①その日の朝
2015.5/29 更新分 1/1
今回は全12話の予定です。
白の月の5日。
その日の朝を迎えても、俺たちはべつだん異変の予兆を感じ取ることはなかった。
4日前――白の月の1日の夜には、ドーラの親父さんが野盗に襲われた。
その翌日は、日中にミラノ=マスの娘さんが無頼漢にかどわかされそうになり、夜にはザザ家に侵入者が忍び入った。
さらにその翌日の夜には、ファの家で赤髭ゴラムの息子ジーダと対面することになった。
白の月に入ってわずか3日で、これだけのことが起きたのだ。
俺たちは、いっそう気持ちを引き締めて日々を過ごすことになった。
しかし、まるでそういった心の動きを嘲笑うかのごとく白の月の4日は何事もなく過ぎ去っていき、そうして俺たちはいくぶん肩透かしをくらったような心地でこの5日目の朝を迎えたのだった。
「決して気を抜くのではないぞ、アスタよ。人間の気持ちというのは、このようなときにこそ最もゆるみやすいものであるのだからな」
朝の仕事と積み込みの作業を完了させると、アイ=ファが厳しい面持ちでそのように述べてきた。
本日は、アイ=ファが家に残る日取りであったのだ。
「了解だよ」と俺は普段通りにうなずいてみせる。
「アイ=ファのほうこそ気をつけてくれよな。またこの近所ではギバの数が増えてきているんだろう?」
「うむ。月が変わってからもギバの数は増える一方だ。昨日もランの男衆が1名、深手を負ってしまったようだしな」
「そうだったのか。そいつは心配だな」
朝の日差しと微風が心地好い、平穏きわまりない朝だった。
そんな平穏な朝に相応しからぬ、殺伐とした話題である。
「なあ、ファの家やランの家なんかでは、ルウの家みたいに狩人の仕事を休息する期間ってのは存在しないのか?」
ギルルの首を撫でていたアイ=ファが「うむ?」とけげんそうに俺を振り返る。
「以前にも説明した通り、ギバは豊かな恵みを求めて定期的にねぐらを移動させる習性がある。果実や木の根や小さな動物などを食い荒らし、北から南、南から北へと、頻繁に森の中を動き回っているのだ」
「うん。その過程で人里にも下りたりして、それでジェノスの田畑を食い荒らすっていうんだろう? よく覚えてるよ」
「うむ。それを繰り返す内に、森の中の手ひどく食い荒らされた場所にはしばらく恵みが実らぬ時期が発生する。そうするとその場所にはしばらくギバが寄りつかなくなるため、近在に住む狩人はその時期を休息にあてるのだ。……そのような時期が年に3たびほど訪れるというだけで、べつだんどの家がどの月に休むべしと定められているものではない」
「あ、それじゃあどの家でも年に3回ぐらいは休息の期間が存在するっていうことなんだな」
「そういうことだ。……ちょうど現在この付近では手ひどく恵みが荒らされているので、このままでいけばひと月も待たぬ内に休息の期間が訪れるであろう」
「そうか。やったな」
俺が思わず微笑をこぼしてしまうと、アイ=ファはいっそういぶかしげに小首を傾げた。
「何がやったのだ? ファの家と近いフォウやランでもギバが狩れなくなるのだから、その間は肉の確保が難しくなってしまうのだぞ?」
「その頃にはルウのほうが仕事を再開させているはずだから問題はないと思うよ。もうしばらくすればサウティのほうからも肉を買えるようになるかもしれないし。……で、そういう話を抜きにすれば、アイ=ファだって身体を休められるんだから嬉しいだろう?」
「休息の期間は、鍛錬に励むのだ。むろん狩りの仕事に比べればどうということもないが、嬉しいだの嬉しくないだのという話ではない」
アイ=ファは、あくまでそっけない。
「それに、休息の期間が訪れるまでにジェノス城との問題が片付くとも限らんからな。それでは身体を休められても気持ちまでは休められん」
「ああ、そうか……でも、その問題さえ片付けばアイ=ファもゆっくりできるんだからさ。そう考えれば、やっぱり嬉しい話じゃないか」
少なくとも、アイ=ファが危険な狩人の仕事を半月も休めるというのは、俺にとって嬉しい話だった。
