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異世界料理道  作者: EDA
第十一章 石の館
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②陥穽

2015.5/30 更新分 1/1

 かくして、若干の遅延を見せながらも、俺たちの仕事は開始された。

 まずはいつもの通りに、屋台の商売からだ。


 今日のメンバーは、レイナ=ルウ、シーラ=ルウ、ララ=ルウである。

 気の毒なことに、リミ=ルウの参戦はまだミーア・レイ母さんに認められていないらしい。


 護衛役がいるのだから危険は軽減されるものの、それでもやはり次の会談――白の月の15日までは様子を見よう、というのがミーア・レイ母さんの考えであるらしかった。

 そこに末娘を溺愛しているというドンダ=ルウの意思がどれほど介在しているのかは、俺にはわからない。


「いっひっひ。リミには気の毒だけど、その間はあたしが存分に働かせてもらうからね!」


 とは、もちろんララ=ルウの言である。

 何だかんだ言って、なるべくは宿場町での仕事を妹に譲りたくないらしい。

 みんながそこまでこの仕事に執着してくれるというのは、ありがたい話だ。


「だけど、ターラなんかはリミ=ルウに会いたがってるんだよね。早くリミ=ルウにも働いてもらえるような日々がやって来てほしいものだよ」


 俺がそのように述べてみせると、ララ=ルウは即座にむくれた。


「何だよー、アスタはあたしよりリミのほうがいいっての? あたしだって、あのターラっていうちびっことはけっこう仲良くやってるんだよ?」


「もちろんそいつはわきまえてるよ。だけどほら、お姉さんだったら妹のことも考えてあげないとね」


「子供をあやすみたいに言わないでよ! 別にあたしがリミに意地悪をしてるわけじゃないじゃん!」


 ララ=ルウが頬をふくらませてしまう。

 その火に、ルド=ルウが盛大に油を注いでくれた。


「あー、要するにシン=ルウがいる内はなるべくリミには譲りたくないってことか? 会談の日までは護衛が外れることもないだろうしなー」


「全然! ひとつも! そんな話はしてないでしょ!!」


 ララ=ルウが渾身の正拳突きを放ち、ルド=ルウはスウェーバックでそれを回避する。

 何とも和やかな情景である。


 この少し前にザッシュマが定時連絡に来てくれたので、和やかならぬ話はそのときに済ませておいた。


「森辺の民は無実であるという風潮をいったん作りあげてから、あらためてそいつをぶち壊す、か。……それはまたずいぶん込み入った話を考えついたもんだな、お前さんも」


 ザッシュマはそのように言っていた。


「しかしまあ、サイクレウスという御仁ならば、それぐらいのことは考えつくかもな。俺は顔を合わせたこともないが、ずいぶん陰険なじいさまなのだろう?」


「俺だって顔を合わせたことはありませんけどね。陰謀劇の悪役になったつもりで考えてみたのですよ」


「ふん。料理を作るばかりでなくそのようなことにまで頭を回せるとは、なかなか大したものじゃないか」


 ザッシュマは黄褐色の頬を撫でながらにやりと笑う。


「その調子で、用心に用心を重ねておくことだ。……実はな、お城のほうでは今日から大きな会議が執り行われる予定なんだよ」


「はあ、大きな会議ですか?」


「ああ、そうだ。今日から白の月の9日までの5日間、国政を担う貴族様たちは城に詰め切りになって、あれやこれやとジェノスの行く末を取り決めるらしい。だからその期間は、サイクレウスやその弟君が動けなくなる代わりに、こちらもメルフリード殿とはほぼ連絡がつけられない状態になるわけだな」


「なるほど。だからいっそうの用心が必要ということですか」


「ああ。安心するよりは用心するほうが利口だろう。……もっとも、あちらだって裏の仕事をまかせられるような手駒はそうそういくつも持ってはいないはずだがな」


 そう言って、ザッシュマは肉厚の肩をすくめた。


「だから、理想を言えばこの期間に《北の旋風》らが戻ってきてくれると面倒が少なかったんだが、相変わらず連絡のひとつもよこしてはこない」


「そうですか。俺の勘ぐりが当たっていたら、1番危険なのはカミュアたちということになりますから――やっぱりちょっと心配ですね」


「ふん。その反面、心配するのが馬鹿らしくなるような顔ぶれでもあるがな。《北の旋風》に森辺の狩人が3名もついているなら、護民兵団の大部隊に囲まれても突破することは難しくないだろう。……もっとも、そんな真似をしたらそれこそ反逆罪の汚名をかぶせられてしまうかもしれんが」


