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異世界料理道  作者: EDA
第九章 青の終わり
175/1700

⑬別離

2015.3/8 更新分 1/1 2016.10/3 誤字を修正

明日から第26章の書き溜め期間に入ります。更新再開まで少々お待ちくださいませ。

「シン=ルウ! どうしたの!?」


 すべての仕事を終えた後、《キミュスの尻尾亭》の前で屋台のメンバーと落ち合うと、ララ=ルウが血相を変えてシン=ルウにつかみかかってきた。


 右目の下に大きな痣をつくり、唇の端に血をにじませたシン=ルウは「不覚を取った」と無表情に応じる。


「不覚って何!? まさか、誰かに襲われたの!?」


「大きな声を出すな。町の人間に何かと思われるじゃないか」


 シン=ルウは、あくまで沈着である。

 ララ=ルウはそんなシン=ルウの胸もとに取りすがったまま、アイ=ファの姿をキッとにらみつける。


「どうしてアイ=ファがついてるのに、シン=ルウがこんな目に合わなきゃならないのさ! アイ=ファだったら、どんな相手でも簡単に蹴散らせるんじゃないの!?」


「よせ。アイ=ファはアイ=ファの仕事を果たした。自分の仕事を果たせなかったのは俺の不甲斐なさが原因であり、アイ=ファには何の責任もない」


 アイ=ファは、口をつぐんでいた。

 おそらくアイ=ファはサンジュラの害意を疑っていたので、俺やヴィナ=ルウのそばを離れることができなかったのだ。

 しかし、それを告げてしまうと、シン=ルウの力量ではサンジュラの襲撃を防ぐことはできないと思った、という心情をも打ち明けることになってしまうので、結果として、何も語ることができなくなってしまったのだろう。


 だからアイ=ファは、口もとを厳しく引き結んだまま、何も語らなかった。

 そんなアイ=ファの姿を一瞥してから、シン=ルウはララ=ルウの肩をぐっとつかんだ。


「このていどの怪我はどうということもない。俺は自分の仕事をきちんと果たせるよう、今後も修練を積むだけだ」


「でも……!」


「うっせーなー。お前が騒いだって何にもならねーだろ? そういうときは怒るより泣いたほうが可愛げがあるんじゃねーの?」


「あんたこそうっさいよ!」と、ルド=ルウのほうに向き直ったララ=ルウの瞳には、うっすら涙がにじんでしまっていた。


「何だ、泣いてんじゃん。……うん、今のはシン=ルウも悪かったな。こういうときは、心配させて悪かったーとか言ってぎゅーっと抱きしめてやりゃあ丸く収まるんじゃねーの?」


 シン=ルウは無言のまま、頬に血をのぼらせた。

 もちろんララ=ルウはそれ以上に真っ赤になっており、怒りのあまり口をぱくぱくさせてしまっている。


 そんな彼らの姿に「いひひ」と笑ってから、ルド=ルウはふいに瞳を鋭く光らせた。


「ま、アスタやヴィナ姉がぴんぴんしてっからいいけどよ。シン=ルウがそんな目に合うなんてただごとじゃねーよな。詳しい話は帰り道でいいのかな、アイ=ファ?」


「うむ。このように他者の耳があるところでは話さぬほうが無難であると思う」


「よし。それじゃあ、とっとと森辺に――」


 ルド=ルウがそう言いかけたところで、皮マントの一団が接近してきた。

 むろん――《銀の壺》である。


 その先頭を歩んでいた人物が、俺とヴィナ=ルウの前に立ち、フードを外す。

 シュミラルである。

 ヴィナ=ルウは一瞬顔をそむけかけてから、怒っているような眼差しでそちらをにらみつけた。


「アスタ、ヴィナ=ルウ、遅くなり、すみません。挨拶、来ました」


「ありがとうございます、シュミラル。お会いできて良かったです」


 ほっとしたり緊張したり、ぞんぶんに気持ちをかき乱されながら、それでも俺は笑顔でそんな風に応じることができた。


 ルド=ルウは「ああ、あんたのこともあったんだっけな」と黄色っぽい髪をかき回す。


「何だか騒がしい1日だな。……でも、こんな場所に固まってると、衛兵でも呼ばれそうじゃねーか?」


 そこまでの事態には至らないかもしれないが、さすがに通行人の目はぞんぶんに引いてしまっていた。何せ森辺の民9名、東の民10名、トトスが2頭という大所帯なのである。道幅10メートルはあろうかという石の街道でも、通行の妨げになりかねない人数だ。


