⑤再開
2015.7/7 更新分 1/1
翌日の、白の月の11日。
俺たちは予定通り、屋台の商売を再開させていた。
レイナ=ルウたちとは別口で契約を交わした、『ミャームー焼き』の屋台である。
準備した料理は、100食分だ。
レイナ=ルウたちの『ギバ・バーガー』もやはり100食分を準備していたが、以前の休業日明けにもちょうど同数の料理をさばいた実績がある。ということで、思いきってそれだけの数を準備することにしたのである。
もしも売れ残りが生じてしまった場合はルウの集落でそれをふるまう、という段取りをあらかじめミーア・レイ母さんと組ませていただいている。
そして、明日からは今日の売れ行きを見てそれぞれの数を設定しよう、という話にもなっていた。
どちらが売れ残ろうと、恨みっこなしだ。ファの家もルウの家も目先の稼ぎではなく森辺の将来のために店を開いている、という自覚を忘れていなかったので、売り数を競うような事態には陥らずに済んだのだった。
「いやー、やっぱりひさびさだと勢いが違うね! あの、家長会議で店を休んだとき以来の客入りだったんじゃない?」
俺のかたわらで、ララ=ルウが笑っている。
数十分かけて、朝一番のラッシュを乗り越えたところである。
こちらの屋台には南の民を中心とするお客様がたが殺到して、なんと40食もの『ミャームー焼き』を早々に売りさばくことがかなったのだった。
その内の何割が、貴族に見初められたという俺の評判を聞きつけたお客さんであり、そして、実際に食した後はどのような感想を抱くことになったのか。そこまでは、わからない。
だけど俺は、とにかく5日ぶりに商売を再開できたという喜びだけで、胸がいっぱいになってしまっていた。
宿屋に料理を卸すという仕事もやりがいという意味では負けていなかったが、やはりお客さんたちの笑顔で間近で見ることのできる屋台の商売というのは、何にも代え難い充足感を俺にもたらしてくれるのである。
そんな喜びと充足感を胸に、俺は隣の屋台で一息ついているレイナ=ルウのほうを振り返った。
「レイナ=ルウ、そっちのほうはどうだったのかな?」
「はい。こちらは昨日までとほとんど同じで、30食ていどです」
「30食じゃなくて、28食だヨ。昨日は34食で一昨日は37食だったから、やっぱり売り上げに影響が出てるんだネ」
と、ツヴァイが忌々しげに口をはさんでくる。
レイナ=ルウはけげんそうにその小さな姿を見下ろした。
「ツヴァイ、あなたは何かとアスタにつっかかるけれど、そもそもわたしたちはアスタに料理の手ほどきを受けたからこそ、このように商売ができているのよ?」
「そんなことはわかってるサ! 別に何の文句を言ってるわけでもないでショ!?」
ピイピイと甲高い声でさえずる、相変わらずのツヴァイである。
だけど俺は森辺の民らしからぬ経済観念を有しているこの少女のことが割り合い気に入っていたし、スンの本家という歪んだ環境で生まれ育ったことを考えれば、ひねくれ加減も許容の範囲内であると考えていた。
ともあれ、レイナ=ルウたちは俺が店を再開させても2つの屋台を維持させていたので、以前よりも1名多いこのメンバーで商売に取り組むことになったのだった。
『ミャームー焼き』の屋台は、俺とララ=ルウ。
『ギバ・バーガー』の2つの屋台は、レイナ=ルウとシーラ=ルウとツヴァイ。
中天からは、俺とレイナ=ルウが屋台を離れるので、リィ=スドラとアマ・ミン=ルティムに手伝ってもらう段取りになっている。
かつては女手が少ないために屋台を手伝うことのできなかったルティム家であるが、ツヴァイとその母オウラを家人として迎えたために、若干のゆとりが生じたらしいのである。
で、形式上、ファの家が銅貨で雇っているのは、ララ=ルウとリィ=スドラの2名のみであった。
それ以外の女衆は、あくまでルウ家の仕事として商売に励んでいるのだ。
自分たちの力と判断でミラノ=マスと契約を果たし、料理を準備して、それを販売している。ツヴァイあたりが心配するまでもなく、その売り上げはすべてルウ家の資産である。
これでファの家の収入は半減してしまうことになるが、もちろん俺にもアイ=ファにも不満はなかった。
「……ひさびさの商売はどうだ、アスタよ」
と、護衛役のアイ=ファが低い声で問うてきた。
『ギバ・バーガー』の屋台のほうでは、シン=ルウが立っている。
今日の護衛役は彼らとルド=ルウを含む6名で、残りの4名は背後の雑木林に潜んでその役を果たしている。
「うん、やっぱり気持ちが晴れ晴れとするよ。何とか今回の一件も丸くおさめて、ずっと宿場町での商売を続けていきたいものだよな」
