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異世界料理道  作者: EDA
第九章 青の終わり
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⑪食の結ぶ縁

2015.3/6 更新分 1/1

 中天である。

 店番の交代役であるリィ=スドラの到着を待ち、俺たちは《玄翁亭》へと向かうことになった。


 その際に、バランのおやっさんたちに引き渡す干し肉に関しては、シーラ=ルウに託しておいた。

 20キロにも及ぶ干し肉は、ルウ家とその眷族の6氏族、そして近所の小さな5氏族に声をかけて、難なく準備することができたのだ。


 白銅貨30枚の報酬も、12の氏族で割ってしまえば微々たる額である。前回は小さな氏族を優先して声をかけたので、今回は家の大小関係なく均等に割り振らせていただいた。


 そしてファの家からは、家長にお許しをいただいて、ごひいきにしてくださった常連のお客様に対する心づけを用意することになった。


 目下、時間を見つけて研究中のひと品である。

 その名も、『ギバ・ベーコン』――と言い切ってしまっていいのかどうか。要するに、木材のように固い干し肉を、もう少しばかり柔らかく仕上げることはできないものかと試行錯誤している燻製肉なのだった。


 塩に漬けて水分を抜き、乾燥させたのちに香草で炙る。森辺における干し肉の製造法は、基本的にベーコンとほぼ同一なのである。ただ、干し肉は何よりも保存性が重視されているため、とにかく徹底的に肉の内部の水分を除去してしまう。ゆえに、脆弱なる俺などには噛みちぎれないぐらいのガチガチな固さに仕上がってしまうのだ。


 冷却機器が存在せず、日本の初夏ていどの気候である森辺でありジェノスであるのだから、保存性が重視されるのは当然のことであろう。

 しかし、何とか俺の知るベーコンにもう少し近づけられないものか――保存性をどこまで犠牲にすれば、どこまで柔らかく仕上げることができるのか。そういった研究を、ファの家で干し肉を作製するたびに少しずつ色々と試してみているのである。


 塩の量なのか、塩に漬けておく時間の長さなのか、塩抜きした後に乾燥させる時間の長さなのか、香草で燻す時間の長さなのか、燻し方に改良の余地はないのか、同じ水抜きの効能を持つピコの葉をうまく使うことはできないのか――と、研究の余地がありすぎて、なかなか答えは見えてこない。


 現段階では、俺の歯でも何とかかじることができて、その代わりに保存は1週間ともたない、限りなくジャーキーに近いベーコンというていどの仕上がりで留まっていた。


 まだまだ理想には届かない。

 しかし、旅人気分でポイタンやアリアと一緒に煮込んでみたところ、既存の干し肉よりは格段に美味しくいただくことがかなった。


 干し肉の場合はくたくたになるまで煮込まねばならないので、後にはゴムのように味気ない肉片しか残らないが、この新作ベーコンモドキであるならば、だいぶん旨味を残したまま食することが可能であったのだ。


 使用しているのはやはりバラ肉で、干し肉よりは脂肪分のねっとりした感じも残っているので、もともとの旨味にもけっこうな差はあるように感じられるのである。


 そんなベーコンモドキを2キロばかり添えさせていただいた。

 必ず3日以内に食すること、干し肉ほど入念に煮込む必要はないこと、そしてこれは1ヶ月も屋台に通ってくれた皆様に対する御礼の気持ちなのでお代は不要であること、という3点をシーラ=ルウに言い置いて、俺は屋台を離れたわけである。


 このような行為は、宿場町の流儀に反してしまうだろうか?

 それでも俺は、おやっさん率いる建築屋の人々と、それに《銀の壺》の人々にだけは、どうしても感謝の贈り物を届けたいという衝動を抑えることができなかったのだ。


 もしもみんなと合流した際、そのベーコンモドキがおやっさんたちに突き返されてしまっていたら、枕を涙で濡らすことになるかもしれないなあと、そんな一抹の不安感を抱えこんでの出陣であった。



 人通りの増えた石の街道を、南に向かって突き進む。

 メンバーは、ヴィナ=ルウと、シン=ルウと、アイ=ファだ。屋台のほうには、ルド=ルウと分家の少年が残ることになった。


 で、俺のかたわらではヴィナ=ルウが切なげに息をついている。


「……大丈夫ですか、ヴィナ=ルウ?」


「うん……できることなら、面倒事は早い内に片付けちゃいたかったわよねぇ……」


 ひょこひょこと、ほんの少しだけ右足をひきずるようにして歩いている。その横顔は無表情なれど、やはりなかなかに憂いげであった。


(シュミラルからの贈り物を受け取るのですか?)

