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異世界料理道  作者: EDA
第十一章 石の館
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⑨夜の来訪者

2015.6/6 更新分 1/1

(けっきょく今日も何事もなく終わっちまった……)


 仕事を終えて自室に戻されたのち、俺は大きく開け放った窓から夜の闇に視線を飛ばしつつ、そんな風に心中でひとりごちた。


 あれよあれよという間に、4度目の夜を迎えてしまったのだ。

 やはりディアルは城下町を抜け出すことができなかったのだろう。事態は悪化も好転もせず、まるでこれが俺に与えられた新しい日常なのだとばかりに、ただいたずらに時間だけが過ぎ去っていった。


 だが、明後日の朝にはサイクレウスが戻ってくる。

 そうなれば、否が応にもこの非日常的な日常は破壊される。

 どんなに遅くとも、あと1日と少しでこの馬鹿げた生活は木っ端微塵に砕け散るのだ。


 その1日が、遠い。

 厨にこもっている間は何とか誤魔化せている苦悩と悲哀に、胸がおし潰されそうだった。


(アイ=ファ……お前は何を思っているんだ?)


 その名前、その存在を思い浮かべるたびに、心臓が不規則な動きを見せる。

 まるで半身をもがれたような心地であった。


 俺は自分がどれほどアイ=ファに依存していたのか、どれほどその存在に頼りきっていたのかをこれ以上なく痛感させられてしまっていた。


 どうして自分はこんな場所に立っているのか、本当に自分の足で地面を踏みしめているのか、自分は何のために生きているのか――普段は考えもしないそんな想念で、頭の中が埋めつくされてしまう。


 それは孤独に宇宙空間を漂っているような頼りなさであり、また、真っ黒な深海に頭から沈んでいっているような絶望感でもあった。


 アイ=ファの姿が見たい。

 アイ=ファの声が聞きたい。

 アイ=ファのぬくもりをこの指先に感じたい。


 自分でも馬鹿なのではないかと思えてしまうぐらい強烈に、俺はそのような妄念に取り憑かれてしまっていた。


 アイ=ファ以外の人たちも、この数日間をどう過ごしているのだろう。

 1番ゆかりの深いルウ家の人々はもちろん、ルティムやレイや、スドラやフォウや――数えあげたら、きりがない。


 そして、宿場町の人々もだ。

 誰も彼もが追憶の彼方にしかいない。

 これでは生きながらにして生前の思い出にひたっているようなものだった。


 日中は、料理に没頭することで、そんな苦悩から逃避している。

 しかしこうして元の部屋に引き戻されてしまうと、たちまち虚無感にとらわれてしまう。


 どんなに料理の研鑽に励んでも、その料理はリフレイアの口にしか届かない。

 晩餐ではディアルたちの口にも届いているとしても、それだけでこの虚無感を晴らすことはできなかった。


 俺が料理を届けたい相手は、アイ=ファなのだ。

 森辺の民なのだ。

 宿場町の人々なのだ。


 この場で得た技術や知識は、いずれみんなにも披露することができる――そんな風に考えて、作っている間は調理の作業に没入することができても、夜にはその揺り戻しで心が崩落しそうになってしまうのだった。


「アスタ様……そろそろお休みになりませんと、お身体に障りますわ……」


 シフォン=チェルが、そっと寄り添ってくる。

 その手が俺の腕や肩に触れているはずなのに、感覚が虚ろで何も感じることができない。


「すみません。まだ眠れそうにないんです」


「そうですか……でも、横になられているだけでも、ずいぶん力は取り戻せるのでしょうから、どうか寝台のほうへ……」


「――そうですね」


 窓辺に立ちつくしていようと寝台に寝転がっていようと、心に映る闇の深さに違いはない。だったら、シフォン=チェルを安心させてあげるほうがまだましな行いであるように思えた。


「……明後日の朝方には、主様もお戻りになられます……こうしてアスタ様とともに過ごせるのも、長くてあと1日と少しなのですね……」


「そうですね」


「やっぱりわたくしは、それを残念と感じてしまうのですが……でも……アスタ様がそのようにおつらそうにしている姿を見ているのは、もっと心が痛みます……」


 シフォン=チェルは普段通りにうっすらと微笑んでいたが、その不思議な紫色の瞳には、何とか自分の思いを正しく伝えるすべはないものかと煩悶しているような光が宿っているような気がした。