アイ=ファはちらりと俺の顔を見てから、こらえかねたように微笑をもらした。
「……本当に、幸福そうな顔をしているな」
「うん、おかげさまでな」
一夜が明けると、アイ=ファはすっかり常態に戻っていた。
バルシャの存在は、たぶん俺だけではなくアイ=ファの心にも小さからぬ波紋を投げかけたのだろうと思うのだが――何にせよ、そのような内心を人前で見せるようなアイ=ファではなかったのだ。
とにかくアイ=ファの笑顔はとても柔らかくて、俺にいっそうの力を与えてくれた。
そして、それに気づいたララ=ルウが背伸びをして俺の耳もとに口を寄せてきた。
「ね、アイ=ファもますます感情を見せるようになってきたよね。たまーにだけど、ルドと大声でやりあったりもするしさ」
「そうだね。アイ=ファもアイ=ファなりに、みんなと打ち解けてきてるんだと思うよ」
本当は、アイ=ファの表情の多彩さはこんなもんじゃないんだけどなあとか思いつつ、俺は小声でそのように答えてみせた。
ララ=ルウは嬉しそうに、にっと笑う。
「男衆だと、アイ=ファみたいにむっつりしてるのも珍しくはないし。そう考えたら、アイ=ファは狩人らしい人間だっていうだけで、冷たい人間なわけではなかったってことなんだろうね」
「ひどいな。ララ=ルウはアイ=ファのことをそんな風に思っていたのかい?」
「ふん! あたしたちは実際に冷たくあしらわれたりもしてたんだから、これ見よがしに仲良くしてたアスタに文句を言われる筋合いはないと思うけど?」
「これ見よがしにってのもひどい言い草だなあ」
すると、アイ=ファが再び「アスタ」と呼びかけてきた。
ララ=ルウとの内緒話を聞かれてしまったのかと俺は首をすくめかけたが、そうではなかった。
見覚えのある人物が、北の方角から近づいてきていたのだ。
白髪まじりの髪を後ろになでつけた、がっしりとした体躯の初老の西の民――ミケルである。
「ああ、ミケル……」と言いかけた俺の言葉が、「本当に出戻ってきたのだな」というぶっきらぼうな声にさえぎられる。
「貴族に捕らわれながら出戻ってこられるとは悪運の強いやつだ。おまけにのうのうと商売を再開させるなんて、正気の沙汰とも思えんな」
相変わらず、頑固で不機嫌そうなミケルであった。
樫の木に彫り込まれた彫像のように厳つい顔にも、変わりはない。
その変わりのなさが、俺にはたいそう嬉しかった。
「すみません、このたびは色々とご面倒をおかけしてしまって――」
「まったくな。人の忠告を聞かぬからこのような目に合うのだ。今回は運良く助かったようだが、貴族を敵に回したらただでは済まんのだぞ」
そこでアイ=ファが「トゥランのミケルよ」と進み出た。
俺は一瞬ひやりとしてしまったが、案に相違して、アイ=ファはミケルに目で礼をした。
「このたびアスタが無事に戻ってこられたのは、あなたの尽力もあってのことだ。ファの家の家長として、あなたに礼の言葉を述べさせていただきたい」
「……何のことだか、わからんな。俺は見も知らぬ赤毛の子供にトゥラン伯の屋敷の場所を問われたから、それを教えてやっただけのことだ」
「それがアスタの身を救ったのだ。再三、貴族には関わるなと説いていたあなたがそのような形で力を貸してくれたことを、私たちは決して忘れぬだろう」
ミケルはむすっと黙りこんでしまった。
アイ=ファはもう1度目礼をしてから、引き下がる。
「何にせよ、俺は貴族との揉め事に関わる気はない。腹が減ったから、軽食を買いに来ただけだ」
そう言って、ミケルは屋台に赤銅貨をびしりと置いた。
「はい、毎度ありがとうございます。……あの、ジーダはそれ以降、姿を現していないのでしょうか?」
「現れるわけがないだろうが。あの子供は宿場町で行方を追われている罪人なのだろう? 俺だって、罪人などに用事はない」
俺はジーダのために釈明したかったが、あまり往来で話せるような内容でもなかったので、大人しく『ミャームー焼き』をこしらえることにした。
それを口にしたミケルが、秀でた眉の下でぎらりと両目を光らせる。
「こいつは、味が変わっているな。……タウ油を使ったのか」
「はい。さすがにミケルの舌は誤魔化せませんね」
前々から、俺は『ミャームー焼き』の漬け汁にタウ油を加えたくて、うずうずしていたのだ。
しかし、好評をいただいている料理のレシピを軽はずみに変更したくもなかったので、5日間も休業することになった今回の事態を好機ととらえて、初めて施行に踏み切ったのである。
