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異世界料理道  作者: EDA
第十一章 石の館
203/1675

~箸休め~ 森辺の恋(上)

2015.6/24 更新分 1/2


ひさびさの箸休めです。

来週中には本編も再開できると思いますので、いましばらくお待ちくださいませ。

「ああ、今日もお会いすることができましたね」


 中天にはまだいくばくかの時間を残した、森の端において。

 ひとり川辺でピコの葉を摘んでいたアマ=ミンは、背後から近づいてきた大柄な人影にゆったりと微笑みかけた。


 精悍な面に沈着な表情をたたえた、背の高い森辺の男衆。

 ルティム本家の長兄ガズラン=ルティムである。


「お元気そうで何よりです。今日もおひとりで散策ですか?」


 アマ=ミンの言葉に、ガズラン=ルティムも「ええ」と穏やかに微笑み返してくる。

 その、頭ひとつ分も高い位置にある青年の顔を見つめ返しながら、アマ=ミンは小首を傾げてみせた。


「だけど、ガズラン=ルティムとこのような場で出くわすのは、この10日ほどでもう3度目になりますね。ルティムとミンの集落はそれほど離れていないとはいえ、少し不思議に思えてしまいます」


「そうですね。それ以前には1度も顔を合わせたことはなかったのですから、それを思うと確かに不思議な偶然です」


 そのように述べてから、ガズラン=ルティムは彼らしくもなく眉を曇らせた。


「しかし、今日に限って言えば、私はまたアマ=ミンに再会できぬものかと思いながら森を散策していました。なので、もしかしたら自分でも意識しないままにアマ=ミンの姿を捜してしまっていたのかもしれません」


「まあ、そうなのですか?」


 ガズラン=ルティムにそのような言葉を聞かされても、アマ=ミンが不穏なものを感じることはなかった。

 彼がどれほど誠実で信頼に足る人物であるかということは、これまでのやりとりでアマ=ミンにも痛いほど理解できていたのである。


「何かお話ししたいことがあるのでしたら、ぞんぶんにお聞かせください。この前お会いしたときは、ずいぶん長々とわたしの話ばかりをお聞かせしてしまいましたので」


「申し訳ありません。そのように言っていただけるだけで、私も心が休まります」


 ガズラン=ルティムは、非礼にならぬ距離までアマ=ミンに近づいてきた。

 アマ=ミンはピコの葉の載せられた草かごを足もとに下ろし、それと向かい合う。


 本当に、溜息が出るほどに立派な姿をした男衆である。

 ただ背が高いだけでなく、狩人として申し分ない雄渾な体格をしている。

 それでいて、その眼差しは誰よりも静かで澄みわたっており、何か余人には見えぬものまで見通しているような聡明さが感じられる。


 木漏れ日の差し込む薄明るい森の中、ガズラン=ルティムは普段通りの落ち着いた声音で、言った。


「実は――私のほうでも、婚儀の話が持ち上がってしまったのです」


「まあ」と、アマ=ミンは驚きに目を見開く。


「それはおめでとうございます。ルティムの家長もさぞかしお喜びのことでしょう」


「ええ。父ダンは私がなかなか嫁を娶らぬことを気に病んでいたので、それは我がことのように喜んでくれています」


 そのように語るガズラン=ルティムの顔は、しかし彼らしくもなく打ち沈んでいるような様子だった。


「しかし……私はどうにも、心が定まらないのです」


「そうなのですか? お相手はどなたなのでしょう?」


「ルウの本家の長姉である、ヴィナ=ルウです」


「ああ、あのお美しい――」と言いかけて、アマ=ミンはまた小首を傾げる。


「――ですが、ルウ家のヴィナ=ルウはレイの分家の家長に嫁ぐという話ではありませんでしたか? たしか家の者がそのように話していたと思うのですが……」


「はい。そちらとは話がまとまらなかったので、私のほうに話が持ち上がってしまったのです」


「それがご不満なのでしょうか? ルウ本家の長姉であれば、ルティム本家の跡取りの嫁としても申し分ないように思えるのですが」


「それはその通りなのでしょう。しかし私には、ヴィナ=ルウを嫁に迎えるという実感がまったく持てないのです。彼女に対しては何の不満もなく、この縁談を断る理由もどこにも見当たらないのですが……」


「まあ」と、アマ=ミンは再び驚かされた。


「それはつまり、このわたしとまったく同じ心情に陥ってしまったということなのでしょうか?」


 アマ=ミンは、つい先日に眷族のマァム家と婚儀の話が持ち上がったところであった。

 相手はマァム本家の次兄であり、ミン本家の長姉であるアマ=ミンのもとに婿として迎える段取りになっている。こちらも組み合わせとしては申し分ない、と言われている縁談であった。

