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異世界料理道  作者: EDA
第十一章 石の館
195/1675

⑥月光の少女

2015.6/3 更新分 1/1

(冗談じゃない! これ以上こんな茶番につきあっていられるかよ!)


 元の部屋に戻されても、俺の胸に渦巻くのはそんな思いばかりであった。


 これがサイクレウスの関与しない悪巧みであったらしい、というのは朗報だ。

 しかし、5日間もこのような館に軟禁されるだなんて、そんな状況に耐えられるわけがない。


 いったいあのリフレイアという娘は何を考えているのだろう。

 ディアルあたりから俺の腕前を聞きつけて、このような暴挙に臨んだのであろうか。

 何億万歩も譲って、そのような暴挙を許したとしても、前言をひるがえして俺を軟禁し続けるとは、どういうことだ。


 父親のサイクレウスとは折り合いが悪いのか何なのか、そのような内情など俺には関係ない。親子喧嘩など俺のいない場所で好きなだけやってくれ、という心境だ。


 とにかく俺は、腹が立って腹が立ってしかたがなかった。

 そんな怒り心頭の俺に、シフォン=チェルがおずおずと呼びかけてくる。


「アスタ様、大丈夫ですか……? 寝酒でもお持ちしましょうか……?」


「いえ、けっこうです」


「それでは、何かお食事でも……館に留まることになったのでしたら、お眠りになる前に何かお召し上がりになったほうが……」


 留まる気など、これっぽっちもない!

 そんな風にわめきたかったが、シフォン=チェルに罪のある話でもなかった。


「あの、ひとつお聞きしたいことがあるのですが」


「はい……何でしょう……?」


「この館には、東の民の風貌をした兵士や使用人などは存在しますかね?」


「東の民、ですか……?」


 シフォン=チェルは、困ったように首を傾げる。

 これも答えられない質問なのかなと思ったが、どうやら彼女はその答えを頭の中で探してくれている様子だった。


「どうでしょう……少なくとも、館で暮らす人間にはいなかったように思いますが……」


「ということは、通いの使用人なら、いるかもしれないと?」


「いえ……兵士も使用人も、原則としては敷地内の住居で暮らしておりますので……たとえば料理人の助手の方々などは、みな他にも仕事を持っておられますので、通いとなっておりますが……毒見の際に厨を訪れても、黒き肌の民などを見かけたことはございません……」


 そう言って、シフォン=チェルは逆の方向に首を傾ける。


「ただ……主様と商売の話をするために、シムの民が訪れることは珍しくありません……たいていは日の高いうちに帰ってしまいますため、わたくしがそれらのお客人をもてなす機会はありませんでしたが……」


「そうですか。ありがとうございます」


 ならば、サンジュラがこの館の関係者であったとしても、寝泊りをするような立場ではない、ということだ。


 俺の中で最後に残った疑問が、サンジュラの存在なのである。

 サンジュラが「主人」と呼んでいたのは、サイクレウスのことではなくリフレイアのことであったらしい。


 しかし、そうだとして、どうしてサンジュラがあのような幼い暴君に仕えることになったのか。

 そして、俺の屋台に近づいてきたのも、けっきょくは何かしらの命令があってのことであったのか。

 彼が見せていたあの微笑みや柔らかい物腰なども、すべては俺を油断させるための小芝居であったのか。


 俺は大きく頭を振って、雑念を外に追い払う。

 何にせよ、今はそのようなことに思い悩んでいる場合でもなかった。


「シフォン=チェル、あなたを信用して、もうひとつお尋ねしたいのですが」


「はい……何でしょう……?」


「今から俺は、この屋敷を逃げ出そうと思っています。それをあなたに見逃していただくわけにはいきませんかね?」


 このようなことを問うのは、筋違いであるとわかりきっている。

 彼女が俺の想像に反して、主人に対する忠義の心というやつを備え持っていたならば、この時点で俺の目論見も台無しになってしまう。


 しかし、俺が逃走するには同じ部屋にこもっているこの娘さんを何とかしなくてはならなかったし、また、扉1枚を隔てて俺を見張っているであろう兵士たちに気づかれぬよう彼女を制圧する自信などは、ひとかけらとして持ち合わせていなかったのである。


「それは……わたくしが何をするまでもなく、不可能な話です……この館は、とても大勢の兵士に警護されているのですよ……?」


 さして驚いた風でもなく、シフォン=チェルはそのように述べてきた。


「俺も成功する可能性は低いのだろうなと思っています。それで失敗してしまったら、やっぱり俺は生命を落とすことにもなりかねないのでしょうかね?」


「いえ……生命を奪うなどという、そんな恐ろしい真似ができるはずはございません……リフレイア様は、まだ10歳のお若さであられるのですから……」


「だけど何度も言っている通り、俺は刀で脅されてこのような場所にまでさらわれてきたのですよ。それを命じたのは、あのお姫様なのでしょう?」


「たとえそうだとしても、リフレイア様はただアスタ様をお招きするよう命じただけなのだと思います……それでどうしてそのように手荒な手段になってしまったのかは、わたくしにはわかりかねますが……」


 あの少女のかたわらに控えていた、鈍牛のような武官の姿を思い出す。

 それでは主人の命令にあのような形で応じたのは、あの男の独断であったのだろうか。

 それとも――サンジュラか?


