⑥白の一日、アスタの一日 ~夜~
2015.4/11 更新分 1/1
2015.4/12 誤字修正
「いやー、何だか今日は盛りだくさんの1日だったなあ」
日没の後である。
チーズ・ギバ・バーグの晩餐を終えた俺とアイ=ファは、いつも通り薄闇の中で語らっていた。
「いつも以上に大勢の人たちと顔を合わせた気がするし、商売のほうも色々動きがあったし――ジーダやサイクレウスのほうはぴくりとも動かなかったのに、ずいぶん騒がしい1日だったよ」
「そうか」とアイ=ファは素知らぬ顔をしながら、ガラスの酒杯をためつすがめつしていた。
そこはかとなく不機嫌そうな、そうでもないような、今ひとつ心情の読みにくい感じである。
「あ、そうだ。アイ=ファ、せっかく酒杯と上等の果実酒がそろったんだから、たまには晩酌と洒落こんでみたらどうだ?」
「ばんしゃく?」
「夜に酒を飲むことだよ。お前はけっこういける口なんだろ? もともと食糧庫に果実酒を置いてたぐらいなんだし」
その割には、俺はアイ=ファが果実酒をたしなむ姿をほとんど目にしたことがない。
アイ=ファは就寝前でほどいている金褐色の長い髪をけだるげにかきあげた。
「しかし、お前は酒を飲めぬのだろう? ならば私ひとりで銅貨を無為に費やすのは気が引けてしまう」
「え、そんなことを気にしてたのかよ? ドンダ=ルウなんて、ひとりでもガバガバ果実酒をあおっていたじゃないか?」
「……それは私よりもドンダ=ルウのほうが家長らしく振る舞っているという意味か?」
「そうじゃないよ。ただ、これらを贈ってくれた人たちの厚意を最大限に満喫したいだけさ」
やっぱりどちらかといえば不機嫌なのかなと危ぶみつつ、俺は食糧庫から2本の土瓶を持ってきた。
1本は、バランのおやっさんたちからいただいた上等の果実酒、もう1本は、午後の時間に絞ったシールの果汁を詰め込んだものである。
「俺はこっちをいただくよ。アイ=ファもぞんぶんに飲んでくれ」
「それは、料理で使う汁なのではないのか?」
「うん、だけど今日はあんまり勉強の時間が取れなかったからさ。明日になって傷んでたらもったいないし、それなら少し嗜好品として楽しませていただこうかなと」
実のところ、これはギバのステーキなどにレモン汁の代用品として使ってみようと目論んでいるのである。
清涼な香りや酸味でギバ肉のクセを抑えつつ、なおかつもっとダイレクトに肉の味を楽しんでいただけるかどうか、その算段を立てている最中であるのだ。
もしくは果実酒や調味料とあわせて、レモンソース的なものをこしらえるのでもいい。とにかく、今までとは違ったアプローチでギバ肉に挑んでみよう、という所存なのである。
俺は自分の酒杯にシールの果汁を注ぎ、それを水で割ってみた。
割合は2:1で水が多めだ。
指先でつついてなめてみると、それでも十分に酸味がきいていた。
が、これではただのレモン水である。
できれば蜂蜜や氷が欲しいところだ。
「うーん、風味づけに俺もちょっぴりだけ果実酒をいただこうかな」
慎重に、小さじ1杯にも満たないぐらいの果実酒を酒杯に落とす。
それだけで、格段に香りが良くなった。
酒は飲めない俺だけれども、ワインやラム酒などの芳香は大好きなのだ。
「ほら、やっぱり中身を注いでこその酒杯じゃないか?」
シールの果汁はうっすら黄色みがかっているだけで、果実酒もこのていどの量ではほとんど色合いに変化はない。
それでも酒杯を軽く揺らすと、燭台の火を受けてきらきらと光の粒を散らした。
それでようやく興味をそそられたのか、アイ=ファも自分の酒杯に果実酒を注ぐ。
そちらははっきりとした赤色なので、変化も顕著だった。
