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異世界料理道  作者: EDA
第十一章 石の館
200/1675

⑪再会の刻

2015.6/8 更新分 1/1

「――これはいったいどういうことなのかしら?」


 唖然として声も出ない俺に代わって、リフレイアがそう言った。

 怒りに打ち震える、爆発寸前の声音である。


「どうもこうもありませんねえ。まあ、騙し討ちをするような真似になってしまったことについては、おわびの言葉を申し上げさせていただきますが」


 妙に朗らかな声でそのように応じたのは、アイ=ファの隣に座した貴族の青年である。

 俺は、アイ=ファから目を離すことができない。


「どうやらその人物は、数日前に悪漢にさらわれたと宿場町で騒がれている森辺の料理人、ファの家のアスタその人であったようです。そうでなければ、僕も美味しい料理に舌鼓を打つだけで済んだのですがねえ」


「……いったいどういうことなのかしら?」


 同じ声音で、同じ台詞が繰り返される。


「はて。どういうことかと疑念を呈するのは、本来こちらのほうなのではないでしょうか? 森辺の民などという身分の者が、トゥラン伯のお屋敷で料理の腕をふるっていた。これはいったいどういうことなのでしょう?」


「誰を料理人として仕えさせようが、そんなのはわたしの勝手だわ!」


「はいはい、仰る通りです。シムの民であろうがジャガルの民であろうが、ことによってはマヒュドラの民や渡来の民に料理を作らせるのも自由です。しかし、悪漢にさらわれたはずの人物がトゥラン伯のお屋敷で料理を作らされているだなんて、これには少しばかり釈明が必要になってくるのではないでしょうか?」


 その、愛嬌たっぷりでありながら妙に回りくどい口調は、何だかカミュア=ヨシュを彷彿とさせた。

 しかしその声にはカミュアの有する奇妙な老獪さが欠落しており、ただひたすらに無邪気そうである。


 アイ=ファの姿に目を奪われながら、俺はそのようなことをぼんやり考えた。


「実はですね、僕は本日さる知人から相談を受けたのですよ。ファの家のアスタなる人物はどうやらトゥラン伯爵のお屋敷に拘禁されているらしい。自分のように下賤の身ではそれを確認するすべがないので、どうにかお力添えをお頼みできないか、と――もちろん僕はそのようなことがありうるわけはないと笑い飛ばしたのですが、いやはや本当に参ったものです」


「……つまり、わたしを騙したのね。シムの血が入った豪商の娘と名乗っていたその女は、森辺の民だったのね」


「はい。森辺の民、ファの家のアイ=ファという者です。ファの家のアスタなる人物と誰よりも関わりの深いこの人物に、確認のために同行を願ったのですよ。……このように言っては失礼にあたるやもしれませぬが、森辺の民とも思えぬほどの優美な姿でありましょう?」


「……それじゃあ本当に、ダレイム家はトゥラン家に楯突こうっていう魂胆なのね……?」


 その声の不吉な響きに、さしもの俺もアイ=ファから視線をもぎ離すことになった。


 リフレイアは、長椅子にかけたままである。

 ただ、怒り狂ったその少女のかたわらで、まるでその怒りに呼応したかのように、武官ムスルが刀の柄に手をかけていた。


「お前はこれ以上の罪を重ねるつもりなのか、西の男よ」


 決して激さないアイ=ファの声が、静かにムスルを掣肘する。


「お前の顔は、宿場町の人相書きでしっかりとさらされている。もうひとりのサンジュラという男は、この場にはいないようだな」


「誰よ! この料理人がこの館にいることは誰にも知られていないはずなのに! いったい誰が密告をしたの!?」


 リフレイアが小さな手でばんばんと卓を叩いた。

 ほとんど空になったいくつもの器やガラスの杯が、乾いた音をたてる。


「あんたね、ディアル……あんたが宿場町の人間に告げ口をしたんでしょ! あんただったら、薄汚い宿場町にも平気で下りていけるものね!」


「言いがかりはやめてくれない? 僕はきちんと、君との約束を守っていたよ。アスタが自分から望んでこの屋敷にやってきた、なんていう話はちっとも信じられなかったんだけどね」


