運命の日①~下準備~
2025.10/16 更新分 1/1
翌日――青の月の二十四日である。
その日は俺の今後を大きく左右する、運命的な日になるはずであった。
まずは晩餐会で料理を供して、そののちにカイロス三世の要望に答えを返す。俺を王宮の料理番として召し抱えたいという要望に、如何なる返答をするか――俺の心はすでに固まっていたが、それでカイロス三世やダッドレウスの理解を得られるかどうかは未知数であった。
それでも俺は相互理解を得られるように、力を尽くすしかない。
さまざまな人々に支えられながら、俺はこの運命の日に立ち向かう所存であった。
そしてその前に、まずは屋台の商売だ。
晩餐会の準備は商売の後に開始すると決めたので、それまではいつも通りに日常の仕事をこなす。ただし、復調した状態で朝一番からかまど仕事に励むのは、これが初めてのことであった。
三日前は悪夢の影響で無理やり気力を振り絞っていたし、二日前はさらに状況が悪化した。そして昨日はルウの集落まで事情を通達するために朝方の仕事を抜けて、下ごしらえにはほとんど参加できなかったのだ。
そうして、朝からいつも通りの仕事に励んでみると――やっぱり俺は、たまらなく幸福な心地であった。
フェルメスとの対話から一日半が経過して、俺の情緒はすっかり安定を取り戻していたものの、内なる熱情は増すいっぽうであったのだ。それは自分が津留見明日太の模造品であるという事実を受け入れて、親父と玲奈の幸せを祝福できる心境に至ったゆえの熱情であった。
俺はもう思い残すことなく、この地で生きていくことができる。
親父と玲奈は津留見明日太を失うことなく、幸せになることができたのだ。そして俺はもう二度とあの二人に会えない代わりに、ファの家のアスタとして幸せに生きていくことを許されたような心地であったのだった。
そのために、まずは今日という日を乗り越えなければならない。
俺はかまど小屋の熱気を鮮烈に味わわされながら、決して逸ることなく、自分の成すべき仕事を果たした。
そうして宿場町まで出向き、屋台の商売までやり遂げたならば、いざ城下町に出陣だ。
その頃には、晩餐会の参席者および護衛役の狩人も到着していた。
本日、参席者として招待されたのは、族長筋の六名および、厨を預かるファとディンの四名となる。カイロス三世はジェノスの貴族たちが森辺の民とどのようにして親睦を深めているかを確認したいなどと申し述べていたので、わりあいオーソドックスな編成に落ち着いていた。
そこで選出されたのは、ジザ=ルウとララ=ルウ、ゲオル=ザザとスフィラ=ザザ、ダリ=サウティとミル・フェイ=サウティ――そして、俺とアイ=ファ、トゥール=ディンとゼイ=ディンという顔ぶれである。女衆の束ね役であるミル・フェイ=サウティはなるべく集落に残すという方針であったが、ダリ=サウティも今日ばかりは出し惜しみをしないという考えであるようであった。
それとは別に、十名のかまど番と三名の狩人が同行する。
そちらは、レイナ=ルウ、リミ=ルウ、レイおよびルティムの女衆、ユン=スドラ、マルフィラ=ナハム、レイ=マトゥア、クルア=スン、ラッツおよびリッドの女衆、そして、ルド=ルウ、シン・ルウ=シン、ジーダという顔ぶれであった。
晩餐会のわりには、いくぶん人数がかさんでいるだろう。それは、晩餐会に参席するララ=ルウたちが貴族と語らうためにかまど仕事に参加しないのと、あとは本日の献立の内容が関わってのことであった。
(今日はちょっと入り組んだ内容だけど、この人数なら何とかなるはずだ)
そんな思いを胸に、俺は城下町を目指した。
まずは城門で、立派なトトス車に乗り換えであるが――そこで、ちょっとしたハプニングが待ちかまえていた。御者役である初老の武官が俺たちと相対するなり、痛恨の面持ちでひざまずいてしまったのである。
「お待ちしておりました、アスタ殿。先日はガーデルがあのような騒ぎを起こしてしまい……お詫びの言葉もございません」