「あの、建物の裏手に回りましょうか? ちょうど森辺への帰り道の手前に広々とした場所がありますので」


 俺の提案は快諾されて、すみやかに移動することになった。

 シーラ=ルウが持っていてくれたギルルの手綱は俺があずかり、街道を南へと進んでいく。

 すると、いったん後ろに引き退いたシーラ=ルウは、荷車の後部から何か小さな荷物を取り上げて、また俺のほうに近づいてきた。


「アスタ、干し肉は無事、南の民の一団に渡すことができました。銅貨も屋台の分と一緒に保管してあります」


「ああ、ありがとうございます。……それであの、俺が準備した特別な干し肉は……」


「はい。そちらもたいそう喜んでいるようでした」


 そう言って、シーラ=ルウはにこりと――彼女にしてはずいぶんはっきりと嬉しそうな笑顔を浮かべた。


「そして、バランと名乗る一団の長から、これを預かりました」


「え? それは……?」


「果実酒だそうです。どうやらずいぶん値の張る品のようですね」


 シーラ=ルウが布の包みをほどくと、そこからは確かに果実酒の土瓶と思しき容器が見えた。

 ただし、森辺の民が愛飲している赤銅貨1枚の果実酒ではない。かつてカミュアからも献上されたことのある、つるつるとなめらかな質感をした土瓶に収められた、高級な果実酒だ。


 しかもそれが、2本。


「ええと……このようなものを贈るのは、ジェノスの流儀でもジャガルの流儀でもない。しかし、そちらも同じようなものを準備していたのならおたがいさまだ、というようなことを述べていました」


 バランのおやっさんが怒った顔をしてわめき散らす姿が目に浮かぶようだ。


「そして、このようにも言っていました。……遅くとも1年後には、また必ずジェノスにやってくる。それまで息災にしていなければただではおかんぞ、だそうです」


「……わかりました。ありがとうございます」


 シーラ=ルウはうなずき、また果実酒をしまうために後方へと下がっていった。

 それと入れ替わりに、アイ=ファが顔を寄せてくる。


「アスタ、泣いているのか?」


「泣くか、馬鹿!」


 思わず強い声を返してしまうと、アイ=ファは「どうして私が馬鹿なのだ」と唇をとがらせた。


 そちらに「ごめん」と返してから、俺はななめ前を歩くシュミラルの背に目を向ける。


 バランのおやっさんとも、アルダスとも、このシュミラルとも、今日で長きの別れとなってしまうのだ。

 胸の下に抑えこんでおいた感情が、むくむく鎌首をもたげてくる。


(……泣くかよ、馬鹿)