が、何故かアイ=ファは不満そうに唇をとがらせてしまう。
「護衛など必要のない生活が得られるならば何よりだが、そうなったらそうなったで、私が宿場町に下りる理由もなくなってしまうではないか」
「うん? それが何か問題でも?」
「……ひとりで家に居残るのは、退屈だ」
俺は心からびっくりしてしまった。
まさかアイ=ファの口からそのような台詞が飛び出すとは思っていなかったのである。
「あ、いや、だけど――俺まで半月も宿場町の仕事を休むわけにはいかないよな?」
「当たり前だ」と、頭で頭をぐりぐりされてしまった。
アイ=ファにしてみれば、これは足を蹴るという行為の下位互換でしかないらしい。
「私はただ、私の心情もかえりみずに自分ひとりで悦に入っているお前の言動が腹立たしかっただけだ。お前には家長を思いやる気持ちが欠けている」
「だ、だけど、俺だって10日に1度は休むんだ。休息の期間が半月ばかりも続くんなら、1回や2回は休みが重なることもあるさ。そういう日は退屈させないように努力いたしますですよ」
ぐり、とアイ=ファの頭が動きを止める。
そして、アイ=ファはその至近距離からキッと俺の顔を見つめてきた。
「そういえば、その商売を休む最初の日がもう目前に迫っていたはずだな、アスタよ」
「ああ、うん。白の月の7日と8日だから、明後日と明々後日だな」
「ならば私は、その間も1日おきに森に入ろうと思う。一昨日などは2頭ものギバを狩ることになったし、若干疲労が重なってきているのだ」
「そうか。それは是非とも休むべきだな」
「となると、白の月の8日は私もアスタも仕事を休むことになる」
「ああ、そうなるな」
「……お前が嬉しいと言った意味がようやくわかった」
と――息がかかるぐらいの至近距離で、アイ=ファはにこりと微笑んだ。
完全完璧に不意打ちの笑顔である。
「お前が商売を休むのは家長会議以来であったはずだな、アスタよ」
「う、うん、たしかそうだったと思うよ」
「家長会議では日が暮れるまで行動を別にしていたし、その前後の休日ではお前も商売の下ごしらえで忙しそうにしていた。しかもそれらは、どちらもルウの集落に身を置いた上でのことであったしな」
そんな昔のことをよくもそこまで覚えているものだ、と俺は感心してしまう。
「ならば、ファの家で1日を過ごすのはそれ以上ぶり――いや、その前は私が毎日森に入っていたのだから、朝から夜までファの家でともに過ごすというのは、家の外にかまどを作った日以来なのではないだろうか」
「本当にすごい記憶力だな! そいつは2ヶ月以上も前の話だぞ?」
「うむ。お前を森の中で拾って10日目かそのていどの時期であったな。……だからあの頃は、今ほどお前をかけがえのない存在だとは考えていなかったと思う」
その面に微笑をたたえたまま、今度はこつんと頭に頭をあてられた。
「そういえば、父とふたりで狩人の仕事に明け暮れていた頃も、休息の期間には心安らかに情愛を育めたものだ。そのような気持ちは、ついぞ忘れてしまっていたな……」
「へえ。そ、そうなのか」
「私にもお前にも、果たさねばならぬ仕事がある。しかし――そうであるからこそ、そのような休息の日が存在するということも、このように嬉しく感じられるのであろう」
「う、うん……」
「もっとも今は、サイクレウスという得体の知れない相手とやりあっている最中だが、願わくばその日ぐらいは心安らかに過ごしたいものだ」
そうしてアイ=ファは俺から身を離し、その瞳には年齢相応の女の子らしい明るい輝きを、その面には家長としての鹿爪らしい表情を浮かべながら、力のある声で言った。
「では、そろそろルド=ルウらもやってくる頃合いであろう。決して気を抜かず、仕事に励むのだぞ、アスタ」
「ああ、おたがいにな、アイ=ファ」
しっちゃかめっちゃかに心をかき乱されつつ、俺もそのように答えることができた。
かくして俺たちは、その朝もそれぞれの道を歩み始めたのである。
