②反撃の刃
2015.7/4 更新分 1/1
その後は《南の大樹亭》でも無事に話をまとめることができた。
ネイルよりもビジネスライクなおつきあいをさせていただいていたナウディスであったので、今度ばかりは愛想を尽かされてしまったのではないかと危うんでいたのだが、幸いなことに、想像をはるかに超える熱心さで仕事の継続を願われることになったのだ。
「確かに家内などは、これ以上森辺の民と縁を繋いでいくことは危険であると言い張っておったのです。森辺の民と穏やかならぬ関係であった貴族というのがトゥラン伯などという大物であったことが判明したのですから、なおさらですな」
ナウディスはそのように言っていた。
「しかし! 我が店は初めてアスタの料理を売り出した宿屋としても名をあげているさなかであったのです。今ここで手を引いてしまったら、その名を《玄翁亭》に譲ることになってしまうやもしれません!」
もしかしたら、南の民との混血であるナウディスは、俺が思っていた以上に《玄翁亭》に対抗意識を燃やしていたのかもしれない。
しかし、南と東の敵対感情は歓迎できないとしても、競争相手として意識するのは正しい商いの道なのだろうとも思う。
「それに、宿場町においてアスタの名声はこれまで以上に高まってしまっているのです。この状況でアスタとの縁を絶ってしまうのは、商売人の道にもとるというものでありましょう」
「は? 俺の名声とは何の話ですか?」
「それはもちろん、美食家として知られるトゥラン伯の娘がアスタの腕前を見初めたという話から生まれた名声であります。その話が知れ渡ったのは昨晩でありますが、わたしの店でもそれはもうたいそうな騒ぎであったのですぞ?」
「はあ。ですが、《南の大樹亭》でもレイナ=ルウの料理を取り扱っていたのですよね? ならば、彼女の腕前が俺に劣らないということも、食べ比べた人々にはわかることでしょう? 屋台でも、彼女たちの料理が売られていたわけですし」
「はいはい。ですが、ここ数日でジェノスを訪れたお客様がたは、いまだアスタの料理の味を知り得ませんからな。レイナ=ルウの腕前が確かであればあるほど、それではアスタの料理とはどれほどのものであるのかと期待を膨らませてしまっておるのです」
それは何とも高いハードルを設定されてしまったものである。
しかも、タウ油仕立てのギバ・スープにおいては、いったんレイナ=ルウに上を行かれてしまったこともある俺であるのだから、なおさらだ。
「確かに汁物料理に関して、アスタとレイナ=ルウの腕前に遜色はないようですな。しかし、わたしにとって1番美味と思える料理は、やはり『ギバの角煮』であります。むろん『肉チャッチ』も素晴らしい出来栄えでありましたし、それらの料理をあきらめる気持ちになれないというのも、わたしにとっては偽らざる本心であります」
ともあれ、ナウディスにも商売の継続を願われたのだから、これは喜ぶべき話であった。
そうして俺はネイルに伝えたのと同じ条件をナウディスに伝え、いよいようかうかしていられなくなったなあという思いを胸に、最後の目的地である《キミュスの尻尾亭》を目指したのであるが――
そこには、ちょっとした波乱の予兆みたいなものが待ち受けていたのだった。
◇
「おい、何だよありゃ?」
それに真っ先に気づいたのは、先頭を歩いていたルド=ルウであった。
その肩ごしに行く先の情景を確認した俺も、少しばかり息を飲んでしまう。
俺にとっては1番馴染みの深い宿屋である、《キミュスの尻尾亭》。
その、赤い屋根をした大きな建物のかたわらに、ででんと巨大な箱馬車ならぬ箱型の荷車が鎮座ましましていたのである。
「トトスの荷車か。さっき通ったときは、こんなもんなかったよな?」
ルド=ルウが警戒心もあらわに目を細めている。
しかし、俺とアイ=ファにはその正体がわかっていた。
2頭のトトスが繋がれた巨大な荷車、その車体の側面には見覚えのある家紋だか何だかがこれ見よがしに掲げられていたのである。
それは昨晩、俺とアイ=ファを城門まで運んでくれた荷車と同一の紋様であった。
「よお、ようやく姿を現したな」