酒杯の側面にはところどころにカットが入っており、それが真紅の光を乱反射させる。
「……綺麗だな」とアイ=ファは口もとをほころばせた。
そのひさびさの笑顔に嬉しくなって、俺はアイ=ファの酒杯に酒杯を当てる。
チン、と涼やかな音色が鳴った。
「今日も1日お疲れ様でした」
そうして、酒杯に口をつける。
レモン汁を常温の水で割って、ブドウ酒で香りづけをした、まあそんなような味だ。
美味い、と言えるものではない。
それでも、雰囲気が心地好かった。
アイ=ファはひとつ肩をすくめてから、ぐびぐびと果実酒をあおる。
酒杯に8分目まで注いだ果実酒は、それで消失してしまった。
「おいおい、そそのかしたのは俺だけど、あんまり無茶はしないでくれよ? これは普段の果実酒より度数も高いはずなんだから」
「どすう?」と首を傾げながら、アイ=ファはまた果実酒を注ぐ。
「強い酒で、酔いやすいってことだよ。火がつく酒ってのは、そういうものなんだ」
かつてのルティムの祝宴で、俺はこの高級な果実酒をフランベの道具として使わせていただいことがある。
普段の果実酒はワインぐらいの度数で、この果実酒はブランデーかウイスキーぐらいの度数であろう、というのが俺の推測だ。
「そのように心配しなくとも、酔い潰れるような愚は犯さん。夜闇に乗じて何者かが襲撃してこないとも限らんからな」
言いながら、今度は酒杯の半分ほどを飲む。
それでもやっぱり豪快な飲みっぷりだ。
「そういえば、アスタよ。トゥランのミケルとかいう男は姿を現さなかったのか?」
「ああ、今日のところは現さなかったよ」
サイクレウスの罪を知るという謎の人物、トゥランのミケル。
いつか《玄翁亭》に姿を現すはずだとシュミラルが言い残していってくれたが、それは今日ではなかったようだ。
「では、あのサンジュラという男は?」
「サンジュラなら、屋台に料理を買いに来てくれたよ。ジーダのことを衛兵に申し出なかったのかって、すごく心配してくれていたな」
「……そうか」
「アイ=ファはずいぶんサンジュラを警戒してるみたいだな。それには何か理由でもあるのか?」
「とりたててそのようなものはない。ただ、あやつが敵に回ればすこぶる厄介なことになるから、気を抜けぬだけだ」
と、残りの半分をまた一息で飲み干してしまう。
どうやらアイ=ファもドンダ=ルウに負けぬうわばみであるらしい。あぐらをかいて手酌で酒を注ぐ。なかなかに豪放なるお姿である。
「これまでは、あのような力を持つ町の人間を見かけたことはなかった。森辺の民に劣らぬ力を持つ人間など――せいぜいカミュア=ヨシュと、それにあの灰色の目をした貴族の男ぐらいであったからな」
「メルフリードか。……あ、でも、あのジーダってやつは?」
「ああ、あれも森辺の狩人に劣る力ではない。……しかし、少なくとも私やルド=ルウには及ばない」
「それじゃあ、カミュアやメルフリードは? 具体的にはどれぐらいの力量の持ち主なんだろう?」
つい勢いで、聞いてみた。
アイ=ファはちょっと嫌な顔をして果実酒をあおる。
「私の見立てに間違いがなければ、カミュア=ヨシュはドンダ=ルウにも劣らぬ力を持ち、灰色の目をした貴族はジザ=ルウと同等の力を持つだろう」
「それじゃあ番付をつけるとしたら、頂点はドンダ=ルウ、ダン=ルティム、カミュアの3人ってことになるのか。カミュアだけが、やっぱり意外だな」
「……正直に言って、あの男の力は測り難い。ただ、ドンダ=ルウやダン=ルティムでも容易くは討ち取れまい、と思えてしまうのだ」
「なるほど。だけどアイ=ファも、そのダン=ルティムと互角に勝負できてたんだよな」
ならばもしかして、トップ3ではなくトップ4なのだろうか。