数時間後にはまた再会できると信じ、また、そうするためにすべての力を振り絞るのだという決意を胸に抱きながら。
◇
それから宿場町に下りると、嬉しい再会が俺たちを待ち受けていた。
《キミュスの尻尾亭》で屋台を借り受け、いつもの通りに野菜を購入しようと露店区域の一画に立ち寄ると、そこにいたのだ、少し肥えた感じの親父さんと、小さくてほっそりとした幼い女の子が。
「親父さん! 身体のほうはもう大丈夫なんですか!?」
「やあ、心配かけたね、アスタ。他のみんなもご無沙汰ぶりだ」
ドーラの親父さんが、にっこりと笑っている。
その変わらぬ笑顔を目にしただけで、俺は涙がこぼれそうになってしまった。
「おいおい、なんて顔をしてるんだよ。そこまで心配されるほどの怪我じゃあなかったんだぞ? 息子から話は聞いてただろう?」
「はい、だけど……元気になられて本当に良かったです。ターラもひさしぶりだね」
「うん!」とターラも小さな顔いっぱいに笑みをひろげる。
「そっちも元気そうで何よりだよ。野菜の数はいつもと一緒でいいのかい?」
「はい。お願いします」
ドーラの親父さんは、はにかむように笑いながら野菜の詰め込まれた袋を引っ張り出してくれた。
以前のままの親父さんだ。
しかし、その右肩にはまだぐるぐると灰色の布が巻きつけられている。
うっすらと緑色ににじんでいるのは、おそらく薬草の類いだろう。少しだけツンとした刺激臭が感じられる。ヴィナ=ルウが足首を痛めていたときに使用していた薬と同系統の香りだ。
「あの、本当にこのたびは何て言っていいか……正直なところ、言葉が見つかりません」
「だから、アスタがそんな風に気を回す話じゃないだろう? 豊かな町には不埒な連中も集まるもんなんだ。俺たちにとっては昔から、野盗もギバと同じぐらい厄介な存在なんだよ」
「だけど、森辺の民の格好をした野盗なんてのはそうそう現れないだろ? とりあえず、あんたたちの無事な姿が見られて俺もほっとしたよ」
と、ルド=ルウも真剣な面持ちで割り込んでくる。
親父さんは、そちらにも柔らかく笑いかけた。
「どんな格好をしていても野盗は野盗さ。そいつらをとっ捕まえるのは衛兵のお仕事なんだから、俺たちが気に病む必要なんてないんだよ」
「ああ、でもさ……」
そのとき、おかしな具合いに辺りがざわめいた。
たちまちルド=ルウは身を起こし、街道のほうに向きなおる。
噂をすれば影とはこのことか。
革の鎧と長槍で武装した数名の衛兵たちが、俺たちのほうに近づいてくるところであった。
「森辺の民、ファの家のアスタとはお前のことだな? 話があるので、詰め所までの同行を願う」
先頭に立っていた衛兵がそのように告げてきた。
ずいぶん小柄で体格も貧相だが、兜にはひらひらと立派そうな房飾りがたなびいている。その小男の背後に控えた衛兵たちの数は、5名。
「いったいどういうご用向きでしょう? 俺はこれから仕事の準備があるのですが――」
「時間は取らせん。いくつか確認したい事項があるだけだ」
態度は尊大だが、そんなに肝が座った御仁ではないようだった。ルド=ルウたち森辺の狩人を見る目には、かなりはっきりと怯えの光が灯ってしまっている。
「おい、アスタにどういう用事があるってんだい? 数日前の野盗の件なら、俺の息子からしっかり話は伝わっているはずだろう?」
と、ドーラの親父さんが怒った顔つきで衛兵たちの前に進み出る。
衛兵長たる小男は、そちらを見てけげんそうに眉をひそめた。
「何だお前は? もしかしたら、野盗に襲われたという野菜売りのひとりか? だったらその話は無関係だ。余計な口をはさむのではない」
「野盗の話が無関係だってんなら、余計にアスタたちを引っ張る意味がわからないじゃないか? 詰め所に引っ張るならその理由を最初にはっきり述べるのが筋ってもんなんじゃないのかい?」
「いや、親父さん、お呼びがかかっているのは俺たちなんですから――」
俺は慌てて親父さんを押しとどめようとした。
すると今度は横合いから何者かの声があがってきた。
