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異世界料理道  作者: EDA
第十一章 石の館
192/1675

③シフォン=チェルとロイ

2015.5/31 更新分 1/1

 夢を見た。


 夢の中で、アイ=ファが泣いていた。

 アイ=ファが怒っていた。

 アイ=ファが笑っていた。


 色々なアイ=ファが色々な表情を見せては消えていく。胸の張り裂けそうになる悲しさと、胸の詰まるような幸福感の混在する夢だった。


 アイ=ファの涙に濡れた瞳が俺を見る。

 アイ=ファの冷ややかな目が俺をにらむ。

 アイ=ファの温かい眼差しが俺を包みこむ。


(一生、私のそばにいてくれ)


 これは、いつの光景だっただろう。

 闇の中で、アイ=ファがしっかりと俺の身体を抱きすくめている。


(私も一生、お前のかたわらにあると誓う)


 俺だって、何度でも誓ってみせよう。

 アイ=ファがそれを許してくれる限り――そして、この世界が俺を拒絶しない限り、俺はアイ=ファとともに在る。


 アイ=ファのそばを離れるのは、この身が朽ちるときだけだ。

 運命神だか悪魔だかがまたおかしな気まぐれを起こして俺の存在を燃えさかる炎の中に引き戻すまで、俺はアイ=ファのかたわらに在ると誓う。


(……もう俺は、誰も失いたくないんだ……)


 あの日、俺はすべてを失ってしまった。

 もう1度その絶望を味わわされるなんて、俺には絶対に耐えられない。


(だからアイ=ファ――)


 その手を、離さないでくれ――


 ゆらゆらと虚空をたゆたいながら、俺はアイ=ファの身体を抱きすくめる。

 しかし、アイ=ファの存在は俺の腕の中で散り散りに霧散してしまい――


 そして俺は、覚醒した。


              ◇


「……あれ?」


 気づくと俺は、自分自身の身体を抱きすくめるような格好で横たわっていた。


 あれほど明瞭に見えていた夢の中の情景がするすると記憶の外に逃げていき、ただ漠然とした寂寥感の余韻みたいなものだけが心に残されていく。


 俺はいったい、こんなところで何をしているのだろう。

 頭の中にはもやもやと白い霞がかかっていて、思考も感情もうまく定まらない。


 今はいつで――ここはどこだ?


 ぼんやりと霞んでいた視界が次第に焦点を結んでいく。

 まず見えたのは、見慣れない漆喰の天井だった。

 俺が横たわっているのは、寝台だ。

 ふかふかの布団が背中に心地好い。


「ふとん……布団だと!?」


 俺は、がばりと身を起こす。

 とたんに強い目眩に襲われて、そのまま崩れ落ちそうになる。


 確かにそこは寝台の上で、身体の下には柔らかい敷布団が敷かれていた。

 それも、森辺で見るような、厚手の布を重ね合わせたものではない。俺の身体をふんわりと抱きとめる、夢のように肌触りのよい高級そうな敷布団である。


 恐怖心が、ゆるやかに心臓を蝕んでいく。

 そんなことはありえない、と思いながら――まさか自分はまた見知らぬ世界にでも飛ばされてしまったのではないのか、という疑念にとらわれてしまったのだ。


 俺は額の冷や汗をぬぐいながら、周囲に視線を巡らせてみた。

 やっぱりこれまでに見たこともないような造りをした部屋の中だ。


 四方の壁は、やや黄色みを帯びた白い煉瓦のようなもので形成されており、右手側には両開きの扉が設置されている。

 それ以外の三面は背の高い衝立のようなもので視界をふさがれてしまっていたが、天井の面積から計測するに、8畳ぐらいの広さはありそうだった。


 寝台のすぐそばには、花瓶の載せられた小さな木の卓と椅子が置かれている。

 調度と呼べるのは、それぐらいのものだ。


 しかし、その卓や俺の寝かされている寝台には精緻な彫刻が施されており、みすぼらしい感じはまったくしなかった。

 このふかふかの敷布団にだって、きっと羽毛か何かが詰め込まれているのだろうし、表面の生地も普通の布ではなくシルクのようにさらさらだった。


 屏風には、藍色の背景に色とりどりの輝く糸で得体の知れない鳥の姿が刺繍されている。孔雀や鳳凰のように絢爛で、なおかつそのクチバシにはこまかい牙がずらりと生えている、鳥と爬虫類の中間みたいな奇怪な姿だ。