 さっきからそんな言葉が咽喉まで出かかってしまうが、何とか抑えこむことができている。


 まがりなりにも、ヴィナ=ルウは俺にアプローチしていたお相手であるのだ。

 そんな立場である俺が、あれこれシュミラルについて問い質すのは、きっと良くないことだろう。


 ヴィナ=ルウが、どのような気持ちで俺などに秋波を向けていたのか。その根っこには、どのような感情が渦巻いていたのか。不可思議な素性を持つ俺に対する好奇心や執着心だったのか、もっと純然たる恋愛感情であったのか――そんなことはわからないし、もしかしたら、ヴィナ=ルウ自身にだってわかっていないのかもしれない。


 たぶん森辺の民というのは、俺のいた世界の人々よりも、さらに直感的な部分で伴侶を選んでいるのだろうと思われる。

 ミーア・レイ母さんなどは、会って2度目でドンダ=ルウに思いを告げたようであるし、その娘たるレイナ=ルウなども、それほど時間を重ねずに俺へと気持ちをぶつけてきたのである。


 わずかそのふたつの事例だけで森辺の民の習性を断じてしまうのは乱暴に過ぎるかもしれない。が、このヴィナ=ルウもまた彼女たちの血族であり、そして、俺に対しては彼女たちよりも短期間で直截的に猛攻を仕掛けてきた娘さんであるのだ。


 そんな彼女が、シュミラルに対してはどのような思いを抱いているのか。

 シュミラルの思いをどのような形で受け止めようとしているのか。

 野暮な俺には、想像できるはずもなかった。


「……どうしたのだ? さきほどから浮かぬ顔をしているようだが」


 と、歩きながらアイ=ファが顔を寄せてきた。


「何か気にかかることがあるならば、自分の心にだけ留めておくなよ、アスタ」


「いや、大丈夫。ちょっと考えごとをしているだけさ」


 普段よりも2割増しで鋭い目つきをしているアイ=ファに、俺は首を振ってみせる。


「アイ=ファのほうこそ、大丈夫か? 例の視線ってやつは今日も感じているのか?」


「今日は感じない。昨日の視線も、たまたま何者かがしつこく目を向けていただけ、ということならば良いのだがな」


 その確証が持てない限り、アイ=ファも気が休まらないのだろう。

 しかし、次の会談の期日には、まだ半月も残されているのだ。

 休息の期間に入ったルウ家はまだしも、アイ=ファはそこまで狩人の仕事をおろそかにはできない。ルウの集落の付近でギバの出現率が下がったということは、他の区域での出現率が上昇する、ということなのである。


 スン家が狩人としての仕事を放棄していたため、その周期にもだいぶん乱れが生じてきているようだが、少なくとも、ファの家の周囲からそこまでギバの影が薄れたわけではないらしい。近所のフォウやランの家なども、なかなか順調に収穫をあげているのである。


