運命の日⑥~生誕~
2025.10/21 更新分 1/1
俺とアイ=ファは、晩餐会の会場から別室に移されることになった。
今回は、森辺の同胞も同行していない。また、マルスタインやフェルメスの同席も無用と言い渡されていた。俺とアイ=ファは二人きりで、カイロス三世と対峙するのである。
城下町の準礼装を纏ったアイ=ファは、貴婦人のごとき足取りで赤煉瓦の回廊を歩いている。これから俺たちの運命が決するというのに、その横顔は静謐そのものであった。
「こちらに、どうぞ」
小姓の案内で、俺たちは頑丈そうな扉をくぐる。
すると、入ってすぐの場所に仮面の武官が控えており、すぐさま扉に掛け金を下ろした。
そこは八帖ていどのささやかな部屋で、装飾の類いもほとんど見受けられない。窓には立派な鎧戸が下ろされており、たくさんの燭台で室内が照らし出されていた。
「来たか。……そこに座するがよい」
部屋の中央に置かれた大きな卓の向こう側に、ダッドレウスとアローンと二名の武官が立ち並んでいる。そして、俺とアイ=ファがそちらに到着する前に、武官のひとりが兜と仮面に手をかけた。
その下から現れたのは、もしゃもしゃの髪と髭だ。
その前髪の隙間から、獅子のごとき眼光が覗いていた。
「其方たちも、楽にするがいい」
まずはカイロス三世が、どかりと椅子に座り込む。それからダッドレウスとアローンも腰を下ろし、そこで俺とアイ=ファも向かいの椅子まで到着した。
武官のひとりは背後の扉のそばに留まったままであり、もうひとりの武官はカイロス三世の斜め後方に控えている。俺とアイ=ファが着席すると、カイロス三世は偽物の髪と髭をむしり取った。
「さて。夜も更けてきたことであるし、このような問答は早々に切り上げたいところだな」
素顔をあらわにしたカイロス三世は、にやりと不敵に笑った。
俺の記憶にある通りの威圧感だ。外見におかしなところはないが、その獅子のごとき眼光だけで王の威厳を示すには十分であった。
しかし、アイ=ファの静謐な表情に変わりはない。
そんなアイ=ファの姿を見据えながら、カイロス三世は「ふふん」と鼻を鳴らした。
「そうして着飾ったならば、貴婦人さながらの美麗さであるが……しかし、迫力のほどには変わりがないな。さすがは女人の身で数々の勲章を授かった、名うての勇者といったところか」
アイ=ファは何も答えず、ただ目礼を返す。
カイロス三世は卓に頬杖をつき、目だけを動かして俺とアイ=ファの姿を見比べた。
「こうして見ると、実に似合いの二人ではないか。まあそれも、アスタが見違えたためであるがな。……其方はそのような本性を隠し持っていたのだな、アスタよ」
「はい。さきほども申し上げた通り、先日は悪夢の影響で調子を崩していました。あらためて、不甲斐ない姿をお見せしてしまって申し訳ありません」
「その分、今日は存分に其方の胆力を楽しむことができたぞ。これこそ、余が期待していた通りであったな」
「はい。期待ですか?」
「うむ。おそらくフェルメスは其方の存在を目立たせぬように言葉を選びながら報告書をしたためていたのであろうが、それでも其方の力というものはどうしようもなくあちこちの文面ににじんでいたからな」
そう言って、カイロス三世は獅子のごとき笑みをたたえた。
「よって、余もこの目で其方の存在を見定めたく思ったのだ。このたび、ようやく念願がかなったわけであるな」
「そうでしたか。……それで、俺の言い分には納得いただけたでしょうか?」
「うむ。実に賢しいことだ。其方はまるでフェルメスのように、弁舌が巧みであるようだな」
カイロス三世の眼光が、さらに強い輝きをたたえた。
「では、さっそく聞かせてもらおう。どうして其方は、余に判断をゆだねたのだ? 其方はあやしい出自を主張することにより、あえて余の不興を買おうと目論んでいたのであろう?」
「はい。それは、さきほど申し上げた通りです。ありがたい申し出をくださった王陛下に対してそのような真似をするのはあまりに不敬だと思い至り、取りやめた次第です」