食材費に大きな影響が出てしまわないていどの控えめな量に過ぎないが、それでも味は向上したと思う。生姜焼きから着想を得た料理であるので、本来であれば味のベースをおまかせしたいぐらいのタウ油であったのだ。
「宿場町でもそんな上等な調味料を扱うことができるのか。これなら、味がよくなるのが当たり前だ」
「はい。ジャガルと縁のある人間であれば、宿場町でも購入することはできるらしいのです。もちろんそれなりの値段になりますので、むやみに使うことはできないのですが」
「……ふん」と鼻息をふきつつ、ミケルはゆっくりと『ミャームー焼き』を食していく。
その姿を見つめながら、俺は頭に浮かんだ想念を口にしてみた。
「あの、ミケルはロイという人物をご存知ではないですか?」
「ロイ? ……そんな名は、知らん」
「そうですか。実は、俺が捕らわれた屋敷に料理人としてその人物が雇われていたのです。あちらはミケルのことを知っているような素振りでした」
あまり前歴について触れるべきではなかったかなとも思ったが、ミケルはべつだん気分を害した様子もなく――というか、元の通りの不機嫌そうな表情で口を動かしていた。
その下顎が、ふいにぴたりと動きを止める。
「そういえば……俺が《白き衣の乙女亭》で働いていたときに、そのような名前の見習いの小僧がいたような気もするが……」
「はい。彼もその店の名前を口にしておりましたよ。ちょっとくせのある褐色の髪をした、俺と同じような体格の青年です。たしか年齢は、19と言っていました」
「ほう、あの小僧がな。……そんな若さであの屋敷に招かれるとは大したものだ」
さして関心もなさそうに、ミケルは食事を再開させた。
「しかし、あの屋敷に招かれてしまったからには、主人のための料理を一生作り続けるか、あるいはすべての名誉を剥ぎ取られて追い出されるかの道しかない。あそこを追い出された料理人はもう2度と城下町では雇い入れぬ取り決めになっているから、文字通り命運をかけてしまっているわけだな」
「……そんな理不尽な取り決めが存在するのですか。かえすがえすも、ひどいやり口ですね」
「文句があるなら、ジェノスを出ていけばいい。その町の掟を作るのはその町の貴族なのだから、平民なんぞが逆らっても馬鹿を見るだけだ」
「それじゃあ、あなたは――」
どうしてジェノスを出ていかなかったのですか、と言いかけて、やめた。
これ以上、ミケルの苛烈な過去を根掘り葉掘り聞くべきではない、と思えたからだ。
しかしミケルは強い目つきで俺のことをにらみつけながら、言った。
「俺にも、家族がいたからな。そいつがひとりで生きていけるようになるまでは、逃げることもくたばることも許されんのだ。お前だって、しがらみがあるからジェノスを出ていくこともかなわぬのだろうが?」
「……はい」
「だったら、家族に迷惑をかけぬよう、身をつつしめ」
そんな風に言ってから、ミケルはぐっと身を乗り出してきた。
「そのようなことよりも、お前はあの館の主人に料理を差し出してしまったのか? 町では、その娘こそが犯人であったという話が流れているようだが」
「ええ。父親のほうは、一口たりとも口にしていないはずですよ」
「そうか。ならば、俺の忠告を忘れぬことだ。お前の腕前を知られてしまったら、今度こそ石塀の外には戻ってこれぬだろうからな」
気に入った料理人は何としてでも我が物とし、それを断られれば料理人としての未来を絶つ。で、期待に応えられなかった料理人は、城下町から追放、か。
聞けば聞くほど、理不尽なやり口だ。
「あの御仁は、どうしてそこまで美食にこだわるのでしょう? ミケルの話をうかがっていると、普通では考えられないほどの執念であるように感じられてしまうのですが」
「ふん……誰だって死ぬのは恐ろしいものなのだから、どれほど執念を燃やしたっておかしなことはあるまい。あれほどの富を持つ男ならば、なおさらいつまでもこの世に君臨していたいと願うものなのだろうさ」
言っている意味が、今ひとつ理解しきれなかった。
ミケルは最後の一口を飲み込んでから、また俺の顔をにらみつけてくる。
「お前はあの男と顔を合わせていないのか? あの男は、病魔に蝕まれている。贅沢な貴族だけが患う、内臓の病だ。……その贅沢な食事から得た病魔を、さらなる贅沢さで克服しようと四苦八苦しているのだろうよ」
俺は、言葉を失ってしまう。
まるで病人のような顔色だ、とは思っていたが――サイクレウスは、本当に病魔を抱え込んでいたのか。
(それで、あんなに青黒い顔色をしてるってことは……まさか、腎臓か? それとも、肝臓か?)
