森辺の恋(下)
2015.6/24 更新分 2/2
そして、祝宴の日がやってきた。
祝宴は、マァムの集落で執り行われることになった。
マァムやリリンの家は小さいので、あまり大勢の眷族を呼ぶことはできない。祝宴に参加するのは両家の家族たちと、あとは眷族の代表者が数名ずつ、合計で30名ていどのささやかな宴である。
ミンの家からは、本家の長姉アマ=ミンと、分家の長兄が参加することになった。
ルティムの家からは、本家の長兄ガズラン=ルティムと、分家の次姉が参加したようだった。
婚儀の宴には未婚の若い衆を参加させるというのが、ルウの眷族の習わしであったのだ。
しかし、日が落ちて儀式の火が灯され、宴の開始とともに食事がふるまわれても、アマ=ミンとガズラン=ルティムが言葉を交わす機会はなかなか訪れなかった。本家の跡取り息子をよこしてくれたルティムの厚意を喜んだマァムとリリンの家長たちが、ガズラン=ルティムを離してくれなかったのだ。
しかしまあ、人の目にあふれた祝宴のさなかに、あまりガズラン=ルティムと気安い口をきくわけにもいかなかったので、アマ=ミンはたいそう複雑な気持ちを抱え込みながらも、大人しく祝宴を楽しんでいた。
「よー、ひさしぶりだな。あんた、ミン家のアマ=ミンだっけ?」
と、陽気な声とともに小柄な人影が近づいてくる。
それは、ルウ本家の末弟ルド=ルウだった。
「ああ、おひさしぶりです、ルド=ルウ。レイの祝宴以来ですね」
「そうだっけ? ま、ルウとミンはそんなに家も近くないからなー」
ルド=ルウはすでに15歳になっていたが、色気よりも食い気のほうがまさっているようで、あまり女衆にも遠慮がない。
ゆえに、アマ=ミンもこの少年のことを割り合い気に入っていた。
「ティト・ミン=ルウはお元気ですか? 先日の祝宴では言葉を交わす機会がなかったのですが」
「ティト・ミン婆は相変わらずだよ。でも、ジバ婆のほうがちょいと心配だな。毎日めそめそ泣いてばかりで、赤ん坊と同じぐらいの食事しか食べようとしねーんだよ」
「そうですか。それは心配ですね……」
「うん、心配だ」と、ルド=ルウは手に持っていたギバの足肉をかじり取った。
「それにしても、マァムの集落ってちっちぇーんだな。家なんて3つしかねーじゃん」
「はい。その内で使っているのは2つだけのようですね。リリンを除けば、眷族でも1番小さな氏族ですから」
「そのリリンは全員ひっくるめても5人の家族しかいないんだっけ? 考えられねーな! ルウなんて、本家だけでも12人いるのによ」
「それでもマァムの次兄が婿入りすれば6名になりますし、子が生まれれば7名です。懸命に生きていけば、やがて力も得られるでしょう」
言いながら、アマ=ミンは祝宴の場に視線を巡らせる。
広場とも呼び難い小さな空き地の真ん中に儀式の火が燃えており、その向こうのささやかなやぐらには花嫁と花婿が座している。
オレンジ色の炎に照らされて、それでも花嫁は誰よりも美しく、花婿は誰よりも勇壮に見えた。
人数は少ないがその分敷地もせまいので、祝宴の場はたいそう賑やかに盛り上がっている。その中にガズラン=ルティムもいるはずであったが、ちょうど儀式の火が邪魔になって、アマ=ミンにはその姿を確認することができなかった。
「そういえば、本当はあんたがマァムの次兄を婿に取るはずだったんだっけ?」
「ええ。半月ほど前に、その話はなくなってしまいましたが」
「だったらさー、あんた、ルウの嫁に来ない? 次兄のダルム兄がもう19だってのに嫁を取ろうとしないんだよ」
アマ=ミンは閉口してルド=ルウの顔を見つめ返した。
が、ルド=ルウは罪のない顔で肉を噛んでいる。ただの思いつきを口にしただけなのかな、とアマ=ミンはこっそり首を傾げた。
「ルウの次兄というと、あの、とても鋭い目つきをした黒髪の男衆ですね? あの御方は、ルウの家長にも負けないぐらい勇猛な気性であるように見受けられますが」
「そうだなあ。気の短さは、親父譲りかな」
