宿場町の披露宴②~お召し替え~
2025.11/25 更新分 1/1
ルウの本家を訪れてから、およそ半刻――
俺はぐったりとくずおれそうになる身に活を入れながら、ドンダ=ルウたちに頭を垂れることになった。
「ご教示、ありがとうございました。みなさんの教えを決して忘れることなく、今後も心正しく生きていくと誓います」
「ふん。言葉よりも、行動で示すことだな」
どこか満腹になったライオンのようにも見える面持ちで言いながら、ドンダ=ルウは小虫でも払うように手を振った。
「では、とっとと家に戻って、婚儀の支度を進めるがいい。あちらもいい加減、身支度を済ませた頃合いであろう」
「はい。それじゃあ俺も、こちらで着替えさせていただいてもかまいませんか?」
ドンダ=ルウは、俺のかたわらに置かれた包みをにらみ据えた。
「何を持参したかと思えば、それが着替えであったのか。……しかし、かまど番である貴様が何を纏おうというのだ?」
「はい。自分なりに頭をひねったのですが、これも森辺の習わしに合致するかどうかご意見をいただきたかったんです」
ということで、俺はその場で着替えることにした。
しかしべつだん、大して手間のかかる話でもない。俺がすみやかに着替えを終えると、ルウ家の五名の男衆はそれぞれ趣の異なる視線を向けてきた。
まず、袖なしの胴衣と白いTシャツはもとのままである。
俺が着替えたのは下半身で、腰巻きの代わりに着用したのは――《つるみ屋》の制服たる、白の調理着のボトムであった。
そして肩には、先日の祝宴でティカトラスから頂戴した短めのマントを羽織っている。裏が透けるほど薄手の生地で、黄色くきらめく糸でびっしりと刺繍が施された立派な品だ。
首にはアイ=ファから授かった首飾りと、ルウ家から授かった牙と角の首飾り、毒虫除けのグリギの木の実の首飾り。腰には、アルヴァッハたちから授かったゲルドの短剣。そこまではこれまで通りで、新たに加えられたのは――胴衣につけた三つの勲章と、腰帯にさした親父の三徳包丁だ。
よって、普段と異なるのは、四点。調理着のボトム、黄色いマント、三つの勲章、そして三徳包丁ということになる。
ドンダ=ルウは「ふん……」とうろんげに鼻を鳴らしながら、硬そうな顎髭をまさぐった。
「……いちおう、貴様がその姿を選んだ理由を聞いておこう」
「はい。まずこの肩掛けは、ティカトラスからいただいた品となります。町では婚儀を挙げる人間は白か黄色の装束を身につける習わしがあって……まあ、森辺の民がその習わしに従う必要はないのでしょうが、俺には狩人の衣もありませんので、ちょうどいいかと考えた次第です」
そんな思惑で、俺はこの立派なマントを持ち帰ったのだ。あとはやっぱり、黄の狼なる星を授かったのが嬉しかったという心理も働いていた。
「この白い脚衣は、俺が故郷から持ち込んだ品です。俺は森辺の民として生きていく心づもりですが、別の地で生まれ育ったという事実に変わりはありませんので……こちらもたまたま婚儀に相応しい色合いですし、足もとの包帯を隠すのにもちょうどいいかなと思って、着用してみました。あと、こちらの刀は父親の持ち物で、かまど番である俺には相応しいかと思いました」
「あー、ティカトラスの肩掛けが婚儀の衣、親父の刀が飾り刀の代わりってわけかー。ま、筋は通ってるんじゃねーの?」
ルド=ルウの気安い感想に、俺は「ありがとう」と笑顔を返す。
「最後にこの勲章は、以前の試食会でダカルマス殿下から授かった品ですね。森辺の狩人は牙や角を力の証として首にさげていますので、俺もかまど番としての勲章をつけてみました」
「ふん。お前とて、牙と角の首飾りをさげているがな」
ダルム=ルウの皮肉っぽい言葉にも、俺は「はい」と笑顔を返す。
「これも狩人ではなく、かまど番としての勲章ですからね。俺は魂を返すまで、この首飾りをさげておく所存です」
この牙や角を授けてくれたのは、いま目の前にいる五名を含むルウ本家の面々に他ならないのだ。それは俺にとって、胸もとの勲章よりも重くて輝かしい誇りであったのだった。
