⑩最後の晩餐
2015.6/7 更新分 1/1
そうして俺は、白の月の9日を迎えることになった。
この館に拉致されて、5日目の朝である。
泣いても笑っても、俺がこの屋敷で料理を作るのはこの日で最後になる。
その後に待つのは身の破滅か、あるいは懐かしい同胞たちとの再会か――石にかじりついてでも後者の道を歩むのだ、という決意も新たに、俺は厨へと向かった。
「昨日とも一昨日とも違う菓子を作れ、とのことだ」
ロイからは、そのように伝えられた。
これまたずいぶん難儀な指令である。
ホットケーキとクッキー以外に、何を作製すれば良いというのであろうか。
「うーん……あの、ひとつおうかがいしたいのですが」
「今度は何だよ」
「このジェノスでは、高温の油で食べ物を揚げる料理というのは存在しますかね?」
「揚げ料理か。そんなに流行ってる料理ではねえな」
「あ、でもここの設備でも可能なんですね?」
俺としては、薪をくべるかまどでそれほどの火力を維持できるのかが疑問であったのだ。
しかしまあ、薪さえ惜しまなければ何も難しい話ではないのだろう。難しいのは、その火力を一定に維持したり微調整したりすることだ。
(それじゃあ最後の手段、ドーナツ作りにチャレンジしてみるか。これで俺の引き出しはほとんど空っぽだぞ)
生地の作製は、ケーキやクッキーと大差がない。というか、俺の側にそれぐらいの知識しかない。
(えーと、たしかこいつも卵を使ってたよな)
キミュスの卵に砂糖とカロン乳を混ぜ合わせて、しかるのちにフワノの粉を少量ずつ投入していく。
バターなんかはどうであったか失念してしまったので、サンプルでは乳脂を混ぜたもの、パナムの蜜を混ぜたもの、その両方を混ぜたものも作製してみた。
そして、油の準備である。
ロイの知識と手を借りて、大きめの鍋にレテンの油をたっぷりと注ぐ。これだけで、いったいどれだけの銅貨が必要となるのだろう。
あとはひたすら薪をくべる。
しかし、入れすぎにも注意である。油を熱するのだから、これは最大限の注意が必要だ。
ドーナツを揚げるのは、中温から高温までが相応であったはずである。
熱した油がゆらゆら揺れ始めたら、そこから数十秒待って、菜箸代わりの木の串をつけてみる。俺の知る菜箸とは素材が異なるのではなはだ心もとないが、それで生じる泡の大きさで目安をつけるしかない。
まずは高温、180度に達するかどうかという頃合いを見計らって、小さなサンプルをひとつだけ揚げてみた。
じゅわーっと小気味のよい音色がはじける。
しかし、勢いが弱いかもしれない。油の質も異なるので、見極めをつけるのが本当に難しかった。
そこから少しずつ薪の量を増やしながら、ひとつずつサンプルを投じていく。
そうしてネタを入れるごとにまた油温が下がってしまったりもするので、温度を一定に保つのは至難のわざだ。
それでもまあ、油が大量であればあるほど油温の変化は抑えられるので、何とか弱音を吐く前に大体の見当をつけることはできた。
要は、焦がさないていどの高温をキープできればいいんだよなという開き直りを得て、俺はこの修練を終えることにした。
(うん、ギバの脂のラードでだって揚げ物は作れるんだ。こんな修練もまったくの無駄にはならないさ)
サンプルでは、乳脂も蜜も両方ぶちこんだやつが1番はっきりとした味に仕上がったようなので、それを採用する。
そんなわけで、生地の成形である。
俺の乏しい知識で思いつくのは、4種類。穴の空いたリング型と、まん丸のボール型、真っ直ぐなスティック型、そして細く伸ばしたスティックをねじり合わせるツイスト型だ。
生焼けが怖いので、全体的に小ぶりの作りにしておいた。
それにやっぱりベーキングパウダーが存在しないためか、噛み応えもけっこうしっかりしてしまうのだ。あんまり大ぶりにしてしまうと、さして頑丈な顎を持っているとも思えない貴族様にはしんどいだろう。