と、その荷車の陰から大柄な人影が現れた。
たちまち腰に手をのばしかけたルド=ルウが「何だ、あんたか」と言い捨てる。
「危うく叩きのめすところだったじゃねーか。どうしてあんたがそんな格好をしてるんだよ?」
「こっちにも色々と事情があるんだよ。俺だって生命は惜しいからな」
まるでシムの民のように革マントのフードをかぶり、口もとには灰色の布きれを巻きつけた、それは《守護人》のザッシュマであった。
「森辺の民とダレイム家の縁を繋ぐのが俺だってことがバレちまったら、さすがに危険だろ? で、あっちの御仁は姿を隠す気がさらさらないんだから、しばらくは俺のほうが正体を隠すしかないってわけさ。ああ、人前で名前を呼ぶのも勘弁してくれよ?」
そんな台詞を吐きながら、フードの陰から覗く目もとは笑っていた。
まずは昨日の御礼を述べてから、この状況の仔細を問い質す。
「ポルアース殿が、さっそく出向いてきたんだよ。屋台に寄ったら宿屋を巡ってるって話だったから、ここで待たせてもらっていたんだ」
「それじゃあ、場所を移しませんか? この宿屋のご主人を巻き込むわけにもいきませんので」
「大丈夫だよ。これからは宿場町の人間全員が巻き込まれることになるんだから、特別に危険なことになりはしない。……だからこそ、《北の旋風》が戻ってくるまでは、あの御仁を頼りたくはなかったんだがなあ」
何とも不穏な発言である。
しかしそれでも、ザッシュマの目はまだ笑っていた。
「しかしな、あの御仁を担ぎ出すのは、《北の旋風》にとっても最初からの計画だったんだ。融通のきかないメルフリード殿だけでは、サイクレウスに対抗することは難しい。そういう意味では、数日ばかり計画が早まったってだけのことだ。……というか、本来であれば《北の旋風》もとっくにジェノスに戻っている予定だったんだがなあ」
「ますますわかりませんね。もうちょっと詳しく聞かせていただけませんか?」
「それは直接ポルアース殿に聞いてくれ。二度手間になっちまうからな」
しかたなしに、俺たちは《キミュスの尻尾亭》に踏み込むことになった。
まず待ち受けていたのは、仏頂面のミラノ=マスである。
「ああ、ミラノ=マス、あの――」
「ようやく来たな。貴族様は、食堂でお待ちかねだ。……ああ、余計な口は叩かなくていい。貴族様は白銅貨3枚で食堂を二の刻まで貸し切らせてほしいそうだ」
不機嫌そうな面持ちのまま、ミラノ=マスはそう言った。
「貴族なんざは気に食わない連中ばかりだが、これも商売だ。貸しているのは食堂だけなんだから、とっとと通ってくれ」
「はい、すみません」
ポルアースは生命の恩人であり、また、少なからず俺の持つ貴族へのイメージをいい意味で裏切ってくれる存在でもあったが、まだまだ不明な部分は多いし、こういう強引なやり口も少なからず辟易させられてしまう。
とにかく、ここでも俺に付きそうのはアイ=ファとシン=ルウになり、残りの4名は店の外を固めることになった。
《キミュスの尻尾亭》の食堂は、壁によってふたつのスペースに分けられている。その奥側のスペースとの境目にひとりの兵士が立っており、さらに進むと見覚えのあるふくよかな御仁が最奥の席で待ちかまえていた。
「やあやあ。元気そうだね、アスタ殿にアイ=ファ殿。僕はすっかり待ちくたびれてしまったよ」
6人掛けの卓に収まったポルアースが、短く太い腕をぶんぶんと振ってくる。ぺったりとなでつけた褐色の髪に、明るく輝く茶色の瞳、丸っこい身体を乳白色の長衣に包んだ、昨日見た通りの姿である。
その背後に、さらに2名の兵士が立ちつくしている。町の衛兵よりも立派な身なりをした、おそらくはダレイム家の私兵だ。
「さあ、楽にしてくれたまえ。果実酒でも準備させようか?」
「いえ、お気遣いなく。……あの、何か急報でもあったのでしょうか?」
俺は木の卓をはさんでポルアースの正面に座り、アイ=ファとシン=ルウはその左右に立ち並ぶ。
覆面姿のザッシュマは、俺たちを横合いから眺める審判役のような位置に陣取った。
