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異世界料理道  作者: EDA
第十章 変革の前菜
178/1701

②白の一日、アスタの一日 ~午前(上)~

2015.4/7 更新分 1/1 2017.1/21 誤字を修正

 太陽が、夜明けと中天の真ん中ぐらいに差しかかった頃――体感としては、朝の9時。


 すっかり乾燥したTシャツをベストの下に装着し、ゆとりをもって俺はルウの集落に向かうことにした。


 森辺の集落から宿場町に下りるには、いくつかルートがある。

 その中で実際に俺が自分の足で踏んだことのあるルートは、ファの家から1番近い恐怖の吊り橋を経由するルートと、ルウの家から1番近いルートのみ、である。


 直近のルートであれば、徒歩でも1時間足らずで宿場町に下りることができる。

 しかし、その間に吊り橋があるので、トトスを使用することができない。


 ルウ家から近いルートであれば、徒歩だと2時間近くもかかってしまう。ルウ家までで1時間、そこから宿場町までで4、50分という道のりであるからだ。

 しかし、トトスを使えばその時間を大幅に縮めることが可能になる。

 日を追うごとに荷車の運転にもなれてきて、現在ではわずか40分ほどで宿場町にたどり着くことができるようになっていた。


 もっとも、直近のルートを徒歩で行くならば1時間であるのだから、そういう意味では20分ていどの短縮にしかなっていない。が、それでも今までは莫大なる量の荷物を人力で運んでいたのだから、労力の軽減という意味では比較にもならなかった。


 なおかつ、今まではその運搬作業のために、毎日ヴィナ=ルウにファの家まで足を運んでもらっていたのだ。

 その往復2時間分を別の仕事にあててもらえるのだから、その効能は絶大である。


 その2時間は、もちろん『ギバ・バーガー』の下ごしらえにあててもらうことにした。

 ヴィナ=ルウが町に下りる日でも、家ではレイナ=ルウにバトンタッチしてもらい、シーラ=ルウがもともと受け持っていたポイタンの焼き作業とあわせて取り組んでもらう段取りと相成ったのだ。


 さらにこまかい点を述べさせていただくならば、今までルウ家から直接宿場町に向かっていた2名分の労働時間も、わずかながらに確保することがかなった。


 トトスを使って宿場町に到着するまで、ファの家からは40分でも、ルウの家からは20分ていどなのである。

 徒歩であれば4、50分はかかる道のりであるので、2、30分は時間が浮くことになる。往復で考えれば、1日で1時間弱。この浮いた時間も別の仕事に割り当てることができるのだ。


 とにかくルウ家と結んでいた労働条件は拘束時間のみが厳正に取り決められていたために、その時間は余すことなくファの家で使ってもらわなくては困る、とミーア・レイ母さんに念を押されていたのだった。


 この余剰の時間も下ごしらえの補助にあててもらい、人手や時間が余るようなら薪拾いに費やしてもらうことにした。



 そんなこんなで、ルウの集落で3名の女衆と合流し、町に下りる。

 今日のメンバーは、レイナ=ルウ、シーラ=ルウ、ララ=ルウだ。

 護衛役は、昨日と同じくルド=ルウ、シン=ルウ、そして分家の名も知れぬ少年たち2名であった。


 分家の少年たちは荷車に乗り、ルド=ルウとシン=ルウはルウ家のトトス、ルウルウを駆っての出陣である。


「中天になってアスタたちが宿屋に向かうときは、屋台のほうを守るためにレイとルティムの男衆が2名ずつ下りてきてくれるそうです」


 宿場町までの道のりで、レイナ=ルウがそう告げてくれた。

 4名ずつで合計8名の護衛役――ザッツ=スンらの襲撃を警戒していたときと同じ人数だ。


 物々しいといえば、物々しい。

 しかし、思惑の知れぬサイクレウスのほうはともかく、森辺の民への復讐に燃える少年ジーダの存在が発覚してしまった以上、これは必要な措置なのだろう。


 だけどやっぱり、宿場町に到着して石の街道に足を踏み入れると、以前よりは不安や警戒の念を増した目つきで迎えられることになってしまった。

 4名のかまど番に4名の狩人では、やはり物々しさが先に立ってしまう。アイ=ファとルド=ルウの2名のみが護衛役であった一昨日までより、明らかに人心を騒がせてしまっているのが体感できた。

