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異世界料理道  作者: EDA
第十章 変革の前菜
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⑧トゥランのミケル

2015.4/13 更新分 1/1

 トゥランというのは、サイクレウスが治めるジェノス北方の領土である。

 そこには南方の農園よりも重要な果樹園が広がっており、木製の塀でギバからも守られ、なおかつ奴隷に働かせて収益をあげている、と俺は聞かされていた。


 だからまあ、こいつは完全な先入観念で、そこには宿場町や農園よりも気取った人間が住まい、過酷な労働は奴隷にまかせ、悠々自適の暮らしを満喫しているのではないか、とか妄想してしまっていたのだ。


 然して、このミケルなる人物は、宿場町の人々よりも薄汚れた格好に身を包み、しかも昼から酩酊していた。

 そこまで貧相な身なりではない。ただ胴衣も足衣も妙に黒ずんでいて、おまけにやたらと焦げ臭い匂いがこびりついてしまっている。何か火を使う仕事でも生業にしているのだろうか。


 年齢は、五十路の手前ぐらいだろう。

 西の民にしてはがっしりとした体格であるが、顔や腕などは妙に骨ばっている。骨格は頑強で、肉づきは薄い、というちょっとアンバランスな印象だ。


 白髪まじりの褐色の髪は無造作に後ろになでつけられており、瞳の色は濃い茶色、肌の色はよく日に焼けた黄褐色。

 なかなか彫りの深い顔立ちをしており、老木に刻まれた彫刻のような風情である。


 しかしその顔は酒気に染まり、目も血走ってしまっている。

 半ば木の卓の突っ伏したまま、左手に果実酒の土瓶をぶら下げた体勢で俺たちをにらみつけてくるその姿は、自堕落という言葉を具現化したかのような様相だった。


「ふん……こいつはとんだ無駄足だったな」


 しゃがれた声で言い捨てて、そのミケルなる人物は果実酒をあおった。


「まあ何にせよ、俺に言えるのはひとつだけだ。サイクレウスなんぞには近づくな。貴族に逆らえば破滅する他ない。……それじゃあな」


 それだけ言って、ゆらりと立ち上がる。

「あ、待ってください」と、俺は慌てて押しとどめた。


「あなたはシュミラルの導きで俺なんかに会いに来てくれたのですよね? それは大変ありがたく思っていますが、これでは何が何やらわかりません」


「わかる必要などない。これであのシム人への義理は果たせた。……そこをどけ、小僧」


 立ち上がると、彼は俺より大柄であることが知れた。

 しかし、深酒で足もとはふらふらである。ちょんとつつけばそのまま倒れてしまいそうだ。


 それでもアイ=ファは用心深く小刀の柄に手をかけたまま、じっとミケルの様子をうかがっていた。


「……どっちみち、貴様のような小僧がサイクレウスの目にとまることはない。ギバ料理だかギーズ料理だか知らんが、これまで通りに好きなだけ銅貨を稼ぐがいいさ」


「いや、俺は料理人の立場でそのサイクレウスという人物ともめているわけではないんです。……あの、シュミラルからはどのような話を聞いているのですか?」


 トゥランのミケルは、卓についた右手で体重を支えつつ、酔いで濁った目を俺に向けてくる。


「宿場町でギバの料理を売っている若造が、サイクレウスともめているのかもしれん、と聞いた。そのために、知恵を貸してほしいのだ、とな。……だから、俺に言えることは言ってやっただろう。サイクレウスなんぞには近づくな」


「こちらもできれば近づきたくはないのですが――森辺の民に関しては何も聞いていないのですか?」


「ギバの料理なんぞを売りに出しているんだから、そいつは森辺の民に決まっているだろう。まあその見てくれからすると生まれは西か東であるようだが、そんなことは俺には関係ない」


 そう言って、ミケルはアイ=ファとヴィナ=ルウの姿を興味なさげに見比べた。


「……しかし、仕事の場に女連れとは恐れ入った。まったく大した料理人だよ。その調子でせいぜい楽しく仕事に励むことだ」


「彼女は俺の調理助手で、彼女は護衛役です。仕事は楽しいですけど、何もおろそかにしているつもりはありませんよ」


 思わずむっとして言い返してしまったが、ミケルは「知ったことか」と酒をあおるばかりだった。

 俺はむくむくと膨らみそうになる反抗心を抑えつけて、なるべく平坦な声で述べてみせた。


「えーとですね、俺はあなたがサイクレウスの犯してきた罪について知っているから、その話を聞くのが森辺の民の力になる、とシュミラルから聞いているのです。よろしければ、もう少し詳しくお話をうかがうことはできませんでしょうか?」


