの刀をぶん取れば済む話だ。……そして、足手まといを抱えているのは、こちらだけじゃねえ」
ドンダ=ルウの双眸は、いよいよ激しく青い炎をふきあげる。
「城下町のへっぽこ兵士どもが俺の同胞を傷つけるより早く、あのサイクレウスの首根っこを押さえつけてやる。それでも兵士どもが抗うようだったら――そのときこそ、本当の荒事だな」
俺も確かに、このドンダ=ルウやグラフ=ザザなどが兵士たちに取りおさえられる姿など想像することはできなかった。
ドーラの親父さんが懸念していた通り、1番怖いのは、サイクレウスが森辺の狩人の力を見誤り、うかうかと荒事を仕掛けてきてしまうことなのかもしれない。
「しかし何にせよ、こちらから刀を取ることはありえない。それでも荒事になっちまったとき、ジェノスの法は俺たちとサイクレウスのどちらを罪人とみなすのか――俺たちにとって、1番重要なのは、そこのところだ」
そう言って、ドンダ=ルウは青く燃える目で俺を見すえた。
「とにかくスン家の連中も、貴様のことも、誰ひとりサイクレウスなんぞに渡しはしねえ。あちらが貴様の出自にどうこう文句を抜かしているのなら、それは貴様のよく回る舌で弁明してみせろ、ファの家のアスタよ」
「はい。わかりました」
大きくうなずく俺のかたわらで、アイ=ファが「待たれよ」と低く声をあげた。
「それが族長の決定であるというのなら、私も従おう。……ただし、その場にアスタを連れていくのならば、私も同行させてもらう。ファの家の家長として、その一点だけは決して譲れない」
「……会談におもむく人間は6名と決まっている。3人の族長と、その供をする3人の狩人――ガズラン=ルティムと、フォウの家長と、ベイムの家長だ」
「…………」
「ただし、新しい条件を突きつけてきたのは向こうだからな。あくまでもファの家のアスタを同行させよと言い張るならば、それを森辺に引き入れたファの家の家長も同行させてもらうと、サイクレウスには伝えておこう」
「……いたみいる」と、アイ=ファは頭を下げた。
そうして俺とアイ=ファも、明日は会談の場に参じることが決定されたのだった。
「アスタおにいちゃん、絶対に無事に帰ってきてね?」
涙目になっているターラと親父さんに、俺は「うん」とうなずき返してみせた。
「絶対に、無事に帰ってくる。そのために全力を尽くすことを約束するよ」
刀も握れない俺なんかに、何の責任も負えるはずはない。
ただ俺は、同じ目的のために生命と誇りをかけようとしている仲間たちを信じ、同じように、すべての力を振り絞る心づもりだった。
そうして俺たちは親父さんたちに別れを告げ、宿場町を後にした。
森辺の集落では、明日という日を迎えるための、最後の大仕事が待ち受けていたのだった。
◇
「よお、ひさしいな、アスタにアイ=ファよ!」
ルウの集落に到着するなり、そのように呼びかけられた。
実はそんなにひさしくもない、4日ぶりに見るラウ=レイである。
「ああ、ラウ=レイ。今日はどうしたんだい?」
「どうしたもへったくれもあるか。ヤミル=レイを連れてきたのだ。トトスはお前たちに貸し出していたから、てくてく歩いてな」
「え、家長のラウ=レイが自らかい?」
しかし、俺がさらわれてしまうまでは、トトスに乗ってヤミル=レイとともにファの家をちょくちょく訪れていたラウ=レイである。ダン=ルティム以上に、フットワークは軽いのだろう。
「家には頼りになる家人がそろっているからな! それに、この役割ばかりは、人に譲る気にはなれなかったのだ」
と、そこでラウ=レイは猟犬のごとく両目を光らせた。
「アスタよ。今日はヤミル=レイたちにお前が手ずから晩餐をふるまうのだろう? その場に俺も居座らせてもらいたいのだが、どうだ?」
「ええ? 俺は全然かまわないけど、そういう話はドンダ=ルウにするべきじゃないのかな」
「ドンダ=ルウには、俺から話す! お前は、了承してくれるのだな?」
ラウ=レイは、ほっとしたように満面に笑みを広げた。
「感謝するぞ! あの収穫の宴以来、俺はアスタの料理が食べたくて毎日うずうずしてしまっていたのだ! レイ家の女衆もそれなりに腕を上げてはきたが、やはりアスタの足もとにも及んではいないしな!」
「うん、まあ、落胆させてしまわないように頑張るよ」
