④赤髭の伴侶
2015.7/6 更新分 1/1
夜である。
俺とアイ=ファは、再びルウの集落の空き家に腰を落ち着けていた。
今宵こそはファの家に帰るべし、とアイ=ファは意気込んでいたのだが、やはり白の月の15日まではルウの集落に留まるのが無難であろうとドンダ=ルウに言い渡されてしまったのだ。
「ファの家は、どの家からも目の届きにくい場所にあるんだろうが? もしもそれで何十名もの敵に囲まれてしまったら、本当に貴様ひとりで家人を守りきれるのか?」
そんな風に言われてしまうと、さしものアイ=ファも唇を噛むしかなかったのだった。
で、その唇は今、これ以上ないぐらいにとがりまくってしまっている。
壁にもたれて片膝を抱えこみ、そっぽを向いて唇をとがらせているその姿は、残念ながら家長らしい威厳からはほど遠く、なおかつ幼い子供みたいに愛くるしかった。
だが、アイ=ファの不機嫌には、もうひとつ大きな原因があった。
すなわち、俺たちとともに空き家で腰を落ち着けている4名の人物の存在である。
それはルド=ルウと、シン=ルウと、バルシャと、レイト少年だった。
俺たちはルウの集落に留められるばかりでなく、これらの人々と同じ屋根の下で夜を過ごすように命じられてしまったのだ。
「いや、アスタたちは本家で休んでもいいんだぜ? 親父だって、そのほうがより安全だって言ってただろ。こいつらの見張りは俺たちが受け持つからよ」
ルド=ルウはそのように言ってくれたが、アイ=ファが応じるはずもなかった。アイ=ファにとっては、同じ家で過ごす人間の数が増えれば増えただけ不機嫌の度合いが高まるだけであったのだ、きっと。
まあ、どちらにせよ気分が落ち着かないという点では、俺も同様である。
「ふん。それにしても、ずいぶんとまあ可愛らしい人間ばかりをそろえたもんだ。こいつは夫を早くに亡くしたあたしを歓待してくれているつもりなのかねえ?」
広間の中央にどっかりと陣取ったバルシャが、果実酒をあおりながら豪快に笑う。
すでにこの人物と顔を合わせて数時間ばかりが経過していたが、やっぱりこれが女性であるとはなかなか信ずることができずにいる俺であった。
ディアルを男の子と見間違えてしまったときにはあらゆる人々に非難されることになった俺であるが、今回ばかりは誰にも責められることにはならないと思う。
とにかくまず、身体がでかい。身長は180センチオーバーで、肩幅は広く、胴体は図太く、腕や肩には小山のような筋肉が盛り上がっている。ジザ=ルウやガズラン=ルティムにも劣らない頑強なる体格の持ち主なのである。
粗末な布の服の上に革の胸当てを纏っているので、そこにも女性としての特徴を確認することはできない。あぐらをかき、果実酒の土瓶をかたむけ、恐れ気もなく俺たちを見返してくるその姿は、宿場町でもよく見る傭兵くずれの無頼漢さながらであった。
「あんたもなかなか腕は立つみたいだけどな。くれぐれも馬鹿な考えは起こさねーでくれよ? 客人だろうが何だろうが、ちっとでもおかしな動きを見せたら容赦しねーからな」
外見を取り沙汰されてムッとした様子のルド=ルウがきつめの声をあげると、バルシャは「おっかない坊やだねえ」と肩をすくめた。
「あんたたちが見た目通りの可愛らしい人間ではないってことぐらい、あたしにだって嫌ってほどわかってるさ。あたしひとりにここまで警戒してくれるなんて、まったく光栄なもんさね」
アイ=ファやルド=ルウたちは刀を備えているのに対して、彼女の持っていた半月刀は本家に預けられていた。
なおかつ、最初の内にこっそりアイ=ファに確認したところ、「息子ほどの手練ではないな」という話でもあった。
だが、森辺の狩人に恐れをなすような気性ではないらしく、彼女は出会ってから現在に至るまで、常に毅然と、時には傲然とふるまっていた。
その強い光を持つ黒みがかった瞳が、俺とアイ=ファのほうを見る。