 ディアルは、しれっとした顔でそのように答えた。

 きっとアイ=ファが入室してきた際にはさぞかし驚かされたであろうに、今までしらを切り通してくれていたに違いない。


「まあだけど、この数日間は一歩だって城下町を出ていないんだから、告げ口のしようもなかったさ。そもそも宿場町にはアスタ以外に縁を結んだ相手もいなかったし」


「うむ。娘が潔白であることはわたしが保証いたしましょう。ここ数日は通行証を取り上げていたので、娘が城下町を出ることは絶対にかなわなかったはずです」


 ディアルの父親が、初めて発言した。

 その風貌に相応しい、いかにも頑固でしぶとそうな声音だ。


「そして、わたしからもお尋ねしたいところですな。そこのアスタなる人物が自分の意志でこの館に雇われたということが知れると森辺の民にいらぬ刺激を与えてしまうので、他言は無用と――たしかあなたはそのような言葉を娘に告げていたはずですぞ?」


 その言葉は黙殺して、リフレイアはさらに卓を叩いた。


「それじゃあ、誰なのよ! 主人を裏切るような人間は、気を失うまで鞭で打ってやるわ!」


「それが誰かは、僕にも知らされてはおりません。きっと主人にこれ以上の罪を重ねさせてはならじと勇気を振り絞った忠義の者でもいたのでしょう」


 ムスルの様子に一瞬ひるみかけていたポルアースが、またにこやかに笑いながらそう言った。

 やたらと無邪気そうなだけに、これを敵に回したらさぞかし腹立たしいであろうな、というような笑顔である。

 ダレイム家の人間がトゥラン家の人間に逆らえるはずはない、という話であったのに、ポルアースは真っ向からリフレイアに立ち向かう姿勢を見せていた。


「そのようなことより、もっと取り沙汰すべきことがあるのではないでしょうかね? 天下のトゥラン伯のご息女が町の民を力ずくでかどわかしてしまったなどと知れたら、大変な醜聞になってしまいますよ?」


「ふん! どうせジェノスの兵たちにわたしを裁くことなどできはしないわ!」


「さて、それはどうでしょう? 最近では近衛兵団団長たるメルフリード殿が綱紀粛正をはかっておられますからねえ。たとえトゥラン伯のご息女といえども、かの御仁の法を重んずる心意気の前には――」


「わたしを捕らえて、鞭で打つとでも言うの?」


 と――そこでリフレイアの表情がまた変化した。

 怒髪天を衝いていたその顔に、小悪魔めいた笑みが浮かぶ。


「そうか。それはそれで面白いかもね……もしもそうなったら、父様はどのような顔をするのかしら」


「……決してリフレイア様をそのような目には合わせません」


 鈍牛のごとき武官ムスルが、くぐもった声で言う。

 とたんにリフレイアは癇癪を爆発させた。


「うるさいわ! 誰があんたに喋っていいって許しを出したの!? 黙っていなさい、ムスル!」


 ムスルはうっそりと頭を垂れた。

 いまだ刀の柄から手を離さないその姿を見すえつつ、アイ=ファが静かに言う。


「罪人の取り扱いに関しては、ジェノスの法にまかせる他ない。ただし、アスタは連れ帰らせていただく」


「駄目よ! 父様が戻るまで、その男は帰さないわ!」


「トゥラン伯がどうなさったと? トゥラン伯ならば、何よりも波風を立てぬことをお望みになると思われますが……」


 いくぶん困惑気味にポルアースがそう言った。

 その横から、アイ=ファは毅然とリフレイアを見すえる。


「何でもかまわん。今はひとまず家人を無事に連れ帰ることができれば、それでよい」


「駄目だったら! 絶対に父様が戻るまでは――!」


「……ずいぶんと騒がしいことであるな……?」


 と――奥の扉が、重い音色とともに開かれた。

 ひときわ雄渾な体格をした3名の兵士を引き連れて、小さな老人が姿を現す。


「いったいこれは何の騒ぎであるのか……そして、どうして見知らぬ人間が我の館に足を踏み入れているのであろうか……?」


 サイクレウスである。

 サイクレウスが、ついに俺の前に姿を現したのだ。

 いったい何という夜なのだと、俺は目眩を起こしてしまいそうだった。


 ガズラン=ルティムに聞いていた通りの容貌である。

 頭がやたらと大きくて、身体は子供のように小さい。身長は、せいぜいララ=ルウぐらいであろう。

 その小さな身体に、大仰な白い長衣を巻きつけている。さらには、この場にいる誰よりもたくさんの飾り物もつけており、首から下だけを見ればまるで女性のようなきらびやかさである。


