エピローグ ~紅蓮の終焉~
2025.10/22 更新分 1/1
・今回の更新はここまでです。
・当作は、次章が最終章となります。最後までお楽しみいただけたら幸いです。
俺は泣き顔の玲奈をその場に残して、炎の海に飛び込んだ。
俺の生家である《つるみ屋》を燃やし尽くそうとする、業火である。
そして、俺の胸にも怒りの炎が燃えあがっていた。
あいつらは――《つるみ屋》に立ち退きを迫っていた連中は、ついにここまでのことをしでかしたのだ。
店のシャッターに落書きをしたり、何百回という無言電話をかけてきたり、店先に猫の屍骸を放り捨てたり――それでも俺たちが立ち退きの申し出を突っぱねたために、ついには親父を軽トラックで轢き、《つるみ屋》に放火をした。
こんな真似が、許されるわけがない。
だから俺は、炎の海に飛び込んだのだ。
親父が生命よりも大事にしている、『榊屋』の三徳包丁――あんな悪辣な連中に親父の大切な品まで奪わせてなるものかと、俺は冷静な判断力を失ってしまったのである。
店内は、すでに真紅と漆黒に染めあげられていた。
真紅は炎、漆黒は煙だ。俺が十七年間暮らしてきた《つるみ屋》の姿は、すべて真紅と漆黒の向こう側であった。
俺は調理着の袖で鼻と口もとを覆い、炎の奥深くへと踏み込んでいく。
すでに全身が焼けただれるような心地であったが、あきらめるわけにはいかなかった。
《つるみ屋》を再建するには、親父が必要だ。そして親父には、あの三徳包丁が必要であるのだ。全治数ヶ月の重傷を負って、《つるみ屋》を燃やされてしまった親父が、あの三徳包丁まで失ってしまったならば――今度こそ、立ち直れないほどのダメージを負ってしまう恐れがあるはずであった。
足の裏にも熱い痛みを感じながら、俺は厨房に駆け込んでいく。
そちらもすでに火の海であったが――ステンレス製である作業台の上に、鞘に収められた三徳包丁が無造作に転がされていた。
他の調理器具が収められていた棚は、すでに炎に包み込まれている。
親父のずぼらさが、三徳包丁を救ったのだ。俺は何だか泣きたいような心地で笑いながら、三徳包丁の柄をひっつかんだ。
その瞬間――凄まじい爆音とともに、炎の柱がたちのぼった。
おそらくは、ガス管が何かが破裂したのだ。
全身を炎に包まれた俺は、誰にも届かない絶叫をあげながら倒れ伏すことになった。
さらに爆風の影響からか、天井が焼け崩れた。
瓦礫の山が、倒れ伏した俺の全身に降り注いでくる。
五体を木っ端微塵に砕かれるような激痛に、俺は苦悶のうめき声を振り絞った。
いったい自分がどうなってしまったのか、把握することもできない。
視界は、漆黒に閉ざされていた。
これは黒煙であるのか、あるいは自分がまぶたを閉ざしているだけなのか――それすら、判然としなかった。
そうして俺が暗闇の中で、死にかけた獣ようにうめき声をあげていると――頭上に、真紅と黄金の炎が渦巻いた。
今度は、その炎が俺に襲いかかってくる。
俺の身は再び炎に包み込まれて、さきほど以上の激痛が走り抜けた。
だが――不思議と、熱くはない。
なんだか、生きながら全身を引き裂かれるような心地である。
そうして俺が、痛みのあまりに意識を失いかけたとき――俺の身を包んだ炎が、すうっと遠のいた。
そこで俺は、驚くべき光景を目の当たりにした。
俺の眼下で、俺が横たわっている。
顔や手の甲まで焼けただれた俺が、その手に三徳包丁を握りしめながら、瓦礫の山に押し潰されていた。
しかしどうやら瓦礫の内側には空洞もできているらしく、俺は辛うじて生きていた。
そして、決死の形相で頭上を――俺の姿を見上げている。
俺が、俺を見上げているのだ。
わけがわからなくなった俺は、大慌てで我が身を顧みた。
俺は真紅と黄金の炎に包み込まれた状態で、宙に浮いている。
しかしまったく熱くはないし、腕には火傷の痕もなく、調理着も真っ白なままであった。
そして、俺も三徳包丁を握りしめている。
俺が二人いて、三徳包丁も二本存在しているのだ。
その瞬間――俺は、いきなり理解した。
俺はこれから、大陸アムスホルンに連れていかれるのだ。
つまりこれは、夢であるのだ。俺はこれまでと異なる形で、同じ悪夢を見ているのだった。
あるいはこれこそが、悪夢の真の姿であったのだろうか。
生きながら全身を焼かれて、そののちに五体をバラバラに砕かれる――その痛みは、ついさきほど体感した。実際はああして生き永らえているが、俺にとってはどちらも死ぬような苦しみであったのだ。
これまでの悪夢において、俺はその苦しみを何度となく味わわされていた。
もしかしたら、それは――このありうべからざる光景が理解できずに、同じ場所で足踏みしていただけであるのかもしれなかった。
しかしまあ、本当のところはわからない。
今の俺を包み込んでいる紅蓮の炎は、火神セルヴァの指先であるのかもしれないが――人間に、神々の存在を正しく知覚することなどできるわけもないのだ。
だから俺にわかるのは、この先のことだけであった。
津留見明日太の中から引きずり出された俺は、これから大陸アムスホルンに――モルガの森の奥深くに放り出されるのだ。
そして俺は、アイ=ファに出会う。
そのように考えただけで、俺は涙をこぼしてしまいそうだった。
しかし、眼下の俺――津留見明日太は、決死の形相で手を差し伸べている。
そのひび割れた唇は、「返せ!」という形に動いているように思えた。
三徳包丁はそちらにも残されているのだから、それはきっと俺自身のことであるのだろう。
そんな風に考えた瞬間、俺の心にも凄まじい勢いで欠落感と寂寥感が吹き荒れて――それで俺も、すべてを理解することができた。
俺は、津留見明日太の模造品ではなかった。
俺は――俺たちは、どちらも津留見明日太であるのだ。俺たちは神の見えざる手によって、魂を真っ二つに寸断されてしまったのだった。
そうして魂の片方には新たな肉体が与えられて、これから異世界に放り出される。
それが、俺の役割であった。
俺はこれからアイ=ファと出会い、三年余りの時をともに過ごし――そして、西の王たるカイロス三世と邂逅したのち、アイ=ファと婚儀を挙げるのだ。
その先のことは、まだわからない。
そこからは、また自らの手で運命を切り開いていくのである。
(……俺は、大丈夫だよ。あっちの世界は、色々と勝手のわからない部分もあるけど……でも、毎日楽しくて、幸せなんだ)
もはや俺が手をのばしても、もうひとりの俺には届かない。
だから俺はめいっぱいの気持ちを込めて、もうひとりの俺に笑いかけた。
(だから、そっちも頑張ってくれ。いつか必ず、《つるみ屋》も再建できるから……親父と玲奈を、よろしく頼むよ)
俺の思いが、伝わったのかどうか――もうひとりの俺は、やがて力尽きたように突っ伏した。
その火傷でただれた顔は、泣き疲れた幼子のような表情をたたえている。
俺がそちらに手を振ると、炎に包まれた身がふわりと浮き上がった。
頭上を見上げると、そちらには白い輝きがあふれかえっている。その向こう側にアイ=ファが待っていることを、俺は知っていた。
そうして俺は、ファの家で目を覚まし――この日を境に、二度と悪夢を見ることはなくなったのだった。