「ど、どうしたんですか? ガーデルが何をしようと、あなたの責任ではないでしょう?」
俺は慌ててなだめたが、初老の武官は同じ面持ちのまま「いえ」と首を横に振った。
「あやつめが御者の仕事を果たしていた際、面倒を見ていたのは小官でございます。小官さえ、あやつを正しく導くことができていれば……」
「それはきっと、ガーデルに関わった人間の多くが抱えている思いなのであろうな」
そのように語りながら、アイ=ファは武官の正面に膝をついた。
「かくいう私も、そのひとりだ。我々は、それぞれ少しずつの責任を抱えているのであろう。しかし、今さら悔んでも時を巻き戻すことはかなわん。我々は同じ失敗を繰り返さないように、正しく心を持ち……そして、再びガーデルと相まみえる機会があれば、今度こそ正しい絆を紡げるように力を尽くすしかあるまい」
「は……」とうなずきながら、武官は目もとに涙をにじませた。
「まことにもって、仰る通りです……アスタ殿には申し訳ありませんが……小官は、ガーデルが生きて戻ることを祈っております」
「俺も同じ気持ちであるのですから、何も申し訳ないことはありませんよ。ガーデルが死罪にならないように、祈りましょう」
俺もアイ=ファの隣から笑顔を届けると、初老の武官はようやく涙を打ち払って立ち上がった。
「このような折に時間を取らせてしまい、申し訳ありませんでした。それでは本日も、小官の使命を全うさせていただきますぞ」
俺とアイ=ファも身を起こし、トトス車の客席に乗り込んだ。
そして俺は、感慨を噛みしめる。肩の古傷が悪化するまで、ガーデルは御者役として手綱を預かってくれていたのだ。あの頃は、ガーデルが働けるぐらい復調したことを喜ばしく思っており――まさか、このような行く末を迎えるなどとは夢にも思っていなかった。
(アイ=ファの言う通り、俺たちは誰もガーデルのことを理解しきれていなかったんだ。あのぼんやりとした姿の内側に、あんな大きな闇を隠し持っていたなんて……誰だって想像できなかったんだろう)
しかしガーデルは、その闇を自ら世界に解き放った。あとは俺たちが、それをどう受け止めるかと――ガーデル自身がどう受け止めるかである。
今ごろガーデルは、牢獄で裁きの時を待っているはずだ。その胸に渦巻くのは後悔の思いか、あるいはまったく異なる思いであるのか。ガーデルがいつか生きて戻ってくれば、俺たちもそれを知ることができるはずであった。
「アスタ殿、待っていたぞ」
やがてトトス車が目的の地に到着すると、そちらにも三人の人間が待ち受けていた。ガーデルのお目付け役であったバージと、見知らぬ二名の武官である。
「このたびは俺たちの力が及ばず、アスタ殿を危険な目にあわせてしまった。許してほしいなどと言えたものではないが……何もかも、俺たちの責任だ。すべての怒りは、俺たちに向けてもらいたい」
「いえいえ、とんでもありません。みなさんがご無事で、本当によかったです」
「うむ。かつては私を始めとする森辺の家長たちも、シムの眠りの毒草で不覚を取ることになったのだ。よもやガーデルがあのようなものを隠し持っているなどとは予想できまいから、あなたがたがおのれを責める必要はないぞ」
アイ=ファも一緒になって声をあげると、バージは何とも曖昧な顔つきでそちらを振り返った。
「アイ=ファ殿は、あれだけの罪を犯したガーデルのことを見捨てることなく、炎の海から助け出してくれたそうだな。……その温情に、心から感謝している」
「あれは、温情ではない。罪を犯したガーデルに、正しく罪を贖ってほしいと願ったまでだ。苦役の刑を科されれば、死よりも重い苦しみを負うのであろうしな」
「しかし人間、生きていればこそだ。あいつのようにしぶとければ、どのような苦しみでも乗り越えるだろうしな」
と、バージは本来のふてぶてしさを垣間見せて、にやりと笑った。
「何にせよ、アイ=ファ殿が怒っていないようで安心した。アスタ殿をこのような目にあわせた俺たちは、アイ=ファ殿にぶん殴られる覚悟であったのだ」