「しかし、この地における暮らしを何よりも重んじている其方にとっては、ありがたいどころか迷惑なだけの話であろうが?」
「言葉を飾らずに言うのでしたら、その通りです。でも俺は、西方神の子として正しく生きていたかったので……王陛下を敵のように扱うことは許されないと考えました。ですから、自分の現状を正しくお伝えして、陛下にご判断を仰ぎたかったのです」
カイロス三世は、食い入るように俺の顔を見据えている。
やはり、間近から飢えた獅子と相対しているような圧迫感だ。だが俺は、精一杯の思いで見つめ返した。
「俺を召し抱えることで生じる利益と不利益は、過不足なくお伝えできたかと思います。何かご不明な点があれば、あらためて説明させていただきますが……如何なものでしょう?」
「ふん……其方は本当に、自分が聖人であるなどと信じておるのか?」
それは、難しい質問であった。
「それに関しては、自分でも消化しきれない部分が残されています。何せ自分は、一介の料理人にすぎませんので……さまざまな知識や技術で王国の基盤を築いたという聖人などと並べられるのは、恐縮の限りです」
「それでも、『星無き民』であるということは信じているわけであるか」
「信じているというよりは、受け入れたと言ったほうが正しいかもしれません。数々の事例が一致するために、そう考えざるを得なかったといったところでしょうか」
「なるほど」とつぶやきながら、カイロス三世は頬杖をやめて身を乗り出した。
「其方の目に、迷いはない。何はともあれ、自分が『星無き民』であると断じているわけであるな」
「はい。そして俺は『星無き民』であると同時に、西の民であり森辺の民です。自分の中で、それはまったく矛盾していません。それでようやく、自分の地盤を固めることができたのです」
「地盤、か……確かに、其方の心はしっかりと根を張っているようだ。つくづく、以前とは別人さながらであるな」
カイロス三世は身を引いたが、その眼光はますます強まった。
「それで其方は、森辺を離れる覚悟を固めたわけであるか」
「はい。それも先刻、申しあげた通りです。この地を離れるのは、断腸の思いですが……王宮で働くと決定したときは、力を惜しまないと約束します」
カイロス三世の左右で、ダッドレウスとアローンが無言のままに身じろいだ。
そしてカイロス三世は、「ふふん」と口の片端を持ち上げる。
「アスタよ。今の其方は、世界を食い破ろうとしているかのような目つきになっておるぞ。それで本当に、献身を期待できるのであろうかな?」
「はい。決して陛下のご期待を裏切るような真似はしません。俺がおかしな目つきをしているとしたら……こんな試練に屈してなるものかという、気合のあらわれです。俺は森辺のかまど番として、すべての力を振り絞るつもりです」
「……森辺の同胞と、これまでに絆を結んできたすべての人間のために、か」
「はい。俺が王都で名を馳せれば、きっと森辺やジェノスにも何らかの恩恵をもたらすことができるでしょう。たとえ居を移すことになっても、俺は故郷のために力を尽くしたいと願っています」
「では、余のためではなく故郷のためということか」
「はい。ですが、森辺もジェノスも西の領土です。ジェノスの繁栄は、西の王国の繁栄でしょう? それは何も矛盾していないと思います。俺はこれまでも、そうして故郷の範囲を広げてきたのです」
「ふむ? 故郷の範囲を広げるとは?」
「そもそも俺は、自分を拾ってくれたアイ=ファのために力を尽くしたいと願っていました。故郷も家族も失ってしまった俺にとっては、アイ=ファの存在だけが拠り所だったのです」
そのアイ=ファの存在をすぐ隣に感じながら、俺は言葉を重ねた。
「そうして日が過ぎる内に、俺はアイ=ファが属する森辺の民の幸せを願うことになり……次には、森辺の集落が属するジェノスの幸せを願うことになりました。だから今回は、ジェノスが属する西の王国の幸せを願いたいということです」
「……それはまた、ずいぶん大きく出たものだな」
