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異世界料理道  作者: EDA
第十章 変革の前菜
177/1675

①白の一日、アスタの一日 ~朝~

2015.4/6 更新分 1/1

 俺がこの森辺の集落に住みついて、はや70日が経過しようとしていた。 しかし、この地域は俺の故郷ほど気候の変動が激しくないのか、そうしてふた月が過ぎても気温や日照時間などに大きな変化は感じられなかった。


 気温は、日本の初夏ぐらい。

 日照時間は、日の出から中天までがおよそ6時間、中天から日没までがおよそ7時間――大雑把に言ってしまえば、そんな感じだ。

 合計すれば、およそ13時間。俺の故郷である日本の関東地区と比べれば、ずいぶん大きな数値かもしれない。


 しかし、人々の活動時間はむしろ短いぐらいだろう。日の出を午前の6時、日没を午後の7時と仮定してみると、午後の9時ぐらいにはもう就寝しているイメージであるから、およそ15時間ほどしか活動していない計算になる。


 では、残りの9時間を眠りにあてているのか、と問われると――これは意識がないのだから、よくわからない。この世界でも1日が24時間であるという保証はどこにもないのである。


 ただし、1日みっちり働いても、翌日に疲労が残ることはほとんどない。よく食べよく働きよく眠る、実に健康的な生活に身を置いているのだという実感は、確かに得られることができていた。



 そんなこんなで、白の月の1日。

 その日も俺たちは広間で雑魚寝をしており、先に目を覚ましたのはやはりアイ=ファのほうだった。


「ああ……おはよう、アイ=ファ」


 ねぼけまなこをこすりながら半身を起こすと、アイ=ファは「うむ」と、うなずき返してくる。


 広間の真ん中であぐらをかき、金褐色の長い髪を器用に結いあげている。格子のはまった窓から差しこむ白っぽい陽の光に照らされるこの朝の情景が、俺は好きだった。そんなアイ=ファの変わらぬ姿を見ているだけで、今日も1日頑張ろう、という英気が身体の内側からしみだしてくるのを実感できるのだ。


「とっととお前も身支度をしろ。今日は水瓶の水も汲まねばならぬはずだ」


「ああ、そうだったな」


 俺は、うーんとのびをしてから、まずは物置部屋に移動した。

 衣類を着替えるためだ。

 だいたいファの家においては、晩餐の片付けとともに衣類の洗濯も済ませてしまうのが常なのである。


 亀裂の入った戸板だとか、乾燥中の薪だとか、壁にたてかけられた鋸だとか、雑多なものの詰め込まれた物置部屋の中で、俺はいったん素っ裸になり、新しい腰巻きと、ベスト風の胴衣だけを身につける。Tシャツは1枚きりしか持っていないので、毎朝大事に洗いながら着用し続けているのである。


 奥の壁にはひっそりと、白い調理着の上下が吊るされている。

 アイ=ファに森辺の装束をもらいうけてからは、1度も袖を通していない。この気候に長袖の調理着は不向きであるし、それに森辺においてはこの渦巻き模様の装束を纏うという行為が同胞としての証しになる、という習わしが存在するからだ。


(でも、こいつはもともとシム産の織物なんだもんな。シュミラルの婿入りが実現したとしても、そんなに見栄えに変化はなさそうだな)


 昨日、別れを告げることになった東の民の友、シュミラル。

 彼もそろそろ出立のための身支度を整えている頃合いであろうか。


 そんなことを考えてしんみりしていると、戸板が外から叩かれた。


「おい、中で寝ているのか? ぐずぐずしていたら置いていくぞ」


「ああ、いま行くよ」


 脱いだ腰巻きとTシャツを手に、物置部屋を出る。

 まずは水瓶と、食器のつまった鉄鍋の運搬だ。


 俺は空になった水瓶を少しななめに傾けて、玄関口のほうにごろごろと転がしていき、アイ=ファは鉄鍋を抱えてそれについてくる。


「よお、おはよう、ギルル」


 ギルルはすでに、表の木につながれていた。

 最近のアイ=ファはまず目覚めると同時にギルルを表に出してから身支度を整えているようなのである。

 その際にこっそりギルルの羽毛でもふもふしているのではないかと俺はあやしんでいるのだが、残念ながら、俺のほうが起床が遅いのでまだその光景を目撃するには至っていない。


