送別の祝宴⑦~明るい行く末~
2025.11/9 更新分 1/1
「わたしがアスタをさらったのは白の月のはずだから、来月でちょうど丸三年ということになるのよね」
ダイアの料理で腹と心を満たしているさなか、リフレイアがふっとそんな風に語り始めた。
しかしべつだん深刻な様子はなかったので、周囲の面々も穏やかな面持ちで聞いている。ただ誘拐の実行犯のひとりであるムスルは、ちょっと気まずそうな面持ちであった。
「あれから三年もの時間が過ぎただなんて、ちょっと信じられないぐらいだわ。何だかわたしは、追憶に耽る老婦人にでもなってしまったような心地よ」
「あはは! まだまだ若いリフレイアにそんなことを言われたら、僕たちはどうなっちゃうのさ!」
ディアルは快活な声をあげてから、懐かしそうに目を細めた。
「でも確かに、あっという間の三年間だったね。その間に、色んなことがあったけど……みんな丸く収まって、よかったよ」
「ええ。わたしなんて、たくさんの人に支えられてこそよ。面倒な話は、すべてあなたが受け持ってくれたものね」
リフレイアに微笑を向けられたトルストは、「いえいえ」と頬肉を震わせる。いつもくたびれた顔をした、年寄りのパグ犬めいた壮年の貴族だ。ただその眼差しは、リフレイアに負けないぐらい穏やかであった。
「リフレイア姫が表舞台でしっかり当主としての役目を果たしてくださったからこそ、わたくしも自分の役目に邁進することがかなったのです。わたくしにとっては、姫の存在こそが支えでありましたぞ」
「でも、あそこまで地に落ちたトゥラン伯爵家を立て直すだなんて、至難の業であったはずよ。すべてはあなたの尽力と、ジェノス侯を筆頭とする諸侯の助けと……そして、森辺のみんなの厚意があってのことね」
アイ=ファもまた、穏やかな面持ちで「うむ」と応じた。
「トゥラン伯爵家の再興については森辺の民も大きく関わっているのであろうから、否定することはできまいな。しかしそれも、リフレイアやトルストが正しき姿を見せていたがゆえであろう」
「そんなことはないわ。まずは、あなたたちの親切な人柄があってのことよ」
「わたしたちは、ただ親切なだけの人間ではありません」
と、ダイアの料理に感じ入っていたレイナ=ルウも発言した。
「それどころか、森辺の民はきわめて閉鎖的で偏狭な気質をした一族であったはずです。アスタのおかげで、それを自ら律しようと考えたのは事実ですが……それでもやっぱり、根っこの部分は変わっていないのでしょう。わたしたちは、信頼に値すると見なした相手に手を差し伸べているにすぎません」
「俺も、そう思います。森辺の民はきわめて清廉な人柄でもありますので、他者の裏切りを決して許さないでしょう。リフレイアたちがこちらの信頼に応えてくれたからこそ、こうして手を取り合うことができたのだと思います」
「そう……」と、リフレイアは目を伏せた。
「そんな風に言ってもらえると、わたしたちも報われるわ。ねえ、ムスル?」
「はい。わたしこそ、森辺のお歴々の信頼を裏切ることは決して許されないという思いでもって、今日まで生きてまいりました。今後も決して初心を忘れることなく、自らを律する所存です」
ちょっと気まずそうな顔をしていたムスルが、精悍な面持ちでそのように答えた。
出会った頃は凶暴な鈍牛のごとき印象であったムスルであるが、もうそんな気配はどこにも残されていない。がっしりとした体躯で立派な髭をたくわえた彼は、伯爵家の武官に相応しい貫禄であった。
いっぽうサンジュラは出会った頃から穏やかなたたずまいで、三年が経過した現在も印象はまったく変わっていない。ただ、森辺の祝宴に招いた際や、宿場町の屋台で顔をあわせる際に、少しずつ本心が透けるようになっていた。