 しかしその顔は、病人のように青黒く、無数のしわが走っている。

 森辺にもスドラの家長という子猿めいた風貌の人物がいるが、それよりももっと陰気で狷介な、人間とも猿とも別種の動物じみた面がまえであった。


 なすびのように頭が大きくて、筒型の帽子からつやのない栗色の髪がこぼれている。頭と比しては顔が小さく、その目はおちくぼんだまぶたの下で針のように光っていた。

 潰れた鼻と、色の悪い唇、痩せているのに弛緩した肌と、そこだけは頑丈そうな下顎の骨格――見れば見るほど、不気味な男である。


 だけどきっと、その不気味さは特異な容貌だけが原因ではない。

 娘と同じく鳶色をしたその瞳の、刺すような光、そこからにじみでる強烈な我執みたいなものが、見る者を圧倒するのだ。


「これはこれは、サイクレウス卿……お、お戻りは明日の朝方ではなかったのですかな? 僕は父上からそのように聞いていたのですが……」


「……いささか気にかかることがあったので、諸侯に最後の晩餐をふるまったのち、先んじて戻ったのみである」


 サイクレウスは、その顔ににやーっと得体の知れない笑みを浮かべた。

 ガズラン=ルティムの言っていた、本性や心情を覆い隠すための微笑だ。


「そのように申すポルアース殿こそは、如何なるご用向きで我の屋敷を訪れたのであろうか? 我が不在と知りながら、この屋敷を訪れたというわけなのであろう……?」


「ぼ、僕はその、ちょっと込み入った事情が生じてしまい……」


 ごにょごにょと口ごもるポルアースのかたわらから、アイ=ファが鋭く「あなたがサイクレウスか」と声をあげた。


「この場で顔を合わせることができたのは僥倖であった。サイクレウスよ、私は悪漢に拉致された家人を取り戻すために、この屋敷を訪れたのだ。このポルアースという人物は、それに力を添えてくれたに過ぎない」


 何者が相手であれ、怯むということを知らないアイ=ファである。

 サイクレウスの毒針めいた眼光が、じっとりとアイ=ファを見た。


「そなたは……西の民の装束を纏った、森辺の民のように見えるが……」


「如何にも。森辺の民、ファの家のアイ=ファという者だ。今日のこの行状は、すべて森辺の三族長の知るところでもある」


「…………」


「森辺の家人が悪漢にさらわれたという話は、あなたにも伝わっていたはずであろう。この数日間で、ドンダ=ルウは何度となくあなたに面会を求めていたのだからな。それでもあなたは、すべてを衛兵の手にゆだねよ、という言葉を返すばかりでいっこうに姿を現さなかったそうだが――私の家人アスタは、こうしてあなたの館に捕らわれていた。これはいったいどういうわけなのであろうか?」


「…………」


「我々とて、あなたばかりを疑っていたわけではないのだ。むしろこれは、森辺の民とあなたの仲を引き裂くための悪辣な陰謀なのではないか、という声さえあがっていた。……それでとにかく昨日までは、城下町を除くジェノスの全土に捜索の手を回していた。しかし、私の家人アスタや悪漢どもが潜伏している形跡は宿場町にも、トゥラン地区にも、農村の区域にも見いだせなかったため、今日こそはどうあっても城下町に踏み入らせていただきたい、という許可を得ようと画策していたのだ」


「…………」


「しかしそうするまでもなく、今日の朝方に、アスタの身柄はサイクレウスの館にあり、という話が舞い込んできた。それでこうして確認のためにおもむいてみれば、アスタは確かにこの館に捕らわれており、しかも、人相書きで知られている人さらいの罪人までもが顔をそろえていた。命令を下したのはあなたの娘である、とも聞き及んでいるが――本当にあなたには預かり知らぬことであったのだろうか?」


 表情や口調は静かなまま、アイ=ファの双眸には狩人の火が燃えていた。

 俺の左右に並んだ兵士たちが、ごくりと生唾を飲み込んでいる。


「その真偽を確かめぬ内にはあなたをジェノスの代表者として認めることはできない、というのが三族長の言葉であり、また、森辺の民の総意でもある。……サイクレウスよ、ご返答をお聞かせ願いたい」


