送別の祝宴④~開会~
2025.11/6 更新分 1/1
「では次に、西の王都へと帰還されるフェルメス殿にお言葉をいただく」
俺とアイ=ファとガズラン=ルティムが引き下がると、マルスタインがそのように言いつのった。
それでフェルメスが一歩だけ進み出ると、また拍手が打ち鳴らされる。先刻ほどではないものの、こちらでもそれなり以上の熱意が感じられた。
「本日はこのように立派な祝宴を開いていただき、恐縮の限りです。本来、外交官の任期というものは半年から一年、長くても一年半と定められているのですが、僕は二年近くにわたってジェノスに留まることを許されました。西の王国の中でも王都に次ぐ豊かさを持ち、独自の魅力にあふれかえったジェノスで長きの時間を過ごすことがかない、僕は心から嬉しく思っています」
フェルメスの口調や物腰は流麗であるが、そのぶん内心がつかみにくい。
しかし大広間の人々はそれを不満に思う様子もなく、瞳を輝かせながらフェルメスの言葉を聞いていた。
「この期間には数々の騒乱にも見舞われましたが、無事に終息した現在においてはそれも美しき思い出です。また、自分もジェノスのために微力を尽くせたことを、誇らしく思っています。このさきジェノスに足を踏み入れる機会があるかどうかは、西方神の御心次第となりますが……僕は魂を返すまで、ジェノスで過ごした日々を忘れることはないでしょう。今後は別なる地で職務に励みながら、ジェノスで過ごした日々を心のよすがとさせていただきます」
フェルメスが優雅に一礼すると、いっそうの熱っぽい拍手が巻き起こる。
フェルメスは優美な微笑とともに引き下がり、マルスタインがまた声をあげた。
「それでは最後に、フェルメス殿に代わって新たな外交官として着任したダッドレウス殿にもひと言いただこう」
とたんに、拍手がつつましさを取り戻した。
決してダッドレウスを忌避しているわけではなく、彼の厳格そうな気性に合わせているのだろう。貴族というのは、それぐらい柔軟性にとんでいるのだ。
「ただいまご紹介に預かりました、外交官のダッドレウスと申します。ジェノスに赴いたのはこれが初めてとなりますため、しばらくはご迷惑をかけることもありましょう。こちらも心を尽くして外交官の職務に励む所存でありますので、温かく見守っていただければ幸いでございます」
ごく尋常な挨拶であるが、その顔は厳格そのものである。
そしてダッドレウスは炯々と光る双眸で大広間を見回してから、さらに言った。
「また、シムおよびジャガルと隣接し、森辺の集落という特別自治区を抱えるジェノスは、他なる領地とまったく異なる風習が育まれていることでしょう。わたしも皆様のご理解をいただきながら、ジェノスの現状というものを正しく見定めさせていただきたく存じます。どうぞ皆様も、お力添えをよろしくお願いいたします」
ダッドレウスが語ると、そんな言葉も宣戦布告めいて聞こえてしまう。
しかし人々は貴族らしいたおやかなたたずまいで、ダッドレウスの厳しい面持ちを見守っていた。
「ダッドレウス殿、ありがとうございました。わたしもジェノスの領主として、心を尽くすことをお約束いたします。……それでは、送別の祝宴を開始する」
マルスタインの宣言で、参席者に酒杯が配られる。
俺とアイ=ファは茶の杯をいただき、乾杯の時に備えた。
「本日は森辺の料理人アスタとトゥール=ディンを筆頭に、数多くの高名なる料理人が腕をふるってくれた。こちらのデルシェア姫も、そのおひとりとなる」
デルシェア姫が優雅に一礼すると、好意的な拍手が鳴り響いた。
「フェルメス殿との別れを惜しみ、その前途を祝いながら、美味なる料理で喜びの思いを分かち合っていただきたい。……大いなる四大神に、祝福を」
「祝福を!」の声を唱和することなく、人々は笑顔で酒杯を掲げる。