「はい。でも別に、そうまで大仰な話ではありません。アイ=ファのために力を尽くせば森辺の同胞のためになり、森辺の同胞のために力を尽くせばジェノスのためになり……ジェノスのために力を尽くせばセルヴァのためになるだろうという、そんな感じです。だから俺はどうしても、自分の原動力の出発点であるアイ=ファだけは手放すことができないのです」
そこで俺は、初めてアイ=ファのほうを振り返った。
それに気づいたアイ=ファも、俺のほうに向きなおってくる。その青い瞳は静謐なままであったが、その奥にはアイ=ファらしい熱情が感じられた。
「アイ=ファが運命をともにしてくれると言ってくれなければ、俺も森辺を離れる覚悟を固めることはできなかったでしょう。でも、こうしてアイ=ファも覚悟を固めてくれたので、俺は大丈夫です。森辺を離れる苦しみは心の奥底に仕舞いこんで、王宮の料理番として力を尽くすとお約束します」
そうして俺がカイロス三世のほうを振り返ると、その獅子のごとき眼光がまぶたに隠されていた。
そうすると、カイロス三世はたちまち強烈な個性が消失する。端整な顔立ちをした、若き貴公子といったところだ。年齢のわりには風格もあるが、それも特筆するほどではなかった。
「……其方は、自分の存在が厄介ごとを招き寄せる恐れもあると申していたな」
「はい。出自が何であれ、俺が特異な力を持つ人間であることに違いはありませんので。よきにつけ悪しきにつけ、人の興味をひくことになり……その中に、邪な存在も含まれてしまうのでしょう」
「ふふん……邪神教団が其方をつけ狙うようであれば、こちらとしては願ってもないところだ。魔術文明の再興などというたわけた題目を掲げるあやつらは、マヒュドラやゼラドよりも早急に滅殺するべき存在であるからな」
まぶたを閉ざした平穏な顔で、カイロス三世は物騒な言葉を口にした。
「また、銀獅子宮の守りは完璧だ。どのような災厄も、我が銀獅子の軍が退けてくれよう」
「そうですか。でしたら――」
俺の言葉は、カイロス三世の「だが」という言葉にさえぎられる。
そしてカイロス三世はまぶたを開き、アイ=ファがぐっと身をたわめた。カイロス三世の双眸に、これまでとは比較にならないほどの獰猛な炎が渦巻いたのだ。
「ただ一点……『星無き民』などという胡乱な存在によって銀獅子宮が名を馳せるというのは、決して許すこともできまいな」
カイロス三世の口調は、何も変わっていない。
しかし、そうであるにも拘わらず、その声にはしたたるような憤激の思いがあふれかえっていた。
「余はその一点を、軽んじていたようだ。余の不明を正してくれたアスタには、感謝せねばなるまいな」
「そ、それはどういったお話でしょう?」
「占星師は、其方を『星無き民』と見なしている。三年余りもこの地で過ごしてきた其方は、数多くの占星師と巡りあっているはずだ。また、其方のおかしな出自に関しては、傀儡の劇によって広く知らしめられているため、それが占星師の関心を引くこともあろう。現にポワディーノ王子も、風聞だけを頼りにして其方を『星無き民』であると見なしたのであろうからな。つまり……其方が銀獅子宮で名を馳せれば、それは『星無き民』の力であるなどと喧伝する輩が現れかねないというわけだ」
そう言って、カイロス三世は白い歯を剥き出しにして笑う。
それもまた、飢えた獅子のごとき獰猛な笑みであった。
「喜べ、アスタよ。其方は正確に、余の急所を貫いたのだ。そのように胡乱な存在に、銀獅子宮を蹂躙させることはまかりならん。其方は銀獅子宮で力の限りを尽くすなどと申し述べていたが……そんな真似は、決して許されんのだ」
「……それをアスタに申しつけたのは、あなたであるはずだぞ?」
アイ=ファが静かな声で問い質すと、カイロス三世は「そうだとも」と両目をぎらつかせた。
「だから、こうして礼を言っているのだ。アスタが『星無き民』についてくどくどと言葉を重ねたために、ようやく余も自らの不明を知ることができたのだからな」
そうしてカイロス三世が勢いよく立ち上がったため、椅子がひっくり返って派手な音をたてた。
ダッドレウスとアローンは冷や汗をにじませながら、腰を浮かせかけている。彼らにとっても、これはカイロス三世の常ならぬ振る舞いであるようであった。