 何はともあれ、大きな板に蔓草を結んだ引き板に水瓶と鉄鍋を載せ、水場へと出発だ。

 これもギルルに協力を願えばずいぶん楽になるのだが、ファの家だけそのように横着してしまうのは体面が悪かったし、それに、これは非力なる家人の筋力トレーニングも兼ねているのである。

 ということで、いつもの通りアイ=ファに荷が崩れぬよう支えてもらいながら、ずるずると引き板を引いていく。


 水場は、ファの家から10分ほど離れた岩場にある。

 ラントの川から枝分かれした支流のひとつだ。

 ごつごつとした岩の上を、冷たい清水がゆるやかに流れていく。水の力でその通り道が少しくぼんでいるだけの、ささやかな水場である。


 水場には、4名の女衆がいた。

 フォウとランの女衆だ。

 水場を共有するぐらい家が近いのは、このふたつの家のみだった。ガズやラッツやベイムはもっと南寄りで、スドラやディンはもっと北寄りであるらしい。


「あ……」と、女衆のひとりが身を起こす。

 あまり見覚えのない、若めの女衆だ。ということは、晩餐の手ほどきを願って時おりファの家を訪れるメンバーではない、ということか。


(ん……だけど、1回ぐらいは見たことがあるような……)


 首をひねる俺のかたわらで、アイ=ファは無言のまま、その女衆に目礼をした。

 しかし、その女衆は両手をもみしぼるようにしながら、気弱げに目を伏せてしまう。


 その間に、残る3名の女衆が俺たちに笑いかけてきた。


「ああ、アスタにアイ=ファ。あたしらはもう終わるから、ここを使っておくれ」


「ありがとうございます」と、俺はそちらに荷物を引いていく。

 どうにも挙動の落ち着かない最初の女衆は、逃げるようにしてその場から跳びのいた。


 で、また目を伏せてしまう。

 アイ=ファのほうも無言かつ無表情である。


「ねえ、アスタ、今日も料理の手ほどきをしてもらいたいんだけど、大丈夫かね?」


 年配の、ランの女衆がそのように呼びかけてきたので、俺は「はい」と、うなずいてみせた。


「今日はリィ=スドラも寄っていく予定だったので、ちょうどいいですね」


「そりゃあ良かった。あのね、実はあたしらの家でもはんばーぐに挑戦してみたいんだよ。……でも、あたしらなんかにはまだまだ無理かねえ?」


「そんなことはないですよ。大事なのは毎日の修練ですから。俺だって、最初に作り方を習った頃はパテを焦がしちゃったりして、それはひどかったもんです」


「本当かね? 想像がつかないねえ」と、ランの女衆は笑う。


 彼女たちは、最近めっきり笑顔が増えたような気がしてならない。

 それはもちろんスン家の支配から解き放たれた、というのが大きな理由なのであろうが、それより何より生活が豊かになったことによってもたらされた明るさなのではないかと俺は考えている。