 その正体は不明なれど、とにかくきらびやかで手のこんだ、いかにも金のかかっていそうな造作である。


 なおかつ、床に敷きつめられているのは毛足の長い絨毯だ。

 ペルシア風というかトルコ風というか、極彩色の複雑な幾何学模様が織りこまれており、その豪奢さと煉瓦造りの無骨な壁が、奇妙な調和を生み出している。


 重厚で、かつ贅を凝らした一室であった。

 少なくとも、牢獄などの類いではないらしい。

 しかし――このような様式の部屋を、俺は知らなかった。


「いったい何なんだよ、ここは……」


 俺の故郷とも、森辺の集落とも、ジェノスの宿場町ともまったく異なる、煉瓦造りの部屋。


 俺の中に生じた不安感は膨らむ一方であった。

 俺はいったんまぶたを閉ざし、ぼやけ気味の頭を軽く拳で小突いてから、意を決して立ち上がる。


 それと同時に、その声が響きわたった。


「あら……お目覚めになられたのですね……?」


 どきりと心臓が跳ね上がる。

 声のあがった方向に視線を動かすと、枕側の屏風の向こうから、ゆらりとその人物は姿を現した。


「申し訳ありません。気づくのが遅れてしまいましたわ……お気分はいかがですか……?」


 少しだけヴィナ=ルウを彷彿とさせる、けだるげで間延びした声だった。

 しかしもちろん、ヴィナ=ルウではない。それはヴィナ=ルウよりも長身で、なおかつヴィナ=ルウと同じぐらい見目の整った若い女性だった。


 肌の色が、陶磁器のように白い。ジャガルの民よりも白いかもしれない。

 髪の色は、蜂蜜のような金色だ。その美しい髪が、ぐるぐると渦を巻きながら腰のあたりまで流れ落ちている。

 そして、瞳の色はアメジストのような紫色である。

 カミュア=ヨシュ以外にそのような瞳の色をした者を見るのは、これが初めてのことだった。


「わたくしはあなたの身の回りのお世話を仰せつかった、シフォン=チェルと申します……あなたは、ファの家のアスタ様ですね……?」


 ファの家のアスタ。

 俺はまだ、その名で呼ばれる世界に居残ることができていたのか。

 俺は柔らかい敷布に両手をつき、めいっぱいの力で安堵の息をつかせていただいた。


 しかし、安堵ばかりもしていられない。

 それならそれで、俺は許されざる悪漢どもに拉致されてきた状態にある、ということなのだから。


 頭の中身が今ひとつおぼつかないのは、おかしな薬で強引に意識を奪われてしまった後遺症なのだろう。あれはやっぱり、睡眠作用のあるメレメレの葉から抽出されたエキスか何かであったのだろうか。


