送別の祝宴①~再会~
2025.11/3 更新分 1/1
・今回の更新は全9話です。
その日――俺が目を覚ますと、目の前にアイ=ファの寝顔が待ち受けていた。
ここ最近は、俺が先に目を覚ますことが多いようだ。まぶたを開くなり愛しいアイ=ファの寝顔を目にできるというのは、俺にとって至福のひとときであった。
しかしまた、目を覚ますなり優しい眼差しで俺の寝顔を見守っていたアイ=ファと微笑みを交わすというのも、同じぐらい幸せな心地である。
よって、何がどう転ぼうとも、アイ=ファとともに寝起きしている限りは幸福であるということだ。俺はその当たり前の幸福をあらためて噛みしめながら、もともとアイ=ファの手を握っていた指先に力を込めることにした。
そのささやかな合図でもって、アイ=ファもゆっくりとまぶたを開く。
ちょっとぼんやりとしていた青い瞳にすぐさま星のごとき輝きが宿されて、その唇は花開くようにほころぶ。そして、そのやわらかそうな唇がやわらかい言葉を発した。
「もう朝か……最近は、お前に先を越されてばかりだな」
「うん。アイ=ファの寝顔を拝見できるのは、役得だな」
「うつけもの……」と、アイ=ファはくすくすと笑う。
然るのちに、アイ=ファはすっと半身を起こした。とても寝起きのいいアイ=ファは、甘い微睡みの時間からすぐに脱してしまうのだ。
俺の手を離したアイ=ファは、端麗な顔にかかる金褐色の髪をかきあげる。
その左手の薬指にきらめく指輪の美しさに、俺の胸はどうしようもなく高鳴った。
「うむ。今日もよき天気であるようだな。では、早々に身支度を整えるぞ」
「了解したよ、家長殿」
俺も半身を起こすと薄手の毛布がめくれあがり、朝の冷気にさらされたサチが「なうう」と不満げな声をあげた。
そんなサチの背中をひと撫でしてから、俺は立ち上がる。
今日も俺の肉体には、力があふれかえっていた。
まあ、もとより俺は健康そのものの日々を送っていたが、ここ数日はちょっと持て余すぐらいの力感が五体に満ちている。それはもちろん、自分の正体を自覚したことと――そして、アイ=ファと婚儀を挙げることが決定したためであった。
本日は、青の月の二十七日。カイロス三世と対峙した晩餐会から、三日目となる。
そして、俺たちが婚儀を挙げるのは、二日後の二十九日に決定されていた。
二日後――俺たちは、ついに婚儀を挙げるのだ。
なんだか実感がわかないが、心の奥底にはふつふつと煮えたつ熱情が知覚できる。しかし、そのようなものが噴出してしまったら平穏に日常生活を送ることもままならなくなりそうであったため、俺はなるべく自分を刺激しないように日々を過ごしていた。
「それじゃあ、俺も着替えてくるよ」
アイ=ファと猫たちを寝所に残して、俺は隣の物置部屋へと移動する。朝の着替えは、いつもそちらで行うのが通例になっていた。
そしてそちらの壁には、白い調理着と狩人の衣が掛けられている。
俺が故郷たる日本から持ち込んだ調理着と、アイ=ファが以前に使用していた狩人の衣が二枚だ。その一枚はアイ=ファが幼き時代に纏っていたかりそめの品で、もう一枚はフォウの人々から贈られた品であった。
フォウの人々から贈られた品は、無残に焼け焦げてしまっている。
ガーデルにさらわれた俺を火の海から救い出すために、この狩人の衣が犠牲になったのだ。しかしもちろんサリス・ラン=フォウたちから贈られた思い出の品が廃棄されることはなく、こうして壁に掛けられているわけであった。
その毛が焼け落ちてしまったマントにそっと手の平を当ててから、俺は隣の調理着に視線を移す。
胸もとに《つるみ屋》という刺繍が入った、真っ白の調理着だ。その内側にはズボンと前掛けと着古したTシャツも収納されており、足もとにはすりきれたデッキシューズが並べられていた。
現代日本から大陸アムスホルンに連れ込まれた俺は、身につけていた品もすべて持ち込むことになったのだ。
