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異世界料理道  作者: EDA
最終章 ファの家の婚礼
1694/1695

送別の祝宴⑧~心尽くし~

2025.11/10 更新分 1/1

「そろそろフェルメスに挨拶をしておきたいのだが……ちょっと身動きが取れなくなってしまったな」


 しばらくして、アイ=ファが俺に耳打ちしてきた。

 その青い瞳が見やっているのは、ダイアやデルシェア姫と語らっているレイナ=ルウの姿である。レイナ=ルウもさきほどのギバ料理でダイアの手腕に感銘を受けたため、大いに盛り上がっているのだ。


 そして、デルシェア姫が根を生やしたため、ジェノス侯爵家と西の王都の面々も遠慮をして居残っている様子である。しかし彼らは菓子を求めてやってくる貴族を相手にするだけで、社交には不自由もないようであった。


「あー、アイ=ファたちはフェルメスに挨拶をしてーんだよなー。じゃ、レイナ姉のことはゲオル=ザザたちに任せて、移動しちまおうぜー」


 と、狩人の聴力でこちらの会話を聞き取ったらしいルド=ルウが、そのように告げてきた。


「ふむ。そうしてもらえれば助かるが、そちらはレイナ=ルウを放っておかぬようにと申しつけられたのであろう?」


「ひとりきりにさせなきゃ、文句はつけられねーさ。菓子ばっかり食ってたら、口の中が甘ったるくなっちまうからなー」


 どうやらルド=ルウの本懐は、他なる宴料理を口にすることのようだ。しかし何にせよ、こちらにとってはありがたい申し出であった。


「じゃ、ゲオル=ザザに話をつけてくるよ。ちっと待っててくれ」


 と、こちらの返事も聞かずに、ルド=ルウはゲオル=ザザのほうに歩を進めていく。

 アイ=ファも気持ちが固まったようで、マルスタインと語らっているダッドレウスのほうに向きなおった。


「それでは我々は、そろそろ失礼しようかと思う。また時間があれば、言葉を交わしていただきたい」


 ダッドレウスは言葉短く、「承知した」と応じる。

 するとアイ=ファは、仮面の武官たちとともにあるアローンのほうにも目を向けた。


「そちらともまたのちほど語らせていただきたく思うが、いちおう挨拶をさせていただく。このたびは、大変世話をかけた。帰りの道中も危険のないように祈っている」


 アローンもまた、「うむ」としか答えない。

 そこで俺は思い切って、仮面の武官たちに語りかけた。


「『鷹の眼』のみなさんとは言葉を交わす機会もありませんでしたが、このたびはお疲れ様でした。どうかこれからも、王国のために力をお尽くしください」


 すると――仮面の武官の真ん中に立つ人物が、くぐもった声で「いたみいる」という言葉を返した。

 つけ髭の色合いからして、まぎれもなくカイロス三世だ。俺は思わず笑みをこぼしながら、頭を下げることになった。


(カイロス三世とは正真正銘、これが今生のお別れだろうからな。……どうか、西の王国をよろしくお願いします)


 そうして俺が身を引こうとすると、宴衣装の裾をつかまれた。

 何かと思えば、オディフィアが裾をつかんでいる。なおかつ彼女はまだその手にサチを抱いており、ジルベをかたわらに控えさせていた。


「アスタ、もういっちゃうの?」


「はい。フェルメスを探して、挨拶をしてきます。その後に時間があったら、またおしゃべりさせてください」


 俺の返答に、オディフィアはもじもじとした。

 きっと何か、俺に伝えたいことでもあるのだろう。そうと察した俺はふかふかの絨毯に膝をついて、オディフィアのもとに顔を寄せた。


「どうしました? 何かお話があるのなら、ご遠慮なくどうぞ」


「うん。……オディフィア、アスタがジェノスでくらすことがゆるされて、すごくうれしかったの」


 小さな声でそのように告げてから、オディフィアはいっそうもじもじとする。

 きっとダッドレウスたちの耳をはばかって、ずっと気持ちを溜め込んでいたのだろう。そんなオディフィアの幼子らしからぬ配慮に胸を満たされながら、俺は「ありがとうございます」と笑顔を返した。