「酔狂な小僧だな。どうして不愉快な話を自ら聞きたいなどと思えるんだ?」


 とげのある声で言いながら、それでもミケルは椅子にどしんと腰を下ろしてくれた。


 その姿を見届けて、ネイルが俺に小声で呼びかけてくる。


「それでは、わたしはあちらでお待ちしております。お話が終わったら今日の仕事をお願いいたします」


「あ、すいません。できるだけ早く切り上げますので」


 俺はネイルに頭を下げてから、ミケルの前に腰を落ち着けた。

 すかさずアイ=ファが、そのすぐ隣に立ちはだかる。


「……サイクレウスという男は、馬鹿がつくほどの食道楽なんだ」


 土瓶を片手に、ミケルは語り始めた。


「何人もの料理人を抱えこんで、やたらと値の張る料理店を出させたり、自分の館で料理を作らせたり……それどころか、ジェノス城の料理番さえもがサイクレウスの息がかかった人間であるらしい。美味い食事を食べたいというのは誰でも持っている欲求なんだろうが、あいつのそれは、もはや病気の域だな」


「はあ。サイクレウスという御仁は、そこまで美食に血道を上げておられるのですか」


「そんなことも知らんかったのか? ……だから城下町の料理人は、たいていのやつがサイクレウスに認められるために腕を磨いている。やつの目にとまれば出世も思いのままなんだから、当然だ。そう考えない人間は、遅かれ早かれ身を滅ぼすことになる」


「身を滅ぼす……」


「腕のない料理人は店をたたむ他なくなるし、腕があればサイクレウスに召し抱えられる。腕があった上で、サイクレウスの手駒となることを拒絶すれば――ジェノスを放逐されるか、あるいは腕の筋でも絶たれて料理人としては生きていけなくなるだろうな」


「何ですかそれは。城下町でそんな無法が許されるんですか?」


 熱い塊が、腹の底でぐらりと煮え立つ。

 ミケルは面白くもなさそうに口もとをねじ曲げた。


「サイクレウスは、ジェノスの領主マルスタインに次ぐ力を持つ貴族様だ。この20年ばかりで、その力と地位は不動のものとなった。それは貴様たち森辺の民の尽力あってのことなんじゃないのか?」


「え?」


「10年前の、バナームの使節団が全滅させられた事件――それに、護民兵団の団長が殺された事件、それは貴様たち森辺の民がサイクレウスの手足となって邪魔者を排除してやったんだろう?」


 もちろん俺は、心から驚愕することになった。


「どうしてあなたが、そのような話を知っているのですか?」


「サイクレウスを護衛する兵士どもが酒場で口をすべらせていたんだよ。酒が入れば、人の口はゆるむものだからな」


 それは、族長たちがサイクレウスと会談したときに同行していた兵士たちのことか。

 すべての兵士がサイクレウスに絶対の忠誠を誓っているわけではない、というのは――まあ、俺たちにとって幸いなことなのだろう。


「だから、サイクレウスの罪を裁こうとする人間など、ジェノスには存在しない。他の貴族どもに牙を向ければその限りではないんだろうが、料理人なんぞをひとりやふたり始末したところで、そんなものは貴族様にとって取るに足らない話だろうからな」


「ひどい話ですね。聞いているだけで胸が悪くなりそうです」


「ふん。それでも今じゃあサイクレウスに逆らう料理人なんざ、石の塀の中にはひとりだって存在しないだろうさ。黙って言うことを聞いていれば、出世も思いのままなんだからな。……サイクレウスにあてがわれた道具と食材を使って、やつのお気に召すような料理を作ればいい。それだけで安楽な生活が手に入るんだ。逆らうやつが、間抜けなだけさ」