広間で保管されている革の鞄には、親父の三徳包丁も仕舞い込まれている。しかし、最後に見た悪夢の内容を信じるならば、あちらの世界にも同じ三徳包丁が残されているはずであった。
俺は津留見明日太の模造品ではなく、神の見えざる手によって分断された津留見明日太の片割れであったのだ。
それを証明するすべはないし、また、証明する必要もないだろう。ただ、俺にとっては、それが真実となる。理屈で説明することはできないが、俺は夢の中でそのように確信していたのだった。
(それは全部、俺個人の問題だからな。俺自身が納得できれば十分ってことだ)
俺がそんな感慨に耽っていると、戸板を荒っぽく叩かれた。
「まだ身支度は終わらぬのか? 私は、早々にと言ったはずだぞ」
「ああ、ごめん。すぐに行くから、ギルルたちをよろしくな」
「まったく」というアイ=ファの声が、戸板の向こうから遠ざかっていく。
その愛しき存在を追いかけるべく、俺は大急ぎで着替えを済ませることにした。
◇
そうして朝の仕事を終えた後は、屋台の商売の下ごしらえである。
当番である女衆が集合すると、ファの家のかまど小屋にはいつも通りの熱気がわきかえった。
いや――その熱気も、ここ数日は上昇気味であろうか。
そうだとしたら、それはカイロス三世の一件が無事に終息したことと、あとはやっぱり俺とアイ=ファの婚儀が決定したためであろうと思われた。
「アスタたちが森辺で暮らすことが許されて、本当によかったです! しかもお二人の婚儀が決まるだなんて、二重の喜びですよね!」
レイ=マトゥアなどは、今もなおそんな言葉を口にして喜びをあらわにしていた。
すると、周囲の面々にも喜びの思いが伝播して、いっそうの熱気があふれかえる。俺としては気恥ずかしい思いもなくはなかったが、しかし、それを上回る幸福感に身をひたすことができた。
俺たちが婚儀を挙げる件は、すでにあらゆる人々に伝えられている。
婚儀の祝宴には他なる氏族の助力が不可欠であったため、早急に連絡を回す必要があったのだ。それでこのお祭り気分が形成されたわけであった。
「わたしも本当に、楽しみでなりません。当日には一滴余さず力を振るいますので、どうぞ期待していてくださいね」
ユン=スドラもまた、笑顔でそんな風に言ってくれた。
「ありがとう。これも、ユン=スドラのおかげだよ」
俺がこっそりそのように伝えると、ユン=スドラは不思議そうに小首を傾げた。
「わたしのおかげとは、どういうことでしょう? わたしはべつだん、特別な役目は果たしていないかと思いますが」
「いや。西の王の一件で、俺が自分の決断をみんなに伝えたとき、真っ先に賛成してくれたのはユン=スドラだろう? たぶん、俺とつきあいの深いユン=スドラが迷うことなく賛成してくれたから、他のみんなもすぐに気持ちを固めることができたんじゃないかと思うんだよ」
すると何故だか、ユン=スドラは顔を赤くしてしまった。
「そ、そういうことでしたら、何もほめられたものではありません。わたしは、その……ひとり、よこしまな思いを抱いていましたので……」
「よこしまな思い? ユン=スドラには、ありえない言葉だね。どうしてそんなことを言うんだい?」
「そ、それはその……も、もしも西の王がアスタの返答に満足せず、西の王都に連れ去ってしまうようだったら……わ、わたしもアスタの弟子として同行させていただこうかと……そんなたくらみを、胸に抱いていたのです」
俺が呆気に取られると、ユン=スドラはますます真っ赤になった。
「で、ですから、わたしは他のみんなのようにアスタとお別れする覚悟を固めていたわけではないのです。むしろ、わたしこそが一番の不心得者であったというわけです」
「いや……それならユン=スドラは、家族とお別れする覚悟を固めていたっていうことだよね。それはそれで、ものすごいことだよ」