 それも、ファの家に肉を売ることで得られる実際的な豊かさと、美味しい食事を食べるという喜びに目覚めた心の豊かさの双方から、だ。


 それは多分に、俺の願望が混じってしまっているのかもしれない。

 だけど彼女たちは本当に幸福そうで、そして、調理技術の向上に対する強い意欲も持ち合わせていたのだった。


「昨日はね、あんまり血抜きが上手くいかなかったんだよ。ギバが大暴れするもんだから、めった刺しで仕留めるしかなかったらしいんだ」


「まあ、男衆がみんな無事だったんだから、それはいいんだけどさ。それで、アスタに言われた通り、その肉は岩塩を溶かした水で洗ってみたよ」


「あ、それで臭みは十分にとれました?」


「うん。男衆もできる限りは血を抜いておいてくれたからね。あとは果実酒とミャームーに漬け込んで食べてみたら、まあほとんど気にならないぐらいのお味だったよ」


「売り物にはならなくても、あたしらが食べるには十分さ」


 と、また楽しそうに声をあげて笑う。


「それじゃあね。ディン家の娘っ子にも声をかけておくからさ」


「あ、トゥール=ディンですか」


「うん。最近あんたに会えてなかったから、あの娘もずいぶんさびしそうにしてたんだよ。……あれはあと何年かすればいい嫁になりそうだね」


「あはは」と応じつつ、俺はかたわらの家長を盗み見る。

 アイ=ファは、言葉もなく木皿を洗っていた。

 俺たちの会話など、まったく耳に入っていない様子である。

 で、おかしな素振りを見せていた最初の女衆は、暗い面持ちで水瓶に水を汲んでいる。


 その薄幸そうな横顔を見ているうちに、俺はその人物が何者であるかを唐突に思い出した。

 この娘さんは、たしか去りし日にファの家を訪れてくれたフォウの女衆――まだスン家が没落する前に、アイ=ファが届けてくれる毛皮の御礼だと言ってピコの葉を持ってきてくれた、サリス・ラン=フォウだった。


 あのときは、コタ=ルウよりも小さな赤子を抱いていたはずである。

 赤子の世話があったから、料理を習いに来ることも、水場で顔を合わせる機会もこれまでなかったのか。

 で、それがこうして水場に現れたということは――きっとあの痩せ細った赤子も、少しは目を離しても大丈夫なぐらいには健やかに育ったということなのだろう。


「それじゃあね。また昼の仕事の後で」


「はい。お待ちしています」


 フォウとランの女衆は、そうして連れ立って去っていった。

 アイ=ファは最後まで顔を上げようとしなかった。


「……なあ、アイ=ファ。お前はあのサリス・ラン=フォウと何か因縁でもあるのか?」


 鉄鍋の洗浄を開始しながらそんな風に問うてみると、アイ=ファは「べつだん因縁というほどのものではない」と応じてきた。


「……ただ、サリス・ラン=フォウは幼き頃の馴染みであったというだけだ」


「へえ! 幼馴染! アイ=ファにもそんなものが存在したのか!」


 俺はたいそう驚くことになった。

 が、よく考えれば驚くほどのことではない。ファの家はスン家と悪縁を結ぶまでは、近所の家ともそれなりには交流を保っていたはずなのである。


「で、どうして2人は気まずそうにしているのかな? もうスン家の目をはばかる必要はないんだから、リミ=ルウやジバ婆さんみたいに縁を結びなおせばいいじゃないか?」


「……人の縁とは、そんな簡単に結びなおせるものなのか?」


 アイ=ファの声には、元気がなかった。

 それで俺も、自分の軽はずみな発言を反省することになった。


 リミ=ルウやジバ婆さんたちは、自らアイ=ファとの縁を絶ったわけではない。むしろアイ=ファのほうこそが、災いをもたらさぬようにと2人を遠ざけてしまっていたのだ。


 しかし、フォウやランの人々は違う。

 彼らはスン家の目を怖れて、自分たちからもファの家を遠ざけたのである。


 それでもアイ=ファは、人知れずギバの毛皮を彼女らの家に贈っていた。

 スン家に気づかれぬよう、こっそりと彼女たちの生活を助けていた。


 その甲斐もあってか、フォウやランの家長らは、家長会議においてファの家の行いに賛同を示してくれた。暴虐を奮う族長筋を前に、はっきりと叛旗をひるがえしてみせたのだ。


 そうしてスン家は没落し、ファの家と彼らの縁は結びなおされることになった。

 フォウの家長らは自分たちの行いを悔い、アイ=ファに頭を下げ、縁を結びなおしてくれるよう願ったのだった。


 それですべては解決されたかに見えたが――俺も、個人間のことにまでは頭が回っていなかった。

 まさか、アイ=ファに幼馴染が存在したなどとは夢にも思っていなかったのである。


 あのサリス・ラン=フォウは、どんな気持ちでアイ=ファとの縁を絶ったのだろう。

 そして、今はどんな気持ちなのだろう。


 申し訳ない気持ちが強すぎて、アイ=ファに気安く近づくこともできないのではないだろうか――?