 そんなことになったら、本当に《赤髭党》が討伐された10年前の再現となってしまう。

 メルフリードが目を光らせている以上、そこまで露骨な真似はできないと思うのだが、相手はサイクレウスという底の見えない相手であるのだ。いざとなったらどれほど悪辣なことをしてくるかわからない。


「何にせよ、俺たちは《北の旋風》らが戻ってくるまで足もとをすくわれないように気を張っておくしかない。森辺の狩人に守られたお前さんに危険が迫るようなことはそうそうないだろうが、とにかく油断だけはしないようにな」


 そのような言葉を最後に、ザッシュマは立ち去っていった。


(サイクレウスもメルフリードも自由に動けない5日間、か。確かに何だかきな臭い話だな)


 最悪の事態を想定するならば、こういう時期にこそ最大限の用心が必要になるだろう。朝から衛兵たちが常ならぬ動きを見せてきたのだから、なおさらだ。


 そんな思いを胸に屋台の商売に励んでいると、ちょっとひさびさにユーミがやってきてくれた。


「やあ! ごめんね、なかなか顔を出せなくて」


「いや、中天までしか店に居残れないのはこっちの都合だから。……その後、お父上のほうはどうだい?」


「うん! あの石頭もようやく気持ちが固まったみたい!」


 と、ユーミは満面の笑みで顔を寄せてくる。


「今日か明日、うちの店に来てくれないかな? とにかくいっぺんアスタと話をしてみたいってさ!」


「そうか。ユーミがうまくやってくれたんだね」


 俺の言葉に「あたしは何にもしてないよー」とユーミは手を振る。


「あたしはただ毎晩美味しいアスタの料理を食べて、その正直な感想を親父に伝えただけさ! 何とも幸せな5日間だったよ」


「そう言ってもらえると嬉しいよ。……でも、農園を襲う野盗の話は聞いてるんだよね?」


 それに加えて、俺はミラノ=マスの娘さんがかどわかされそうになった件も告げてみせた。

 最初は笑顔で聞いていたユーミもだんだん険しい顔つきになっていく。


「ふーん。この数日間で色々あったんだね。《キミュスの尻尾亭》の娘さんっていうと――あのちょっとはかなげな感じの娘かあ。うん、あの娘だったら、あんまり荒くれ者を上手にはあしらえないかもね」


「うん。だから正直、ユーミの店にも迷惑をかけることになるんじゃないかっていう不安がぬぐいきれないんだけど……」


「何言ってんのさ! そんなの、今に始まったことでもあるまいし」


 ユーミは笑い、主張の激しい胸の下で腕を組んだ。

 そして、ちょいとばっかり挑発的な感じで首をのけぞらし、横目で俺をにらみつけてくる。

 その口もとには不敵な微笑が浮かび、人を小馬鹿にした感じで片方の眉が吊り上がり――いきなりユーミはガラの悪い、初めて出会ったときのような不良少女の顔になってしまった。


「そういえば言ってなかったけど、うちの客筋は《キミュスの尻尾亭》ほどお上品じゃないんだよ。ごろつきなんかもよく集まるし、刃傷沙汰だって珍しくない。無頼漢にからまれるなんて、うちの店じゃあしょっちゅうさ」