 今度の馬鹿は誰に向けたものなのか、そんなこともわからぬままに道を進む。


 石の街道を南に進み、とある宿屋と宿屋の間の細い脇道を東に抜けると、急にぽっかりと視界が開ける。

 土の地面が剥き出しの、何もない空間だ。

 その向こう側には、森の威容が広がっている。


 背後には、建物の列。

 眼前には、森。


 そしてその森には、一筋だけ細い道が伸びている。

 森辺の集落へと繋がる道だ。

 ここが、町と森との境い目なのである。


 昔日には、俺たちの商売に反対する者と歓迎する者とが入り乱れて集結することになった、あの場所だ。


 俺たちは、そこで向かい合うことになった。

 森を背景に森辺の民が。

 町を背景に東の民が。

 まるでそれぞれの代表者であるかのように、静粛に立ち並ぶ。


「今まで、美味しい料理、ありがとうございました」


 シュミラルが、奇妙な形に指先を組み合わせて、頭を下げる。

 すると、その左右に並んでいた人々も、いっせいにフードをはねのけた。


《銀の壺》の団員、10名。

 はっきりと顔を見たことがあるのは、シュミラルと、今日の中天前に現れた副団長のラダジッドと、あとは開店初日に店を訪れてくれた名も知れぬ若者のみである。


 たぶんその若者は、列の1番左端にいる。

 この若者が『ギバ・バーガー』を試食して、商団の同胞を屋台にまで導いてくれたのだ。

 我が店にとっては、ターラに続く、開店2番目のお客様である。


 シュミラルが初めてやってきてくれたのは、その翌日だ。

 こんな肉は美味くも何ともない、とバランのおやっさんがわめいているところに、《銀の壺》の団員が総出で来訪してくれた。

 そうしておやっさんの仲間たちも集まって、しっちゃかめっちゃかの騒ぎになってしまったのだ。


 あれからもう、ひと月以上が経ってしまったのか。

 あれからまだ、ひと月ていどしか経ってはいないのか。


 そんなことを考えていたら、シュミラルが俺の前まで歩み進んできた。

 ヴィナ=ルウは、アイ=ファをはさんだひとつ隣に立っている。

 しかしシュミラルは、まず俺の前に立ってくれた。


「アスタ、挨拶、遅くなり、すみません」


「いえ、そんなこと――」


「今日、1日、城下町、いました」


「え?」


「サイクレウス、話、集めていました。悪い噂、真実か、調べていました」


 俺はびっくりして声も出なかった。

 シュミラルは、申し訳なさそうに目を細めている。


「余計な真似、すみません。ですが、アスタ、力、なりたかったのです。サイクレウス、どれほど危険か、私、知りたかったのです。……時間、足りなく、真実、わかりませんでした」


「そんな……どうしてシュミラルが……」


「でも、真実、知る人物、会えました。その人物、アスタ、力、なるでしょう。いつか、その人物、《玄翁亭》、訪れる、思います」


 サイクレウスの悪い噂が真実と知る人物。

 だけどそれは、シュミラルが耳にした悪い噂なのだから、きっと森辺の民と直接は関係のない案件なのだろう。


 しかし、そのようなことはどうでもよかった。

 俺はただ、シュミラルがそこまで俺たちの身を案じてくれたことが嬉しく――そして、腹立たしかった。


「シュミラル、どうしてそんな危ない真似をするんですか? サイクレウスは危険だから近づかないほうがいいと忠告してくれたのはシュミラル自身じゃないですか?」


「アスタ、怒る、わかっていました。でも、力、なりたかったのです」


 そう言って、シュミラルはしょんぼりと目を伏せた。


「すみません。気持ち、抑えられませんでした」


 そんな悲しそうな目つきをされたら、文句も言えなくなってしまう。


「シュミラルって、けっこう向こう見ずですよね。見た目はこんなに冷静で落ち着いていそうなのに」


「はい。同胞、同じこと、よく言われます」


 見た目に寄らずおしゃべり好きで、見た目に寄らず熱情的なシュミラルなのだ。

 俺は何だか泣きたいような気持ちで笑ってしまった。


「……でも、そんな風に俺たちの身を案じてくれるのは嬉しかったです。どうもありがとうございます」


「いえ。……その人物、トゥランのミケル、いいます。きっと、力、なると思います」


 すると、無言でこの問答を聞いていた《銀の壺》のひとりが、ゆっくりと足を進めてきた。


「その人物、森辺の民、出会う、必要です。私、昨晩、星、読みました」


 それは、ずいぶん年配のシムの民だった。

 長身痩躯であることに変わりはない。しかし、その漆黒の面には深いしわが刻まれ、首や腕には筋が浮いている。シュミラルをそのまま初老に仕立て上げたかのような、穏やかな眼差しをした人物だ。


「森辺の民、その人物、会うことで、さらなる力、得るでしょう。さすれば、森辺の民、道、開けます」


 それではこれが、シムの占星師という人物であるのか。

 ザッツ=スンという凶星は去る、と予言し――そして、俺の星を読むことはできないと言った、占星師だ。

 何となく、背筋がぞくりとしてしまった。


 その初老の人物は、穏やかだが感情の読めない瞳でしばらく俺を見つめた後、ふっとアイ=ファのほうに視線を移す。


「あなた――猫の星ですね」


「何?」


「凶星、去った後、森辺、運命、変革されます。三頭の獅子が目覚め、森辺の民、未来、導く。三頭の獅子の星、かたわらに、猫の星、猿の星、鷹の星、瞬けば、未来、いっそう、明るいです」