「……白の月の15日までは、1日おきに森に入ろうと考えている」


 と、俺の心を読み取ったかのように、アイ=ファがそう告げてきた。

 で、俺の顔を至近距離からにらみつけてくる。


「だから、警護の役目も1日おきにルウ家に頼むつもりだ。……私の目の届かぬところで無茶をしたらただではおかぬぞ、アスタ」


「わかってるよ。ていうか、俺が宿場町でそんな無茶をしたことがあったか?」


「つい数日前に、南の民の娘に殴られたばかりであろうが?」


 ふーっと毛を逆立てた猫のような表情で、俺の肩を小突いてくる。

 どうもディアルの話になると瞬時に不機嫌になってしまうアイ=ファである。


「……仲がいいわよねぇ、アスタとアイ=ファは……」


 と、ヴィナ=ルウがまた低い声でつぶやいた。

 怒りの形相をひっこめて、アイ=ファがそちらに向き直る。


「ずいぶん力を落としているようだな。足が痛むのか、ルウの長姉よ?」


「ううん……ただ、あなたたちの睦まじい姿を見せつけられると、胸が痛くなっちゃうだけよぉ……」


 ちょっとドキリとさせられる発言だった。

 しかし、アイ=ファはけげんそうに首をひねっている。


「ルウの家には、たくさんの家族がいるではないか? どうして胸を痛める必要があるのだ?」


「あなたは本気でそれを言ってるのよねぇ……? だから始末に負えないのよぉ……」


 アイ=ファの頭上にはでっかいクエスチョンマークが浮かんでしまっていた。


 そんなアイ=ファの姿を力のない流し目で見つめてから、ヴィナ=ルウはふっと息をつく。


「いいの、気にしないでぇ……これはわたしの問題だからぁ……」


「そうか」と、アイ=ファはうなずいた。

 それから、珍しく何かを迷うような表情になり、また言葉を重ねる。


「ルウの家には、ジバ婆とリミ=ルウがいる。私が深く知る人間はそのふたりのみだが、それだけでもルウの家は――とても恵まれた幸福な家であるように、私には思えるぞ」


「わかっているわぁ……わたしだって、家族は大事に思っているものぉ……」


 そうしてヴィナ=ルウは、長い前髪の下に表情を隠してしまった。

 その後につぶやかれた言葉は、もしかしたら耳をそばだてていた俺にしか聞こえなかったかもしれない。


「わたしは、何を望んでいるのかしらぁ……」


 子どものように不安げな声で、ヴィナ=ルウは確かにそのようにつぶやいたのだった。


            ◇


「アスタとの契約も、今日でひとまずは完了となるわけですね」


《玄翁亭》の厨房にて、主人のネイルは感情のない静かな声でそう言った。

 中肉中背で、まだ30になるならずの若いご主人である。褐色の髪に鳶色の瞳、象牙色の肌をした、これといって特徴のない西の民の風貌だ。


「今日までありがとうございました。……そして明日からもまた新たに契約を結んでいただくことができれば、私は心より嬉しく思うのですが」


「そのように言っていただけるのは光栄です。ただ、以前にもお話した通り、明日からはチット漬けを使わない料理に変更させていただきたいのですよね」


 持ち込んだ食材を作業台の上に広げながらそう応じてみせると、ネイルは「今度はどのような料理を作ってもらえるのかと、ひそかに楽しみにしておりました」と言ってくれた。


 とても慇懃かつ友好的な言葉の内容と、不自然なぐらいの無表情が、なかなかの落差である。

 東の民の流儀に合わせて、感情の動きを見せないように心がけている変わり者のご主人であるのだ。


「何とか味もまとまったので、今日の内にご試食をお願いします。それでは準備を始めちゃいますね」


 今日の献立は『チット鍋』だ。

 これはギバ肉とアリアとティノを煮込み、チット漬けとタウ油をあわせるだけの料理なので、煮込んでいる間は完全に手が空くことになる。というわけで、具材を鉄鍋に放りこんだのち、俺はすみやかに新メニューの作製に取り掛かることができた。


 2日前、アイ=ファとシュミラルにも食べていただいた『ギバのソテー・アラビアータ風』である。

 これも1名分なら、作製はきわめて容易だ。

『チット鍋』の火の番はヴィナ=ルウに託し、俺は粛々と作業を進めていった。


 護衛役のアイ=ファは奥の窓がある壁ぎわに、シン=ルウは厨房の入口に陣取り、ネイルは俺のすぐそばで作業のさまを見守っている。俺が知る宿屋ではもっとも規模の小さな《玄翁亭》であるので、5人も入室するとなかなかに手狭な印象だ。


 ザッツ=スンらの襲撃に備えていたあの頃は、護衛役も4名だった。だからその内の3名は建物の外に出て、表口と裏口の両方を見張っていた。

 しかし今回は護衛役も2名しかいないので、戦力を屋内に集中させているわけである。


《南の大樹亭》のナウディスなどは、少なからず森辺の狩人に畏怖心を抱いている様子だった。

 しかしこのネイルという人物は、そういった気配を感じさせない。


 東の王国シムの文化に心酔する彼は、四大王国の間に存在する格差を憂える立場なのである。

 ジャガルを捨てて、セルヴァの子となった。そんな出自からも差別の対象となった森辺の民に、彼はなるべく公正な態度で接しようと思ってくれているのだろう。


(神を捨てたり捨てさせたりする覚悟を固めることができないから、東の民を妻に娶ることができなかったんだ、とかも言ってたしなあ)


 やはりこの世界においては神を乗り換えるという行為自体が、一種の禁忌とされてしまっている節がある。

 捨てられた側が快く思えないのはしかたがないとしても、乗り換えられた側も決して諸手を挙げて歓迎してくれるわけではないようなのである。

 だからこそ、森辺の民もそもそもの最初からジェノスの人々に冷遇される羽目になってしまったわけだ。


(何なんだろうな、その心理は。簡単に神を乗り換えるような人間は信用ならないってことなのか?)