俺はユン=スドラに、心からの笑顔を届けた。
「俺のためにそこまで思い詰めてくれて、ありがとう。でも、ユン=スドラをそんな目にあわせずに済んで、本当によかったよ」
「は、はい。わたしも心から、安堵しています。アスタとともに森辺で生きていければ、それが一番ですので」
そう言って、ユン=スドラも幸せそうに笑ってくれた。
そんなタイミングで、戸板の外から「アスタよ」と呼びかけられたため、ユン=スドラは跳び上がってしまった。
「少し早いが、私は森に出る。そちらも、油断なきようにな」
「え? もう出発するのか? 少しどころの話じゃないじゃないか」
ちょうど手が空いていたため、俺はおっとり刀でかまど小屋の出口に向かう。そちらには、アイ=ファばかりでなくフォウの血族の狩人が十名ばかりも集結していた。
「細かな話を伝えるには、ギバが目覚める前のほうが都合がいいのだ。子犬たちは小屋に戻しておいたので、出立する際には戸締りを入念にな」
そのように語るアイ=ファは、きわめて凛々しい面持ちである。
アイ=ファは俺と婚儀を挙げる決断を下したが、懐妊するまでは狩人の仕事を果たそうという心意気であるのだ。しかしまた、いつ身を引くことになっても問題が生じないように、今の内からフォウの血族に狩り場を受け渡す計画を進めていたのだった。
「ファの家に男児が生まれたとしても、見習いの狩人になるまで十三年はかかるのだからな。それまでは、俺たちがファの狩り場を守っておくぞ」
「うむ。そして、ファの見習い狩人に手ほどきするのも、俺たちの役割ということだ。何としてでも、それまで生き永らえたいものだな」
バードゥ=フォウを筆頭に、狩人たちはとても力強い笑みをたたえている。
そんな人々に、俺は精一杯の思いで頭を下げた。
「みなさんのご厚意には、本当に感謝しています。色々とお手数をおかけしますが、どうぞよろしくお願いします」
「ふふ。きっと数多くの氏族が、俺たちを羨んでいることだろう。ファの血族のように振る舞うことができて、俺も心から誇らしく思っているぞ」
バードゥ=フォウの温かな眼差しが、俺の心を深く満たしてくれた。
そしてその他にも、ライエルファム=スドラやジョウ=ランたちが同じ眼差しで俺たちを見守ってくれている。こんなにも頼もしい人々が支えてくれるからこそ、俺とアイ=ファも憂いなく婚儀を挙げることができるのだった。
「では、出立しよう。くどいようだが、そちらも油断なきようにな」
「うん。そっちも、気をつけて。……あ、あと、夜のことも忘れてないよな?」
「忘れるものか。屋台の商売が終わる頃には、合流する」
最後にほんの一瞬だけ優しい眼差しを覗かせつつ、アイ=ファは颯爽と身をひるがえした。
今日の夜――俺たちは、城下町の祝宴に参席するのだ。
それは、外交官としての役目を終えたフェルメスおよびジェムドを見送る、送別の祝宴に他ならなかった。
「フェルメスとも、ついにお別れなのですね。わたしはそれほどご縁を結ぶ機会もありませんでしたが……やっぱり、物寂しい心地です」
俺がかまど小屋に引っ込むと、ダゴラの女衆がそのように告げてきた。それほど目立つ存在ではないが、古きの時代から屋台の商売を支えてくれている古株のひとりである。
「うん。俺も寂しいよ。これまでは慌ただしい日が続いていて、なかなか実感を持てなかったからね」
「はい。フェルメスは数多くの幸いをジェノスと森辺にもたらしてくださいました。たとえこのさき、二度と相まみえることがなかったとしても……わたしは魂を返すまで、フェルメスの名を忘れることはないでしょう」
フェルメスと特別な関係を持っていない彼女にまでそんな風に言ってもらえるのは、俺にとっても大きな喜びであった。
俺などは、本当にさまざまな場面でフェルメスに助けられている。だから今日は、精一杯の思いで彼らを見送るつもりであった。