どちらにせよ、いったん患ってしまったら回復の難しい臓器である。
「……お前はあの館の厨で働かされていたのだろうが? だったら、シムから取り寄せた薬草や、ギャマの臓物の干物なんぞといった薬膳の材料を山ほど見せつけられたのではないのか?」
「い、いえ、俺は使用人のための料理を作る小さなほうの厨で働かされていたんです。砂糖や、蜜や、油など、珍しい食材はたくさんありましたが、そこまで特別な材料は準備されていなかったと思います」
「ふん。あの男にとっては宝物蔵に等しい厨には、さすがに踏み入ることは許されなかったわけか。そいつは幸いなことだったな」
ミケルは半分まぶたを閉ざし、何もない虚空をにらみすえた。
「贅沢な食事で得た病なのだから、贅沢さを捨てるのが1番賢いやり方だ。しかし、ありあまる富を持つあの男は、それと逆のやり方を選んだ。大陸中からあらゆる食材をかき集めて、病魔を癒すための食事を作らせているのだ。苦い薬草をすするだけの生などは、あの男には我慢がならなかったのだろう」
「だ、だけどそれなら、タウ油や砂糖や乳脂なんかは必要ないのではないですか? いったいどういう病なのかはわかりませんが、贅沢な食事から得た病ならば、塩や糖や油をひかえるべきだと思います」
「……それが許せないからこそ、塩や油を打ち消すような薬草なども料理に盛り込んでいるのだろうさ。あの男は、病魔を得ても美味い食事を食べるという欲求を捨て去ることができなかったのだ」
ミケルは強く首を振り、自分の右手の指先を逆の手で握り込んだ。
「土台、あのようなやり方で病魔を克服できるわけがない。人間の身体を壊すための料理を作り続ける一生など、俺は御免だ。……まあ、あれでは俺よりもあの男の生命のほうが先に尽きてしまうのだろうがな」
そしてミケルは、普段の不機嫌そうな顔つきに戻って、あらためて俺をにらみつけてきた。
「……余計な口を叩きすぎた。何にせよ、真っ当な料理人として生きていきたいなら、あのような男には関わるな」
「はい」
ロイの姿を思い浮かべながら、俺はうなずき返してみせた。
ロイは、この事実を知っているのだろうか。
知った上で、調理技術の研鑽に励んでいるのならば、俺あたりが心配をする筋合いもないのだが――そうでなかったら、彼の行く末も危ぶまれてしまう。
「……それでは、放っておいてもサイクレウスの生は長くない、ということなのだろうか?」
と、ふいにアイ=ファが口をはさんできた。
ミケルは横目でそちらをにらむ。
「そのようなことを、俺が知るわけはない。食事の毒よりも薬がきけば、5年や10年は生き永らえるかもしれんからな。……それに、あの男の妄執は娘にもしっかり引き継がれてしまっているようではないか?」
言いながら、俺とアイ=ファの姿を見比べる。
「あの男が死んでしまったら死んでしまったで、次の当主はその娘ということになるのだろう。そうしたら、またぞろお前は厄介な相手につけ狙われてしまうのかもしれんな」
リフレイア。
あの少女もまた、美食に取り憑かれてしまった存在なのだろうか。
あまりに色々なことを聞かされすぎて、俺は気持ちも考えもなかなかまとまらなかった。
「かなうことなら、こんな町は出ていくことだ。……まあ、それがかなわぬというのなら、お前が再び石塀の中にさらわれるまでは料理を買いに来てやろう」
そんな言葉を残して、ミケルはさっさと立ち去っていった。
◇
中天である。
リィ=スドラとアマ・ミン=ルティムに屋台の業務をバトンタッチした俺とレイナ=ルウは、アイ=ファたち6名の護衛役とともに、《玄翁亭》へと出立した。
しかし、本日の責任者は、あくまでレイナ=ルウである。
俺は、ヴィナ=ルウやララ=ルウが受け持っていた調理助手の立場であるに過ぎない。
俺の仕事は明日からでも再開させていただくことも可能であるが、白の月の15日以降はまたどうなってしまうかわからない。そのあたりの複雑な事情を説明させていただくために、本日は同行させてもらうことにしたのだ。
「だけどそうなると、アスタが宿屋に向かう日はララが同行することになり、リィ=スドラとアマ・ミン=ルティムの2名がファの家に雇われて屋台の仕事を手伝う、という形になるのでしょうか?」
街道を歩みながらレイナ=ルウが問うてきたので、俺は「うん、そのつもりだよ」と答えてみせた。