 だけどアマ=ミンは、その話にまったく実感を持てていなかったのだ。


 マァムの次兄とは、何度か言葉を交わしたことがある。ガズラン=ルティムに劣らず誠実で、寡黙ではあるがとても情の深そうな、立派な狩人の男衆であった。マァムよりは力のあるミン家の立場を慮って、婿に入るとも言ってくれている。どこにも何にも落ち度のない、これぞ良縁という巡り合わせであった。


 しかしそれでも、アマ=ミンにはその人物を婿に迎えるという実感を、これっぽっちも持つことができなかったのだ。


「不思議な巡り合わせですね。たまたまこうして口をきく機会を得たわたしたち2人が、同じ時期に同じ境遇となって同じ気持ちを抱くことになるだなんて」


「私も本当にそう思います。……ですが、このような心情を包み隠さず打ち明けられるのは、自分とまったく同じ立場であるというアマ=ミンぐらいのものですので、私はこの偶然をかけがえのないものだとも思っています」


「そうですか。それではぞんぶんにお気持ちをお聞かせください。この前はわたしがガズラン=ルティムを頼るばかりであったので、これでご恩を返すことがかなうというものです」


 そう言って、アマ=ミンはにっこりと微笑んでみせた。

 このように立派なガズラン=ルティムに頼られるというのは非常に誇らしいことであったし、また、彼がそのように自分の弱さをさらけ出してくれることが、アマ=ミンにはたいそう嬉しかったのだ。

 そんなアマ=ミンの笑顔につられたように、ガズラン=ルティムも口もとをほころばせる。


「何となく、そのように言ってもらえるだけで、少し気持ちも落ち着いてきたようです。このような不安を抱いているのは自分だけではない、と思えるのは、やはり心強いものですね」


「そうですね。何だかわたしのほうまで余計に力を得た気分です。……他のみんなも、婚儀の前にはこのような不安感を抱いてしまうものなのでしょうか」


「どうでしょう。もともと思いを寄せていた相手であったならば、この上ない幸福感が得られるのだろうと思うのですが」


「もともと思いを寄せていた相手、ですか……わたしにはあまりわからない感情ですね」


「ええ。私にもわかりません」


 ガズラン=ルティムの真面目くさった返答に、思わずアマ=ミンはくすくすと笑ってしまった。


「わたしはまだ17になったばかりですが、ガズラン=ルティムはたしかもう23になられているのですよね?」


「いえ。先日ついに24の齢を重ねてしまいました」


「それなのに、女衆に心をひかれたことが1度もなかったのですか?」


「はい。……いえ、この女衆はとても聡明である、とか、とても美しい容姿をしている、とか、そういった気持ちを抱くことは珍しくもないのですが、それを嫁に娶りたいという気持ちに重ねることができないのです。そのように生半可な気持ちで一生をともにする相手を選んでしまってよいものなのか、と……」


「なるほど、ガズラン=ルティムらしいお考えですね」


「だからまあ、こんな風に理屈っぽく考えてしまうところが、自分の未熟な部分なのだろうと思います」


「そんなことはありません。それは自分の感情をきちんと言葉に置き換えることができるという、ガズラン=ルティムの美点なのではないでしょうか? 多くの人間は、自分が何を不安に思っているかもわからぬまま、流れに身をまかせているのだろうと思います」


 と、少し勢いこんで言ってから、アマ=ミンは少し反省する。


「すみません。わたしも家族に理屈っぽいとたしなめられることが多いので、つい感情的になってしまいました」


「アマ=ミンでも、そのように感情を抑えきれなくなることがあるのですね」


 ガズラン=ルティムは気分を害した様子もなく、楽しそうに笑ってくれている。

 アマ=ミンは少し気恥ずかしくなり、それを誤魔化すためにおどけた仕草で肩をすくめてみせた。


「わたしは理屈っぽいかもしれませんが、根っこの部分では気性が激しいのです。婚儀を終えた後、婿に愛想を尽かされてしまわないか、少し心配です」


「心配はご不要でしょう。とても魅力的だと思います」


 そんな風に言ってから、ガズラン=ルティムは口もとを引き締めた。


「申し訳ありません。婚儀を目前にした女衆にかけるべき言葉ではありませんでした。お許しいただければ幸いです」


「大丈夫です。ガズラン=ルティムがどれほど誠実な御方であるかは、わたしももう十分にわきまえていますので」


 それでもガズラン=ルティムは己の不明を恥じるように目を伏せて、一歩引き退いた。


「それでは、集落に戻ろうと思います。仕事のお邪魔をしてしまい申し訳ありませんでした」


「あら、もう戻られてしまうのですか? まだ顔を合わせたばかりですのに」


「はい。アマ=ミンと言葉を交わすことによって、だいぶん気持ちも落ち着きましたので。……それに、おたがいに婚儀を控えた身なのですから、このように人目を忍んで言葉を交わすのも今後はできるだけつつしむべきなのでしょう」