「さて。それじゃああたしのほうも、用事を果たさせてもらおうかね。……ファの家のアイ=ファに、アスタだったっけ? あたしの息子ジーダと関わりを持ってるのは、あんたたちなんだろう? あの放蕩息子について、あんたたちの知ってる限りの話を聞かせておくれよ」
「はい。森辺で1番ジーダと関わりが深いのは、きっと俺でしょうね」
アイ=ファはふてくされモードを継続中であったので、俺が語ることになった。
どうやらこのバルシャという人物は、息子の行方を求めてジェノスにまでやってきた、というのが本懐であるようなのである。
「あたしは別に、今さら亭主の仇を取りたいだなんて考えちゃあいないんだよ」
日中に、バルシャはそう言っていた。
「あたしたちは、盗賊団だった。義賊だ何だともてはやされたって、法を犯していたことに代わりはないんだ。処刑の理由は見当違いでも、どっちみち処刑は免れようもない身の上だった。兵士どもに捕縛された時点で、ゴラムの命運は尽きちまっていたんだよ」
だから、伴侶と同胞を失った彼女は、唯一手もとに残された幼い息子を連れて、マサラの麓で隠遁生活を始めたのだという。
危険な肉食獣の生息する山で狩人として生きることが隠遁生活になってしまうというのもなかなか物凄い話であるが、とにかくそういう話であったのだ。
「だけど息子には、誇りをもって生きてほしかった。だから、父親のゴラムがどういう人間であったかを子守唄がわりに聞かせて育ててやったんだけど、そいつが裏目に出ちまったってことだね」
ジーダが狩人として一人前の力を身につけた頃、彼は冤罪をかけられて処刑された父親の仇を取るべきだという思いに至ったが、母親である彼女はそれを許さなかった。すると彼は山麓の家を飛び出してマサラの山中に引きこもってしまい、ひとりで狩人としての仕事に励み、母親の前に姿を現さなくなってしまったのだという。
それでもいつかは頭を冷やして戻ってくるだろうと、彼女も変わらぬ生活を続けていたのだが、ジーダは1年ばかりもかけてさらなる力をたくわえると、単身でジェノスに出奔してしまったのだ。
父親の仇である森辺の民が、宿場町でのうのうと商売を始めたらしいという噂を行商人から聞きつけて、である。
「……それじゃあ、あんたがその商売を始めた森辺の民だったってわけだね」
すべての話を聞き終えたのち、バルシャがぐっと顔を近づけてきた。
なめし革のような質感をした、よく日にやけた黄褐色の顔だ。
ぎょろりと目玉が大きくて、眉などはほとんどすりきれてしまっている。鼻も口も造作が大きくて、がっしりとした下顎はギバの骨でも噛み砕けそうである。
年齢は30代の半ばていどであろうか。とにかく唐獅子さながらの厳つい容貌だ。
「《赤髭党》に罪をおっかぶせた森辺の民ってのは、盗賊団よりも恐れられている無法者の集まりだっていう評判だった。ジェノスでも爪弾きの荒くれ者どもなんだから、放っておいたっていずれはそいつらも城の連中に処刑されるだろうって、あたしはそんな風にジーダを諭していたんだよ」
「はい」
「それなのに、その森辺の民がジェノスの宿場町で商売を始めて、しかもたいそうな評判を呼んでいるっていう話だったからねえ。それであの馬鹿息子も頭に血が昇っちまったんだろう。森辺の民は、どんな罪を犯しても許されるのかって具合にさ」
ジーダ本人も、確かにそのように言っていた。
だからこそ、彼も最初から俺の屋台に照準を定めて監視していたのである。
「まあ、ジェノスの裏事情ってやつはカミュア=ヨシュからもさんざん聞かされてきたから、今さらあんたを責めるつもりはないけどね。……それにまあ、あれだけ美味い料理だったら評判にもなるだろうさ。こんな森の中であんな美味い料理が食べられるだなんて、あたしは想像もしていなかったよ」
本日は、俺も晩餐の準備を手伝わせていただいたのだ。
ドンダ=ルウにも負けない食欲を発揮してそれらの料理をたいらげていたバルシャは、にやりと勇猛なる笑みを浮かべてから、また真剣な面持ちを取り戻した。