「申し訳ないが、何を言っているのかさっぱりわからん。ねことは何だ?」


「森辺、猫、いないですか? 東の王国、います。神聖なる獣です」


 そう言って、占星師は少し楽しそうに目を細めた。

 星の通りに猫みたいな女の子だな、とか考えているのかもしれない。


 俺は、シュミラルのほうに視線を戻す。


「……わかりました。何にせよ、シュミラルの人を見る目を信じます。そのトゥランのミケルという人物が現れたら、話を聞けばいいのですね」


「はい。きっと、力、なります」


 ほっとしたように、シュミラルは言った。

 そして、長マントに隠されていた右腕を前に出してくる。

 その黒くてなめらかな指先には、綺麗な布の包みが握られていた。


「アスタ、贈る物、あります」


「え? 何ですか?」


「酒杯です」


 俺は首を傾げつつ、その包みを解いてみた。

 そこから現れたのは、透明な筒型の酒杯――いつの日か、《銀の壺》の出店でも拝見したことのある、美しいガラスの酒杯だった。

 こちらも、ふたつでワンセットだ。


「アイ=ファ、これ――」と、思わず隣を振り返ってしまう。

 アイ=ファも、驚きに目を丸くしていた。


「アスタ、出会い、祝福、気持ちです。……何、贈るか、迷いました。そうしたら、アスタ、アイ=ファ、熱心、この酒杯、見ていた、ラダジッド、聞きました」


 あれはもう20日以上も前になるであろうか。俺とアイ=ファはシムの菜切り刀と厄災除けの首飾りを買うために、《銀の壺》の店を訪れたのである。

 そういえば――そのときにシュミラルは不在で、店番をしていたのはずいぶん背の高い東の民だったような気がする。


「どうぞ、使ってください。ファの家、晩餐、御礼でもあります」


「……一夜の晩餐の代価としては、ずいぶん値が張りそうであるが」


 嬉しそうに瞳を輝かせつつ、アイ=ファはしかつめらしくそう言った。

 シュミラルは、そんなアイ=ファを穏やかに見つめる。


「値、関係ありません。アスタ、アイ=ファ、喜ぶ物、贈りたかったのです。もし、道端の石、喜ぶようでしたら、その石、贈ったでしょう。値、関係ないのです」


「お前のように口のよく回る男と言い合っても勝てる気はせんな」


 アイ=ファはそのように述べていたが、俺は胸が詰まりそうになっていた。

 それで自分も荷車から贈り物を引っ張りださねば、と勢いこんで振り返ったら、シーラ=ルウが布の包みを手に立っていた。


 俺はシーラ=ルウに礼を述べてから、それをシュミラルに差し出してみせる。


「シュミラル、これはファの家から《銀の壺》のみなさんに贈り物です。ちょっと特別な作り方をした干し肉なので、3日以内にお召し上がりください。通常の干し肉よりはうんと柔らかくて、何だったらこのままでもかじることもできると思います」


 シュミラルは、嬉しそうに目を細めて「ありがとうございます」とその包みを受け取ってくれた。

 その瞳の輝きと言葉だけで、俺はもう十分だった。

 背後に立ち並んだ9名のシムの民も、それぞれ頭を下げてくれている。


 そうしてシュミラルは、包みを同胞の手に託し――ヴィナ=ルウの前に立った。


「……ヴィナ=ルウ、2日前、突然、来訪、すみませんでした」


 ヴィナ=ルウは、無言のままシュミラルを見つめ返した。

 シュミラルも、とても静かにヴィナ=ルウを見つめている。


「私、明日、朝、ジェノス、発ちます」


「…………」


「ジェノス、戻る、半年、後です。そして、またひと月、ジェノス、商売して、シム、帰ります。私たち、《銀の壺》、それが、生活なのです」


「…………」


「そして、半年、故郷、休みます。そして、1年、また旅をします。老いて、旅、無理、なるまで、その生活、続きます。私たち、旅、愛しています。私たち、放浪の民なのです。シム、王都、石の都の民、旅、しませんが、私たち、草原の民、旅、すなわち、人生なのです」