 それは実にこの実直な青年らしい言い分であった。

 そこはかとない物寂しさを感じつつ、アマ=ミンも「そうですね」と同意してみせる。


「では、失礼いたします。次にお会いするのは、きっとどちらかの婚儀の祝宴となりましょう」


「はい。ガズラン=ルティムの花婿衣装を楽しみにしております」


「こちらこそ、アマ=ミンの花嫁衣装を楽しみにしております」


 ガズラン=ルティムが、きびすを返そうとする。

 その背に、アマ=ミンは「あの」と呼びかけた。


「これは余計な差し出口かもしれませんが。ヴィナ=ルウと縁を重ねるにあたって、ひとつご提案したいことがあります」


「はい。何でしょう?」


「嫁に迎える相手に対しては、もう少しくだけた言葉づかいをしたほうが、きっと喜ばれると思いますよ?」


 ガズラン=ルティムはアマ=ミンに半身を向けながら、困惑気味の表情で頭をかいた。


「私としては、自然に気安く喋りかけられる相手こそが伴侶に相応しいと考えているのですが……でも、わかりました。肝に命じておきます」


「これから狩人の仕事に向かわれるのですね。どうぞ今日も無事に仕事を果たせられますように」


「ありがとうございます」


 そうしてガズラン=ルティムは立ち去っていった。

 アマ=ミンは膝を折り、中断していた作業を再開する。


(ガズラン=ルティムも、ついに婚儀かあ……)


 あれほど立派な男衆が――しかも、眷族の中ではルウに次ぐ力を持つルティムの跡取りという立場でありながら、どうしてそのような年齢まで嫁を娶っていなかったのか。それがアマ=ミンには以前から不思議でならなかったのだが、今日はその疑念が多少なりとも解消された気がした。


(でも、その年齢までひとりでいることを許されるなんて、ちょっと羨ましいかもな)


 アマ=ミンは、17歳になってしまった。

 伴侶を得るのが許されるのは15歳からなので、そこまで遅い婚儀ではない。

 だが、決して早すぎるわけでもない。

 心を寄せている相手もいないので、と何とかこの年齢まで婚儀を断り続けていたのだが、今回ばかりはそれを許さぬ空気ができあがってしまっていた。


(ルウ家のヴィナ=ルウも、たしか20ぐらいだったっけ。やっぱり豊かな家であるほど、嫁入りや婿取りをせっつかれることもなくなるのかな)


 できることなら、心から婿に迎えたいと思える相手に巡り逢えるまで、アマ=ミンは自由の身でありたかった。

 だけどミンの家は、ルウやルティムやレイほど豊かではない。マァムやムファやリリンに比べれば家族も多いので、7つの眷族でちょうど真ん中の立ち位置になるのだろう。

 そのミンの本家の長姉がいつまでも未婚であることは、なかなか許されるものではなかったのである。


(まあ、マァムの次兄だって立派な狩人であることは間違いないし、すべては森の導きだよね。……でも、あの人って何て名前だったっけなあ。また顔を合わせるまでには、しっかり覚えておかなきゃ)


 そんな風に考えながら、アマ=ミンはひとり小さく息をつく。


 そうしてちょっとした波乱を迎えてからガズラン=ルティムとの再会を果たせたのは、その日から5日後のことだった。


              ◇


「ああ、少しおひさしぶりですね、ガズラン=ルティム」


 その日もアマ=ミンは、ひとりでピコの葉を摘んでいた。

 笑顔のアマ=ミンに、ガズラン=ルティムも「おひさしぶりです」と微笑みかけてくる。


 さきほど驟雨が森を濡らしていったので、あたりにはむせ返るような草の香りが匂いたっている。おたがいに少しだけ髪と衣服を湿らせた格好で、ふたりはまた向かい合った。


「けっきょく祝宴の前に顔を合わせてしまいましたね。婚儀の日取りは決定したのでしょうか?」


「いえ、それが……ヴィナ=ルウとの縁談は取りやめることになってしまいました」


「えっ! どうしてですか!?」


 思わずアマ=ミンはは大きな声をあげてしまった。

 それはあまりに、予想外の言葉であったのだ。


「これといって、確かな理由はないのですが……ヴィナ=ルウのほうが、どうにもルティムに嫁ぐ心持ちにはなれないと言いだしたのです。もしかしたら、彼女も私たちと同じような気持ちを抱え込んでいたのかもしれません」