で、そのヤミル=レイはどこにいるのかと問おうとしたとき、「おお、アスタ!」という馬鹿でかい声が後方から投げかけられてきた。
ギルルの手綱を握ったままそちらを振り返ると――現れたのは、ダン=ルティムである。
「ひさしいな! 実は折り入ってアスタに願いたい儀があるのだが――」
「ああ、はい、晩餐の件でしたら、ドンダ=ルウに伝えていただけますか?」
「なんと! 俺の心を読んだのか!?」
俺は力なく笑うしかなかった。
びっくりまなこのダン=ルティムの背後から、さらにガズラン=ルティムとひとりの女性が現れる。
「アスタ、ちょうどお帰りでしたか。……ルド=ルウ、オウラをお連れしました」
ツヴァイの母にして、かつてはズーロ=スンの妻であった女性、ルティムの家人オウラである。
褐色の髪を肩のあたりで切りそろえた、細くて、端整な面立ちをした女衆だ。
ツヴァイの母とは思えないほど若々しくは見えるものの、その表情に生気はとぼしく、瞳も暗く陰っている。
「おひさしぶりです、オウラ。ツヴァイはアマ・ミン=ルティムらと一緒に徒歩でこちらに向かっていますので、まもなく到着すると思います」
「……そうですか……」
オウラは、静かにうなずいた。
彼女と会うのは、テイ=スンを森に葬って以来だ。
その頃から、印象がまったく変わっていないように感じられるのは、喜ぶべきことなのか不安に思うべきことなのか――俺にはわからない。
「晩餐までには、まだずいぶんと猶予があるな。それまでオウラはどこに控えさせておくべきであろうか?」
ダン=ルティムはルド=ルウに問うたのだが、答えたのはラウ=レイだった。
「ヤミル=レイは、あちらの空き家に放り込んでおいたぞ。少しばかりは、かつての家族らと言葉を交わさせてやろうと思ってな」
「え? それはミダのこと? それとも――」
「ズーロ=スンと、ディガと、ドッドだ。今はグラフ=ザザたちが、家の外を見張っている」
「ならば、お前さんもそちらに向かうか?」
ダン=ルティムの言葉に、オウラはびくりと肩を震わせた。
「……はい……それが許されるのでしたら……」
「何も遠慮をすることはない! お前さんたちは、縁を絶つためにむやみに顔を合わせることを禁じられているのだからな。そいつは逆に考えると、このような折にしか言葉を交わす機会もない、ということであろうが?」
「それでは俺がグラフ=ザザたちに話をつけてやろう」
ラウ=レイに導かれて、オウラは俺たちが寝泊りしている空き家のほうへと歩み去っていく。
その後ろ姿を見送りながら、ダン=ルティムは珍しくも少しばかり心配げな顔をしていた。
「ふーむ……オウラとツヴァイがルティムの家人となって、すでにひと月以上も経っているのだがな。どうにもまだまだ俺たちに心を開けずにいるようだ。俺としては、一刻も早くルティムの氏を与えたいと思っているのだが……」
「ザッツ=スンのもたらした影響はそれほどに大きかったのでしょう。焦らずに、彼女らの気持ちが落ち着くのを待つのが1番だと思います」
沈着な面持ちでそのように答えてから、ガズラン=ルティムが俺を振り返る。
「ところで、アスタ。父ダンばかりでなく、もう数名分の料理を準備していただくことは可能でありましょうか?」
「え? ああ、はい、もともと20名以上の大人数であったので、この際何名に増えても驚きはしませんが……」
「それでしたら、是非ともお願いしたいです。5名分――でもかまいませんか?」
「はい。だけどそれは、誰と誰のことなのでしょう?」
「ダリ=サウティとグラフ=ザザ、フォウの家長とベイムの家長、それに私を合わせて5名。明日の会談に参加する人間の分、ということですね」
そう言って、ガズラン=ルティムは口もとをほころばせた。
「ドンダ=ルウがズーロ=スンたちにアスタの料理を食べさせると聞き、それならば会談に参加する人間もその場に集まるべきではないかと、ダリ=サウティが私に相談を持ちかけてきたのです。グラフ=ザザが自らズーロ=スンたちをこの場に連れてきて、いまだに居残っているのも、ダリ=サウティが明日のために相談したいことがあると伝えたためなのですよ」
グラフ=ザザもアスタの料理を食べるべきだ、とダリ=サウティはかつて収穫の宴の際に言っていた。