「俺も本当に、心から嬉しく思っています。これからもトゥール=ディンともども、よろしくお願いします」


「うん。……またアスタのおかしもたべさせてくれる?」


「はい。お茶会にでも招いてくれたら、腕によりをかけて準備します。それに、機会があったら森辺にも是非いらしてください」


 オディフィアは星のように瞳をきらめかせながら、「うん」とうなずいた。

 そして、その手のサチがジルベのたてがみに戻される。その別れ際に、オディフィアはサチとジルベの頭を撫でた。


「ふたりとも、ありがとう。またオディフィアと、なかよくしてね?」


 ジルベは「わふっ」と元気に答え、サチは「なうう」と素っ気なくうなる。

 すると、ダッドレウスがその姿をじろりと見下ろした。


「オディフィア姫は、ずいぶん獅子犬と猫がお気に召したようですな」


 オディフィアは仰天した様子で身をすくませてから、「はい」と貴婦人の礼を見せた。


「サチもジルベもとてもかわいいので、わたくしはだいすきです」


「そうですか。……いっそジェノス侯爵家でも、獅子犬を買いつけたら如何でしょうかな?」


 それは、かたわらのマルスタインに向けられた言葉である。

 マルスタインは悠揚せまらず、「獅子犬を?」と反問した。


「ええ。獅子犬は犬の中でもっとも希少な種でありますが、ジェノスの財力であればどうということもありませんでしょう。また、獅子犬は熟練の剣士に等しい力を備えているのですから、決して損な買い物ではないはずですぞ」


「なるほど……それは、思いも寄らぬ提案でありますな」


 マルスタインは、楽しげな眼差しをオディフィアに送る。

 いっぽうオディフィアは人形のような無表情のまま、きょとんとしていた。


「ダッドレウス殿はこう仰っているが、オディフィアはどうであろうかな?」


「はい……わたくしは、ジルベのことがだいすきですけれど……ほかのいぬのことは、よくわかりません」


「犬の中でも獅子犬は、ひときわ強い忠誠心を持っております。ひとたび主人と見なしたならば、オディフィア姫にとってかけがえのない友となることでしょう」


 眉間に皺が刻まれた厳格なる表情のまま、ダッドレウスはそう言った。


「また、ジェノスでただ一頭の獅子犬となるそちらのジルベも、同胞を迎えることがかなえば大きな喜びを抱くのではないでしょうかな」


「……あたらしいししけんがきたら、ジルベはうれしい?」


 ジルベもまたきょとんとしていたが、しばらく考え込んだのちに「わふっ」と瞳を輝かせた。


「ジルベは、うれしいみたいです」


「では、ひとつ検討してみようか。獅子犬がこういった祝宴の花になることは、ジルベで証明されているからね」


 そう言って、マルスタインは満足そうに目を細めた。

 そういえば、彼も彼で初孫たるオディフィアを溺愛しているという風聞があるのだ。リミ=ルウを溺愛しているというドンダ=ルウぐらい、それは実感のない風聞であったのだが――なんとなく、今はその思いがやわらかい眼差しににじんでいるように感じられた。


「待たせたなー。ザザの二人が、レイナ姉のことを引き受けてくれたぜー」


 ルド=ルウが戻ってきたので、俺たちは移動することになった。

 そこで俺は、あまり言葉を交わす機会のなかったトゥール=ディンへと笑顔を向ける。


「それじゃあトゥール=ディンも、また後でね」


「は、はい。フェルメスによろしくお伝えください」


 トゥール=ディンは、はにかむように微笑む。まったく今さらの話であるが、十三歳となった彼女も豪奢な宴衣装を纏うと、立派な貴婦人候補であった。


 そんなトゥール=ディンの可愛らしい姿を目に焼きつけて、俺はアイ=ファとともに卓を離れる。

 レイナ=ルウが抜けて、ルド=ルウとリミ=ルウ、ジルベとサチの六名連れだ。その先頭を歩くアイ=ファは、貴婦人の作法の許す範囲で力強く前進していた。


「さきほど人垣の隙間から、フェルメスの姿が垣間見えたのだ。その進行方向から考えて、あちらの卓の辺りにいるに違いない」


「あはは。何だか、ギバでも追ってるみたいだな」


 歴戦の狩人たるアイ=ファの眼力に間違いはなく、向かう先にフェルメスの姿が見えた。

 ただし、盛大なおまけがひっついている。珍しくも、ティカトラスの一行がフェルメスのかたわらに控えていたのだった。


「おお、アイ=ファ! 実に美しい! やはり今日は、純白の宴衣装が正解であったね!」


 こちらの接近に気づくなり、ティカトラスがけたたましく声をあげる。その左右にはデギオンとヴィケッツォ、向かいにはフェルメスとジェムド、そしてガズラン=ルティムとルティム分家の女衆という顔ぶれだ。