「だったら俺も間抜けの部類ですね。そんな御仁のために料理の腕をふるう気にはなれません」


「……ギバの料理なんぞでサイクレウスの心を射止めることはできないから、安心するがいいさ」


 と、ミケルは小馬鹿にしきった様子でまた果実酒に口をつける。

 が、どうやらすでに土瓶の中身は飲み干してしまったらしく、鼻を鳴らしてそいつを卓に置いた。


「宿場町でどれほどの銅貨を稼ごうと、貴族にとっては取るに足らん額だ。ましてや貴様みたいな小僧の料理など、鼻にひっかけられもしないだろう。だから安心してこれまで通り仕事に励めばいいと言っているんだよ、俺は」


「……どうして食べもせずにアスタの料理を誹謗するのだ、あなたは?」


 と、ふいにアイ=ファが口をはさんでくる。


「西の民がギバや森辺の民を忌避しているのはわかっている。しかし、いちいちアスタの腕前を誹謗するのはやめていただきたい。……はっきり言って、不愉快だ」


「誹謗なんざしていないよ。ただ、こんな小僧がサイクレウスの目にとまることはないと安心させてやっているだけだ」


 森辺の狩人たるアイ=ファを恐れる様子もなく、ミケルはそう言った。


「ギバの肉と安物の野菜で作られた料理なんぞにサイクレウスが食指を動かすことはない。まあ、どんな食材でも一丁前の腕があれば美味い料理をこしらえることもできるだろうが、それがこのような小僧ではな」


「やっぱり誹謗しているではないか」


 無表情のまま、アイ=ファが苛立しげに両目を燃やす。


「いいよ、アイ=ファ。俺たちが心配しているのは、もっと別の話なんだから。……それであなたのお話はおしまいですか、トゥランのミケル?」


「ああ。これ以上、何を話せというつもりだ?」


「そうですか。いえ、ありがとうございました。わざわざご足労いただいて感謝しています」


 やはり、驚愕の新事実などが浮上することはなかった。

 唯一特筆すべきは、トゥランの酒場とやらでは森辺の民のみならずサイクレウスの悪評までもが囁かれているらしい、ということぐらいか。

 しかし、証しのない悪評など何の意味もない。意味があるなら、カミュアだって情報戦を仕掛けるぐらいのことはしてのけるだろう。


 そもそもこのトゥランのミケルという人物は、森辺の民に何の興味もなさそうなご様子だった。

 これでは、俺たちにとって有用な情報を携えている道理もない。


(まあ、シュミラルは森辺の民の内情を知らないまま動いてくれていたんだもんな。それならこれが当然の結果か)


 ただ、それなら占星師の予言は何だったのだろう。

 この人物との出会いによって、森辺の民はさらなる力を得ることができる――という、あの言葉は。


(この人物の持つ情報じゃなく、この出会いをきっかけに、何か森辺の民の利になる運命がもたらされるってことなのかな)


 だけどそれも、詮索しようのない事柄だ。

 俺はもう1度「ありがとうございました」と礼を述べて立ち上がろうとした。

 そこに、不穏な視線をぶつけられる。


「しょせん宿場町の料理人なんてこんなもんか。自分の腕前を馬鹿にされて、文句のひとつも言えないのか、貴様は?」


「はい? ……ええまあ、俺は貴族様のために料理をこしらえているわけではありませんので。宿場町のお客様に喜んでいただければ、それで十分です」


「だったら、俺を喜ばせることはできるのか? 俺はしがない炭焼小屋の親父だぞ?」


 挑発的に言いながら、ミケルは左の指先を俺に突きつけてきた。

 確かにその衣服と同様に、黒ずんだ指先だ。爪の間にまで炭の汚れが食い込んでしまっている。

 この煤けた匂いは、炭の匂いであったのか。


「炭焼小屋ですか。このジェノスにも炭というものが存在するんですね。宿場町では、いっこうに見かけませんでした」


「宿場町や農園の人間が、わざわざ銅貨を出して炭など買うものか。……それよりどうなんだ? 俺を満足させられるような料理が貴様に作れるのか、小僧?」


「……ギバの肉はクセが強いんです。人によってはそのクセの強さを嫌がりますから、何とも言えませんね」


 このような酔漢の挑発に乗っても、詮無きことである。

 それに、シュミラルが導いてくれた相手であるのだから、ことを荒立てたくもない。


 だから俺は分別をもってそのように応対したのだが、鼻で笑われてしまった。


「ずいぶんお粗末な志だな。あのシム人はたいそう貴様のことを持ち上げていたが、志のない料理人の料理などたかが知れている」


「おい、あまりに口が過ぎるのではないか?」


 と、アイ=ファがいっそう両目を燃やしながら、木の卓に右手をついた。


「やめとけよ、アイ=ファ。……あのですね、志の有り様なんて人それぞれでしょう? どこの誰が食べても満足できるような料理を作れるかと問われて、はい作れますと無責任に応じることが志の高さに通じるのでしょうか? 俺には、そのようには思えないというだけです」