美味なる料理というものを得て、ファの家やルウの家はこれほどの力を持つことになった。ファの家の行いを否定するならば、この現状を正しく知ってからにするべきだ、という――たしかそのような論旨であったはずだ。
「了承をいただけるならば、私はルウ家のトトスを借りて、フォウとベイムの家長らを呼んでこようと思います。ダリ=サウティは、狩人の仕事を終えてからこちらに向かってくる手はずになっていますので」
「ふん! そんな計略を立てながら、俺だけのけ者にしようという心づもりであったのだな! お前はずるいぞ、ガズランよ!」
ぷんすかと怒るダン=ルティムに、ガズラン=ルティムは「申し訳ありません」と笑いかける。
「父ダンは余人よりも食欲が旺盛であるため、アスタの負担になってしまうのではないかと考えたのです。決して悪意あっての行いではありませんでした」
「なんと! 聞いたか、アスタよ! 嫁を取ると、こうまで父親をないがしろにできるものであるのかな!」
「アマ・ミンは関係ないではありませんか」
俺は思わずふきだしてしまった。
が、そこまで客人の数がふくれあがってしまうのならば、俺もうかうかとはしていられない。
「それではこちらは晩餐の準備に取りかかります。ドンダ=ルウにはダン=ルティムのほうから了承を取りつけていただけますか?」
「おお、まかせておけ!」
明後日の商売がどうなるかは不確定であったため、野菜はその分も購入しておいたのだ。食材のほうは、それでどうにかなるだろう。
しかしそれでも、7名分の追加というのはそこそこの負担である。早急に対処せねばなるまい。
「ええと、それではけっきょく何人分の料理が必要になるのでしょう?」
かまどの間に向かいながら、レイナ=ルウが問うてくる。
「ルウの本家が12人、ヤミル=レイたちが7人、俺とアイ=ファとバルシャで3人――それに、シン=ルウの家が6人で、もともと28人分だったんだよね」
この仕事ではシーラ=ルウとタリ=ルウにも助力を願いたかったので、ならばとシン=ルウ家の晩餐も一緒に作る手はずになっていたのだ。
「それにダン=ルティムたちも加えれば35人分だけど、ミダが5人前、ドンダ=ルウとダン=ルティムがそれぞれ3人前ずつぐらい食べることも計算に入れると、46人分ぐらいは必要になるだろうね」
「46人分――ちょっとした宴ぐらいの量ですね」
「うん。だけど、みんなが力を合わせればどうにかなるさ」
残された時間は、およそ3時間。
しかし、明日は休業日であるので、全員がフル稼働で晩餐の支度に取り組むことができる。
それならば、計算上では可能であるはずだった。
「あ、おかえりー! アスタ、ポイタンは焼いておいたよ!」
かまどの間では、すでにリミ=ルウたちが仕事を開始してくれていた。
「ありがとう。でも、思わぬ客人が増えちゃったんだ。申し訳ないけど、あと10人前ほどお願いできるかな?」
「10人前? りょうかーい!」
リミ=ルウが食糧庫に飛んでいこうとする。
その小さな背中に、サティ・レイ=ルウが「ちょっと待って」と呼びかけた。
「リミはかまど番を得意にしているのだから、アスタの力になってあげるといいわ。ポイタンは、わたしが受け持ちましょう」
「ありがとうございます、サティ・レイ=ルウ」
「いいえ」とサティ・レイ=ルウは穏やかに微笑む。
「それに、ここのかまどもすべて別の料理で使うのですよね? わたしはシン=ルウの家でポイタンを焼いてきます」
確かにかまど番としての腕前はリミ=ルウに及ばないサティ・レイ=ルウかもしれないが、瞬時にそこまで頭を回せるのは、たぶん彼女ぐらいしかいないと思う。
こうした力強いメンバーがそろいぶみしているのだから、何も心配は不要であるはずだった。
「それじゃあ手順は昨日説明した通りで、各々よろしくお願いします。サティ・レイ=ルウの抜けた穴は、俺が埋めますので」
調理に参加してくれるのは、ルウの本家とシン=ルウ家の女衆、総勢8名だ。1名足りないのは、ティト・ミン婆さんがコタ=ルウの面倒を見ているためである。
「ですが、アスタ、料理のほうも7名分ずつ――いえ、ダン=ルティムがおひとりで3人前ということなら、9名分ずつ多く作らねばならないのでしょう?」
「うん。だけど、そのダン=ルティムのために、あばら肉を献立に追加しようと思うんだ。どんな献立を取りそろえても、そいつがなかったらご満足いただけないかもしれないし」