ミケルの言葉によってずいぶんと気持ちをかき乱されてしまったが、とにかく今は目前の仕事に励もうと思う。
「ルウ家の屋台の責任者はレイナ=ルウとシーラ=ルウなんだろうからさ。その2人を俺の仕事の助手として扱うっていうのは、ちょっとおかしな話だろう?」
すると、見る見る内にレイナ=ルウの面が悲しそうに曇っていってしまう。
「あれ? それだと何かまずいかな?」
「はい。わたしとシーラ=ルウには、やはりまだまだアスタの手ほどきが必要だと思うのです。このままでは、ぎばばーがーとぎばすーぷ以外の料理を向上させるのも難しくなってしまうので……アスタが宿屋の仕事を受け持つ日も、ララではなくわたしやシーラ=ルウを同行させていただきたいと考えていたのですが……」
「ああ、そうか。レイナ=ルウたちがそんな風に考えているなら、俺も責任者とかにこだわるつもりはないんだけど」
ちなみに本日も、俺が抜けた後はララ=ルウとシーラ=ルウがポジションを入れ替えている。現時点で『ミャームー焼き』をきちんと焼き上げることができるのは、俺とシーラ=ルウしか存在しないためである。
こうして俺が屋台を離れる日はシーラ=ルウを頼らざるを得ないので、なおさらもうひとりの責任者であるレイナ=ルウを調理助手に任命してしまうのは忍びない、と考えていたのだが――本音を言えば、俺だってレイナ=ルウとシーラ=ルウにはもっともっと経験を積ませてあげたいところであった。
「うーん、そうだなあ……たしか、リィ=スドラももう間もなく『ミャームー焼き』を完全にまかせられるようになるはずなんだよね。それなら確かに、シーラ=ルウが宿屋を巡ることも可能になるのか」
「はい。……わたしはいまだその技術を習得できていないので、ちょっと悔しいところなのですが」
レイナ=ルウは、まだ商売用の少し濃い味付けをした『ミャームー焼き』の焼き加減を習得できていないのだ。
が、彼女は屋台の商売に参加してから日が浅く、『ギバ・バーガー』を専門に担当しており、なおかつ午後からは宿屋を巡る仕事のほうを受け持っていたのだから、いたしかたがない。
「それだったら、まずはレイナ=ルウも『ミャームー焼き』を同じ味で作れるように修練を積んでもらって……それでもって、シーラ=ルウが宿屋で『ギバ・スープ』を作れるようになれば、かなり自由度が高くなるかな」
レイナ=ルウとシーラ=ルウなら、数日ていどでその技術を身につけることは可能だと思える。
「で、俺は俺で毎日《キミュスの尻尾亭》にも出向きたいからさ。俺を軸にして、レイナ=ルウとシーラ=ルウが2日おきに宿屋まで同行してくれれば、すべてが丸くおさまるかもしれない。今日みたいにレイナ=ルウたちが責任者のときは俺が助手で、俺が責任者のときはレイナ=ルウたちが助手っていう形でね」
「はい。そうしていただけると、わたしもシーラ=ルウもとても嬉しいです」
とても悲しげな顔をしていたレイナ=ルウが、ぱあっと明るい笑みを広げる。
「……でも、このような取り決めも貴族との会談が上手くいかなければ、すべて無駄になってしまうのですよね」
「うん。そうならないように、ドンダ=ルウやカミュア=ヨシュたちは頑張ってくれているけれど、どんな結末になるかは想像もつかないからね」
「仮に解決に時間がかかってしまっても、これまで通りモルガの森辺に留まることができて、またいずれこのように商売をすることができるようになれれば、わたしはそれで満足です。……アスタの行方が知れなかった数日前までと比べれば、心もうんと軽いですし」
そう言って、レイナ=ルウはいっそう無邪気そうに微笑んだ。
それこそ初めて出会ったときのような、リミ=ルウのように屈託のない笑顔である。
俺も素直に「ありがとう」と返すことができた。
と、そこでうなじのあたりに視線を感じたような気がしたので、後方を振り返る。
誰も俺を見つめてはいなかった。
ただ、アイ=ファが口をへの字にして、鋭い眼光を道行く人々に向けていた。
「どうかしましたか?」と、レイナ=ルウは不思議そうに小首を傾げている。
「いや別に」と、俺は首を振るしかなかった。
そうこうしている内に、俺たちは《玄翁亭》に到着した。
が、俺はその場で溜息をつきたくなってしまった。
小さめの家屋が並ぶ住宅区域の細い街路に、またしても巨大なダレイム家の荷車が停車していたのである。