「だけど、黒幕が貴族様ってのは厄介な話だね。そんなもんを敵に回したら、なおさらジーダも無事では済まないじゃないか」
「はい。だけどジーダは、俺たちが本当にサイクレウスの罪を暴くことができるかどうか、それを見届けるまで動くつもりはないと言っていました。俺たちは、ジーダのためにもサイクレウスを何とかしなくてはならないんです」
「ジーダのためにも?」
「はい。森辺の民がサイクレウスを裁くことができれば、ジーダが手を血に濡らす必要もなくなるのでしょうから」
「ふうん。あんたたちは、ずいぶん義理堅いんだね」
「義理堅いというか――黒幕がサイクレウスだったとしても、実際に悪さをしていたのはスン家という森辺の人間たちだったんです。森辺の民がそれに責任を感じるのは当然のことなのでしょう」
自然、俺はバルシャのかたわらに控えているレイト少年のほうにも意識を向けることになった。
レイトはその、《赤髭党》がなすりつけられたザッツ=スンたちの大罪の被害者――全滅させられた商団の長の遺児であるのだ。
俺の視線に気づいて、少年はにこりと笑う。
「ザッツ=スンたちの罪が明らかにされた時点で、森辺の民の贖いは済んでいるようにも思えますけどね。後に残された森辺の民は、言ってみれば族長に裏切られた被害者の立場であるのでしょうし」
「そんなことねーだろ。けっきょく俺たちはあのカミュアっておっさんが動くまでは、ザッツ=スンたちがそれほどの罪を犯してたってことにすら気づけずにいたんだからな」
不機嫌そうにルド=ルウが言い返したが、レイトの笑顔に変化はない。
「それでもあなたたちは、カミュアが動く前にスン家を族長筋の座から引きずりおろしていたじゃありませんか。もしもあの時点でまだスン家が森辺の族長筋であったなら、森辺の民は今よりも苦しい立場に立たされていたと思いますよ?」
「……お前は俺たちを恨んでないのかよ?」
「父がザッツ=スンらに害されたのは、僕が生まれる前の話ですからね。
母もそれを追うように亡くなってしまいましたし、育ての親であるミラノ=マスも僕の前では森辺の大罪人について語ることはありませんでしたから、僕にはあまり自分が被害者であるという気持ちが育たなかったのです」
だけどレイトも、ザッツ=スンが捕らわれたときにはその頬を涙で濡らしていたのだ。
もしかしたら、ルド=ルウもその姿を見ていたのだろうか。今はにこにこと無邪気そうに微笑んでいるレイトの顔をにらみつけながら、ルド=ルウは黄褐色の頭をかき回した。
「お前さ、そーゆー生き方って疲れねーか?」
「ええ。まだ疲れを感じるほどの年齢ではありませんので」
10歳かそこらでそんな返答のできる子供が、果たしてこの世に何人存在するだろうか。
「何だか難儀な話だねえ」と、バルシャも眉をひそめている。
「でさ、話を戻させてもらうけど、ジーダがひょっこりこの集落に現れたりはしないもんかねえ?」
「さあ、どうでしょう。俺が最後に言葉を交わしたときも、今生の別れみたいな挨拶をされてしまいましたし。森辺の民に対してはそこまで友好的な気持ちは持っていないようなので、ちょっと難しいかもしれませんね」
「だけど、貴族に捕らわれたあんたのところに、わざわざ姿を現したってんだろう? 何の自慢にもなりゃしないけど、あいつが身内でもない人間のためにそこまで身体を張るってことはそうそうありえないはずなんだよねえ」
そう言って、バルシャは俺の姿をじろじろと眺め回してきた。
「あんたのことが、そうとう気に入っていたか……あるいは、恨む相手を間違えていたってことに罪悪感でも持っちまったのかね」
「そうですね。森辺の民も黒幕に操られていたに過ぎないと知ったときには、かなり衝撃を受けていた様子でした」
ファの家の前で、今にも泣きだしてしまいそうな顔をしていたジーダの姿を思い出す。
(すべての大罪人どもが死に絶えてしまっていたら……俺は誰に刀を振り下ろせばいいのだ……?)