 そんな頭で、アイ=ファや、シン=ルウや、ルド=ルウのことを思いながら、俺はぎりっと奥歯を噛み鳴らした。

 絶望感に打ちひしがれている猶予もない。ここは、敵陣なのだ。


「大丈夫ですか……? お気分がすぐれないのでしたら、もう少しお休みになられたほうが……」


「いや、大丈夫です」


 俺はあらためて、そのシフォン=チェルと名乗る人物に向き直った。


 美しい女性である。

 彫りの深い、北欧的な顔立ちだ。ただ、顎のあたりの線が柔らかくほっそりしているので、とても優美な感じに見える。


 なかなかに背が高い。たぶん俺よりも高いぐらいだろう。その女性らしい起伏にとんだ長身に、ゆったりとした白い長衣を巻きつけている。

 また、髪や手足や胸もとにはたくさんの飾り物が下げられており、それが金色の髪や白い肌と相まって、まるでギリシア神話の女神みたいな風情であった。


 年齢はいくつぐらいなのだろう。背は高いし落ち着いた雰囲気をしているが、どことなく表情はあどけなくも感じられる。


「あの、ここはいったいどこなんですか? もしかしたら――ジェノスの城下町ですか?」


 彼女は俺をファの家のアスタと呼んだ。その上でこの室内の様子に鑑みると、俺にはそれぐらいしか解答はないように思われた。


 シフォン=チェルは、口もとを押さえてころころと笑う。


「まあ……アスタ様にはそのようなことすら知らされていなかったのですか……? ですが、申し訳ありません……わたくしには余計な口をきくことは許されていないのです……」


「それじゃあ、話のわかる人を呼んできてください。俺は刀で脅されて、無理矢理こんな場所まで連れてこられてしまったんですよ?」


「そうですか……それでは階下にご案内いたしましょう……」


 シフォン=チェルが、しずしずと俺のほうに寄ってくる。

 俺は思わず身構えてしまったが、彼女は寝台ではなく卓のところで足を止めた。


 その白魚のような指先が、花瓶の陰にあった銀色の物体を拾いあげる。

 それは、やはり精緻な彫刻の施されたハンドベルであるようだった。

 ちりんちりんと軽妙なる音色が響きわたり、それに応じて、部屋の扉が外から開かれる。


「ファの家のアスタ様がお目覚めになられました……階下にご案内しようと思います……」


 扉の外には、2人の兵士が立っていた。

 どちらも中肉中背で、黄褐色の肌をしているから西の民だろう。近衛兵ほどではないが装飾性の強い革の鎧を纏っており、腰には細身の長剣を下げている。


 とりあえず、俺を拉致した悪漢どもとは別人のようだ。


(サンジュラ……あれは本当にサンジュラだったのか?)


 意識が途絶える寸前に聞いた声は、夢であったのか現実であったのかも判然とはしない。

 しかし、あの悪漢は黒い肌と長身痩躯、それにシン=ルウが気圧されるほどの力量をも有しており、そして――左手で短剣を握りしめていた。


(だけど、どうしてサンジュラが? あの人は、こんな薄汚い悪巧みに加担するような人だったのか?)


 答えは、むろん闇の中である。

 ただ、俺とネイルの関係性というものを把握していない限り、あのような悪巧みは成功していなかったと思う。

 一介の商売相手であるに過ぎないネイルを人質にとって、俺に言うことを聞かせることができるのか。それを知るには、あるていど俺やネイルの人となりというものをわきまえておく必要があるはずだ。


 然して、サンジュラは俺の屋台の常連客であり、《玄翁亭》の逗留客でもあった。

 それならば、ネイルが森辺の民の理解者であるということも、俺みたいな人間がネイルという存在をどのように扱うかということも、容易に察知することができるのではないだろうか。


 考えれば考えるほど、胸が苦しくなってくる。

 森辺の同胞とも大事な三徳包丁とも引き離され、着の身着のままこのような場所までかどわかされたあげく、俺は一方的な友愛をかたむけていた相手に手ひどく裏切られてしまったのかもしれなかった。


「では、まいりましょう……」


 しゃなりしゃなりとシフォン=チェルは兵士たちのほうに近づいていく。

 内心に満ちるさまざまな感情を抑えこみつつ、俺もそれに従った。


 扉の外には、回廊が伸びていた。

 やはり壁は煉瓦造りで、足もとには絨毯が敷きつめられている。天井は高いが、回廊の幅はそんなに広くもない。それに、壁の高い場所に明かり取りの小窓が穿たれているだけなので、たいそう薄暗かった。