そうしてついに、送別の祝宴が開始された。
「では、私はダリ=サウティとともに、フェルメスに挨拶をしてきます」
と、すぐそばにいたガズラン=ルティムが俺とアイ=ファに微笑みかけてきた。
「お二人も、フェルメスのもとに参じたいところでしょうが……今はまだ、時期を見るべきではないでしょうか?」
「……そうだな。無用に人を集めては、かえって迷惑になろう」
アイ=ファは溜息をこらえているような面持ちで、そのように答える。すでに俺たちの周囲では、数多くの貴婦人たちが虎視眈々と接近のチャンスをうかがっていたのだ。
「では、フェルメスにもそのように伝えておきます。お二人も、どうぞお気をつけて」
ガズラン=ルティムとダリ=サウティ、それにパートナーである女衆たちが輪から外れていく。残された面々もそれぞれ散開しようとすると、予想通りに貴婦人たちが取り囲んできた。
「アスタ様、アイ=ファ様、ご婚約おめでとうございます!」
真っ先に声をあげたのは、若き貴婦人ベスタである。かつてはリーハイムの伴侶となったセランジュとコンビを組んでいた娘さんで、シン・ルウ=シンに熱い眼差しを向けていたひとりでもあった。
そんな彼女とあらためてご縁を結んだのは、それこそフェルメスが開催した仮面舞踏会の場であっただろうか。彼女やセランジュは自分たちの行いが貴族と森辺の民の関係にちょっとした悪影響を与えたことを詫びながら、すこやかなる関係を結びなおしたいと言ってくれたのだった。
しかしそれも遠い記憶で、最近は若き貴婦人のまとめ役といった貫禄である。そして、祝宴のたびにアイ=ファを包囲にかけていた。
しかし本日は俺も輪の外に弾き出されることなく、一蓮托生である。若き貴婦人たちがかもし出す香水か何かの甘い香りに包み込まれて、俺はむせかえりそうなほどであった。
「ついに、ついにお二人が婚儀を挙げるのですね! いつかはこの日がやってくると信じておりましたわ!」
「わたくしもです! 実にお似合いのお二人ですもの!」
「今日の御召し物なんて、それこそ婚儀の衣装のようですわ! どうか、祝福させてください!」
アイ=ファは静謐な面持ちであるが、「うむ」と返すことしかできない。それぐらい、貴婦人たちの圧力がとてつもないのだ。
誰もがきらきらと瞳を輝かせながら、俺とアイ=ファの姿を見つめている。恋愛沙汰を重んじるという若き貴婦人であれば、婚儀などというのは最大のイベントであるのだろう。なおかつ、婚儀の当日ではなく前祝いのごとき場であれば、遠慮も容赦もないようであった。
ということで、俺たちは数分ばかりも貴婦人たちの波状攻撃にさらされることになった。
本当に、会場中の若き貴婦人が入れ代わり立ち代わりで集まっているのではないかという騒ぎである。俺がこのような騒ぎに巻き込まれるのはちょっとひさびさのことであったので、ずいぶんと戸惑うことになってしまった。
「さあ、婚儀のお祝いはそれぐらいで十分でしょう。お二人にも、祝宴を楽しんでいただかなければね」
そんな言葉が、俺に救世主の到来を告げた。
誰かと思えば、サトゥラス伯爵家のレイリスである。こちらは男女問わず若き貴族のまとめ役といった風格であるため、貴婦人たちも名残惜しそうに身を引いていった。
「レイリスか。あなたには、たびたび助けられているな」
アイ=ファが貴婦人がたに聞こえないようにひそめた声で告げると、レイリスは誠実そのものの面持ちで微笑んだ。
「そのように言っていただけるのは、光栄な限りです。皆もお二人の婚儀を祝福したい一心ですので、どうぞご容赦ください」
「うむ。それはありがたい話だが、何せあの勢いであったのでな」
「ええ。これでしばらくは、落ち着くことでしょう。しばし宴料理を楽しまれてから、フェルメス殿にご挨拶をされては如何でしょうか? よろしければ、わたしがつゆ払いとして同行いたしましょう」