ジーダは、そのように言っていた。
復讐が正しい行為だとは、俺には思えない。
だけどジーダや、バルシャや、レイトや、それにミラノ=マスなどは、富を求める悪辣な人間たちの陰謀により、家族を失ってしまったのだ。
ザッツ=スンたちは、10年の時を経てその罪を生命で贖うことになったわけだが、いまだ裁かれない人間が存在するなら、それはやっぱり放ってはおけないのだろうと思う。
「だけど、あたしなんかを引っ張り出したところで、貴族なんざに太刀打ちできるとも思えないけどねえ」
そう言って、バルシャは荒っぽく果実酒をあおった。
「確かにあたしは、《赤髭党》の連中が人を殺めたりはしていないってことを誰よりもよく知ってる。だけど、息子が生まれるまではあたしだってその《赤髭党》の一員だったんだ。盗賊だった人間の言葉なんかを城の連中が重んじるとは、とうてい思えないね」
「だけどあなたは、その城の人間と接触したこともあるのですよね? だからこそ、カミュアはあなたの存在がサイクレウスの罪の証しとなる、と判断したのだと思いますよ」
そう、それが本日俺たちに明かされた新事実であった。
何と《赤髭党》の面々は、冤罪をかけられる前に、サイクレウスの手下と接触していたらしいのである。
「本当にあれが城下町の人間だったのかはわからないよ? ただ、裕福そうな身なりをしていたってだけの話でさ」
「でも、その人物からバナームの使節団を襲うようにそそのかされたのですよね? たぶんサイクレウスは、ザッツ=スンを手駒にする前には、《赤髭党》こそを手駒にしようと画策していたんです。……と、カミュアはそのように言っていました」
その話は日中にも、族長たちの前で語られていた。
サイクレウスはもともと《赤髭党》を配下に置こうと画策しており、それに失敗したからこそ、性急に討伐隊を編成させたのであろう、と。
《赤髭党》とザッツ=スンの両方を利用しようとしていたのか、あるいは《赤髭党》の懐柔に失敗したため、ザッツ=スンのように扱いの困難でありそうな男を利用するしかなかったのか――さすがにそこまでは判然としなかったが、とにかく《赤髭党》に対してはそういう姿勢であったらしい。
「だけど、ひとつだけ腑に落ちないことがあるのですよね」
そこで俺は、日中から感じていた疑念を口にすることにした。
「そんなのは、《赤髭党》の面々か、あるいはサイクレウス陣営の人間にしか知り得ない裏事情ですよね。それなのに、カミュアは最初からあなたの存在が決め手になると自信満々の様子でした。彼はいったいどんな手を使ってそんな機密事項を入手することができたんでしょう?」
「機密事項もへったくれもないよ。あたしやゴラムは、最初っからあのカミュア=ヨシュと顔見知りだったんだから」
「……はい?」
「ちょうどそのあやしげな男にあやしげな話を持ちかけられた頃だったから、10年以上も昔の話になるんだね。まだ《守護人》としても駆け出しだったあのカミュア=ヨシュと、うちのゴラムが酒場か何かで出くわして、意気投合しちまったのさ。ひとつ間違えていたらあの金髪の坊やも《赤髭党》に入団することになっていたんじゃないのかね」
俺はへなへなと崩れ落ちそうになった。
どこまで人を翻弄すれば気が済むのだ、あの男は。
そんな俺の様子を眺めながら、レイトはまた微笑する。
「カミュアは10年以上も西の王国を放浪していますからね。僕でもびっくりしてしまうぐらい、さまざまな場所でさまざまな人々と縁を結んでいるのですよ。そうした縁の糸をつむぎ合わせて自分好みの絵を描くのが、きっとカミュアの生き甲斐なのでしょう」
「はあ……だからこれは、偶然じゃなく必然だっていうことなのかな?」
「はい。何百名もの人間との縁を持つカミュアが、今回は《赤髭党》や、僕や、ミラノ=マスや、ジェノス領主などとの縁の糸を選び抜いて、サイクレウスを打倒するという絵を描き始めたのでしょう。僕は、そんな風に解釈しています」
「まったく呆れたもんだねえ。そんなのはまるで、神様か何かが人間の運命を弄んでいるみたいな話じゃないか」