「それだと、わたしがお相手ではいさかいが絶えないかもしれませんね。わたしもけっこう荒っぽい気性をしておりますので」
「そうなのか? そんな風には見えねーなー。でも、それだったらダルム兄には合わなそうだな」
アマ=ミンは、ほっと息をついた。
(だけどやっぱり、ルド=ルウみたいな男の子でもそういうことを心配するんだなあ)
森辺の民は、健やかな生を過ごすために、さまざまな仕事を果たしている。伴侶を選び、子をなすというのも、森辺の民にとっては大事な仕事のひとつであるのだ。
ギバを狩るために、若くして生命を散らす男衆は多い。それでも一族の血を絶やさないように、若い内からたくさんの子をなし、育む必要がある。だからこそ、人々は婚儀というものをこれほどに尊び、最大限の祝福を贈るのだろう。
(それは別に間違ったことじゃない。ただ――わたしはそのために自分の気持ちを殺すのが嫌なだけなんだ)
だから自分も、自分の幸福と一族の繁栄を重ね合わせられるように、一刻も早く伴侶に相応しい相手を見つけるべきなのだろう。アマ=ミンは、そんな風に考えている。
(伴侶を愛する気持ちが強ければ強いほど、それは一族の力にもなるでしょう……なんて、ガズラン=ルティムはそんな風に言ってたっけ)
おそらくは、ガズラン=ルティムもアマ=ミンと同じように考えているのだ。
そうであるからこそ、伴侶に相応しい相手と巡り逢えるかどうかを、あれほどに気に病んでいたのだと思う。
(でも、ガズラン=ルティムぐらい立派な男衆だったら、いずれ相応しい伴侶を見つけることはできるよ。わたしみたいに可愛げのない女なんかじゃなくて――もっと、是が非にでも嫁に迎えたい、と思えるような女衆をさ)
ちくりと胸が痛んだような気もしたが、それは気にしないことにした。
アマ=ミンは、ガズラン=ルティムをかけがえのない友人だとまで思えるようになっていたのだ。
そして、ガズラン=ルティムも同じような気持ちを抱いているらしいということを、強く感じている。
アマ=ミンには、それで十分だった。
ガズラン=ルティムがいつか伴侶を迎えるまで、ああしてときどき言葉を交わし、温かい気持ちを得られるだけで十分だ。
そうしておたがいに年を重ね、子供をなし、それが立派に育つぐらいにまで生きのびることができれば、また人の目を気にすることなく言葉を交わせる日もやってくることだろう。
そんな日が来ることを夢見ながら生きていくのも、悪くはない――アマ=ミンは、そんな風に考えていた。
「おお、そこにいるのはルウ家の末弟ではないか」
と、ふいに背後から野太い声に呼びかけられた。
振り返ると、そこには途方もなく巨大な人影が立っていた。
マァム本家の長兄、ジィ=マァムだ。
「遠路はるばるご苦労であったな。このように小さな宴でも楽しめているのかな?」
「ああ、ジィ=マァムか。楽しんでるぜー。肉も野菜もどっさりで言うことなしだな」
「ふん。しかし、ルウの集落で行われる祝宴とは比べ物にもならぬだろう。早く我々も一族総出で祝宴を行えるような力を得たいものだ」
どうやらジィ=マァムは果実酒が過ぎているようだった。
もともと荒い気性をしているが、幅広の顔が赤黒く染まっており、目も据わってしまっている。ルウの眷族でも随一の大男と評されるほどの巨漢であるので、アマ=ミンは少なからず警戒心を誘発された。
しかし、ルド=ルウのほうはふた回り以上も巨大なジィ=マァムを前に、無邪気に笑っている。
「そうだなー。別に家の大きさなんて関係なく、呼べる人間は全員呼んじまえばいいのにな。眷族を祝福したい気持ちは、みんな一緒だろ?」
「……馬鹿を抜かすな。ルウの眷族は百余名、その人数の腹を満たす食事をマァムやリリンに準備できるはずがないではないか」
「ああ、そうなのか。だったら準備できるようにギバ狩りの仕事を頑張るしかないな」
「……お前は、我々を愚弄しているのか?」
ジィ=マァムの声が物騒な気配をはらむ。
ルド=ルウは、けげんそうに眉をひそめた。
「別にそんなつもりはねーよ。でかい宴が開きたいなら、その分のギバを狩るしかないっつー話だろ? でかい祝宴を開きたいって言い出したのはあんたじゃねーか」