 こればかりは、最低でもジーダとの関係性を修復するまでは耐えるしかない。


「あ、おはようございます、ミラノ=マス」


《キミュスの尻尾亭》に到着すると、ちょうどミラノ=マスが店の外に出てくるところだった。


 ミラノ=マスは「ああ」とうなずき、先陣をきって宿屋の裏手に回りこんでいく。2台の屋台を借り受けるため、俺はレイナ=ルウとルド=ルウとシン=ルウの4名でその後を追うことにした。


「……昨日、宿屋の寄り合いがあった」


 と、柵の内側からゴロゴロと屋台を引っ張りながら、ミラノ=マスがぼそりとつぶやく。


「お前さんは、《西風亭》にも料理を売りつけるのか?」


「え? それはまだ全然確定もしていない話ですけれども」


 俺が驚きの声をあげると、ミラノ=マスは「そうか」と、そっぽを向いた。


「《西風亭》の娘のほうが、そんなようなことを言ってたんだ。そのために《南の大樹亭》に出向いて、お前さんの料理の腕前を確認するつもりだ、とな」


「そうですか。でも、あそこのご主人は森辺の民やギバに対してはけっこう強い反感を抱いておられるようなので、どう転ぶかはまだまったくわからないのですよね」


 答えながら、俺は胸中の思いを打ち明けずにはいられなくなってしまった。


「それに……料理を卸すなら、俺は《キミュスの尻尾亭》で先にその仕事を果たしたいと思っていました」


「何?」と、ミラノ=マスはぎょっとしたように目を丸くする。


「そいつはいったい何の冗談だ? 俺の店でお前さんの料理を売る、だと?」


「はい。西の民のための宿屋でギバの料理を売ることがかなうなら、それは《キミュスの尻尾亭》で真っ先に果たしたいと思っていたんです。それはもちろん《南の大樹亭》や《玄翁亭》にだって西の民のお客様は少なからずいらっしゃるんでしょうが――やっぱりあちらはあくまでも南や東のお客様が中心ですので」


「わからんな。だからといって、俺の店に固執する理由にはならんだろう」


「いえ。ミラノ=マスにはさんざんお世話になっていますから、言ってみれば商売上の競争相手である《西風亭》からの仕事を先に受けてしまうのは、なんというか――とても不義理なことに思えてしまうので……」


 ミラノ=マスは、苦い顔で黙りこんでしまった。

 その顔を見つめ返しながら、俺は「だけど」と言葉を重ねる。


「今はちょっと仕事の手を広げるのをひかえようかとも考えているんです。俺たちと縁を深めることで災いを招くことになってしまったら申し訳が立ちませんし」


「何だと? いくら城の連中と話がこじれているからといって、お前さんの商売の邪魔をしてくる理由はないだろうが?」


 ミラノ=マスやドーラの親父さん、それにネイルやナウディスといった商売上の繋がりのある人々には、再び護衛役を引き連れることになった理由を最初の段階で打ち明けているのである。

 といっても、サイクレウスの名を出してしまうのは危険なように感じられたので、「森の恵みを荒らした罪人の処遇について、城の人々と意見が噛み合わない」というぐらいにしか説明はしていないのだが。