そして、侍女のシフォン=チェルも基本の印象は変わらないものの、サンジュラよりは変化が感じられる。彼女は兄や同胞とともに南方神に神を移すことで、生まれ変わったのだ。奴隷という身分から解放されて、さまざまな相手と情愛を育むことが許された彼女は、とても幸福そうに見えた。
「僕がみなさんと出会った頃には、すでに確かな絆が紡がれていたように思います。それはきっとさまざまな苦難の果てに結ばれた絆であったのでしょう」
熱情的な面持ちで、アラウトがそう言った。
「正直に言うと、僕は少しだけ無念です。もっと早くからみなさんと出会い、ともに絆を紡ぎたかったです」
「まあ。そんな寂しいことをおっしゃらないでいただきたいわ。アラウト殿の存在だって、わたしたちにとっては大きな支えなのですからね」
「そうですよ。出会いに遅すぎるなんていうことはありません。これからだって、まだいくらでも絆を紡いでいけるじゃないですか」
俺も温かな心持ちで、リフレイアに加勢した。
「アラウトは、まだ十六歳ですよね? 俺が森辺にやってきたのは、十七歳になってからのことです。俺ももっと若い頃に来たかったという思いはなくもありませんけれど……でも、昔はいっそう未熟な料理人だったので、どれだけ力を振るうことができたかもわかりません。逆に、もっと齢を重ねてから来ていれば、もっと力になれていたかもしれませんけれど、そんなことを考えたってしかたがありませんからね。人間は与えられた環境で力を尽くすしかないのでしょうし、きっと後から振り返れば、すべてが正しい運命だったんだと納得できるはずです」
「さらに言うならば、納得できるように力を尽くすべきなのであろうな」
と、アイ=ファも優しい眼差しでそう言った。
「何によ、我々は今のあなたと出会えたことを喜ばしく思っている。無念の思いなど脇に置いて、この喜びを分かち合ってもらいたく思うぞ」
アラウトは感じやすい頬を紅潮させながら、「はい」とうなずいた。
「今の喜びを顧みもせずに、つい未練がましい言葉を吐いてしまいました。どうか、ご容赦をお願いいたします。……リフレイア姫も、申し訳ありませんでした」
「何も謝罪には及びませんわ。でも……アスタとアイ=ファは、ますます立派な立ち居振る舞いね。これが婚儀を決めた人間の風格というものなのかしら」
リフレイアがまんざら冗談でもなさそうな口調でそう言うと、ディアルも「ほんとだよねー!」と元気に追従した。
「二人は昔からしっかりしてたけど、ますます貫禄がついたじゃん! 同い年の僕としては、うかうかしてられないなー!」
「あはは。ディアルだって、しっかりしてるじゃないか。異国で何年も過ごすだなんて、俺やアイ=ファには難しい話だしね」
「ま、それは適性ってもんでしょ! 外に飛び出して頑張るのも、故郷に根を張って頑張るのも、どっちが偉いってわけじゃないからね!」
そんな風に言ってから、ディアルはいっそう朗らかに笑った。
「あらためて、ジェノスに居残ることができてよかったね! アスタだったらどこに行っても成功するんだろうけど、やっぱり故郷に根を張るのが一番向いてるんだろうからさ!」
「本当にね。もしもアスタが王都に連れ去られていたらと思うと、ぞっとしてしまうわ」
ディアルもリフレイアも、それを取り囲む人々も、みんな心からの笑みを浮かべてくれている。まあ、ラービスは相変わらずの仏頂面であるし、サンジュラの笑顔は内心も読めないが、彼らの真情を疑う理由はない。俺は心を深く満たされながら、「今後とも、どうぞよろしくお願いします」と笑顔を返すことができた。
「では、そろそろ移動するか。フェルメスばかりでなく、ダッドレウスにも挨拶が必要であろうからな」
アイ=ファのそんな言葉に従い、俺たちはその卓を離れることになった。
ルウ家の三名にジルベにサチという、元のメンバーだ。ご機嫌の様子で闊歩しているリミ=ルウに優しい視線を向けてから、アイ=ファは俺に向き直ってきた。
