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異世界料理道  作者: EDA
最終章 ファの家の婚礼
1703/1704

婚儀の祝宴①~誓約の儀~

2025.12/1 更新分 1/1

 やがて夕闇が世界を包み、ファの母屋でも燭台の火を灯した頃、新たな面々がやってきた。

 夜の祝宴の付添人をお願いしている、ガズラン=ルティムとライエルファム=スドラである。


「日没まで半刻を切りましたので、私たちもこちらに控えさせていただきます」


「うむ。俺たちの役割はここまでであるので、失礼するとしよう」


 シン・ルウ=シンとチム=スドラが、二人一緒に身を起こす。夜まで連続で付添人の役目を果たすのは、ルド=ルウのみであったのだ。


「では、また祝宴でな。二人の付添人を果たすことができて、心からありがたかったぞ」


「こちらこそだよ。シン・ルウ=シンもチム=スドラも、どうもありがとう。また後で、ゆっくりと語らせてね」


「うむ。祝宴では、アスタとアイ=ファの奪い合いであろうな」


 沈着な気性をした両名が、優しい微笑を残して立ち去っていく。

 それで空いたスペースに、ガズラン=ルティムとライエルファム=スドラが座した。


「うむ。アスタもアイ=ファも、実に立派な姿だな」


 本日初めて顔をあわせるライエルファム=スドラは、くしゃっと顔に皺を寄せながら微笑んだ。ライエルファム=スドラは日中の付添人をチム=スドラに託し、今まで森に入っていたのだ。


「ライエルファム=スドラは、宿場町の様子を見に来られるのではないかと考えていました」


 ガズラン=ルティムの言葉に、ライエルファム=スドラは「うむ」とうなずいた。


「俺も宿場町の様子は気になったが、どうせ数多くの同胞が町に下りるのだろうと思い至り、取りやめたのだ。あまり森辺の民の数が増えては、宿場町の民の居場所を奪うことにもなりかねんしな」


「確かに日中の広場は、宿場町の民だけでも大層な賑わいでした。これも、アスタたちの人徳でしょう」


 こちらの両名はシン・ルウ=シンたちと同じく沈着な気性でありながら、さらに年季が入っている。幼子たちのかもし出す賑わいに変わりはなかったが、どことはなしに空気が落ち着いたように感じられた。


「広場にも、祝宴に招かれた同胞が集まりつつあります。さすが二百四十名ともなると、ずいぶんな賑わいですね」


「はい。そこまで大がかりな森辺の祝宴は、ちょっと覚えがないですからね。さすがに恐縮してしまいます」


「アスタとアイ=ファの婚儀であれば、決して不思議はないでしょう。祝宴に参じたいと願う人間を全員招いていたら、きっと広場に入りきらなかったのでしょうしね」


「……ファは二人しか家人がいないというのに、度し難い話だな」


 そんな風につぶやきながら、アイ=ファはそっとまぶたを閉ざす。

 婚儀の刻限が近づくにつれて、アイ=ファはどんどん静謐な気配が強まっていくようだ。いっぽう俺は現実感を失いつつあり、いつしか胸の高鳴りも収まっていた。


「誓約の儀は、わたしたちも覗き見させていただくわよぉ……子供たちも、興味津々でしょうしねぇ……」


「ええ。それに、ファの人ならぬ家人たちもですね」


 アマ・ミン=ルティムがゆったりと微笑みながら、横合いを振り返る。小屋に通ずる戸板が開かれており、ジルベたちが熱い眼差しでこちらをうかがっていた。サチとラピも幼子の猛攻を避けるために避難しており、ギルルを含めて十名の家人が勢ぞろいしているのだ。


 さらにしばらくすると、宴料理の準備を終えたリミ=ルウがランの少年とともにやってきた。

 なんとリミ=ルウは食料庫で着替えを済ませたらしく、可愛らしい宴衣装の姿である。そして、リミ=ルウと同世代であるランの少年は狩人の衣を模した毛皮を羽織っている。彼はリミ=ルウともども、草籠で祝福を授かる役目に任命されたのだった。