 もしかしたら、心の一部分はもう摩耗しきって常の人とは異なる有り様になってしまっているのかもしれないが、それでも他者を思いやろうという気持ちはきちんと残っているのだろう。


 彼女がかたわらにいてくれなかったら、俺はもっと崩れてしまっていたかもしれない。

 しかし――俺の胸にぽっかりと空いてしまった大きな穴は、何をもってしても埋めることはかなわなかった。


「……すみません。それじゃあ休ませていただきますね」


「はい……」


 シフォン=チェルは俺の腕からそっと手をほどき、両開きの窓を閉ざしてくれた。

 そうして屏風に隔てられたそれぞれの寝台に向かう。


「アスタ様、よき夢を……」


「ええ、あなたも」


 俺は寝台に力なく倒れこんだ。

 やがてシフォン=チェルの手によってランタンの火は消されて、視界が本当の闇に閉ざされる。


 身体は泥のように疲れていたのに、睡魔が降りてくる気配は微塵もなかった。

 俺の心が、眠りを拒絶してしまっているのだろうか。眠っても、悪夢に苛まれるだけだぞ、と。


(悪夢……この状況のほうが、よっぽど悪夢だ)


 2日後には家に戻れるという確かな証しでもあれば、ここまで追い詰められることもなかったのかもしれない。

 しかし、相手はサイクレウスなのだ。

 どれほど前向きに考えようとしても、やはりあの男を心の底から信じることはかなわない。


 もちろん、このまま解放されることなく、サイクレウスと対面する事態に陥ってしまうのならば、何としてでも和解の道を切り開いてやろうと思っている。


 だけどそれでもサイクレウスがこの娘の不始末を知り、俺の存在を抹消することが1番手っ取り早い解決策である、と考えてしまったら――俺はこのままアイ=ファとも誰とも再会できぬまま、この世界から消えてなくなることになる。


 俺の恐怖や絶望の根源にあるのは、たぶんその思いだ。


 たかだか数日間、アイ=ファと離れて暮らすだけのことであったのなら、まだこらえようはあったと思う。

 だが、これが今生の別れとなってしまったら、死んでも死にきれないではないか。


 最後に見たアイ=ファの姿、幸福そうに微笑んでいたアイ=ファの顔が、まぶたの裏にやきつけられている。


 ――願わくばその日ぐらいは心安らかに過ごしたいものだ――


 おたがいの休日が重なれば、ひさびさに家でゆったり過ごせるなと、アイ=ファはとても嬉しそうにしていたのだ。

 その、ふたりがともに仕事を休める日、白の月の8日というのは、まぎれもなく今日のことだった。


 ――決して気を抜かず、仕事に励むのだぞ、アスタ――


 決して気を抜いていたつもりはない。

 しかし俺は悪漢どもに拉致されて、ファの家に戻ることができなくなってしまった。


 アイ=ファがどれだけ怒っているか、アイ=ファがどれだけ悲しんでいるか――俺はアイ=ファに、俺以上の苦悩と絶望を与えてしまったのである。


(アイ=ファ……)


 眠れぬままに、寝返りを打つ。

 その耳に、キイッ……という奇妙な音色が忍び込んできた。

 金属の軋むような、か細い音色である。


 風で窓が空いてしまったのか?

 いや、ここの窓は外に向かって開くのだ。風でどうこうなるような粗末な造りでもない。

 しかし、回廊へと通ずる扉のほうは閉まったままであった。


 それでは、シフォン=チェルが再び窓を開けたのか?

