⑩堕落の廃主
2015.4/15 更新分 1/1 2017.1/21 誤字を修正
明けて翌日、白の月の3日。
その日も朝から平穏無事にはいかなかった。
しかもその日は、宿場町に下りる前から常ならぬ騒ぎを迎えることになってしまったのである。
「む……トトスの足音だな」
そんな風にアイ=ファが言い出したのは、朝方の仕事を一通り終えて荷車に荷物を積み込んでいる最中のことだった。
アイ=ファが町に下りない日は、ルウルウに乗ったルド=ルウたちが出迎えに来てくれる段取りになっている。が、出発にはまだ30分ほどの猶予があるはずだった。
「ルウ家のほうで何かあったのかな。悪い報せじゃないといいんだけど」
俺の言葉に、アイ=ファは首を横に振る。
「足音は北の方角から聞こえてくる。ルド=ルウらではあるまい」
「北の方角?」
森辺の集落でトトスを所有している家は、5つ。
ルウ、ザザ、サウティの族長筋と、ファ、レイという顔ぶれである。
その中でファの家より北方に家を構えているのは、ザザの家だけだった。
だから、森の陰から颯爽とトトスを駆って姿を現したのは、やはりザザの男衆たちだった。
「どうしたのだ? 何か急報か?」
目の前で停止したトトスの馬上――馬ではないが――にアイ=ファは恐れ気もなく呼びかける。
だけど俺は、ほんのちょっとだけ警戒心をかきたてられてしまっていた。
そのトトスは幌のない小ぶりの荷車を引かされており、そちらにも2名の男衆が乗っていたのである。
運転者と合わせて、3名の男衆――頭部つきギバの毛皮を頭からかぶった、ザザの勇猛なる狩人たち。
いつ見ても、彼らは他の狩人たちよりもいっそう雄渾で猛々しい空気を纏っていた。
「まだ宿場町には下りていなかったか。ならば、お前たちにも伝えておこう」
地鳴りのような声で言いながら、男衆のひとりが荷車から下りてくる。
それはザザ家の家長にして森辺の三族長たる、グラフ=ザザだった。
やはりギバの毛皮をかぶっているので、あまり面相はわからない。
しかし、ドンダ=ルウにも劣らぬこの巨体と威圧感は見まごうこともない。
「実は昨晩、ザザの集落に何者かが忍び込んだようなのだ」
「何?」
「皆が寝静まっている夜更けのことだった。だから気づいたのは、罪人どもを見張っていた夜番の者たちだ。……その侵入者は、罪人どもが捕らわれている家の周囲に姿を現したらしい」
罪人――それは、ズーロ=スンおよびディガとドッドのことである。
ディガとドッドは、ドム家の集落を逃げ出したことでまた罪人として扱われることになった。しかし、一応は自らの意志でザッツ=スンのもとを離れ、俺たちのもとに危急を告げてくれたので、死罪までは申し渡されていないのである。
その代わりに、完全密着で丸一日監視されながら、日中は焼き払われたドムの家の修復作業に従事させられ、夜はズーロ=スンと同じ家に閉じ込められているという。言わば執行猶予中の状態だ。
「……まさか、ズーロ=スンがかどわかされてしまったわけではないですよね?」
おそるおそる、俺も口をはさんでみる。
サイクレウスは、森辺の民が故意的にザッツ=スンらを逃亡させ、ズーロ=スンをも逃がすつもりなのではないかと不名誉な嫌疑をかけてきたのである。このタイミングでズーロ=スンをかどわかされてしまったら、いよいよ森辺の民はその嫌疑を否定できない立場に追い込まれてしまう。
しかし、グラフ=ザザはギバの上顎の陰でギバにも劣らぬ眼光を燃やしながら、「我らを見くびるなよ、ファの家のアスタよ」と言い放った。
「確かにジーンの家はザッツ=スンを逃がし、ドムの家はテイ=スンらを逃がしてしまった。それはどれほど責められてもしかたのない大きな失態だ。しかし、同じ失態を繰り返すほど我らは愚かではない」
そのために、グラフ=ザザは見張りの補強としてルウ家からダルム=ルウたちを借り受けたのである。
どちらかといえば閉鎖的で、どちらかといえば尊大な気性である北の一族がドンダ=ルウに助力を願うというのは、今にして思えば相当に思い詰めてのことなのかもしれない。
まあ、思い詰めるというよりは、見張りなどに多くの手を割いてしまうと狩人の仕事もままならない、という状況に嫌気がさして、休息の時期にあるルウ家を頼ったというだけなのかもしれないが。何にせよ、スン家の眷族として敵対関係を結んでいた時代を思えば、大きな変化だ。