「……故郷ですごす時間より、旅をしている時間のほうが長いのねぇ……それは素敵な人生だとも思えるわぁ……」


 低い声で、ヴィナ=ルウは言った。


「わたしは森辺の外の世界に憧れていたから、そんな人生を羨ましいとも思う……でも、やっぱり……わたしは森辺の民なのよぉ……」


 ヴィナ=ルウの顔には、何の表情も浮かんはいない。

 だけどそれは、感情を動かしていないわけではなく、必死に感情を抑制した結果なのだろうと俺には思われた。


「わたしには、家族を捨てることはできない……森辺の民の魂は、森に還さないといけないのよぉ……」


 ヴィナ=ルウの姿を見つめつつ、シュミラルは小さくうなずいた。


「それ、正しい気持ち、思います。……しかし、私、この2日間、考えました。それで、ようやく、心、決まったのです」


「…………」


「私、ヴィナ=ルウ、婚姻の絆、望みます」


 シュミラルは、はっきりとそう言った。

 俺やララ=ルウやシーラ=ルウは息を飲み――

 そしてヴィナ=ルウは、ゆっくりと首を振る。


「あなた、わたしの話を聞いていたのかしらぁ……?」


「はい」


「……わたしに、森辺や家族を捨てろっていうのぉ……?」


「いえ」


「それじゃあ、あなたが大好きな旅をあきらめるつもり……?」


「いえ」


「だったら、何だっていうのぉ……? あなたの言うことはさっぱりわからないわぁ……」


「私、商団の仕事、やめる、できません。でも、シム、家族、いません。私、同胞、《銀の壺》、9名、すべてです」


 そしてシュミラルは、静かにこう述べた。


「だから、シム、捨てて、森辺の民、なります。……森辺の民として、《銀の壺》、仕事、続けたいと思います」


 ヴィナ=ルウは初めて表情を動かした。

 淡い色彩の瞳が、信じ難いものでも見るようにシュミラルを見る。


「でも……シムを捨てるっていうのは、神を捨てるってことなんでしょぉ……? それじゃあその周りの人たちも、みんな同胞じゃなくなっちゃうじゃない……?」


「はい。ですが、みな、許してくれました。同胞、なくなる。草原の民、なくなる。しかし、森辺の民、西方神セルヴァの子として、仕事、続ける、許してくれました。同胞でなく、友として、仕事、続ける、許してくれたのです」


「……そんな都合のいい話があるのかしらぁ……?」


 ヴィナ=ルウは、まるで寒いかのように自分の身体を抱きすくめた。

 シュミラルは、変わらぬ穏やかな目つきでヴィナ=ルウを見つめている。


「都合、悪い、ふたつだけです。私、西の民なる、《銀の壺》、マヒュドラ、入る、許されなくなります。私、シム、住めなくなります。……だけど、それでもいい、同胞、言ってくれました。同胞、なくなっても、私たち、友なのです」


「でも……」


「マヒュドラ、商売、あきらめます。シム、仕入れの仕事、私以外の同胞、受け持ちます。……ラダジッド、そう言ってくれました。団長、ラダジッド、引き継ぎます。私、西の民、森辺の民として、《銀の壺》、仕事、励みます」


「…………」


「草原の民、魂、草原、還します。私、魂、森辺、捧げます。草原、故郷、捨てる、とても苦しい、ですが、9名の友と、ヴィナ=ルウ、いれば、私、幸福、生きていける、思ったのです」


 シュミラルの声も、その眼差しと同様に穏やかなままだった。

 でもきっと、ありったけの思いで自分の心情を述べているのだろう。

 不自由な西の言葉をあやつって、何とか気持ちを届けようと――


「1年、故郷、離れる、半年、故郷、休む、言いました。でも、シム、遠いです。2ヶ月ずつ、シム、ジェノス、行き帰り、道のりです。だから、その道のり、除けば、故郷、離れる、8ヶ月ほどです。そして、2ヶ月、ジェノスで商売です。故郷、ジェノス、離れる、6ヶ月だけです。6ヶ月、仕事、森辺、離れ、残りの時間、森辺、暮らせます。その時間、私、ヴィナ=ルウ、ともにありたいのです」


「だけど……あなたにギバを狩ることはできないでしょう……?」


「できません。しかし、私、西の王国、巡ります。さまざまな知恵、得ること、できます。さまざまな武器、得られます。ギバ、狩る、新しい技術、森辺、もたらすこと、きっと可能です。それが、私、力です」