「そうですか……ルティムの家長は、さぞお気持ちを落としているでしょうね」


「いえ。いつものように雷を落とした後は、けっきょく縁がなかったのだなと笑っておりました。ヴィナ=ルウには気の毒でしたが、それで悪い気持ちを引きずるような気性ではありませんので、ルウとの縁に問題が生じることもないでしょう」


「……ガズラン=ルティムご本人のお気持ちは大丈夫なのでしょうか?」


「はい。ご存知の通り、私のほうこそがヴィナ=ルウを嫁に迎えるという気持ちが定まっていなかったため、気落ちするどころか、大いにほっとしてしまいました」


 ガズラン=ルティムの穏やかな笑顔に、アマ=ミンも安堵することができた。


「もしかしたら、今日はその話を伝えるために、わざわざわたしのもとを訪れてくれたのでしょうか?」


「はい。アマ=ミンには色々とお世話になっていたので、一刻も早くお伝えするべきだと考えたのです。婚儀を目前にした女衆と2人きりで顔を合わせるのは控えるべきかとも思ったのですが……」


「いえ。そのように言っていただけるのは、とても嬉しいことです。……でもそうなると、わたしのほうはおわびの言葉を申し上げねばならないかもしれませんね」


「え? おわびの言葉ですか?」


「はい。……実は、わたしのほうも婚儀を取りやめることになってしまったのです。ご報告が遅くなって、申し訳ない限りです」


 その言葉に、今度はガズラン=ルティムのほうが目を丸くすることになった。

 アマ=ミンがさきほど受けた驚きを、これで彼も共有することができたのだ。


「それはまた……いったいどうしてそのようなことになってしまったのでしょうか? 相手はマァムの次兄でしたよね?」


「はい。その男衆には、どうやらもともと懸想していた相手がいたようなのです。……ただしその相手が、リリン家の女衆だったのですね」


「リリンというと、ルウの眷族では1番小さな氏族ですね」


「はい。分家を持たず、本家の人間も5名しかいない、普通であれば眷族の家人となるしかない小さな家です。マァムの次兄は、そのリリンの長姉に懸想してしまっていたのですね」


「そうですか。ならば、どうしてこれまでに婚儀をあげていなかったのでしょう? リリンの側が拒んでいたのでしょうか?」


 とても不思議そうな顔をしているガズラン=ルティムに、アマ=ミンは「いえ」と首を振ってみせた。


「リリンの長姉も、同じようにマァムの次兄に思いを寄せていたようです。しかし、リリンのほうは5名しか家族のいない小さな家ですので、長姉が他所の家に嫁いでしまうと生活が立ち行かなくなってしまうのですね」


「ならば、マァムの次兄が婿入りすればよいのでは? ……ああ、だけどそちらは本家の人間でしたか」


「はい。マァムとて決して大きな家ではありませんので、本家の次兄をリリンに婿入りさせる気持ちにはなかなかなれぬでしょう。小さな家にとって、一人前の狩人を婿に出すというのは大きな痛手となってしまうものなのですから」


「難しいところですね。リリンが氏を捨て、一家でマァムの家人となる気持ちがあれば問題ないのでしょうが――リリンの家長も、そう易々と氏を捨てる気にはなれぬでしょうし」


 そもそもリリンとは、5年ほど前に家族が4人にまで減じてしまったため、そのまま滅びるか、氏を捨てて他の家の家人に落ち着くか、という境遇にあった小さな氏族であったのだ。

 それが、レイの家人が嫁入りすることで、ルウの家との血の縁を得た。リリンの家長の狩人としての力が卓越していたために、それほど小さな氏族でありながらルウの眷族となることが許されたのだ。


 この後は、人手にゆとりのあるルウやルティムやレイなどから嫁や婿を取らせていけば、いずれマァムやムファにも劣らぬ力を持つこともできるだろう――と、そのように思われていたリリン家だったのである。


「だから、マァムの次兄も自分の思いを押し殺して、わたしとの婚儀を進める心情を固めたようなのですが。いざ祝宴の日取りを決めようという段になって、ついに気持ちを抑えきれなくなってしまったようなのです」