さて、トッピングのほうは、どうするべきか。
まだカスタードクリームを作る分の脱脂乳は確保していたが、それだけではワンパターンのそしりを受けてしまうだろうか。
(あ、もっとシンプルに砂糖をまぶす、なんていうやり方もあったな)
溶かした砂糖を塗りたくって乾燥させれば、それっぽい味と見栄えを確立できるかもしれない。
とりあえずは、試してみる他なかった。
そんなわけで、いざ俺は本番の揚げに取りかかったのだが――ここで大事件が勃発した。
いくつかのネタを投入し、じっと焼き色を観察していた際、その内のひとつが爆発してしまったのである。
「うわーっ!」
高温の油が、見事に四散した。
実のところ、鍋の外にまで飛んだ油は大した量でもなかったのだが、間近にいた俺には生命の危機を感じるほどだった。
「あちち! あち、あち!」と、油のはねた胴衣を引っ張って肌から遠ざける。剥き出しの顔や手に浴びずに済んだのは僥倖であった。
「何やってんだよ、馬鹿!」と、ロイが水瓶にひたして絞った手ぬぐいを投げつけてくれる。
それをすかさず胸もとと衣服の間に差し込んでから、俺は意を決して鍋の中身を覗き込んだ。
爆発したのは、ボール型のやつであったようだ。
残りの3種は、じいじいと音をたてながらいい色合いに揚がっている。
俺は菜箸で、それらを鉄網の上に救出した。
ボール型のも奇怪な形に花開きつつ油の中で踊っていたので、それも引き上げる。
「ああ、びっくりした……あんまり密度が高いと、中の生地の膨張に耐えられないみたいですね」
今ひとつ確かな理由はわからなかったが、さしあたっては1番熱の通りが悪そうなボール型ゆえの悲劇ととらえるしかなかった。
「びっくりしたのはこっちだよ! 最後の最後で危ない真似をするんじゃねえ!」
「どうもすみません」と振り返ると、ロイは俺以上に真っ青な顔をして、心臓のあたりに手を置いていた。
よほど驚いたのだろう。普段の険も抜けてしまい、ちょっと幼げな顔つきになってしまっている。
「余分に生地を作っておいて正解でした。第2陣では気をつけます」
「まだやる気かよ! もうやめておけよ!」
「大丈夫です。きっとこの丸い形がまずかったんでしょう。こいつは輪っかの形に作りなおします」
鍋の中で焦げついていた破片を除去して、火の加減を調節し、慎重に予備分を投入していく。
案の定、悲劇は再来しなかった。やはりボール型の形状に問題があったらしい。
「まったく、寿命が縮まったぜ……」
ロイのほうは、まだぼやいている。
有事の際にこそ人の本性があらわになるものならば、やはりこの青年はそんなに悪人ではない、ということになるのだろう。
ともあれ、余剰分と失敗作を使って、トッピングのほうも色々と試してみた。
その結果として、ツイスト型とスティック型には溶かした砂糖に少量のパナムの蜜を混ぜたものを塗りたくり、リング型のはアロウのジャムとカスタードクリームで召し上がっていただくことに相成った。
もうちょっと時間があればそのジャムやクリームを生地で包み込み揚げてみる、というスタイルも試してみたかったが、この先に出番があるかもわからない菓子作りなので、それほどの未練にはならなかった。
「ああ……これも不思議な味わいですわね……」
シフォン=チェルも大満足の様子である。
彼女に俺の料理を味わってもらえるのも、あと1回だ。
シフォン=チェルと運搬係の小姓たちが出ていった後、俺はロイに向きなおった。
「あの、良かったらあなたもおひとついかがですか? あまりに作りすぎてしまったので」
「…………」
「やっぱり油を使っているせいですかね。味見だけでもけっこうお腹いっぱいになってしまったんですよ。この後は勉強で作った料理も食べなきゃいけないから、少し胃袋に余裕をもたせておきたいんです」