「……あなたがフェルメスとともにいるのは、いささか物珍しく感じられるな」


 アイ=ファが凛然と答えると、ティカトラスはうっとりと目を細めながら「そうかい?」と応じた。


「まあ、わたしたちはたまたまこの場で出くわしただけの話であるけれどね! フェルメス殿も、わたしなどよりジェノスの面々と別れを惜しみたいところだろうしさ!」


「とんでもありません。ティカトラス殿とて、次にいつお会いできるかもわからないという意味では、ジェノスの方々とご同様でありますからね」


 優美な微笑みをたたえながら、フェルメスはそんな言葉を返した。

 しかし、普段以上に内心がつかめない。フェルメスはかつて自由奔放に生きるティカトラスの存在が妬ましいという真情を吐露していたのだ。そうしてティカトラスのほうも自らフェルメスに近づこうという素振りはなかったため、こういう場で顔をそろえることもなかなかなかったのだった。


(俺から見ても、二人は本当に対極的な存在だからなぁ)


 内心を見せないフェルメスに、いつもあけっぴろげなティカトラス――そして、知性と理性を重んじるフェルメスに、感性や本能のままに振る舞うティカトラスという構図だ。そしておたがいに常人離れした洞察力を備えている傑物であることから、対比の妙が際立つわけであった。


「でも、わたしたちがいたらゆっくり別れを惜しむこともできないだろうからね! アイ=ファの美しさを目に焼きつけたら、早々に失礼させてもらおうかな!」


「ほう。あなたにしては、殊勝な物言いだな」


「うん! わたしたちは、宿場町の広場でもアイ=ファの美しき姿を堪能できるからね! その前日に出立しなければならないフェルメス殿はさぞかし無念だろうから、今日ぐらいは譲ってあげないとさ!」


 そんな風に騒ぎながら、ティカトラスはヴィケッツォの背中に手をやると、俺のほうに押し出してきた。


「この場でアイ=ファに対抗できるのは、ヴィケッツォぐらいだろう! わたしがアイ=ファの美しさを堪能している間、アスタはヴィケッツォの美しさで心を慰めてくれたまえ!」


「あ、いえ、そんなお気遣いは無用ですけれども……」


 そもそも二日後に婚儀を控えた男児が別なる女性の美しさで心を慰めるというのは、如何なものなのであろうか。さすが婚儀の当日に他者の花嫁に求婚したというティカトラスの倫理観は、計り知れなかった。


 そうして困惑する俺の目の前では、ヴィケッツォが挑むように黒い瞳を光らせている。本日の彼女は和装めいた宴衣装で、大きくはだけた襟もとから胸の谷間やへそまで露出しているために、目のやり場に困るところであった。


「……遅ればせながら、ご婚約おめでとうございます」


「あ、いや、はい。ご丁寧に、どうもありがとうございます」


「……何故にそうまで、心を乱しておられるのでしょうか? まさか婚儀を間近に控えた人間が、他なる女人に心を惑わされることはないでしょうね?」


 すると、黙って成り行きを見守っていたルド=ルウが「ははん」と鼻を鳴らした。


「それを言ったら、ティカトラスなんて何人もの女を伴侶にしてるんだろー? アスタがあんたの色気に心を乱したって、文句は言えねーだろーさ」


「それは複数の女人を側妻として等しく愛するという覚悟があっての行いとなります。そんな覚悟もなしに色目を使うのは、恥ずべき行いでありましょう」


「アスタは色目なんて使ってねーだろ。ただ、あんたが色気を剥き出しにしてるだけでさー」


「わたしは剣士として生きる身です。並み居る貴婦人がたに比べれば、わたしの色香など微々たるものであるでしょう」


 舌戦の相手はルド=ルウに切り替わったが、俺の居たたまれない心地に変わりはない。隣には未来の花嫁たるアイ=ファ、ヴィケッツォのかたわらには彼女の父と兄が控えているのだ。こんな状況でどんな顔をしていればいいのか、俺には見当もつかなかった。


「うーん! やっぱりアイ=ファは、花嫁そのものの美しさだ! 武勲を示す勲章までもが、アイ=ファの美しさを華やかに彩っているね!」


 やがてティカトラスは、声も高らかにそう言い放った。


「でもきっと、二日後にはもっと美しい姿を目にすることができるのだろう! わたしはうっかり求婚してしまうかもしれないけれど、どうかアイ=ファは心のままに振る舞ってくれたまえ!」