昨日の今日で、またポルアースが馳せ参じてきたらしい。
「やあやあ、お待ちしていたよ、アスタ殿。さっそく話を詰めようじゃないか」
ネイルの案内で食堂におもむくと、本日はポルアースともうひとり、痩せていて身なりのいい初老の男性が3名の武官たちとともに待ち受けていた。
2度目の溜息をこらえつつ、俺はポルアースの正面に座する。
「いったい今日はどうされたのですか? 必要な話はすべて昨日お伝えできたと思うのですが……」
「うん。君の教えの通りに、みごとポイタンを焼きあげることができたよ! 今は焼いたポイタンと、焼く前のポイタンの保存性というやつを確認しているところさ。煮詰めて粉状に乾かしたポイタンが、挽いたフワノと同じぐらいの保存性を持っていてくれると助かるのだけれども、さてさてどうなることだろうねえ」
すでにそこまで話を進めているのかと、俺は少々面食らうことになった。
しかも、粉状のポイタンの保存性というやつは、俺も前々から確認したかった項目でもある。
「それでね、商品としてのポイタン粉を売り出すのは、農園での収穫量を上げる算段が立ってからになるから、まずはその前段階として焼いたポイタンの味を宿場町に広めようと思うのだよ! 現在はサトゥラス家にも協力をいただいて、フワノの代わりにポイタンを扱ってくれそうな宿屋と屋台を選別している最中なのだけれども、それ以外にも、自分たちで料理を売り出そうと画策しているのだよね」
「自分たちで? 屋台でも開こうという計画なのですか?」
「そう! とにかく注目を集めるには、美味なる料理を売り出すのが1番だからね! 森辺の民が売り出している料理も宿場町ではたいそうな評判であるようだけれども、いかんせん、ギバの料理では西の民に忌避されることも多いはずだ。かくいう僕も、まだその料理を口にする覚悟は固められずにいるからねえ」
「はあ……」
「そういったわけで、僕は城下町で手に入る食材をふんだんに使って、そいつを売り出そうと考えたのだよ。そこの商売で稼ぎを出す必要はないから、採算度外視で豪華な料理を売り出せばいい、とね。……しかし、うちの料理長にそれはならじとたしなめられてしまったのだよ」
どうやらポルアースのかたわらにひっそりと控えている初老の男性が、その料理長であるらしい。
アイ=ファやシン=ルウといった森辺の狩人たちを前にして、いくぶん緊張気味の顔をしたその人物が、ハッとしたように背筋を伸ばした。
「こちらがその、ダレイム家の厨をまかせている料理長のヤンという者だ。ヤン、君の話をもう1度聞かせてもらえるかな?」
「はい。……失礼ながら、高価な食材を使ってしまえば上等な料理に仕上がるのが当然であります。それで評判を呼んだところで、ポイタンの存在などかすんでしまうことでしょう。宿場町で料理を売り出すならば、宿場町でも取り扱いのできる食材のみを使うべきだと思います」
「と、このような感じなのだよ。それで、宿場町ですでに成功をおさめているアスタ殿にご意見をうかがうために、こうして待ち受けていたのだよね」
「なるほど。そいつは道理ですね。でも、自分の場合はギバの肉に助けられている面が大きいのですよ。ギバの肉はたっぷり脂ものっていますので、それだけでカロンの足肉やキミュスの皮のついていない肉よりは上等な食材ということになるのでしょう」
「ああ、皮のないキミュス肉は味気ないものねえ。カロンの足肉なんて、僕は口にしたこともないけれども……」
「カロンの足肉は宿場町に、それ以外の肉は城下町に、というのが長年の習わしでありますからな」
ヤンが、いくぶん固い声音で応じる。
ポルアースの半分ぐらいしか体積のなさそうな細身の人物であるが、その痩せた面には何かしらの矜持や意地といったものが浮かんでいるように感じられた。
「そもそもこのヤンという人物はね、城下町の住人でありながら、高価な食材というものに反感を抱いてしまっているのだよ。本当に高価で貴重な食材というものはサイクレウス卿にゆかりある料理人に買い占められてしまうため、料理の味は食材の金額で決まるものではない! という信念を抱いてしまったようなのだよね」
「それはとても共感のできる信念だと、俺には思えます」
俺は本心からそのように言うことができた。