「……私の父は、森辺の族長なのよぉ……? 異国人を婿に迎えるなんて、きっと許さないわぁ……」


「ドンダ=ルウ、私、説得します。ヴィナ=ルウ、幸福、もたらす、約束します。次、半年後、ジェノス、戻るとき、私、力、示すでしょう」


 とても静かに語りながら、シュミラルはその手の飾り物を抜き取った。

 桜色の小さな石があしらわれた、銀細工の腕飾りである。


「ヴィナ=ルウ、安息、願います。贈り物、受け取る、いいですか?」


「わたしはぁ……」と言いかけて、口をつぐむ。


 そうしてしばらく黙りこくってから、ヴィナ=ルウは上目づかいにシュミラルを見た。


「……わたしは、あなたみたいに感情の読めない人間は、少し苦手なのよぉ……」


 シュミラルは、不思議そうに首を傾げた。

 そして――

 ふいに、にこりと微笑んだ。


「森辺の民、なるなら、感情、さらけだす、頑張ります。……とても恥ずかしい、でも、必要、思っています」


 それはサンジュラにも劣らない、無垢で、優しげな微笑みだった。

 ヴィナ=ルウは、困り果てたように眉を下げてしまう。


「私、数日間、悩みました。……本当は、1ヶ月、悩みましたが、ヴィナ=ルウ、怪我して、もっと悩みました。私、知ったのです。私、ヴィナ=ルウ、必要なのです。ヴィナ=ルウ、ともにありたい、思ったのです」


「でも……」


「ヴィナ=ルウ、悩み、考えてくれたら、嬉しいです。半年後、私、ジェノス、戻るまで、考えてくれますか? 半年後、返事、もらえたら、私、嬉しいです」


 シュミラルはおずおずと手をのばし、ヴィナ=ルウの手を取った。

 その手の平に、漆黒の指先が銀の腕飾りを握らせる。


「半年間、毎夜、ヴィナ=ルウ、思うこと、約束します。私、ヴィナ=ルウ――愛しています」


 ヴィナ=ルウはその手の腕飾りをぎゅっと握りしめ、ついに表情が見えなくなるぐらいうつむいてしまった。


 その姿を最後にじっと見つめてから、シュミラルが俺に向き直る。

 その面に優しげな微笑みをたたえたまま。


「では、私たち、戻ります。次、会う、半年後です。アスタ、ヴィナ=ルウ、アイ=ファ、ルド=ルウ――それに、まだ名を知らぬあなたたち、みな、息災に。森辺、明るい未来、私、祈っています」


「はい。どうかお元気で……またお会いできる日を待っています」


 シュミラルはうなずき、俺たちに背を向けた。

 その同胞たちも、最後に小さく礼をしてから、身をひるがえす。


 皮のマントに長身を包んだ、10名の東の民たち。

 その背中を、俺は無言で見つめ続けた。


 これで、お別れなのだ。

 どんなに早くても、半年の歳月が過ぎない限り、再会することはかなわない。


 この異世界にやってきて、2ヶ月以上の時が過ぎた。

 半年後なら、また会えるかもしれない。

 1年後には、バランのおやっさんたちとも再会できるかもしれない。


 だけど――今この瞬間に、俺の存在がかき消えてしまっても不思議はない。


 誰だっていつ死んでしまうかはわからないのだから、条件は同じなのかもしれないが、それでもやっぱり、俺はそんな不安感を完全に封じこめることはできていなかった。


 そうしたら、これが永遠の別離となってしまうのだ。

 もう2度と、あの柔らかい声を聞くことも優しそうな瞳に見つめられることもできなくなってしまうのだ。


 シュミラルとヴィナ=ルウの行く末を、俺はこの目で見届けることができるのだろうか。

 そんな風に考えたら、胸がおし潰されそうになってしまう。


「……アスタ、泣いているのか?」と、アイ=ファが問うてきた。


「泣くか、馬鹿」と、俺は返した。


 アイ=ファはそれ以上、言葉を重ねようとはしなかった。

 ただ、その温かい指先が俺の目もとをぬぐったかと思うと、やがて乱暴な所作で頭をくしゃくしゃにかき回してきた。



 そうしてたくさんの人々と出会い、たくさんの人々と別れを告げることになった青の月は、ようやく終わりを遂げたのだった。

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