「急報といえば急報かな! 僕もここまで話を急ぐつもりはなかったんだけど、朝方に戻った父上たちにこっぴどく叱られてしまってねえ。トゥラン伯に楯突くとは何事だ! 貴様はダレイム家を滅ぼすつもりか! と、そんな調子なのだよ。ジェノスの法を重んじた僕がどうして叱責されねばならないのか、まったく理不尽な話だよねえ」
喋るたびに、椅子や卓がぎしぎしと軋む。
「うーん、宿場町の店は嫌いでもないんだけど、ここはちょっと席がせますぎるね! 卓にお腹がつかえてしまうよ」
「はあ。……あの、あなたのような身分の御方でも、こうして気軽に宿場町まで足をのばすものなのですね。俺はちょっとびっくりしてしまいました」
「うん? それはまあ、ダレイム家はそこまで格式ばった家柄でもないからねえ。世が世なら、爵位などとうてい望める身分でもなかった。現在でも、よその町の領主には貴族と認められていないのじゃないのかな」
にこにこと笑いながら、ポルアースはそう言った。
「もともとはジェノス家こそが伯爵の身分に過ぎず、我々はそこに仕える騎士の家系に過ぎなかったのだよ。それがここ100年ばかりでジェノス家には侯爵の爵位が与えられ、トゥランとダレイムとサトゥラスには伯爵の爵位が与えられたが、そんなものは名ばかりさ。たとえば王都で祝事があっても、招かれるのはせいぜいジェノス侯のみだろうね。僕たちは辺境の果てで伯爵を名乗る田舎の成金貴族に過ぎないのだよ」
「はあ……」
「さらに言うなら、他者が羨むほどの富を有しているのは、ジェノス侯爵家とトゥラン伯爵家ぐらいのものさ。――これまでは、ね」
『あの御仁は、がめつい』
昨日、アイ=ファがザッシュマに聞いたというポルアースの人物評が脳裏に蘇る。
「だから僕は、そこのザッシュマ殿の――つまりはカミュア殿の計画に乗ることにした。領主たるジェノス家はまだしも、トゥラン家にばかり甘い汁を吸わせておくことはない。領民のすべてが豊かな生を得てこそ、ジェノスは初めて豊かな町であると他国に誇ることができるだろう。そうは思わないかね、アスタ殿?」
「それはまあ、その通り――だとは思いますが……」
こちらがせっつくまでもなく、話は核心に触れようとしているようだった。
ポルアースは丸っこい背中をさらに丸めて、俺のほうに身を乗り出してくる。
「それでは、お聞かせ願おうかな。……アスタ殿の持つ、ポイタンの秘密とやらを」
「はい? ポイタンがどうかしましたか?」
「シッ! 声が大きいよ。こちらが動く前にサイクレウス卿に気取られてしまったら、それこそ身の破滅だ。慎重の上に慎重を期さねば、革命はならないよ?」
「革命って――ずいぶん穏やかならざる話のようですね」
「大丈夫。穏やかでなくなるのはサイクレウス卿だけさ」
確かにポルアースは、穏やかな笑顔のままである。
「さきほどね、行きがけで屋台の軽食を購入させていただいたよ。あの料理で使われているフワノのような白い生地が、ポイタンであると――それは間違いのないことなのだろうね?」
「はい。それは間違いありませんし、べつだん誰にも隠してはいませんでしたが」
「それで何の騒ぎにもならなかったというのだから、驚きだよ! 味を確かめた従者の話によると、フワノと遜色のない味わいであったらしいしね。フワノと比べたら格段に安値のポイタンが、フワノに取って代わる食材になりえたら、どれほどの富を生み出すか! どうして今まで誰もその点に着目しなかったのだろうかねえ?」
「ちょ、ちょっと待ってください。フワノよりも安いポイタンが主食となってしまったら、むしろ生みだされる富は減ってしまうのではないのですか?」
「そんなことはないよ。フワノを作っているトゥランの富が減り、ポイタンを作っている農園の富が増す。つまりはそういう結果になるだろう?」
その言葉で、俺は記憶巣を刺激された。
誰にも隠していないと言いきってしまったが、その技術はなるべく秘匿するべきだと、俺は忠告されていたのだ。
誰あろう、カミュ=ヨシュその人に、である。
あれはたしか、この《キミュスの尻尾亭》で干し肉について談義をしていたとき――ララ=ルウの誕生日の少し前ぐらいのことだっただろう。