「俺も昨日まではそのように考えていたんですが、でも、また違う事情も出てきてしまったんです」


「何だ。また何かもめごとか?」


「はい。もともとこれはミラノ=マスにもお伝えしようと思っていた話なのですが――」


 そこで俺は、赤髭ゴラムの息子ジーダについて語ることになった。

 10年前、森辺の民の犯した罪を肩代わりすることになった盗賊団の首領の息子が、復讐心を燃やしながらこのジェノスに姿を現したのだ、と。


 この話も、下手に広まってしまうとサイクレウスの耳に入りかねないので、うかつに口にすることはできない。

 しかし、ミラノ=マスにだけは伝えておくべきであろうと俺は考えていた。

 ミラノ=マスもまた、その事件に関してはれっきとした関係者であったからだ。


「《赤髭党》か。ずいぶんまた懐かしい名前を聞くもんだ」


 ミラノ=マスは不機嫌そうにつぶやきながら、短く太い腕を胸の前で組む。


「しかし、そんな輩のために自分が損をする必要はない。後ろ暗いところがないのなら、胸を張って仕事を続けるべきなんじゃないのか?」


「後ろ暗いところはありませんが、でも、森辺の民の何人かが罪を犯してきたのは事実です」


「その罪人どもは裁かれた。これ以上、誰がどのような罰をお前さんたちに求められるというんだ?」


 言いながら、ミラノ=マスは俺ばかりでなくレイナ=ルウたちの姿をも見回していった。


「だいたい、10年前なんてお前さんたちはみんな洟を垂らした子どもだったんだろうが? そんな大昔の出来事でお前さんたちを責められるものか。……しかもそのジーダとかいう輩は問答無用で襲いかかってきた、と言ったな?」


「は、はい」


「いくら森辺の民が憎いからといって、そんなやり口が許されるはずはない。義賊だの何だのともてはやされていた父親も天で息子の不始末を嘆いているだろうさ」


 ミラノ=マスは、ずいぶんご立腹なようだった。

 だけど、ミラノ=マスにだけはジーダという少年の行動に腹を立てる資格があるのだろうな、と思う。

 同じように大事な家族を失いながら、ミラノ=マスはひたすらその悲愴な運命に耐えていたのだから――


「とにかく、そんな輩は衛兵にでもまかせておけ。それに、宿場町の真ん中で宿屋を襲うような大馬鹿はいないだろう。そんな真似をしたら、それこそ衛兵に串刺しにされてしまうだろうからな」


「はい……でも、それじゃあミラノ=マスはいかがですか?」


「うん?」


「俺の料理を《キミュスの尻尾亭》で扱ってもらうことは可能なんでしょうか? ジーダという少年のことは置いておくとしても、とにかく俺は《西風亭》より先か、せめて同時期に《キミュスの尻尾亭》で料理を卸したいと考えていたんです」


 ミラノ=マスは、口をへの字にしてしまった。

 そして「無理だな」と言い捨てる。


「無理ですか……」


「当たり前だ。うちの店でお前さんの料理を扱ったりしたら、他の料理がひとつも売れなくなってしまうだろうが? そんな危なっかしい商売はできん」


「ええ? だけど、西の民のお客様だったら、全員が全員ギバの料理を食べたりはしないでしょう?」


「それでも1回お前さんの料理を食べちまったら、俺や娘の作る料理なんかには見向きもしなくなるだろう。そもそもうちは料理の出来栄えを売りにしている宿屋ではないんだからな」


 ミラノ=マスは早くに奥方を失ってしまったために、《キミュスの尻尾亭》ではよその宿屋よりも料理の質が落ちてしまっている――と、カミュアも確かにそのように述べていた。


 俺は拳を握りしめ、思いきって言ってみる。


「でしたら――俺が調理の手ほどきをしましょうか?」


 ミラノ=マスは、今度こそ仰天したように目を見開いた。


「すみません。ものすごくぶしつけな申し出かもしれませんが――それに、キミュスやカロンを扱ったこともない俺にどれだけのことができるかもわかりませんが、それでも少しぐらいはお役に立てるかもしれません」


「そ、そこまでお前さんの世話になる筋合いはない! それとも、手ほどきの代金でもせしめるつもりか?」


「そのようなことで代金はいただけませんよ。でも、そうすることで《キミュスの尻尾亭》でもギバの料理を扱ってもらえるようになるなら、俺にとっても立派な商売です。……それに、これまでさんざんお世話になったご恩をお返しすることもかないます」