(……それで、カイロス三世とアローンも、これで王都に帰るわけだな)
彼らはわずか七日間で、ジェノスを離れることになる。まあ、王たるカイロス三世は、早急に帰る必要があるのだろう。そもそも王たる身で往復二ヶ月もかかる場所までお忍びで遠征するというほうが、規格外の話であるはずであった。
ちなみにカイロス三世には、俺の身を見舞った異変についても報告している。
それはすなわち、俺が星を授かったというアリシュナの言葉である。それが真実であるならば、俺は『星無き民』でなくなる可能性もあるはずなので、隠したままにはしておけないという心情であったのだ。
それで俺は晩餐会の夜、カイロス三世と別れるなり、マルスタインを通してその事実を伝えてもらうことにした。
しかしその返答は、「関係ない」のひと言であった。すでに俺の存在は三年以上にわたって衆目にさらされていたため、もう手遅れということであるのだろう。どれだけの占星師が俺のことを『星無き民』と見なしているかは、俺自身にも把握しきれていないのだった。
そんな俺が――『星無き民』などというあやしげな存在が王宮で力を振るうことは許さないというのが、カイロス三世の揺るぎない決断なのである。
あの怒れる獅子のごとき眼光を思い出せば、それがどれだけ確固たる思いであるかは想像できる。カイロス三世のまじない嫌いは、そこまでの域に達していたのだった。
(おかげで俺は森辺で暮らすことを許されたんだから、感謝しなくちゃな)
きっと祝宴ではカイロス三世と言葉を交わす機会もなかろうが、俺はそちらもめいっぱいの思いで見送ろうという所存であった。
◇
「ああ、アスタ。どうも、お疲れさまです」
下ごしらえを終えた俺たちが宿場町に向かい、まずは《キミュスの尻尾亭》にお邪魔すると、そちらではテリア=マスに出迎えられた。
「いよいよ婚儀まで、あと二日ですね。わたしも楽しみでなりません」
テリア=マスはとてもやわらかな笑顔で、そんな風に言ってくれた。
ラウ=レイたちと同じように、俺たちの婚儀も宿場町の広場で披露されることになったのだ。俺は頭をかきながら、「ありがとうございます」と答えた。
「いざ自分の順番が巡ってくると、落ち着かないものですね。これなら、料理を準備するほうが何倍も気楽です」
「ふふ。でもきっと当日には、幸福な思いで胸を満たされるはずですよ」
すでに婚儀を挙げているテリア=マスの言葉は、実感と説得力にあふれかえっている。俺は腹の奥底で熱情が蠢くのを感じながら、「そうでしょうね」と笑顔を返した。
「いやぁ、俺も感慨深いよ。まあ、アスタたちは婚儀を挙げるのが遅すぎたぐらいだけどさ」
屋台を借り受けたのちは、露店区域を目指す道中でレビが笑いかけてきた。
「まあ、宿場町で披露してくれるのは何よりだ。俺たちも、どっさりらーめんを準備しておくよ」
「うん、ありがとう。どんなに胸が詰まっても、レビたちのラーメンだけはいただきたいな」
その日はおおよそ、レイの婚儀と同じような形で段取りが進められている。わずか十日足らずで自分がラウ=レイたちを見習うことになろうなどとは、想像が及ぶわけもなかった。
「でもさ、俺らは宿場町で祝えるからいいとして、夜の祝宴は大変なんじゃないか? アスタとアイ=ファが婚儀を挙げるなんて言ったら、森辺中の人らがお祝いに駆けつけたいって大騒ぎだろ」
「森辺中っていうのは言い過ぎだけど、招待客を選ぶのはひと苦労だね。だけどまあ、その辺りの苦労はユン=スドラとレイナ=ルウが肩代わりしてくれたんだよ」
大まかなプランはそちらの両名が立案し、形になったところで俺とアイ=ファの了承をいただくというシステムである。すでに八割がた決定している内容には、どこにも不備は見当たらなかった。
そして今ごろはファの家において、その下準備が進められているはずだ。