そのように語るレイリスは、単身である。そして、周囲には森辺の同胞の影もなかった。
「それもありがたい申し出だが、あなたはシン・ルウ=シンやザザの両名との交流を求めているのではないか?」
「そうですね。ですが、先刻のご婦人がたのように血眼になることはありません。ご縁があれば、いずれ巡りあうことでしょう」
レイリスは、顔をあわせるたびに頼もしさが増していくように感じられる。もともとは父親たる騎士団長ゲイマロスが剣技の試合の場でシン・ルウ=シンに卑劣な罠を仕掛け、それが原因でサトゥラス伯爵家とルウ家の関係がこじれかけたものであったが――シン・ルウ=シンと闘技会で雌雄を決して以降は、憑き物が落ちたように本来の誠実さを取り戻したのだった。
そしてのちにはスフィラ=ザザとおたがいに恋心を抱くことになり、しばらくは距離を取るようになっていた。そして、そちらのわだかまりが完全に解消したことで、現在の堂々たる立ち居振る舞いが完成されたのだった。
(雨降って地固まるっていうけど、レイリスは二回も豪雨に見舞われたようなもんだもんな。それでこれだけ、しっかり固まることができたんだろう)
たしかレイリスは、俺やアイ=ファと同い年であるのだ。外見的には年齢相応であるが、その頼もしさは若き貴族の中で指折りであった。
「あと、リミ=ルウ嬢はアイ=ファ殿のもとに駆けつけたいご様子でしたが、ジザ=ルウ殿にたしなめられて残念そうに離れていきました」
「そうか。まあきっと、ジルベはリミ=ルウとともにあろうからな。この人混みでも、いずれ我々の匂いを嗅ぎつけることであろう」
そういえば、貴婦人に取り囲まれた時点でジルベやサチとも離ればなれであったのだ。周囲を見回しても、ジルベたちの姿は見当たらなかった。
「それでは、まいりましょうか。今日のお二人をご案内できるのは、光栄な限りです」
そうして俺たちはレイリスとともに、大広間を巡ることになった。
高名なる貴族たちは大広間の奥に留まって、挨拶の応酬を受けている。その挨拶を済ませた貴族や、挨拶の順番を待つ貴族たちが、談笑しながら宴料理を楽しんでいるのだ。前回の祝宴――東の王都の使節団の送別の祝宴からまだ半月ていどしか経っていなかったが、俺はむやみに懐かしい心地であった。
(いや、懐かしいっていうか……俺の心持ちが変化したから、新鮮に感じられるのかな)
自分の正体を知り、アイ=ファとの婚儀が決定し、自分に星が生まれたと告げられたことで、俺は心境が大きく変化している。もともと大切であったこの世界が、いっそう愛おしく感じられるのだ。そうすると、音や光や味や香りまでもが、これまで以上に鮮明に感じられるかのようであったのだった。
もとより俺はすべてを吹っ切った上で新たな人生を歩んでいるつもりであったが、やっぱり心の奥底には違和感や喪失感といったものを抱え込んでいたのだろう。
どうして自分がこんな場所にいるのか――そして、親父や玲奈を置き去りにして幸せに過ごすことなど許されるのか――そんな思いが、無意識の内に心のフィルターをかけていたのかもしれなかった。
しかし現在は、そういった感覚からも解放されている。
すると――これまで以上に、世界が輝いて見えるのである。
それで、豪奢なシャンデリアに照らし出される城下町の祝宴の様相が、いっそう絢爛に感じられるようであった。
「……それにしても、フェルメス殿とジェムド殿が西の王都に戻ってしまわれるのは、残念な限りですね」
レイリスのそんな言葉が、俺の心を現世に引き戻した。
貴婦人さながらの足運びでしずしずと歩いていたアイ=ファは、穏やかな面持ちで「うむ」と応じる。
「私も、心からそう思っている。どうやらあなたは、ジェムドにひときわの思いを抱いているようだな」