「侵入者どもは、気配を悟られると何も為せぬまま逃げ帰っていった。それを捕獲できなかったのは口惜しいところであるが――しかし、問題はその後に起きた」
「問題?」
「大罪人ズーロ=スンめが我を失ってしまったのだ。今の連中はきっと城の人間たちの手の者だ、どうか自分をジェノス城には引き渡さないでほしい、死罪ならば今すぐに頭を剥いでくれ、とな」
「そ、それはどういうことでしょう?」
「……おおかた臆病風に吹かれたのだろう。城に引き渡されれば、自分はどのような目に合わされるかわからない。それならば、最後ぐらいは森辺の民として潔く森に魂を返したいと、そのように泣きわめくのだ」
その状況を思い出したのか、グラフ=ザザは不快そうに髭面を歪めた。
「今さら何をほざくのだ、と思わなくもないが――しかし我らは、ついこの間まであの男を族長と仰いでいた。不甲斐ない男だと歯噛みする場面も多かったが、それでも族長として、眷族の長として盛り立ててきたのだ。そうして他の民よりも傍にありながら、あの男の罪深さに気づくことができなかったのだから、それは我々の罪だったのだろうと考えている」
「だ、だからズーロ=スンの望むままに処断するべき、と仰るわけではないですよね?」
それではやっぱり、サイクレウスの要請には真っ向から刃向かうことになってしまう。
グラフ=ザザは、その双眸をいっそう激しく燃やしながら、うなるように言った。
「そうすべきではない、というのはわかっている。だからドンダ=ルウやダリ=サウティにも取り急ぎ伝えるべきだと思ったのだ。俺ひとりでは何も定めることはかなわぬからな」
もしかしたら、グラフ=ザザはズーロ=スンの願いを叶えさせてやりたい、と思ってしまっているのだろうか。
あの、スン家の堕落の象徴ともいうべきズーロ=スンに、森辺の民として死にたいなどと泣きわめかれてしまったら――俺だって、少なからず心を動かされてしまう。かつては眷族であったグラフ=ザザならば、その心情の複雑さは俺の比ではないだろう。
俺はあらためてグラフ=ザザの姿を正面から見つめ、それをひとりの個人として認識してみようと試みた。
ドンダ=ルウと同程度の巨漢である。
いや、横幅などはドンダ=ルウ以上だし、身長も少し勝っているぐらいかもしれない。
年齢は――やはりドンダ=ルウと同じぐらいだろうか。褐色のごわごわとした髭が四角い顔の下半面を覆い、わずかに覗くなめし革のような皮膚には深いしわが刻みこまれている。
(……たしか、ズーロ=スンも年齢はそれぐらいだったよな。もしかしたら、もう少し若いぐらいかもしれないけど)
ヒキガエルのように潰れたズーロ=スンの姿も思い起こす。
ちょっと想像はしにくいが、ズーロ=スンもグラフ=ザザも、この世に生まれ落ちた瞬間からこのような姿をしていたわけではないのだ。
コタ=ルウのように無垢な赤子として森辺に生を受け、それぞれの家で過ごしながら、片方はあのように堕落し果て、もう片方はこのような魁偉なる狩人へと成長した。
あまりに対極的な2名であるが――しかし彼らは、ドンダ=ルウとダン=ルティム、ジザ=ルウとガズラン=ルティムのような、血で結ばれた眷族の間柄であったはずなのだ。
(眷族なら、幼い頃から交流があったのかもしれないし。そんな相手に裏切られてしまったら、いったいどんな気持ちになってしまうものなんだろう)
森の恵みを荒らしていたという大罪が発覚したとき、スン本家の全員を死罪にするべきと主張していたグラフ=ザザである。
それは信頼していた相手に裏切られたという怒りであり、また、掟を重んずる森辺の民の冷徹さでもあったのだろうが――しかし、この野獣のごとき大男でも、人間なのだ。
その心に満ちた憤怒の裏側には、いったいどのような感情がへばりついていたのか。
そのようなものは、若輩者の俺には想像することさえ難しかった。
「……フォウとベイムの家はどこにある? 三族長が集まるのだから、連中も呼ばねばなるまい」
俺の視線をうるさそうにはねのけながら、グラフ=ザザはアイ=ファに向きなおった。
「フォウの家は、その道を南に進んで1番手前にある集落だ。ベイムの家はわからないので、フォウの家長に聞いてほしい」