「アスタよ。其方を銀獅子宮に召し抱えたいという申し出は、全面的に撤回する。そしてこれは、国王たる余からの命令である。……其方は生命ある限り、王都アルグラッドに足を踏み入れることはまかりならん。この命令を破った折には、極刑に処されるものと心置け」
「わ、わかりました。では、これまで通り森辺で過ごすことを許していただけますか?」
俺の言葉に、カイロス三世は哄笑をあげた。
赤煉瓦の壁が揺らぎそうなほどの、圧力に満ちみちた笑い声である。ダッドレウスやアローンばかりでなく、斜め後方に控えていた仮面の武官までもが身を震わせていた。
「……其方は何か罪を犯したのか、アスタよ?」
やがて哄笑を収めたカイロス三世は、その余韻の漂う声で問うてくる。
俺は気力を振り絞って背筋をのばしながら、「いえ」と答えた。
「そうであろう。其方は占星師どもに『星無き民』と見なされているだけで、自ら標榜しているわけではない。しかしどうやらこの数日で、『星無き民』としての自覚が芽生えたようだな」
「……はい。それは、事実です」
「では、これは第二の命令だ。今後もこれまで通り、自らが『星無き民』であると名乗ることを禁ずる。其方の思いは、胸の奥深くに仕舞いこんでおくがいい」
そのように言い捨てるなり、カイロス三世は卓上の髪と髭の塊をわしづかみにする。そして、それを乱雑に装着すると、仮面と兜にも手をかけた。
「余が命じるのは、その二点となる。あとは、自由に生きるがいい。無論、王国の法が定める中でな」
「は、はい。西の民として正しく生きることを、誓います」
「ふん……そうして其方は、今後もジェノスを騒がせていくのであろうな」
兜と仮面を装着したカイロス三世は、つばの陰から俺を見下ろしてくる。
こちらが座っているために、仮面の奥に覗く目がわずかに見て取れたが――その茶色い瞳からは、すでに激情の炎が消え去っていた。
「できれば其方の暴れっぷりを、間近から眺めていたかったところだが……なかなか、ままならぬものだな。あとは其方がこの辺境の地において、西の王国にさらなる繁栄をもたらすことを期待するしかあるまい」
そう言って、カイロス三世はダッドレウスとアローンの姿を見比べた。
「話は終わった。さっさと引き上げるぞ」
「しょ、承知いたしました」
もはやカイロス三世は俺とアイ=ファの姿を顧みることなく、部屋の出口に向かっていく。ダッドレウスとアローン、二名の武官もそれに続き――あとには、俺とアイ=ファだけが残された。
「なんだよ、もう……てっきり罪人として処刑されるかと思ったじゃないか」
俺が椅子の上で脱力すると、アイ=ファはくすりと笑った。
「確かに王は、驚くべき迫力をみなぎらせていたな。剣の腕とは関係なく、あれほどの迫力を見せるというのは……まるで、お前のようだ」
「冗談がきついよ。俺があんな迫力を出せるわけがないだろう?」
「いや。つい最前まで、お前は王と変わらぬ迫力を見せていた。まるで、狼と獅子の対峙を見守っているような心地であったぞ」
そう言って、アイ=ファは優しく目を細めた。
「フェルメスとの対話で悪夢の恐怖から脱したお前は、それだけの力を身につけたのだ。そうであるからこそ、お前の覚悟と真情も王に伝わったのであろう」
「うん、まあ、とりあえず、俺の言い分に納得してもらえたみたいだな。最後の迫力だけが、ちょっと予想外だったけどさ」
「うむ。あるいは、王は……まじないの力というものを、強く恐れているのやもしれん。だからこそ、ああまで強く忌避しており……その恐怖に屈するまいと、力を振り絞っているのやもしれんな」
そんな風に言ってから、アイ=ファはやわらかく微笑んだ。
「ともあれ、王宮に召し抱えたいという申し出は取り下げられた。まずは、それを喜ぶべきであろう」
「うん。まだちょっと実感がわかないけど……これで明日からも、今まで通りに暮らしていけるんだな」
俺が心からの笑顔を返すと、アイ=ファの瞳に新たな輝きが揺らいだ。
それはとても優しい眼差しであったが――ただ、どこか普段と趣が違っていた。