いくぶん不愉快そうにバルシャがそう述べると、レイトは可愛らしく小首を傾げた。
「それでもカミュアは、自分自身も1本の糸に過ぎないという自覚は持っているみたいなのですよね。だから、自分が一生懸命働かない限り、望むような結果は得られないのだと笑っていました」
「きっとあの金髪の坊やはいい死に方をしないだろうね。ま、あたしも人様にどうこう言えるような生き様じゃないけどさ」
そうしてバルシャは、強い視線で室内にいる人間全員を見渡した。
「何にせよ、この西の王国で真正面から貴族に逆らうなんて、無謀だよ。そんなことをしたって、勝ち目なんてありっこない。そう思ったからこそ、あたしの亭主だって盗賊団に身をやつして細々と反抗することしかできなかったのさ。……それでけっきょく、最後には処刑されちまったわけだしね」
「ええ。ですがカミュアはジェノス領主マルスタインと縁を繋ぎ、そこからメルフリードやポルアースという貴族たちを味方につけることに成功しました。このままでいけば宿場町の統治者であるサトゥラス伯爵家も巻き込むことができるでしょうから、そうなったらサイクレウスを孤立させることすら可能になるかもしれないのですよ」
そんな風に言ってから、レイトは俺のほうに視線を向けてきた。
「それにしても、森辺の民がすでにポルアースを担ぎ出しているとまでは、さすがにカミュアも予想できてはいませんでした。本当は、ジェノスに戻れないカミュアの代わりに、僕が明日にでもポルアースへと渡りをつける段取りになっていたのですけどね」
「うん、まあ昼間も話した通り、俺がドジを踏んでしまったせいで、あの御仁を頼らざるを得なくなってしまったんだよ」
「本当に大変でしたね。サイクレウスの娘がそのような真似に及ぶというのも、カミュアにとっては予想外のことでした。だけどそれをきっかけにしてサイクレウスを非難する気風が宿場町に生まれつつあるようなので、アスタがひどい目に合った甲斐はあるのだと思いますよ?」
それは良かった、と喜べる立場ではない。ルド=ルウもたいそう不機嫌そうな顔になってしまっている。
しかしレイトはあくまでも朗らかに笑いつつ、さらに言った。
「これは、カミュアがザッツ=スンたちを罠にかけようとしていたときと似たような状況なのかもしれませんね。あれこれ作戦を立てていたカミュアが動き出す直前に、森辺の民がみずから動いて、状況を望ましい方向に転がしてくれていたのです。同じ相手を敵に回しているのですから、それはおかしな話でもないのかもしれませんが、風はこちらに吹いているのだということを実感することができます」
「ねえ、坊や。あんたはカミュア=ヨシュの弟子だっていう話だけどさ。師匠の生き様をそのまんま真似る必要はないんじゃないかねえ?」
バルシャが、ドスのきいた声でレイトをたしなめる。
「人間には、ひとりひとり気持ちや感情ってもんが存在するんだ。そいつを忘れて他人や自分の運命を弄ぶような真似を繰り返していたら、最後にはひどい目に合っちまうかもしれないよ?」
「僕は別に、運命を弄んでいるつもりはありません。ただ、神の与える運命をそのまま享受していても、幸福に生きていくことはできないのかもしれないなと考えてしまっただけです」
「……そういう物言いがよくないって言ってるんだよ」
しかめ面で言ってから、バルシャは胸の前で五芒星を描くように指先を走らせ、口の中で何事かをつぶやいた。
西方神セルヴァに不敬の赦しを乞うたのかもしれない。
「何はともあれ、すでに賽は投げられてしまっているのです。サイクレウスの旧悪を暴くまで、カミュアは働き続けるでしょう」
「でもそのカミュアは、会談の日までには戻ってこられそうにないんだろう? すべてをザッシュマやメルフリードにまかせきりにして、カミュア自身に不安はないのかな?」
俺が口をはさんでみせると、レイトは「うーん」と可愛らしく考えこむ素振りを見せた。