「わかった。邪魔をしたな」
荷車に戻ろうとして足を止め、今度は俺を振り返る。
「――そうだ。今そこでディン家の女衆に呼び止められた」
「ディン家の女衆ですか?」
「そうだ。家長の姉、ジャス=ディンと名乗っていた。……そのジャス=ディンという女衆は、ディン家がファの家の商売を手伝うことはどうしてもかなわぬのか、と問うてきた」
2日前の情景が、脳裏に蘇る。
とても厳格そうな眼差しに慈愛の光をも宿してトゥール=ディンのことを見つめていたジャス=ディンの姿が。
「ザザの家は、ファの家の行いをよしとしていない。しかし、ファの家の行いを正しいか否かを見極めるには、より深く縁を結んで内情を知る必要があるのではないか。その役割を、ザザの眷族でもっともファの家の近くに家を構えるディン家に担わせてはくれないか――ジャス=ディンなる女衆はそのように申し述べていた」
「そうですか。……ジャス=ディンが、そのようなことを……」
「一方で、ダリ=サウティはもう1度しっかりとファの家のアスタの料理を食べてみろとやかましいしな。そのようなことよりも、まず我々はあのサイクレウスという男をどうにかするために力を振り絞るべきであろうが?」
不機嫌の極みにあるような声音で言い捨てて、グラフ=ザザは荷台に足をかけた。
「グラフ=ザザ、それでジャス=ディンの申し入れは――」
「眷族にまつわる話を俺ひとりで決めるわけにはいかん。ザザを筆頭とする7つの眷族の家長をすべて集めて論じ合う必要があるだろう。……この忙しい折に厄介なことだ」
最後に野獣のごとき目が、じろりと俺をにらみつけていく。
「ともあれ、森辺の習わしをこれほどまでに乱したお前たちには、自分たちの正しさを証し立てる責務がある。ゆめゆめ怠るなよ、ファの家のアスタにアイ=ファ。……それではな」
◇
宿場町まで同行してくれるルド=ルウたちには、俺の口からグラフ=ザザの言葉を伝えることになった。
「ふーん。あのズーロ=スンも最後の最後で森辺の民としての誇りを取り戻せたってことなのかな。……まあ単に、城の人間を怖がってるだけなのかもしれねーけどよ」
朝一番のラッシュを終えて、ようやく会話が可能なようになると、屋台のかたわらに立ったルド=ルウは何とも据わりの悪そうな顔でそう言った。
アイ=ファが町に下りない日は、こうしてルド=ルウが最前線に立つのがお決まりであるらしい。
「かといって、勝手にズーロ=スンを処断したら、また城の人間たちに何やかんやと文句を言われそうだしなあ。親父たちも大変だこりゃ」
「うん、それにその連中はどういう目的でザザの集落に忍び込んだんだろう? ズーロ=スンを野に放って、また森辺の民の失態をあげつらうつもりだったのか、それとも口封じか何かでズーロ=スンの身を害そうとしていたのか――昨日の今日でジーダがズーロ=スンの存在にまで行き着くとは思えないから、やっぱりサイクレウスの仕業と考えるのが自然だよね?」
「俺に聞かれたってわかんねーよ! あーあ、わけのわかんねーことばっかりで頭が痛くなりそうだなあ」
そう言って、ルド=ルウは自分の頭をぐしゃぐしゃにひっかき回した。
一昨日の晩にはドーラの親父さんの農園が襲われ、昨日の昼間にはミラノ=マスの娘さんがかどわかされそうになった。そして昨日の夜には、ついに森辺への侵入者だ。これではルド=ルウでなくても頭痛を誘発されるのが当然である。
さらに言うなら、3日前にはジーダの襲撃も受けている。
と、いうことは――宿場町に下りている俺たちと、《キミュスの尻尾亭》の関係者と、ザザの集落に軟禁されているズーロ=スン、護衛を配置しておいた3箇所のすべてに襲撃者が姿を現した、ということになってしまうではないか。
何に警戒していいのかもわからないので、とりあえず護衛だけはつけておこうという予防策が、ことごとく機能してしまったということになる。
なおかつ、警戒していなかった農園においては実際的な被害まで生じてしまった。
それはつまり、こちらが想定していた最悪の展開の上をいかれてしまった、ということなのだろう。
(その中で、動機や犯人がはっきりしているのはジーダの一件だけだ。それ以外は全部サイクレウスの陰謀なのか? だけどいったい、何が目的でこんなことを繰り返しているっていうんだ?)