「なるほど……しかしそれでは、私の父以上にミンの家長はおさまらなかったのではないですか? マァムとミンでは、ミンのほうが力を持っているわけでありますし」


「ええ。ですが、わたしが取りなしたので大事には至りませんでした。わたしももともとこの婚儀には乗り気でなかったのだと、本心を語るだけで事足りましたし」


 何て強気な女なのだろうと思われてしまうんだろうな、と頭の隅で考えながら、アマ=ミンはさらに語ってみせた。


「それに、家の大きさなど、本来どうでもよいことではないですか。ルウを親とする6つの氏族、わたしたちは等しく眷族なのです。誰がどの家に嫁ごうと、ルウの力が増すことに変わりはありません。ミンの本家には婿入りできてもリリンには婿入りできないなんて、そんなのは下らない見栄と体面です。そんな見栄と体面のために、大事な眷族たちが自らの思いを押し殺さなくてはならないなんて、わたしにはそのほうがよっぽど心苦しいことです、と――そんな風に言いたてたら、眉を吊り上げていたミンとマァムの親たちも黙りこんでしまいました」


「それはそれは……」と、ガズラン=ルティムは絶句してしまう。


 だけどアマ=ミンは、今さらガズラン=ルティムに本心を隠すつもりもなかった。


「ね? わたしはこのように荒っぽい気性をしているのです。……でも、自分が間違ったことを言っているとは思いません。どうしても抑えようもないぐらい心を寄せている相手がいて、相手も同じ気持ちを抱いてくれているというのに、家の立場や体面のためにそれを押し殺さなくてはならなくなるなんて、そんなのは馬鹿げています。眷族の中に愛すべき相手を見いだせたのなら、何の文句もないはずではないですか? 家族たちは、そんな2人を祝福してあげるべきです」


「はい。それは本当にその通りだと思います。伴侶を愛する気持ちが強ければ強いほど、それは一族の力にもなるでしょう」


「あら、賛同してくださるのですか? わたしの親には、理屈っぽい上に気性が激しすぎると呆れられてしまったのですが」


「そうでしょうか。私は心からアマ=ミンに賛同します。マァムの次兄が無事にリリンへと婿入りできるならば、その祝宴が楽しみでなりません」


 ガズラン=ルティムの面には、普段通りの誠実で落ち着いた表情しか浮かんでいなかった。

 べつだん、熱の入ってしまったアマ=ミンに呆れている様子もない。


 それでは彼も心から自分の言葉に賛同してくれているのか、と考えると――アマ=ミンの胸には、とても温かい感情があふれ始めた。

 その感情に従って、アマ=ミンはにっこりと微笑んでみせる。


「ありがとうございます。ガズラン=ルティムにそのように言っていただけるのは、とても嬉しいものですね」


 ガズラン=ルティムは、いぶかしそうに目を細めた。

 いや、いぶかしそうというよりは、何かまぶしいものでも見るかのような目つきであった。


 ちょっと不自然な感じで、沈黙が落ちる。

 自分は何か余計な言葉でもつけ加えてしまったのだろうか、とアマ=ミンが少し不安になりかけたとき、ガズラン=ルティムが静かにつぶやいた。


「では、そろそろ集落に戻ろうと思います。仕事のお邪魔をして申し訳ありませんでした」


「え? もう行ってしまわれるのですか?」


「はい。私も仕事の準備に取りかからなくてはなりませんので」


 今日はガズラン=ルティムの到着が遅かったため、すでに中天が近くなってしまっていたのだ。

 とたんに、アマ=ミンは申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまう。


「すみません。またわたしばかりがぺらぺらと喋ってしまって、ガズラン=ルティムの貴重な時間を潰させてしまいました。せっかくお忙しい合間をぬって訪れてくださったのに……」


「いえ、お伝えするべきことはお伝えしましたし、聞くべきことも聞くことができました。何の過不足もありません」


 そう言って、ガズラン=ルティムはすみやかにきびすを返す。

 アマ=ミンは「あ……」と声をあげかけたが、確かにこれ以上は伝えるべき言葉も見当たらなかったので、けっきょく口をつぐむしかなかった。


 ガズラン=ルティムの大きな背中が、森の陰に消えていこうとする。

 その直前で足を止め、ガズラン=ルティムがアマ=ミンを振り返った。


「アマ=ミン、これで私たちは、それぞれが抱えていた不安感から解放されることになりました。もうこれ以上は、とりたてて言葉を交わす意味や理由も存在しないのでしょう」


「……はい」と、アマ=ミンは神妙にうなずき返す。


「ですが、用事がなくとも、またアマ=ミンと言葉を交わしたくなったときには、こうして訪れてもよいものでしょうか? 確たる理由もなく仕事のお邪魔をするのは、とても心苦しいのですが……」