「ふん、刀をふるうより舌を回すほうが得意ということか」


「そこまで弁舌が巧みとは思っていません。俺の料理にご興味がありましたら、この《玄翁亭》でもお出ししていますし、屋台の料理もありますよ。よかったらお立ち寄りください」


 それで俺は、今度こそこのやりとりを切り上げようとした。

 しかし、お相手のほうは矛先を収めてはくれなかった。


「だったら、今ここで料理を出してみろ! 満足がいったら、貴様を一人前の料理人と認めてやる」


 俺自身、自分はまだまだ半人前と思っているのですが――などという言葉を吐いたら、いっそうややこしいことになってしまいそうだった。


「わかりました。少々お待ちいただけたら料理をお出ししますよ。銅貨は宿屋のご主人にお願いいたします」


「ふん。……おい! 果実酒をもう1本よこせ!」


 悠揚せまらず、ネイルが果実酒の土瓶を携えて食堂に入ってきた。


(何だかおかしなことになっちまったなあ)


 何となく、ディアルとの出会いを彷彿とさせるような展開であった。

 ともあれ、いい加減に仕事を始めなければ、のちのちに響いてしまう。

 ミラノ=マスとその娘さんが俺から調理を学ぶことを了承してくれたので、この後は《キミュスの尻尾亭》にも出向く手はずになっていたのだ。


 しかし、本日の献立は『チット鍋』である。

『チット鍋』は、俺たちが退出したのち3、40分ばかりはネイルに煮込みの作業を引き継いで、それでようやく完成となる。それではあまりに時間がかかりすぎてしまうので、予備の肉で『ギバのソテー・アラビアータ風』を1食分だけ作らせてもらうことになった。


「すみません。何だか面倒なお客さんを招き入れてしまって」


 肉を炒めながらネイルにわびると、「かまいません」という穏やかな言葉が返ってきた。


「銅貨をいただけばお客様です。普段の30食分とは別にアスタの料理を1食分お出しできるのですから、それはわたしの利益となります」


 そう言ってから、「ですが」と少し心配そうな目つきをする。


「サイクレウスといえば、トゥラン伯爵家の当主の名前ではありませんでしたか? そのような貴族とおかしな関わりを持ってしまうのは危険なように感じられてしまいます」


「ああ、はい……俺もできるだけ関わりは持ちたくないと考えているのですが。何かと森辺の民とは縁のある相手なんです」


 しかしそれでも、俺の料理がサイクレウスの口に入る可能性は皆無に等しいだろう。貴族が宿場町に下りることはまずありえないらしいし、通行証を持たぬ俺が城下町に足を踏み込むことも不可能であるのだから。


 それでもあちらが俺の料理に興味を持ってしまったら、貴族の特権でどのようにでも立ち振る舞えるのだろうが、今のところはそのような気配もない。森辺の民を人間扱いしていない、というカミュアの言葉が真実であるならば、サイクレウスがギバの料理に興味を持つこともありえないはずである。