 前と後ろを兵士たちにはさまれる格好でその回廊を10メートルばかりも進んでいくと、やがて行く手には石造りの螺旋階段が現れる。


 階下に下りても、また代わり映えのしない回廊である。

 何というか、閉塞感を感じさせる造りであった。


「こちらです……」


 やがて正面に、ひときわ大きな扉が現れる。

 兵士のひとりが無言でそれを押し開けると、むわっと生あたたかい空気が五体にからみついてきた。


(何だ、この部屋は?)


 これといった調度もない、それこそ牢獄のような一室である。足もとも、煉瓦だか石だかが剥き出しだ。

 ただし正面にはまた大きな扉が設置されているので、ここは次の間か何かなのであろうと察せられる。


(……ってことは、この向こうにこんなふざけた命令を下した首謀者がいらっしゃるってわけか)


 こんな真似をする人間は、サイクレウスの他には考えられない。

 が、政に携わる貴族たちは本日から城に詰め切りになっているはずだとも聞いている。

 まさかここがジェノス城の本丸だとまでは思えないのだが――いったい真相はどうなのであろう。


「どうぞ……」とシフォン=チェルが恐れ気もなく進んでいく。

 兵士たちは、奥の扉の左右に並ぶ格好で足を止めた。


 そうして、シフォン=チェルが扉を開けるなり――今度は尋常でない熱気と湿気が堰を切って襲いかかってきた。


「うわあっ」と思わず叫んでしまったところで、冷たい指先に手首を握られる。


「さ、早く……熱気が逃げてしまいますわ……」


「な、何なんですか、この部屋は?」


 背後で扉がぴたりと閉ざされてしまう。

 室内には、白い蒸気が満ち満ちていた。

 部屋の奥ゆきもわからない。それぐらい濃密な蒸気である。


 それに――ほんの少しだけ、香草の匂いも感じられる。

 リーロともピコともメレメレとも異なる、ちょっとヨモギにも似た香りだ。

 まったく嫌な匂いではないが、警戒心は高まる一方である。


「……どうかなさいましたか……?」


 白い靄の向こうでシフォン=チェルが微笑んでいる。

 その手が背中のほうに回されたかと思うと、白い長衣がしゅるりと足もとに滑り落とされた。

 蒸気よりも白い裸身が、惜しげもなく俺の目の前にさらされる。


「な、な、何をしてるんですか、あなたは!?」


「何、と申されましても……わたくしはアスタ様の身支度をお手伝いするように命じられておりますゆえ……」


 そんなことを述べながら、今度は手足の飾り物まで外していくシフォン=チェルである。


 かろうじて、彼女は腰の回りに下帯のようなものを巻きつけているようだった。

 ただし、それ以外は完全に裸身である。

 蒸気がこれほどに濃密でなかったら、俺はもう5割増しで惑乱することになっていたと思う。


「さあ、アスタ様もお召し物を……」


 白いなよやかな腕が2匹の蛇みたいに俺のほうへと伸びてくる。

「うひゃあっ」とわめきつつ、俺は閉ざされた扉に背中をへばりつかせた。


「み、身支度って、もしかしたらここは風呂場なんですか!?」


「風呂場……? ここは浴堂です……」


 やっぱりか。

 日本でも、江戸時代になるまでは湯船につかるのではなく蒸し風呂のほうが主流であったのだと聞きかじったことがある。

 が、そんな解答が得られても、もちろん俺の心は安らがなかった。


「何はともあれ、まずは身を清めなければなりません……さ、お召し物をこちらに……」


「こ、ここが浴室だということは理解しました! 身を清めろというなら、それにも従いましょう! ただし、お手伝いは不要であります!」