「それじゃあ、失敗しても革鞭をくらうぐらいの罰で済むのでしょうかね。だったら俺も勇気を振り絞れそうなんですが」


「アスタ様……それは危険です……」


 と、シフォン=チェルはまた寝台に腰を下ろし、俺の腕に取りすがってきた。

 しかし動揺している様子はなく、どちらかというと聞き分けのない子供をあやすような表情である。


「革鞭の罰とは、それほど生易しいものではありません……幸いなことに、わたくしは数えるほどしかこの身にそれを受けたことはありませんが……あれは、生きていることをあきらめたくなるような痛みでありました……」


「――そうですか」


「……わたくしの背中を、ご覧になりますか……?」


「いえ、けっこうです」


 さまざまな感情に心をかき乱されつつ、俺はシフォン=チェルから身を遠ざける。


「それでも黙ってこんな運命を受け入れる心持ちにはなれないんですよ。協力をしろとは言えませんが、何とかあなたに見逃してもらうことはできませんか?」


「……どうしてそうまでして、危険なことを……? 5日の日が経てば、そのような真似をせずとも家に戻れるのではないのですか……?」


「その言葉を完全に信じきれるわけでもないですからね。本当のご主人が城から戻ってきて、娘の不始末を知ることになったとき、俺の存在を闇から闇へと葬り去ろうとする可能性は、ゼロではないと思います」


 この言葉は、切なげな微笑と沈黙によって報われることになった。


 彼女にしても、「そのようなことにはならないと思います……」とは、言いきれなかったのであろう。

 俺の抱いているサイクレウスの人物像に、やはりそれほどの間違いはなかったようだ。

 まったくもって、心の温まる話である。


「だったら、たとえ無謀でも生命をかけて運命を打ち破る努力をするべきかなと思ったんですよ。……見逃していただけますか?」


「はあ……ですが、扉には外から鍵をかけられておりますし、寝ずの番で兵士にも見張られているはずですよ……?」


「そうでしょうね。ですから、逃げるとしたら窓からだなと考えていました」


 衝立の向こうに大きな窓が存在することは、さきほど確認しておいた。

 そして、そこに布地のカーテンめいたものがかかっていたことも。

 この部屋は2階に位置しているが、死ぬ気でかかればそのカーテンを利用して壁伝いに下りることは可能であろう。


「もしも見逃してもらえるのならば、申し訳ないのですがあなたの腕を縛って、俺が力ずくで逃げていったような体裁を整えていこうと思っています。――だけど、それでもあなたが鞭で打たれてしまうような危険性はあるのでしょうか?」


「まあ……ご自分の身を危険にさらそうというときに、そのようなことにまで気を払われているのですか……?」


 シフォン=チェルは、楽しそうにも見える表情で微笑する。


「それでわたくしが鞭で打たれることになっても、それはしかたのないことです……その点においては、何も気になさる必要はございません……」


「だったら――あなたも一緒に逃げませんか?」


 俺はいったん引いた身をシフォン=チェルのほうに戻す。


「こんなことをそそのかすのは、本当はよくないことかもしれませんが……どうせ鞭で打たれるなら、わずかな可能性にかけてみませんか?」


「いえ……アスタ様のお立場と異なり、わたくしが逃げ出そうとしてそれに失敗すれば、間違いなく首を刎ねられるでしょう……リフレイア様にではなく、5日後に戻られる主様に……」


「そうですか……」


 俺はやはり奴隷制度というものに対しての認識が甘かったらしい。

 きっとシフォン=チェルにも、とんだ大馬鹿者だと思われていることだろう。


「そこまでアスタ様のお気持ちが固まっておられるのでしたら、わたくしもお引き止めすることはできません……どうぞお望みのまま、自分の道をお進みください……わたくしはこの場に留まって、その試みが成功することを祈っております……」


「だけど、それではあなたが鞭で打たれることにもなりかねないのですよね?」


「そのようなことは、お気になさらないでください……ただ、アスタ様が5日間もこの館に留まられると聞き、少し心を浮きたたせてしまっていたので……それだけが、少し心残りです……」


 そう言って、シフォン=チェルはまた微笑んだ。

 内心の読めない、妖精のような微笑み方だった。


「本当に、アスタ様は不思議な御方です……南や東の民であれば、わたくしなどの身に情けをかけてくださる御方もいらっしゃいますが、それでもアスタ様ほど親身になってくださる御方は、さすがにいなかったように思います……」


「それはきっと、俺が奴隷制度なんか存在しない国からやってきた人間だからなのでしょう。――それに俺は、森辺の民でもありますからね。森辺の民は、神を乗り換えたことで迫害されることになった一族なんです。北と西の確執については今ひとつ理解が及んでいませんけど、少なくとも出自が原因で人間が差別されるなんて、俺にはとうてい許せる話だとは思えないんですよ」