「あ、え、そうなのかい?」


「ああそうさ。昨日だって、尻をさわろうとした酔っ払いに果実酒をぶっかけてやったんだから。無法者も多いこの宿場町では、それぐらいやらないとなめられちまうんだよ」


 横を向いて、にやりと笑う。

 本当に、ひと月前にタイムリープしてしまったかのような感覚だ。


「だから心配はいらないよ。まあ、お上品な宿屋しか相手にできないってんなら、それはそれでしかたがないけどね」


「い、いや、そんなことはないよ。ユーミたちに無頼漢から身を守るすべがあるなら心強いぐらいさ」


「……本当にそう思う?」


「え? ああ、うん」


「こんな女に近づくんじゃなかったなあとか後悔してない?」


「そんなことは決してないよ」


「そっか。……よかった」


 と、ユーミはなめらかな額に手をそえて、小さく息をつく。

 そうしてもう1度顔を上げると、そこには善良で働き者の女の子としての表情が蘇っていた。


「アスタには最初っからバレてるけど、あたしはもともとこういう女だからさ。男相手にも容赦はしないし、衛兵の世話になったことも1度や2度じゃないし……アスタから見たら、それこそ町の無頼漢と変わらないんじゃない?」


「そんなことはないよ。ちょっとひさびさでびっくりしたけど、今のもユーミの素顔ではあるんだろうしね」


 俺はそのように答えてみせた。

 ユーミは「あー」とか意味不明の声をあげながら長い髪をかきあげる。


「そうそう、どっちも取りつくろってるわけじゃなくて、本当のあたしなんだよ。なんかアスタの前ではいっつもにこにこしてたから、こういうことすると嫌われちゃうかなーとか思ってたんだけど……本当に大丈夫?」


「大丈夫だよ。やっぱりにこにこしていてくれたほうが俺としては安心だけどね」


「ふん! アスタもお上品な育ちっぽいもんね、森辺の民のくせに!」


 やけくそのようにわめき、じっと俺の顔をにらみつけてくる。

 その頬が羞恥に染まっているのが、何だかむやみに可愛らしかった。


「で、どうなの? 今日か明日、《西風亭》に顔を出せる?」


「うん、今日は仕事がたてこんでいるんで、明日のほうが嬉しいかな」


「わかった。明日ね。……あ、うちの親父も見た目は無頼漢そのまんまだから、そこのところは覚悟しておいてね」


「うわー、そうなのか。事前に教えてくれてありがとう」


 ユーミは、にこりと楽しそうに笑う。


「それじゃあ帰るね。今日は母さんの分と、ふたつちょうだい」


 そうしてふたつの『ミャームー焼き』を手に、ユーミは帰っていった。

 大人しく口をつぐんでいたララ=ルウが「ねえねえ」と袖を引っ張ってくる。


「そんな次から次へと仕事の手を広げて大丈夫なの? あのキミュスの何ちゃらって店も入れたら、全部で4つの宿屋に料理を売るってことになるんでしょ?」


「うん、何とかそのあたりはやりくりできるはずだよ」


 午後で仕事に使えるのは、およそ3時間半。

 現在はその1時間ずつを《玄翁亭》と《南の大樹亭》に割り振り、残った時間はミラノ=マスへの料理の手ほどきにあてている。


 このままでいくと《キミュスの尻尾亭》と《西風亭》の両方から仕事を請け負うのは少し厳しいスケジュールとなってしまうが、改善の道は残されていなくもなかった。

 何も難しい話ではない。料理の下ごしらえを家で済ませて、ひとつの宿屋における作業時間の短縮を目指すのだ。


 レイナ=ルウたちに『ギバ・バーガー』の下ごしらえを託した今、家での仕事にはかなりのゆとりが出てきている。新しい献立の開発さえ済ませてしまえば、その時間を下ごしらえにあてることが可能になるわけである。


 だけどその前に《キミュスの尻尾亭》ではギバ料理に負けないキミュスとカロンの献立を考案し、《西風亭》では森辺の民やギバを忌避する親父さんを口説き落とす必要がある。頭を悩ませるのは、まずそちらからだ。


 そして何より、サイクレウスの件がある。

 ユーミにはあのように告げたが、俺としては10日後の会談を終えるまでは正式に仕事の手を広げるつもりはなかった。


(森辺の民を貶めるために、どんな手段を使ってくるか知れたもんじゃないからな。ここは慎重に情勢を見極めるべきだろう)