高価なフワノは城の人間に栽培され、安価なポイタンは町の人間に栽培されていると、カミュ=ヨシュは確かにそのように言っていた。だから、ポイタンの加工技術をうかつに広げてしまうと貴族の誰かが大変な損害を負い、恨みを買うことになってしまう、と。
そのときは、「貴族の誰か」と言葉を濁していた。
しかしその後、サイクレウスとの2回目の会談が果たされたとき、それが誰かは明かされていたのだ。
北方のトゥラン地区では、果実酒の原料であるママリアと、フワノの実が栽培されている。だから、同じママリアとフワノの実が特産品である、たしかバナームとかいう町との交易が進んでしまうとサイクレウスには都合が悪いため、ザッツ=スンを利用して通商を妨害した――
つまり、損害を受ける「貴族の誰か」とはサイクレウスのことであったのだ。
(少なくとも、ポイタンを美味しく食べられる調理法というのは、貴族に対しての刃になりうる存在なんだっていうことは、心の片隅に留めておくべきだと思う)
カミュア=ヨシュは、そのように言っていた。
(生きていくために、刀が必要な時はある。でも、使う時期を誤ると、それは味方をも傷つけかねないからね。取り扱いは、慎重にするべきだ)
俺は卓に肘をつき、深々と溜息をついた。
けっこう長いこと顔を合わせてもいないのに、俺はまだカミュア=ヨシュの手の平から足を踏み出せていないらしい。
「ようやく話が見えてきました。ポイタンの新しい調理法というのは、サイクレウスに対して強烈な武器になりうる、ということなのですね?」
「ああそうさ。君だって、カミュア殿からそのように聞いていたのだろう?」
「ええ、ものすごく遠回しにですが。……だけど、そのような形でサイクレウスに打撃を与えても、得をするのは農園や町の人たちだけでしょう? あなた自身が利益を得る話でもないのに、それはかまわないのですか?」
「ああ、そっちのほうは知らされていなかったのか。僕たちダレイム家に与えられているのは、その南方の農園の領土なのだよ。その農園で働く小作の農民たちこそが、僕にとっての領民なのさ」
それでようやく腑に落ちた。
だからこそ、この人物が「最後の手段」であり、また、サイクレウスに対する刃そのものであったのだ。
「これはとてつもない話だろう? フワノとポイタンの関係を逆転させることができれば、それはすなわちトゥラン家とダレイム家の力関係を逆転させることにも繋がるんだ! ちょっと身震いしてくるような話じゃないか」
そんなことを言いながら、ポルアースは変わらぬ面持ちでのほほんと笑っていた。
「や、やっぱりちょっと待ってくださいね。それは有効な作戦なのかもしれませんが、他の貴族の方々は大丈夫なのですか? そんな市場をひっかき回すような真似をして、たとえばジェノス侯爵その人まで敵に回すような羽目にはならないのでしょうかね?」
「うん? ジェノス侯には何の損にもならない話じゃないか? まあトゥラン伯爵家が没落してしまえば、最初の内は城下町にも影響が及んでしまうだろうけども、その分をダレイム家がまかなえば、けっきょく同じことなのだからね」
さっぱり意味がわからなかった。
そんな俺の顔色を見て取ってか、ポルアースが姿勢を改める。
「アスタ殿は、このジェノスという領土について、今ひとつ理解が及んでいないようだね。まあ確かにこの町はいささかならず特殊な形態で統治されている。町としてはほどほどの規模を持つジェノスであるけれども、それが4つに分割されて4つの家で統治されているというのは、ちょっと他に例がないのだろうと思うよ」
「はあ……」
「それはきっと、規模のわりに大変な豊かさを持つジェノスをひとつの家だけで統治させるのは危険である、とかいう王都の意志が働いてのことなのだろう。さきほども説明した通り、今からおよそ100年前に、3つの家に爵位が与えられ、ジェノス侯爵とともにこのジェノスを統治していくことになった。領主はあくまでもジェノス侯爵だけれども、北方の果樹園はトゥラン家が、南方の農園はダレイム家が、宿場町はサトゥラス家がそれぞれ管理するよう、王都からは命じられているのだよ。だから、城下町における豊かさが損なわれない限り、ジェノス侯には不満の生まれようもないってわけさ」