 いや、耳を澄ますと規則正しい寝息が聞こえてくる。


 だったらいったい何なのだ、と俺は寝台に半身を起こそうとした。

 そこに――窓側の屏風の陰から、ぬうっと黒い人影が現れる。

 夜陰の中でもなお黒い、凝縮された暗黒のような人影であった。


「な……」


「声をあげるな」


 おしひそめられた、低い声。

 どこかで聞いたことのあるような、少年の声。


 明かり取りの窓から申し訳ていどに差し込んでくる月の光を反射させて、獣のような黄色い瞳がぎらりと光った。


「君は――?」


「大きな声を出すな。そこで眠っている女に気づかれたら面倒だ」


 その少年――手負いの野獣じみた眼光と、まだ幼さの残ったハスキーな声音を持つ不思議な少年が、囁く。


「俺の姿が見えないのか? これだけの月明かりがあれば十分だろうに」


 強い力で、手首をつかまれる。

 俺は起きたまま夢を見ているようなぼんやりとした心地のまま、その強い力に引かれて屏風の裏まで移動することになった。


 屏風の裏では窓が大きく開け放たれており、月の光がさえざえと室内に降りそそがれていた。


 その青白い光の下、日中よりも暗く見える緋色の髪が、ふわりとたなびく。


「ジーダ……どうして君がこんなところに……」


「そのようなことは、自分の胸に聞いてみろ」


 抑揚のない声で言い、赤髪の少年ジーダは俺の手首を放り捨てた。


「存外、元気そうにしているな。貴族の館の住み心地はどうだ、ファの家のアスタよ」


 ジーダに名前を呼ばれたのは、そのときが初めてであったと思う。


 まだ幼さの残った顔立ちと、俺よりも頭半分は小さな体躯、こまかい斑点のある毛皮のマントを纏った、マサラの狩人――義賊・赤髭ゴラムの遺児。


 その、何回見てもなかなか見慣れることのできない不思議な姿を見つめている内に、俺はどんどんと混乱していった。


「い、いったいどうやってこんなところにまで忍び込んだんだ? ここは番犬と衛兵に守られていて――いや、そもそもどうして俺がこの屋敷にいるってことを――」


「大きな声を出すなというのに。ここは兵士どもに見張られていないのか?」


 平素では繊細に見えるぐらいの細面に不機嫌そうな表情を浮かべ、また黄色い瞳でにらみつけてくる。


「さきほどまで窓を開けていただろうが? そのおかげでお前がこの部屋にいるということが知れたのだ。あとは、フィバッハの蔓草を巻きつけた鉤爪の矢を屋根に打ち込んで、それを伝って登ってきた」


「いや、そうじゃなくってさ。俺がこの屋敷に捕らわれているということは、誰にも知られていないはずだろう?」


「……森辺の民たちは、サイクレウスという貴族が犯人であるに違いないとわめいていた。俺は誰とも直接には話していないがな。――この屋敷の場所を教えてくれたのは、トゥランのミケルという男だ」


 思いも寄らぬその名前に、俺はいっそう驚かされてしまう。


「昨日、宿場町にやってきたあの男が森辺の民に詰め寄っている姿を見たのだ。それであの男がトゥランに戻っていく際につかまえて、この屋敷の場所を聞きだした。……あの男も、もともとはこの城下町の人間であったそうだな」


「う、うん、それはそうらしいけど――でも、城下町ってのは石塀で守られているんだろう? 通行証がないと出入りはできないんじゃなかったのか?」


「道具さえあれば、どうとでもなる。……その手順を説明してほしいのか?」


 そのようなことは、どうでも良かった。


「それじゃあ、君は――いったい何のためにこんな場所までやってきたんだ?」


 この質問で、ジーダは口をへの字にしてしまった。

 この少年にもこんな子供っぽい表情ができるのか、と内心で俺は感心してしまう。


「俺はただ……さんざんえらそうなことを抜かしておきながら、まんまと敵中に落ちたお前の顔を拝みに来ただけだ。それに――」


 と、黄色い瞳がぎらりと輝く。


「この館に住むサイクレウスという貴族が、お前たちの言うすべての黒幕なのだろう? 森辺の民やトゥランのミケルの言葉から、俺はそれを知ることができた。……ならば、その屋敷の警護がどれほどのものなのか確認もしておきたかった」