 サイクレウスは、妙に図太い舌先で色の悪い唇を湿した。


「……我の娘リフレイアが、森辺の家人をかどわかした、と……?」


「実際に手を下したのはそこの男と、サンジュラなる男だ。それを命じたのがあなたの娘である、と私は聞いている」


「リフレイアよ……森辺よりの客人はこのように述べているが……まさか本当にそのような真似をしでかしたわけではあるまいな……?」


「わたしはただ、料理人としてこの男を招いただけよ。誰にも何も誹謗される筋合いはないわ」


 そう言って、リフレイアは薄っぺらい胸を傲然とそらした。

 サイクレウスは無言のまま、ねっとりと笑う。


「し、しかし、そこのムスルなる武官が人さらいの罪人として手配されているというのは周知の事実であるようです。誰の命令で動いたのであれ、その罪が許されることはありませんでしょうなあ」


 こちらは格段に精彩の欠けてしまったポルアースが、引きつった笑いを浮かべながらそのように言葉をはさんだ。

 サイクレウスの毒針のごとき視線が、ゆっくりとそちらに差し向けられる。


「ポルアース殿……貴殿の父君や兄君は、いまだジェノス城にて我の準備した心づくしの料理に舌鼓を打っている頃合いであるはずだが……父君らは、此度の話をわきまえているのであろうか?」


「それはもちろん、何ひとつ知らぬことでしょう。これは僕個人がとある人物に乞われて力を貸しただけの話であるのですから」


「ほう……」


「そ、その人物は、メルフリード殿とも縁のある御方なのですがね。メルフリード殿は明朝までジェノス城を離れられぬ身であるゆえ、僭越ながらこの僕が森辺の民アイ=ファをともないこの屋敷まで出向くことに相成ったわけであります。何の役職も与えられていない僕は、会議の間も無聊をかこつばかりでしたからねえ」


 そのふくよかな顔には笑みをたたえたまま、ポルアースの顔は真っ青になってしまっていた。

 サイクレウスの得体の知れない迫力に圧倒されてしまっているのだ。


 しかし、彼の理性が瓦解してしまう前に、またアイ=ファが鋭く声をあげた。


「それで、ご返答は如何なのであろうか? 城門の外では、ドンダ=ルウらが私たちが戻るのを待ちわびているのだが」


 サイクレウスは、小さく息をついた。

 そして、ゆっくりと大きな頭を横に振り始める。


「……ジモンよ」


「は」と、サイクレウスに付き従っていた武官のひとりが進み出た。


「ムスルを、捕縛せよ」


「……よろしいのですか?」


「ダレイム家の子息たるポルアース殿が、確たる証しもなく他者を誹謗することはなかろう……まずはその言葉を信じて、しかるのちに真実を究明する他あるまい……」


「了解いたしました」


 ジモンと呼ばれた大柄な武官がムスルを振り返る。

 その瞬間、ムスルが怪鳥のように跳躍した。

 その鈍重そうな風貌からは想像もつかないような身のこなしで、一息に卓の上へと飛び乗ったのである。


 踏みにじられた皿が割れ、倒れた土瓶から真っ赤な果実酒が飛散する。


 そうしてムスルは両手の指先を鉤爪のように曲げて、ポルアースへと襲いかかった。


「ふぎゃあ!」と甲高い悲鳴をあげて、ポルアースは椅子ごと後方にひっくり返る。


 そこに飛びかかろうとするムスルの手首をアイ=ファが素早く捕獲して、背中から床に叩きつけた。


 分厚い絨毯敷きとはいえ、その下はおそらく石畳である。

 ムスルは死にかけたガマガエルのようなうめき声をあげて、びくびくと全身を引きつらせた。


「……馬鹿じゃないの」と、リフレイアが冷たく吐き捨てる。


 だが――不機嫌そうにそっぽを向くその顔にはほんの一瞬だけ、大事な飼い犬を無慈悲に叩かれた子供のように悲しげな表情が浮かんだ気がした。


「罪に問われるのはムスルだけなの? ファの家のアスタを屋敷に招きなさいと命じたのはわたしなのよ、父様?」


 サイクレウスは、答えなかった。

 その毒針みたいな目も、娘の姿を見ようとはしない。


「……とにかく真偽を明らかにして、ジェノスの法に則り処断する……我にはそれ以外の手立ても思いつかぬが、ポルアース殿は如何なるお考えなのであろうか……?」


「は、はい! それが賢明だと思われます! このようなことで森辺の民の信頼を失ってしまったら、今後のことにも甚大な影響が及んでしまうでしょうからな!」


 床にひっくり返ったまま、それでもポルアースという人物はそのように答えていた。

 サイクレウスは、またのろのろとアイ=ファを振り返る。


「では、森辺の族長らにも、そのように……誓って言うが、このような形で森辺の民との関係に亀裂を入れてしまうのは、我の本意ではない……しかし、いまだ幼き娘の罪は、父親たる我の不徳のなすところであろう……」