「それでアスタの回復が早まるのであれば、考えないこともないがな。あなたがどれだけガーデルのために力を尽くしていたかは、私も理解しているつもりだ。あなたは何も恥じることなく、今後もジェノスのために力を尽くしてもらいたく思う」
「……西方神の名にかけて、アイ=ファ殿の期待に応えると約束しよう」
バージがいつも斜めに傾いている身体を真っ直ぐにのばして敬礼をすると、残る二名もそれにならった。
石畳の上を歩きながら、俺は新たな感慨を噛みしめる。さきほどの武官といいバージといい、ガーデルと深く関わる機会があった人々はみんなガーデルが生きて戻ることを願っているのだ。ガーデルは誰にも心を開かず、森辺のかまど番アスタの幻影ばかり追いかけていたものであるが――それでもやっぱり人が生きる限り、世界と無縁でいることはできないようであった。
(ガーデルが、きちんと世界に目を向けることができれば……きっと、居心地のいい場所を見つけることができるはずさ)
最後にそんな思いを噛みしめてから、俺は気持ちを切り替えることにした。
俺はこれから、自身の運命に真っ向から立ち向かわなかればならないのである。ガーデルの存在は心の片隅にしっかりと仕舞いこみ、すべての力を尽くさなければならなかった。
ということで――今日の晩餐会の会場は、毎度お馴染み紅鳥宮である。
晩餐会であれば白鳥宮でも可能であるはずであったが、きっと会場の雰囲気や警護の都合などが絡んでいるのだろう。対外的には秘密であるが、本日の晩餐会には西の王たるカイロス三世が参席するのだから、マルスタインとしては最大限の礼節を払う必要があるはずであった。
小姓と侍女の案内で、まずは浴堂に導かれる。
幸いなことに、浴堂の蒸気もそれほど火傷の痛みを刺激することはなかった。
「ふーん。こうして見ると、ほんとに大したケガじゃなかったんだなー。腕なんて、ほとんど治りかけてるじゃん」
ルド=ルウの気安い言葉に、俺は「だろう?」と笑顔を返す。
「それでも包帯を巻かないといけないから、どうしても大げさに見えちゃうんだよね」
「しかし足もとは、まだずいぶんと痛々しいようだぞ。これほどの火傷を負う人間など、他にはなかなかいないはずだ」
と、シン・ルウ=シンは凛々しい面持ちでつぶやきながら、とても心配そうな眼差しになっている。俺はそちらにも「大丈夫だよ」と笑顔を返しつつ、内心では別のことを考えていた。
(俺の火傷なんて、大したことじゃないけど……あっちに居残った津留見明日太は、きっと大変な苦労をして日常生活に戻ったんだろうな)
夢で見た津留見明日太は今の俺よりも若そうに見えたが、それでも火事の日からはそれなりの歳月が過ぎているのだろう。玲奈のショートヘアーが長くのび、両足を複雑骨折した親父が松葉杖を使ってでも歩けるようになるぐらいの期間――そして、全焼した《つるみ屋》を再建させるのに必要なだけの時間が過ぎているはずであるのだ。
しかも津留見明日太は、全身にひどい火傷を負っている。きっともう、あの傷痕が綺麗に消えることはないのだろう。無茶な真似をした代償に、津留見明日太はあの傷痕を一生背負っていかなくてはならないのだ。
いっぽう俺は五体満足な姿で生まれ落ち、新たな人生を歩みなおしている。今の俺と津留見明日太のどちらがより幸せであるかなどは、決して比較することもできなかったが――俺としては持てる力を振り絞って、この新たな生を強く生きていかなければならなかった。
「悪いけど、背中の火傷に薬を塗ってもらえるかい?」
浴堂を出た後はルド=ルウたちにも手を借りて、医術院からいただいた薬を全身に塗りたくっていく。そうして薬を塗った箇所には織布をあてがって灰色の包帯を巻き、それから白い調理着を装着だ。身体が温まったために火傷をした箇所がむずがゆくてならなかったが、そんなものは気合でねじ伏せるしかなかった。