 だけど、誰もがそんな簡単に神を乗り換えるわけではないだろう。


 たとえば、カミュア=ヨシュだ。

 北と西の混血であるカミュアは、幼き頃は北の王国で過ごし、母を失ってからは西の王国に移り住んだのだという。


 敵対国であるはずのマヒュドラとセルヴァの間で、どうしてカミュアのような出自の人間が生まれてしまったのか、その事情までは聞いていない。

 ただ、彼は北の民として母親とともに生き、母を失ってからは神を乗り換えて、西の民となったのだ。

 そんな複雑な生い立ちが、彼の奇妙な人格を形成する核となったに違いない。


 こんな生まれではまともな仕事になどつけないから、腕ひとつで生きていける《守護人》の仕事についたのだ、とカミュアは言っていた。

 そして、同じような境遇の森辺の民に、一方的な仲間意識を抱いているのだ、とも。


 カミュアだって、森辺の民だって、軽い気持ちで神を乗り換えたわけではないだろう。

 そんな彼らでも、西の王国セルヴァは優しく迎え入れることはなかったのだ。


(だったらやっぱり、婚姻のために神を乗り換えるってのも、なかなか祝福されないことなんだろうなあ)


 隣りのかまどの前で静かにたたずむヴィナ=ルウの横顔に視線を送りつつ、俺はこっそり溜息をつく。


 そんなこんなで肉とアリアにも火が通ってきたようなので、俺は持参したタラパのソースを鉄鍋に投じ入れることにした。


「それはあの屋台でも使っているタラパの煮汁ですか?」


「はい。これがなかなかにチットの実と合うのですよ」


「なるほど。わたしもチットの実とミャームーをあわせて使うことは多いですが、タラパというのは少し意外ですね」


「タラパはそのまま使うと酸味が強すぎますからね。それはそれで美味しいのかもしれませんけど」


 ネイルに解説をほどこしている間に、料理は仕上がった。

『ギバのソテー・アラビアータ風』の完成である。


「どうぞ。召し上がってみてください。俺としては、『ギバ・チット』にも負けない料理だと思っています」


「はい。少なくとも香りの良さは負けていませんね」


 厳粛な面持ちで、ネイルは木匙を取った。

 そうして、赤いソースのからんだロース肉を一口かじり――「ああ」と口もとを押さえてしまう。


「ど、どうしました?」


「これはいけません――どうしても口もとがゆるんでしまいます」


「いや、それなら俺は喜ばしい限りなんですが」


 思わず俺は笑ってしまった。

 別に周囲にシム人がいるわけでもないのだから、ぞんぶんに感情を露呈してくれればいいのに、とも思う。


「お恥ずかしい限りです。……ああ、これは美味ですね」


 ぴくぴくと口もとを引きつらせつつ、ネイルは料理をたいらげていく。

 何とか無表情を保ちつつ、その性急な食べ方に彼の満足度が現れてしまっている。


「うん、これは素晴らしい味付けです。これまでの料理よりも人気が落ちることはありえないでしょう」


 綺麗に完食した木皿を台の上に置き、ネイルはそう言ってくれた。

 しかし、薄い茶色の瞳がいささか心配そうに俺を見つめてくる。


「ただ、料理はこの一品だけなのでしょうか? ……いやもちろん、2種類の料理を日替わりで作っていただけたのは、単にわたしがどちらかの料理を選びきれなかったからに過ぎないのですが……」


「はい。せっかくですのでまた2種類の料理を準備させていただこうと思い、汁物のほうも新しい献立を研究中なのですが、そちらはまだ形になっていないのですよね」


 同じ要領でアラビアータ風のスープを――と試したみたものの、なまじ以前にタラパのシチューなどを作りあげてしまったせいか、そちらは何だか一味足りないような気持ちになってしまったのである。


 ソテーであれば、主役は肉だ。それを引き立てるソースとして、このタラパとチットの合わせ技は絶妙だったと思う。


 しかし、それがスープとなると、何やら物足りない。

 ギバ肉から出る出汁と、タラパのソースやタウ油だけでは、チット単品の辛さとうまく調和してくれないようなのだ。


「チット漬けには、えーと、マルの塩漬けでしたっけ? とにかく魚介類が食材として使われているんですよね。『チット鍋』では、どうやらその魚介類の旨味成分がかなり大事だったみたいなんです」