まさかこのような場所でジェノスの内部構造について拝聴することになろうなどとは思ってもみなかった。
横目で確認してみると、アイ=ファやシン=ルウはひたすら無表情にポルアースの言葉を聞いている。
「で、ほんの数十年前までは、3つの伯爵家でそれほど富に勝り劣りは存在しなかった。土壌は豊かであるけれどもそこまで領地の広くないトゥランではひたすらフワノとママリアだけが栽培され、痩せ気味の土地ではあるけれども広大なる農園を有するダレイムではさまざまな野菜が栽培され、そこからもたらされる恵みにより、城下町も宿場町も栄えた。――しかし、あのサイクレウス卿が当主になったとたん、トゥランだけが飛躍的に富を増大させることになったのさ」
「そこに何か、非人道的なやり口があったと?」
「非人道的、なのかなあ。サイクレウス卿は、北方から大量の奴隷を買ってきて、彼らを働かせ始めたのだよ。現在でも、トゥランの果樹園で働く人間の過半数は奴隷なのではないのかな。……それで、多くの民が仕事を失い、宿場町やダレイムの農村に移り住むことになった。おかげでこちらも税収は伸びたのだけれども、それ以上にトゥランでは富をたくわえることがかなったようなのだよね」
そこに奴隷がからんでくるのか。
いよいよ不穏な話になってきた。
「あとは、君たちのほうが詳しいぐらいじゃないのかな。商売仇になりうるバナームの使節団を襲わせたり、実弟のシルエル殿を護民兵団の団長に据えさせたり――他にもきっと色々な手を使って、サイクレウス卿は富と権力の増強に励んできたのだろう。ほんのこの30年ばかりで、トゥラン伯の力はジェノス侯にも匹敵するぐらい膨れ上がってしまったのだよ」
「……はい」
「だからここで、革命が必要になるのだよ! 何だかんだ言って、トゥランの富を支えているのはフワノとママリアの恵みだ。そのフワノよりも手軽に栽培できて安価で売りさばくことのできるポイタンをジェノスの主食にのしあげることができれば、トゥラン伯の富は半減する。そして、その分の富はダレイム家のみならずすべての領民に還元されることになるのさ!」
ポルアースの瞳は、きらきらと輝いていた。
「もちろん1番の恩恵を賜るのは、ポイタンを作る農民たちであり、その領主であるダレイム家だろう。だけど何度も言う通り、ポイタンというのは非常に安値で手に入る食材だ。ポイタン1個分の重さのフワノを得るには、たしか1・5倍ほどの銅貨が必要になるんじゃなかったっけな」
「はい、たしかそれぐらいだったと思います」
「ふむ! もちろんフワノだってそこまで高価な食材ではないのだから、1日における差額は微々たるものだろう。しかし、塵も積もれば何とやらだ。それでジェノスの領民たちが浮いた銅貨を他のものに費やせば、今までよりも豊かな生活を得ることが可能になるんじゃないのかな」
「ですが、その場合はトゥランの人々が貧しくなる、ということですよね」
「うん。だけどトゥランの荘園で働いているのは、報酬の不要な奴隷ばかりだからねえ。そういった奴隷の働きによって生み出された富は、のきなみサイクレウス卿の手もとに集まる仕組みになっている。トゥランの奴隷ならぬ領民たちに関して言えば、ママリアやフワノの栽培とは関係のない仕事に従事している者たちばかりなのだから、それほど大きな影響は出ないのだろうと思うよ?」
トゥランの炭焼き小屋で働いているというミケルの姿を思い出す。
確かにミケルは、宿場町の人々よりも豊かな生活を送っているようには見えなかった。
「そしてこれだけの壮大な計画であるならば、宿場町を治めるサトゥラス家の支援を得ることもできるだろう。僕の父上や兄上だって、ぐうの音も出ないはずさ! ……もちろん、ジェノス侯マルスタインだってね。ジェノス侯は生粋の実力主義だから、僕たちが自力でトゥラン伯を打倒することには、何の文句もないはずだよ?」
「だけど、そんなに上手くいきますかね? 味や栄養に遜色はなかったとしても、長年主食として食べられてきたフワノを駆逐するだなんて……」