アイ=ファの力とは、そこまでとてつもないのだろうか。
「私とて、あの者たちに勝てると確信しているわけではない」
と、アイ=ファはきらめく酒杯をじっと見つめる。
「ただ……はっきり負けるとも思わない。上手くやれば勝てる気もするし、最悪、生命を守ることはできると思う。勝てぬまでも、逃げきれば何とでもなるのだからな」
「なるほどねえ。それで、サンジュラはルド=ルウ並の実力者なんだっけ? ……あれ、ところでルド=ルウの実力ってのはジザ=ルウやダルム=ルウと比べてどうなんだろう?」
「どうしてそのようなことを気にかけているのだ? 私に感じ取れるのは、自分にとっての相手の力量だけだ」
ちょいと面倒くさげに言って、アイ=ファはぺろりと果実酒をなめる。
ピッチが早いと自戒したのだろうか。猫みたいな仕草でとても愛くるしい。
「いざ手を合わせれば、さきほどのシン=ルウやラウ=レイのように勝敗がひっくり返ることもある。だから、ルド=ルウとサンジュラなる者が同程度に感じられ、ジザ=ルウとメルフリードなる者が同程度に感じられたとしても、それらの者どもが手を合わせたときにどうなるかは予測することも難しい」
「ふむ。それは理屈が通ってるな。……あ、それじゃあ最後に2人だけ。ザッシュマとラービスってのはどれぐらいの力量なんだろう?」
「うむ? 誰だ、その者たちは?」
「ザッシュマは、あの商団の長を演じていたカミュアのお仲間だよ。ラービスは……その、ディアルのお供をしている南の民さ」
ディアルの名を聞くなり、アイ=ファの眉間にしわが寄ってしまった。
で、また勢いよく果実酒をあおってしまう。
「そのような者どもはどうでもいい。森辺の1番若い狩人でも、あのていどの者たちに遅れを取ることはないだろう」
そうなのか。
しかし、ザッシュマは荒事を生業とする《守護人》であり、ラービスも複数の野盗を相手にできる剣士だとかいう話であったはずだ。
となると、やはり森辺の狩人というのは尋常ならざる力を有しており、アイ=ファはその中でも屈指の実力者である、という結論に落ち着いてしまう。
(本当に大したもんだなあ。カミュアやサンジュラより、アイ=ファの存在が1番驚異的じゃないか)
そんなことを考えていたら、アイ=ファがずいっと顔を寄せてきた。
「何を考えこんでいるのだ、アスタよ。……よもや、あの娘のことを考えているのではなかろうな?」
「あ、あの娘? って、ひょっとしたらディアルのことか?」
「とぼけるな。それとも、西の民の娘のほうか? お前はあの娘ともずいぶん気安い口をきいていた」
「き、気安い口をきくようになったのはやむをえなく、だよ。お前だって、あのやりとりを見ていただろう?」
「ふん!」とアイ=ファは俺をにらみつけたまま酒杯に口をつける。
「私は、かしましい女衆は好かん。かといって、ヤミル=レイのように得体の知れない女衆など論外だ」
「いや、だからあの……」
「嫁に娶るならば、シーラ=ルウのような女衆が望ましい。私はたおやかな女衆を好むのだ」
それは以前にも拝聴したことがある。
だけど俺には関わりのない話であるはずだろう。
アイ=ファは、さらにじりじりと顔を寄せてくる。
「もしくは、リィ=スドラでもよい。アマ・ミン=ルティムもよくできた女衆だ。しかし、お前はそのようにたおやかな女衆に限って遠ざけているように感じられるな、アスタよ」
「そんなつもりは一切ないよ! そもそもそのおふた方には伴侶があるじゃないか?」
「だから未婚の女衆にやに下がっているわけか」
「やに下がってません!」
「よもや、ディン家の幼き娘などに不埒な思いを抱いているわけでは――」