「……本当に、あなたは度し難い人間だな」


 アイ=ファは怒るのではなく、呆れた様子で苦笑をこぼす。

 そこでティカトラスは、「うん!」と大きくうなずいた。


「今のところは、これで満足するとしよう! 祝宴が終わるまでに、もうひとたびは堪能させてくれたまえ! それじゃあ、行くよ! フェルメス殿も、またのちほど!」


 極彩色のつむじ風さながらに、ティカトラスの一行は立ち去っていく。

 すると、フェルメスに寄り添っていたガズラン=ルティムが穏やかに微笑んだ。


「ティカトラスもティカトラスなりに、気をつかってくれたようですね。どうぞお二人は心置きなく、フェルメスとお語らいください」


「うむ。感傷も情緒もどこかに吹き飛んでしまったがな」


 アイ=ファは気を取り直すように咳払いをしてから、フェルメスとジェムドに一礼した。


「挨拶が遅くなってしまい、申し訳なかった。どうか今日は心ゆくまで、二人と語らせてもらいたい」


「ありがとうございます。でも、まずは料理のほうをどうぞ」


 卓上の料理を指し示しながら、フェルメスはにこりと微笑んだ。公の場では滅多に見せない、あどけない笑顔だ。


「まさかアスタまでギバ肉を使わない料理を準備するとは思っていなかったので、僕は心は震わされてしまいました。アスタの心づかいに、心からの感謝を捧げさせていただきます」


「ええ? 俺がフェルメスを見送る祝宴で、ギバ料理を供すると思ったのですか?」


「いえ。きっとアスタは魚介とギバの料理をそれぞれ準備するのだろうと考えていたのです。それでしたら、どこからも不満の声はあがらないでしょうからね」


 そのように語るフェルメスは、まだあどけない笑顔をさらしている。きっとそれだけ、俺の料理を喜んでくれたのだろう。俺もまた、心からの笑顔を返すことになった。


「時間さえあればそうしたかったのですが、今日はどうしても無理でした。でも、森辺の同胞が文句をつけることはありませんでしたよ」


「うむ。今日はフェルメスのことを一番に考えるべきであるのだからな。これでギバ料理だけを準備していたならば、説教が必要なところであろう」


 アイ=ファもまた、穏やかな眼差しで声をあげる。

 すると、ルド=ルウが鉄鍋のかたわらに待機している侍女に呼びかけた。


「なんでもいーから、そいつを食わせてくれよ。俺はまだ腹が半分も埋まってねーから、たっぷりとなー」


「かしこまりました」と、侍女はレードルで鉄鍋を攪拌しながら深皿を取り上げる。

 俺が本日準備したのは、海鮮尽くしのカレーと付け合わせの乾酪ポイタンであった。カレーはトビウオに似たアネイラと甲冑マロールの殻で出汁を取っており、さまざまな魚介が具材として使われている。ホタテガイモドキ、イカタコのごときヌニョンパ、牡蠣のごときドエマ、クルマエビのごとき甲冑マロール、白身魚のヴィレモラ、ちりめんじゃこに似たドケイラと、大盤振る舞いであった。


 そしてさらに味の決め手となっているのは、明太子に似たジョラの魚卵である。

 魚介カレーというのは以前から手掛けていた献立であるし、最近ではギバ肉との共存にも成功している。それで多少の具材が増えたところで新鮮味に欠けるかと思い、俺は数日がかりでジョラの魚卵の活用法を研究しまくったのだ。


 焼きポイタンとともに供するために、カレーはインド風のスパイスカレーに仕上げている。そこに明太子に似たジョラの魚卵を組み込むことはできないものかと焦点を当てたのである。


 俺にとっての福音は、ここ最近で開発に成功した甲冑マロールの殻の出汁であった。

 こちらの出汁を使うとレッドカレーを思わせる風味になり、それがジョラの魚卵とも楽しい調和を見せてくれたのである。あとは香草の調合と具材の選別で、とりあえずは満足のいく形に完成させることがかなったのだった。


「アスタは以前にも、僕のために魚介だけを使ったかれーを準備してくれましたよね。あのときも、僕は心からありがたく思っていましたけれど……こちらの品は、あの素晴らしいかれーを上回る味わいでした。きっと僕は魂を返すその日まで、この味を忘れることはないでしょう」