「だからそれが、我々を愚弄していると――」
「あの」と、アマ=ミンは口をはさむことにした。
「宴の大きさなど関係ありません。この場に来れなかった眷族たちも、家ではおふたりを祝福していることでしょう。その気持ちの尊さに変わりはないはずです」
ジィ=マァムの酔いで濁った目が、じろりとアマ=ミンを見る。
「ああ、ミンの家のアマ=ミンか……このたびは、俺の弟がたいそうな恥をかかせてしまったな」
「いえ。わたしは別にそれを恥とは考えていません」
「そんなことはなかろう。祝宴の日取りを決めようという段で婚儀を取りやめるなど、本来であれば許されぬことだ。ミンの人々の温情には、我々も強く感謝している」
言葉の内容は殊勝であるが、アマ=ミンを見下ろすジィ=マァムの目には、あまりよくない感じの光が灯ってしまっていた。
「ところで、アマ=ミンよ……その恥を俺にすすがせてもらうわけにはいかぬだろうか?」
「いえ、ですからわたしは――」
「気づけば俺も、19になってしまったからな。17になったばかりの弟に先を越されてしまうとは情けない限りだ。……しかしアマ=ミンも17であるならば、むしろ弟よりも俺のほうが釣り合いが取れるのではないだろうか?」
ジィ=マァムの顔に、野卑な笑みが浮かぶ。
やはり、酩酊しているのだ。
たとえ荒っぽい気性をしていても、普段はこれほど横暴にふるまう男衆ではないはずだった。
あともう少しだけでも他者を思いやるという気持ちを大事にしていれば、その年齢まで嫁取りを断られ続けることもなかっただろうに、とアマ=ミンは内心で溜息をつく。
「申し訳ありませんが、わたしは今、誰にも嫁ぐ気持ちを持っていませんので――」
「俺は弟のように約定を違えたりはしない! さすがに跡取りの身であるのでミンの家に婿入りすることはかなわないが、マァム本家の長兄への嫁入りであれば、ミンの格を落とすことにもならぬであろう?」
「なあ、嫁取りを申し込むなら家長を通したほうがいいんじゃねーの? アマ=ミンはずいぶん困ってるみたいだぜ?」
頭の後ろで手を組みながら、ルド=ルウがそう言った。
ジィ=マァムは陰気に燃える目でそちらをにらみつける。
「お前は黙っていてもらおうか、ルウの末弟よ。親筋の人間といえども、眷族の嫁取り話に口をはさむ権限はないはずだ」
「親筋とかどうでもいいよ。ただ、そんなに酔ってたら上手くいく話も上手くいかなくなると思うぜ?」
「やかましい! いいから黙っていろ!」と、ついにジィ=マァムが大声をあげてしまった。
周囲で楽しげにざわめいていた眷族たちが、何事かと振り返る。
「申し訳ありません。この場は失礼いたします。また後日にゆっくりとお話をうかがわせてください」
アマ=ミンは頭を下げ、人混みにまぎれようとした。
が、その肩をジィ=マァムにつかまれてしまう。
「何も逃げることはない。俺は外見ほど恐ろしい男ではないのだぞ、アマ=ミンよ」
鈍い痛みが、アマ=ミンの肩を走り抜けていく。
酔っていて、力の加減ができていないのだ。
アマ=ミンはその痛みをこらえつつ、遥かな高みにあるジィ=マァムの顔をにらみつけた。
「別にあなたを恐ろしいと思っているわけではありません。ただ不愉快だからこの場を去りたいと願っただけです。この手を、放してください」
「ほう、ずいぶん気丈な一面もあるのだな。ますます俺の嫁に相応しいぞ、アマ=ミンよ」
強い力が、アマ=ミンを引き寄せようとする。
それにあらがいながら、アマ=ミンは視界の端でルド=ルウがすっと両手を下ろすのを確認した。
これでは荒事になってしまう、とアマ=ミンが唇を噛んだとき――
「何をしているのですか、ジィ=マァム」
穏やかな声が、アマ=ミンの背後から投げかけられてきた。
「未婚の女衆の肌に触れるなど、森辺の習わしに背く行為でありましょう。その手を、お放しください」
こんなときでも沈着なのだな、とアマ=ミンは少し笑ってしまいそうになった。