 そんな台詞を述べながら、サイクレウスの目もとがわずかに痙攣していた。

 ひた隠しにしようとしているその感情は――屈辱の念、なのだろうか。


「それでは、このたびの悪行にあなたは関わっていない、というのだな?」


 狩人の眼光で、アイ=ファがサイクレウスをにらみすえる。


「無論である……もしも我がこのような企みに加担していたならば、かどわかした相手をこの本邸に連れ込むことはなかろう……この館には、大事な客人らを招いているのだからな……」


 その大事な客人たち、ディアルとその父親はさきほどから用心深く口をつぐみつつ、ただ親子でそっくりの翡翠色をした瞳を強く光らせていた。


「また、すべてを衛兵の手にゆだねよ、という言葉も、護民兵団の力を信じ、森辺の民はつつがなく自分たちの仕事を果たしてほしい、という思いから発したのみである……」


「うむ。確かに宿場町の衛兵たちも、手ぬかりなく仕事を果たしているようには見えた」


「西方神セルヴァの名のもとに誓おう……今このジェノスでもっともこの事態を嘆いているのは、我であることに疑いはない……」


 はからずも、それはサイクレウスの本心であったのかもしれない。

 6日後に迫った会談の日に向けてあれこれ陰謀を張りめぐらせていたのに、それを横合いから引っかき回されてしまった、という意味で。


「そうか。――ではその言葉は、族長らにそのまま伝えさせていただこう」


 冷徹に応じるアイ=ファの足もとで、ムスルが縄にくくられていく。

 リフレイアは、悔し涙を浮かべて父親をにらみつけている。

 サイクレウスは、頑なに娘のほうを見ようとはしない。


 そして――


「では、帰るぞ、アスタよ」


 アイ=ファの声が、俺を呼んだ。

 それだけで、俺の心臓がどくどくと鼓動を速めてしまう。


「あ、ちょっと待ってくれ。帰るなら、この服を着替えないと」


 この室に足を踏み入れて以来の発言であったのに、なんと間抜けな台詞であろうか。


「……察するところ、そなたが宿場町で商売をしているという、異国生まれの森辺の民であるのだな……?」


 それで初めて、サイクレウスの瞳が正面から俺を見た。

 なんて毒々しい眼光だろう。

 その目に見すえられているだけで、背中に粟が生じてくる。

 こんな毒々しい眼光を有する人間を見るのは――たぶん、亡きザッツ=スンに続いて2度目のことだった。


「本当に、そなたには申し訳ないことをした……法務官の審問によってムスルの罪がつまびらかにされたのちには、改めてお詫びの言葉を申し述べさせていただこう……」


 頭こそ下げなかったものの、サイクレウスは自分の胸に右手を置き、毒針のような眼光をまぶたに隠した。


「待ってよ! 父様だって、その男の料理を食べてみるべきだわ! その男の作る料理は――」


「……黙れ、リフレイア……」


 目を閉ざしたまま、サイクレウスは低い声で娘の言葉をさえぎった。


「お前には、失望した……我が許しを与えるまでは、自室で大人しくしているがいい……お前とて、審問を免れることはできぬのだからな……」


 リフレイアは、わなわなと震えながら口を閉ざした。

 そちらには背中を向けたまま、サイクレウスがまぶたを開く。


「着替えを所望、とのことであったな。そのように取り計らうがよい……」


「は」と、俺の左右に控えていた兵士たちが背後の扉に手をかける。


「私たちも、同行させていただこう。そしてその前に、預けた刀をお返し願いたいのだが、かまわぬだろうか?」


 アイ=ファの言葉とサイクレウスの視線を受けて、兵士のひとりが別室から立派な長剣を運んできた。

 ポルアースに差し出されたその刀をアイ=ファが受け取り、腰に下げる。

 その姿を見て、サイクレウスは最後にまた不気味に笑った。


「これは確かに、森辺の狩人であるな……いかに華美な装いに身を包んでいようとも、纏っている空気がまったく異なるわ……」


 それなのに、どうしてこのような者を館に引き入れたのだ、と言外に兵士たちをなじっているのだろうか。