「はい。ジェムド殿はあれだけの剣技を持っておられる上に、フェルメス殿の代理人としてもお見事な立ち居振る舞いであられましたからね。あまり言葉を交わす機会はありませんでしたが、ひそかに敬服の思いを抱いていました」
「そうか。あやつがフェルメスの代理人としてモルガの聖域に踏み入った際、あなたはメルフリードの代理人として参じていたのだったな」
そう言って、アイ=ファはいっそうやわらかな眼差しになった。
「メルフリードの配下ならぬあなたがそのような役割を果たしたのは、ひとえに森辺の民に心を砕いてくれていたがゆえなのであろう。ジェムドはもちろん、あなたにも感謝しているぞ」
「いえ、とんでもありません。かつては森辺の方々に大変なご迷惑をおかけしてしまったのですから、まったく恩義は返しきれていないことでしょう」
「それこそ、とんでもない話だな。そもそも私やアスタはあなたに迷惑をかけられた覚えもない。我々にとってティアはとても大切な存在であったので、あなたの尽力には心から感謝しているのだ」
アイ=ファの言葉に、レイリスはどこかくすぐったそうな顔をした。
「アイ=ファ殿ほどの御方にそうまで言っていただけるのは、光栄な限りです。そして、アイ=ファ殿の魅力に心を乱さずにいられる自分を誇らしく思います」
「それは、貴族流の軽口であろうか? あなたには、似合わぬな」
「ははは。森辺の方々の前では取りつくろっていますが、わたしとて軽妙と洒脱で知られるサトゥラス伯爵家の一員でありますからね」
しかしどれだけ軽妙な口を叩こうとも、レイリスの誠実な印象に変わりはない。よって、アイ=ファの穏やかな眼差しにも変わりはなかった。
こんな風にアイ=ファとレイリスが腹を割って話すというのも、ちょっと物珍しいことだろう。横で聞いているだけの俺も、何だか温かな心地であった。
「アスタ殿、アイ=ファ殿、ようやくお会いできたな」
と、最初の卓に到着するなり、凛々しい声に出迎えられた。
その正体は、近衛兵団の副団長たるロギンである。闘技会におけるレム=ドムとの試合で額に大きな傷跡を刻みつけられた、精悍なる貴公子だ。ロギンはその風貌に相応しい毅然とした態度で深く一礼した。
「先日は我が近衛兵団の隊員たちの不始末により、アスタ殿には大変なご迷惑をかけてしまった。遅ればせながら、お詫びの言葉を捧げさせていただきたく思う」
「詫びの言葉は、すでにバージたちからいただいている。力を尽くしてくれたあなたがたに怒りを向けることはないので、どうか気にしないでもらいたい」
美しき宴衣装のアイ=ファがロギンに負けない凛々しさで応じると、ロギンはいっそう深く頭を垂れた。
「とはいえ、こちらの落ち度であったことは事実であろう。アスタ殿に万が一のことがあったらと思うと、悪寒を禁じ得ない」
「ふむ。あなたはそうまで、アスタと深い縁を持つ身であっただろうか?」
ロギンは毅然とした面持ちのまま、「いや」と首を横に振る。
「しかしわたしは、森辺の方々に敬服する身となる。森辺の方々のご厚意に甘えながら、有事の際に力になれなかったことが悔まれてならない」
「そうか。レム=ドムを通して森辺の民への思い入れが深まったのならば、喜ばしく思う」
アイ=ファの返答に、ロギンは再び「いや」と応じた。
「わたしは森辺の方々の清廉な心持ちと剣士としての力量に、心からの敬服を抱いている。それはレム=ドム殿に対する個人的な情愛とは分けて考えていただきたく思う」
「ふむ。レム=ドムに対する心持ちも、変わらぬままというわけか」
「うむ。レム=ドム殿とお会いするたびに、想いは深まるばかりだ。本日はレム=ドム殿が参席されていないので、無念の限りだが……その反面、取り乱した姿を衆目にさらさずにすんで、安堵している」
そんな言葉を大真面目な顔で語るのが、ロギンという人物なのである。その率直にして誠実な人柄は、わりあい多くの森辺の民から好ましく思われていた。