その鼻先を通りすぎていった指先が、アマ=ミンの肩をつかんでいたジィ=マァムの右手首を握りしめる。
「ぐっ」と低い声が響くと同時に、アマ=ミンの肩は解放された。
アマ=ミンはよろめき、背後に立ちはだかっていた人物に背中をぶつけてしまう。
「大丈夫ですか、アマ=ミン?」
もちろんそれは、ガズラン=ルティムだった。
数日ぶりに見る精悍な顔が、普段通りの柔らかい微笑をたたえている。
「くそ、放せ! ……ルティムの長兄、ガズラン=ルティムか」
ガズラン=ルティムの手を振り払い、ジィ=マァムが後ずさる。
「いったい何なのだ? 関係のない者はひっこんでいろ!」
「関係がなくはありません。眷族が無法なふるまいをしていたら、それを掣肘するのが眷族のつとめでありましょう?」
そう言って、ガズラン=ルティムはアマ=ミンの隣に進み出た。
「めでたい弟御の婚儀の場です。騒ぎを起こすのはやめましょう」
「やかましい! 俺はアマ=ミンと大事な話をしていたのだ! 余計な口をはさむな!」
「……大事な話をされていたのですか?」
アマ=ミンは、ぷるぷると首を振ってみせる。
腕が触れそうなぐらい近くに立ったガズラン=ルティムからは、ジィ=マァムにも劣らない力と熱がはっきりと伝わってきていた。
「アマ=ミンにとっては大事な話ではなかったそうです。何にせよ、ジィ=マァムは少し頭を冷やす必要があるのではないでしょうかね」
「やかましいと言っているんだ! 文句があるなら、狩人らしくその腕で俺を退けてみろ!」
ジィ=マァムがそんな風にわめくと、下ろしかけていた手をまた頭の後ろで組んだルド=ルウが「やめとけよー」と声をあげた。
「あんた、狩人の力比べでガズラン=ルティムに勝てたことはねーだろ? 恥の上塗りになるだけだぜ?」
「力比べだと? ふん、なるほどな! お前たちはあのような戯れ事で勝ち名乗りをあげているから、そんな風にでかい顔をしているわけか」
ジィ=マァムが、ぐっとガズラン=ルティムのほうに右拳を突き出す。
赤ん坊の頭ぐらいはありそうな、巨大な握り拳である。
「力比べでは、この拳を使うことが禁じられている! そうでなくては、この俺がお前たちなどに遅れを取るものか! 何の制約もない闘いであれば、この俺にまさる勇者など森辺には存在しない!」
「……あなたは何か勘違いをされているようですね、ジィ=マァム」
その巨大な拳を見つめながら、ガズラン=ルティムはあくまでも静かに言った。
「私たちの手は、人を殴るためにあらず、刀を握るためにあるのです。あなたのような怪力の持ち主が本気で人間を殴ってしまったら、きっと拳のほうが砕けてしまうことでしょう。人間の指の骨とは、それほど頑丈には出来上がっていないのですよ。……そんなことで刀を握れなくなってしまったら、ギバを狩ることもできなくなってしまうではないですか?」
「そ――」
「そのようなこともわからずに、あなたは力比べの儀に取り組んでいたのですか? そもそも狩人の力比べとは、恵みをもたらす森に感謝を捧げる神聖な儀式です。それを戯れ事などと呼んでしまう人間に狩人を名乗る資格はありません」
「な――」
「すみやかに立ち去ってください。ただしその前に、アマ=ミンに無礼をはたらいたことを詫びていただきましょう」
アマ=ミンはびっくりして、ガズラン=ルティムの顔を振り仰いだ。
ジィ=マァムほどではないが、うんと高いところにあるガズラン=ルティムの顔は――普段通りの穏やかな表情をたたえつつ、ただその双眸に強い狩人の炎を燃やしていた。
「ふざけるな! 20を越して嫁を娶ることもできない半端物め!」
ジィ=マァムが、拳を振り上げる。
アマ=ミンは、悲鳴をあげそうになった。
しかし、ジィ=マァムの拳は空を切り、その手首をつかんだガズラン=ルティムが何気ない動作で腰を屈めると、その巨体はふわりと地面から持ち上がった。
そのまま空中で一回転して、ジィ=マァムの巨体は背中から地面に叩きつけられる。
今度こそ、その場にいる全員がガズラン=ルティムのほうを振り返った。
「な、な、何事だ? ガズラン=ルティム、これはいったい――?」