城下町にもそのように気骨のある料理人が存在するというのは、驚きだ。
「しかし、それでは評判を呼ぶような料理を作りあげるのは難しい、ということになってしまうのかなあ。宿場町には、レテンの油もママリアの酢もジャガルの砂糖も置いていないのだろう? それではまともな料理など作りようもないように思えてしまうねえ」
「いや、ちょっと待ってください。自分もちょうどギバ肉だけでなく、カロンやキミュスを使った献立の研究に取り組んでいたところなのです。それで、まずはカロンの乳を宿場町で取り扱えないかと画策していたのですが――カロンの乳から乳脂や乾酪を加工するのは難しいことなのでしょうか?」
「乾酪をこしらえるには、まず設備を整える必要があるでしょうな。乳脂ならば、そこまでの手間もかからないでしょうが――」
と、そこで料理長の瞳に理解の光が閃いた。
「……しかし確かに、カロンの足肉や皮のないキミュス肉には、脂身というものが欠けています。それでレテンの油も使えなかったら、粗末な料理しか作れないのが道理でありましょう。そこに乳脂を使えれば――それだけで、料理の質を向上させることもできそうですな」
「乳脂というのは、自分たちで加工できるものなのですか?」
「人手さえあれば、可能です。まずは一晩カロンの乳を放置して、上に浮いた脂をすくい、それを革袋に詰めて叩くだけのことですから」
「ああ、そうやって水分と脂肪分をさらに分離させるのですね」
何だか俺のほうまで昂揚してきてしまった。
「それでは、価格のほうはどうなのでしょう? 赤銅貨1枚ていどでカロンの乳をひと瓶買えると聞いたのですが、そこから抽出できる乳脂は微々たる量なのですよね?」
「そうですな。しかし、1食あたりで使う乳脂の量など、たかが知れています。焼いたポイタンとともに乳脂の存在を知らしめることができれば、それだけで宿場町で評判を呼ぶことは可能なのではないでしょうか」
「それはいいね。何だか希望の光が見えてきたじゃないか」
ポルアースは、にこにこと笑っている。
「ついでに、ジャガルの砂糖やタウ油などを使うことはできないのかなあ? そうしたら、もういっぱしの料理が作れそうじゃないか?」
「俺は宿屋のご主人のつてでタウ油を扱わせてもらっていますが、砂糖というのは城下町にしか卸されていない、という話でしたね」
「そうなのかい? 砂糖というのは、そこまで高価なのかなあ?」
ポルアースの問いに、料理長は「いえ」と首を振る。
「砂糖とて、タウ油と比べてそこまで高価なわけではありません。それよりも、サイクレウス卿が銅貨を惜しまずに買いあさってしまっているのが問題なのでしょう。城下町に住まう我々とて、サイクレウス卿が買い残した分を何とかかき集めてやりくりしているというのが現状なのですから」
「なるほど。それだったら、ますますサイクレウス卿には失脚してもらわねばねえ」
実に穏やかな表情で、実に不穏な発言をするポルアースだった。
「だけど、とにかくまずはカロンの乳か。そちらはべつだんサイクレウス卿に買い占められてはいなかったよね?」
「はい。ダバッグの商人たちにしてみても、カロンの乳などは近場の町にしか売ることはできませんからな。必要な量だけを搾って、それを売りさばいているに過ぎないのでしょう」
「それじゃあ、宿場町でもカロンの乳を買いつけて、乳脂をこしらえることもできるようになるのですね」
俺が喜びの声をあげると、何故か料理長に厳しい眼差しを向けられてしまった。
「ファの家のアスタ殿と申されたか。……あなたは本当に、それでよろしいのですかな?」
「え? 何がですか?」
「乳脂を使えば、カロンの足肉でも上等な料理を作ることができるようになります。そうしたら、ギバ肉の料理は脂身がふんだんであるという利点を失うことになってしまうのではないですか?」
そのようなことは、まったく心配していなかった。
「ギバ肉は、肉そのものも美味なんです。少なくとも、皮つきのキミュスに劣るものではないと思います。乳脂が登場したぐらいでギバの料理が売れなくなるようなら、それは最初から商品としての価値がなかったということになるのでしょう」
「それはまた、たいそうな自信でありますな」
「ええ。自分の料理の腕にではなく、ギバ肉の美味しさには自信を持っておりますよ」
料理長は疑い深そうに黙り込み、その代わりにポルアースが笑い声をあげた。