なるべく数多くの招待客を迎えられるように、広場の拡張作業が開始されたのである。それは、ファの広場に共有のかまど小屋を建てようという計画が前倒しで実行されたという顛末であった。
とにかく現在は樹木を伐採しまくって、広場を拡張する。そして、伐り倒した樹木は保管して、おいおい共有のかまど小屋が建てられるのだ。家長会議で決定されたその話がこのような形で着手されるなどとは、これまた想像の及ぶものではなかった。
「あと、アスタもずいぶんマシな見てくれになってきたのは、幸いだったよな。包帯まみれの花婿じゃあ、お祝い気分も台無しだろうからよ」
と、レビはさらに言葉を重ねてくる。俺が全身に負った火傷もすいぶん落ち着いてきたので、ついに今日からは両腕の包帯を外したのだ。胴体の包帯は昨日の内に外していたので、残されたのは両足のみであった。
「本当に楽しみなこってすねぇ。お祝いごとがこんなに続くなんざ、めでてえこってすよ」
杖をついてひょこひょこと歩くラーズも、くしゃくしゃの笑顔でそんな風に言ってくれた。
「ラウ=レイたちの婚儀から、まだ十日も経ってないんですもんね。なんだかちょっと、信じられないぐらいです」
「その間に、アスタの旦那はいっぺん死にかけてるんですからねぇ。本当に、大事に至らなくて何よりでさあ」
「まったくな。それで今日はまた城下町だし、本当に慌ただしいこったよ」
そんな言葉を交わしている間に、所定のスペースに到着した。
するとすぐさま、建築屋の面々が寄り集まってくる。今日は開店前から待ち受けていたのだ。
「よう、アスタ! 仕事の都合はついたからな! 婚儀の日は、俺たちも最初から最後まで居座らせていただくよ!」
「あ、本当ですか? 俺たちのために、わざわざすみません」
「こっちが好きでやってることさ! ヤミル=レイたちのときは途中で抜け出すことになって、物足りなかったからよ!」
「そうとも! アスタたちが婚儀を挙げるってんなら、呑気に屋根にのぼってられるもんかい!」
メイトンを始めとする面々が、陽気な笑い声をほとばしらせる。
するとそれを押しのけて、仏頂面のおやっさんが進み出てきた。
「おかげさんで、帰国の日が一日のびてしまったわ。俺たちは、月が明けて二日目に出立するからな」
「え? そうなのですか? でもそれじゃあ、宿賃がかさんでしまうでしょう?」
「ふん。高い祝儀になってしまったが、こればかりはしかたなかろうさ」
仏頂面のまま、おやっさんは温かな眼差しで俺を見つめる。
俺は胸を詰まらせながら、「ありがとうございます」と笑顔を返した。
「せめてものお返しに、出立の前日には腕を振るいますからね。どうか期待していてください」
「そんな話は、婚儀の後だ。気を張りすぎて、おかしな失敗をするのではないぞ」
すると、アルダスが笑いながら「大丈夫だろ」と割り込んできた。
「アスタはもともと頼もしかったけど、この数日でずいぶん見違えたからな。立派に婚儀をつとめあげるだろうさ」
「はい。俺なりに、力を尽くそうと思います」
そうしておやっさんたちが身を引いた後も、俺はさまざまな感情に胸をかき乱されながら屋台の準備を進めることになった。
(おやっさんたちがジェノスにいる間に婚儀を挙げることができて、本当にラッキーだったなぁ)
そして現在は《銀の壺》に、ついでにデルスやワッズもジェノスに滞在中であったのだ。それらの面々は月が明けてすぐに出立する予定であったため、本当にぎりぎりのタイミングであったのだった。
(《銀の壺》が出立ってなったら、シュミラル=リリンも一緒だもんな。シュミラル=リリンにもお祝いしてもらえるのは、本当に嬉しいなぁ)
そうして俺は大きな喜びにひたりながら、屋台の商売を開始した。
屋台は、本日も盛況だ。これでもう十日以上は連続で営業していることになるが、客足が落ちた様子はない。これもユン=スドラとレイナ=ルウの立案で、屋台はこのまま俺たちの婚儀の日まで営業を続ける予定であった。