と、大あわてで駆け寄ってきたのは、他ならぬマァムの家長であった。
すみやかに身体を起こしたガズラン=ルティムが、そちらに一礼する。
「ジィ=マァムが狩人にあるまじき言動を繰り返したため、粛清いたしました。ですが、果実酒を召されすぎたための蛮行であったのでしょう。手荒な処置になってしまいましたが、酔いがさめれば本人も自分の不明を恥じると思います」
マァムの家長は、空気を求めるように口をぱくぱくと開閉させた。
それを横から眺めながら、ルド=ルウも「そーそー」と声をあげる。
「親父やジザ兄がいたら、こんなもんじゃ済まなかっただろうなー。これがマァムの跡取りだってんなら、もうちょい性根を鍛える必要があると思うぜー?」
「めでたい祝宴のさなかに失礼いたしました。ジィ=マァムの介抱をお願いいたします」
そんな風に言ってから、ガズラン=ルティムはふいにアマ=ミンの指先をつかんできた。
アマ=ミンが驚きの声をあげる間もなく、「こちらに」と手を引かれてしまう。
「あ、あの、ガズラン=ルティム、いったいどうされたのですか?」
ガズラン=ルティムは、答えない。
そうしてアマ=ミンは指先に熱と力を感じながら、人気のない暗がりへと導かれることになった。
「すみません。少々、取り乱してしまいました」
ようやく足を止めたガズラン=ルティムが、慌てた様子でアマ=ミンの指先から手を離す。
「それに、申し訳ありません。ジィ=マァムに森辺の習わしを説きながら、私もうっかり手を触れてしまいました」
「そのようなことは、いっこうにかまいませんが……」
答えながら、アマ=ミンは解放された指先を、今度は自分の手で包みこむことになった。
「でも、どうしてこのような場所にまで移動したのですか? きっとマァムの家長らは驚いてしまっていると思いますよ?」
「ああ、そうですね。……ただ、人目を気にして言葉を取りつくろうのが面倒だと思っただけなのです。あまり感情を抑制できる自信がなかったので……」
アマ=ミンには、さっぱり意味がわからなかった。
ガズラン=ルティムの目は、そんなアマ=ミンの顔ではなく左肩を見つめているようだった。
「その肩は、大丈夫なのですか?」
「肩? 肩がいったい何だというのです?」
「痛みはないのですか? ジィ=マァムの指の痕がはっきり残ってしまっています」
アマ=ミンは驚いて、自分の肩に目を落とした。
月明かりの下、確かに何本かの指の痕が青黒く刻まれているのが見て取れる。
「ああ、本当ですね。でも、大した痛みではありません」
「女衆の身に傷をつけるなんて、とんでもない話です。薬をもらってきましょう」
「大丈夫です。このような暗がりにわたしを置いていかないでください」
甘えた声にならないよう気をつけながら、アマ=ミンはそう言った。
まだちょっと狩人の火を残したガズラン=ルティムの目が、じっとアマ=ミンを見つめてくる。
「あまり心配をかけないでください。ジィ=マァムの大きな声が聞こえて、アマ=ミンが肩をつかまれている姿を見たときは、心臓が止まりそうになってしまいました」
「まあ、大袈裟です。スン家の荒くれ者でもあるまいし、ジィ=マァムがそれほどの狼藉をはたらくわけはありません」
「アマ=ミンをこのような目に合わせただけで、十分な狼藉です」
そう言って、ガズラン=ルティムは自分の額に指先を押し当てた。
「そのおかげで、私も思わず手加減を忘れてしまいました。骨などが折れていないといいのですが、いささか心配です」
「……ジィ=マァムには気の毒でしたが、ガズラン=ルティムがわたしなどのためにそこまで取り乱してくれるなんて、とても光栄だし、とても嬉しいことですね」
「私は、アマ=ミンがこのような目に合ってしまうのはちっとも嬉しくありません」
「どうもご心配をおかけしました。……それに、おひさしぶりですね。お元気そうで何よりです」
アマ=ミンは何とかこの場を取りなそうと精一杯に明るく微笑みかけてみせたが、ガズラン=ルティムの厳しい眼差しに変化はなかった。