「――この屋敷は兵士と番犬に守られているんだよね?」


「ああ。しかし、言うほど大した警護ではないな。サイクレウスという男は、あれほどのことをしでかしておきながら、ずいぶん呑気に暮らしているようだ」


 ふつふつと、物騒な気配が少年の小さな身体からたちのぼってくる。

 森辺の狩人にも劣らない、野生の獣めいた殺気だ。


「まあ、屋敷の中にはもっとたくさんの配下を置いているのだろう。これだけ馬鹿でかい屋敷ならば、その居所を捜すだけで骨が折れるしな」


「ジ、ジーダ、君はもしかして、サイクレウスのことを――」


「そいつはまだ屋敷を留守にしているのだろう? 森辺の民がそのように話しているのを耳にした。……今日は下調べに来ただけだ」


 そうしてジーダは少しうつむき、すくいあげるように俺を見つめてきた。


「……やつの罪を白日にさらす手段があるというのなら、それは殺された親父たちにとって1番のはなむけになる。お前たちの企てが成功するのか失敗するのか、俺が刀を振り下ろすのはそいつを見極めた後だ」


「そうか、それだったら――」


「しかし、この国の法がそいつに死よりも軽い罰を与えるようなら、誓ってこの俺が首を刎ね落としてやる。それは絶対だ」


 俺が感じている物騒な気配などは、ジーダが必死に抑制している殺気のちょっとしたおこぼれであるに過ぎないのかもしれなかった。

 このような暗がりで、殺気の塊みたいな少年とふたりきりで相対する。そんな非現実的な体験にまた少し意識の浮遊感を味わわされつつ、俺は言った。


「……それじゃあ君は、偵察ついでに俺の様子を見に来ただけ、ということなのかな?」


「ああ、そうだ。……もしもお前が怨敵に取りこまれるような人間であったのなら、顔の皮でも剥がしてやろうかと思ったが――」


 と、野獣のごとき眼光をぐいぐいと突きつけてくる。


「どうやら、ひたすら自分の迂闊さを嘆いている様子だな。まったく、情けない男だ。森辺の民が聞いて呆れる」


「それについては返す言葉もないよ。……ねえ、ジーダ、俺の同胞たちはどうしているんだい?」


 ようやく1番聞きたいことを聞けた。

 ジーダはいったんまぶたを閉ざし、あふれかえる怨嗟の念を少しばかり鎮めてから、言った。


「どうもこうもない。森辺の民たちは、我を失ってお前のことを捜している。宿場町は、無茶苦茶な騒ぎになっているぞ」


「そう……なのか……」


「最初の内は、衛兵どもと刃を交えかねない様子だったがな。今はひたすら町の中を駆けずり回っている。城下町の番兵どもにはまったく取り合ってもらえないため、お前をさらった悪漢どもの正体を探ろうと躍起になっているのだろう」


「…………」


「町の人間たちも大勢で衛兵にくってかかっていたが、とにかく警護兵団の長が戻る白の月の10日を待て、の一点張りだ。番兵や衛兵どもも、町の連中に劣らず混乱している様子だな」


 それは、そうなのだろうと思う。

 これはおそらくリフレイアの独断で行われた企てであるのだ。サイクレウスの弟に代わって治安を預かっているのが誰かはわからないが、とにかく責任者が戻らぬ内は迂闊に動くまいと縮こまっているに違いない。


 また、その騒ぎが城内に届けられたところで、その内容は「宿場町で商売をしていた森辺の民が悪漢にさらわれた」というものになるはずだ。


 自分たちで命令を下した覚えがないのならば、サイクレウスたちも知ったことかとせせら笑うばかりであろう。森辺の民と町の無頼漢が勝手に諍いを起こしてくれるなら、それはそれで悪い話でもない、と。