「ザザの血族による剣技の指南では、わたしもお世話になっています。次の闘技会が、楽しみなところですね」
と、レイリスがさりげなく間に入った。
「それでは、ともに宴料理をいただきましょう。ファのご両名は若き貴婦人の猛襲に見舞われて、まだ何も口にされていないのですからね」
「そうであったか。場もわきまえずに引き留めてしまい、申し訳なかった」
ということで、俺たちはあらためて料理の卓と向かい合うことになった。
するとそちらにも、見慣れた顔が待ちかまえている。白い調理着の姿で汁物料理を供しているのは、誰あろうティマロであった。
「いらっしゃいませ。よろしければ、こちらの料理をどうぞ」
「ああ、ティマロ。先日は、お疲れ様でした。いきなりの申し出を引き受けていただき、心から感謝しています」
「いえ、とんでもない。数ある料理人の中からご指名をいただき、光栄な限りでありました」
ティマロは相変わらずの、取りすました面持ちであった。
のっぺりとした顔立ちで、痩せているのにお腹だけがぽこんとふくれた、壮年の料理人だ。俺にとっては指折りで最初期に出会った、城下町の料理人であった。
出会った当初は森辺の民を見下しているような雰囲気であったが、二度目に対面した辺りから風向きが変わってきて、今では慕わしい相手のひとりである。そしてこの近年では、料理の腕もいっそう向上したように感じられた。
そんなティマロが供しているのは、真っ赤な汁物料理である。
それを確認した俺は、思わず「へえ」と声をあげてしまった。
「この赤い色合いは、ドルーでしょうか? 今回は、乳や豆乳を使っていないのですね」
「乳や豆乳を使った汁物料理はわたしの得意料理でありますが、そればかりを供していては料理人としての腕を問われてしまいましょう。このたびは先日の晩餐会に参席された方々がのきなみいらっしゃるのですから、なおさらです」
そのように語りながら、ティマロは深皿に料理を取り分けていく。侍女や小姓でも務まる仕事だが、あえて自ら手を下しているのだろう。本日は森辺のかまど番を除く料理人は招待されていないため、祝宴の場に参ずるには給仕の役目を果たす他ないのだった。
「ほう。これは見るからに見事な出来栄えですね。ロギン殿は、もういただいたのでしょうか?」
「いや。わたしもこちらに足を運んだところで、皆々の姿を目にしたのだ」
「では、ともにいただきましょう」
笑顔のレイリスにうながされて、ロギンも深皿を受け取った。
若き剣士たるレイリスやロギンとともに、ティマロの料理をいただくという、なかなかに新鮮な幕開けである。俺はきわめて楽しい心持ちで、ティマロの料理を口に運ぶことになった。
然して、その味わいは――このシチュエーションに負けないぐらい、新鮮である。
ドルーというのはカブやビーツに似た根菜で、真っ赤な色合いと独特の香ばしさが特徴であるのだが、こちらの煮汁にはさまざまな香ばしさが渦を巻いていた。
おそらくは、ピーナッツに似たラマンパやラマンパの油もふんだんに使われているのだろう。煮汁にまじっている黒い粒は、カカオに似たギギであるに違いない。以前にも、城下町の誰かが香ばしさを強調した料理を供していたように記憶しているのだが――それが誰であったにせよ、これはそちらの料理にも負けない斬新な仕上がりであった。
そして香ばしさの裏側には、ひそやかな甘さと辛さと酸味が控えている。シナモンに似た香草や、豆板醤に似たマロマロのチット漬け、それに果汁の甘さや酸味も活かされているのだろう。実に複雑な味わいであったが、それ以上に繊細な手腕であった。
具材は野菜もたっぷりであるが、牡蠣に似たドエマやクルマエビに似た甲冑マロール、それにツナフレークに似たジョラのつみれなどが主役を張っている。出汁もおそらくは魚介類の乾物で、甲冑マロールの殻もふんだんに使われているようであった。