 アマ=ミンは一瞬だけ言葉に詰まり、それから、こらえようもなく微笑をこぼしてしまった。


「でしたら、仕事の手を抜いていると家族に叱られてしまわないように、他の時間に懸命に働こうと思います。またガズラン=ルティムとお会いできる日を、わたしも心待ちにしています」


「そうですか……」と、ガズラン=ルティムはまた少し目を細める。


「ありがとうございます。何だか思いの外、嬉しいです」


「あら、思いの外なのですか?」


「いえ。自分で想像していたよりも遥かに嬉しかった、という意味です」


 生真面目に答えるガズラン=ルティムの顔を見て、アマ=ミンはもうひとたび笑った。


               ◇


 それからガズラン=ルティムとアマ=ミンは、およそ3日に1度の頻度で縁を重ねていくことになった。

 むろん、森辺の習わしに背くような事態には陥らず、ほんの半刻ばかり言葉を交わすだけの、ひそやかな縁である。

 しかしそれでも2人の間に存在していた気後れや遠慮というものはどんどんと薄れていき、10日も経つ頃には古くからの友人に対するように気安い口をきけるようになっていた。


「そういえば、アマ=ミンはどうしていつもひとりでピコの葉を摘んでいるのでしょう?」


 ある日、ガズラン=ルティムがそんな風に問いかけることがあった。

 気安い関係になっても、その口調の丁寧さはまったく変わっていない。


「さあ、とりたてて深い意味はありません。家ではいつも誰かしらがかたわらにいるので、少しぐらいはひとりで静かに過ごせる時間が欲しかった、といったところでしょうか」


「では、私はその貴重な時間にお邪魔してしまっているわけなのですね。本当に申し訳ありません」


「まあ。わたしがそれを嫌がっているようにでも見えるのですか? もうずいぶん打ち解けてきたように感じられていたのに、残念です」


「そういう意味ではありません。気分を害してしまったのなら、謝罪します」


「……わたしが本気で怒っているようにでも見えるのですか?」


 一瞬の沈黙の後、2人は目を見交わして微笑みあった。

 これぐらいの軽口を叩けるぐらいには、おたがいに打ち解けてきていたのだ。


「それでは、ガズラン=ルティムのほうはどうなのでしょう? 毎日、狩りの前に森の端を散策する男衆なんて、わたしはガズラン=ルティムの他に見たことがないのですが」


「そうですね。私もアマ=ミンと同じような心情なのだろうと思います。賑やかな家族に囲まれているととても幸せな気持ちを得られますが、それでもやっぱりひとりで静かに過ごせる時間というのも、私には大事なのだと思います」


「そうですか。……でも、ルティムの本家には家長のダン=ルティムと、あとは先代家長と末妹ぐらいの家族しか残っていないのですよね?」


「はい。私を含めて4人の家族です。母は早くに亡くしてしまいましたし、弟や妹たちは伴侶を得て家を出てしまいましたので」


「そうですよね。……それで、ルティムの先代家長はとても物静かな御仁であったように思うのですが」


「はい。祖父ラーは、とても寡黙です」


「では、末妹が賑やかなのですか?」


「いえ。モルンは快活な気性をしていますが、どちらかというと口数は少ないほうだと思います」


「それだと、賑やかなのはダン=ルティムおひとりということになってしまいますね」


 ガズラン=ルティムは少し考えこむような顔つきになり、それから「はい」とうなずいた。


「どうやらそのようですね。父ダンはひとりでも数人分の賑やかさを発散させているのだと思います。……これはちょっと私にも驚きの事実でありました」


 アマ=ミンは必死にこらえようとしたが、その甲斐もなく、ぷっとふきだしてしまった。


「ご、ごめんなさい。ガズラン=ルティムは、ときどきとても面白いことを仰いますね」


「面白いですか? そのように評されたのは初めてのことです」


 ガズラン=ルティムは困惑したように眉を下げ、アマ=ミンはいっそう愉快な気持ちを得てしまう。


 くすくすと笑うアマ=ミンが落ち着くのを待ってから、ガズラン=ルティムは言った。


「ですが、たとえ森の端でも、毎日おひとりでは危険ではないですか? ギバの中には、中天の前から動き始める変わり種も少なくはないのですよ?」


「大丈夫です。わたしは木登りを得手にしていますので、ひとりのほうがむしろ身軽に逃げることができます」


「そうですか。……でも、やっぱり私には少し心配です」


 ガズラン=ルティムの目が、やや真剣な光を帯びる。

 とても柔和な物腰である青年だが、怒ったらさぞかし怖いのだろうなと心中で思いながら、アマ=ミンは「大丈夫です」と繰り返した。


「それに、他の女衆がそばにいたら、このように気安く口をきくこともできなくなってしまうのではないですか? 下手をしたら、今度はわたしたちが花嫁と花婿に仕立てあげられてしまいますよ?」