「それで、あの――俺の家長、アイ=ファがどうしているかは、わかるかな……?」


「あの女か」と、ジーダは無表情に言う。


「あの女も、毎日町に下りているようだ。だけどあいつは俺の気配を読み取れる厄介なやつだからな。できるだけ近づかないようにしているので、よくはわからん」


「そうか……」


 アイ=ファたちが――森辺の民や、宿場町の人々が、必死になって俺のことを捜してくれている。

 そんな話を聞いただけで、俺の胸はぎゅうぎゅうと潰されてしまいそうだった。


「……これといって手傷は負っていないようだが、ずいぶん参ってはいるようだな」


 ジーダが低い声でそのように言った。


「お前たちには、少しばかり借りがある。何か一言ぐらいなら、伝言役を受け持ってやらなくもないぞ」


 俺はジーダに詰め寄ろうとした。

 が、素早く身を引いたジーダにまた同じだけの距離を取られてしまう。


「ジーダ……君にこんなことを頼める筋合いではないけれど……このまま俺も一緒に宿場町まで連れて帰ってもらうことはできないかな?」


「ふん。お前は狩人のように気配を殺すことはできるのか? それができなければ、10歩と進まぬ内に番犬に噛み殺されるだけのことだ」


 俺の願いを、ジーダは一言で切り捨ててくれた。

「そうか……」と肩を落とす俺の姿を、ジーダはじろじろとにらみ回してくる。


「森辺の民ならば、俺と同じように番犬をやりすごすことも難しくはないだろう。なおかつ、トゥランのミケルと縁があったのだから、この屋敷の場所を突き止めることだって不可能ではなかったはずだ。それなのに、こうしてお前を放っておくということは……法を犯してまでお前に助ける価値などない、と思っているということなのだろうな」


「そ――」と言いかけた俺の口に手の平をあて、「大きな声は出すな」とジーダは言い捨てる。


「……そんなのは当たり前のことだよ。法を犯す云々の前に、サイクレウスが俺をさらったという証しもない。森辺の民はサイクレウスに弱みを見せられない立場なんだから、なおさら証しもなく法を犯せるはずもないさ」


「しかし……」


「それに実際、俺をさらったのはサイクレウス本人ではなかったようなんだよ」


 ここでようやく、俺はことの顛末をジーダに伝えることができた。

 ジーダは不機嫌そうに口をつぐんだまま、最後まで言葉をさしはさむこともなかった。


「犯人は、サイクレウスではなくサイクレウスの娘か……しょせん悪人の子は悪人ということだな」


「いや、一概にそうとは決めつけられないと思うけどね」


「それに、どの道お前がこの屋敷に捕らわれていたという事実に変わりはないのだ。俺にはやっぱり、森辺の民がお前の生命よりも法を重んじているようにしか思えない」


 それがものすごく不満であるかのように、ジーダは唇をとがらせた。

 その子供っぽい仕草にアイ=ファの存在を重ねてしまい、俺はハッとしてしまう。

 そういえば、猫科の猛獣を思わせるこの目つきも――怒ったときのアイ=ファに少しだけ似ているかもしれない。


「同胞の生命とは、何よりもかけがえのないものだ。森辺の民とは、法のためには同胞をないがしろにするような柔弱な人間の集まりなのか?」


「そんなことは、絶対にないよ。ただ、森辺の民は――掟や法を守ることの正しさを信じているんだ。もしかしたら、町の人たちよりも強い気持ちで」


「ふん。盗賊の息子である俺と違って、汚れなき魂を持っているということか」


「いや、そんな風には思っていないけど――」


「何でもいい。俺には俺のやり方があるし、森辺の民には森辺の民のやり方がある。そうして俺は俺のやり方で、お前と顔を合わせることができた。これは、森辺の民には成し得なかったことだ」


 小さな声だが挑むような口調で言い、ジーダはぐっと俺のほうに身を寄せてきた。


「その上で、問おう。……何か同胞たちに伝えたいことはないのか?」


 それはまるで――自分でも何か力になれることはないのか、と問うているような表情と口ぶりであった。


 その内心にどのような思いが秘められているのかは知れぬまま、俺は「あるよ」とうなずき返す。


「俺がさっき話したことを、そのままみんなに伝えてほしい。それで、その内容をザッシュマという人物に伝えさせてほしいんだ」


「ザッシュマ……?」


「森辺の民に力を貸してくれている町の人間のひとりだよ。彼だけは城下町に出入りできるはずなんだ。だからその人物に、可能な限り早くこの話をメルフリードに伝えてくれるように、と――メルフリードっていうのは、俺たちと同じようにサイクレウスの旧悪を暴こうとしている貴族で、ジェノス領主の息子なんだ」