「何も完全に駆逐する必要はないさ。気位の高い城下町の民ならば、そうそう簡単に宗旨替えもしないだろうしね。……しかし、宿場町や農村の人々が安値の食事を忌避する理由はないはずだ! あとは、やり方次第なのじゃないかな」
俺はザッシュマのほうを振り返った。
ザッシュマは、目もとで笑いながら小さく肩をすくめている。
(ここまでは、カミュアの計画通りってことか……)
俺は小さく溜息をつく。
ポルアースは、それを見逃さなかった。
「不安なのかね? 僕も不安だよ! だけどね、放っておいても、いずれサイクレウス卿は君たちがポイタンを美味しく加工しているという事実を知るだろう。そうしたら、森辺の民だけがサイクレウス卿の怒りを買うことになってしまう。ならばその技術はすみやかに市井に広めてしまって、怒りのぶつけようのない状態にしてしまったほうが安全なのではないのかな」
「……はい」
「その段取りは、僕が整えよう! 僕だって、暗殺者の影に怯えるのは御免だからさ! サイクレウス卿に気取られる前に、ポイタンの素晴らしさをジェノス中に伝えてみせるよ!」
そう言って、ポルアースはにっこり微笑んだのだった。
◇
「……何だかとんでもない話になってきちまったな」
3人の兵士を引き連れてポルアースが辞去したのち、俺はアイ=ファにそう呼びかけてみた。
しかしアイ=ファは「そうか?」と首を傾げている。
「私にはべつだん、こちらに害のある話だとは思えなかった。特別な技術を個人だけが持つのは危険である、という話は以前からも出ていたではないか」
「ああ、家長会議でスン家の女衆に調理の技術を伝えたときの話か。だけど今回は、その規模がとてつもないからなあ」
「どうせ上手くいくかもわからぬ話なのだ。今から気に病んでもしかたあるまい」
腕を組んで俺たちを見守っていたザッシュマも、「そうだな」と笑いを含んだ声で同意を示す。
「どの道、サイクレウスとの対決は5日後に迫っている。そんなわずかな期間でどうこうなる話でもないのだろうから、とりあえずは相手の動揺を誘えればそれで十分、ぐらいに考えておくべきだろう」
「うーん、その割には町に与える影響が甚大すぎる気もするのですが」
「しかたあるまい。肝要なのは、それで他の貴族たちを味方につけられるかもしれない、という点なのだからな。サイクレウスの栄華も永久に続くものではない、と思わせない限り、そのような真似は不可能だろう?」
ザッシュマは、覆面の上から頬を撫でさする。
「こちらにとってはメルフリード殿が旗印であるがな。いかんせん、あの御仁は融通がきかなすぎる。法こそが絶対であると信じる人間だけでは、法の裏をかこうとする人間に打ち勝つことは難しいんだよ」
「はあ……」
「だからこそ、昨日だってポルアース殿を頼らざるを得なかったんだよ。城内のメルフリード殿に何とか状況を伝えられたとき、あの御仁はサイクレウスの館を捜査すると約束してくれたが、正式な手順を踏んでいたら、たぶん今日の中天ぐらいまでは動けなかっただろうからな」
それでは俺の身もどうなってしまっていたかわからない。
ザッシュマの判断は、まさしく英断だったのだろうと思う。
「何にせよ、ややこしい話はこっちで受け持つ。何やかんやと頼ることも少なくはないだろうが、それまでは今まで通り自分の仕事に励んでくれていればいい」
そんな言葉を残して、ザッシュマも食堂から出ていった。
それと入れ替わりに、ミラノ=マスがずかずかと踏み入ってくる。
「さ、そろそろ約束の刻限だろう。客が来たら、通させてもらうぞ?」
「あ、はい。どうもすみません。またご迷惑をかけてしまって」
「お前さんは謝ってばかりだな。本当に申し訳ないと思っているなら、謝らずに済むような生活を心がけろ」
これには返す言葉も見つからなかった。
ミラノ=マスは、昨日からずっと怒った顔をしたままである。
「それで? 今日はこれでもう帰るのか?」
「はい。そろそろ族長たちもトゥランから戻ってくるはずなので、どんな風に話がおさまったかを聞いてみるつもりです」