「そこまで言うなら、引き受けるけどよ……お前、様子が変わったな」
「え? そうですか?」
「ようやく明日には家に戻れるからって浮き足立ってんのか? お前があそこまで派手に失敗するのは初めてだったし、それに、やたらと元気な面をしてるじゃねえか」
シフォン=チェルによると、ロイは雇い主であるサイクレウスとはほとんど面識がないらしい。ゆえに、サイクレウスが戻ってきても口封じのために銀貨を握らされて丁重に家へと戻される、ぐらいの考えでいるように見受けられた。
そんな結末だったら苦労はないんだけどな、という思いを胸に溜めつつ、「そんなことはありませんよ」と俺は応じてみせた。
「さっきの失敗は、純粋に腕の未熟さゆえです。俺だってまだまだ半人前なんですよ」
「……お前が半人前だったら、俺たちはどうなるんだよ」
その直截な物言いに、俺は少々面食らってしまう。
「えーと……料理人ってのは、その心持ちまでひっくるめて一人前かどうかを問われるものでしょう? そんなに得意でもない菓子作りで難しい揚げ物に挑戦してまんまと失敗してしまう俺は、やっぱり半人前なんですよ」
「心持ちなんて、キミュスの餌にもならねえよ」
ロイは、顔をそむけてそう言い捨てた。
「それどころか、一銭の得にもならねえ心意気ってやつが人間を殺すこともある。料理人は、美味い料理のことだけを考えてりゃいいんだよ」
「うーん、その美味い料理を作り上げるためにも、心意気ってのが大事になってくるんじゃないでしょうかね?」
「……その心意気とやらでかないもしねえ相手に歯向かったら、料理人として生きていけなくなることもあるんだ」
その言い様が、俺には激しくひっかかった。
そして思う。このジェノスの城下町において、料理人の世界というのはどれぐらいの規模を持つものなのかと。
俺が初めて出会った料理人と、かつて料理人であった人物、その2名が顔見知りである可能性は――そんなに低くないのであろうか。
「だけど俺は、心意気を持てないような環境で料理を作っていく気持ちにはなれません。そんな環境に甘んじるか、一生料理を作れないような身体にされるか、どちらかを選べと言われたら……どっちも御免だという心情になってしまうでしょうね」
ロイは愕然とした様子で俺を見た。
その表情で、俺は自分の予感が的中していたことをほとんど確信することができた。
だけどそれは、敵陣で軽々しく語る内容ではないのだろうな、と自戒する。
「それじゃあどうぞ召し上がってください。俺は自分の勉強に取りかからせていただきます」
◇
そして、午後である。
いったん厨から姿を消したロイは、三の刻の鐘が鳴ってから、ようよう戻ってきた。
「今日もキミュスの肉さえ使えば内容は何でもかまわないとよ。……ただし、量は5人前だそうだ」
「5人前? まさか、ご主人が予定より早く戻ってくるわけではないですよね?」
妙な胸騒ぎを覚えてそのように問い返したが、ロイは首を横に振った。
「突然、客人がやってくることになったそうだ。どこぞの貴族のご子息だとよ」
貴族ならば、メルフリードの仲間でない限り俺には関係のない相手だ。
せいぜい文句をつけられないよう、いっそう気を引き締めるばかりである。
(それじゃあ、どうしようかな。クリームシチュー、オムレツ、ピカタ、つくね、ときて、何か締めくくりに相応しい料理は……)
そこで、すぐさまピンときた。
締めくくりに相応しいかどうかは不明なれど、俺にはドーナツよりもよほど得意な揚げ物の料理が存在したのだ。
すなわち、鶏の唐揚げである。