「あら……だけれど、わたくしも仕事を果たさなければ鞭で打たれてしまいますわ……」


「仕事? こんなことが、あなたの仕事だっていうんですか!?」


「はい……お客人をもてなすのが、わたくしに与えられた生の意味なのです……」


 うっすらと微笑みながら、シフォン=チェルが俺のほうににじり寄ってくる。

 彼女はやっぱり、俺よりも5センチばかりは長身であるようだった。


「特に垢擦りは得手にしておりますゆえ、何もご心配は不要です……」


 その白魚のような指先が、俺のTシャツの内側にするりと潜りこんでくる。


「あら……アスタ様は、女人のようになめらかな肌をしておりますのね……これは磨き甲斐がありそうです……」


 俺は魂の奥底から救助を求める絶叫を振り絞ることになった。

 が、それは浴堂の蒸気をかき回すばかりで、どこからも救いの手がもたらされることはなかった。


              ◇


 およそ、20分後。

 その身に纏った汚れとともに人間としての尊厳的な何かをこそぎ落とされてしまった俺は、兵士たちの待つ次の間でがっくりと崩れ落ちることになった。


「……やはりまだお身体のほうが完全ではないのでしょうか……?」


 心配そうに、シフォン=チェルが覗きこんでくる。

 そんなことはないですと答えたつもりだったが、あんまりはっきりとは発音できなかった。


 俺の身には、浴堂に準備されていた新品の衣服が着させられていた。

 乳白色の袖なしの胴衣と、バルーンパンツみたいにだぶだぶの足衣である。上から下まで白ずくめで、革の靴だけが駱駝色だ。


「それでは参りましょう……だいぶ日も下がってきたようですので……」


「あ、待ってください。俺の服はどうするつもりなんですか?」


 俺がかつて着ていた服は、草で編まれた籠の中でゴミのように丸められてしまっていた。


「はい……よろしければ、これはこちらで処分させていただこうと思っておりましたが……」


「それは困りますね。俺にとっては、どれも大事な服なんです」


 言いながら、俺はその籠の中から牙と角の首飾りを引っ張りだし、そいつを首にひっかけた。


「残りの服も、きちんと捨てずに取っておいてくださいね。帰るときには、また着替えさせていただきますから」


 何とか気力を振り絞ってそのように述べてみせると、シフォン=チェルは楽しそうににっこりと微笑んだ。


「了承いたしました……その際は、またお手伝いをさせていただきます……」


「お気遣いなく!」とわめきながら、俺は立ち上がった。


「では、参りましょう……」


 兵士たちと合流して、また回廊を歩き始める。

 螺旋階段を無視して、今度はそのまま直進だ。

 何度か道を曲がったが、なかなか開けた場所に出ない。閉塞感が強いばかりでなく、何だかちょっとした迷宮みたいな造りであった。


「こちらです……」と、シフォン=チェルが再び扉の前で足を止める。


 今度こそ、憎き首謀者とのご対面だ。

 刀で脅して拉致したあげく、謁見の前に浴堂で身を清めさせるとは、いかにも貴族らしい馬鹿げたやり口ではないか。

 まずは穏便に宿場町まで帰してもらうことを考えねばならなかったが、この胸中に生じた反感を完全に抑制することができるのか、はなはだ心もとなかった。


 しかしそれでも、短慮だけは禁物である。

 絶対に、何としてでもこの窮地をやりすごして、アイ=ファたちのもとに帰るのだ。


 そんなことを考えながら、扉をくぐった俺は――またしても肩透かしをくらう羽目になった。