ただ、何度か大きく呼吸を繰り返し、自分を落ち着けようとはしている。
「それでは、みなのもとに戻りましょうか。すべてを見ていたルド=ルウが釈明をしてくれていると思いますが、ガズラン=ルティムももう少し言葉を重ねておくべきだと思います」
「待ってください。……ほんの少しだけ、私に時間をいただけませんか?」
「はい、何でしょう?」
アマ=ミンは居住まいを正して、ガズラン=ルティムの言葉を待った。
ガズラン=ルティムは、強い眼差しでアマ=ミンを見つめている。
ただ、その顔はやっぱり沈着で、穏やかだった。
「……お美しいですね」
「はい?」
「アマ=ミンの宴衣装はこれまでにも何度か目にしているはずなのですが……今日は、ひときわ美しく見えてしまいます」
「そのような言葉を伝えるために、わたしを引き止めたのですか?」
アマ=ミンは、上目づかいでガズラン=ルティムをにらみつける。
頬のあたりに、熱を感じながら。
「いえ、そうではありません。……アマ=ミンは、リリンの長姉の姿を見ましたか?」
「見ないわけがないでしょう? とっても素敵な花嫁衣装でした」
「はい。あの姿を見て、私はようやく答えを得ることができたのです」
「答え?」
「ええ。自分の中にいつまでもわだかまっていた疑問の答えをです」
ガズラン=ルティムの表情に変化はなかった。
ただその双眸がますます強い光を帯びていく。
「私はアマ=ミンのことを、かけがえのない友人と思っていました。その気持ちは、今も変わりはありません」
「はい」
「それと同時に、アマ=ミンのことを魅力的な女衆だとも思っていました。その気持ちにも、やはり変わりはありません」
「……はい」
「それでどうして、アマ=ミンのことを嫁に迎えたいとは思えなかったのか、その理由が、ようやくわかったのです」
「まあ……そうなのですか?」
アマ=ミンは驚きに目を見開いた。
その胸に、またちくちくとした痛みが走り抜けていく。
「それはちょっと興味深いお話かもしれません。わたしにはいったい何が欠けていたのか、それを教えていただけますか?」
「いえ。アマ=ミンには何も欠けていませんでした。欠けていたのは、私のほうであったのです」
「ガズラン=ルティムに……? それはいったい……」
「自信です」
ガズラン=ルティムは、はっきりとそう言った。
アマ=ミンは、目をぱちくりとさせてしまう。
「自信、ですか……? でも、ガズラン=ルティムはルウの眷族でも指折りの狩人であり、ルティムという大きな家の跡取りではないですか? この森辺の集落に、ガズラン=ルティムほど立派な男衆はそうそう存在しないと思いますが……」
「しかしアマ=ミンは、そういった事柄で伴侶を決めたりはしないのでしょう? マァムの次兄だって、非の打ちどころのない立派な狩人であったのですから。……それとも、彼がルウやルティムの人間であれば、アマ=ミンも伴侶として相応しいと思えたのでしょうか?」
「まあ、ひどいことを仰いますのね。わたしは家の大きさで人間の価値を決めたりはしません。そのようにお話ししませんでしたか?」
「聞きました。だからこそ、私も自分に自信が持てなかったのでしょう。このような自分がアマ=ミンに伴侶として認められるはずがない、と」
アマ=ミンは、息を飲む。
ガズラン=ルティムは、さらに静かな声で言った。
「そしてアマ=ミンは、伴侶に迎えたいと思えるような男衆と巡り逢うまでは自由の身でいたい、とも仰っていました。それは正しい気持ちであり正しい考えであると、私も心の底から共感していたのです。あなたはかけがえのない友であったので、何としてでもあなたの意志を尊重したい、と私には思えてしまったのです」
「いえ、それは――」
「だけど私は、リリンの娘の花嫁衣装を見てしまいました」
ガズラン=ルティムに言葉をさえぎられたのは、たぶんそのときが初めてのことであった。
アマ=ミンは、激しく鼓動を打ち始めた心臓に手を当てる。
「それで、痛切に思ってしまったのです。アマ=ミンが花嫁衣装を纏うとき、その隣に立つのは絶対に自分でありたい、と」