「お前さんに特別な世話などをした覚えはひとつもない!」


「そうですか。それならミラノ=マスは無意識の内に俺たちを助けてくれていたのですね」


 俺は、自然に口もとをほころばせてしまった。

 ミラノ=マスは、いっそう苦い顔になってしまう。


「うまくいけば明日あたりから《南の大樹亭》の仕事を早めに切り上げることができるようになると思うんです。そうしたら、空いた時間に《キミュスの尻尾亭》に顔を出すことができますので、試しに俺を厨房に入れてみてくれませんか?」


 ミラノ=マスはさんざん思い悩んだ末に、「娘にも聞いてみないとわからん」と言ってくれた。


             ◇


 中天の2時間前――俺の体感では、午前10時。


 2台の屋台を借り受けて《キミュスの尻尾亭》を出立したら、まずはドーラの親父さんの露店で野菜の購入だ。


「やあ、アスタ。今日もいつもの数でいいのかな?」


「あ、今日からしばらくはプラが必要なくなりました。《玄翁亭》に卸す料理が別の献立になったので」


「ああ、そうなのかい。それじゃあ、プラの分を差し引いて、と――」


 今までは商売の最中や帰り道にも顔を出していたのだが、荷車を購入してからは朝のこの時間に必要な食材をすべて買いそろえるようになっていた。


 屋台の料理で使うアリアが48個、ティノが8個。

 宿屋の料理で使うアリアが100個。

 さらに、明日の屋台用の下ごしらえで使うアリアが30個、ポイタンが150個、タラパが5個。


 ドーラの親父さんの店で買う分だけでも、これほどの量になってしまうのだ。

 プラの代金を差し引いても、お代は赤銅貨82枚だった。


「いやあ、毎日アリアとポイタンをこんなにたくさん買ってくれるお客はいないからねえ。正直に言って、俺たちはずいぶん懐が潤ってるんだよ」


 親父さんは、にこにこと笑いながらそのように言ってくれた。

 そのかたわらで、ターラもにこにこと笑ってくれている。


 なかなかいい感じに肥えた親父さんと、リミ=ルウよりもほっそりとしたターラであるが、笑ったときの目もとの感じなんかは、なかなかにそっくりである。


「普通、アリアとポイタンが売り切れることなんてありえないからさ。収穫から時間が経って、そろそろ傷みそうだなって頃合いになると、カロンの餌としてダバッグの肉屋に卸すことになるんだよ。その場合は値段も半額ぐらいに買い叩かれちまうから、本当にこの2ヶ月ばかりは大もうけになっているのさ」


「いやあ、こちらとしても品切れの心配がないから大助かりですよ。……ちなみにアリアってもう100個ばかり買う量が増えても大丈夫ですか?」


「え!? これ以上たくさん買ってくれるってのかい?」


「いえ、まだ確定ではないんですけれども。宿屋での商売を広げることができたら、それぐらいの数になるかなと思いまして」


 ドーラの親父さんは、感心しきった様子で太い首を上下させた。


「本当にそんなことになったら、ダバッグに卸すアリアは1個もなくなっちまうかもしれないな! もちろんうちの店としては大助かりだよ!」


「それは良かったです。……あ、でもそれでカロンの餌代が上がって、結果的にカロンの肉の価格まで上がってしまうなんてことにはならないですか?」


「ならないならない。アリアを作ってるのは俺らだけじゃないからね。肉屋にすら売れずに捨てられるアリアの量が減るだけなんじゃないのかな」


「それなら安心ですね」


 アリアの数を確認しながら応じると、同じように銅貨の数を確認していた親父さんが不思議そうに首を傾げた。


「アスタはいつもそうやって他の店のことまで心配してるみたいだな。カロンの値段が上がるんだったら、そいつはギバを売ってるアスタにとってはむしろ得になる話なんじゃないのかい?」