「お、お待たせしました。きょ、今日はよろしくお願いします」


「うむ。家人の少ないファの家のために力を尽くしてくれて、感謝しているぞ」


 アイ=ファが静かな声で答えると、ランの少年は「いえ!」と頬を火照らせた。


「ふ、二人の婚儀でこんなに大切な役目を果たすことができて、すごく嬉しいです! 失敗しないように頑張りますので、よろしくお願いします!」


 この役割は、十歳以上十三歳未満の男女が受け持つ習わしになっている。それでリミ=ルウはすんなり決定したが、男児のほうは手頃な相手が見当たらなかったため、それほど深い縁もない彼にお願いすることになったのだ。


 しかし、幼い頃のアイ=ファがもっとも懇意にしていたのはサリス・ラン=フォウの生家であるランの家であり、彼はサリス・ラン=フォウにとって年の離れた従兄弟の関係にあたる。それでフォウの血族の会議によって、彼に白羽の矢が立てられたのだった。


「今日は一緒に頑張ろーねー!」とリミ=ルウがとびっきりの笑顔を送ると、ランの少年はいっそう真っ赤になってしまう。同世代の少年には、リミ=ルウがひときわ魅力的に見えるのではないかと思われた。


「それじゃあわたしたちは、表で待機してるわねぇ……みんなが出ていったら、子供たちと一緒に儀式を拝見させていただくわぁ……」


 リミ=ルウたちに席を譲るため、ヴィナ・ルウ=リリンとシュミラル=リリンと六歳の長兄が席を立つ。ウル・レイ=リリンを残したのは、四歳の妹を慮ってのことであろう。退室の際には、誰もが俺とアイ=ファに温かな笑みを投げかけてくれた。


「さあ、いよいよだな。アスタは存外、落ち着いた顔をしているではないか」


 ライエルファム=スドラの呼びかけに、俺は「はい」と笑顔を返す。


「何だか今は、現実味がないんです。いざ入場になったら、足がすくんでしまうかもしれませんね」


「ふふん。まあ、途中で倒れたりしなければ、どれだけすくみあがっていても問題はなかろうよ」


「あはは。ライエルファム=スドラも婚儀を挙げるときは、緊張しましたか?」


 ライエルファム=スドラは「さて?」と小首を傾げつつ、リィ=スドラのほうを振り返る。はしゃぎ疲れた双子の頭を撫でながら、リィ=スドラは穏やかな笑みを返した。


「家長は婚儀の場においても、心を乱していなかったように思います。きっとスドラの家を立て直すことに懸命で、婚儀で浮かれる余念もなかったのでしょう」


「それは、ずいぶんな言い草だな。そもそも俺は自分が婚儀を挙げられるなどとは考えていなかったので、浮かれるいとますらなかったのであろうよ」


「そうですか。わたしは積年の想いを遂げることができて、存分に浮かれておりましたけれど」


 誰よりも落ち着いた微笑みをたたえながら、リィ=スドラはそう言った。

 それに「へー!」と反応したのは、リミ=ルウである。


「それじゃあ、二人の婚儀はリィ=スドラのほうから申し入れたことなの?」


「はい。渋る家長を押し切って、なんとか了承をいただくことがかなったのです」


「だから、その物言いは何なのだ。俺は自分のように貧相で年を食った人間が婚儀を挙げられるなどとは考えていなかったのだ」


 ライエルファム=スドラは苦笑を浮かべつつ、ざんばら髪をひっかき回す。

 二人は、親子ほども年が離れているのだ。きっとそこには余人に知れないロマンスが存在したのだろうと察せられた。


(まあ、それは婚儀を挙げた全員に言えることなのか)


 森辺の民には恋人関係という概念が存在しないため、俺の価値観に照らし合わせるとお見合い結婚に近い形態であるように感じられる。しかしそれでいて、俺の身近な人々の数多くは大変な紆余曲折を経て婚儀に至っていたのだった。