 これは、宿場町との縁を繋いでいこうとする俺たちと、それを断ち切らんとするサイクレウスたちの勝負であるのかもしれないのだ。

 まだ何も確証を得た話ではないが、とにかく可能な限り息を潜めて、水面下で地盤を固めていくのが得策であると、俺はそのように考えていた。


「アスタ、お待たせしました」


 と、ふいに呼びかけられて、俺は我に返る。

 護衛役のルティムの少年とともに、リィ=スドラが屋台の脇に立っていた。


「あれ? もう中天になってしまいましたか」


「はい。どうかされましたか?」


「いえ、何だかあっという間だったなあと思って」


 今日はひさしぶりにユーミがやってきてくれた。が、言葉を交わしたいと思っていたそれ以外のお客さんたちがまだ姿を現していなかったのだ。


 ディアルはしばらく顔を出せないと言っていたから、まあ仕方がない。

 しかし、ミケルやサンジュラに会えなかったのは、少しばかり心残りであった。


 特にミケルには、今日こそ「炭」について問い質してみようと思っていたところなのである。


(まあ、明日以降にもいくらでもチャンスはあるか。……だけど、サンジュラはどうしたんだろう)


 サンジュラには、べつだん用事もない。

 ただこの数日は毎日顔を合わせていたので、物寂しく感じてしまっただけだ。


(ついに右腕の怪我が治って、働き始めたのかな。それならそれで喜ばしいことだけど――あの人は、旅から旅への風来坊なんだもんな。森辺にも足を踏み入れてみたいとか言ってたけど、いきなりジェノスを出ていくようなことになっちゃったら、かなり寂しいぞ)


 などとガラにもないことまで考えてしまう。

 俺はやっぱり、シュミラルの面影をサンジュラに重ねてしまっているのであろうか。

 シュミラルは白銀の髪、サンジュラは栗色の髪、と東の血筋としては少し珍しい色合いの髪をしているというだけで、そこまで似通った部分があるわけでもないのだが。


(シュミラルやバランのおやっさんたちも、みんな元気にやっているのかな……)