 シフォン=チェルは、同じ表情のまま「そうですか……」と、つぶやいた。

 その胸に満ちているのは諦観なのか、達観なのか、俺には判別のしようもない。


「それじゃあ申し訳ありませんけど、俺は無謀な脱出劇に挑ませてもらいます。どうしても無理そうなら、見張りの連中に見つかる前に戻ってきますから――そうしたら、あなたも鞭で打たれずに済みますね」


「……わたくしは、アスタ様の道が開けることを祈っております……」


 シフォン=チェルはそのように言うが、彼女を置き去りにして自分だけが逃亡しようというのだから、俺は相当な罪悪感を抱え込むことになった。成功する見込みもほとんど存在しないのだから、なおさらだ。


 しかしそれでも、俺はこのまま大人しく布団をかぶって寝てしまうような気持ちにはなれなかった。

 リフレイアの言い分はあまりにも一方的であったし、また、5日後に丸く収まるという保証もない。

 ならば、あがけるだけはあがくしかなかった。


「……本当にお手伝いはよろしいのですか……?」


「はい! 頼むから覗いたりしないでくださいね?」


 まずはシフォン=チェルに頼んでこの部屋に届けてもらっていた元の服へと着替えを済ませる。

 自前の白いTシャツとデッキシューズ、アイ=ファからもらい受けた胴衣と腰あて――それに、いいかげんにヨレてきた白タオルも頭に巻きつければ、フォームチェンジも完了だ。

 無理矢理この部屋まで持ち帰らせられたぴかぴかの銀貨は、脱いだ服の上に置いていくことにした。


 お次は脱出のための下準備である。

 屏風の裏に回り込み、窓からカーテンを取り外す。

 この窓は全面が木の板でできており、もとから遮光の必要はなかったのだが、埃を防ぐためか何かの理由でこのようなものが下げられているのだろう。


 そいつを歯と指で苦労をしながら縦に引き裂き、強度を確かめつつ結び合わせていく。

 2つの窓から3枚のカーテンを取り外すと、十分な長さを持つロープの代用品をこしらえることができた。


 そして、余った布でシフォン=チェルの腕を縛らせていただく。

 この作業でまたとてつもない罪悪感を喚起されることになった。


 ここで一声、扉の外の兵士たちに救助を求めれば、シフォン=チェルが鞭で打たれる危険性もなくなるのだが、彼女がそのような真似に及ぶことはなかった。


「口もとにも拘束をお願いいたします……それで気を失ったふりをしていれば、わたくしもそれほどの罪には問われないでしょう……」


 言われた通りの処置をして、シフォン=チェルには屏風の裏に据えてあった自分の寝台に横たわってもらう。

 最後にそちらにうなずきかけてから、俺はランタンの火を消して、窓のひとつを大きく開け放った。


 外界は、闇に沈んでしまっている。

 かろうじて月や星は浮かんでいるが、世界はどこまでも暗い。

 しかしまた、それは目の届く限り、明かりを携えた歩哨なども存在しない、ということでもあった。


 明るい内に確認しておけば良かったのだが、そこには広大なる中庭が広がっているそうなのである。

 それを直進していけば、やがて敷地を取り囲む石塀に突き当たる、という。石塀に囲まれた城下町の中で、この館はさらなる石塀で守られているのだ。


 仮に警護の者たちに見つからなくても、その石塀を登る手段は存在しないのかもしれない。

 また、その石塀を乗り越えられたところで、そこに広がるのは未知なる城下町だ。

 通行証も持たない身で、城下町を出ることはできるのか。それすらもわからぬまま挑む逃避行なのである。


 成功の確率は、皆無といってもいいぐらいかもしれない。

 失敗すれば、運が良くても鞭叩きの刑だ。

 自分がどれほど馬鹿げたことに挑もうとしているのか、それを思って気持ちが萎えてしまう前に、俺は手製のロープを寝台の足に結びつけた。


 身を乗り出して左右を見回してみても、他の部屋の窓は固く閉ざされたままである。

 屏風を倒してしまわぬよう気をつけながら、逆の先端を窓の下に放り捨てる。

 誰も見とがめる者はいなかった。


(よし――行くか)


 時ならぬロッククライミングである。

 地面までの距離は、およそ4メートル。

 落ちても、死ぬような高さではない。

 ただし下は石畳なので、骨折ぐらいはするかもしれない。

 森辺の過酷な生活で得た自分の腕力を信じつつ、俺は窓の外へと移動した。


 全体重をかけられて、ロープがぎゅうっと乾いた音を鳴らす。

 壁面に足をかけ、ゆっくり、慎重に身体を下ろしていく。

 すぐに両腕がぷるぷると震え始めた。

 とても心地好い夜風が吹いているのに、全身から汗がふきだしてくる。

 こんなことなら、確かにしっかりとカロリーを補充しておくべきであった。


 しかしそれでも、誰かに発見されることもなく、手をすべらせてしまうこともなく、途中で力つきることもなく、俺は固い大地をしっかりと踏みしめることができた。


 暗がりの中で膝をつき、まずは呼吸を整える。

 世界は、青っぽい闇に包まれていた。

 目がなれてくると、ぼんやり情景も見えてくる。石畳が敷かれているのは建物の周囲だけで、5メートルほど先からは、短く刈りこまれた芝生のような地面が広がっているようだった。