 フェルメスは、そんな風に言ってくれた。

 祝宴の開会の挨拶でも、フェルメスは実に流暢に語っていたものであるが――今はそこに、あどけない微笑が加えられている。それで俺は、胸が詰まるほどの喜びを噛みしめることができた。


「ありがとうございます。フェルメスにそこまで喜んでいただけたのなら、感無量です」


「はい。これこそが、アスタの力であるのでしょう。アスタはその料理の手腕でもって、思いを届けることがかなうのです」


 そのように語りながら、フェルメスはふわりと腕を周囲に差し伸べた。


「そして森辺の料理人たちは、その力を正しく受け継いでいます。そちらのリミ=ルウやトゥール=ディン、レイナ=ルウやユン=スドラ、マルフィラ=ナハムやレイ=マトゥア……強い思いを持つ人間こそが卓越した手腕を身につけているのが、その証拠です」


「はい。料理で一番大切なのは、食べてくれる相手に喜んでもらうことですからね。森辺のかまど番がその初心を忘れることはないかと思います」


「ええ。レイナ=ルウなどはきわめて旺盛な競争心を抱いているように見受けられますが、やはり心根に変わりはないのでしょう。でなければ、功名心が悪い方向に作用していたかもしれません」


 俺たちがそんな風に語らっていると、乾酪ポイタンをかじっていたルド=ルウが小首を傾げた。


「なんだか、別れを惜しんでるようには見えねーなー。他に語る言葉があるんじゃねーの?」


「ふふ。これでも僕は、いつになく感傷を抱いているつもりですよ」


 と、フェルメスはルド=ルウにもあどけない笑顔をおすそわけした。


「でも、そうですね……実はアスタに、語っておきたい話があったのです。何も深刻な話題ではないのですが、あまり城下町の方々の耳には入れたくない内容ですので、ちょっと時間をお借りできませんか?」


「ええ。今日は何でも、フェルメスのお言葉に従う所存でありますよ」


「ふふふ。僕みたいに我儘な人間を甘やかすと、ロクなことになりませんよ」


 そう言って、フェルメスは大広間の壁際を指し示す。祝宴の日には、壁際に休憩用の卓や椅子が準備されているのだ。


「よろしければ、あちらに。アスタの素性にまつわる話ですので、ご興味のある御方はご一緒にどうぞ」


 貴族の耳ははばかっても、森辺の民の耳をはばかるつもりはないということだ。

 ルド=ルウはカレーの深皿に新たな乾酪ポイタンをひたしながら、肩をすくめた。


「俺はここで食ってるよ。リミは、どうすんだー?」


「うん。リミも、ここで待ってるね」


 リミ=ルウは、アイ=ファににこりと笑いかける。

 リミ=ルウはずっとアイ=ファにひっついているが、今日はどちらかというと口数が少ない。なんとなく、城下町の面々と交流を深めようとしているアイ=ファの邪魔をしないようにと振る舞っている様子であるのだ。アイ=ファはそんなリミ=ルウの赤茶けた髪を優しく撫でてから、フェルメスのほうに向きなおった。


「では、私も同行させてもらおう。どのような話題であれ、今日はあなたがたと長きの時間を過ごしたいのでな」


「それでは」とフェルメスが歩き始めると、俺とアイ=ファ、ジェムドとガズラン=ルティムだけが追従した。


 そちらの壁際には武官がひそむ衝立も立てられていないため、誰かに盗み聞きされる恐れもない。椅子は四脚しかなかっため、ジェムドはフェルメスのかたわらに立ち尽くした。


「どうも申し訳ありません。取り立てて、アスタたちに聞いてもらうほどの内容ではないのですが……このような話を共有できるのはアスタたちだけですので、どうにも我慢がきかなかったのです」


「はい。俺たちはフェルメスと語らえるだけで嬉しいですよ。なんでもご遠慮なく語ってください」


 フェルメスは「ありがとうございます」と嬉しそうに目を細める。

 その美麗なる細面は、まだあどけない微笑をたたえたままだ。俺やガズラン=ルティムには遠慮なくこういう表情をさらすフェルメスでも、こうまで長時間にわたるのは初めてのことであった。

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― 新着の感想 ―
なにかさらに重要な情報が出そうな予感。 出てきたときはなんだこいつって思ったフェルメスですが、今では出てくるたびにうれしいです。 大陸記のほうにはどうつながるんだろうか?
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