「……余計なことに気を回すなよ、アスタ」


 と、食器洗いに従事しながら、アイ=ファが低く呼びかけてくる。


「スン家のことなど、原因のひとつに過ぎん。私とサリス・ラン=フォウの縁は、切れるべくして切れたのだ。そうであるからこそ、スン家が滅んだところで再び結び合わされることもないのだろう」


「……うん、まあ俺も何か無理に行動を起こす必要はないと思うよ」


 そんな風に、俺は答えてみせた。


 アイ=ファは、魅力的な人間だ。

 そうであるからこそ、フォウやランやスドラの人々もファの家に集まったのだと思う。


 今よりも豊かな生活を手に入れるために、というのがその根本にあったのだとしても、それ以上にアイ=ファの魅力――狩人としての力量と、森辺の民としての正しき振る舞い、その心意気に、フォウやスドラの家長たちは心をひかれたのだろうと思えるのだ。


 だからきっと、サリス・ラン=フォウもいずれアイ=ファのもとに戻ってくるに違いない。


 無理に機会など作らずとも、いつか自然に――


「……余計な気は回すなと言ったであろうが?」と、いきなり頬肉をつかまれた。


「痛い痛い! 何だよ? だから、無理に行動を起こす必要はないって言ってるじゃないか!」


「そのわけ知り顔が妙に腹立たしいのだ」


「そんな理不尽な!」


 俺がわめくと、アイ=ファは比較的すみやかに俺の頬を解放してくれた。

 びっくりはしたが、思ったほどダメージも残っていない。アイ=ファにしてみれば、ちょいとつまんだぐらいの感覚なのだろうか。


 アイ=ファは「ふん」と洗い物の仕事を再開させる。

 俺はまた頬肉をひねられないよう気をつけながら、その横顔にこっそり微笑みかけておくことにした。


              ◇


 洗い物の仕事が済んだら、お次は家の仕事と、商売の下ごしらえである。


 洗った衣服は窓際に干して、おのおのの仕事に取りかかる。

 俺の仕事はポイタンを煮詰める作業と、刀の手入れ、そして食糧庫のチェックである。


 アイ=ファのほうは、日課としてはやはり自分の刀の手入れ。それ以外は、必要があればこの時間に薪を割ったり、干し肉を作ったり、ピコの葉を乾かしたりする。今日選ばれたのは、ピコの葉だった。


 スライム状になるまでポイタンを煮込んだら、アイ=ファの広げたピコの葉とともに日当たりのいい場所に置いて、その他の仕事も片付けたのち、一路、森へ。


 薪と香草、グリギの実などの採取作業だ。

 もちろん、水浴びで身を清めるのも日課である。

 フォウやランの人々はもっと下流で用事を済ませているらしく、この場で遭遇することはない。


「よし。ではまずピコの葉からだな」


 水浴びを終える頃には、アイ=ファもすっかり普段の元気を取り戻していた。

 どうやらアイ=ファは元来的に綺麗好きで、水浴びをするとずいぶん機嫌も上向きになるようなのだ。


 そんなアイ=ファとともに、ひたすら香草を摘んでいく。

 肉を保存するピコの葉と、干し肉や『ギバの角煮』で使用するリーロの香草、そして最後は毒虫除けのグリギの実である。


 余談だが、俺は森辺の民の体臭というやつを不快に感じたことがない。森辺の民は大いに肉を喰らい、1日に1度水浴びをするだけで、なおかつこのように温暖な土地で暮らしているにも拘わらず、だ。


 その理由として、まずこの香草やグリギの実の存在が考えられる。

 森辺の民は、毒虫除けのためにグリギの実を腕飾りとして常に着用している。そのふくらみかけの花みたいに甘い香りが、まず真っ先に鼻腔を刺激してくるのだ。

 なおかつ、女衆であればピコやリーロの葉に触れる機会も多い。こちらは清涼な芳香である。干したピコの葉なら、黒胡椒のような香辛料の香りだ。


 また、そういった香草を体内に摂取している効能なのか、あるいは俺の思い込みも付加されているのか――森辺の民は人間らしい体臭よりも森の匂い、森に踏みこんだときに感じられる草木や土や花の香を常に纏っているかのように感じられるのだった。