「ああ、それは確かにその通りでしょうね。男女の友誼というのは、あまり理解を得られないでしょうから」


「そうですよ。わたしだって、ガズラン=ルティムと出会う前であったなら、とうてい理解できなかったと思います」


 そんな風に言ってから、アマ=ミンは小さく息をついた。


「でも、またどちらかの婚儀が決まったら、このようにこっそりと顔を合わせることはできなくなってしまうのでしょうね。ガズラン=ルティムの幸福を祝福したい気持ちはぞんぶんに持ち合わせているのですが、それだけが少し残念です」


「そうですね。私も同じ気持ちです」


「……だけどきっと、ガズラン=ルティムのほうが先に伴侶を得ることになるのでしょう。だから、ガズラン=ルティムが寂しい気持ちを抱くことにはなりませんよ」


 アマ=ミンの言葉に、ガズラン=ルティムはとても不審げな顔をした。


「どうしてですか? 私が先に伴侶を得るとは限らないではないですか?」


「だって、ガズラン=ルティムはもう24なのでしょう? ルティムの跡取りとして、これ以上嫁を娶らないことは許されないと思います。わたしのほうは幸いなことに、いくらせっついても上手くいかなそうだなと親たちもあきらめつつあるので、安心です」


「それが、幸いや安心になってしまうのですか?」


「はい。マァムの次兄とリリンの長姉の一件で、やっぱり婚儀というのはこういう気持ちを持つ人間同士にこそ相応しい、と思えてしまったので。わたしもそのような気持ちを抱ける相手と巡り逢えるまでは、自由の身でいたいと思います」


「なるほど……」と、ガズラン=ルティムはまた考えこむような面持ちになってしまった。

 アマ=ミンは「どうしました?」と、その横顔を覗き込む。


「わたしは何か、ガズラン=ルティムを不快にさせるようなことを言ってしまったでしょうか?」


「いえ。そのようなことはありません。ただ、アマ=ミンの言葉に感じ入ってしまっただけです。婚儀とは、そういった強い思いを持つ者たちにこそ相応しい……私も、その通りなのだろうと思います」


「はい」


「でも、その思いとは、いったいどのような思いなのでしょう。私には、その一点がどうしてもわからないのです」


 と、ガズラン=ルティムが振り返り、真正面からアマ=ミンを見た。


「たとえば私は、アマ=ミンのことを素晴らしい人間だと思っています。何というか、このようにわずかな期間でこれほど他者に親しみを覚えたのは初めてのことですし……ものの考え方がこれほど一致する人間が存在するということも、私にとっては驚くべきことでした」


「……はい」


「それに加えて、アマ=ミンは女衆としても、とても魅力的だと思えます」


 そんな風に言ってから、ガズラン=ルティムは申し訳なさそうに目を伏せた。


「それでは、アマ=ミンを嫁に迎えたいのか、と問われると……私は、否と答える他ありません。血を分けた家族のように大事な存在だと思い、また、ひとりの異性としても強い魅力を感じているのに、です」


「…………」


「だけどそれならば、私はいったいどういう女衆を嫁に迎えればよいというのでしょう? 私はたぶん、アマ=ミンよりも素晴らしい女衆など存在しない、と思ってしまっているのに、他の女衆を嫁に迎える心地になどなれるものなのでしょうか?」


「……はあ……」


「だけど私はアマ=ミンも仰る通り、ルティムの跡取りです。ルティムのために、子をなさぬわけにはいきません。しかし、このような心持ちで嫁を迎えるのは、その相手にとってどれほど礼を失しているか――」


 と、ガズラン=ルティムが面を上げようとする。


 すかさずアマ=ミンは「ちょっと待って!」と大きな声をあげて、ガズラン=ルティムの目もとに手の平をかざした。


「あの! ほんの少しの間だけ、わたしの顔を見ないでください!」


「……はい」と、ガズラン=ルティムはすべての動きを静止させた。


 片手はガズラン=ルティムの目もとに突きつけ、もう片手は心臓のあたりに当てながら、アマ=ミンは深く息をつく。


「そんな風に過分なお言葉をいただくのは恐縮ですけれど、きっと心配する必要はないのだろうと思います。要するに、わたしでは魅力が足りていないというだけのことなのですよ」