(《銀の壺》と建築屋が同時期に出立するとなると、また連続で送別の祝宴だもんな。きっと《銀の壺》はルウの血族、建築屋はファと近在の氏族で面倒を見ることになるだろうから……上手い具合に、役割を分担しないとな)
時にはそんな話にも思考を飛ばしつつ、俺は屋台の商売に励んだ。
そうして朝一番のラッシュを終えた頃、ちょっと仰々しい一団が街道の北側からやってくる。それはジェノスの城下町の衛兵の一団であった。
人数は十名ていどであったが、それでも城下町の衛兵が宿場町にやってくるのは有事の際のみである。
それで往来の人々がうろんげに見守っていると、衛兵のひとりが屋台の裏側に回り込んできた。
「失礼いたします。アスタ殿とルウ家の代表者の御方にお伝えしたき話がございます」
本日、レイナ=ルウは城下町の屋台の当番であり、こちらの取り仕切り役はララ=ルウであった。
俺が声をかけるより早く、ララ=ルウは小走りで近づいてくる。その海のように青い瞳が鋭い光をたたえて、衛兵の姿を見据えた。
「どうしたの? まさか、また何か厄介事じゃないだろうね?」
「はい。実は本日、ガーデルおよび配下の無法者たちを裁く審問が終了したのです」
その言葉に、俺はたちまち緊迫することになった。
「そ、それで、どういう判決が下ったのですか?」
「全員が、五年の苦役の刑となりました。これから宿場町の広場にて布告が始められますので、それまでは他言無用にてお願いいたします」
衛兵は恭しく一礼して、遠ざかる仲間たちを追いかけていく。
そしてこちらでは、ララ=ルウが小さく息をついた。
「五年の苦役の刑か……ズーロ=スンが十年って考えると、軽いか重いかもわかんないけど……まあ、軽すぎるってことはないんだろうね」
「……うん。死者を出してないことを考えると、軽くはないように思うよ。やっぱり真昼間の城下町の門前で騒ぎを起こすっていうのは、重罪なんだろうね」
「それで、アスタをさらって殺めようとしたんだもんね。それは死罪より重い罪だって、世間に知らしめられるってことか」
そう言って、ララ=ルウは力強い笑みを浮かべた。
「うん。あたしは、納得した。あとは、ガーデルが生きて戻ってくるかだね」
「ああ。俺は、戻ってくることを祈っているよ」
「ジバ婆も、そう言ってたよ。ジバ婆も、ガーデルのことをずっと気にしてたからね」
そんな言葉を残して、ララ=ルウは自分の屋台に戻っていく。
俺は自分の頬を両手でぴしゃぴしゃと叩いてから、それにならった。
「お待たせしました。話の内容は、後でお伝えしますね」
「はい。必要であれば、お願いいたします」
そのように答えたのは、今日の相方であるフェイ・ベイム=ナハムだ。本日も、彼女は落ち着き払った立ち居振る舞いで屋台の商売に取り組んでいた。
以前の彼女はずっと不愛想な仏頂面であったが、その誠実にして厳格な人柄はそのままに、態度や表情はやわらかくなっている。そして、いまだ懐妊していないながら、母のごとき風格であるのだ。彼女はユン=スドラやラッツの女衆と並んで、いまや屋台の商売の精神的支柱であった。
(婚儀を挙げると、女衆は印象が変わるよな。アイ=ファは、どんな風に変わるんだろう)
そんな思いにとらわれかけた俺は、慌てて仕事に集中した。ともすれば、さまざまな事柄から婚儀の話を連想してしまうのだ。無事に婚儀の日を迎えられるように、俺は自分を律さなければならなかった。
それからほどなくして、今度は中天のラッシュが開始される。
その際にも、お客としてやってきたベンやカーゴが「もうすぐだな!」と笑いかけてくる。ゆっくり語らういとまはないので、俺は「はい」と笑顔を返すしかなかった。
「やあ、アスタ。ちょっとひさびさになってしまったね」
そんなのんびりとした声に呼びかけられたのは、中天のラッシュを終えてすぐのことである。