「もちろんカミュア本人が間に合うに越したことはないのですが。あの北方に陣を張っていた護民兵団が、森辺の民の格好をした野盗というものを捕らえるために編成された討伐隊であったとしたら――それを突破するのは、少しばかり困難なのでしょうね」
「やっぱりサイクレウスは、カミュアと一緒にいる分家の男衆たちを野盗に仕立てあげるつもりなのかなあ?」
「そこまではわかりません。でも、僕たちが身体を休めていたバナームの町までにも野盗の話は伝わってきていましたから、カミュアもその考えは想定していると思います」
あの男は、遠く離れた異郷の地でも、やっぱりすっとぼけた笑顔を浮かべながらあれこれ画策しているのだろうか。
何となく虚脱気味の沈黙が落ち、それにあらがうようにバルシャが大きな声をあげた。
「あんたたちも、厄介な話に首を突っ込んじまったもんだね。狩人は狩人らしく山の中にこもっていれば、こんな面倒な話にもならなかったんじゃないのかい?」
「ええ。ですが、カミュア=ヨシュとは関係なく、森辺の民はサイクレウスと悪い縁を結んでしまっていたので……たぶん現在の状況は、どうやっても避けようのないことだったのだと思います」
「ふうん? もったいない話だねえ。こんなに立派な狩人が何百人もそろってる山なんてそうそうないだろうにさ」
するとルド=ルウが、少しいつもの感じの表情に戻って身を乗り出した。
「そういえば、あんたも狩人なんだろ? 俺、アイ=ファ以外に女の狩人を見るのは初めてなんだよな」
「ああ。あたしはもともとマサラの生まれだったからね。18の年で故郷を飛び出して、それでゴラムと出会うことになって――で、けっきょくはその新しい生活も失うことになって、家族も残っていない故郷に出戻ることになったわけさ」
「ふーん。でも、あんたは狩人の衣を纏ってないんだな。あのジーダってやつは何とかの豹って獣の毛皮を纏ってたって話だけど」
「ガージェの豹の毛皮だね。そんなもんを着込んでいたら、このあたりじゃあ目に立ってしかたがないだろう? だから、家に置いてきたんだよ」
日中から重苦しい話題ばかりであったので、そろそろみんなサイクレウスの話には倦んできたのかもしれなかった。
まあ、必要な情報はあらかた交換できている。ドンダ=ルウらも一応はこのバルシャの言葉を信用して集落に置くことを許したのだから、あとは白の月の15日を待つしかないだろう。
そんなことを考えながら、俺も肩の力を抜こうとしたのだが。
これまでずっと無言を通していたアイ=ファがふいに口を開いたので、思わずドキリとしてしまった。
「マサラのバルシャよ。それでは、あなたは……生まれながらに狩人の血筋であったというわけなのか?」
バルシャは頑丈そうな下顎をかきながら、アイ=ファのほうを振り返った。
「狩人の血筋だなんて、そんなたいそうなもんではないけどね。マサラの麓で生まれたからには、バロバロの鳥を狩るぐらいしか生きるすべがないのさ。ガージェの豹を仕留めて一人前と認められたのは、たしか15の頃だったかねえ」
「……私も初めてギバをひとりで狩ることができたのは15の年だった」
「へえ。ギバってのは、ガージェの豹に負けないぐらい凶暴な獣なんだろう? その細腕で、たいしたもんじゃないか」
と、バルシャは愉快そうに口もとをほころばせる。
雄々しくて猛々しい、それでいて魅力的な笑い方だった。
「だけど確かに、狩人らしい立派な目つきをしているね。マサラにだって、女の狩人はそんなに多くなかったよ。あたしみたいに大きく生まれつけばそれほど苦労はしないけど、やっぱり女の身で森を駆けるのは難儀だからねえ」
「……あなたは……」
「うん、何だい?」
「いや……あなたは狩人であるのに、子をなしたのか?」
俺は、息を飲んでしまった。
が、バルシャは変わらぬ様子で笑っている。