ズーロ=スンに関しては、口封じかもしれないし、そうではないかもしれない。
ミラノ=マスやドーラの親父さんに関しては、嫌がらせなのかもしれないし、そうではないかもしれない。
真相はまだまだ闇の中だった。
「いらっしゃい。ひとつでいいのかい?」
ララ=ルウの声で、我に返る。
気づくと、鉄板の向こう側に西の民のお客さんが立ちつくしていた。
「いらっしゃいませ。お代は赤銅貨2枚になります」
「赤銅貨2枚か。ずいぶん安値で叩き売るものだ。……しかしずいぶん不景気な面をしているな。商売人が、そんな面をお客にさらすもんじゃない」
「あ、すみません」と言いかけて、はたと気づいた。
黄褐色の肌をした、壮年の男性――大柄で、粗末な布の服に骨太の身体を包んだその人物は、誰あろうトゥランのミケルだったのである。
「い、いらっしゃいませ。俺の料理を買いに来てくださったのですか?」
「軽食の屋台に来たのだから、それ以外の目的があるか?」
ミケルは今日も不機嫌そうだった。
しかし、図太い老木のようなその顔は酒気に染まってはおらず、目もとも足もともしっかりしている。もともと大柄ではあったので、そうして毅然と立っていると、昨日の酔いどれた姿とはまるきり別人のように見えてしまった。
「赤銅貨が2枚だな。ひとつ頼む」
ちゃりんと銅貨が台の上に置かれる。
いくぶん心は乱されつつ、俺は『ミャームー焼き』をこしらえてみせた。
「ずいぶん派手にミャームーを使っているな。腕が悪ければ、その強い匂いに味が壊されてしまうところだろう」
不平なのか何なのか、やはり不機嫌そうに言いながらポイタンの生地に歯をたてる。
表情に変化はない。
ただ、執拗なぐらい肉を咀嚼し、なかなか飲み下そうとしない。
その間に別のお客さんもやってきてそちらの相手をしなくてはならなくなったが、ミケルは少し身を引いただけで屋台から離れようとせず、そうして新規のお客さんが商品を受け取り姿を消した頃に、ようやく最初の一口を嚥下して、言った。
「ふん……昨日は酔っていて自分の舌も少しあやしくなっていたのかも知れんと思ったが、とりあえず忠告の言葉を撤回する必要はないようだな」
「……お気に召していただけましたか?」
俺が尋ねると、今日は血走っていない目でじろりとにらみつけられてしまう。
「ミャームーと果実酒と、それにこれはやっぱりアリアの風味だな。アリアをこまかく刻んだものをあらかじめ汁に混ぜているのか?」
「はい、その通りです」
「ふん。昨日の料理にもミャームーと果実酒とアリアが使われていた。ろくな調味料のないこの宿場町で、そいつらを調味料と見立てて料理を作っているわけか」
言いながら、ミケルはまだ一口しか食べていない『ミャームー焼き』をじろじろと検分した。
「しかし、このフワノは奇妙な味だな。悪いことはないが、ずいぶん歯触りがあっさりとしている。それに、かすかにギーゴの匂いがついているようだが――」
焼きポイタンに混ぜた微量のギーゴの風味まで感じ取れるのかと、俺はまた舌を巻くことになった。
「ええ、それはフワノじゃなくポイタンなんです。確かに食感をよくするためにギーゴを混ぜてはいますが、それに気づいたお客様は初めてです」
「ポイタンだと? これが?」
うなるように言って、もう1度『ミャームー焼き』をかじり取る。
「ポイタンか……そんなものはまともに食べたこともないぐらいだが……最近の宿場町ではポイタンがこのような食べられ方をしているのか?」
「さあ、どうなのでしょう。もしかしたら、ポイタンをこのように調理する店は他にないのかもしれません。詳しく調べたわけではないのですが」
ミケルはむっつりと黙りこみ、後はすみやかに料理をたいらげた。
そして、あらためて俺をにらみつけてくる。