「ところでお前は、もっと若き時代にやってきたかったという思いを抱いていたのか?」
「いや、そんな深刻な話じゃないよ。ただ、もう二年ぐらい早かったら、アイ=ファの親父さんにも会えたんだなとか思ってさ」
「うむ。さすれば私の父も美味なる料理と滋養のおかげで、生き永らえたやもしれんが……そのような話を夢想しても、詮無きことであるからな」
「うん。十七歳のアイ=ファと出会えたんだから、何も贅沢は言えないさ。……十五歳のアイ=ファには、また違った魅力があるんだろうけどさ」
「うつけもの」と、アイ=ファは腕をのばして俺の頭を小突く。
そのタイミングで、レイナ=ルウが「あっ」と弾んだ声をあげた。人垣の向こうに、見慣れた背中を発見したのだ。
「リーハイム、セランジュ、どうもお疲れ様です。本日も、料理長の品は素晴らしい出来栄えでした」
「おお、レイナ=ルウ。アスタたちも、一緒だったのか。遅い挨拶になっちまったけど、婚約おめでとさん」
こちらを振り返ったリーハイムは、気さくに笑った。
「アスタとアイ=ファの婚儀なんて、本当にめでたい限りだぜ。それでもって、宿場町の広場を使ってもらえるのは、光栄な限りだな」
「その件ではご快諾いただいて、ありがとうございました。何もおかしな騒ぎにならないように気をつけますので、よろしくお願いします」
「ふふん。今回は、レイ家の婚儀を上回る騒ぎだろうな。倍の衛兵を準備させるから、お前らは好きに騒げばいいさ」
そう言って、リーハイムはレイナ=ルウに視線を戻した。
「そういえば、さっきララ=ルウが親父殿に旅芸人のことを頼み込んでたよ。広場で、芸を見せたいんだって?」
「はい。《ギャムレイの一座》はかつて森辺の祝宴にも招いたことがありますので、何も心配はないかと思います」
「ああ、例のギバをとっ捕まえたって連中か。なんなら俺も、ギバの芸ってやつを見せてもらいたいもんだな」
そんな言葉を交わしながら、俺たちはあらためて大広間を突き進んだ。
先頭を歩くレイナ=ルウはリーハイムと楽しげに語らっており、伴侶のセランジュも笑顔で加わっている。レイナ=ルウが婚儀の厨を預かったことで、いっそう絆が深まったのだ。かつてはリーハイムがレイナ=ルウにちょっかいをかけて険悪な関係に成り果てていたなどとは、とうてい信じられない和やかさであった。
シン・ルウ=シンやレイリスと同じように、レイナ=ルウたちも悪縁を乗り越えたことで絆を深めることがかなったのだ。
そして客観的に見れば、俺とトゥラン伯爵家の面々も同様であるのだろう。俺などは誘拐騒ぎに巻き込まれたのだから、ひときわ険呑な間柄であったのである。
ポルアースやヤンのように最初から健やかな関係であるに越したことはないが、すべての人間と理想的な出会いをできたら世話はない。どのような出会いにも、それぞれかけがえのない価値や意味が存在するはずであった。
「げ、親父殿だ。……あの顔ぶれじゃ、素通りはできねえな」
と、リーハイムが首をすくめながらそんな言葉をこぼした。
目の前に、新たな卓が迫っていたのだ。そこにはリーハイムの父たるルイドロスばかりでなく、ジェノス侯爵家の面々にダッドレウスたちまでもが居揃っていた。
ダッドレウスがいるならば、俺たちも挨拶が必要であろう。それでリーハイムとともに接近していくと、そこは菓子の卓であり、トゥール=ディンとゼイ=ディン、ゲオル=ザザとスフィラ=ザザ、さらにはデルシェア姫とダイアまで居揃っていた。
(うわ。これは確かに、誰から挨拶していいかも迷っちゃいそうな顔ぶれだな)
しかしこちらが悩む前に、ルイドロスが「おお」と声をあげた。
「リーハイム、ファのご両名を案内してくれたのか。お前にしては、気がきいているね」
「はい。当主たる父君にお褒めの言葉をあずかり、恐悦至極です」
リーハイムは、気取った仕草で一礼する。その間に、エウリフィアが俺とアイ=ファに微笑みかけてきた。