「そうだよ、詰め所に引っ張るなんてまるで罪人扱いじゃないか。そのにいちゃんが何か悪事でも働いたってのかい、兵士さんよ?」
俺は驚いてそちらを振り返ったが、そこに見知った顔を見出すことはできなかった。
見知らぬ人々が5人、10人と俺たちの周囲を囲み始めていたのである。
衛兵長の小男は、それだけで顔色を失いつつあった。
「な、何だお前たちは? そのように物騒な話ではない! ただ確認したいことがあるだけだと言っているだろうが!」
その背後に控える5名の衛兵たちも、惑乱した顔つきで槍をかまえなおしていた。
不穏な空気が、ふつふつと街道を満たし始めている。
「だから、その用件ってのは何なんだよ?」
「まだあの野盗どもが森辺の民であるっていう証しが出たわけでもないんだろう?」
「うさんくせえなあ。理由をきっちり述べてみせなよ」
もしかしたら、何人かは屋台で顔を合わせたことのある人たちなのかもしれない。その半数は南の民で、残りの半数が西の民だった。
ただ、南の民はわりと風貌や服装が似通っていたし、西の民にも常連と呼べるほど見知った姿はないように思えた。
そして――剣呑な顔つきをしたそれらの人々の隙間を埋めるように、革マントのフードで面相を隠した長身の男たちもじわじわと集まり始めていた。
言うまでもなく、東の民の人々だ。
「う、うさんくさいとはどういう言い草だ! お、俺たちは公務で動いているのだぞ?」
衛兵長が、上ずった声をあげる。
すると、もう少しは冷静さを残した衛兵の若者がそのかたわらに進み出た。
「隊長殿、これではむやみに騒ぎが広まるばかりです。何も手間のかかる話ではないのですから、この場で済ませてしまったほうがよろしいのではないでしょうか?」
「いや、しかしだな――」
「この者たちを下がらせて森辺の民を詰め所まで連行するよりは、そのほうが危険も少ないでしょう。よろしければ、わたしが隊長殿に代わってその役を果たしますが……」
「うむ! それならお主にまかせよう」
衛兵長はそそくさと引っ込んで、若者は溜息を噛み殺しつつ、さらに進み出てくる。
どうやら衛兵といってもさまざまな人間がいるようだ。
「森辺の民、ファの家のアスタよ。我らが確認したいのは、青の月の31日にお前たちを襲ったという野盗についてである」
「――俺たちを襲った野盗?」
予想外の言葉を受けて、俺の心臓がはねあがった。
衛兵の若者は「そうだ」とうなずく。
「近隣の住民から詰め所に申し出があったのだ。青の月の31日、お前たちが住宅区域をうろついているときに、毛皮の外套を纏った野盗が刀を抜いてお前たちを襲っていたとな。女か子供のように小さな体格で、燃えるような赤毛をした野盗であった、とのことであるがそれに相違はないか?」
ジーダの一件が、衛兵の耳に入ってしまったのだ。
俺は拳を握りしめがなら「……はい」と、うなずいてみせる。
ジーダに不利な証言はできない。
しかし、虚偽の言を述べてこちらが罪人になるわけにもいかなかった。
「どうしてその日の内に申し出をしなかったのだ。野盗を放置することは、他の民を危険にさらすことにも繋がるのだぞ」
「申し訳ありません。彼は森辺の民にしか関心がないようであったので、他の人たちの危険にはならないだろうと考えてしまったんです」
かつてサンジュラに述べたのと同じ答えになってしまった。
ゆえに、衛兵もサンジュラと同じような言葉を述べてきた。
「しかし、それが告発をしなかった理由にはなるまい。放っておけば、また自分たちが危険にさらされることになるではないか?」
「はい。ですが、正当な理由があって森辺の民を恨んでいるのなら、きちんと話し合って解決したいと思ったんです。その前に彼が罪人として捕らえられてしまったら、話し合うこともできなくなってしまいますし……」
衛兵は、渋い面持ちで黙り込んでしまった。
周りを取り囲む人々は、不審と懸念の表情で俺たちの様子を見守っている。