 それはもしかしたら普遍的な感覚ではなく、俺がこれまでに食してきたキムチ鍋と、そしてイタリア料理の味の記憶から導きだされた結論なのかもしれない。


 魚介類でなくとも、コンソメやブイヨン――とにかく、はっきりとした「出汁」の足りなさが引っかかってしまったのだ。


 たとえば、ギバの骨ガラを煮込むだけでも、濃厚な出汁がとれるであろうから、それでも事足りる可能性はある。シチューのときのように、数種の野菜を入念に煮込むのでもいいのかもしれない。


 しかしそれだと、大量の時間や手間や食材費や薪が必要になってしまう。

 卸し値は1食分で赤銅貨2枚、作業時間は1時間のみ、という制限がある以上、それはかなわぬ夢であるのだ。


「今も作っていただいているこの汁物は、お客様の間でも非常に好評なのです。それに代わる汁物の献立がないと、いささかならず不満の声があがってしまうかもしれません」


 と、ネイルが真摯な眼差しで俺を見つめてくる。


「アスタ。さきほどいただいた肉料理の味には何の不満もありません。この料理と、チット漬けを使った鍋料理を1日おきに準備していただくことは難しいでしょうか?」


「ああ、うーん……そうですね……実は内情を明かしてしまいますと、俺は材料費を見直す必要が出てきてしまったのですよね」


「材料費?」


「はい。森辺の集落において、ギバ肉の買い取り値段を改めたのです。これまでがあまりに安価であったため、適正な額まで引き上げることにしたのですよ。それでもまだカロンの肉よりは安い設定なのですけれどもね」


 俺の返事に、ネイルは静かにうなずいた。


「確かにわたしもチット漬けを料理に使うと聞いたとき、それでアスタに利益は出るのかと心配になったものです。それでは現状ですと、アスタにはどれほどの利益があるのでしょう? ……いえ、無理に聞きほじるつもりはありませんが」


「かまいませんよ。えーとですね、現状は――30食分の『チット鍋』で、赤銅貨9枚の利益となります」


 驚くなかれ、他の家からギバ肉を買った場合、原価率は85%にまで膨れ上がってしまったのである。


 さすがのネイルも、これには目を丸くしてしまっていた。


「赤銅貨60枚で料理を売り、その利益が赤銅貨9枚ですか」


「はい。肉が安価であった頃は赤銅貨30枚の利益であったので、あまり気にはしていなかったのですが。さすがにこれでは商売としてまずいかな、と」


 しかし、肉の値段を引き上げたのは俺自身である。

 このような事態に陥ってしまったのは、肉の安さに甘えて原価率を重視しなかった俺の怠慢が原因なのだ。


 まあ、ひとつだけ言わせてもらうならば、当時は毎日の仕事に追われて、料理の研究をする時間がひねりだせず、キムチ鍋や豚キムチの連想から思いついた現在の献立を選択するしかなかった、という背景もある。


「でも、わかりました。今後も新しい献立の開発には取り組んでいきますので、それで納得のできる料理を完成させるまでは、これまで通り『チット鍋』もご用意させていただきます」


「え。しかしそれでは、アスタの利益が……」


「このようなことでお客様の不興を買って、ギバ料理そのものに悪い印象がついてしまったら本末転倒ですので、今はそれが最善の道だと思えます。あとは納得のいく料理で納得のいく商売ができるように、俺自身が尽力するだけです」


 それから俺は、一言だけ添えておくことにした。


「ただ、『チット鍋』の材料費がかさんでしまうのは、俺がネイルからチット漬けを買い、それを料理に使っているからなのですよね。ネイル自身が『チット鍋』を作製してそれを売れば、十分な利益をあげることは可能なのではないでしょうか?」


 というか、現時点でもネイルは収益が出る価格でギバ料理をお客様に提供しているはずなのだから、自分の手で料理の作製までまかなってしまえば、現在の利益に俺が得ていた利益が加算されるのが道理である。


 しかしネイルは、悲しげに目を伏せて首を横に振った。


「わたしも料理の腕には自信がありましたが、アスタと同じ材料で同じ味を生み出す自信はありません。それでアスタより味の劣る料理を出しても、余計に不興を買うばかりでありましょう」


「そうですか……それは残念です」


「いや、しかし、アスタよ。それはもしかして、わたしがギバの肉をアスタから買うことも可能である、という意味なのでしょうか?」


「え? はい、それはもちろんです」


 心臓が軽くバウンドした。

 ネイルは、残念そうな目つきから一転、期待に満ちた目つきになる。


「それならば、わたしはギバの肉を買わせていただきたく思います。アスタと同じ料理では粗も目立ってしまうでしょうが、何かわたしなりの料理を作ることができれば、お客様に提供することもできるでしょう」