本当は、ミラノ=マスとじっくり語り合いたかったからこそ、《キミュスの尻尾亭》への来訪を最後に定めていたのである。
申し訳ない気持ちを胸いっぱいに抱え込みながら、俺は最優先で伝えるべきことを伝えておくことにした。
「あの、俺がまた宿場町で働けるようになるかは、その会見の結果次第となってしまうのですが、今後もミラノ=マスと変わらぬおつきあいを続けさせていただくことは可能なのでしょうか?」
「……うちの店では今でも森辺の民に屋台を貸し出しているのに、お前さんの申し出だけを断る理由があるか?」
「いえ、それだけではなく、現在は調理の手ほどきをしていた最中でもありましたし」
「あんなものは、お前さんが何の見返りもなく奉仕しているだけの話だったではないか」
「いえ、いずれギバ肉を取り扱っていただきたいという目論見があるのですから、俺にとってはそれも立派な商売の一環です」
ミラノ=マスは筒型の帽子を取り去って、褐色の頭をぼりぼりとかきむしった。
「騒ぎを起こしたのは貴族どものほうなんだから、お前さんに非がある話でもない。……最近はこちらが世話をかける立場であったのに、お前さんにそこまで下手に出られてしまったら、俺はどのような態度を取ればいいのだ?」
「あ、いえ、何か困らせてしまったのなら、申し訳ありません」
「……だから、むやみに頭を下げるなというのに」
どうもミラノ=マスとは長いつきあいであるのに、こうしてギクシャクしてしまうことが数多い。
俺が未熟なためなのか、単に相性の問題なのか――だけど、いつでもあけっぴろげな善意をぶつけてくれるドーラの親父さんと同じぐらい、俺はこの頑固で口の悪い親父さんのことを大事な存在だと考えていた。
「とにかくな、俺の店はお前さんから何の被害もこうむってはいない。おかしな心配はしていないで、まずは自分の身を守ることを1番に考えろ」
「はい。ありがとうございます」
ともあれ、ミラノ=マスも俺のことを見限らずにいてくれたようだった。
こっそり安堵の息をつきながら、俺は次なる話題に移る。
「それではですね、料理の献立についてもひとつお伝えしたいことがあるのですが――」
『キミュスのつくね』には、梅干しに似た干しキキのディップで味付けをするのが最適ではないかと、俺はミラノ=マスに伝えてみせた。
帽子をかぶりなおしながら、ミラノ=マスは片方の眉だけを吊り上げる。
「干したキキの実か。そいつは酒のつまみで欲しがるお客も少なくはないが――ずいぶんとまた素っ頓狂な取り合わせだな」
「俺としては、かなりおすすめなのですよね。キキの実をすり潰してキミュスにあえるだけなので、良かったら試してみてください」
これでようやく城下町で得た経験をひとつだけ活かすことができた。
そんなことを考えていたら、アイ=ファにTシャツのすそを引っ張られた。
「そういえば、アスタよ。私が昨晩食べさせられたあの料理は、いったい何なのだ?」
「うん? ああ、あれはキミュスの唐揚げだな」
「あれは、不思議な味だった。……あの料理はギバの肉でも作ることは可能なのか?」
「うーん、ギバだと少し作り方を変えて、『ギバ・カツ』っていう料理を試してみたいんだよな」
「ぎばかつ……」
俺はミラノ=マスを振り返る。
「あの、レテンの油っていうのは、宿場町で取り扱うことはできないのでしょうかね?」
「レテンの油? そんなものは、名前ぐらいしか聞いたこともないな。どうせ俺たちには不相応な値段なのだろうさ」
「そうですか。それなら、カロンの乳とか、キミュスの卵とかはどうなのでしょう? やっぱり高価な食材なのでしょうか?」
「卵なんざは、キミュス屋にいくらでも売っているだろう。俺だって朝方にはちょくちょく食べているよ」
「え、それじゃあどうして厨房には置いていないのですか?」
「卵ってのは、肉の代わりに使われるものだ。そんなもんを客に出すのは、うんと格安の宿屋だけだろうさ」
「えーと……それじゃあつまり、肉よりは安価であるものの、肉と一緒に出すには経費がかかるし、卵だけでは貧乏くさいと、そんなような解釈で当たっているのでしょうかね?」