その声だけで正体を悟った俺は、たちまち大きな喜びに見舞われることになった。
「カミュア! お戻りになったんですね! おかえりなさい!」
「うん。ずいぶん熱烈な歓迎だねぇ。何か俺に用事でもあったのかな?」
カミュア=ヨシュは金褐色の無精髭が浮いた顔で、のんびりと笑っている。そのかたわらには、レイトとザッシュマの姿もあり――そこで俺は、「うわ」とのけぞった。
「ザ、ザッシュマはどうしたのです? ひどいお姿じゃないですか」
「まったくな。今回ばかりは、魂を返すかと思ったよ」
ぶすっとした顔でぼやくザッシュマは頭に灰色の包帯を巻いており、左腕を三角巾で吊っていた。
「《北の旋風》につきあってたら、生命がいくつあっても足りねえぜ。お前さんと一緒に仕事をするのは、これっきりにさせていただくからな」
「嫌だなぁ。ザッシュマの身が助かったのも、俺の機転があってこそじゃないか」
「そもそもお前さんとつるんでなければ、あんな連中と出くわすこともなかったんだよ。おい、レイト、本当に主人は選んだほうがいいぞ?」
レイトはいつも通りの内心の読めない面持ちで、「はい」と微笑みを返す。
そしてカミュア=ヨシュは、笑顔で俺に向きなおってきた。
「まあ、こっちも色々あったんだけどさ。アスタも安穏と暮らしていたわけではないようだね。なんだか、目の輝きが違っているし……それに、その首もとが赤くなっているのは、火傷の痕かな?」
「あ、はい。確かに、色々なことがありました。あと、カミュアたちにもご報告したいことがあって――」
「うんうん。ただその前に、こっちの話を片付けさせていただこうかな」
そう言って、カミュア=ヨシュはひょろひょろとした身体を斜めに傾ける。
その向こう側にたたずんでいたのは、三つの小さな人影である。そのひとりが纏った装束のけばけばしい色合いに網膜を刺激されながら、俺は驚嘆の声をあげることになった。
「ピノにチルにディア! どうしてみんなが、ジェノスに?」
「おひさしぶりだねェ、アスタ。アタシらは、たまたまカミュアの旦那たちと出くわしただけのことさァ」
「うむ。それでこっちまで荒事に巻き込まれて、実に迷惑だったぞ」
朱色の和服めいた装束を纏った童女ピノと、フードつきマントと襟巻で人相を隠したディアが、まずはそのように答える。
そして、ディアと同じように人相を隠しつつ、チル=リムは玉虫色のヴェールの向こう側で目を細めた。
「おひさしぶりです、アスタ。突然おしかけてしまって、申し訳ありません」
「い、いや。チルたちに会えて、俺は嬉しいよ。でも、どうして復活祭でもないのに、ジェノスに来たのかな?」
「アタシらは、ジャガルに向かおうとしてるだけさァ」
と、ピノが率先して疑問に答えた。
三つ編みにしたぬばたまの髪を足もとにまで垂らした、日本人形のように美しい童女である。真っ直ぐ切りそろえた前髪の下に輝く切れ長の目も、真っ赤な紅をさした唇も、ぬけるような白い肌も――そして、十歳ぐらいにしか見えない外見に不似合いな風格と迫力も、以前に見た通りであった。
「ただ、ジェノスを素通りするってェのも愛想がないから、数日ばかりは腰を据えようかと思ってたんだけどねェ。道中であれこれ不穏な噂を耳にしたから、どうしたもんかと思ってさァ」
「はい? 不穏な噂ですか?」
「あァ。西の王都の一団だの、竜神の民の一団だのが、ジェノスを目指してるって小耳にはさんだんだよォ。ま、その片方はカミュアの旦那から聞いたんだけどねェ」
「そうそう。新しい外交官は、もうジェノスに到着したのかな? あと、竜神の民の噂は本当なのかい?」
と、カミュア=ヨシュも興味深そうに細長い首をのばしてくる。
それで俺は思わぬ再会に心をかき乱されながら、いったい何から説明したものかとさんざん思い悩むことに相成ったのだった。