「いえいえ。肉屋だとか他の屋台だとか、そういった人たちに反感をもたれてしまうのはやっぱり怖いので、何とか穏便に商売を続けていきたいなと思っているだけなんです」


「ふむ。しかし、商売をするんだったら競争になるのが当たり前なんだから、そんなところまで心配する必要はないように思えるがねえ」


「はあ、その考え方も正しいとは思うのですが……だけどやっぱり森辺の民としては、なるべく反感は買いたくないなと思えてしまって」


 この言葉に、親父さんは珍しく難しい顔つきになってしまった。


「アスタたちは、正々堂々と商売をしているだけなんだ。何も心配をする必要はないよ。罪人もみんないなくなったんだから、これからは良い方向に転がるだけだと思うぞ?」


 そうなればいいなと、俺も思う。

 だけどそれには最低限、サイクレウスおよびジーダとの関係性に決着をつける必要があるだろう。


 少しばかり返事に困って俺が言葉を探していると、無言でこのやりとりを見守っていたターラが「ねえねえ」と親父さんの腰あてを引っ張った。


「何のお話をしてるのかわかんないけど、アスタおにいちゃんを困らせたら駄目だよ、父さん」


「いや、いいんだよ、ターラ。……親父さん、どうもありがとうございます」


「何も礼を言われるようなことは言っちゃいないさ」


 親父さんは照れくさそうに手を振ってから、最後にその手をターラの頭の上に置いた。

 やっぱり会話の内容は理解しきれていないのだろうけれども、ターラは満足そうににこりと笑う。


 そんな父娘の姿に心を温められながら、俺は昨日の襲撃の件を、固有名詞だけは伏せて告げさせていただいた。

 森辺の民に深い恨みを抱いている人物が白昼から襲いかかってきたので、親父さんたちもくれぐれも気をつけてほしい、と。


「うん、まあ、そういう連中もまだ少なからずいるんだろうさ。こっちは大丈夫だから、アスタたちこそ気をつけてくれよ?」


 もう1度「ありがとうございます」と述べてから、俺たちは親父さんの露店を後にした。



 かくして、本日も屋台の商売が開始された。

 いつものスペース、露店区域の北端にまで到達すると、今日も30名ばかりのお客さんたちが待っていてくれた。


《銀の壺》の10名、建築屋の8名、総勢18名もの常連客を失ってしまった我が店であるが、朝一番の勢いに変化は見られなかった。


『ミャームー焼き』は俺とララ=ルウが担当し、『ギバ・バーガー』はレイナ=ルウとシーラ=ルウが担当する。

 いずれ『ギバ・バーガー』の経営をルウ家にまかせる前準備として、昨日からはこの配置が基本となっていた。


「そういえばさ、リィ=スドラももう半月ぐらい屋台の仕事を手伝ってるじゃん? あの人、あたしたちの半分ぐらいの時間しか屋台にいないのに、やたらと上達が速いんだよね」


 ララ=ルウがそんな風に言い出したのは、朝一番のラッシュを終えて、なんとか一息ついた頃だった。


「はっきり言って、あたしやヴィナ姉と比べてももう何も負けてないと思う。代価のこと、少し考えたほうがいいんじゃない?」


「ああそうか。俺はいつもリィ=スドラと入れ替えで、彼女が働く姿をほとんど見ていなかったから、うっかりしてたよ」


 となると、ララ=ルウたちは初任給の1・5倍、赤銅貨9枚にまで賃金を引き上げていたから、赤銅貨3枚で働いてもらっていたリィ=スドラも、4・5枚――端数切り上げで、赤銅貨5枚か。


「ていうかさ、小さな氏族には公平に稼ぎを回したいから、ちょいちょい顔ぶれを替えていくつもりだとか言ってなかったっけ?」


「うん、そうだね。いちおう20日ぐらいの区切りで替えていく予定だったから、そろそろ打診しておこうかな。……どうもありがとうね、ララ=ルウ。どうも最近は献立の開発にばっかり頭が向いちゃってたみたいだ」