「でも……だけど、わたしを嫁に迎えるつもりはない、と――」
「それは、アマ=ミンの心情を尊重したかったからです。言い換えると、自分にとってどれほど魅力的に思える相手でも、相手が自分のことをそのように思っていなければ意味がない、と考えてしまっていたのです」
「それは……」
「アマ=ミンも言っていたでしょう? マァムの次兄とリリンの長姉のように、おたがいがおたがいを求め合っている関係性こそが素晴らしいのだ、と。その言葉にも、私は共感しました。だから私は、私ひとりがアマ=ミンを求める行為に意味はない、と考えてしまったのだと思います」
そうしてガズラン=ルティムはいったんまぶたを閉ざしてから、また強い目でアマ=ミンを見た。
「だけど、ようやくわかりました。私にとってはアマ=ミンこそが理想の女衆であったのですから、あとは自分が努力をして、アマ=ミンに相応しい男衆になればいいだけのことであったのです」
「ガズラン=ルティム、あの……」
「すみません。私はこれから、自由でありたいと願うアマ=ミンの意志を踏みにじってしまいます」
そう言って、ガズラン=ルティムは再びアマ=ミンの指先に手をのばしてきた。
アマ=ミンは反射的に手を引きそうになってしまったが、ガズラン=ルティムの指にはまったく力が込められておらず、まるで生まれたての赤子にでも触れるかのように、ふわりと柔らかくアマ=ミンの指先を包み込んできた。
「ルティム家のガズラン=ルティムは、ミン家のアマ=ミンに嫁取りを申し込みます。どうか私の伴侶になってください、アマ=ミン」
「…………」
「私はこの世の誰よりも、あなたのことを愛しています。そして、あなたに愛されるに相応しい男になれるよう、この生命が尽きるまで力を惜しまぬことを誓います」
「ガズラン=ルティムは……本当に女衆の心情がわかっていないのですね……」
アマ=ミンの声は、少しだけかすれてしまった。
「どうしてわたしが、ガズラン=ルティムのことを伴侶に相応しくないと思っている、なんて決めつけてしまうのですか……? わたしは、とても胸が苦しいです」
ガズラン=ルティムは、困惑したように眉を下げてしまう。
その顔を見つめながら、アマ=ミンはガズラン=ルティムの指先を握り返した。
「ガズラン=ルティムは、どうぞ変わらずそのままでいてください。その約束を守っていただけるならば、アマ=ミンは嫁取りの話をお受けいたします」
アマ=ミンの指先から、ガズラン=ルティムの指先が逃げていく。
次の瞬間、強くて逞しい2本の腕が、力まかせにアマ=ミンの身体を抱きすくめてきた。
そうして文字通りアマ=ミンの自由を奪ってから、ガズラン=ルティムは「ありがとうございます」と震える声で囁いた。
途方もない幸福感が、アマ=ミンの全身を駆け抜けていく。
頑丈な胸板が頬や口もとに押しつけられて、呼吸をすることさえままならなかった。
心臓が、破れてしまいそうなぐらいの勢いで暴れ始める。
「……家長に話を通さない限り、正式な契りは結ばれませんよ……?」
「誰であろうと文句は言わせません」
「……未婚の女衆に手を触れるのは、森辺の習わしに反するのではないのですか……?」
「時と場合によりけりです」
さらなる力が、アマ=ミンの身体と魂をしめあげてくる。
アマ=ミンは、五体が砕け散りそうになるほどの幸福感に翻弄されながら、最後の言葉を振り絞った。
「ひとつだけ……言葉づかいだけは、改められるように努力してくださいね……?」
「わかったよ、アマ=ミン」
気づくと、ガズラン=ルティムの精悍な面がアマ=ミンの目の前にあった。
それも森辺の習わしには背く行為です、と言いかけたアマ=ミンの唇は、ガズラン=ルティムの唇にふさがれることになった。
そうしてアマ=ミンとガズラン=ルティムは、この夜に一生をともにする伴侶を得ることがかなったのだった。
マァムの集落に灯された儀式の火は、まるでそんな彼らをも祝福してやろうとばかりに、いつまでも明々と激しく荘厳に燃えさかっていた。