 そんなことを考えている内に、『ギバのソテー・アラビアータ風』は完成した。


「俺も同行させていただきますね。何か文句でもつけられてしまうと申し訳ないので」


「はい。それではお願いいたします」


『チット鍋』の火の番はヴィナ=ルウに託し、木皿を掲げたネイルと俺とアイ=ファの3人で食堂に向かう。


「ふん、ずいぶん早かったな」


 2本目の果実酒をぐびぐびとあおりつつ、ミケルは荒んだ眼差しを向けてくる。


「こちらがアスタに作っていただいた当店の料理となります。フワノ抜きでしたら赤銅貨3枚と割り銭を半分、フワノをおつけするならば赤銅貨5枚となります」


「こんな日も高い内からフワノまで食えるか。果実酒があればそれで十分だ」


 酒臭い息を吐きながら、卓の上に銅貨を放り出す。

 ネイルは木皿を置いてから、3枚の銅貨と半分に割られた割り銭を丁寧にすくい取った。


「ふん――」と、ミケルは無造作に木匙をひっつかむ。


 木皿の上では、チットとタラパの赤いソースをまぶされたギバのロース肉が湯気をたてていた。


 西の民でもこのチットの辛さを好む人間は多いと聞くが、このミケルはどうだろう。

 とりあえず、嗅いでいるだけで唾液の出てきそうな刺激的な芳香に物怖じする様子はない。


 酔いが回っているのか、少したどたどしい手つきで肉の切り身をすくいあげ、口の中に放り込む。

 その目が一瞬、雷のような光を閃かせたような気がした。


 入念に肉を噛み、果実酒で飲み下す。

 そして――ミケルは、俺を見た。


「……このタラパには、刻んだアリアが混じっているな?」


「はい。それでタラパの酸味を抑えています」


「この風味は、果実酒とミャームーか。……それに、タウ油も使っているな」


「はい。ほんの隠し味ていどですが」


 チットの辛味がきいたこの料理でよくもそこまで見抜けるものだと、俺は内心で舌を巻くことになった。

 どうやらこれは、なかなかに鋭い味覚を持つ御仁であるらしい。

 たぶん――この世界で出会った人々の中では1番鋭敏な味覚を、だ。


「ギバの肉というのはずいぶん上等な肉なんだな。キミュスやカロンの足だったら、きっとこの強烈な味付けに負けてしまっていただろう。……おい、小僧」


「はい」


「貴様は、サイクレウスに近づくな」


「え?」


 次の瞬間、ぎょっとするようなことが起きた。


 ミケルのごつい指先が思わぬ速度で俺の胸もとに伸びてきて――そして、それを上回る素早さで、アイ=ファがミケルの左手首をわしづかみにしたのである。


「無礼な真似はひかえてもらおうか、ミケルとやら」


「痛えな、おい。俺のか細い腕が折れちまうだろうが?」


 アイ=ファは無造作にミケルの手を放り捨てた。

「ちっ」と舌打ちしてから、ミケルは解放された左手で卓を強めに叩く。


「貴様は、駄目だ。平穏無事に生きていきたかったら、絶対にあんな性根の腐った貴族なんぞに腕前を見せつけるんじゃない。……まあ、いいように使い潰されてでも銀貨が欲しいってんなら、話は別だがな」


「……それが賞賛の言葉であるのでしたら、御礼を述べさせていただきます」


「何が賞賛だ。あの妙に口の回るシム人の図々しさに免じて、忠告してやってるだけだろうが?」


 ミケルの目は、不穏に燃えていた。

 ぐらぐらと煮え立つギバのスープみたいに、激情が噴きこぼれてしまっている。


「より多くの稼ぎを得ることが料理人としての誇りだと思っているやつはいくらでもいる。貴様がそういう人間なら、何も言うことはない。……ただし、そうでないなら絶対にサイクレウスには近づくな。自尊心を銀貨で売り渡すことができなければ、その後に待つのは身の破滅だけだ」


「腕の筋を断たれて料理人としての道を閉ざされる、ですか。確かにそんな目にあうのはまっぴらですね」


「そうだろう。それで生き永らえたって、そんなものは死んでいるのと同じことだ」


 底ごもる声で言いながら、ミケルは下に下ろしていた右腕もゆっくりと目の高さに持ち上げてきた。


 その黒ずんだ手の平が、俺の鼻先に突きつけられる。

 骨ばった、意外に指の長い手だ。


 その指が――小指と薬指だけ、奇妙な感じにかくかくと動いた。


「俺の右手は、もうこの2本の指しか動かせない。こんな腕では、調理刀を握ることも鍋をつかむこともできやしないんだよ」


 俺は愕然と息を飲む。

 ミケルは、無念に燃える目をぐいっと俺に近づけて、言った。


「こんな身体になりたくなかったら、絶対にサイクレウスには近づくな。いっそのこと、ジェノスなんかからは出ていっちまえ。……ここはまともな料理人の住むべき町ではないんだ」

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