(えーと、しょう油の代わりにタウ油、ショウガやニンニクの代わりにミャームー、調理酒の代わりに果実酒、片栗粉はないけどフワノの粉で何とか代用するとして――それにレモンの代わりのシールの実まで揃っているんだ。食材のほうは問題ないよな)
肚は決まった。
もとより、たった1度の使用で昼間の油が捨てられそうになってしまい、それにストップをかけたため、使い道にも困っていたところなのだ。
最後の夜は、それなりに得意料理であったこのひと品で締めくくらせていただこう。
(何とかパン粉みたいなものをこしらえることができて、卵も使えるようになったら、ギバ・カツにもチャレンジできるわけか。こいつは相当、夢が広がるな)
そんなことを考えながら、俺は果実酒とタウ油を配合し、そこに刻んだミャームーも投じ入れ、まずは漬け汁を作製した。
塩とピコの葉を入念にもみこんだキミュスの足と胸肉を、その漬け汁に漬けておく。もともと塩漬けにされていた肉なので、漬ける時間は30分ていどで十分だろう。
その間に、添え物の作製だ。
彩りとして、何か野菜が欲しいところである。
レタスはないのでキャベツ代わりのティノを千切りにしてみるか――しかしジェノスではあまり野菜を生食でいただく習慣がないようなのだ。
(いや、だったらいっそ生野菜の美味しさを理解していただくか)
レテンの油やママリアの酢があるのだから、ドレッシングを作ることも難しくはない。なんなら、マヨネーズも添えさせていただこう。
昨日よりは格段に頭も胸も軽くなったせいか、思考も手の動きも軽くなっていた。
ジーダがメッセンジャーとしての役割を担ってくれたところで、大幅に事態が動くとは限らない。
しかしそれでも、俺はまだ生きていると――この世界で何とか元気に過ごせているとアイ=ファたちに伝えられただけで、心の持ちようはまったく変わっていた。
(それでも救助の手が間に合わなかったら、俺が口先三寸でサイクレウスを丸めこむしかないんだ。絶対に、何としてでも生きのびてやる)
俺はドレッシングの作製に取りかかった。
レテンの油でミャームーとアリアのみじん切りを炒めて、そこに少量のチットの実も加える。深皿に移したそいつを冷やしている間に、今度は生のアリアとミャームーをすりおろしておき、7対3の割合でママリア酢とレテン油を投入し、それらのすべて混ぜ合わせたのち、塩と砂糖で味を整える。
マヨネースも昨日と同じ手順で作製し、野菜の選別に向かう。
ティノの千切りだけでは、さすがに寂しい。
そこで、アリアとタラパとネェノンも加えることにした。
アリアとタラパはひかえめに、ネェノンはニンジンほど味が強くないので彩りのために多めに。すべてを千切りに刻んだら、ボウルの中でざっくりと混ぜ合わせる。
そうしたら、お次はいよいよキミュスの唐揚げだ。
漬け汁をよく切って、溶き卵をからめたのち、フワノ粉をまぶす。
油の温度は、ドーナツと同一。
日中に得た感覚を頼りにキミュスの胸肉を投じると、再び厨には小気味のよい音色が響きわたった。
衣の色合いの変化に気をつけつつ、まずは昔日の記憶に従って引き上げてみる。
見事なキツネ色の焼き上がりである。
我が家、我が店ではこれぐらい火を通すのが通例であった。
しかし、使用している材料がすべて異なっているのだから、この色合いがベストであるとは限らない。
俺はそいつを金網の上に置いて余分な油が落ちるのを待ってから、肉切り刀で寸断してみた。
とりあえず、しっかり火は通っているようだ。
それでは、と味見してみると――まだまだ熱い油と肉汁が素晴らしい勢いで口の中に広がった。
片栗粉ではなく小麦粉に近いフワノ粉であるので、やや柔らかめのサクッとした食感である。
個人的には片栗粉のカリッとした食感も捨て難いのだが、十分に美味かった。
肉も、絶妙の柔らかさだ。
どうやら俺の世界の唐揚げと同じ焼き加減でいけそうである。
俺は深い満足感とともにロイを振り返った。