 さらにアイ=ファは、『ギバ寄せの実』を狩りで使用している。

 それを自らの身体にあびる危険な『贄狩り』はもう長いこと行っていないとのことであったが、『ギバ寄せの実』の香りはグリギ以上に強烈で、どうしても髪や衣服や身体などに残ってしまうのだそうだ。


 だからアイ=ファは、誰よりも甘やかな香りを常に撒き散らすことになっている。

 こうして森の端で薪を集め、せっかく清めた身体がまた熱をおびて汗をかいたりすると――よけいにその甘い香りが際立つような気さえするのだ。


 だいぶん昔に何かの弾みで、「ギバみたいに突進していきたくなっちまうな!」とか軽口を叩いたら、しこたま足を蹴られたことは言うまでもない。


 それはさておき、1時間ほどかけて香草と薪をたっぷり集めたら、家に戻る。


 収穫物の片付けはアイ=ファに託し、俺は仕込み作業の再開だ。

 かちかちに干上がったポイタンを水に戻し、60人前の商売用と、2人前の晩餐用のポイタンを焼く。


 で――以前であればここでさらに『ギバ・バーガー』用のパテも焼いていたのだが、その仕事はレイナ=ルウたちに引き継いでしまった。

 ゆえに、あとは『ミャームー焼き』のための漬け汁を作製するしか仕事がない。


 さらに言うならば、ギルルのおかげで宿場町までの移動時間も短縮できるので、本日などはトータルで4、50分ばかりも時間が余ることになってしまった。


「ふむ。やることがないから、薪でも割ろうかな」


 俺が言うと、干し肉をかじっていたアイ=ファが「それは私の仕事だ」と述べた。


「お前にその仕事を取られたら、あとで私の手が余ってしまうではないか」


 本日の護衛役はルウ家に頼んでいるため、アイ=ファは家に居残るのだ。

 で、アイ=ファもふだん俺が家を出た後は中天まで手が空くので、その時間はもっぱら薪割りに励んでいるらしい。


「だったらアイ=ファはひと眠りしていればいいんじゃないか? 他の家の男衆は、けっこう中天近くまでぐっすり休んでるだろう?」


「眠たくもないのに眠れるものか。私はもう何年も同じ時間に眠り、同じ時間に起きているのだ。今さらその生活を変えられるものではない」


 アイ=ファは13歳の頃に母親をなくして以来、ずっとこうして朝から晩まで働いていたらしい。

 15歳になるまでは、父親とふたりきりで。

 15歳になってからは、ひとりきりで。


「うーん、それじゃあどうしようかな。料理の研究をするには中途半端な時間だし、前倒しで始められるほどの仕事もないし」


 午後の仕事は『ミャームー焼き』や宿屋の料理で使う肉の切り分けのみである。『ギバ・バーガー』の仕込み作業がなくなると、俺の仕事は格段に軽減されてしまうのだった。


 で、4、50分もあれば、それらの仕事を前倒しで片付けることも可能であるが――しかし、切り分けた肉をピコの葉にうずめておくと、ブロック状のときよりもすみやかに水分を吸われてしまうため、いささかならず食感が変化し、なおかつピコの葉の傷みも進んでしまうのだ。


 食感のほうは、味が落ちるわけでもなく、むしろ熟成が進むぐらいの話かもしれないので、肉が縮むことを想定した切り分け方を模索する、という手もあるが、ピコの葉の寿命が短くなってしまうのは、あまりいただけない。