「――しかしそれは、お前たちの都合だな。町で刀を抜くという行為はまぎれもなく罪であるし、また、そういった罪人を告発せずに放置するというのも、ジェノスの法をないがしろにする行為に他ならない」
「はい、軽率であったなとは思っています。……でも彼はもともと、遠巻きに俺たちのことを見張っていただけなんです。それに気づいてこちらが追いかけようとしたために荒事になってしまいましたが、そうでなければ刀までは抜かなかったのだと思います」
「だから、そのように罪を量るのは我ら護民兵団や法務官の仕事であるのだ。一介の民に過ぎぬお前たちに罪人を赦免する権限は与えられていない」
今度は俺が黙りこむ番だった。
再びドーラの親父さんが「おい、だけどそれは――」と声をあげようとして、衛兵にいっそう渋い顔をさせる。
「べつだん、それでお前たちに罰を与えようと出張ってきたわけではない。ただし、今後はそのような真似も許されぬぞ。……お前たち森辺の民とて、れっきとしたジェノスの民、西の民なのだからな。お前たちにも西方神セルヴァの子として、法を守る義務と法に守られる権利があるのだということを忘れてはならん」
「はい」と俺は慎重にうなずいてみせる。
衛兵のこの言葉に、ドーラの親父さんや周囲の人々はたいそう驚いている様子であったが――ルド=ルウたちは、用心深そうに目を細めて衛兵の言葉を聞いていた。
「それで、野盗の姿については先ほど述べた通りで相違ないのだな? もっとはっきり顔立ちなどを覚えているのなら、人相書きの手配をするが」
「申し訳ありませんが、そこまではっきりとは……ぼさぼさの髪が顔までかかっていたので、目鼻立ちなどはよくわからなかったんです」
ここでは少しばかり偽証罪を犯すことになった。
衛兵の若者はしばらく疑わしげに俺の顔をにらんでいたが、やがて「まあいい」と首を振る。
「何にせよ、赤い髪をした西の民は珍しいし、子供のように小さな体格というだけで手配書きには十分だろう。それで、その者はギバとは異なる毛皮の外套を着込んでいたのだな?」
「はい。あまりこのジェノスでは見かけない色合いの毛皮でした」
「毛皮の外套など、狩人の他には纏う人間もそうそういないはずだが――おい、そこの野菜売り」
と、横柄な感じでドーラの親父さんを見る。
「お前を襲った野盗が纏っていたのは本当にギバの毛皮であったのか? この者たちを襲った野盗が纏っていたのは、もっと色が淡くてこまかい模様の入った毛皮であったらしいのだが」
「暗かったんで、そこまでしっかりとは覚えていないよ。……ただ、ギバの首飾りをしていたことは間違いない」
と、親父さんはそれが不満でしかたがなさそうな表情で述べる。
「だけど、そのあたりのことも説明しただろう? 森辺の民がそんな野盗の真似事をするはずは――」
「わかっている。いちいちそのように声を荒らげる必要はない」
うるさそうに手を振って、衛兵は少し声を大きくした。
「いい機会だから、この場でお前たちにも告げておいてやろう。実は昨晩、また森辺の装束を纏った野盗どもが農園の倉を襲ったのだ」
「えっ!」と思わず俺も声をあげてしまった。
昨日はひさびさに平穏な1日であったと思えていたのに――俺たちの知らないところでは、またそのような災厄が勃発していたのか。
「人数は3名、布を巻きつけて顔を隠し、やはりギバの毛皮を纏っていたという。いまだ正体は知れぬものの、それは3日前に農園を襲った連中と同じ野盗である、ということだけはまず間違いないだろう」
周囲に集まった人々もざわついている。
すでにそこには最初の十数名ばかりでなく、何の騒ぎかとけげんそうに足を止めた者たちも加わって、かなりの人だかりになってしまっていた。
それらの人々にも聞こえるように、衛兵の若者はいっそう声を張り上げる。
「3日前の事件を経て、護民兵団による夜間の警護は強化された。そうであるにも拘わらず、また罪もない者たちが襲われて、大事な収穫物を奪われてしまったのだ。これは由々しき事態である。……それが森辺の民の装束を纏った野盗とあっては、なおさらな」