「いや、しかし……」


「だって、わたしとの婚儀をすすめられても了承できないのでしょう? それでは、駄目なのです。マァムの次兄やリリンの長姉の思いには届いていません。あのふたりは、どんなに周囲が反対しようともあきらめがつけられないほど、おたがいの存在を求めてしまっているのです。ガズラン=ルティムが欲しているのは、そういう強い気持ちなのではないのですか?」


「はい……それはそうなのだろうと思います」


「それならば、そういう相手と巡り逢える日を待つしかありません。わたしはガズラン=ルティムに友と呼んでいただけただけで、もう十分です」


「ううむ……しかし、アマ=ミンよりも魅力的な女衆が存在するとも思えないのですが……」


「存在しますよ! いくらでも存在します! わたしなんて、理屈っぽい上に気性が激しいだけの取り柄なしに過ぎないのですから」


「そのようなことは決してありません。アマ=ミンはどの女衆よりも遥かに魅力的です。……未婚の女衆にこのような言葉を重ねるのは礼を失してしまうのでしょうが、それだけは確かです」


 アマ=ミンはもう1度息をつき、心臓に当てていた左手を額に移動させた。

 手の平に、強い熱が伝わってくる。


「とにかく、眷族にはまだたくさんの女衆が残っているのですから、理想の相手が見つかるまであきらめないでください。わたしはガズラン=ルティムが幸福な婚儀を遂げられることを森に祈っておきます」


「ありがとうございます。……ところで私は、いつまでアマ=ミンの手の平を見つめていればよいのでしょうか?」


 アマ=ミンは、そのままぺちんとガズラン=ルティムの額をひっぱたいた。

 そうして大急ぎでそっぽを向いてから、右手を引っ込める。


「アマ=ミン、私はやっぱりあなたを怒らせてしまったのでしょうか?」


「そうですね! よくわからないけど、そういうことなのかもしれません」


 アマ=ミンの視界の外で、ガズラン=ルティムは切なげに吐息をついた。

 アマ=ミンも、それにつられて3度目の溜息をつく。


「嘘です。怒ってはいません。ただ、あまりに色々なことを聞かされてしまったので、少し動揺してしまっただけです」


「……本当ですか?」とガズラン=ルティムが心配そうに問うてくる。

 その声を背中ごしに聞きながら、アマ=ミンは半ば無意識に自分の両肩をかき抱いた。


「本当ですよ。ガズラン=ルティムがあけすけに心情を語ってくれることを、わたしは嬉しく思っています。その中に礼を失した言葉がまざっていたとしても、その気持ちに変わりはありません」


「やはり、礼を失してしまっていたのですね。本当に申し訳なく思っています」


「あら、それはガズラン=ルティムらしくない言い様ですね。自分のどういった言葉に礼節が欠けていたかもわからないままに謝罪したところで、何も解決はしないのではないですか?」


 ガズラン=ルティムは、沈黙してしまう。

 彼がどのような表情をしているのかがとても気にかかったが、アマ=ミンはまだそちらを振り返ることのできる状態ではなかった。


「……ルティムの家は、それほどマァムの家とは縁が深くなかったですよね?」


「はい? ええ、家が遠いので、大きな宴でもない限りは顔を合わせる機会もないですね」


「それならば、今度の祝宴は好機なのではないですか? マァムにだって、まだ未婚の女衆は何人かいたはずですよ」


 マァムの次兄とリリンの長姉の婚儀が、もう目前に迫っていたのだ。

 足もとの草むらに視線を落としながら、アマ=ミンは言った。


「本家の次兄を婿に出すことによって、マァムはいっそう家人が少なくなってしまいますが、ルティム本家の跡取りの嫁ともなれば、何の文句もないでしょう。ガズラン=ルティムのお目にかなう女衆が存在するよう、わたしも祈っておきます」


「はい……ありがとうございます」


 あんまり元気のない声で言い、ガズラン=ルティムは立ち上がった。


「それでは、そろそろ集落に戻ります。……アマ=ミン、祝宴でお会いできることを楽しみにしています」


「はい。どうぞ今日も無事に仕事をつとめられますように」


 足もとを見つめたままアマ=ミンは応じ、ガズラン=ルティムが立ち去っていく足音を背中で聞いた。

 その足音が聞こえなくなってから、ふっと右の手の平に視線を落とす。


 そこにはまだ初めて触れたガズラン=ルティムのぬくもりが残っているような気がしてしまい、アマ=ミンは誰にともなく「ああもう!」と憤懣やるかたない声をあげることになった。

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