 そんな思いを馳せながら、俺はレイナ=ルウらとともに《玄翁亭》へと出立した。


「なあ、もういっぺん聞いておくけどよ、ジーダってやつはもう俺たちを襲ってきそうにはないんだよな?」


 用心深く周囲に視線を配りつつ、ルド=ルウが問うてくる。


「うん。少なくとも、俺やアイ=ファはそう思ってるよ」


「ふーん。それならまた何に用心すればいいかもわからない状態に逆戻りか。何も起きなきゃそれが1番だけど、張り合いがねーよな」


 そんな風にぼやきながらも、ルド=ルウの目は鋭く輝いている。

 実際のところ、何をどう警戒すればいいかもわからない相手に何時間も気を張っていなくてはならないというのは、相当に精神力を削られることなのだろう。


 ルウの眷族が狩人としての仕事をおおっぴらに休めるのは、およそ半月。その期間を、ルド=ルウたちはまるまるこの警護の仕事にあててしまっているのである。

 明後日からの2日間は、ルド=ルウたちも存分に骨休みを満喫してほしいなと願う。


「よし。それじゃあシン=ルウ、中は頼んだぞ?」


 そんなこんなで、本日も無事に《玄翁亭》に到着した。

 ルド=ルウと2名の少年が外に残り、俺とレイナ=ルウとシン=ルウは扉を開けて店内に踏み込む。


「お待ちしていました、アスタ」


 いつでも無表情の主人ネイルに迎え入れられる。

 今日も《玄翁亭》には客の姿が見当たらず、しんと静まりかえっていた。

 そういえば、俺は《玄翁亭》での仕事を請け負って以来、3日前のミケル以外にお客の姿というものを見かけたことがなかった。


「この時間は、だいたいどのお客様も商売か食事のために外へと出ていってしまいますね。そうでなくては、なかなかわたしひとりで店を切り盛りすることもできませんが」


「ああ、なるほど。まあどこの宿屋でもこの時間は閑散としていますもんね」


 そしてこの《玄翁亭》は俺の知る限りもっとも規模の小さな宿屋であるため、余計に閑散としているように感じられてしまう、というわけか。


「しかし今日は珍しく、2階にお客様が居残っておられます。ずいぶん厳めしい顔をしておられましたので、何か難しい商談でも抱えておられるのでしょう」


「そうなのですか。……あの、それは無頼漢の類いではないですよね?」


「はい。なかなか上等の服を着た西の民と、物腰の柔らかい東の民のお客様です。その片方はもうけっこうな長逗留ですので、ご心配は無用かと」


 宿屋の人々にも気苦労をかけてしまい申し訳ない限りである。

 特にこのネイルは積極的に森辺の民と縁を繋いでくれようとしている人物であるので、ますます頭が下がってしまう。


「あ、こちらが今日の分の肉となります」


「ありがとうございます」


 皮袋の中にピコの葉とともに詰めたロースの塊が2・5キロ分。銅貨と引き換えにそれを得たネイルは、せっせと塩の詰まった瓶に移していく。


「そういえば、明日は予定通り50食分の肉で大丈夫でしょうか?」


 こちらも調理の準備を始めながらそのように聞いてみると、ネイルは「いえ」と首を横に振った。


「申し訳ありませんが、分量を変更させていただきたいと思っておりました。突然の申し出で恐縮なのですが、70食分に増やすことは可能でありましょうか?」


「え、70食分ですか?」


「はい。幸いなことに、わたしの作る簡単なギバの焼き肉もそれなりに好評であるようですので、アスタのいない2日間で30食ずつぐらいはさばける見込みが立ったのです」


 それは何よりの話である。

 ここのところはファの家もフォウやランの家も順調にギバを狩っているので、こちらの側にも問題はない。


「それでは70食分をご用意させていただきます。……本当にネイルには感謝の言葉もありません」


「それはこちらも同様です。ここ最近ではずいぶんギバ料理の話が広がって、晩餐の時間は食堂も連日満員となっているのです」


 と、ネイルはぴくぴくと口もとを引きつらせる。

 このあたりは、東の民ほど上手に表情を隠せないネイルであるのだ。


「その時間だけは、近所から手伝いを呼ぶようになりました。それでも十分な利益を得られてもいます。そして何より、お客様の満足そうな様子がわたしに喜びを与えてくれます」