「あなたも味見を如何ですか?」
「……ふん。いかにも自信満々って顔つきだな。昼にも言ったけど、最近のジェノスじゃあ揚げ物なんて流行ってねえんだぞ?」
「そうですか。俺の故郷では流行りすたりの関係ない定番の料理でしたけどね」
ロイはものすごく用心深そうな面持ちで半欠けの唐揚げをつまみあげ、それを口の中に放り込んだ。
目を閉じて念入りに咀嚼をして、それを飲み下す。
「……畜生、美味いな」と、目を閉じたまま、ロイはそう言ってくれた。
「ありがとうございます。それじゃあ、仕上げちゃいますね」
胸肉とモモ肉を次々に鉄鍋へと投じていく。その弾ける泡の具合で火加減を調節しつつ、なるべく小分けで5名分の唐揚げを完成させた。
サラダと同じ丸い陶磁の皿に盛り付けて、最後にシールの実を添える。
味が混ざってしまうので、ドレッシングとマヨネーズは別の器に準備した。
これにて、完成である。
「……これでアスタ様の料理を毒見するのも最後となりますね……」
厨房に招き入れられたシフォン=チェルは、普段通りの妖精っぽい微笑をたたえつつ、取り分けられた唐揚げを口にした。
「ああ……揚げ物という料理を口にするのは、これが初めてのことなのですが……とても美味しいものなのですね……」
「はい、俺も大好きですよ」
そうして毒見の仕事を終えると、シフォン=チェルは深々と頭を垂れてきた。
「それでは、お運びいたします……明日の朝までお世話はさせていただきますが……今日までありがとうございました……」
「俺は何もあなたに御礼を言われるようなことはしていませんよ」
そのように答えてしまってから、俺は気がついた。
たぶん彼女は、今日まで美味しい料理をありがとうございました、と言ってくれていたのだ。
しかし、そのような言葉は毒見役の奴隷に相応しくない。それでもそう言わずにはいられなかったのです、とシフォン=チェルの眼差しが語っていた。
「……こんな最後の日まで、お前は厨に居残るつもりかよ?」
シフォン=チェルと小姓たちが出ていった後、ロイがそのように問うてきた。
「はい。時間を無駄にはできませんからね。お邪魔でなければ、そうさせていただくつもりです」
ロイは無言のまま、自分の仕事に取りかかった。
普段は調理助手とやらが集まって6人がかりで晩餐を作製するらしいのだが、俺が居残るようになってからは訪れる者もいなくなった。なるべく屋敷の人間と俺とを接触させまいというリフレイアの考えであるらしい。ロイはひとりで数十人分の主菜を作り、副菜は別の厨房で他の料理人や助手たちがこさえているのだそうだ。
ロイの作る料理は、いつも複雑な味わいをしていた。
しかし聞くところによると、これでもかなり食材や調味料の種類と量を制限されているらしい。これらの物資はあくまでも主人のために準備されたものであり、使用人はそのおこぼれに預かっているに過ぎないのだという話であった。
その反面、自分の勉強においてはほぼ無制限に食材や調味料を使うことが許されているという。
どうせ勉強で使う量などたかが知れているし、そうして修練を積まさなければ屋敷に置いておく甲斐もない、ということなのだろう。
その行状やロイ本人の口ぶりからするに、彼はこの場で腕を磨くことこそが第1の仕事であり、使用人のための料理を作るのは余技に過ぎないようであった。
また余談として、それらの調理ではアリアが使われることがほとんどなかった。
そういえばアリアは庶民のための食材であり、城下町ではほとんど売られている姿を見ることもない、とカミュア=ヨシュも言っていた気がする。
この厨にはそんなアリアもしっかりと常備されていたが、とりあえずこのロイにとっては使うに値しない食材と見なされている様子だった。