 ダルム=ルウとシーラ=ルウ、シュミラル=リリンとヴィナ・ルウ=リリン、ディック=ドムとモルン・ルティム=ドム、モラ=ナハムとフェイ・ベイム=ナハム、ジョウ=ランとユーミ=ラン、ラウ=レイとヤミル=レイ――そういった人々がどれだけの困難を乗り越えてきたかは、俺もそれなりに身近から見届けてきたつもりであった。


 いっぽうチム=スドラとイーア・フォウ=スドラはまさしくお見合い結婚のような様相であり、ガズラン=ルティムとアマ・ミン=ルティムに至ってはどのような経緯で婚儀に至ったかも存じあげないが――俺の知らないところでは、さまざまな裏事情が存在するのかもしれなかった。


(婚儀を挙げるっていうのは、それぐらい大ごとなんだもんな)


 俺がこっそり隣のアイ=ファの姿を盗み見ると、そちらは優しい眼差しでリミ=ルウの笑顔を見守っている。

 そのとき、玄関の戸板が外から叩かれた。


「ルド=ルウ、ガズラン=ルティム、ライエルファム=スドラ。間もなく儀式が始まりますので、こちらにおいでいただけますか?」


 それは、彼らとともに付添人の役目を果たすサリス・ラン=フォウの声であった。

 名前を呼ばれた両名ばかりでなく、アイ=ファもゆっくりと身を起こす。それで俺も、アイ=ファとともに玄関口へと向かうことになった。


 戸板の外では、サリス・ラン=フォウが微笑んでいる。

 既婚の彼女は、いつも通りの装束だ。そして、リリン家の三名も戸板の脇で待機していた。


「サリス・ラン=フォウ。よろしく願いたい」


「ええ。みなさんと一緒に、あちらでアイ=ファたちを待っているわ」


 幼馴染であるアイ=ファとサリス・ラン=フォウは、とてもやわらかな視線を見交わす。それを横目に、俺も三名の男衆に一礼した。


「みなさんも、よろしくお願いします。あと、ジバ=ルウたちにもよろしくお伝えください」


「はい。心して、アスタの晴れ舞台を見届けさせていただきます」


 ガズラン=ルティムの笑顔が、戸板に隠される。

 俺はひとつ息をついてから、リミ=ルウたちの待つ広間に舞い戻った。


 外界は、すでに薄暮に包まれている。広場には大変な数の人間がひしめいているようであったが、それもすべて真っ黒の影法師だった。ただ、とてつもない熱気の一端を肌で感じ取ったのみである。


 俺は心が定まらないまま、もとの敷物に腰を下ろす。

 すると、ずいぶん静かになってきた幼子たちの中から、コタ=ルウが俺に笑いかけてきた。


「アスタ、がんばってね」


「うん、ありがとう。コタ=ルウも、ここから見守っててね」


 きっとコタ=ルウたちも、婚儀の祝宴には慣れっこであるのだろう。とりわけルウの集落で暮らすコタ=ルウは、血族の婚儀を数多く見届けてきたはずであった。


「わたしも自分の婚儀を思い出してしまいます。あの頃はまだ古い習わしに従って、日中は血族の家を巡っていたのですよね」


 アマ・ミン=ルティムの言葉に、俺は「はい」と笑顔を返す。


「俺もはっきり覚えていますよ。宴料理の準備をしていたら、夕刻ぐらいに婚儀の衣装を纏ったお二人がルウの集落にやってきたんです。あれが、血族の家を巡った後だったんでしょうね」


「はい。その後、アスタに美味なる料理の手ほどきをされてからは、血族の女衆が総出でかまど仕事に励むことになり、血族の家を巡る習わしが取りやめられたのです」


 シーラ=ルウが、賛同を示すようにうなずいた。彼女の婚儀がちょうどボーダーラインぐらいの時期であり、ヴィナ・ルウ=リリンが婚儀を挙げる頃には完全にその習わしもなくなっていたのだ。


 そして、俺とアイ=ファはランとレイに続き、宿場町で披露の場を設けることになった。今後はどれだけの氏族がそれに続くかもわからなかったが、何にせよ森辺の婚儀も少しずつ変容していくのだろうと思われた。