「さっきも話しただろう? ジーダを生んだのは、マサラを出た後のことだよ。家族が全員ガージェの豹にやられちまって、嫁の貰い手もなかったもんだから、あたしはいったん故郷を捨てたのさ。で、腕っぷしを買われて《赤髭党》に入団することになって、2年も経たない内にジーダを授かって――それから3年後ぐらいには夫も同胞もみんな亡くしちまったから、また狩人として生きていくことに決めたのさ」
「……そうか」
わけもなく心臓がどきついてしまう。
いや――わけなど、最初からはっきりしていた。
ルド=ルウが言っていた通り、彼女は俺たちが初めて目の当たりにする、アイ=ファ以外の女狩人であったのだ。
その点を意識せずに今まで過ごしていられたのは、やはりサイクレウスのほうに気が向いてしまっていたのと――あとは、バルシャが下手な男衆よりもよほど雄々しい容姿をしていたせいなのだろうか。
「マサラの女狩人も、たいてい子をなせば狩人の仕事はやめちまうよ。子供が生まれれば何年かは山に入ることもできなくなるから、そうこうしている内に狩人としての力を失っちまうんだよね」
「そうか」
「だけどまあ、あたしはもともと男にも負けない力を持っていたからね。他に銅貨を稼ぐ手段もなかったから、死に物狂いで狩人としての力を取り戻してみせたのさ」
「……そうか」
「たぶん、ジーダがいなかったらそんな力を振り絞ることもできなかっただろうね。あの子がいたから、あたしも自分の生をあきらめずに済んだんだよ」
「…………」
アイ=ファの顔には、いかなる表情も浮かんではいなかった。
ただその青い瞳には、何かをものすごく思い悩んでいるような光が宿ってしまっている。
俺はちょっといたたまれなくなり、他の人々に視線を向けてみた。
レイト少年は、にこにこと笑いながらふたりの会話を聞いている。
アイ=ファ以上に静かなシン=ルウは、窓の外に視線を向けており、油断なく外の気配をうかがっている様子だ。
そして、ルド=ルウは――俺と視線がぶつかるなり、おどけた感じでウインクをしてきた。
俺は意味もなく首を横に振り、それから小さく溜息をつく。
心臓は、ちっとも鎮まってくれない。
「ところで、あたしは白の月の15日までこの集落に引きこもっていなきゃならないんだよね?」
アイ=ファが黙り込んでしまったので、バルシャがルド=ルウのほうに視線を戻す。
「町には下りるなって話だったけど、まさかこの家から1歩も出るなとかは言わないだろうねえ?」
「さあ、どうなんだろうな。さすがに貴族どもも昼間から手下を忍び込ませることはできねーだろうけど。家の中にいるのが1番安全ってのは確かだろうな」
「冗談じゃないよ。4日間も外に出れないなんて、退屈すぎて死んじまうさね」
「そういう話は、親父にしてくれ。……ま、退屈だったら薪でも割ってりゃいいんじゃねーの?」
それはルド=ルウの軽口に過ぎないように思えたが、バルシャはたいそう嬉しそうに瞳を輝かせた。
「そうそう、そういう身体を使う仕事でもやらせてもらえるなら文句はないよ。何の仕事も果たさずに寝る場所と食事をふるまわれるってのも落ち着かない話だしさ。何とかあたしが退屈せずに済むように、あんたからも親父さんにお願いしてもらえないもんかね、坊や?」
「坊やじゃねえ。ルド=ルウだ」
「ああ、立派な狩人を坊や扱いするのは失礼だったね。どうかお願いするよ、ルド=ルウ」
すると、ルド=ルウのほうもちょっと楽しそうに、にやりと笑った。
「あんたは何だか、不思議な人間だな。普通の町の人間よりは、やっぱり俺たちに近いみたいだ」
「そりゃあ、あたしも狩人の端くれだからね。1度は故郷を捨てた身だから、この魂はマサラにあり、とまでは言えないけど……それでもやっぱり、賑やかすぎる町よりは山の中のほうが落ち着くのさ」
確かにバルシャは、町の民とも狩人ともつかない、不思議な雰囲気の持ち主なのかもしれなかった。
森辺の民ほど純朴ではないようだが、どこかに自由な魂を感じる。都の貴族に対しても、恐れているというよりは、あんな連中に関わるのは馬鹿らしい、とでも考えているようなたたずまいだ。
愛する伴侶を失ってしまったことに関しても、狩人が森に朽ちるのと同じこと――という風にとらえているのだろうか。