「では、森辺の族長らにも、よしなに……明日の中天にも、弁明の場を作らせていただきたいとお伝え願えるであろうか……?」


「明日の中天。了承した。――ああ、こちらからもひとつお伝えすべき事柄が残っていた」


 と、アイ=ファが立ち止まり、サイクレウスを見た。


「この4日間、私たちは城下町を除くジェノスのすべてを捜索して回ったが、ついにサンジュラという男を捕らえることはできなかった。いずれそのムスルという男の仲間には違いないのであろうから、その身柄もすみやかに捕縛されることを願っている」


「……了承した……」


 深くうなずくサイクレウスと、肩を震わせているリフレイア、心配そうにこちらを見送っているディアルの姿が、扉の向こうに消えていく。


 そうして俺たちは、シフォン=チェルと兵士たちの案内で、煉瓦造りの回廊を進むことになった。

 その列にアイ=ファが加わっているという事実に、いまだ現実感が得られない。

 部屋に到着したところで、俺はシフォン=チェルに告げてみた。


「あの、着替える間、俺と家長をふたりにさせてもらえませんか?」


 シフォン=チェルでなく兵士のほうが了承してくれたので、俺はアイ=ファとふたりきりで部屋に入った。

 そうして、あらためてアイ=ファに向き直る。


 アイ=ファである。

 まったく見覚えのない装束を身に纏っているが、まぎれもなくアイ=ファである。


 森辺の宴衣装よりもきらびやかな装束のアイ=ファが、いつも通りの凛々しい表情で真正面から俺を見つめている。


「アイ=ファ……」


 その名を呼んでみた。

 本当にこれは夢ではないのだろうか。


 アイ=ファは表情を変えぬまま、俺の顔から足もとにまでゆっくりと視線を巡らせる。


「……どこにも手傷などは負っておらぬか?」


 その唇が、やはり感情をのぞかせない声音でそのように問うてくる。


「ああ、見ての通り、身体のほうは元気そのものだよ」


「……そうか」


 伝えたい言葉は、いくらでもあった。

 心配をかけてすまなかった、だとか、そっちのほうは大丈夫だったのか、だとか――そんな言葉が舌の上まで這いのぼってきては、またすごすごと咽喉の下にひっこんでいってしまう。


「アイ=ファ、俺は……」


 とにかく、謝らなければならない。

 そして、御礼を言うのだ。


 まだふわふわと地に足もつかぬ心地のまま、何とか俺は言葉を振り絞ろうとした。

 それを、軽く手をあげたアイ=ファにさえぎられてしまう。


 アイ=ファは、静かに俺を見つめていた。

 やがて――その青い瞳に透明のしずくが盛り上がっていくのを見て、俺は仰天した。


 言葉も出ない俺の目の前で、その涙がぽろぽろと褐色の頬にこぼれ落ちていく。

 それからアイ=ファの顔が、突如としてくしゃくしゃになった。

 まるで、年端もいかない子供みたいに。


「アスタ……」


 その声が再び俺を呼び、その腕が俺を抱きすくめる。

 そうして俺の肩に顔をうずめるや、アイ=ファは声をあげて泣きじゃくり始めた。


 瞬く間にアイ=ファの涙が俺の服を濡らしていき、そこからもアイ=ファの熱が伝わってくる。


 数日ぶりの、アイ=ファのぬくもりだった。

 気づくと俺も、両腕でしっかりとアイ=ファの身体を抱きすくめてしまっていた。


「ごめん、アイ=ファ……本当にごめん」


 アイ=ファは答えず、泣きじゃくっている。

 その腕にはものすごい力がこめられているのに、身体のほうはずるずると下に崩れ落ちてしまいそうだった。

 だから俺はいっそうの力を込めてその身体を抱きすくめた。


「アスタ……この大馬鹿者……」


 ひっくひっくとしゃくりあげながら、ようようアイ=ファはそれだけの言葉を口にした。


 丸々4日以上も引き離されることになった俺たちは、そうしてようやく再会を果たすことがかなったのだった。

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