「どういたしまして」と肩をすくめてから、ララ=ルウはさらに言った。


「それじゃあついでに言っておくけど。昨日の晩にね、またリミが騒いでたよ。レイナ姉ばっかり屋台の仕事を手伝っててずるい、だってさ」


 なるほど。ヴィナ=ルウの負傷を契機としてレイナ=ルウまでもが参戦してしまったから、これでルウ本家の4姉妹のうち、リミ=ルウだけが屋台の商売を手伝えない状況になってしまっているわけだ。


「うーん、でもどうなんだろう? 本来は城との関係が落ち着くまで、レイナ=ルウとリミ=ルウに関しては保留って話になってたんだよね。こうやって護衛役がいる間は、リミ=ルウに頼んでも危険はないのかなあ?」


「さあ? そういう話はミーア・レイ母さんとしてみなよ。……まあ今日みたいに怪我したヴィナ姉とリミしか家に残らない場合は、ちょっとばっかりミーア・レイ母さんやティト・ミン婆の仕事が増えることになってるんだろうね」


 ならば、ミーア・レイ母さんと相談してみるべきか。


「あ、でもそうなるとリミ=ルウはララ=ルウと1日おきでって話になるかもしれないけど、それはかまわないのかな?」


「いいよ別に。1日おきぐらいなら。……屋台の仕事は楽しいから、できるだけ続けていきたいけどね」


 そう言って、ララ=ルウはにっと白い歯を見せた。

 こういう笑顔も、ルド=ルウによく似ている。


 そのとき――体格のいい西の民が、ふらりと屋台の前に立った。

「いらっしゃいませ」と言いかけて、口をつぐむ。

 それは、お客様ではなかったのだ。


「よお、今日も繁盛してるみたいだな。変わりはないようで何よりだ」


 濃い褐色の髪と髭に、明るい茶色の瞳と、陽に焼けた黄褐色の肌。頭には砂色のターバンみたいな布を巻きつけ、袖なしの胴衣と筒型の足衣を着た、野盗の親分みたいに陽気で豪放そうな壮年の男。


 カミュアやメルフリードの計画に乗り、商団の長を演じた男――《守護人》のザッシュマである。


「お待ちしてましたよ、ザッシュマ。実は、報告しておかないといけないことがあるんです」


 カミュアとレイト少年がジェノスを離れている現在、この御仁が毎朝屋台を訪れて、何か異変が生じていないかを確認する役目を担う段取りになっていたのである。


《キミュスの尻尾亭》には万一の事態に備えて3名の《守護人》が宿泊客として逗留しているという話であったが、この御仁はミラノ=マスにも面が割れているために、その役目を担えなかったのだそうだ。