「……あ、そうか、それなら作業を前倒しにするんじゃなく、午後の仕事を翌朝に持ち込めばいいのか」


 と、俺は手を打つ。

 つまり、前日に済ませておいた仕事を当日の朝に移行するわけである。

 そうすれば、午後の時間はまるまる料理の研究にあてることができる。

 これは素晴らしい、と俺はほくそ笑み、アイ=ファに不審げな目で眺められることになった。


「だけどけっきょく、今日のところは手持ちぶさたってことに変わりはないのか。なあ、何か俺でもつとまるような仕事は残ってないか?」


「ない。……手が空いたのならば、お前こそ身体を休めればいいではないか? この後は、晩餐が済むまでろくに休む時間もないのであろう?」


 壁にもたれて座ったまま、アイ=ファは少し呆れたような声をあげた。


「私だって手が空いたときは、眠らぬまでもこうして休んでいる。力を無駄に使わぬのも仕事の内だ」


「ふむ。だけど、ギルルのおかげで重い荷物を運ぶ機会が減ったからさ。せっかく身につけた体力や腕力が衰えるのも怖いんだよなあ」


「……体力や腕力?」


「ああ、はいはい。生粋の森辺の民に比べれば微々たる力なんだろうけどな」


 アイ=ファいわく、俺の体力は森辺の民の10歳児レベルであるそうなのだ。

 俺がちょっとむくれてみせると、アイ=ファは前髪をかきあげながら立ち上がり、無言でこちらに近づいてきた。


 で、やはり無言のまま、俺の左右の上腕を両手でわっしとつかんでくる。


「な、何だよ? 何か怒ってんのか?」


「私は理由もなく怒ったりはしない」


 低い声でつぶやきながら、むぎゅむぎゅと俺の腕をもみしだき始める。

 こちとらTシャツは乾燥中で、ベスト1枚の軽装である。素肌の身体を肩から前腕のあたりまでまんべんなくまさぐられて、俺は何だかおかしな心地だった。


「ふん……確かにこうしてみると、わずかながらに力がついてきたようではあるな」


「本当か? 以前は10歳児呼ばわりされたんだけど」


「うむ。今ならば、12歳ぐらいには相当するやもしれん」


「……あっそう」


 まあ、12歳といえば狩人としての資格を得る寸前の年齢である。それと相当なら、なかなかの成長ではあるのかもしれない。

 だからといって、俺の物悲しさが緩和されるわけでもないが。


「それじゃあシン=ルウの弟あたりとならいい勝負ができるのかなー。光栄だなー」


「うむ。まんざら勝ち目がないわけでもないかもしれんな」


 やっぱりそのレベルなのか。

 俺はがっくりと肩を落とし、アイ=ファは俺の腕に手をそえたまま、少し心配そうな眼差しを向けてくる。


「どうした? やはりここまで執拗に触れられるのは不快か?」


「いや。マッサージみたいで気持ちいい気がしなくもない」


「まっさーじ?」


「ああ、うん、筋肉をもみほぐすと、血行とかがよくなって気持ちよくなるんじゃないのかな」


「そうか」と応じながら、アイ=ファは指先をベストの内側、俺の両脇腹へと移動させてきた。


 俺は「うひゃい」とか叫びながら後方に跳びすさる。


「なぜ逃げる。心地好いのではなかったのか?」


 アイ=ファは俺の脇腹がかつて存在したあたりの空間を両手でつかんだ体勢のまま、きょとんとしていた。


 俺は「あははははー」と無意味に笑ってみせる。


「ごめん。普通にくすぐったかった。不快じゃないけど、それは勘弁してくれ」


「くすぐったい? ……そんなことはないと思うが」


 アイ=ファは首をかしげつつ、自分の見事に引き締まった脇腹をもみほぐす。

 そりゃあ自分でさわる分にはくすぐったいわけもなかろう。


「……俺さ、昔はお前の腕をつついただけで殴られた覚えがあるんだけど」


「うむ? そうであったか?」


「あと、頭を撫でたらどつかれたりもしたな」


「それはきっと、子ども扱いされたような心地がして不愉快だったのだ。今は決して不快とは思わない」


 アイ=ファは真顔で、また俺のほうに近づいてきた。


「嘘ではないぞ?」


「うん? ああ、別に嘘だとは思ってないけど」


「ならば確かめてみるがいい」


「……うん?」


「さあ」


 さあじゃないよ。


 だけど、何だろう。アイ=ファはものすごく生真面目そうな顔をしている。

 何か俺には計り知れない部分で、生真面目にならねばならない理由でも生じてしまったのだろうか。


 こんなことで朝からアイ=ファの機嫌を損ねてしまうのは嫌だったので、俺は胸中の気恥かしさを抑圧して、アイ=ファの指示に従ってみることにした。


 ぽん、と頭の上に手の平を載せる。

 水浴びした髪もすっかり乾いて、心地好い手触りだ。

 とても温かい。


 で、結いあげた髪が乱れてしまわないていどに、いいこいいこと撫でてみせる。


 すると――アイ=ファは、にこりと微笑んだ。


「うむ。やはり不快ではない」


 それだけかよ!