少なくとも、彼女がそれでも豪放にふるまっていられるのは、薄情さではなく強靭さが要因になっているように、俺には感じられた。
「ま、明日の話は明日にしようぜ。いいかげんに夜も更けてきたから、今日のところは寝ちまおう」
と、ルド=ルウは刀を手に取り、立ち上がった。
「あんたと坊主は奥の部屋だぞ。いちおう俺とシン=ルウで見張らせてもらうから、くれぐれもおかしな真似はしないでくれよな」
「ああ、せいぜいぐっすり休ませてもらうよ」
他の人々も、それにならって腰を上げる。
で、立ち上がる必要のない俺とアイ=ファの姿を、ルド=ルウが見下ろしてきた。
「アスタとアイ=ファはいっつも広間で眠ってるんだっけ? 部屋はいくらでもあるのに、変わってるよな」
「……ファの家には物を置く部屋しかなかったので、昔から広間で眠るのが常であったのだ」
「そっか。まあ好きにやってくれ。俺たちのことは気にしなくていいからよ」
と、口笛でも吹きだしそうな様子でルド=ルウは他の3名とともに去っていく。
広間の奥には通路があり、バルシャたちはそちらにある個室で休むのだ。カミュア=ヨシュを全面的には信用していないドンダ=ルウであるので、ルド=ルウとシン=ルウは彼らを監視しつつ交代で眠るのだろう。
で、広間に残された俺たちである。
静寂が、何やら重苦しい。
「あー……それじゃあ俺たちも休むとするか?」
「うむ」と応じつつ、アイ=ファは動かない。
金褐色の髪もきりりと結いあげたままだ。
しかたないので、俺はお先に身を横たえることにした。
そして、思う。
たとえマサラでは女狩人の存在が許されていたとしても――そして、バルシャが子をなしながら狩人としての仕事を続けていたとしても、そんな話は俺たちには関係ないのだ、と。
俺はこの世界で嫁を娶る覚悟が決まっていない。
そしてアイ=ファは、狩人として森に朽ちる覚悟を固めている。
そんな俺たちは、これまで通りの関係を続けていくのが正しいことなのだ――たぶん。
(でも……本当のところは、どうなんだろう)
アイ=ファの気持ちは、アイ=ファにしかわからない。
そして、それ以上に不明であるのが、自分自身の気持ちだった。
自分はいずれ、この世界から消えてしまう人間かもしれない。
そもそもどういう法則に則ってこの世界に存在しているのかもわからない。
そんな俺が覚悟もなく、嫁を娶ったり、子供をなしたりするのは間違ったことだろう。
だけど、覚悟とは何だ?
いずれ消えてしまうかも、なんて、いずれ死んでしまうかも、というのと何が異なるのだろうか?
俺は昨日まで、アイ=ファのいない数日間を過ごすことになった。
まるで生きた心地のしない、それは想像を絶する苦悩に満ちた数日間だった。
あのままアイ=ファと永遠に会えなくなってしまっていたら――俺は後悔せずにいられただろうか?
アイ=ファを失いたくないという思いを胸の中に秘め、それでも礼節や倫理観といったものどもで、最後の一線だけは踏み越えないように身をつつしみ――
それで俺は、後悔せずにいられるのだろうか?
そのとき、背中に熱を感じた。
しかしそれは想定内の出来事であったので、俺もそれほど驚いたりはせずに済んだ。
ただ、心臓だけが高鳴っていく。
「何も言うな」と、首のすぐ後ろからアイ=ファの声が聞こえてきた。
アイ=ファが、ぴったりと俺の背中に寄り添っているのだ。
その指先が、俺の肩のあたりをきゅっとつかんでくる。
「こうしてアスタとともに在ることができて、私は幸福だ」
アイ=ファは静かにそう言った。
「アスタとともに過ごせる今の生活に、私は何の不満も持ってはいない。私はすでに、満ち足りている。……それは偽りのない本心だ」
俺も心からそう思っているよ、と俺は心の中で答えた。
その幸福のさらに先に、足を踏み込む覚悟が俺にあるのか。
それ以上のものを求める気持ちが、アイ=ファの中には存在するのか。
そんな疑問を胸の奥深くに投げかけられることになった、今宵はそんな一夜だった。