「な……」と思わず立ちすくんでしまう。


 これぐらいの展開は予測して然るべきであったであろうか。

 そこは尊大なる貴族の待ち受ける謁見の間などではなく、もっと俺には馴染みの深い場所――すなわち厨房であったのだ。


「さあ、どうぞ……ここがアスタ様の仕事場です……」


 料理人たる俺をさらってきたのだから、やはりその目的は料理を作らせることにあったのだろう。

 そういえば、サンジュラと思しき悪漢も「主人に腕をふるってほしい」とか言っていた気がする。


 しかし、事情を説明する前に料理を作らせようだなんて、そんなふざけた話があるだろうか。


「これはいったいどういうことなんですか? 説明をお願いいたします」


 その厨房の有り様にはぞんぶんに興味をひかれつつ、俺は硬質の声でそのように言ってやった。

 兵士たちはまた外に控えて入室しようとしなかったので、にこやかに応じてくれたのはやはりシフォン=チェルである。


「主人は、アスタ様の料理を所望されているのです……詳しくは、ロイ様からお聞きになってください……」


「ロイ? 誰ですか、それは?」


「アスタ様をお手伝いする、この館の料理人のおひとりです……ロイ様、いらっしゃいますか……?」


 シフォン=チェルが少し声を大きくすると、厨房の奥で半開きになった扉の向こうから「うるせえな」というぞんざいな声が返ってきた。


「ようやく到着か。こっちにだって仕事があるってのに、まったくいい迷惑だぜ」


 そんな不平の言葉とともに、ひとりの若者が姿を現す。

 20歳かそこらの、西の民の若者だ。

 頭には筒型の帽子をかぶり、その身に纏っているのは俺とおそろいの白装束。確かに料理人らしいいでたちだ。


 帽子からは褐色の髪がこぼれており、象牙色の顔にはそばかすが散っている。身長や体格は俺とあんまり変わらないぐらいで、あんまり逞しい感じはしない。


「ふーん。お前が今日の飛び入りか」


 その茶色い瞳に不審の光をたたえつつ、若者はじろじろと俺の姿を検分し始めた。

 いかにも育ちの良さそうな優男風の顔立ちであるのに、やたらと不機嫌そうな面持ちである。


「ま、何でもいいからとっとと始めてくれ。そっちの仕事を終わらせてくれないと、俺の仕事が始められないんだよ」


「ちょっと待ってくださいよ。俺は問答無用で拉致されてきたんですよ? それでいきなり料理を作れって、これはいったい何の冗談なんですか?」


 俺が抗議の声をあげると、ロイなる若者はいかにも嫌そうな顔をしてシフォン=チェルのほうを振り返った。


「おい、全然話が伝わってないじゃねえか? 俺が命じられたのは、こいつの調理を手伝えってことだけなんだぜ?」


「申し訳ありません、ロイ様……あの、仕事の内容についてはすでに伝わっているものと、わたくしもうかがっていたのですが……」


「全然伝わっていませんよ。さっきも言った通り、俺は刀で脅されて無理矢理連れてこられただけなんですから」


 どうにもこのシフォン=チェルやロイという人々は悪事に加担するような人柄にも思えなかったので、俺はそのように主張してみた。

 が、シフォン=チェルは礼儀正しく微笑むばかりで、ロイのほうは興味もなさげにそっぽを向いてしまう。

 悪事に加担するような人間ではなくても、俺の境遇に同情するような心を持ち合わせてもいないらしい。


「それでは、ご説明させていただきます……わたくしどもの主人が、アスタ様の料理を所望しておられるのです。それで満足のいく料理を作っていただければ、褒美を取らせると……わたくしはそのように聞いております」