「ついでに説明しますと、この袖なしの上衣はアイ=ファの親父さんの形見で、白い胴衣は城下町で仕立ててもらった品となります。俺みたいにあちこちでお世話をかけている人間には、こういう格好が相応しいのではないかと考えたのですが……如何なものでしょう?」
「……これまで森辺の男衆がかまど番として大成したことなどはなかったのだから、見定めようがあるまい」
そう言って、ドンダ=ルウは分厚い肩を軽く揺すった。
「まあべつだん、こちらが文句をつけたくなるよう品は見当たらん。その珍妙な格好で婚儀に臨みたいというのならば、好きにするがいい」
「わかりました。どうもありがとうございます」
すると、コタ=ルウが目を輝かせながら身を乗り出した。
「そのかたなは、アスタのこきょうのかたななの? コタ、みてみたい」
「あ、そうかい? 今でも、ときどき使ってるんだけどね」
そこで俺は、慌てふためくことになった。
「そ、そういえば、こちらの刀もゲルドの刀もお預けするのを忘れていました。また森辺の習わしをないがしろにしてしまって、申し訳ありません」
「面倒だから、こちらも捨て置いただけのことだ。貴様が不埒な真似に及ぼうとも、俺たちにかすり傷ひとつつけることはかなわんだろうからな」
ドンダ=ルウが面倒くさげに言い捨てる中、コタ=ルウは座ったままにじり寄ってくる。俺はジザ=ルウに視線で了承をいただいてから、三徳包丁を鞘から抜いて、刃を自分のほうに向けつつ差し出した。
「危ないから、手を触れないようにね」
「うん……すごくきれいだね」
コタ=ルウは、いっそう瞳を輝かせている。確かに日本で打たれた三徳包丁は、こちらの世界の刀と一風異なる輝きを放っているのだ。
今ごろ再建された《つるみ屋》では、親父がこれと同じ三徳包丁を振るっているのだろうか。
そんな風に考えると、俺の胸は温かい感情で満たされた。
「ありがとう。……そのふくも、アスタのこきょうのしななの?」
「うん。家には、上衣もあるよ。この白い胴衣も、俺の持ち込んだ品をそのまま真似て仕立ててもらったんだ」
「へえ。コタ、しらなかった」
と、コタ=ルウは小さな指先で調理着の生地をつまんでくる。
然るのちに、コタ=ルウはにこりと微笑んだ。
「アスタ、かっこいいよ。こんぎ、たのしみだね?」
「うん。アイ=ファの隣に並んだら、俺なんてかすんじゃうだろうけどね」
鞘におさめた三徳包丁を腰帯に戻してから、俺はコタ=ルウの小さな頭を撫でてあげた。
「それでは、長々とお邪魔しました。祝宴でも、どうぞよろしくお願いします」
ドンダ=ルウは「ああ」とだけ言って、またひらひらと手を振った。
俺は最後にもういっぺん頭を下げて、玄関を出る。するとそちらでは、シン家の面々が待ち受けていた。
「ようやく終わったか。存外、話が長引いたようだな。……実に立派な姿ではないか」
満足そうに微笑むシン・ルウ=シンに、俺は「ありがとう」と笑顔を返す。
そしてミダ・ルウ=シンも、とても楽しそうにぷるぷると頬肉を震わせた。
「ミダ・ルウは、挨拶にきたんだよ……? 夜の祝宴を、楽しみにしてるんだよ……?」
「うん。きっとレイナ=ルウたちが、立派な宴料理を準備してくれるからね。俺も楽しみだよ」
そうして俺は、第三の人物に向きなおる。
何故だかそこには、ディグド・ルウ=シンまでもが控えていたのだ。
「どうも、お疲れ様です。ディグド・ルウ=シンまで、挨拶に来てくれたのですか?」
「ああ。おそらく俺は、祝宴の招待を断った唯一の人間であろうからな」
そう言って、ディグド・ルウ=シンは古傷だらけの顔でにやりと笑った。
本日、俺とアイ=ファとゆかりの深い人間は、のきなみ祝宴に招待されている。その中で、ディグド・ルウ=シンはボーダーラインすれすれぐらいの感覚で招待されたようだが――つつしんでお断りされてしまったのだった。
「俺の弟が一人前に育つまでは、ディグド・ルウ=シンが次の家長の候補だからな。家長か跡継ぎのどちらかは家を守るというのが、森辺の習わしだ」