(やっぱりどこにも明かりは見えないな。この中庭はどこまで広がってるんだろう)


 何にせよ、明かりがない限り見張りの目も存在しないはずだ。

 もしかしたら、警護兵などというものは敷地の内側ではなく外側にこそ目を向けているものなのかもしれない。


 そんなことを考えながら、いよいよ俺が足を踏み出そうとしたとき――1メートルと離れていない箇所に設置されていた木製の窓が、キイッと音をたてながら開き始めた。


 俺は大あわてで壁にへばりつく。

 ようやく鎮まりかけていた心臓が、また盛大にビートを刻み始めた。


 これは単なる偶然か、それとも知らず内に俺が物音でもたててしまっていたのか――何にせよ、頼むから身を乗り出したりはしないでくれよ、と俺は心中で必死に祈る。


 そんな願いもむなしく、やがてそこからは白い少女の横顔が覗いた。


 リフレイアではない。

 もっと年長の、しかしまだ若い女の子だ。


 その横顔の秀麗さに、俺はまた驚いてしまう。

 なんて綺麗な顔立ちをした少女であろうか。


 鼻筋は細いがすっと形よく通っており、下顎から頬までの線がとてもなめらかである。

 それに、とても真っ白な肌をしている。

 リフレイアも色は白かったが、それとは比較にならぬほどの、透き通るような肌であった。月の光の青白さも相まって、まるでガラスの彫刻みたいな風情である。


 その白く秀でた額には、褐色の前髪がゆるくかかっている。

 こちらに向けているのは左の横顔で、そのこめかみには銀色に光る瀟洒な髪飾りが留められていた。


 窓の桟に手をかけて、かなり前のめりに身を乗り出している。

 その身に纏っているのは、淡い色合いをした薄物の夜着であるようだ。

 髪が短いので、首筋の白さまで見てとれる。


 天使のように端整な容姿をした少女であった。

 ただしその目は憂いを含み、夜の闇を切なげに見つめている。


 その、つくりものみたいに形のいい唇が、ふうっと小さく息をつき――

 そしてその顔が、室内に引っ込められる過程で、ごく何気なく俺のほうを見た。


 繊細な睫毛に彩られた大きな瞳が、驚愕に見開かれる。


「――アスタ! こんなところで、何やってんの!?」


 俺のほうこそが、愕然とすることになった。

 一瞬前まで天使の彫像のごとき静謐さを保っていたその顔が、人間らしい表情を得て、いきなり見知った女の子の顔へと変貌を遂げたのである。


「ディ……ディアル? 君だったのか……」


 驚きのあまり立ちすくんでしまう俺の目の前で、ディアルは慌ただしく周囲の闇に視線を巡らせた。

 その顔に、今度は焦燥の表情が浮かんでくる。


「何でもいいや! とにかく早くこっちに来て! そんなところに突っ立ってたら、この館の番犬に噛み殺されちゃうよ!」


「ば、番犬?」


「そう! この中庭は夜に番犬を放つから絶対に外には出るなって言われてるんだよ! あ、犬ってわからないかな? 南にはけっこう普通にいるんだけど――いいから、早く来て!」


 俺はディアル以上に困惑しながら、ほとんど無意識の内にそちらへと足を踏み出していた。

 そうして襟首をつかまれて、薄明るい屋内へと引きずりこまれてしまう。


「ああ、驚いた……あんまりびっくりさせないでよ! どうしてアスタがこんなところにいるのさ!」


 そんな風にわめいてから、ディアルはいきなり自分の口に両手でフタをした。

 それと同時に、回廊とは別の側にある扉が外から叩かれる。


「ディアル様、何か仰りましたか?」


 それもまたちょっと懐かしい、ディアルの従者ラービスの声であった。


「何でもないよ! 独り言! 明日も仕事はぎゅうぎゅうなんだから、さっさと寝ちゃったほうがいいよー?」


「……ディアル様も、よき夢を」


 感情を覗かせないぶっきらぼうな声で告げ、ラービスは沈黙する。

 どうやらこの部屋は別室と扉で通じ合っており、ラービスにはその部屋が当てがわれているらしい。


「ディアル……やっぱり君もこの館に滞在してたんだね」


「やっぱりってどういうこと? アスタのほうこそ、何で城下町なんかにいるのさ?」


 おしひそめた声で言いながら、ディアルはそっと窓を閉ざした。

 それから、「あっ」とまた驚いた表情を作る。


「あのさ、もしかしてなんだけど――さっき僕たちが食べさせられたあの料理って、アスタが作ったものなんじゃないの?」


「ああ、うん、カロンの乳で作ったキミュスの肉の料理だね? それなら、俺が作った料理だよ」


「やっぱりかあ。あれ、すっごく美味しかったんだよねー」


 言いながら、ディアルは満面に笑みをひろげた。

 今度は別の意味で天使のように見えてしまう。


「それで、すっごく美味しい料理を食べさせられたもんだから、何だかアスタのことを思い出しちゃってさ。アスタは元気にやってるかな、今ごろはもう寝ちゃってるかな、とか思いながら窓を開けてぼんやりしてたら、当のアスタが突っ立ってるんだもん! 僕、死ぬほどびっくりしちゃったよ!」