「わたくしもお会いしたかったわ。もう聞き飽きているでしょうけれど、ご婚約おめでとう。わたくしは我が事のように嬉しいわよ、アスタ、アイ=ファ」
「うむ。祝福の言葉、ありがたく思う」
アイ=ファは騎士のように凛然と答えながら、貴婦人のようにつつましく一礼する。その姿に、エウリフィアはちょっと芝居がった調子でほうっと息をついた。
「そのように白い宴衣装を纏っていると、本当に今宵が婚儀の祝宴であるかのようね。二日後のお披露目を楽しみにしているわ」
「いたみいる」と応じてから、アイ=ファはダッドレウスに向きなおった。
「挨拶が遅れてしまい、申し訳なかった。また、先日は我々のために心を尽くしていただき、感謝している」
「……わたしは王陛下の御心を伝えたにすぎないので、感謝されるいわれはない。力を尽くすのは、職務であるからな」
菓子の甘やかな芳香に包まれながら、ダッドレウスの厳格な態度に変わりはない。
そしてそのかたわらでは、アローンも厳しい表情で控えており――さらに、仮面の口もとを外した三名の武官も無言でたたずんでいた。
そのつけ髭の色合いで、俺はカイロス三世の察しをつける。当然というか何というか、カイロス三世は左右を武官にはさまれていた。
しかし正体を察しても、目配せや挨拶を送るのは不相応なことだろう。よって、俺は全員にまとめて頭を下げた。
「色々とお手数をおかけして、申し訳ありませんでした。今後もジェノスの領民として力を尽くしますので、よろしくお願いいたします」
「うむ。わたしの任期が半年で終わることはなかろうからな。一年か一年半、腰を据えて見定めさせていただこう」
そんな風に言ってから、ダッドレウスは俺の足もとに視線を移した。
「それで……そちらがドレッグ殿から授かった獅子犬であるな」
「はい。家人のジルベです。背中に乗っているのは、同じく家人のサチと申します」
ジルベは「わふっ」と愛想よく挨拶をして、サチはつんとそっぽを向く。
ダッドレウスは、「なるほど」と首肯した。
「これは獅子犬としても、ずいぶん聡明な個体であるようだ。また、一見では愛玩犬に成り下がったような無邪気さであるが……そうでないことは、胸もとの勲章が証し立てている」
「わふっ」
「実は、ドレッグ殿から言伝を頼まれていた。ファの家に譲り渡した其方が勲章を授かるほどの功績をあげて、心より誇らしく思っている。……だそうだ」
ジルベはいっそう瞳を明るく輝かせながら、「わふっ」と尻尾を振りたてる。
するとアイ=ファが、興味深そうに声をあげた。
「ダッドレウスよ。あなたは人に対するかのように、犬へと語りかけるのだな」
「うむ? それで何か、不都合でもあろうか?」
「いや。森辺の外でそのように振る舞う人間は数少ないので、喜ばしく思っている。私にとっても、ジルベたちは人と同様の大切な存在であるのでな」
アイ=ファが穏やかに目を細めると、ダッドレウスは眉間の皺をいっそう深くした。
「ジェノスはこれほどジャガルに近いにも拘わらず、さして番犬が普及していないと聞き及んでいる。西の王都では番犬など珍しくもないので、扱い方に差があるということなのであろう」
「そうか。今後もジルベと絆を深めてもらえれば、ありがたく思う」
「わふっ」
「……それよりも、まずは人たる其方たちの人柄を見定めるべきであろうな」
さすがに、これしきのやりとりでダッドレウスの厳しい態度は揺るがない。
すると今度は、リミ=ルウがアローンに笑いかけた。
「ねえねえ、もうトゥール=ディンのお菓子は食べたのー? ……ですか?」
「……うむ。ちょうど今、本人に感想を伝えていたところだ」
アローンもアローンで、むっつりとした面持ちである。ただし、トゥール=ディンは嬉しそうにもじもじとしているし、隣のオディフィアはきらきらと瞳を輝かせているので、きっとすでに望ましい感想を授かった後であるのだろう。