シン・ルウ=シンが、沈着なる面持ちでそう言った。
「しかし、先日の家長会議でもディグド・ルウ=シンを供として同行させたし、今日はルウ本家でもドンダ=ルウとジザ=ルウが参じるのだ。ディグド・ルウ=シンも、習わしにこだわる必要はないかと思うのだが――」
「それ以前に、俺は家族を置いて祝宴に出る気にはなれん。それが一番の理由なのだから、習わしなどは関係ないのだ」
そう言って、ディグド・ルウ=シンはますます不敵に笑った。
「また、わざわざ宿場町に下りる気にもなれんのでな。であれば、こうして挨拶に出向くぐらいしかあるまい? よければ、ファの家まで同行させてもらいたく思う」
「承知しました。きっとアイ=ファも喜ぶと思います」
確かにルウの血族でいうと、ディグド・ルウ=シンはことさら縁が深いわけではない。顔と名前を見知ったのも昨年の話であるし、そうまで顔をあわせる機会が多かったわけではないのだ。
ただし彼はとてつもない力を持つ狩人であったし、邪神教団を討伐する遠征でも大きな役割を果たしていた。ご縁は薄くとも、ひときわ印象的な人物であったのだ。さらに言うならば、彼はドンダ=ルウとリャダ・ルウ=シンの間にあった次兄の子であり、ルド=ルウにとってもシン・ルウ=シンにとっても従兄弟の間柄であるのだった。
(でも、ひときわ家族が大切で、外部の人間に興味が薄いっていうのが、ディグド・ルウ=シンの一番の個性だもんな)
そんなディグド・ルウ=シンであれば、祝宴の招待をお断りされても致し方ない。それよりも、わざわざこうして挨拶に出向いてくれたことを喜びたかった。
「ミダ・ルウも、アイ=ファに会いたいんだけど……迷惑じゃないんだよ……?」
「もちろんさ。帰りの荷車さえあれば、問題ないよ」
「うむ。この後には、フォウの血族も同乗させるのであろうからな。ミダ・ルウとディグド・ルウ=シンのために、こちらも荷車で参じたのだ」
宿場町におもむく際には、ルウとフォウの血族が家族の代役として同行してくれるのだ。それもまた、家族のない俺とアイ=ファにはありがたい限りであった。
「じゃ、さっさとリミのやつも――」
と、ルド=ルウがそのように言いかけたところで、「お待たせー!」という元気いっぱいの声が響きわたる。赤茶けた髪をパイナップルのようにまとめたリミ=ルウが、母屋の裏手から登場したのだ。
「リミのお仕事も終わったよー! レイナ姉たちは忙しいから、夜に挨拶をさせてもらいます、だってさー!」
「そっか。レイナ=ルウには本当にお世話をかけちゃうから、夜にたっぷりお礼を言わせていただくよ」
ということで、俺たちはファの家に向かうことになった。
家族の代役として同行してくれるルド=ルウ、リミ=ルウ、シン・ルウ=シンに、見送りのミダ・ルウ=シンとディグド・ルウ=シンだ。幼子たちと遊んでいたジルベとも合流して、俺たちは二台の荷車に乗り込んだ。
そうしてファの家に到着すると、そちらにはチム=スドラがぽつねんと待ちかまえている。フォウの血族で同行してくれるのは、彼とイーア・フォウ=スドラとサリス・ラン=フォウの三名であった。
「イーア・フォウは、衣裳の着付けを手伝っている。間もなく支度を終えるはずだ」
俺がファの家を出てもう一刻近くは経っているのに、まだ着替えは終わっていなかった。きっとアイ=ファもバードゥ=フォウの伴侶から婚儀を挙げる人間の心構えを指南されながら、ゆっくりと花嫁衣裳を纏っているのだろう。そんな姿を想像するだけで、俺は胸が高鳴ってしまった。
「……しかし本当に、俺などが付添人を務めてよいものなのであろうか? 家長ライエルファムなりガズラン=ルティムなり、もっと相応しい人間はいくらでもいるように思うのだが……」
心配げに語るチム=スドラに、俺は「いいんだよ」と笑顔を向けた。
「夜の祝宴では、ライエルファム=スドラやガズラン=ルティムが付添人を受け持ってくれるっていう話なんだからさ。それで、宿場町でのお披露目は若い人間で固めようって話になったんだろう?」