 それではさきほどのディアルは、俺のことを考えながら、あのように切なげな眼差しをしていたのか。

 何だか無性に気恥ずかしくなってきてしまう。


 それに、屋内にはランタンの火が灯されていたために、ディアルの姿もはっきりと見て取ることができた。

 その、濃淡まだらの不思議な髪の色合いも、翡翠みたいに綺麗な瞳の輝きも――そして、普段とはまったく異なるその身の装いも。


 やはり薄物の、夜着姿だ。襟もとと袖口にささやかなフリルのような飾りが織りこまれているだけで、あとはシンプルなデザインの貫頭衣――というか、ワンピースのようなデザインである。

 丈は膝の少し上ぐらいで、それこそびっくりするぐらい白い足が惜しげもなく俺の前にさらされてしまっている。


 あとは銀色の髪飾りで前髪をおさえて、少しばかり額を出しているだけであるのに、ディアルは別人みたいに可愛らしく見えてしまった。


 いや、可愛いだけなら最初から抜群に可愛かったのだ。

 だからそうではなく、ディアルはこれ以上ないぐらい女の子っぽく可憐に見えてしまった。

 こんな可愛らしい女の子をどうして最初は男の子と勘違いしてしまったのか、自分の目の節穴っぷりを改めて痛感させられてしまう。


「――で? アスタはどうしてこの館で料理を作ることになっちゃったの? 森辺の民は城下町の人間と折り合いが悪いっていう話じゃなかったっけ?」


 いつまでもこの場に留まるのは危険であるように思えたが、これは地獄に仏ともいうべき邂逅であった。

 なので俺も、なるべく手短に要点だけをおさえて事情を説明することにした。


「へえ?」「本当に?」「うわー」と、いちいち万華鏡みたいに表情を変化させながら、ディアルは最後まで話を聞いてくれた。


「じゃあ……それってつまり、僕があのリフレイアにアスタの料理を自慢しちゃったのがそもそもの原因ってことだよね?」


 と、最終的には悲しみの表情を固定させるディアルである。


「本当にごめん……やっぱり僕って、アスタに災厄をもたらす巡り合わせなのかな……」


「そんなことないよ。俺にとっての災厄は、あの栗色の髪をした小さなお姫様さ。彼女が人並みの倫理観を持ち合わせていたら、絶対こんなことにはなっていなかったはずなんだから」


 子犬のようにしょげてしまうディアルの姿が、この夜はいつも以上に見ていられなかった。


「だけどさ、あの娘はきっと予想以上にアスタの料理が美味しかったもんだから、きっとムキになっちゃったんだと思うよ?」


「ムキになった? って、どういう意味だい?」


「うん、実はね、カロンの乳とキミュスの肉で作られた料理ってのは2種類用意されてたんだよ。それであの娘は、どっちの皿の料理が上等かを食べ比べてほしいとか言ってたのさ」


 ますます申し訳なさそうな顔になりながら、ディアルはそう言った。


「だからきっと、もう一方の皿はこの館の料理人が作った料理だったんだろうね。カロンの乾酪も使ったなかなか美味しいキミュス肉の煮付けだったんだけど、いっぱい野菜の入った汁物のほうが圧倒的に美味しくって――あの汁物のほうがアスタの料理だったんでしょ?」


「うん」


「そうだと思った! すっごく不思議な料理だったもん! ……でね、そうとも知らずに、僕も父さんもこっちの汁物のほうが断然美味い! さすがは料理自慢の館だね! って、さんざんはしゃいじゃったのさ。だから、それがリフレイアには面白くなかったんだと思う」


 俺の作った3人前の料理は、リフレイアと、ディアルと、ディアルの父親の胃袋に収まったということらしい。商団の長とその娘だけが、ひときわ豪勢な食事でもてなされている、ということか。


 それはともかく、まだまだ釈然としない部分は残っていた。


「わざわざ力ずくでさらってきた料理人のほうが上出来な料理を作ったら、それが気に食わないっていうことになってしまうのかい? 今ひとつ筋道がわからないのだけれども」


「いや、リフレイアはそこまで上等な料理が出てくるとは思っていなかったはずなんだよ。だって、あの娘は宿場町の料理人が作る料理なんてまともな人間の食べるものじゃないって、ずーっと言い張ってたんだから」