「おい兵士さん、だけどそいつは――」
「黙って聞け。……森辺の民とて、素性を隠したいのならばまずはその外套と首飾りこそを隠すはずだ。そうはせずに顔だけを隠すというのは、あまりに不審である。ゆえにこれは森辺の民を装った何者かの犯行である、という見方を我々も強めている」
衛兵の若者は、強い口調でそう言いきった。
ほう……と感心したような声が人々の間からあがる。
「もちろんその野盗どもを捕らえねば真相はわからぬが、くれぐれも流言には惑わされぬことだ。そして、かつてのように森辺の民の処遇をめぐって騒ぎを起こすこともまかりならん。証しの出ない内に森辺の民を誹謗することなきように、と――これは護民兵団団長シルエル閣下の名において、本日中に宿場町にも通達される言葉である」
その言葉で、俺の中の警戒心はまた激しく刺激されることになった。
サイクレウスの弟である護民兵団の団長が、人々の前ではっきり森辺の民を擁護する言葉を告げさせた――これで安堵できるほど、俺は善良でも単純でもなかったのである。
衛兵の若者は、ちょっと得意げにも見える面持ちで、ざわめく人々を睥睨している。
自分たちは、森辺の民のような異端者たちにも公正であり寛大であるのだ、と少しばかり上の目線から誇っているようにも見受けられる。
それは彼自身の偽りない本心であったのかもしれない。
しかし、それを伝えさせた護民兵団団長とやらの本心はどこにあるのか、俺としてはそちらを勘ぐらずにはいられなかった。
(今度はいったい何を企んでやがるんだ――?)
人々は、困惑気味の表情で衛兵の言葉を聞いている。
その中には、ほっと頬をゆるめる人たちもいたし――ちっと舌打ちをしてその場から離れていこうとする人たちもいた。
その、森辺の民には非友好的な人々の反応を目にして、俺の胸に暗雲が広がる。
もしかしたら、これがサイクレウスの狙いであったのだろうか。
森辺の民を優遇し、擁護し、宿場町の人々に不審感を植えつけようという――それこそが、稚拙な変装をさせた野盗たちに農園を襲わせた真の目的なのだろうか。
(俺の考えすぎだっていうんなら、それでもいい。だけど――)
これで以前にアイ=ファが推測した通り、カミュアと行動をともにしている3名の狩人たちに罪をなすりつけられてしまったらどうなるだろう。
その上で、森辺の民を「不当に」擁護したらどうなるだろう。
やはり森辺の民はどんな無法を働いても罰せられることはないのだという不審感を、あらためて宿場町の人々に植えつけることが可能になるのではないだろうか。
ドーラの親父さんぐらいの親交があればまだしも、今、安心しきった顔で衛兵の言葉を聞いている町の人々――義憤にかられて俺たちを擁護してくれたこの人々の信頼を、森辺の民は再び失ってしまうかもしれない。
しかし、そのような真似をしてサイクレウスに利はあるのか?
これまでは、そこのところがわからなかった。
だけど俺は、2日前にヤミル=レイと言葉を交わし、ひとつの仮説を打ち立てることになっていた。
すなわち、サイクレウスは森辺の民の存在をコントロールしやすいように、スン家を族長筋として再興させて、何もかもを以前の状態に引き戻そうとしているのではないか――という仮説をだ。
もしもその仮説が当たっていたならば――森辺の民は貧しさにあえぎ、誰からの理解を得られることもなく、ただ生きるために死に物狂いでギバを狩る、そういう状態こそをサイクレウスが望んでいるのならば、森辺と宿場町の縁を引き裂くことにも、大きな意味が生じるのかもしれない。
(……これが全部俺の妄想だっていうんなら、それでもかまわないさ)
サイクレウスが俺ほど陰湿な計略を思いつける人間ではない、というのなら、それは悪い話ではない。俺はひたすら最悪の事態までを想定し、それでも足もとをすくわれないように備えるだけだ。
俺がどれほど妄想力の豊かな人間であるかは、この後ザッシュマやドンダ=ルウにも伝えさせていただこうと思う。
俺たちは、何としてもこの戦いに勝たなくてはならないのだ。