「うむ。そうであってもアスタの付添人を務めたいと願う人間は数多くいるのであろうから、俺はいささか居たたまれない心地であるのだ」
すると、ルド=ルウが「でもさー」と声をあげた。
「お前が遠慮してたら、ラウ=レイあたりがしゃしゃり出るに決まってるぜー? ルウの血族ばっかりじゃあ余計に不満が出るだろうから、これでいいんじゃねーの?」
「しかし、ルウの血族の他にも、この立場を望む人間は多いはずだ」
「ふーん。でも、この近所だったら、お前かジョウ=ランあたりが一番アスタと仲良くしてんじゃねーの? 気が引けるってんなら、ジョウ=ランと代わってもらったらどうだ?」
「ジョウ=ランがアスタと縁を結んだのは、俺よりもずいぶん後になってからのことだ。もしもジョウ=ランが選ばれていたならば、俺が不服の声をあげていたことだろう」
チム=スドラが子供っぽく口をとがらせると、ルド=ルウは白い歯をこぼした。
「だったらうだうだ言ってねーで、役目を果たせばいいじゃねーか。お前がその役目に相応しくなかったら、アスタが文句をつけてただろーしな」
「うん。文句なんて、あるわけがないよ。どうか今日はよろしくね、チム=スドラ」
俺も笑顔で取りなすと、チム=スドラも眉を下げつつ「うむ……」とはにかんでくれた。彼はつつしみ深い性格なので恐縮してしまうのであろうが、俺にとっては貴重な年齢の近い友人であるのだ。つきあいの長さだってルド=ルウたちと大差ないのだから、俺に不満などあるわけもなかった。
(チム=スドラの名前を知ったのは、最初の年の闘技会だったっけ? でも、その前から屋台の護衛役でお世話になってたからな)
ザッツ=スンとテイ=スンが北の集落から脱走したとき、屋台の護衛役を担ってくれたのがルウの血族とスドラの家人であったのだ。ライエルファム=スドラがテイ=スンを斬り伏せたとき、ルド=ルウもシン・ルウ=シンもチム=スドラもすぐそばから見届けていたわけであった。
あとはその中に、ラウ=レイも含まれていたことだろう。テイ=スンがザッツ=スンの代弁者として呪いの言葉を吐いていたとき、ラウ=レイも狩人の気迫をあらわにしながら反問していたはずだ。
あれは青の月の出来事であったので、ちょうど丸三年が過ぎたことになる。
それだけ長きにわたって苦楽をともにしてきた友人たちが家族の代わりとなって婚儀の付添人を担ってくれるというのは、俺にとって涙が出るぐらいありがたい話であった。
そこで、「お待たせー!」という元気な声が響きわたる。
ファの母屋から真っ先に姿を見せたのは、ユーミ=ランに他ならなかった。
「やあ。ユーミ=ランも来てくれたんだね」
「うん! 朝の内に祝福したかったから、大急ぎで家の仕事を片付けてきたんだよー! あと、あたしも着付けの仕事を学ばないといけない立場だからさ!」
そんな風に語りながら、ユーミ=ランは跳ねるような足取りで横合いに退いた。
「ま、あたしのことはどうでもいいさ! アイ=ファ、アスタがお待ちかねだよー!」
「うむ」という厳粛な声とともに、玉虫色のきらめきが俺の眼前に生まれ出た。
その輝かしさに、俺は息を呑んでしまう。どれだけ覚悟を固めようとも、俺が平静でいられるわけはなかった。
花嫁衣裳を纏ったアイ=ファが、玄関口からふわりと現れたのだ。
腰まで届く金褐色の髪は自然に垂らし、右のこめかみには透明の花飾りをつけている。渦巻き模様の胸あてと腰巻きも普段とは異なる凝ったデザインで、胸もとや手首には数々の飾り物がきらめいていた。もっとも目をひくのは、俺が贈った青い石の首飾りと装飾の銀鎖である。
そして――森辺の祝宴で目にするそういった宴衣装が、玉虫色のきらめきにくるまれている。
七色に輝くヴェールとショールで全身を覆うというのが、森辺の花嫁衣裳であるのだ。俺もこの三年余りで、その美しい姿を何度となく目にしてきたが――それでもやっぱり、心を乱さずにはいられなかった。