「小僧、お前は何者なんだ? 少なくともジェノスの出ではあるまい。どこの町でこれほどの技術を学んだのだ?」
「俺は故郷で親父に料理の手ほどきを受けていました。俺の故郷は――話すと長くなるのですが、実はこの大陸の外にあるんです」
「大陸の外? 渡来の民か」
さすがにミケルは目を丸くしかけたが、すぐに仏頂面を取り戻してまた言った。
「まあいい。昨日の忠告はそのまま聞いておけ。お前が城下町に足を踏み込まない限りは、やつの目に留まることもないはずだ」
「ええ、ですがサイク――」
「こんな町中で、その名をうかつに口に出すな」
ミケルの肉の薄い額に、びしっと太い青筋が走る。
「あいつ自身は宿場町に姿を現さずとも、あいつと縁のある商人や兵士どもがうろついているということは十分にありうるんだ。災厄を招き寄せるような真似はひかえろ」
「すみません。でも、その御仁は森辺の民と縁のあるお相手でもあるんです。今のところ俺の身がどうこうという話になる気配はありませんが、少なくとも俺の商売の話はその御仁の耳には入っているはずなのですよね」
前回の会談ではまったく話題にもならなかったらしいが、その前のスン家の騒ぎの際には「屋台の商売を休むべからず」という命令を族長ごしに伝えられているのである。
さらに言うなら、俺の商売が好調でずいぶんな稼ぎを得ているらしいという情報をスン家に流したのは、他ならぬサイクレウスの関係者であるとも推測されている。
(……それに、ディアルは城下町でギバの料理を馬鹿にされたとか言って怒ってたよな。そのお相手がサイクレウス本人であったかどうかはわからないけど)
何にせよ、城下町にギバの料理を持ち帰りたいというディアルの提案は退けておいて正解だったのだろう。
「宿場町での評判など気にする必要はない。貴族どもは赤銅貨2枚で買えるような料理を料理とは思っておらんのだ。ましてやギバの料理などを人間の食べるものだと認めることはないだろう」
「そうですか。素直には喜べない部分もありますが、その御仁の興味をひかずにいられるのは喜ばしいことですね」
「ふん」とミケルは身を引いた。
「それでも運悪く目をつけられてしまったのなら、2度とギバの料理を作ることなどはできなくなるのだからな。くれぐれも城下町には近づくなよ」
最後にそれだけ言い捨てて、ミケルはさっさと立ち去ってしまった。
無言でこのやりとりを見守っていたララ=ルウが、「何なの、あれ? ずいぶん偉そうなお客だね」と、ぼやいた。
「あれはトゥランのミケルという人物だよ。みんなもシュミラルとの別れ際にその名前は聞いてるだろう?」
「え? それじゃああいつが、森辺の民に力を与えるとか言われてたやつなのかよ?」
驚きの声をあげたのはルド=ルウのほうだった。
「別に何てことのない普通の親父じゃん。あんなやつが森辺の行く末に関わってくるとは、とうてい思えねーなー」
「そんなの、ただの占いでしょ? 信じるほうが馬鹿なんだよ」
ふたりはそのように言っていたが、俺の気持ちは別のところにあった。
もちろん、具体的にミケルがどのような役割を果たすことになるかなんて、俺にだって想像はつかない。
しかし、「何てことない普通の親父」ではありえないだろう。
少なくとも、俺には強烈な味を有する『ミャームー焼き』の焼きポイタンからギーゴの風味を感じ取ることなどは、どんなに頑張っても可能になるとは思えなかったのだから。
(城下町の料理人だった男、か……)
むやみに胸が騒いでしまった。
しかし、ミケルの存在が俺や森辺の民の行く末に関わってくるのは、それからずいぶんな時間が過ぎ去った後のことなのだった。
俺たちは、ミケルとの出会いを祝福する前に、まずは眼前に立ちはだかる厄介事を粉砕せしめねばならなかったのである。