「私たちは、明日からも森辺で生きていく。しかし……何もかも、これまで通りにする必要はあるまい」
「うん? それは、どういう意味だ?」
アイ=ファは椅子に座ったまま、身体ごと俺のほうに向きなおってきた。
「アスタよ。私はファの家長として、お前に氏を授けたく思う」
「え?」と、俺は目を丸くする。
それを見返すアイ=ファの瞳は、いっそうのきらめきをたたえ始めていた。
「その意味については、以前にも語らったはずだ。あれからずいぶん長きの時間が過ぎてしまったが……よもや、忘れたとは言わせんぞ」
「も、もちろん忘れたりはしてないよ。でも、どうして突然――」
「突然ではない。私は以前から、心を固めていたのだ。お前があの悪夢の恐怖を克服したならば……私も新たな道に足を踏み出そう、とな」
そう言って、アイ=ファはふわりと微笑んだ。
すべてを包み込むような、慈愛にあふれかえった笑顔だ。ようやくカイロス三世のプレッシャーから解放された俺の心臓は、倍する勢いで脈動することになった。
「だから私は迷うことなく、西の王都まで同行する覚悟を固めることがかなったのだ。森辺の友たちと遠く離れて暮らすのは、身を引き裂かれるような思いだが……お前とともにあることができれば、耐えることもできようからな」
アイ=ファの幸せそうな笑顔が、俺の心をぐいぐいと揺さぶる。
そしてその唇が、新たな言葉を紡ごうとした。
「アスタよ、どうか私と――」
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
俺は先刻のカイロス三世に負けない勢いで立ち上がった。
アイ=ファは驚いた様子もなく、ただ不思議そうに小首を傾げる。
「ご、ごめん。俺の故郷の流儀を持ち出すのは、申し訳ないけど……俺の故郷ではこういうとき、男のほうから告げるのが主流なんだ」
「そうか」と微笑みながら、アイ=ファもゆっくりと立ち上がる。
俺は衝動のままに片方の膝をつき、準礼装の懐をまさぐる。そして、内ポケットから物入の小袋を引っ張り出した。
その中に収められているのは、かつてアリシュナから預けられた厄災除けの護符と――《青き翼》のギーズから授かった、竜神の王国の指輪であった。
「ア、アイ=ファ。婚儀を挙げて、俺の伴侶になってくれないか?」
俺が水晶のようにきらめく指輪を差し出すと、アイ=ファはきょとんとした。
「……それが、お前の故郷の流儀であるのか?」
「う、うん。俺の故郷では婚儀を願い出るとき、指輪を捧げるんだよ」
「そうか」と微笑みながら、アイ=ファはしなやかな指先を差し出してきた。
「ファの家長アイ=ファは、家人アスタの申し出を受け入れる。そして、婚儀を挙げたあかつきには、アスタにファの氏を授けよう」
「ありがとう」という言葉を振り絞りながら、俺はアイ=ファの手を取る。ただし、差し出された右手ではなく、自然に垂らされていた左手だ。
俺の指先はどうしようもなく震えてしまったが、なんとか薬指に指輪をはめることができた。
玉虫色にきらめく、不思議な金属の指輪である。俺が震える膝を励ましながら身を起こすと、アイ=ファはやわらかな眼差しで俺の顔と左手の薬指を見比べた。
「お前はいつの間に、このようなものを準備していたのだ?」
「う、うん。それは以前に、ギーズからもらったんだよ。いつかアイ=ファに贈ってあげればいい、ってさ」
「ふむ。それをこのような場まで、持ち歩いていたのか?」
「あ、ああ。アリシュナから預かった護符は、なるべく身につけておこうと心がけていたからさ。それで、指輪も一緒に仕舞っておいたんだ」
「そうか。その心がけが、実を結んだというわけだな」
そう言って、アイ=ファはまた微笑んだ。
その青い瞳は、まるで涙に濡れているかのように光り輝いている。そして、そこに渦巻く美しい輝きが、俺の心を千々に乱した。
「……ようやくアスタの想いに応えられることを、心より得難く思う」
「お、俺もだよ。なんだか、夢でも見てるみたいだ」
「夢ではないぞ。私たちは魂を返すまで、ともにあり続けるのだ。……まあ、婚儀を挙げずとも、その一点に変わりはないのだがな」