(それでもきっと、喜びの思いに変わりはないんだろうしな)


 すると、再び戸板が叩かれた。


「そろそろ儀式が始まるようよ……わたしが合図を送るから、みんな準備をしておいてねぇ……」


 戸板越しに響くヴィナ・ルウ=リリンの声に、リミ=ルウが「はーい!」と元気に応じる。そして、きらきらと輝く瞳でアイ=ファを見つめた。


「アイ=ファ、頑張ろうね!」


「うむ。よろしく頼むぞ」


 アイ=ファは玉虫色のショールの隙間から手を出して、リミ=ルウの小さな手をきゅっと握りしめる。

 リミ=ルウもその手を握り返してから、大きな草籠を手に玄関口へと向かった。


 リミ=ルウとランの少年に続いて、俺とアイ=ファも革のサンダルに足を通す。

 そうして四人で土間に立ち並んでいると、幼子たちを引き連れたアマ・ミン=ルティムたちもすぐ背後に立ち並んだ。


 俺はまだ現実味がわかず、心臓も平穏なリズムを保っている。

 そこで、ヴィナ・ルウ=リリンの声が聞こえてきた。


「儀式が始まったわぁ……戸板を開くわよぉ……」


 戸板が大きく開かれて、リミ=ルウとランの少年が外界に足を踏み出す。

 そして、俺とアイ=ファがそれに続くと――たちまち、歓声が爆発した。


 つい先刻まで薄暮に包まれていた広場が、真っ赤に照らし出されている。

 広場の中央には儀式の火が焚かれ、広場の外周にはかがり火が燃えさかっていた。


 そこに詰め掛けた二百四十名もの人々が、怒号のごとき歓声をあげている。

 その勢いに、俺の心臓がようやく高鳴った。


 先日の城下町の祝宴よりも、日中の宿場町の広場よりも、凄まじい熱気が渦巻いている。

 これが、森辺の祝宴の熱量であるのだ。なおかつ、森辺の民だけで二百四十名もの人間が集められた祝宴は、俺にとっても初めての体験であった。


「ゆくぞ」というアイ=ファの声が、歓声の隙間から聞こえてくる。

 俺は生唾を呑み下してから、アイ=ファとともに熱気の只中へと足を踏み出した。


 その先を歩くのは、リミ=ルウとランの少年だ。

 俺は小さな妖精に導かれる御伽噺の登場人物のような心地で、歩を進めることになった。


 あれだけ大きく切り開かれた広場が、森辺の同胞で埋め尽くされている。

 しかもそれは、ほとんどがよく見知った相手であった。


 収穫祭をともにしている氏族から参じたのは、八十名弱となる。五歳未満の幼子とその面倒を見る家人を除いて、その人数であった。

 それ以外にも、さまざまな氏族から懇意にしている相手を招待している。ルウ、ルティム、リリン、シン、ドムは本家の家人を全員招待しているし、あとはジーダの一家やディガ=ドムやドッドなども加えられていた。


 そしてさらに屋台の当番を務めている女衆は、ひとりの男衆を相方として同行させている。

 また、以上の条件と重複する形で、すべての氏族から男女二名ずつを招待しているのだ。屋台の商売に関与していないサウティの眷族や、屋台の当番にひとりずつしか出していない氏族でも、四名までは参席の資格が与えられたのだった。


 それで算出された数字が、およそ二百四十名であるということだ。

 その中で馴染みが薄いのは、やはりサウティの血族で屋台の商売に参加していないフェイやタムルの面々であろう。

 また、ザザの血族も屋台の当番であれば見慣れた相手であるが、そうでない女衆や付き添いの男衆などはそれほど親密な関係ではない。俺は何度か北の集落の祝宴に立ちあっていたが、さすがにすべての家人と絆を深めることはできなかった。