 ほんの少しでも心配した俺が馬鹿だった。

 いや、だけど、朝からこんなとびきりの笑顔を拝見することができたのだから、勝ち負けで言えば大勝利か?

 いや、そもそも何の勝負なのだ、これは。


「アスタよ、私は今日、ともに町へと下りることはできない」


 と、ふいにアイ=ファは俺が下に垂らしていた左手の先をぎゅっと握ってきた。

 何やらまた真剣な面持ちになってきたので、俺はアイ=ファの髪から右手を下ろす。


 ジーダの出現後も、アイ=ファは「宿場町に下りるのは1日おき」という自分で定めた計画を変えようとはしなかった。

 ルウとその眷族は現在休息の期間に入っているので、護衛役はそちらからいくらでも出すことができる。が、アイ=ファはなるべく自身の手で俺の身を守りたいと考えている。しかし、狩人の仕事をおろそかにすることもできない――という堂々巡りの思索の果てに、「1日おき」という苦肉の策をアイ=ファは選び取ったのだ。


 それは、森に入る日を半分に減らしてもこれまで通りの収穫をあげてみせる、という決意のもとでの選択であるはずだった。


「昨日の件は、ドンダ=ルウにもしかと伝えておいた。ルウ家には数多くの男衆がいるのだから、十分な数の護衛をつけてくれると、ドンダ=ルウも約束してくれた」


「ああ、そうだな」


「昨日の赤い髪をした子どもは、そこまでの手練ではない。あの分家の男衆、シン=ルウであっても、そこまで力が劣っていたわけではなかったと思う。ルド=ルウであれば、苦もなく撃退できるていどの力量であろう」


「うん。しかも相手はサンジュラに深手を負わされているからな」


「……そのサンジュラという男、あやつのような手練が敵方にいたら、ルド=ルウでも危ういかもしれん。そのために、十分な数の護衛をとドンダ=ルウに頼んだのだ。だから、アスタよ――くれぐれも無茶をするのではないぞ?」


 さっきの無邪気な笑顔からは一転して、アイ=ファは真剣な眼差しになってしまっていた。

 どれほど強く俺の身を案じてくれているのか、その眼差しだけで痛いぐらいに伝わってくる。


 それでもアイ=ファは狩人としての仕事を果たし、俺には宿場町の仕事を果たさせるべきだと、覚悟を固めているのだろう。


 アイ=ファに左手を取られたまま、俺は力強くうなずき返してみせた。


「無茶はしないよ。約束する。おたがいに仕事を果たして、おたがいに無事に帰ってこよう」


「うむ」とアイ=ファは満足そうに目を細め――そして、俺の手を胸もとにぎゅっと押し抱いた。

 瞬時に俺がパニックになりかけたところで、その手がふわりと解放される。


「信じているぞ、アスタ」


「お、おう、まかせておけ!」


 朝から混乱させられっぱなしだ。

 だけど俺も、自分のなすべきことを再確認することができた。


 宿場町の仕事をやりとげる。

 そして、ファの家に戻ってくる。

 今日だけのことではない。毎日、ずっとだ。


 アイ=ファが危険な狩りの仕事を果たして、毎日帰ってきてくれているように、俺も必ず帰還しなくてはならないのである。

 たとえサイクレウスがどのような魔手を伸ばしてこようとも、だ。


 そして、可能であるならば、赤髭ゴラムの息子を名乗る少年ジーダの身柄をおさえ、ドンダ=ルウたち族長と引き合わせる。

 シュミラルが見つけだしてくれたというトゥランのミケルなる人物とも、正しい縁を結べるように尽力する。


 荒事はルウ家が引き受けてくれるというのならば、俺も俺の仕事を果たしてみせよう。


 そんなことを考えながら、残りの時間は壁にもたれて座りこみ、アイ=ファとたわいのない言葉を交わしつつ身体を休めることにした。

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