アイ=ファの美しい姿が玉虫色のきらめきに包まれて、いっそうの美しさである。
そのまなじりの上がった猫のような青い目も、すっと通った鼻筋も、桜色をした可憐な唇も、人形のようになめらかな頬のラインも、狩人として鋭く引き締まっていながら女性らしい優美さを失わない肢体も――何もかもが、夢のようなきらめきに包まれていた。
「……なるほど。アスタは、そういった格好を選んだのだな」
玉虫色のきらめきの向こう側で、アイ=ファがゆったりと微笑んだ。
「いささか珍妙な姿だが、如何にもかまど番らしいではないか。アスタには、よく似合っているように思うぞ」
「う、うん。ありがとう。アイ=ファも……すごく似合ってるよ」
「ふん。狩人たる身には、滑稽なばかりであろうが……しかしこのような輝きにくるまれていれば、私の女衆らしからぬ姿も多少は誤魔化せるやもしれんな」
アイ=ファの手足には鍛え抜かれた筋肉が張っているし、引き締まった腹にもうっすらと筋肉の線が走っている。それに、よくよく注視すれば、手足のあちこちに古傷が残されているのだ。
それは、アイ=ファが五年にわたって狩人としての仕事を果たしてきた証である。
それを恥じる理由はどこにもなかったし、そうであるからこそ、アイ=ファはこの世で唯一無二の美しさを有しているのだ。今ではレム=ドムも女狩人としての道を歩んでいるし、森辺の外にはヴィケッツォという女剣士も存在したが――俺にとってもっとも凛々しく美しいのは、アイ=ファであった。
「……アイ=ファ、すっごくきれいだよ」
と、リミ=ルウが輝くような笑顔で、そう言った。
「ジバ婆にも、早く見せてあげたいなぁ。疲れちゃうから昼間の付添人はできなかったけど、宿場町には来てくれるはずだからね」
「うむ。ジバ婆はむやみに褒めそやすので、私としては面映ゆい限りだがな」
そう言って、アイ=ファはまたやわらかく微笑んだ。
その表情がいつも以上にやわらかく感じられるのは、内心のあらわれであるのかヴェールのきらめきの効果であるのか――何にせよ、俺はひそかに胸を高鳴らせ、リミ=ルウは「えへへ」と目もとをぬぐうことになった。
「リミももっとほめたいけど、アイ=ファが恥ずかしいならやめておくね!」
「うむ。そうしてもらえると、私も助かる」
アイ=ファはショールの隙間から腕をのばして、リミ=ルウの赤茶けた髪を優しく撫でる。その姿を、母屋から出てきたサリス・ラン=フォウたちが誇らしそうに見守っていた。
「ふん。確かにこれは、見違えたな。こんなたおやかな姿をした女衆に投げ飛ばされたのかと思うと、いささか腹が煮えるぐらいだ」
ディグド・ルウ=シンがふてぶてしい笑いを含んだ声をあげると、アイ=ファはゆっくりとそちらに向きなおった。
「ディグド・ルウ=シン。わざわざ挨拶に出向いてくれたのであろうか?」
「ああ。祝宴の招待を断ったぶん、義理を果たしておこうかと思ってな。これだけ物珍しい姿を目にできたのだから、無駄足ではなかったようだ」
古傷だらけの顔で、ディグド・ルウ=シンはまたにやりと笑った。
「ファの家長アイ=ファと家人アスタの婚儀を、祝福する。……もういっぺんぐらいは、手合わせを願いたかったところだがな」
「うむ。しかし、私は子を授かるまで、狩人としての仕事を果たす所存だぞ」
「そうであっても、婚儀を挙げた女衆と力比べに興じる気にはなれんな。お前も婚儀を挙げたのちは、つつましさというものを学ぶがいい」
「うむ。私にとっては、指折りで過酷な試練になりそうなところだ」
穏やかな表情で語りながら、アイ=ファは隣のミダ・ルウ=シンに向きなおった。
「ミダ・ルウ=シンも、わざわざ参じてくれたのだな。夜の祝宴も、楽しみにしているぞ」
「うん……アイ=ファとアスタが婚儀を挙げることになって、ミダ・ルウはすごくすごく嬉しいんだよ……?」
ミダ・ルウ=シンは小さな目を瞬かせながら、頬肉を震わせた。
「ミダ・ルウは、アイ=ファにもアスタにもたくさんお世話になったから……二人には、幸せになってほしいんだよ……?」