「トゥール=ディン様の菓子には、わたしも感服いたしました! 本当に、トゥール=ディン様の才覚には底が見えませんね!」
「わたしも、言葉がありませんでしたねぇ。トゥール=ディン様の繊細な手際には、驚かされるばかりです」
と、デルシェア姫とダイアも便乗してくる。料理長として参じたダイアは、もちろん白い調理着の姿だ。よって、宴料理を口にする資格はないはずであったが、そこは寛容なるエウリフィアあたりが許しを与えたのだろうと察せられた。
トゥール=ディンが本日準備したのは、クランチチョコのノマ包みである。
プレーン、アロウ仕立て、ラマンパ仕立てという三種のクランチチョコを直径二センチほどの小粒に仕上げて、寒天のごときノマでくるんだひと品だ。クランチにはトウモロコシのごときメレスのフレークが使われており、それがノマとの組み合わせで多層的な食感を生みだしていた。
そもそもノマを持ち出したのは、祝宴の熱気にさらされるチョコの保存を考慮してのことであったが、それが新たな美味しさを実現したのだ。俺にしてみても、ゼリーでチョコをくるむというのはあまり馴染みのない手法であったため、実に新鮮な食べ心地であった。
「アスタたちも、まずはそれらの菓子を食するがいい。同じ喜びを分かち合ってこその、祝宴であるからね」
マルスタインにうながされて、俺たちも卓上に手をのばした。
そちらには、トゥール=ディンとデルシェア姫とダイアの菓子が並べられていたのだ。トゥール=ディンの菓子は試作品を口にしていたので、俺はデルシェア姫の品からいただくことにした。
デルシェア姫が準備したのは、小さな小さな焼き菓子である。
サイズ的にはトゥール=ディンの菓子と同程度で、こちらも色とりどりだ。そうして手に取ってみると、想像以上に硬い質感で、なおかつ空気のような軽さであった。
(なんだか、メレンゲ焼きか……あられみたいな手触りだな)
俺は可愛らしいピンク色をした菓子を、口に放り入れた。
想像の通り、硬い生地は軽く噛んだだけでくしゅっと潰れる。そうしてアロウの果汁の味わいが口に広がるのも、想像の通りであったが――ただ、そこに続く食感だけが想定外であった。
メレンゲ焼きであれば焼かれた表面だけが硬く仕上がり、たくさんの気泡を含んだ中身は軽やかな食感である。そういう菓子は、このジェノスでも何度か口にした経験があった。
しかしこちらの菓子は、それよりも歯ごたえがしっかりしている。
砕けた生地を噛みしめていると、ざくざくとした心地好い食感が追いかけてくるのだ。それは焼かれたメレンゲの食感に、クッキーのような焼き菓子の食感がわずかに添加されているような噛みごたえであった。
そうして噛んでいる間に、アロウの風味と上品な甘さが広がっていく。
アロウのわずかな酸味がアクセントになって、素晴らしい味わいだ。それに、意外に油分も豊富であり、それが深みを生みだしていた。
「これは、不思議な食感ですね。味わいも素朴でありながら、なんだか尾をひく美味しさです」
「ありがとうございます! そちらは卵白にほんの少しのポイタンを加えて、ジュエの花油で揚げ焼きにした菓子となります! 作業手順は簡素ですが、味の調合と火加減にはずいぶん研究を重ねることになりました!」
デルシェア姫はにこにこと笑いながら、そんな風に解説してくれた。
シンプルだが、素晴らしい出来栄えの菓子である。さらに言うならば、これを他なる菓子にトッピングすることでさまざまな可能性が開けることだろう。きっと今日は祝宴であることから、重くなりすぎないように単品で供したのだろうと察せられた。
(そうやって、きちんとTPOを考慮できるのも、デルシェア姫の強みだよな。お姫様の道楽じゃなく、本気で調理に向き合ってる証拠だ)
そして次なるは、ダイアの菓子である。