 確かにディアルは、以前にもそのようなことを言っていた。

 だからそれを見返すために、俺の料理を城下町に持ち帰りたいのだ、と。


「今にして思えば、その味比べのあたりからリフレイアはすっごく不機嫌そうな顔をしてたんだよ。きっとあの娘は僕たちがもう一方の料理を絶賛するのを期待してて、それでその後にアスタを部屋に呼びつけて、僕と一緒に恥をかかせてやろうとしてたんだと思う」


「うわー、陰険だね!」


「陰険っていうか、負けず嫌いなんだよ。……うん、僕も同じぐらい負けず嫌いだから、リフレイアもこんな馬鹿な真似をしでかしちゃったんだろうけど……」


「ディアルが気にする必要はないってば。――でも、それでどうして俺は引き続き幽閉されることになってしまったんだろう? まさか、明日からも俺が負けるまで味比べをさせるつもりなのかなあ?」


「うーん、どうだろう。味比べとか関係なく、あの娘もアスタの料理が気に入っちゃっただけなんじゃないかなあ。あの娘自身も、アスタの料理をものすごい勢いで食べてたもん。こう、怒った顔つきで眉を吊り上げながらさ」


 親が親なら子も子というわけか。

 まったくとんでもない相手に腕を見込まれてしまったものである。


「それじゃあやっぱり、あの娘の父親はこの一件に関与していないんだね? というか、邪魔な父親が留守にしたからこそ、こんな馬鹿げた真似に踏み切ったっていうことなのかな?」


「うん、きっとそうだろうね。僕がアスタのことを話してるとき、じーさまのほうは関心もなさそうににやにやしてただけだもん。あのじーさまがいたら、絶対リフレイアにそんな馬鹿な真似はさせなかっただろうし」


 そんな風に答えてから、ディアルはずいっと俺のほうに顔を寄せてきた。


「それで、アスタはリフレイアの言い分に納得がいかなかったから、力ずくで逃げだそうとしてたわけだね?」


「うん。無謀だろうとは思っていたけどね」


「無謀だよ! さっきも言った通り中庭には番犬が放されてるし、館を取り囲む石塀はこーんなに高いんだし――それに、番犬だけじゃなく衛兵だって石塀のそばを見回ってるはずだよ? 何せここは、ジェノスでも一、二を争う貴族の館なんだから」


「うん……」


「で、仮に脱出できたところで、城下町からは出られないからね。夜の間は跳ね橋が上げられていて出入りはできないし、昼間は昼間で通行証が必要になっちゃうし。そこを無理に通ろうとしたら、それこそ罪人扱いされちゃうんじゃない?」


 まったく万事休すのようである。

 俺はがっくりと肩を落とし、それを見たディアルが心配そうに眉を曇らせる。


「僕のせいでごめんね、アスタ。……だけどさ、やっぱりアスタの腕前は城下町の料理人にも負けてなかったんだよ! いっそのこと、このままこの屋敷のお抱え料理人になっちゃえば? そうしたら、一生遊んで暮らせるぐらいの銀貨や金貨が稼げるはずだよ?」


「それは無理だよ。こんな真似をしでかす人間に仕えるなんて冗談じゃないし、そうでなくっても俺は森辺を捨てる気はないんだ」


「そっかー。だけど、アスタの腕をこのまま宿場町に埋もれさせちゃうのはもったいない気もするなあ……」


 ディアルはとても残念そうな顔をしていた。

 商売人として、都で一旗揚げるというのは、やっぱり栄誉なことであるのだろう。


 その価値観を否定する気はないが――やっぱり俺は、大衆食堂の息子なのである。貴族を相手にするよりは、町の人々に料理を作っていきたいと思う。

 たとえ相手がサイクレウスの関係者でなく、さらに森辺の家からの通いが許されたところで、貴族のお抱え料理人なんて御免こうむりたい。


「ねえ、ディアル、君もまだしばらくは城下町を出られないのかなあ? もしも出られるのなら、俺がこの屋敷にいるってことを、森辺の民か宿屋の人たちにでも伝えてほしいんだけど」


「うーん、まだしばらくは難しいんだよねえ。あの伯爵のじーさまがいない内に商売の手を広げられるだけ広げようって、父さんはすっごくはりきっちゃってるんだ。――何となく、あのじーさまだけを頼りにするのは危険だなって父さんも感じてるみたいなんだよね」


「それは正しい選択だと思うよ。でも、宿場町の誰かに一言伝えるだけでいいんだ。俺はとにかく、何の事情もわかっていないはずの家族や仲間たちを安心させてあげたいんだよ」


「家族って、あの金色の髪をした意地悪な女でしょ?」


 と、ディアルは頬をふくらませる。

 が、すぐにそれはしぼませて、また申し訳なさそうな表情を作った。


「まあそれは抜きにしても、やっぱり難しいかな……父さんに事情を話しても、森辺の民なんかに肩入れして貴族を敵に回すなんてとんでもない、とか言われるだけだろうし……で、僕の通行証は父さんに取り上げられちゃってるんだよね」


「そうか……」


 森辺の民に対してはひたすら非友好的な眼差しを向けていたラービスの姿を思い出す。

 宿場町に逗留していれば、森辺の民の印象が変わりつつある、ということも体感できるのであろうが、そうでなければまだ森辺の民はジャガルを捨てた裏切りの一族である、という認識が消えていないのだろう。