「そう言っていただけると本当に嬉しいです。2日間の休みが明けた後も、どうぞよろしくお願いいたします」


「こちらこそ、よろしくお願いいたします」


 そのとき、「主人はいるか?」という低い声が厨房の外から聞こえてきた。

 店の扉が開かれる気配はなかったので、きっと2階のお客さんが下りてきたのだろう。ネイルは俺に目礼をしてから、「はい、ただいま」とそちらに向かっていった。


「よし、それじゃあ俺たちも仕事を始めようか」


「はい」とレイナ=ルウが笑顔でうなずく。


 窓際に立っていたシン=ルウは、いちおう部外者が接近してきたことを警戒したのか、いくぶん急ぎ足で厨房の入口へと移動し始めた。


 すると――

 それよりも早く、大柄な人影が厨房へと踏み込んできた。


「声を出すな」


 俺とレイナ=ルウは立ちすくみ、シン=ルウは素早く腰を屈める。

 しかし、シン=ルウもそれ以上動くことはできなかった。


 踏み込んできた男は、2名。

 その片方の腕にはネイルの身体がぐんにゃりと抱きかかえられており――そして、その咽喉もとには銀色の短剣が突きつけられていたのである。


「……貴様たちは何者だ?」


 シン=ルウが両目を燃やしながら、低く問いかける。


「声を出すなと言っている」と、男はいっそうぐいぐいと短剣を押しつけた。


 あてているのは刀の腹だが、刃が触れてしまったのだろう。ネイルの無防備な首に、うっすらと赤い線が刻まれる。

 それでもネイルは、ぴくりとも動かなかった。

 何故だか、完全に昏倒してしまっているのだ。


「表に仲間がいることはわかっている。おかしな真似をすると、この男はここで生命を散らすことになるぞ」


 いったい何なんだこれは――と、俺はしばらく声も出なかった。


 ついさきほどまで和やかに言葉を交わしていたネイルが意識を失い、悪漢に身柄を押さえられてしまっている。それはあまりに非現実的な情景であった。


 悪漢――悪漢としか言いようがない。

 その男たちは、かつてのメルフリードみたいに灰色の布切れを巻いて、顔を隠していた。

 その身に纏っているのは、ごくありふれた革のマントと布の装束だ。フードも深々とかぶっているために、瞳の色すらはっきりとはわからない。


 ただし、片方は東の民であるようだった。

 背が高く痩身で、マントの合わせ目から覗く腕や足の肌が黒い。腰には長剣を吊るしており、左手には短剣を握っている。


 もうひとりは、西の民だろうか。上背は俺よりもありそうだがずんぐりむっくりの体型で、肌の色は黄褐色だ。

 ネイルを抱きかかえてその咽喉もとに短剣をあてているのは、その西の男のほうである。


「こちらの言うことに従えば、この男は解放してやる。誰の血も流れることはない。……ファの家のアスタというのは、貴様だな?」


 ずんぐりむっくりのほうが、くぐもった声でそう問うてきた。

 その間、背の高いほうは微動だにせずにシン=ルウを見つめてその動きを牽制している。


「我が主人が、貴様を客人として迎えたいと仰っている。我々とともに来い。……そうすれば、この男はこの場で解放してやろう」


「我が主人……?」


 それはサイクレウスのことなのであろうか。

 今のところ、それ以外にこのような真似をする人間に心当たりはない。


 いやしかし、ミラノ=マスの娘さんのときのように、森辺の民に反感を抱く無頼漢を装うならまだしも、真正面から森辺の民に牙を向けるなんて――そんなあからさまにジェノスの法を踏みにじって、誤魔化しきれるとでも思っているのだろうか?


 だが、そのようなことに思い悩んでいる時間もない。

 俺は惑乱する心を何とかなだめつつ、悪漢どもに言葉を返した。


「俺を客人として迎えたいだって? そんなの、あまりに理不尽な申し出じゃないか。刀で脅して客人もへったくれもあるもんか!」


「……余計な口を叩くな」


 男は感情のない声で言い、また短剣をつかむ手に力をこめる。

 ついにしずくとなったネイルの血が、ぽたりと床の上に落ちた。


「やめろ! その人を傷つけるな!」


 思考能力が回復してくるにつれ、抑えようもない怒りの激情がふつふつと湧いてくる。

 こいつらは、いったいどこまで無法なのだろう。


「宿場町のど真ん中でこんな真似をして、ただで済むと思っているのか? 外には俺たちの仲間がいるし、衛兵だって巡回しているんだぞ?」


 それとも衛兵たちは、この悪漢どもを見逃すだろうか?

 いや――いくら何でも、白昼堂々とそのような真似はできないはずだ。


 朝方の衛兵たちの様子やミケルなどの言葉からも察せられる通り、末端の兵士たちは盲目的にサイクレウスに従っているわけではないはずなのである。その上、宿場町の民の目があるところで、衛兵たちがジェノスの法をないがしろにできるわけがない。


(それなのに、たった2人で俺たちを襲うなんて――森辺の狩人だったら、たとえ人質を取られていても返り討ちにできるんじゃないのか?)


 シン=ルウと男たちの距離は、わずか2メートルていど。

 森辺の狩人の常人離れした身体能力を考えれば、何とかなるのではないかと期待をかけられそうな距離である。

 しかもシン=ルウは、スピードだけならラウ=レイをも上回る俊敏さの持ち主であった。アイ=ファやルド=ルウには1歩及ばないものの、この年頃の狩人としては平均以上の力を持つ実力者であるはずなのだ。


 そう思って、俺はシン=ルウのほうを横目でうかがってみたのだが――シン=ルウは、狩人の火をその双眸に燃やしつつ、そのなめらかな額や頬にじっとりと冷や汗を浮かべてしまっていた。


(……駄目なのか?)