こちらは一枚ずつが大輪の花弁のような形状をしており、しかもきらきらと照り輝いている。さまざまな色彩が、透明のきらめきに覆われているのだ。
このきらめきは、砂糖菓子か寒天のごときノマか――答えは、後者であった。
トゥール=ディンと同じように、菓子の本体がノマでコーティングされているのだ。ただしこちらは明らかに、見栄えを考慮しての細工であった。
こちらも一枚はささやかなサイズであったので、ひと口で食することができる。
然して、その味わいは――とろけるような甘さでありながら、本物の花のような華やかなる香りであった。
俺が食した黄色の菓子はキンモクセイを思わせる清涼な香りであり、本来であれば菓子に適していないように思える。俺にとって、馴染みのある花の香りというのは芳香剤を連想させるのだ。
しかし、ダイアの菓子を食べても違和感が生じることはない。キンモクセイが香りの通りの味わいであれば、きっとこのような味であるのだろうと、そんな風に納得できてしまうのだ。花の香りから芳香剤などを連想するのはこの世界で俺ひとりなのかもしれないが、そうだからこそ、ダイアの手腕やイメージ力の如何というものを実感することができた。
「ああ、こちらも素晴らしい出来栄えです。三者三様で、甲乙つけがたいですね」
なおかつたまたまの偶然で、三人ともが小さくて色とりどりの菓子を準備している。それはいずれも祝宴の場にあわせての配慮であったのであろうが、何にせよ卓上が素晴らしい華やかさであったのだ。トゥール=ディンとデルシェア姫は期せずして、見栄えを重んじるダイアの一助になったようであった。
そして本日はオディフィアもトゥール=ディンの菓子にばかり固執することなく、さまざまな菓子に手をのばしてはじんわりと幸福を噛みしめている。
俺がそのさまを微笑ましく見守っていると、星のようにきらめく灰色の瞳がこちらに向けられた。
「あ……アスタ、アイ=ファ、ごこんやく、おめでとう」
と、オディフィアは急にわたわたと慌ててから、可愛らしく貴婦人の礼を見せる。それでもその顔は人形のごとき無表情であるが、微笑ましさは増幅されるばかりであった。
「ありがとうございます。二日後には、オディフィアも宿場町に来てくださるのですか?」
「うん。……オディフィアがいったら、めいわく?」
「まさか。オディフィアにも見届けてもらえたら、本当に嬉しいです」
俺が心からの笑顔を返すと、オディフィアも灰色の瞳を明るく輝かせてくれた。
そこにジルベがすりよっていくと、いっそう瞳の輝きがふくれあがる。その小さな指先で首筋を撫でられると、ジルベは嬉しそうに「わふっ」と鳴いた。
「ジルベとサチも、あいたかった。……サチ、だいてもいい?」
「うむ。それでは失礼のないように、私が介するとしよう」
サチに逃げる隙を与えず、アイ=ファがひょいっとその小さな身体をすくいあげる。そうしてサチは「なうう」と不満げにうなりながら、オディフィアの腕に抱かれることになった。
「……其方たちは、オディフィア姫ともずいぶん懇意にしているようだな」
アローンが厳しい面持ちで言いたてると、アイ=ファは静かに「うむ」と応じた。
「オディフィアとも、正しき絆を結ぶことがかなった。……貴族ならぬ身で領主の孫娘と親しくするのは、分不相応であろうか?」
「それを判ずるのは、ジェノス侯であろう。王都では、決してありえない光景であるがな」
ダッドレウスに比べると、アローンのほうがやや険しい印象である。
彼はジェノスとの外交に関わりのある立場ではないので、そうまで気にかける必要はなかったが――しかしもちろん、俺もせっかくのご縁を二の次にするつもりはなかった。
「森辺の民は不幸な形で貴族と関わることになってしまったので、ジェノス侯爵家の方々と確かな交流がかなうようになったのはありがたい限りです。こちらのオディフィアはお茶会を通じて、まずトゥール=ディンが懇意にさせていただいたのですよ」