「ふむ? それじゃああの荷車の裏ででも話そうか。……ああ、いや、すぐに動くとあやしまれるからな。お前さんは、もうしばらくしてから動くといい」


 そんな風に言い残して、ザッシュマはさっさと立ち去ってしまった。

 もっとこの屋台から距離を取った上で、裏の雑木林に回りこむつもりなのだろう。

 ジーダの存在を知る前から、カミュアたちはこの屋台が何者かに監視される可能性をも考慮して動いていたのだ。


「なーんか胡散臭い男だよねー。まあ、あの胡散臭い金髪の男の仲間なんだから当たり前なんだろうけどさ」


 ララ=ルウは、あんまりザッシュマがお気に召さないご様子だった。

 まあ、商団の長を演じる、などという役回りを喜々としてつとめるようなケレン味の多い人物は、あまり森辺の民の気風にそぐわないのだろう。


 俺は別に、かの御仁がカミュアに似ているとは思わない。

 ザッシュマはカミュアほど得体が知れない感じではなかったし――その代わりに、カミュアのように不可思議な吸引力みたいなものも持ち合わせてはいないように思えた。

 まあ要するに、カミュアほど奇妙な人間などそうそういない、ということだ。


「それじゃあ俺はちょっとここを離れるね。留守番を頼むよ」


「うん。気をつけてねー」


 ララ=ルウに気安く手を振られつつ、俺は荷車の裏側に回りこんだ。

 そこに控えていたシン=ルウが、不思議そうに目を向けてくる。


「あのカミュアのお仲間がやってきてくれたんで、昨日のことを報告しておくよ」


「そうか」とシン=ルウはひとつうなずく。

 その顔には、まだくっきりと青い痣が残ってしまっている。


 そうして1分ばかりギルルやルウルウとたわむれていると、やがて分家の少年に引き連れられてザッシュマが林の奥から現れた。


「ファの家のアスタ。この男はカミュア=ヨシュという男の仲間であり、アスタと言葉を交わす約束をしたと述べているが、それは真実か?」


「うん、間違いないよ。案内をどうもありがとう」


「うむ」と目礼をして、少年のみが去っていく。

 その背中を見送りながら、「やれやれ」とザッシュマは苦笑を浮かべた。


「ずいぶん物々しい警護だな。それにやっぱり森辺の狩人ってのはあんな子供でもえらい迫力だ。女衆は美人ぞろいでいい感じなんだがなあ」


 そういう軽口を叩いてしまうところがまた森辺の民の気風には合わないのだろう。

 ただ、粗野かつ世俗的ではあるかもしれないが、そこまで性根の悪い人間ではないのだろうな、とも思う。


「それで? いったい何がどうしたってんだ? 見たところ、平和にやれているようじゃないか?」


 俺は再び昨日の顛末を語って聞かせることになった。

 ザッシュマは陽に焼けた頬を撫でながら「ほうほう」と感心したような声をあげる。


「赤髭ゴラムの息子とはな! 大本命の登場じゃないか。……しかしまあ、《北の旋風》が追い求めているのはその母親のほうだからな。息子だけでは、ちっとばっかり用事が足らんか」


「はい。しかも彼は、かなり森辺の民を恨んでいるようでした」


「ふうん。父親が卑劣な策謀に陥れられたと母親に聞かされて育ったのかな。10年前なら、息子はまだ3歳か4歳ぐらいであったという話だが」


 それじゃあやっぱり俺やシン=ルウよりは年少であるわけだ。

 確かにそれぐらいが相応の背丈ではあったが――そんな若さであのような憎悪にとらわれてしまったのかと思うと、やっぱり胸が痛くなってしまう。


 赤いざんばら髪の向こうから覗く、肉食獣のような黄色い目。

 あれは本当に、森辺の狩人にも劣らぬ熾烈な眼光を宿していた。


「ザッシュマ。これでその母親という人物までジェノスに潜んでいるとしたら、カミュアたちの行動は完全に無駄足になってしまいます。何とかこの事実をカミュアたちに伝える手段はないんですか?」


「ふん。トトスを潰すつもりで追いかければ追いつくかもわからんが、そんなことをしても無意味だろう。母親の所在がつかめないうちは、《北の旋風》らを引き戻すわけにもいかんのだからな。あちらはあちら、こちらはこちらでまずは捜索を続けるしかあるまいよ」


 なるほど。それも道理である。


「しかし、マサラの狩人か……それが本当だとしたら、こいつはなかなかに厄介だな」


 その言葉に、シン=ルウがザッシュマを振り返った。

 いつも沈着な切れ長の目に、狩人の光がゆらりと宿る。


「横から口をはさませもらう。西の人よ、あなたはマサラの狩人というものが何であるかを知っているのか?」


「うん? まあな。俺も実際に見たことはないが――マサラというのは、ジェノスからトトスを跳ばして3日ほどの距離にある山のことだ。そのマサラで獲れるバロバロの鳥というのは絶品であると評判だな」


「バロバロの鳥……」


「ただし、そのマサラの山にはガージェの豹と呼ばれる凶悪な獣も棲みついているから、生半可な狩人ではバロバロを狩ることはかなわんらしい。マサラの狩人というのは、自力でガージェの豹を仕留めることで、ようやく一人前と呼ばれるそうだ」


 それではやっぱりあの少年の纏っていた黄褐色の毛皮のマントこそが、彼にとっての狩人の衣であったということか。


 ザッシュマは、青痣の浮いたシン=ルウの顔を眺めながら、さらに言った。


「ガージェの豹ってのは、人間ぐらいの大きさがある凶暴な肉食の獣だそうだ。たかだか13歳だか14歳だかでそんな獣を仕留められる力量を持ち合わせているとしたら、確かに森辺の狩人に一泡ふかせることもできるかもしれんなあ」