 だが――この場でそんな区分けをしても、詮無きことであった。

 その場に詰め掛けた人々は、誰もが猛烈な勢いで俺とアイ=ファの婚儀を祝福してくれているのだ。俺の心臓を高鳴らせているのは、その場に参じたすべての人々であった。


 つきあいの深さはさまざまであるが、あちらは全員俺とアイ=ファの存在をわきまえているのである。

 ファの家はさんざん森辺を騒がせてきたので、俺とアイ=ファの名前を知らない人間などは皆無であるはずであった。だからこそ、この祝宴には二百四十名もの人間が招かれることになったのだ。


 そうしてその場にあふれかえった熱気をかきわけるようにして進んでいくと、人垣をつくっているひとりひとりの顔が見分けられるようになる。

 懇意にしている相手もいれば、名前も知らない相手もいる。しかしやっぱり、誰もが喜びの激情を噴出させていた。


 リミ=ルウとランの少年が草籠を掲げると、ギバの角と牙が次々に投じられていく。

 すべての人々から祝福を授かるために、俺たちは人垣の内側に分け入り、何度も広場を往復するのだ。わんわんと耳鳴りがする大歓声の中で、俺は目が眩むような心地であった。


 草籠には、これまで目にしたこともない高さにまで牙と角が積み上げられていく。

 そんな中、ふっとかたわらのアイ=ファを振り返ると――そちらはやっぱり、静謐な表情であった。

 玉虫色の輝きに包まれたアイ=ファが、城下町で習い覚えたつつましい足取りで歩いている。その美しさが、俺の胸をいっそう高鳴らせた。


 そうして俺が、夢とうつつの境を見失いかけたとき――ふいに、視界が開けた。

 その先に待ち受けていたのは、ごうごうと燃える儀式の火に、付添人をお願いした人々である。


 ジバ婆さん、ドンダ=ルウ、ミーア・レイ母さん、ルド=ルウ、ガズラン=ルティム、ライエルファム=スドラ、バードゥ=フォウ、バードゥ=フォウの伴侶、サリス・ラン=フォウ――それにリミ=ルウとランの少年を加えた十一名が、俺とアイ=ファの家族の代理人であった。


 それらの面々が左右に広がり、俺たち四名をふわりと受け止める。

 俺とアイ=ファは儀式の火を背にして中央に立ち、リミ=ルウとランの少年はその場の面々からも祝福を授かりつつ左右の端まで退いていった。


「今宵、アイ=ファとアスタはおたがいを伴侶として結び合わされる。ファの友たるフォウの家長として、心から祝福の言葉を述べさせてもらいたい」


 バードゥ=フォウが厳粛なる声で宣言すると、また大歓声が吹き荒れる。

 しかし、続きの言葉を聞くために、その声もやがて静まりかえった。


 そうして静寂に包まれても、その場に満ちた熱気に変わりはない。

 二百四十対の熱い眼差しを向けられて、俺は全身が燃えあがってしまいそうだった。


「……しかしその前に、ファの家はひとつの儀式を行う必要がある」


 バードゥ=フォウがそのように続けると、広場にいぶかしげなどよめきが広がった。

 そんな中、バードゥ=フォウはアイ=ファに呼びかける。


「では、アイ=ファ。よろしく願いたい」


 アイ=ファの無言のままに一礼し、静謐なれども堂々たる立ち居振る舞いで広場の人々を見回した。


「まずは我々の婚儀にこれだけの同胞を招くことができて、心から喜ばしく思っている。血族ならぬ我々のために心を尽くし、同じ場で喜びを分かち合ってくれることに、心よりの感謝を捧げさせていただきたい」


 アイ=ファの花嫁らしからぬ凛然たる言葉に、人々はまた瞬間的に歓声を張り上げる。

 それが収まってから、アイ=ファはさらに言葉を重ねた。


「ただし我々は婚儀を進める前に、ひとつの儀式を果たさなくてはならない。それは、アスタの氏に関してとなる」


 それだけで事情を察した人々が、期待を込めたどよめきをあげる。

 アイ=ファはひとつ息を整えてから、続きの言葉を発した。


「私はこれまで、アスタに氏を授けてこなかった。それはアスタを正式な家人として認めていなかったわけではなく、つい機会を逸していたに過ぎなかったが……森辺において、氏なき家人が婚儀を挙げることは許されていない。よって、婚儀に先立ち、アスタにファの氏を授けたく思う」