「これは素晴らしい出来栄えですね。この前の晩餐会の料理とも、甲乙つけがたいです」
「恐縮です。こちらも甲冑マロールの殻の出汁で、新たな調和を目指すことがかないました。……よって、先日の晩餐会でこちらの料理を供していたとしても、アスタ殿の影響下にあるという論を揺るがす事態には至らなかったことでしょう」
取りすましたお顔をしたまま、ティマロはわずかに目を細めた。
「アスタ殿がジェノスに居残ることが許されたのは、幸いな限りでありますが……アスタ殿ご自身は、どのように考えておられるのでしょう?」
「え? それは、どういう意味ですか?」
「アスタ殿は、西の王都に赴く覚悟を固めておられるご様子でした。そうまで覚悟を固めた上で申し出を取り下げられるというのは、いささかならず無念な心持ちなのではないでしょうか?」
俺は「いえ」と笑顔を返した。
「あの場でも語った通り、俺の一番の願いはこれまで通りに過ごすことです。王都に出向く覚悟を固めたのは事実ですが、今は心から安堵しておりますよ」
「そうですか。わたしとしては、ジェノスの料理人たるアスタ殿に王都で猛威を振るっていただきたかったという気持ちもなくはありませんでした」
そんな風に言ってから、ティマロはぎこちなく微笑んだ。
「ですが……ジェノスからアスタ殿が失われる痛手とは、比較にもならないことでしょう。また、試食会で優勝を果たしたアスタ殿に出ていかれてしまっては、勝ち逃げされたも同然でありますからな」
「あはは。ティマロにそんな風に言っていただけるのは、恐縮です」
「そうですか。何せわたしはアスタ殿と顔をあわせる前から、敗北を重ねていた立場でありますからな」
それはきっと、俺がリフレイアによってトゥラン伯爵邸に軟禁されていた時代のことを言っているのだろう。当時は屋敷の料理長であるヴァルカスが不在であり、副料理長であったティマロが厨を取り仕切っていたのだ。
そうして俺とティマロの料理は屋敷を訪れる人々に供されて、勝手に味比べの余興に使われていたのである。それで俺の料理がことごとく勝利を収めていたため、俺のお目付け役であったロイがずいぶん心を乱していたのだった。
(そう考えたら、ティマロが俺を敵視するのも当然の話だよな。どこの馬の骨とも知れない人間の引き立て役にされるなんて、高名な料理人にとっては物凄い屈辱であるはずだ)
そんな確執を乗り越えて、ティマロはこんな笑顔を見せてくれているのである。
それをありがたく思いながら、俺はティマロに笑顔を返した。
「俺はこれからも、みなさんと切磋琢磨させていただきたく思っています。ティマロも、どうぞよろしくお願いします」
ティマロは取りすました表情を取り戻しつつ、「こちらこそ」と一礼した。
すると、黙ってこのやりとりを聞いていたレイリスが声をあげる。
「晩餐会の顛末につきましては、わたしもリーハイム殿からうかがっていました。アスタ殿は森辺の狩人のごとき迫力であったと、リーハイム殿も感服しておられましたよ」
「いえいえ、とんでもない。でも、俺にとっても人生の分かれ道でしたからね。心残りがないように、すべての力を振り絞ることになりました」
「はい。きっと如何なる分野においても、ひとかどの人間というのはそれだけの力を備えておられるのでしょう。わたしもアスタ殿を見習って、自分を磨きたく思います」
レイリスは誠実そのものであるので、俺は恐縮するばかりである。
そうして俺がこっそりアイ=ファの様子をうかがってみると、そちらはそちらでずいぶん誇らしげな眼差しになっていたため、いっそう気恥ずかしくなってしまった。
「よろしければ、卓上の料理もお召し上がりください。そちらを手掛けたのはダイア殿ですが、汁物料理との相性も申し分ないですぞ」