「わかった。サイクレウスに先を越された場合は、お前の身に危険が迫るかもしれない、ということだな。伝えておいてやろう」


 そんな風に言ってから、ジーダはまたあやしく黄色の目をゆらめかせた。


「ところで、この屋敷にサンジュラというあのシムの民はいないのか?」


「え?」


「俺の肩の骨を砕いたあの男が、サイクレウスの手先であったのだろう? 手配書きに、そう記されていたそうだぞ」


「て、手配書きが出回っているのかい?」


「ああ。俺には人相書きしかわからないがな。サンジュラという男と、名も知れぬ西の民の男、それがお前をさらった犯人だという手配書きが出回っている」


 やはりネイルが衛兵に訴えでたのだ。

 そしてそれは、そのままの内容で何の圧力も受けないまま、宿場町に出回っている。


 ということは――やはりサイクレウスらのもとにも、まだそこまでの詳細は伝えられていないのだ。人相書きさえ目にしてしまえば、一目でそれが自分の館の関係者であると知れるはずなのだから。


 それもまた、確かな希望の光であった。


「もうひとりの西の民は、たぶんサイクレウスの娘を守っているお付きのムスルという武官だよ。身体つきや声なんかがそっくりなんだ。それもザッシュマに伝えさせてくれ」


 これで少なくとも、メルフリードが行動の自由を得ると同時に、すべての真相を伝えることができる。

 あとは、あくまで法の番人であるというメルフリードが、どこまで強い手を打ってくれるか――こればかりは、蓋を開けてみなくてはわからなかった。


「必ず伝えてやろう。……これでお前たちとは借りも貸しもなしだ」


 ジーダはきびすを返そうとする。その背に、俺は「ちょっと待ってくれ」と呼びかけた。


「俺が元気でいることも、みんなには伝えてほしい。それで……できればアイ=ファひとりにじゃなく、なるべく大勢の森辺の民に伝わるようにしてほしいんだ」


「……俺はあの女が苦手なので、もとより別の人間に伝えるつもりだったが、何故わざわざそのようなことを言い添えるのだ?」


「え……それはあの……アイ=ファひとりに伝わってしまったら、君みたいにひとりで助けに来ちゃうかな、とか思えてしまったから……」


「法を犯して、誰にも伝えずに、か?」


 ジーダは半分まぶたを閉ざし、奇妙な形に眉を吊り上げた。

 呆れているような感心しているような、何とも複雑な表情である。


「……まさか最後の最後でそのように惚気られるとは思っていなかった」


「べ、別に惚気けてなんかいないさ」


「しかしまあ、それこそが本当の同胞……本当の家族なのだろうと俺には思えるがな」


 そう言って、ジーダは窓の桟に右足をかけた。


「それではな。2度と会うこともあるかはわからんが……必死に駆けずり回っている同胞たちのためにも、せいぜい明日いっぱいは生き永らえることのできるよう力を惜しまぬことだ」


「ああ、ありがとう。君には本当に感謝しているよ、ジーダ」


 俺の返事には答えずに、ジーダはそのまま窓の向こうに消え去った。

 俺は慌てて駆け寄ったが、毛皮のマントを纏ったその姿はあっという間に暗闇に溶けてしまう。

 鉤爪がどうとか言っていたのに、帰り道は普通に飛び降りたらしい。何とも呆れた身体能力である。


 俺は窓を閉め、ふっと息をつく。

 今度こそ、俺が何とか無事に過ごしているということがアイ=ファたちに伝わるのだ。

 それだけで、俺の胸に満ちた暗雲は相当に晴らされてしまったように感じられた。


(あとは、五体満足でここを出るだけだ)


 不安や苦悩や絶望の代わりに、得体の知れない力がみなぎってくる。

 暗闇の中でもがいていた俺に、ジーダが希望の光を灯してくれたのだ。


(アイ=ファ、もう少しだけ待っていてくれ)


 最後にぎゅっと拳を固めてから、俺は自分の寝台に戻った。

 こんなに昂揚してしまって眠れるのかなと心配になったが、その後の記憶はないのであっさりと寝入ってしまったのだろうと思う。


 その夜は、悪夢にうなされることもなかった。

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