 そしてアイ=ファは、俺に向きなおってきた。


「ファの家長アイ=ファの名のもとに、家人アスタにファの氏を授ける。お前は今この瞬間から、ファの家人アスタ=ファだ」


 胸が詰まって言葉が出なかった俺は、無言のままに一礼する。

 すると、これまで以上の大歓声がわきたった。


 まるで、落雷と大地震がいっぺんに押し寄せてきたような迫力である。

 そんなにも数多くの人々が、氏を授かった俺を祝福してくれているのだ。俺は自分の内側と外側から、全身をもみくちゃにされているような心地であった。


(俺は別に、氏にはこだわっていなかったけど……今日から俺は、アスタ=ファなんだ)


 俺の心臓はどんどん高鳴り、いよいよ夢うつつの状態に陥っていく。

 それを現実に引き戻そうとばかりに、アイ=ファの凛々しい声が響きわたった。


「ただし、アスタは三年以上も氏をつけずに呼ばれていたため、皆の舌に馴染みにくい面もあろう。私としてもアスタが数多くの人間から家族のように呼ばれていることを、とても嬉しく感じていた。よって今後も森辺の習わしを踏みにじらない範囲で、自由に呼んでもらいたく思う」


 そんな言葉を最後に、アイ=ファは一礼して引き下がる。

 すると、その場の大歓声を圧する勢いでドンダ=ルウが重々しい声を放った。


「それでは、誓約の儀式を開始する! ファには他に家人がないため、ルウの最長老ジバ=ルウがその役目を果たさせていただく!」


 ジバ婆さんが誰の手も借りずに列の中央へと進み出て、俺とアイ=ファを除く面々は左右に退いていった。

 そして、ミーア・レイ母さんとサリス・ラン=フォウの手によって、儀式の火に香草が投じられる。

 甘くて、ちょっと尖った刺激臭も入り交じっている、婚儀の日にだけ持ち出される香草だ。これまでに何度も嗅いできた香りが、これまで以上の勢いで俺の鼻腔を蹂躙した。


 俺の心臓は、いまや胸郭を破りそうな勢いで脈動している。

 そんな中、ジバ婆さんの厳粛なる声が響きわたった。


「それでは……森の冠の交換を……」


 俺とアイ=ファは広場の人々に背を向けて、ジバ婆さんのもとでひざまずく。

 ジバ婆さんの皺くちゃな顔はすべての表情を消し去って、まるで年老いた巫女か――あるいは、森の精霊であるかのようであった。


 俺はジバ婆さんがこの役目を果たす場面を何度か見届けていたが、間近から目にするとこんなにも神々しいたたずまいであったのだ。

 垂れ下がったまぶたに半ば隠されたその瞳も、どこを見つめているのかわからない。それは限りなく透明な眼差しでありながら、白刃のきらめきを思わせる迫力をも備え持っていた。