アイ=ファの瞳は、一心に俺を見つめている。
その眼差しに導かれるようにして、俺はアイ=ファの両肩に手を置いた。
手の平から、アイ=ファの温もりが伝わってくる。
アイ=ファの心臓も、俺と同じぐらい高鳴っているのだろうか。
婚儀を挙げるのはこれからであるのだから、こうして身に触れることはつつしむべきであるのだろう。
だけど俺は、どうしてもこの温もりを手放すつもりになれなかったし――アイ=ファもまた、それを咎めようとはしなかった。
「アスタ……」と、アイ=ファが小さな声で俺を呼ぶ。
その桜色をした唇が、俺の理性を脅かした。
そうして俺が、衝動のままにアイ=ファの身を引き寄せようとしたとき――
「アイ=ファー! アスター! もうお話は終わったんでしょー? みんな、二人のことを待ってるよー!」
扉の向こうからそんな声が響きわたり、俺は口から心臓が飛び出しそうだった。
アイ=ファはくすくすと笑いながら、扉のほうに向きなおる。
「リミ=ルウ、わざわざ迎えに来てくれたのか?」
「うん! だって二人が、なかなか戻ってこないんだもん! 入ってもいいかなー?」
アイ=ファは笑いを含んだ目で、俺を見つめてくる。
俺は大慌てで、アイ=ファの肩から手を離すことになった。
「かまわんぞ。しかし、こちらが部屋を出るべきではなかろうか?」
「ううん! ちょっとねー、ジジョーがあるんだよー!」
そんな元気な声とともに、扉が大きく開かれた。
まだ侍女のお仕着せの姿であるリミ=ルウが、「わーい!」と部屋に飛び込んでくる。そして、森辺の装束を纏ったルド=ルウとクルア=スンともう一名、フードつきマントで人相を隠した女性も踏み込んできた。
「あれ? もしかして、アリシュナですか?」
「おー。どうしてもアスタが心配で、こっそり様子を見に来たんだとよー。王都の連中に見つからねーように、俺たちが世話を焼いてやったんだ」
ルド=ルウののんびりとした声が、躍動する俺の心臓を少しばかりなだめてくれた。
そしてリミ=ルウは、アイ=ファの胴体を抱きすくめている。その赤茶けた髪を優しく撫でながら、アイ=ファもアリシュナのほうを見た。
「それはわざわざ、足労だったな。とりあえず、王の申し出は取り下げられることになったぞ」
「そうですか。アスタ、試練、乗り越えたのですね」
静謐な声音でつぶやきながら、アリシュナはフードを背中のほうにはねのける。
そして、夜の湖を思わせる黒い瞳が、何気なく俺を見て――その切れ長の目が、大きく見開かれた。
「ああ……」と、アリシュナはかすれた声をあげる。
そしてアリシュナは、その場にひざまずき――ぽろぽろと涙をこぼし始めた。
あのアリシュナが、泣いているのだ。
俺が愕然としている間に、アリシュナは東の言葉で何かをまくしたてた。
「ど、どうしたのですか、アリシュナ? いったい何を泣いているのです?」
アリシュナは大きく首を横に振り、さらに東の言葉をまくしたてる。
ルド=ルウは頭をかきながら、その姿を見下ろした。
「東の言葉じゃ、わかんねーよ。あんたがそんな取り乱すなんて、よっぽどのことだなー」
すると、アリシュナは子供のようにきゅっと唇を噛んだ。
もはや、静謐な無表情はどこにも残されていない。そして、その唇が震える声を絞り出した。
「アスタ……黒き深淵……その中央……かそけき光、瞬いています……」
「え? それは、どういう意味ですか?」
「新たな星、生まれました……赤子、生誕したかのように……」
そう言って、アリシュナは祈るように両手の指先を組み合わせる。
その目からは滂沱たる涙がこぼれ落ち、アリシュナは幼子のような顔で泣いてしまっていた。
「光、いまだ、微弱ですが……おそらく、黄の狼、爪です……アスタ、星、授かったのです……」
俺はその言葉が理解しきれずに、呆然と立ちすくんでしまう。
するとアイ=ファが、俺の胸もとに手をのばしてきた。
その指先が、俺の胸もとにそっと触れてくる。
そこに下げられているのは、かつてアイ=ファから贈られた首飾り――黒い石と、黄色い石だった。