「うむ。私は今でも満たされているので、これ以上の幸せなどはあまり想像もつかないのだがな」
誰と相対しても、アイ=ファのたたずまいに変わりはない。芯の部分にアイ=ファらしい凛々しさを残しながら、いつも以上のやわらかさと穏やかさだ。それが多かれ少なかれ、人々に感銘を与えているようであった。
「さて。それじゃあアスタもそろったところで、最後の仕上げをさせていただくよ」
バードゥ=フォウの伴侶が目配せを送ると、サリス・ラン=フォウとユーミ=ランが進み出る。その手には、いつしか鮮やかな緑色をした草冠が携えられていた。
アイ=ファは玉虫色のヴェールの上から、俺はすっかり短くなった頭の上に、それぞれ草冠がかぶせられる。
これもまた、花嫁と花婿だけが装着を許される神聖な品であるのだ。アイ=ファの壮麗なる姿に最後のピースがはめこまれたような心地で、俺は心臓が痛いぐらいだった。
「ええと……それで、この後はどうするんでしたっけ?」
俺が騒ぐ心臓をなだめながらサリス・ラン=フォウに問いかけると、「はい」と温かな笑顔を返された。
「アスタたちは、屋台の商売に出向く方々とともに出立するのですよね? でしたら、それまではアイ=ファと二人でお過ごしください」
「ええ? ア、アイ=ファと二人きりでですか?」
「はい。この後は祝宴が終わるまで、常に誰かがかたわらにいるでしょうからね。どの氏族の婚儀であっても、二人きりで語らう時間は作られるはずです」
「じゃ、俺らはかまど小屋でも覗いてくるかなー。行こうぜ、シン・ルウ」
「うむ。ミダ・ルウとディグド・ルウ=シンは、帰り道を気をつけてな」
「べつだん、気をつけるような道のりではあるまい。まあ、トトスの手綱などを握るのは、ずいぶんひさかたぶりだがな」
「それじゃあリミも、ユン=スドラたちに挨拶してくるねー! 二人とも、またあとでねー!」
「じゃ、あたしらもいっぺん家に戻るよ! このあとは、祝宴の準備が待ってるからね!」
そうしてサリス・ラン=フォウの言葉に従い、みんな散開してしまった。
それで俺がひとりまごまごしていると、アイ=ファはくすりと笑った。
「お前は、心を乱しすぎではないか? 婚儀の本番は、夜であるのだぞ?」
「う、うん。だけどやっぱり、こういう何もない時間が一番落ち着かないんじゃないかな」
「何もないことはない。婚儀に向けて心を整えるために、二人で語らうのだ。……お前はドンダ=ルウから、何を学んできたのだ?」
「いやぁ、ドンダ=ルウからは色んな話を聞かされたけど、森辺の民として正しく生きるための心構えっていうのがほとんどだったんだよな」
「そうか。まあ、このような場で語らっていても埒があかん。とりあえず、家に戻るぞ」
そんな風に言ってから、アイ=ファは俺の足もとに目を向ける。そちらでは、ずっとジルベがぱたぱたと尻尾を振っていたのだ。
「人ならぬ家人であれば、遠ざける必要もあるまい。ブレイブたちは小屋で身を休めているので、ジルベも入るがいい」
「わふっ!」
ということで、俺たちはそれぞれ家に戻ることになった。
広間に上がってみると、小屋に通じる戸板が開かれている。ブレイブたちは、そこからアイ=ファの花嫁姿を見守っていたのだろう。広間の奥では、サチとラピがのんびりくつろいでいた。
アイ=ファは足もとのショールをふわりと払ってから、敷物の上に膝を折る。
その優美な姿にまた胸を高鳴らせながら、俺もアイ=ファの向かいに腰を下ろした。
「さて……それでは、最後の問答だな」
「うん? 最後の問答って?」
「それも、聞いていなかったのか。自分たちの意思で婚儀を取りやめるならば、これが最後の機会ということだ」
たおやかなる横座りの姿勢で、アイ=ファはそう言った。
「これより後に心変わりがあっては、祝宴の準備をする皆々に迷惑がかかってしまおうからな。私との婚儀にためらいがあるならば、ここで素直に白状するがいい。くどいようだが、これが最後の機会だぞ」