 そしてネイルは、こらえかねたように口もとをほころばせた。


「それに何より、わたし自身がギバの肉を食したいのです。どうしてお客様に食べさせるばかりで、わたしはキミュスやカロンを食べなくてはならないのだろうと、ここ最近はそのようなことばかりを考えてしまっていたもので……」


「……本当にギバの肉そのものを買っていただけるのですか?」


「ええ。あまり多くの量を買うことはできませんが――それでもカロンの肉より高くつくことはないのでしょうか?」


「は、はい! 今のところは、カロンと同額で売ろうと思っています。いずれ軌道にのったら、また価格を見直すことになるかもしれませんが……」


「ならば、わたしは幸運でしたね。ギバの肉が安いうちに買うことができるのですから」


 そう言って、ネイルは奇妙な形に指先を組み合わせた。

 シムの民がよく見せる仕草だ。


「どうかわたしにギバの肉をお売りください。まずは1日に10食分ていどでお願いいたします」


 宿屋で言う10食分とは、およそ2・5キログラムていどである。

 カロンと同額にするならば、赤銅貨10枚ていどの利益にしかならない。


 だけど、それでも――ついに、ギバの生鮮肉を求める人物が登場したのである。


 俺は半ば無意識に、アイ=ファのほうを振り返ってしまった。

 アイ=ファは無表情なまま、それでも嬉しそうに目を細めて俺のほうを見つめてくれていた。


「ネイル、ありがとうございます。本当に――心からありがたく思っています」


「わたしのほうこそ、とても嬉しく思っています。このギバの肉にはキミュスやカロンとはまったく異なる美味しさがあるので、いずれもっと多くの人々が求めるようになるでしょう」


 そんな風に言ってから、ネイルはふいに「失礼します」と俺に背を向けた。

 そのまま食糧庫のほうに消えていき、やがて小さな壺とそこそこ大きな布の包みを両手に携えて戻ってくる。


「これがチット漬けに使われている、マルの塩漬けです」


 そう言って、ネイルは作業台の上に置いた壺の蓋を取り去った。

 興味津々で覗きこんでみると、白くて小さくて半透明の物体が、小さな壺の下半分ぐらいにぎっしりと詰め込まれていた。

 形状はあまり判然としない。体長は大体1センチぐらいで細長い身体をした、あえて言うならオキアミなどのエビ類に似た生き物の塩漬けであるようだ。


「これは西の領内でとれるものですので、それほど珍しい食材ではありません。ミャームーや岩塩を取り扱っている店でしたら、だいたい置いているでしょう。この壺に一杯で、値段は赤銅貨2枚ほどです」


「なるほど! これは本来お酒の肴として食べられているのでしたっけ」


 たぶん、イカの塩辛とか、そのあたりのものに分類されるものなのだろう。

 これを直接タラパのソースとあわせても調和はしないかもしれない。が、どうやら大陸のど真ん中に位置しているらしいこのジェノスでは、貴重な魚介の食材だ。


「ありがとうございます。今日にでも購入して、料理に使えないか研究してみようと思います。……こっちの袋は何ですか?」


「こちらは乾酪です。今朝方にシムからの行商人が訪れてくれたので、お約束の通りに購入しておきました」


「あ、チーズですか! うわ、ずいぶんたくさんありますね」


「はい。5つほど購入できましたので、今回はすべてアスタにお譲りしましょう」


 ルウ家からも購入を頼まれていたので、これならば4~500グラムはあろうかというチーズの塊を2つ半ずつ山分けにできる。


 俺はまたしてもアイ=ファのほうを振り返ってしまった。

 アイ=ファは口もとをおさえながら、怒った目つきで俺をにらみ返してくる。

 アイ=ファもシム人ではないのだから、嬉しいのならば笑えばいいのにと思う。


「ありがとうございます! この前の分はあっという間に食べつくしてしまったので、とても助かります」


「そのように喜んでいただけると、わたしも嬉しいです。……ということは、ギバの肉を売ることのできたアスタはもっと嬉しいのかもしれませんね」


 そう言って、ネイルはまたうっすらと口もとに微笑をたたえた。


「森辺の民であるアスタがシムの乾酪を喜び、西の民であるわたしがギバの肉を喜ぶ。このようにちっぽけな店の誰にも知られていない交流ではありますが、わたしにはこれがとても尊いものであるように感じられます。これからも末永く縁を繋いでいってください、アスタ」

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