「ふん……そういえば、当時のメルフリード殿は正体を隠して森辺の民と接触したのだという話でありましたな」
アローンの言葉に、メルフリードは毅然たる態度で「ええ」と応じた。
「スン家およびトゥラン伯爵家の罪を暴くために、必要な措置でありました。ですがそれは、森辺の民の信用を失ってもおかしくない所業であったことでしょう。こうして自分の家族までもが健やかな関係を紡ぐことができて、心よりありがたく思っています」
「……それだけジェノスでは、さまざまな関係がもつれあっていたのでしょうからな。やはり、部外者たる小官が口をはさむべき領分ではないようです」
「しかし」と声をあげたのは、アイ=ファであった。
「私たちは、こうして顔をあわせたのだ。たとえこのまま二度と顔をあわせることがないとしても、その事実に変わりはあるまい」
「俺も、そう思います。二年前に出会ったドレッグとタルオン、千獅子長のルイド、百獅子長のダグやイフィウスといった方々も、もう顔をあわせる機会はないのかもしれませんが、俺たちがその存在を忘れることはありません」
アローンは、いくぶんぎょっとしたように目を見開いた。
「……そうか。イフィウス殿も、ひとたびはジェノスを訪れたのだという話であったな。それは、失念していた」
「はい。アローンも、イフィウスをご存じなのですね」
「イフィウス殿とて、男爵家の血筋であられるからな。わたしがイフィウス殿に先んじて千獅子長の座を授かったのは、王陛下のお引き立てと部下に恵まれた結果にすぎん」
「そうか」と、アイ=ファは満足そうに目を細めた。
「縁とは、こうして繋がり、広がっていくものなのであろう。また西の王都から訪れる者があれば、あなたの消息を耳にする機会もあろうし……逆に、我々の消息を伝えることもかなおう」
「まったくですね。アローンのお耳を汚さないように、俺たちも身をつつしみます」
アローンが困惑の気配をにじませつつ黙り込むと、メルフリードが静かに声をあげた。
「これが、森辺の民というものであるのです。わたしは森辺の民の信用を失うことになろうとも、トゥラン伯爵家およびスン家の大罪を暴くのだと奮起していましたが……彼らの度量に、救われました」
「我々は、そうまであなたを忌避していたわけではないぞ。ただ、あなたの正義がどこにあるのかと、目を凝らして見定めていただけのことだ」
「そうですね。そしてそれは、そちらも同様だったのではないですか?」
「……そうだな」と、メルフリードはうっすらと微笑んだ。
どれだけ親密になってもなかなか表情を動かさないメルフリードが、ひさびさに笑顔を見せてくれたのだ。それだけで、俺は胸がいっぱいになってしまった。
(最初から陽気だったポルアースと違って、メルフリードはなかなか内心がつかめなかったからな。それに……マルスタインもだ)
マルスタインはいつもゆったりとした穏やかな態度であるが、やっぱり内心はつかみにくい。ドンダ=ルウを筆頭とする三族長も、当初はマルスタインが君主に相応しい存在であるのかと鋭く検分の目を向けていたのだ。
正直なところ、俺はいまだにマルスタインの本性というものがわからない。
しかし、数々の騒乱をともに乗り越えたことで、彼は信頼に値する大人物であると見なすことがかなったのだ。そうであるからこそ、森辺の民はジェノスの領地である森辺の集落で心置きなく生きていくことができたのだった。
(もう十年や二十年もしたら、メルフリードやリーハイムやアディスがそれぞれ当主の座を受け継ぐことになって……こっちでは、ジザ=ルウやゲオル=ザザが族長の座を受け継ぐことになるんだろう)
それでも俺たちは、しっかりと手を携えて生きていくことができるはずだ。
アイ=ファと婚儀を挙げることが決まった現在、俺は今まで以上にその幸福をしっかりと噛みしめることがかなったのだった。