「でも、わざわざ宿場町まで出向く必要はないんじゃない? 明日にでも父さんの目を盗んで、僕が城下町の衛兵たちにこのことをぶちまけてきてあげるよ! 貴族だろうと何だろうと、こんなのはれっきとした人さらいの罪なんだから!」


「いや、だけど、城下町の衛兵ってのも、けっきょくは護民兵団なんだろう? 近衛兵団ではないはずだよね?」


「んー? 西のことはよくわかんないけど、近衛兵ってのは城を守る兵士のことでしょ? 城下町でも宿場町でも、衛兵は衛兵だよ」


 それでは、駄目だ。

 この段階で護民兵団に関わったら、その長であるシルエルという男のみに事情が伝わってしまう危険性がある。それでは、この屋敷でただサイクレウスが戻るのを待ち続けるよりもなお敵に有利な状況を与えてしまうことにもなりかねない。


「森辺の民は、護民兵団と特に折り合いが悪いんだよ。申し訳ないけど、城下町の民にこの状況を打ち明けるのはやめてほしい」


「えー? でも……アスタが番犬に噛み殺されるなんて、僕は絶対にやだよ?」


 と、ディアルが切迫した面持ちで俺の手をぎゅっと握ってきた。

 力のこもった、温かい手だ。


「俺も無駄死にする気はないよ。……だけどそれじゃあ、こっちから打てる手は何もないってことか……」


 宿場町では、きっと小さからぬ騒ぎが巻き起こっているはずだ。

 しかし現状では、サイクレウスの関係者が俺をさらったのだという証拠は、宿場町に存在しない。この状態では、森辺の民やザッシュマたちも、動きようがないのではないだろうか。


「やっぱり僕じゃあ何の役にも立てないのかなあ……僕がリフレイア本人に文句を言ったところで、よけいムキになるだけだろうし……」


 感情ゆたかなディアルの瞳が、うるうると潤んでいた。

 俺は気力を振り絞り、何とかそちらに笑いかけてみせる。


「もしも仕事の手が空いて、森辺の仲間たちにこのことを伝えてもらえたら、俺にはそれが1番ありがたいよ。この城下町でそんなことを頼めるのは、ディアルしかいないから」


「わかったよ。時間が取れたら、絶対にその約束は果たしてみせるから!」


 どうやらまたディアルの声が大きくなりすぎたらしく、扉がひかえめに叩かれた。


「ディアル様、いったいどうなさったのですか……?」


「寝言だよ!」


「……左様ですか」


 そろそろこの密会も限界かもしれない。

 それに、俺の部屋からはまだ脱出用のロープが下げられたままなのだ。何者かにそれを気づかれたら、シフォン=チェルが無意味に鞭で打たれることになってしまう。


「それじゃあ俺は部屋に戻るよ。いろいろ話を聞かせてくれてありがとう」


「あ、ちょっと待って! 最後にひとつだけ――あの、リフレイアって娘のことなんだけど……」


 と、ディアルはかなり言いにくそうな様子で目を伏せたが、やがて決然として言った。


「僕も本当は貴族なんて大ッ嫌いなんだよ。商売じゃなきゃ、あんな連中とは関わりたくもないって思ってる。でも、あの娘のことはそんなに嫌いになれないんだよね」


「へえ? そうなのかい?」


「うん。何かあの娘は、自分が貴族であることを全然幸福だとは思ってないみたいだからさ。父親は仕事と美食にかまけて全然相手をしてあげてないし、それでいて昼間は勉強だのお稽古だので遊ぶひまもないみたいだし――あの娘もね、父親とは全然違う意味で、美味しい料理ぐらいしか1日の楽しみがないみたいに見えるんだよ」


 癇癪もちの、幼き暴君。

 あれだけの短い時間では、そこまでのことを洞察することはできなかった。


「あのリフレイアって娘には、父親以外の家族はいないのかい? トゥラン伯爵家ってのは、ジェノスで一、二を争う大貴族なんだろう?」


「うーん、そりゃあ血族なんかは山ほどいるんだろうけどね。この屋敷で暮らしているのは、リフレイアとじーさまだけだよ。あとは使用人とか兵士ばっかりさ。僕や父さんみたいな客人がいなかったら、あの娘には気軽におしゃべりをする相手すら存在しないんじゃないかなあ」


「なるほど……」


「だから、こんな真似をしでかして父親に怒られることになっても全然かまわない――それで少しでも自分のことを気にかけてくれるなら嬉しいぐらいだ、とか思っちゃってるんじゃないのかな、あの娘は」


「そうなのか。それはまあ――こんな状況じゃなければ同情してあげたいような話だけどね」


 しかしそれでは、俺の拳の振り下ろす場所がなくなってしまう。

 やっぱり俺は、貴族の親子喧嘩に巻き込まれただけの立場であったのだろうか。


「それに、アスタをこんな目にあわせたのも許せないけどさ、あの娘自身はアスタがそれを不満に思うだなんて夢にも考えていなかったんだと思う。この屋敷に料理人として迎えられるってのは、そりゃあ栄誉なことらしいからさ。それなのに、どうしてこいつは感謝しないんだ! ぐらいに考えてるんだと思うよ」