(栄養が豊富で味も良いなら、値段なんて関係なく優秀な食材であるはずなのになあ)
そんなことをこっそり考えつつ、俺はその日も自分の勉強に打ち込みながらロイの調理を観察させていただいた。
「今日は鍋物ですか」
いつぞやの軽食を思わせる乳脂と香草のスープに、ロイが刻んだ木の実を練り込んだフワノの団子を投入していく。
ロイはちらりと俺を見てから、「こいつに……」と低い声でつぶやいた。
が、そのまま口をつぐんでしまったので、「何ですか?」と問うてみる。
「……こいつに、フワノの粉を乳脂で炒めたものを混ぜ合わせたら……いったいどうなるんだろうな?」
俺のほうは見ないままに、ロイはそう言った。
「ふむ」と俺は腕を組む。
「どうでしょうね。もともと大量に乳脂を使っている料理でもありますし、この汁にとろみをつけても飲みにくくなってしまうだけのような感じがしますけど」
何でもかんでもシチュー風に仕立てあげれば味が向上するというものでもない。
ロイは「そうか」と鍋を攪拌し始める。
「……宿場町では、さぞかしその腕前で評判を呼んでいるんだろうな」
「ええ、まあ、ギバ肉という素材に助けられてのことですけどね」
「ギバ肉なんて、本当に食えるのかよ? あんなもんは、森辺の民じゃなきゃ噛みちぎれないぐらい固い肉なんじゃないのか?」
「そんなことはありませんよ。カロンの肉より少々噛み応えが強いだけです。旨みでは全然負けていませんし、焼いても煮ても茹でても美味しいですよ、ギバ肉は」
「信じられねえな、そんな与太話は」
そういえば、今宵この厨を離れたら、ロイとは今生の別れとなるかもしれないのだ。
それを惜しんで、今さらこのように語りかけてきているのだろうか。
(だったら最初から普通に接してくれていれば良かったのに)
俺はこのロイという若者のことも、そこまで苦手なわけではなかった。
いささかならず傲慢で鼻持ちならない気性ではあるかもしれないが、もっと普通の出会い方をして、もっと普通に交流を重ねられれば、それこそ同じ料理人として良き友になりえたのではないか、とすら思えてしまうのだ。
ただ、ひとつだけ看過できないこともあった。
「あの、あなたはマヒュドラの民というものに対してどういう感情を抱いているんですか?」
「はあ? 何だよ、いきなり?」
ロイの反応によってはすぐに質問を取り消すつもりでいたのだが、幸いなことに、彼は虚をつかれた様子できょとんとするばかりだった。
「いえ。俺は異国の生まれなもので、セルヴァとマヒュドラの確執というやつがまったくピンとこないんですよ。あなたは北の民を敵対国の人間として憎んでいるんですか?」
「本当に唐突な野郎だな。……憎むもへったくれもない、奴隷は奴隷だろ」
「その奴隷というのもよくわからないんですよ。これは純粋に疑問なんですが、憎んだり恨んだりしているわけでもない人間をそんなに粗雑に扱って、良心が痛んだりはしないものなんですか?」
「……ずいぶんと鬱陶しい難癖をつけてきやがるな。どうして今さらそんな話を俺に持ちかけてくるんだよ?」
「それはもちろん、シフォン=チェルの一件もありますし……それに、俺は北と西の間に生まれた混血の知人がいるんですよ」
もう長らくその姿を見ていないカミュア=ヨシュのすっとぼけた姿が脳裏に思い浮かぶ。
「それは、心から敬愛できる人物だ、とまではいえませんけど、なかなか魅力的な人物で……なおかつ、混血ということで不遇な扱いを受けていなければ、あそこまで不可解な性格にはならなかったのかな、と思えるような人物でもあるんです。だから、ものすごく率直に言ってしまうと、俺は生まれで人を差別するという考え方が心底から肌に合わないんですよね」
「だけど……マヒュドラでは、セルヴァの民が奴隷として使われてるんだぜ? 俺たちだけが責められる筋合いじゃねえだろ」