そのように答えてから、俺は頭を巡らせる。
「だから――スープやハンバーグなんかは普通に7名分を追加して、あばら肉は10人前ぐらい――それで、他の料理は気持ち多めに作れば、それで十分なんじゃないかな。もともと人数よりは多めに分量を設定していたしね」
本日は、バイキング形式に近い形で晩餐をふるまおうと計画していたのだ。
何せ人数が人数であるし、それに、ファの家の行いをズーロ=スンらに伝えるならば、俺たちがどのような料理を宿場町で売っているのか、できるだけ多彩な献立でそれを示すべきかなと考えた次第なのである。
よって、本日の献立は――『ギバ・バーグ』『ミャームー焼き』『ギバの角煮』『肉チャッチ』『ギバのソテー・アラビアータ風』『ギバ・カツ』『タウ油仕立てのギバ・スープ』『カロン乳仕立てのギバ・スープ』、それに『ギバのスペアリブ』も追加するとして、堂々の全9種であった。
ハンバーグやスープといった献立はきっちり人数分を用意するとして、残りの献立は7、8人前ずつ作製すれば46人前の量に仕上がる、という計算だ。
この中で、『ギバ・バーグ』『ミャームー焼き』『タウ油仕立てのギバ・スープ』は、レイナ=ルウとシーラ=ルウに指揮権を委ねることもできる。
あとは俺が、いかに効率よくみんなに仕事を割り振れるかであろう。
「では、わたしも家に戻って、母とともにはんばーぐを仕上げてきます」
「はい、お願いします。レイナ=ルウは、スープの準備をよろしくね。俺はカロンの乳を運んでくるから。……アイ=ファ、壺を運ぶのを手伝ってもらえるかな?」
「うむ」
俺はアイ=ファと、それにシーラ=ルウとともにかまどの間を出た。
が、前にいたシーラ=ルウがいきなり立ち止まったので、思わず衝突しそうになってしまう。
「ダルム=ルウ……お帰りになられていたのですね」
シーラ=ルウの肩ごしに、俺はその姿を確認することになった。
黒色の長い髪を後ろでたばねた、右頬に深い傷痕を持つ、狼のごとき眼光の狩人――ルウ本家の次兄、ダルム=ルウである。
彼はズーロ=スンらを監視するために、半月ほど前からザザの集落へと出向いていたのだ。そのズーロ=スンがルウの集落へと移送されてきたのだから、彼が帰還しているのも当然の話だった。
「おひさしぶりです、ダルム=ルウ……ご無事なようで、何よりでした」
「ああ」とシーラ=ルウにうなずきかけてから、ダルム=ルウは火のような眼差しを俺に向けてきた。
その指先に二の腕をつかまれて、俺は引きずり出されてしまう。
で、ダルム=ルウはそのままずかずかとかまどの間から遠ざかり始めた。
「おい、ルウの次兄よ――」と、アイ=ファが物騒な気配をはらんだ声をあげる。
ダルム=ルウは振り返りもせず、「ファの家のアスタに話がある」と言い捨てた。
「何も手荒な真似はしない。お前たちは、そこで待っていろ」
そうして10メートルばかりも進軍してから、ようやくダルム=ルウは足を止めた。
アイ=ファたちから姿は見えるが、声は聞こえない。そんな距離である。
横目で確認してみると、アイ=ファは今にもこちらに駆け寄ってきそうな気配であったが、シーラ=ルウがその腕に取りすがって止めていた。
「お、おひさしぶりですね、ダルム=ルウ」
俺はとりあえず、尋常に挨拶をしてみせた。
ダルム=ルウは俺の腕から手を放し、ぐぐっと顔を寄せてくる。
「ファの家のアスタ。……貴様は、馬鹿か?」
「ええ? はい、あまり利口でないという自覚はありますが……」
「貴様はアイ=ファを守りたいと、俺の前で言ってのけただろうが? その貴様が敵の手に落ちて、どうするのだ」
ぎらぎらと燃える青い双眸が、至近距離から俺をにらみつけてくる。
「貴様は、アイ=ファの気持ちや、考えや、尊厳までをも守りたいなどと抜かしていた。あの夜のあの言葉は、その場しのぎの言い逃れであったのか? 貴様はそのていどの覚悟で、アイ=ファのかたわらにあるのか?」
俺はと胸をつかれてしまい、咄嗟には返事をすることもできなかった。
ダルム=ルウは、ますます物騒な感じに両目を燃やしながら顔を近づけてくる。
「アイ=ファを守りきれないときは、俺が貴様を始末すると言った。しかし、貴様が先にくたばってしまったら、俺にはどうすることもできなくなってしまうではないか」