「うーん、それは見解の相違としか言いようがないね」


「あと、きちんと言葉で頼みこむんじゃなく、力ずくで連れてきたってのは――たぶん、リフレイアじゃなくムスルの仕業だと思うんだよね」


「ムスル?」


「リフレイアに会ったんならムスルとも会ってるでしょ? こう、カロンみたいにでっぷりとした褐色の髪の武官だよ」


「ああ、あいつか。うん、俺をさらった実行犯はあの男なんだろうと思うよ」


「やっぱりね! あいつはリフレイアが生まれた頃からつきっきりで護衛をまかされてるらしくてさ。忠義っていえば聞こえはいいけど、リフレイアのためならどんな悪さでもしでかしそうな、おっかない部分があるんだよね。僕とリフレイアが口喧嘩してたときも、危うく殴られそうになっちゃったもん。もちろんラービスが止めてくれたけどさ」


「……なるほどね。わがまま放題のお姫様と、それに盲従するお付きの武官っていう構図なわけか」


 どうにも、ぞっとしない組み合わせである。

 ただ、やっぱりそこにサンジュラがどう関わってくるのかがわからない。


 それでも、ひとつだけはっきりした。

 やっぱり、鍵となるのは、あの男なのだ。


 ネイルはたぶん、客を装って《玄翁亭》に上がりこんだムスルの素顔を見ている。城下町にこもっていれば、面通しをされる恐れもないとタカをくくっているのかもしれないが、何とかその件をザッシュマにでも伝えることができれば、メルフリードを動かすことも可能であろう。


「それじゃあ、ディアル、もしも宿場町に出られる機会があったら、そのムスルって男の件も伝えてもらえるかな? そうすれば、俺の同胞たちがそいつを罪人として告発できるかもしれない」


「わかった。約束するよ。……それで、リフレイアのほうはどうしよう? 次にあの娘の顔を見たら、僕は頭ごなしに怒鳴りつけたくなっちゃうと思うんだけど」


「いや、それは危険だよ。俺とディアルがこうして顔を合わせたってことも絶対に悟られないほうがいい」


「うーん、だけどあの娘はたぶんその内、アスタのことを僕に自慢してくると思うよ? お前のお気に入りの料理人を手に入れてやった! とか言ってさ」


「え? そんなことをしたら、人さらいの罪も露見しちゃうじゃないか?」


「そこは隠して、銀貨で雇ったとか何とか言うんじゃない? あの娘の性格からして、とにかく黙っていられるわけがないもん」


 何と向こう見ずで、破綻した娘であろうか。

 それはこちらのつけいるスキになるのかどうか――今のところは、悪い方向にばかり働いてしまっている気がする。


「その場合は、適当に話を合わせておいてもらえると助かる、かな……俺はとにかく、宿場町への伝言役を果たしてもらうことが1番ありがたいんだよ。そのためには、なるべく警戒されないほうがいいと思う」


「うー、わかった。何とか我慢してみる。こんなことになったのも、僕が原因なんだもんね。……本当にごめんよ、アスタ……」


 と、ディアルは最後にまたしょげた顔になってしまう。

 もはや笑顔を浮かべる気力も振り絞ることはできなかったが、俺はその肩を力づけるように叩いてやった。


「そんな何度も謝らないでくれよ。それに、ディアルにも一緒に食べてもらえているなら、俺も明日からはそこまで虚しい気持ちにならずに料理を作れると思うよ?」


「……うん。僕もアスタの料理を食べられるのは嬉しいよ」


 はにかむように笑うディアルにうなずきかけてから、俺は窓に手をかけた。

 番犬や歩哨の影がないことを念入りに確認しつつ、再びロッククライミングの真似事に興じる。


 汗だくになって部屋に帰りつくと、同じ態勢で寝台に横たわっていたシフォン=チェルの柔らかい眼差しに出迎えられた。


「アスタ様……またお会いすることがかなってしまいましたね……」


 口もとと腕の拘束を解放すると、同じ目つきのままシフォン=チェルは微笑みかけてきた。


「お気を悪くなさらないでいただければ幸いなのですが……またお会いできて、わたくしはとても嬉しく感じてしまっております……」


 この館にも、色々な人々の営みがあるのだ。

 根っからの悪党なんて、その中には何人もいないのかもしれない。


 しかしそれでも、俺の胸は悲しみと苦悩と無力感にふさがれてしまっていた。

 この異世界にやってきて、ふた月半――俺はついに、アイ=ファのいない夜を過ごす境遇に陥ってしまったのである。


 アイ=ファはどのような思いでこの夜を過ごしているだろう。

 窓から見える青白い月に視線を飛ばしながら、俺は胸中に生じた疼痛を必死にこらえることしかできなかった。

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