「責めてるわけではありません。ただ、疑問なんです。マヒュドラから遠く離れたこのジェノスでも、北の民に対する深い恨みの感情があるっていうんなら、まだ理屈の上では納得もできるんですけどね」
ロイは調理の手を止めて、うんざりしたように俺を見返してきた。
「言っておくけど、俺は奴隷を鞭で打ったりはしてねえぞ? そんなことが許されるのは、持ち主の貴族様だけだ」
「でも、土瓶を投げつけようとはしましたよね?」
「あれはあいつがふざけたことを抜かしたからだろ! ……いや、今にして思えば何も間違った言葉ではなかったけどよ……」
そこまで言ってから、ロイはいきなり子供みたいにわめき始めた。
「何だよ、これが最後だからって、文句の言いおさめでもしておこうって肚か? 俺のやり口が気に食わねえなら、もっと簡単にそう言えばいいじゃねえか!」
「気に食わないんじゃなくって、疑問なだけなんですってば。今後のためにも、西の民の意見を少し聞いておきたかっただけなんです。気分を害してしまったんなら、あやまります」
ロイは、ぶすっとした顔で黙りこんでしまった。
俺のほうも、余計な口を叩いてしまったかなと反省して、自分の勉強に戻ることにする。
すると、まるでその会話が途切れるのを待ち受けていたかのようなタイミングで、厨の扉が外から開かれた。
「アスタ様、少々よろしいでしょうか……リフレイア様がお呼びになられています……」
当然のごとく、それはシフォン=チェルであった。
「最後の晩餐を経て、ついにご感想がいただけるのでしょうかね。そのまま身柄を解放していただければ何よりなのですけども」
「いえ……どうやら今宵の客人が、是非ともアスタ様と言葉を交わしたいと仰っているご様子です……」
「え? だけどそれは、どこかの貴族のご子息なのですよね?」
「はい……ダレイム伯爵家の第2子息、ポルアース様ですわね……」
俺にとっては、メルフリードを除く貴族など、のきなみ敵である。
そのメルフリードさえも真の味方ではなく、何とか共闘の関係性を構築できているかどうか、という間柄であるのだ。
「それはちょっと、ご遠慮したいところでありますね。俺はこれ以上貴族様と知遇を得たいと思えるような立場ではないのですよ」
「お前、貴族に呼びつけられてそれを断る気かよ? そんなもん、リフレイア様じゃなくても鞭を振り上げるぜ?」
ぶすっとした顔のまま、ロイが割り込んできた。
「どうせ料理が気に入ったから銅貨をくれてやるとかそういう話だろ。ダレイムの次男坊じゃ銀貨までは期待できねえけど、もらって困るもんでもねえだろうがよ?」
どうやらこの町を支配している貴族たちも、そこまで民たちに敬愛されてはいないようだ。
かといって、俺の気持ちがそこまで安らぐわけでもない。
「だ、だけど、俺は力ずくで拉致されてきた身の上なんですよ? それを客人に引き合わせるなんて、ちょっとおかしな話じゃないですか?」
「知らねえよ。客人に褒めちぎられて、自慢したくなったんじゃねえのか? どうせどんな裏事情を知ったところで、ダレイム家の次男坊なんかがトゥラン家の人間に逆らえるとも思えねえしな」
ますますもって、俺には利のない話のようである。
「どっちみち、リフレイア様が許しを出してるんだから、お前に拒否する権利なんてねえんだよ。とっとと行ってこい」
そういうわけで、俺は溜息をつきつつシフォン=チェルおよび兵士たちと回廊を進むことになった。
俺としては、この状況でリフレイアが許可を出したというその一点こそがもっとも気にかかっていたのである。
(まああの短絡的な娘さんだったら深い考えもなく許しを出す可能性もあるかもしれないけど……まさか、俺の身柄をその何とかっていう侯爵の家に移そうっていう目論見じゃないだろうな?)