と、ティマロが会話の間隙をついて、そんな言葉を届けてきた。
卓上には、軽食も並べられていたのだ。フワノの生地の上には、宝石のようにきらめく三種の魚卵が添えられていた。
明太子のごときジョラの魚卵、イクラのごときフォランタの魚卵、キャビアのごときヴィレモラの魚卵である。生地と魚卵の間にも何らかの細工が施されているようであったが、外見からは見て取ることができなかった。
「三種の魚卵を同時に使うというのは、なかなか大胆な試みですね」
俺は小さな軽食をつまみあげて、口の中に放り入れる。
するとすぐさま、想像以上に濃厚な魚介の風味が口内に広がった。魚卵の下には、魚介の出汁を主体にした甘辛いソースが隠されていたのだ。それは何だか、得も言われぬ鮮烈さを備えた味わいであった。
「なんだかこれは、すごい味わいですね。魚介で食材を統一するのは、それほど珍しい手際ではないように思うのですが……何だか、目の前に海が広がるような心地です」
「なるほど。アスタ殿は、海というものをご覧になったことがあるのですね」
と、ティマロが真剣な面持ちで身を乗り出した。
「ジェノスで生まれ育ったダイア殿は、もちろん海というものを目にしたことがありません。ですが、さまざまな文献で海について学ぶうちに、果てなき憧憬を抱くことになり……その末に、こちらの料理を考案したのだそうです」
「ああ、なるほど……ダイアは以前にも、御伽噺で見た料理や菓子の再現に励んだと仰っていましたよね。それで今度は、海が題材に選ばれたわけですか」
それが、ダイアならではのアプローチなのである。それにしても、見たこともない海をイメージして料理を考案するなどというのは、ちょっと尋常でない話であった。
「言うまでもなく、ダイア殿はジェノスで指折りの料理人であるのです。……それでどうして先日の晩餐会においては、ダイア殿を指名されなかったのでしょうか?」
そう言って、ティマロは不満げな眼差しをちらつかせる。ティマロはヴァルカスに激しい対抗心を抱く一方で、ダイアに対してはまじりけのない敬服の念を抱いているのだ。
「えーと、あの日は城下町の方々が森辺の料理に影響を受けているということを証明したかったので、ダイアは外させていただいた次第です」
「なるほど。ですが、ヴァルカス殿もさして影響を受けておられるご様子はないのでは? 実際に、あの日の料理にもさしたる影響は感じませんでしたぞ」
「そうですね。でも、ヴァルカスはお弟子さんを通じて屋台の料理をしょっちゅう買ってくれますし、シャスカを粒のまま使うこともありました。ダイアに比べれば、多少は影響を受けているのかなという印象だったんです」
それでもティマロが納得していない様子であったので、俺はさらに言葉を重ねた。
「あと、ジェノス城に滞在しているダッドレウスたちはダイアの料理に食べなれてきた頃合いだったでしょうし、ダイアはヴァルカスと別の意味で独自性が強いですからね。森辺の料理から受けた影響よりも、ダイア独自の魅力や個性が際立つのではないかと考えて、候補から外した次第です」
「……ふむ。つまりはダイア殿に、ヴァルカス殿以上の独自性や個性を見出したということですな。そういうことなら、納得できなくもありません」
そう言って、ティマロもようやく矛先を収めてくれた。
俺がほっと息をついていると、レイリスが楽しげな声をあげる。
「これが、料理人の鍔迫り合いというものなのでしょうか。やはり料理人の方々は、剣士が剣技を磨くような心持ちで料理の腕を磨いておられるのですね」
「ええ、まあ、真剣に取り組んでいるという気持ちは、誰にも負けていないつもりです」
やはり普段と異なる顔ぶれであるためか、普段と異なる方向に話が転んでいくようである。
しかしそれも今の俺にとっては、輝ける世界を華やかに彩る大切な要素であったのだった。