「お断りします。――といったら、どうなります?」


「それは……おそらく革鞭で打たれることになるのではないでしょうか……」


「そんな無法が、このジェノスで許されるのですか?」


 思わずカッとなって言い返してしまうと、シフォン=チェルは「いいえ……」と、けだるげに首を振った。


「革鞭で打たれるのは、わたくしです……きっと主人は、わたくしに何か粗相があったのだと見なすでしょうから……」


「何ですかそりゃ。あなたが叩かれる道理だって、どこにもないはずでしょう?」


「……主人がわたくしの身を打つのに、道理は必要ありません……」


 その言葉で、俺は胸中にわだかまっていた小さな疑念の答えを得ることができた。


「シフォン=チェルと仰いましたよね。もしも間違っていたら謝罪させていただきますけど――ひょっとしたら、あなたはマヒュドラの民なんですか?」


 シフォン=チェルは、またおかしそうにくすくすと笑う。


「余計な口をきくことは許されておりませんが……わたくしをそれ以外の民と見誤る御方はいないでしょうね……」


 やっぱりか、と俺は嘆息する。

 敵対国であるマヒュドラの民は、西の王国セルヴァにおいて奴隷として使役させられているのである。


 だとしたら、やっぱりここはサイクレウスの館であるに違いない。

 マヒュドラから遠く離れたジェノスの近辺では、サイクレウス以外に奴隷を買うような人間はいない、と――カミュア=ヨシュは、かつてそのように言っていたのだから。


(胸糞が悪いにもほどがあるぞ、畜生め)


 その気の毒な境遇にある娘さんに綺麗にされたばかりの頭をかきむしりつつ、俺は改めてシフォン=チェルに向きなおる。


「それじゃあ料理を作ったら、俺はきちんと家に帰してもらえるんですか? 俺を拉致した連中はそのように言っていたはずなんですが」


「はい……ですが、必ずその力を惜しまずに仕事を果たすように、と……あまりにひどい出来栄えであった場合は、宿場町での商売を禁ずると申しておりました……」


「それこそ道理もへったくれもないじゃないですか! ――あの、いちおう確認させていただきますが、ここはトゥラン伯サイクレウスのお屋敷なのですよね?」


 返事はない。

 シフォン=チェルは子供をあやすような面持ちで微笑んでおり、ロイという若者は気取った仕草で肩をすくめている。


「状況的に、そうだとしか考えられないんですよ。……それともまさか、ここはジェノスの城内なのですか?」


 この言葉には、「ハッ」という嘲りの鼻息が返ってきた。


「ジェノス城だって? 馬っ鹿じゃねえの? 森辺の民だか宿場町の民だか知らねえけど、そんな下賤の輩に入城が許されるはずねえだろうによ」


「違うのだったら、それでかまいません。しかし、トゥラン伯は今日から城に詰めているはずですよね? それなのに、どうして俺がこのような目にあうことになってしまったのか、それが俺にはわからないんですよ」


「アスタ様……非常に申し訳ないのですが、わたくしどもには限られた言葉しか語ることを許されていないのです……」


「それじゃあ本当に、こんな馬鹿げたことをしでかした首謀者が誰かも明かさないまま料理を作れっていうんですね? で、満足がいけば褒美を取らせて、満足がいかなければ宿場町の店を取り潰し、ですか」


「いえ……宿場町の店に関しては、アスタ様に力を惜しまないでほしいという心情から述べられた言葉でありますので……よほどのことがない限りは、そのような罰を受けることにはならないはずです……」


「だけど、料理の善し悪しなんて食べるほうが好きに採点できるわけじゃないですか?」


「はあ……」と、シフォン=チェルは困ったように首を傾ける。


「ですが、主人が望んでいるのは美味なる料理、それだけなのです……何もアスタ様に含むところがあっての行いではありませんし、むしろアスタ様の腕を見込んだからこそ、この館に招待したのでしょう……ですから、ご心配は不要と思われます……」


「料理が口に合おうが合うまいが、それさえ済んだら俺を家に帰してくれるっていうんですか? そいつがよっぽどひどい出来じゃない限りは、宿場町の商売にも干渉しない、と?」


「はい……わたくしはそのように聞いております……」


「その言葉を信用できれば、俺もずいぶん気持ちが楽になるんですけどね」


 しかし、姿も見せぬ相手をそのように信用できるはずもない。

 力ずくの拉致も辞さない相手とあっては、なおさらだ。


 だが――この状況は、いったい何なのだろう?

 確かにサイクレウスは名うての美食家だと聞いていたが、今まさに旧悪を暴かれんとしているこのような時期に、このような真似をするものだろうか?