ジーダの知り得ない事実は、森辺の同胞にもザッシュマにも伝わらない。
ここでこの屋敷から身柄を移されるのは、どう考えても致命的だった。
(もしもそんな企みだったら、どんな嘘っぱちを並べたててでもこの屋敷に居残ってやるぞ)
悲しいかな、俺はそれがザッシュマやメルフリードによる救いの手であるなどとはどうしても思えなかった。メルフリードの他に協力者の貴族がいるなどとはカミュア=ヨシュからも聞いていなかったし、救いの手が伸ばされるとしてもそれは明朝になってからであろう、と思い込んでいたからだ。
そんなことを考えながら、俺は迷宮めいた回廊をぐるぐると歩かされて、見覚えのある豪奢な扉の前に立たされた。
どうやら彼らはあのシャンデリアと4体の石像が設置された一室で晩餐を楽しんでいたようだ。
「……入室する前に、ひとつだけ言っておく。客人と言葉を交わしても、決して自分の名や素性は口にするな」
案内役の兵士にそう言われて、俺は顔をしかめてみせる。
「言うなと仰るなら従いますが、貴族のお客人に名前も名乗らないというのは非礼にあたらないのですかね?」
「……そのようなことは、お前の気にすることではない」
抑揚のない声で言い捨ててから、兵士は扉の内側に呼びかけた。
「渡来の民の料理人をお連れしました!」
そして、扉が開かれる。
室内には、確かに5名の人物および、それを警護する武官ムスルが待ち受けていた。
上座には、もちろんリフレイアが陣取っている。
先日と同じ純白のドレス姿で、そのドレスと大差のないフリルだらけの前掛けを胸もとに垂らし、4人がけの長椅子をひとりで占領している。
右手側は、ディアルとその父親だ。
ディアルは姫君よりずっと質素な、だけど十分に上等なコバルトブルーのワンピースみたいな衣装を纏って、ちょこんと椅子にかけていた。
今日も銀色の髪飾りで前髪をおさえており、とても可愛らしい。なおかつ、俺のほうを見ようとせずに、つんと取りすました表情をしている。
ディアルを退室させていないということは、やはり何らかの形で俺を雇い入れたとかいう虚言を吹き込まれた後なのだろう。
ともあれ、その隣にいるのが、初お目見えであるがディアルの父親であるようだった。
いかにも南の民らしく小柄かつがっしりとした体格で、やっぱり質の良さそうな襟つきの上衣と洋風の足衣を着込んでいる。髪や髭は娘のようにまだらではなく普通の褐色で、頑固そうに光るグリーンの瞳が印象的だった。
その向かいに、本日の客人たちが座している。
確かに、貴族らしい人物であった。
とりたてて華美な装いではないが、クリーム色の長衣に刺繍の入った帯を巻きつけており、腕や首もとにはさりげなく宝石や銀の細工を光らせている。
濃い褐色の髪はぺったりと頭になでつけられており、肥満体というほどではないがふくよかで丸っこい体格をした若めの男性であった。
肌の色は黄褐色で、瞳の色は濃い茶色だ。
きっとこれがダレイム伯爵家の第2子息ポルアース様とやらなのであろう。
しかし――
白状してしまうと、そんな風に彼らの様子をしっかりと観察できたのは、もっとずっと後になってからのことだった。
俺の目は、その部屋に入った瞬間、ポルアースの隣にひかえた女性の姿にぬいつけられてしまっていたのである。
若くて、途方もなく美しい女性であった。
銀細工の胸あてに、腰から下を覆うきらびやかな一枚布。そのスリットのような合わせ目から覗く足の線が、とても艶かしい。
肩からは、やはり複雑な紋様の織りこまれた薄物のショールをかけていたが、引き締まった胴などは完全にむきだしだ。
長い髪には、銀や宝石の瀟洒な飾りがたくさん編みこまれている。
特に、その両方の耳には大きな三日月型の銀細工が下げられており、それがシャンデリアの光を受けてきらきらと輝いていた。
指先にも、いくつもの指輪がはめられている。
手首には、細い銀の環がしゃらしゃらと揺れていた。
彼女ほど美しい女性でなかったら、嫌味なぐらいの装飾具であっただろう。
本当に美しい女性だった。
17年の俺の生において、彼女ほど美しい女性に出会ったことはないと思う。
そして――
その女性は、金褐色の長い髪と、誰よりも強く光る青の瞳、さらにはクリーミーなチョコレート色の肌を有していた。
「やはり、間違いはなかったようだ」
その女性は、大きくはないが鋼のような強さを持った声で、そう言った。
「その者こそが、私の家人、ファの家のアスタである。そうとわかったからには、この場で連れ帰らせていただこう」
凛然と、美しい装束を身に纏ったアイ=ファはそのように述べてみせたのだった。