「ご謙遜だね、アスタ殿。僕も1度だけ君の料理を口にする栄誉を賜ったけれども、あのキミュスの揚げ物は絶品だった! その若さにして、君の腕前は卓越しているよ。だからこそ、僕はこうして君に相談しようと思いたったのだからねえ」
「はあ。ご過分なお言葉をいただき、こちらこそ光栄であります」
そんな風に応じてから、俺は揚げ物の一言でとある疑念を思い出すことができた。
「そういえば、俺も知りたいことがひとつあったのですが。焼いたフワノというのは、どれぐらい保存がきくものなのでしょう? それに、焼いたフワノを乾かすと、食感が変化したりはするのでしょうか?」
「焼いたフワノは、一晩も経つとカチカチになってしまうよ。フワノはやっぱり焼きたてが最高だろうねえ」
「……それでも、数日の間は腐ることもないでしょう。短い旅であれば、そうして乾燥させたフワノを持ち歩き、水や野菜の汁で煮詰めて食する旅人も少なくはないと耳にしたことがあります。……それでもそのようなものはポイタンにまさる味でもないので、けっきょくは安値で買えるポイタンのほうが旅人には求められるようですが」
料理長の返答で、俺は満足することができた。
「ありがとうございます。実は、乾かしたフワノを細かく挽いて、揚げ物の衣にすることはできないかなと考えていたのですよ。さっそく今日にでもフワノを購入して、一晩乾燥させてみようと思います」
もとが小麦に酷似しているフワノであるのだから、焼いたものを乾燥させた上でさらに乾煎りすれば、きっとパン粉の代用品としては申し分ないだろう。煎餅やピーナッツを砕いたものでも、パン粉の代用はつとまるのだから。
「焼いたフワノを乾燥させて、それをまた粉にする? 何とも珍妙な料理だねえ。そんなもので、美味しい料理が作れるのかい?」
「はい。先日に召し上がっていただいたキミュスの唐揚げに劣る料理にはならないだろうと考えています」
これで卵も購入すれば、カツやコロッケにも挑戦することができる。
それにはギバのラードが大量に必要になるので、宿場町の商売に活用することは難しいかもしれないが――アイ=ファたちにどのような感想がもらえるかと想像しただけで、胸が弾んでしまった。
それから、ふっとミケルの言葉を思い出してしまう。
贅沢な食事によって引き起こされるという、内臓の病についてである。
(……揚げ物なんていうのは、高カロリーの代表みたいな料理だよな)
ただカロリーが高いだけならば、過酷な労働に身を置いている森辺の民なので、そこまでの心配はいらないかもしれない。しかし、これまで以上の脂質を含む料理というのは、やはりいささかならず心配だった。
(だったら、付け合せにはたっぷり野菜も準備して――大事なのは食物繊維やクエン酸なんかだろうから、ティノや、タラパや、ギーゴあたりかな? タウ油をアレンジすればソースに似た味を作ることはできるけど、森辺の民にはシールの果汁なんかでさっぱり食べてもらうほうがいいかもしれない)
ミケルの言う通り、身体を壊すための料理をふるまうなんて、絶対に御免だ。
そのようなことに思いを馳せていると、ポルアースが「よし!」と元気いっぱいの声をあげてきた。
「それではさっそく、ダバッグに使者をやろう! 銅貨をもたせれば、明日の昼にはカロンの乳を持ち帰ることもできるはずだからね。料理長は、明後日までに店を出せるように準備を整えておいてくれ」
「え? 明後日からもう商売を始められるのですか?」
「うん。本当だったら、明日から始めたいぐらいだったのだよ。とにかくサイクレウス卿に気取られる前に動かねばならないし、君たちだって白の月の15日までには結果を残してサイクレウス卿の動揺を誘いたいのだろう? ザッシュマ殿から、そのように聞いているよ」
「ええまあ、それはその通りなのですが……」
しかし、白の月の15日は、もう4日後に迫ってしまっている。
こんな突貫工事で、本当に結果など残せるのだろうか。
「大丈夫だよ。僕だって、父上に見捨てられるかどうかの瀬戸際なんだ。ダレイム家と、森辺の民と、それにジェノスの領民すべての明るい未来のために、なけなしの力を振り絞ってみせるよ。まずは2日後を楽しみにしていてくれたまえ!」
そう言って、ポルアースは最後までのほほんと笑い続けたのだった。