「やめてくれってば! お前、様子がおかしいぞ? やっぱりちょっと酔ってるんじゃないか?」
「酔ってなどおらん」
と、アイ=ファは酒杯に残っていた分を咽喉の奥に流し込んでから、ふにゃりと俺の胸もとにもたれかかってきた。
「やっぱり酔ってるじゃないか!」
「くどいやつだな……これぐらいの酒でどうにかなる私ではない」
熱い息が、胸もとにしみこんでくる。
というか、身体に触れているアイ=ファのどこもかしこもが、とてつもなく熱い。
「……嫁に娶るならば、シーラ=ルウのような女衆こそが相応しい……」
「いや、だから、俺は誰も娶らないってば」
「……私は家長として、それを祝福するべき立場なのだろう……」
「そんな必要はないって以前にも話しただろう?」
「……家長は、家人の幸福を寿がねばならんのだ……」
アイ=ファが、ぎゅうっと俺の身体を抱きすくめてきた。
しかし、酒のおかげで力の加減ができていないのだろう。めりめりと肋骨の軋む音色が聞こえてきて、俺は「ぎゃー!」と叫ぶことになった。
「苦しい! 本気で折れる! アイ=ファ、正気に戻ってくれ!」
「……私を拒むのか、アスタよ」
「そうじゃなくって! かよわい俺の肋骨が悲鳴をあげちまってるんだよ!」
必死になって、アイ=ファの肩をタップする。
それでようやく、力がゆるんだ。
が、アイ=ファの腕は俺を放そうとはせず、その顔もぴったりと胸もとに押し当てられたままだった。
その柔らかい髪に鼻先をくすぐられながら、俺は深々と息をつく。
「……俺の1番の幸福は、お前のそばにいることだよ、アイ=ファ」
何とか冷静な口調を取りつくろっても、俺の鼓動はしっかり伝わってしまっているだろう。
それと同じぐらい、俺のほうもアイ=ファの鼓動を感じてしまっていた。
「だから俺は、誰も娶らない。夫婦になるってのは、きっとその相手と一生そばにいたいってことなんだろうから――お前さえいれば、俺は誰を娶る必要もないんだよ」
返事は、なかった。
もしかしたら、これはすでに眠ってしまっている、とかいうオチなのだろうか。
俺はもう1度息をついてから、アイ=ファの頭と背中にそっと手を回した。
いっそうアイ=ファの体温が身体中に伝わってきて、俺の鼓動を速くさせる。
(お前がいるからなんだ、アイ=ファ――)
この2ヶ月半ばかりで、俺にはたくさんの大事な人々ができた。
森辺の集落にも、宿場町にも、絶対に失いたくないと思える人々が大勢いる。
いちいち数えあげたらキリがないぐらいたくさんの人々が、俺という存在を支えてくれているのである。
だけどそれでも、俺の心の真ん中に居座っているのは、アイ=ファなのだ。
その思いだけは、今でも変わらない。
いや、変わらないどころか日増しに強くなっていくぐらいだ。
そしてアイ=ファも同じように俺の存在を大事に思ってくれている、と信じることのできる今の生活が、どれほどかけがえのないものか、どれほど幸福であることか――それだって、胸が痛くなるぐらいにわかりきっている。
こんな幸福な生を投げ出してまで、俺が他の女衆を嫁に娶るはずがない。それがアイ=ファに伝わっていないというのが、いっそ不思議なぐらいである。
(お前はいったいいつになったら、自分がそれぐらい魅力的な人間であるってことを自覚するんだろうな、アイ=ファ。それともそんなことは、どうしても自分自身では実感できないものなのかな)
そんなことを考えながら、俺はアイ=ファの身体を抱く腕に少しだけ力を込めた。
すると――アイ=ファは猫みたいに身じろぎをしてから、俺の心臓に言葉を注ぎこんできた。
「……その言葉が真実であるならば、私も幸福だ」
そうして長い長い白の月の1日は、ようやく終わりを告げることになった。