必死に激情を抑えつけようとしているかのような、ダルム=ルウの声。
そうしてダルム=ルウは、ついにこらえかねたように、俺の両肩をわしづかみにしてきた。
「今のアイ=ファが貴様を失ってしまったら、どうなると思っているのだ? 貴様はアイ=ファの魂の奥深くにまで食い入りながら、それを失う絶望をアイ=ファに与えてしまうつもりか?」
ぎりぎりと、肩の骨のきしむ音色が聞こえたような気がした。
しかし、それよりもダルム=ルウの言葉のほうが痛かった。
「アイ=ファを守り通すというのは、そういうことだ。アイ=ファが森に朽ちてしまうのを心配する前に、まずは貴様自身がアイ=ファのかたわらにあり続けなくてはならないのだ。そのようなことすら、貴様にわかっていないというのなら――俺はいったい、何のために……」
「わかっています! ……いや、わかっている、つもりです」
何を言っても言い訳にしかならないことはわかりきっている。
しかし俺も、自分の真情を吐露せずにはいられなかった。
「俺は自分の身を守ることもできない軟弱者ですが、それでもずっとアイ=ファのそばにいたいと――おたがいが納得のいく生を生きて、そのすえに天寿が尽きるまで運命をともにしたいと願っています。あんな大失態をやらかした後でこのようなことを述べても説得力はないかもしれませんが……その気持ちにだけは、偽りはありません」
「…………」
「今回の一件で、俺も自分の無力さを思い知らされました。だけど、それでも――俺は、アイ=ファとともにありたいんです」
ダルム=ルウは、しばらく無言で俺の目の奥をにらみ続けてから、やがて荒っぽく肩を突き放してきた。
そして、激しい頭痛でもこらえるかのように、自分の目もとを手の平で覆い隠す。
「……頼むから……」
「え?」
「頼むから、これ以上アイ=ファを悲しませるな」
低い声で言い捨てて、ダルム=ルウは俺に背を向けた。
そうしてダルム=ルウは去っていき、アイ=ファとシーラ=ルウが俺のもとに駆け寄ってくる。
「おい、いったいどういうことなのだ? 私にはさっぱりわけがわからぬぞ、アスタ」
さっきのダルム=ルウと同じぐらいの距離で、アイ=ファが怒った顔を寄せてくる。
「収穫の宴の夜といい今日といい、どうしてあの次兄めはアスタにあのような目を向けてくるのだ?」
「うん……まあ、簡単に敵の手に落ちるなと叱られただけだよ」
アイ=ファはまったく納得した様子もなく、さらに顔を近づけてくる。
「それは護衛役である狩人たちの失態だ。アスタがそれを責められるいわれはないだろうが?」
「そんなことはないよ。ドンダ=ルウにもグラフ=ザザにもほとんど責められることはなかったから、俺はむしろ――ダルム=ルウには、感謝したいぐらいだよ」
それは、俺の本心であった。
アイ=ファは口をへの字にして、やはりさきほどのダルム=ルウと同じように瞳の奥を覗きこんでくる。
「さっぱりわからん。……そしてお前はあの次兄めがからむと口が重くなるようだな、アスタよ」
「うん、そうかもしれないな」
アイ=ファは身を引き、今度は不満そうに唇をとがらせた。
そのかたわらから、シーラ=ルウがはかなげに微笑みかけてくる。
「それではわたしは、家に戻ります。はんばーぐの準備ができたら、すぐに戻りますので」
「はい。……あ、ありがとうございます、シーラ=ルウ」
きびすを返そうとしたシーラ=ルウは、さらにはかなげな微笑を口もとに広げた。
「何もそのように御礼を述べられることではありません。……わたしもわたしの気持ちに従っているまでなのです、アスタ」
そうして、シーラ=ルウもまた立ち去っていった。
俺は小さく息をついてから、右手の平をおもいきり自分の頬に打ちつける。
「何をしているのだ、アスタ」と、アイ=ファは目を丸くした。
「いや、気合いを入れなおしただけだよ。……それじゃあ、壺を運ぶのを手伝ってくれ」
俺はアイ=ファに笑いかけてみせた。
アイ=ファはきゅっと眉をひそめてから、俺の頬にひたりと手の平をおしあててくる。
「とても痛そうだぞ、アスタよ」
「大丈夫。全然痛くない」
俺はアイ=ファの手を取って、ともに食糧庫へと向かった。
中天と日没の中間あたりに浮かんだ太陽は、じわじわと西の方向に傾きつつあった。