 シン=ルウの視線を追うと、そこにはシム人と思しきほうが立っていた。

 ごく無造作に短剣をかまえながら、狩人としての迫力を剥き出しにしたシン=ルウを恐れる風でもない。


(何だか……シン=ルウのほうが圧倒されているように見えちまうけど……)


 しかし、森辺の狩人が町の人間などに圧倒される道理はない。

《守護人》であるザッシュマや剣士のラービスでさえ、その力量は森辺の狩人の足もとにも及ばないはずであるのだから。


 森辺の狩人にも劣らぬ力を持つ人間なんて、町にはほんの数人しか――


 そこまで考えたとき、俺の背筋にぞくりと悪寒が走り抜けていった。


(……まさか……)


 そんなわけがあるはずはない、と俺は強く頭を振った。


「こちらに来い、ファの家のアスタよ。貴様が大人しく従えばそれで済む話なのだ」


 男の声に、ほんの少しだけ焦れたような響きがまじる。

 もうひとり――シム人のほうは、無言で不動だ。


「……本当にその人を解放してくれるのか? 今、この場で?」


「くどい。さっさとしろ」


「……わかったよ」


 俺は足を踏み出そうとした。

 とたんに、シン=ルウが「駄目だ」と囁く。


「その者たちに近づくな。俺たちはお前を失うわけにはいかないのだ、アスタ」


「うん……だけど、ごめん。俺もネイルを見捨てるわけにはいかないんだ」


 そんな風に答えながら、脳裏にはアイ=ファの姿がよぎっていく。


(ごめん、アイ=ファ。俺も絶対に、最後まであきらめない。……だけど今はこうするしかないんだ)


 ネイルを見捨てるわけにはいかない。

 しかもネイルは、この悪漢どもの素顔を見ているはずだ。

 表口も裏口もルド=ルウたちが見張っていたのだから、それだけは間違いない。こいつらは、客のふりをして2階に潜んでいた2人組であるはずだった。


(だったら、ネイルの証言でこいつらを罪人として訴えることもできるはずだ。逆転のチャンスは、どこかにある)


 また、そうでなくても今はこの悪漢どもの言葉に従う以外の道は考えられなかった。

 こいつらがシン=ルウの手に余る相手であるというのなら、ネイルばかりでなくレイナ=ルウをも危険にさらすことになってしまうかもしれないのだ。


「アスタ……」と、そのレイナ=ルウが泣き声のような声をあげる。


 俺はひとつ深呼吸をしてから、あらためて足を踏み出した。


 シン=ルウがぴくりと動きかけ、長身の男が短剣でそれを威嚇する。


「よし……そいつを捕えろ」


 長身の男は小さくうなずき、空いた右腕で俺の身体を抱きすくめてきた。

 そんなに強い力でもなかったが、即座に左手の短剣が俺の咽喉もとに押しつけられてくる。


「もういいだろう。その人を放してくれ」


「ふん……」と鼻を鳴らしつつ、西の男はネイルから腕を離した。

 ネイルはそのままくにゃくにゃと床に崩れ落ちてしまう。


「余計な真似はせぬことだ。我が主人はあくまで貴様を客人として迎えようとしているだけなのだからな。大人しくこちらの言うことに従えば、明日からはまた同じ生活に戻ることもできよう」


 刀を突きつけられた状態でそのような言葉を述べられても、説得力は皆無である。

 シン=ルウは、その切れ長の目を無念に燃やしながら、うめくように言った。


「許されざる悪漢どもめ――もしもお前たちがアスタに傷のひとつでもつけたら、そのときこそこの身に代えてもお前たちを討ち滅ぼしてやる」


 悪漢どもは、答えなかった。

 ただ、ずんぐりむっくりのほうが懐に手を伸ばし、何か刺激臭のしみついた布きれを引っ張り出す。


「動くなよ」と、その布きれが俺の鼻から口までに押しつけられた。


 布きれは、じっとりと濡れていた。

 何か既視感のある甘い香りが、鼻腔から脳髄に突き抜けていく。


(……メレメレの香草……?)


 スンの集落における悪夢のような情景が脳裏に蘇る。

 それもすぐに白濁して、俺の意識は瞬く間に四散していった。


 そうして最後に知覚できたのは――俺の身体を抱きかかえていた悪漢の声だった。


「アスタ、危険ありません。どうか、我が主人のため、その腕をふるってください」


 悪漢は、サンジュラの声でそのように言った。

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