 異国人でありながら森辺の民を名乗り、宿場町で商売を始めた、そんな俺が目障りに感じられるというのは当然の話かもしれないし、美食家であるならば俺の腕前に興味を持つこともありえなくはないかもしれない。


 しかし何故、今なのだ?


 森辺の装束を纏った野盗に農園を襲わせたり、ミラノ=マスの娘さんを襲わせたり、そうかと思えば、いきなり森辺の民を擁護するような言葉を衛兵に伝えさせたり――そういった数々の陰謀と比して、今回のやり口はあまりに杜撰であるように感じられてしまった。


 いや、白昼堂々と刀で脅して俺の身柄を自分の館に招き入れるなんて、杜撰という言葉では足りないぐらいだろう。


 ネイルや俺の証言があれば、きっとこの罪は告発することができる。

 サイクレウスにも負けぬ位を持つメルフリード本人に伝えてしまえば有耶無耶にはできないはずであるのだから、それは確実だ。


 自分の足もとに火がついているこのような時期に、このように馬鹿げた罪を犯してしまう、サイクレウスとはそれほど愚かな人物であったのだろうか?


 それに――たった一夜の晩餐を所望しているだけならば、それこそ森辺の族長らにその旨を伝えればいいではないか。

 立場としては、サイクレウスのほうが上なのだ。護衛つきという条件さえ通るならば、ドンダ=ルウたちだってそこまで頑強には拒絶できないと思う。


 これはサイクレウスが関係している陰謀に違いないという確信に近い思いを抱きつつ、やはり何かがちぐはぐであると感じざるを得ない状況であった。


「あのさあ、だったら大人しく部屋に引っ込んでてくれねえかな? そうすりゃあ俺も余計な仕事が減って万々歳だよ」


 苛立ちのこもった声で、ロイがそのように述べてきた。

 そうするべきなのだろうか、と俺も真剣に考慮する。


 ミケルには、決してサイクレウスに料理の腕前を見せつけてはならじ、と忠告されているのである。


 いまだこの騒ぎの首謀者がサイクレウス本人であるという確証は得られていないが、せめてメルフリードが行動の自由を得る5日後まで、俺はあの煉瓦造りの部屋に引きこもっているべきなのだろうか。


「いえ、アスタ様……このような物言いをするのは本意ではありませんが……それはとても危険なことだと思われます……」


「危険?」


「はい……本日の主人は、かねてよりの望みを達することができたので、とても上機嫌でありますが……もしもアスタ様の行いに腹を立ててしまったら、それこそ道理もなく鞭で打たれることにもなりかねません……」


「おいおい、余計なことを言うとお前のほうこそ鞭で打たれちまうんじゃねえのか?」


 小馬鹿にしきった口調でロイがそう言った。

 腹の底に押し込めておいた反感が、ぐらぐらと音をたてて煮え始める。


「わかりましたよ。どうあれ、俺に料理を作れっていうんですね」


 毒を食らわば皿までか。

 どのみち俺の命運は敵方に握られてしまっているのだ。


 こうなったら、カミュア=ヨシュの計略とドンダ=ルウらの尽力によってサイクレウスはいずれ失脚するのだと信じ、正面からぶつかるのが最善であるように思えた。

 サイクレウスが俺の料理に執着しようがしまいが、失脚してしまえば関係がない。


(それに――5日間もアイ=ファに会えないだなんて、そんなの我慢できるかよ)


 しかもアイ=ファは、俺がどこにさらわれたかもわからないまま、その時間を過ごさなくてはならなくなるのだ。

 アイ=ファにそんな苦痛と孤独を与えてしまうと想像しただけで、俺のほうこそ胸が破れてしまいそうだった。


(絶対に、何としてでも家に帰ってやる)


 そうして俺は、貴族の館で貴族のための料理を作ることになってしまったのだった。

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