「ふん。まあ大きくは外れていないだろう。貧しい民ならば晩餐でも肉ではなく卵ばかりを食べているはずだからな」
「では、具体的にお値段は如何程なのでしょう?」
赤銅貨1枚で4個、とのことであった。
奇しくも、ポイタンと同じ価格である。
それならば、食材のひとつとして組み込んでもやりくりはできるような気がする。
「あとは、カロンの乳だったか? そんなもんを仕入れる酔狂な人間は、少なくともこの宿場町にはいないだろう。カロンってのは、このあたりじゃあダバッグの町でしか育てられていないんだから、運んでいる間に腐っちまうんじゃないのか?」
「いや、ダバッグっていうのはジェノスから半日の距離ですよね? カロンの乳は2、3日ぐらいは持つらしいので、すぐに腐ってしまうことはないと思います」
だけどやっぱり、保存性の悪さからカロンの乳は敬遠されているのかもしれない。腐ったら捨ててしまえばいい、という貴族様とはそこが異なるのだ。
「カロンの乳なんて、どういう使い道があるのかもわからんな。値段だって、果実酒より安いことはないはずだ」
それは、宿場町で売られている果実酒こそが安価であるためだ。1リットルぐらいもあって赤銅貨1枚というのは、相当リーズナブルだと思う。
たとえば、赤銅貨1枚を200円に換算してみると、ポイタンやキミュスの卵は50円、アリアは40円、『ギバ・バーガー』は400円、カロンの足肉は業者価格で100グラムが74円、一般価格で160円ということになる。
それで、果実酒もカロン乳も1リットルで200円ということになれば――果実酒がたいそう安価で、カロン乳は少しだけ高価である、と俺などには思えてしまう。赤ワインと牛乳が同じ価格なら、それはワインのほうが安すぎるな、という感覚だ。
ちなみにこの計算でいくと、タウ油は1リットルで2000円、ギャマの乾酪は1キロ足らずで4000円にもなるのだから、どれほど輸入品が高額であるかもご理解いただけるだろう。
さらに言うなら、シュミラルから購入した菜切り刀は36000円で、ディアルから購入した肉切り刀は24000円だ。
ギルルの引く荷車がちょうど肉切り刀の10倍の価格でしかないことを考えると、金属製品が高価であることもうかがい知ることができる。
「カロンの乳が果実酒と大差のない値段で買えるのなら、俺はいずれ購入してみたいですね。そういう話は、ダバッグから来る肉売りの商人に聞いてみればいいのでしょうか?」
「知らんが、おそらくはそうだろう。この時期なら、3日にいっぺんぐらいは顔を出しているぞ」
「そうですか。ありがとうございます」
あとは乾酪や乳脂を自分たちで作製することができるかどうかと、脱脂乳の使い道だ。このあたりのことは、ダバッグの商人から情報を得るしかない。
「あ、あと、フワノの粉というのはどこに行けば手に入るのでしょう? トゥランまで出向かなくてはならないのでしょうか?」
「いや。フワノ屋は宿場町に店をかまえている。露店の区域ではなく、この宿屋の並びにな。……お前さんたちはポイタンを使っているのに、今さらフワノをどうしようっていうんだ?」
「いえ、フワノにはフワノなりの使い道があるような気がしますので。ちょっと色々研究してみたいんです」
あまり欲張っても手が回らなくなりそうなので、今日のところはそれぐらいにしておいた。
キミュス屋とフワノ屋で、卵とフワノ粉を購入する。それだけでも、ギバ料理にバリエーションをつけることは可能だろう。
(案外、1番最初に完成させられるのは『ギバ・カツ』かもしれないな)
そんな風に考えながら、アイ=ファの姿を盗み見る。
アイ=ファに新しい料理を食べさせることができるかもしれないと考えただけで、俺の胸にはとめどもなく幸福感があふれかえってしまった。
あの煉瓦造りの館では味わうことのできなかった感覚だ。
何だか胸が詰まってしまいそうである。
大事な相手に趣向を凝らした料理を食べさせることができる。その幸福を取り戻すことができたのだということを、俺は今さらながらに実感することがかなったのだった。