「そうか。……貴重な話を聞かせていただき、感謝する」


 と、シン=ルウは目礼し、口をつぐんだ。

 ザッシュマはまた「ふむ」と頬を撫でながら俺に向きなおる。


「それじゃあ赤髭ゴラムの伴侶と息子はこの10年間、マサラの近辺に身を潜めていたということになるんだろうな。それで、伴侶のほうはまだそちらに居残っていると仮定すると――マサラの山までは片道3日の道のりであるから、それほど時間に猶予があるとは言えなくなってしまうかもしれんな」


 会談の期日は、半月後である。

 往復で6日を費やすとしたら、自由に動けるのは10日足らず――そして、カミュアたちが真っ直ぐそのマサラの山とやらを目指しているかも判然とはしない。


「俺たちはどうするべきでしょう? ……いや、彼がまた俺たちの前に現れてくれるなら、なんとか荒事にはせずに、もろもろの事情を打ち明けたいとは考えているのですが。その他に何か打てる手はありませんか?」


「これといってないだろうな。その母親の機嫌を損ねてしまったら《北の旋風》の目論見も水泡に帰してしまうであろうから、なるべく穏便に取り押さえる他ない。……しかし、その子供は手傷を負ってしまったのだな? そんな身体で衛兵に捕まってしまったら面倒だな」


「やはり衛兵はまずいですか」


「すこぶるまずい。例の伯爵様がこちらの想像通りの人間であり、なおかつその子供の素性が割れてしまったら、永久に口を封じられるか、それとも母親の口を封じるための道具として扱われてしまうだろうさ」


 不穏な台詞を吐きながら、ザッシュマは分厚い肩をすくめる。


「まあ、もしもその子供が宿屋を利用しているなら、いずれ俺の耳にもその話が届いてくるだろう。マサラの狩人なんてものは、このジェノスじゃあ嫌というほど目に立つだろうからな」


「そうですか……」


「ああ。俺の仕事は毎晩あちこちの宿屋に出向いて酒をかっくらい、情報を集めることなんだ。これで少しは仕事に張り合いが出てくるかもしれん」


 そこでザッシュマは、にやりと人の悪そうな笑みを浮かべた。


「そういえば、お前さん、あの野菜売りとはよほど懇意にしているのか? あのスン家の大罪人が始末されて以来、やたらと宿屋で鉢合わせすることが多いんだが」


「え? 野菜売りって、ドーラの親父さんのことですか?」


「名前までは知らん。お前さんが毎朝立ち寄っているあの野菜売りの男だよ」


 それはドーラの親父さん以外にありえない。

 俺はちょっと心拍数が上がってきてしまった。


「ドーラの親父さんがどうしたっていうんです? あの人をおかしなことに巻き込むつもりはないんですが」


「だったらそれは当人に言ってやりな。……いや、あの野菜売りは、毎晩俺みたいにあちこちの宿屋に現れては、森辺の民について語りたおしているだけだよ。あれは本当に気持ちのいい連中だ、大罪人はもう裁かれたのだから残された連中に罪はない、自分たちはもっと森辺の民に感謝するべきだ、とかそんな調子でな」


「…………」


「時には森辺の民を嫌う連中なんかと取っ組み合いになりそうにもなっていたが、まあ今のところは衛兵を呼ばれたりもせず、穏便にやっているようだ。……しかし、あれは南の農園の男なんだろう? だったら最初から宿屋で飯を食う必要もないだろうにな」


「……そうですか」という言葉しか出なかった。


 俺はいったい、どれほどドーラの親父さんやミラノ=マスやユーミたちに助けられているのだろう。


 にやにやと笑っているザッシュマに気づかれないように、俺は胸のあたりに込みあげてきた熱いものを必死に抑え込まなければならなかった。

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ドーラのおやっさんかっけえ。本当にかっけえよ。
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