「ためらいなんて、あるわけがないよ。ここでアイ=ファに婚儀を断られたら、しばらく立ち直れないだろうな」
「ふむ。しばしの猶予があれば、立ち直れるということか」
「そりゃあまあ、俺の一番の願いはアイ=ファとともに生きることで、婚儀を挙げることじゃないからな。どれだけめげても、それで絶望したりはしないさ」
そのように語っていると、俺の口もとに自然に笑みが浮かんだ。
「アイ=ファと一緒に過ごせるだけで、俺は満足だよ。だからもしも、まだ狩人としての仕事を果たしていきたいっていう気持ちが残っていたら……アイ=ファのほうこそ、正直に言ってくれ。俺は、何年でも待つからさ」
「ふむ……」と、アイ=ファは思案顔になった。
その真剣な眼差しに、俺の心臓はどくどくと高鳴る。たったいま語ったのはまじりけのない本心であったが、本当に今日の婚儀が中止されるならば数日間は気持ちの整理をする時間が必要になるはずであった。
「……やはりアスタは優しい心根をしているし、自分のことよりも私のことを優先してくれるのだな。それはお前の美点であり、私としてもありがたい限りであるのだが……」
「う、うん。何か、問題でもあったかな?」
「……うむ。実に、道理の通らぬ話であるようだ」
と、アイ=ファはいきなりぐいっと身を乗り出してきた。
アイ=ファの美しい姿が突如として鼻先に迫り、俺の心臓が跳ねあがる。
「しかしお前に本心を隠すわけにはいかんので、恥をしのんで白状しよう。どうか、心して聞いてもらいたい」
「あ、ああ。なんでも受け止めてみせるから、どうかアイ=ファの本心を聞かせてくれ」
「うむ。お前は私の心情を思いやり、今日の婚儀を取りやめてもいいと語ったが……それが、腹立たしくてならんのだ」
とても真剣な眼差しをしたまま、アイ=ファはそう言った。
ただその桜色をした唇は、子供のようにとがり始めている。
「お前には、絶対に今日の婚儀をやりとげるのだと言い張ってほしかった。そして、私の中に婚儀をためらう気持ちがあるなどとは思ってほしくなかった」
「そ、そうか。でも、最初に聞いてきたのは、アイ=ファのほうだよな?」
「それを言葉で確認するのが、この場における森辺の習わしであったのだ。私とて、お前の真情を疑っていたわけではない」
「な、なるほど。俺の不用意な発言でアイ=ファを怒らせちゃったんなら、謝るよ」
「お前が謝る必要はない。このように道理の通らぬ話で腹を立てるほうが、どうかしているのだからな。お前の優しさから発せられた言葉に腹を立ててしまう自分が、腹立たしいのだ」
そんな風に語りながら、アイ=ファの口はどんどんとがっていく。
その姿に、俺は頭の芯が熱くなるほどの幸せを覚えることになった。
「……最近のアイ=ファはずっと落ち着いた感じだったから、そういうすねた顔を見られるのは嬉しいよ」
「すねてなどおらん。私は、自分に腹を立てているのだ」
「どっちでもいいさ。俺はアイ=ファがあんまりしっかりしてるもんだから、ちょっと焦ってる部分もあったんだ。アイ=ファとの婚儀が決まってから、俺はずっと必死に平静を取りつくろってたからさ」
俺は敷物につかれていたアイ=ファの手に、自分の手を重ねた。
「俺はやっぱり未熟者だし、アイ=ファの中にも少しは未熟な部分が残されてるんだろう。これからも、二人で一緒に成長していこう。……俺と婚儀を挙げてくれ、アイ=ファ」
アイ=ファは俺の目の奥を覗き込んでから、とがらせていた唇に微笑をたたえた。
「私は狩人として生きるよりも、お前の伴侶として生きたい。その気持ちに、偽りはないぞ」
「ありがとう。俺もアイ=ファに後悔させないように、頑張るよ」
「後悔など、するものか。……ところで、婚儀の前に触れあうことは禁じられているぞ」
「あはは。毎晩手をつないで寝てるのに、今さらの話だな」
俺が笑うと、アイ=ファもいっそう幸せそうに笑ってくれた。
そうして俺たちは出立の刻限まで、二人きりの優しい時間を過ごしたのだった。