 そんなジバ婆さんの枯れ枝のように痩せ細った指先が、俺とアイ=ファの頭から草冠を外していく。

 その草冠が儀式の火の燻煙にさらされて、俺がかぶっていたものはアイ=ファの頭に、アイ=ファがかぶっていたものは俺の頭にかぶせられた。


 俺は目を伏せて、痛いぐらいに跳ね回る心臓の鼓動に耐える。

 とてつもない熱気をはらんだ静寂の中で、ジバ婆さんが再び厳粛なる声を響かせた。


「祝福を……今宵、ファの家のアイ=ファは、ファの家のアスタ=ファの嫁となった……ファの家はさらなる絆を深めて、いっそうの力と繁栄をこの森辺に……」


 地面を見つめる俺の鼻先に、立派なギバの牙が差し出される。

 俺は指先を震わせながら、それを両手で受け取った。


 いよいよ、誓約の瞬間である。

 俺はからからに乾いた咽喉に生唾を送り込みつつ、面を上げた。


 ジバ婆さんは、遠い眼差しで俺とアイ=ファの姿を視界に収めているようである。

 その皺深い顔には、やはり如何なる表情も浮かべられていない。

 きっとこれは、母なる森を体現しているのだ。俺は全身が震えそうになるのをこらえながら、その言葉を口にした。


「アスタ=ファは、森にアイ=ファを授かりました」


 この言葉も、俺は何度も耳にしている。

 しかしやっぱり自分で口にしてみなければ、その重さを実感することはできなかった。


 森辺の民にとって、森とは母なる存在であり――そして、かつては世界そのものであったのだ。少なくとも、黒き森で暮らしていた時代は、森が世界のすべてであったはずであった。


 然して現在の森辺の民は、森の外にも交流を広げている。

 しかしそれでも、森に対する思いは変わっていない。そして、子を生すには父が必要であり、それは西方神であると定められたのだ。


 西方神とは、すなわち西の王国そのものである。

 西の王国があり、モルガの森があるからこそ、森辺の民は健やかに生きていくことができる。黒き森の時代には、母なる森の存在だけで安息を得ることができていたのだとしても――今は、それにも負けない幸福をつかむことができたはずであった。


(きっと自由開拓民や聖域の民だって、それは同じことなんだろう。自由開拓民は四大神の子なんだから、それを父としているはずだし……聖域の民にとっては、大陸アムスホルンが父なんだ)


 そんな想念に沈みながら、俺はふっと違和感にとらわれる。

 本来、俺はこんな想念にひたれるような状況ではないはずであるのだ。


 俺は顔をジバ婆さんに向けたまま、目だけを動かしてアイ=ファのほうを見る。

 アイ=ファは――まぶたを閉ざし、うつむいたままであった。


 アイ=ファが誓約の言葉を口にしないため、世界は静寂に包まれている。

 俺がその重さに胸苦しさを覚えかけたとき――アイ=ファの閉ざされたまぶたから、白い輝きがこぼされた。


 その輝きが見る見る間にふくれあがり、アイ=ファのなめらかな頬に滴っていく。

 それが細い下顎を伝って地面に落ちたとき、アイ=ファのまぶたが開かれた。


 玉虫色のきらめきの向こう側で、アイ=ファの青い瞳が星のように輝いている。

 涙が、その輝きを増幅させているのだ。

 その涙をぬぐおうともしないまま、アイ=ファはゆっくりと面を上げた。


「アイ=ファは……」と、かすれた声が静寂を震わせる。


 アイ=ファはいったん唇を閉ざし、しなやかな肩にぐっと力を入れてから、あらためて宣言した。


「……アイ=ファは、森にアスタ=ファを授かりました」


 そうしてアイ=ファが身を起こしたため、俺も半分がた夢うつつでそれに続く。

 それから俺たちが広場のほうに向きなおると、大歓声が爆発した。


「婚儀の誓約は交わされた! 本日から、ファの家長アイ=ファは家人アスタ=ファの伴侶となる!」


 ドンダ=ルウが雷鳴のごとき声を炸裂させると、さらなる歓声がうねりをあげる。

 俺がその勢いに圧倒されながら振り返ると、アイ=ファもちょうどこちらに向きなおったところであった。


 アイ=ファは両方の頬をしとどに濡らしながら、俺に微笑みかけてくる。

 俺は、アイ=ファに先を越されてしまったのだ。

 だから俺は涙をこぼすことなく、心からの幸せを噛みしめながら、アイ=ファに笑顔を返したのだった。

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― 新着の感想 ―
おめでとう、アスタ=ファとアイ=ファ 心より寿がせて欲しい
おめでとう、おめでとう…。 アスタはあの日森(世界)から生まれ出たようなものだし、アイ=ファも自分が婚儀を挙げてこの言葉を口にすることは無いと思っていただろうし……。 お幸せに!
ついにこの日がきた…おめでとう…おめでとう…!!
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