その後は回廊でしばらく待機して、着替えを済ませた女衆と合流する。アイ=ファだけは森辺の装束で、他のみんなは調理着の姿である。ジザ=ルウたちはすでに語らいの場に出向いているため、かまど番は十二名、狩人は四名という編成であった。
「それじゃあ、二手に分かれようか。よければ、ルウの血族とトゥール=ディンの組はもう片方の厨に――」
俺がそこまで言いかけると、リミ=ルウが「えーっ!」と声をあげた。
「今日はどういう組み合わせでもいいんでしょ? だったらリミはアスタと同じかまど場で、アイ=ファとおしゃべりしたいなー!」
リミ=ルウが期待の眼差しを向けると、レイ=マトゥアがもじもじとした。
「で、でも……今日ばかりは、誰もがアスタと同じ場で働きたいと願っているのではないでしょうか?」
「えー? なんで? みんなは朝もアスタと一緒に働いてたんでしょ?」
「は、はい。でも、明日からはどうなるかもわかりませんし……」
するとリミ=ルウは無邪気そのものの面持ちで、にこーっと笑った。
「明日からも、今日と一緒だよ! アスタとアイ=ファは、どこにも行かないから!」
レイ=マトゥアは一瞬きょとんとしてから、「……そうですよね」と懸命に笑顔をつくった。
「わたしも、そのように信じます。どうぞアスタのお好きなように割り振ってください」
「うん。それじゃあ俺は、ルウのみんなと同じ厨にするよ。ユン=スドラ、そっちはよろしくね」
「はい。おまかせください」と、ユン=スドラは澄みわたった笑顔で答える。
ユン=スドラは、たとえ俺が西の王都に移り住むことになろうとも、それが正しい運命ならば受け入れる――という覚悟であるのだろう。
いっぽうリミ=ルウは、そんな事態には至らないと固く信じているようである。
きっと他のみんなも、思いはさまざまであるに違いない。
しかしどちらにせよ、彼女たちは俺の決断を受け入れてくれたのだ。俺にできるのは、すべての力を尽くしてカイロス三世と対話することだけであった。
「じゃ、そっちはシン・ルウたちがよろしくなー。今日はララやマイムもいねーから、文句はねーだろ?」
「あとの言葉は余計だぞ」と、シン・ルウ=シンはルド=ルウの肩を小突く。そのかたわらで、ジーダは仏頂面をさらしていた。
ということで、俺と同じ厨で働くのは本日の相方であるクルア=スンと、レイナ=ルウ、リミ=ルウ、レイとルティムの女衆、護衛役はアイ=ファとルド=ルウという顔ぶれで落ち着いた。
すべての食材は同じ厨に準備されていたため、ユン=スドラたちは必要な食材を抱えて隣の厨に移動していく。その作業が終わるのを待って、いざ下準備の開始であった。
この時点で、時刻は下りの三の刻も間近である。
晩餐会の開始は下りの五の刻の半であるため、作業時間は二刻半ほどだ。また、晩餐会に参席する俺とトゥール=ディンはお召し替えをするために、ゆとりをもって作業を終える必要があった。
「今日つくるのは二十四人前で、半分は城下町の人たちがつくってくれるんだもんねー! らくしょーらくしょー!」
ご機嫌のリミ=ルウが元気な声を張り上げると、鋭い面持ちをしたレイナ=ルウがそれをたしなめた。
「それでも、最高の料理を準備しないといけないんだからね。絶対に、油断をしたら駄目だよ?」
「わかってるってばー! リミにおまかせあれー!」
リミ=ルウはもともと元気の塊であるが、今日はさらに拍車が掛けられている様子である。俺がそれを不思議に思っていると、ルド=ルウが肩をすくめながら発言した。
「なんだかんだで、リミは浮かれてるよなー。ま、アスタが元気になったのが嬉しいんだろ」
「えへへ。だって、アスタが元気なかったら、アイ=ファだって心配になっちゃうもんね?」
リミ=ルウがはにかみの表情を送ると、アイ=ファは「うむ」と優しい眼差しを返した。
「リミ=ルウやジバ婆は、アスタばかりでなく私の身まで案じることになってしまったのであろうからな。心配をかけてしまい、本当に申し訳なく思っているぞ」
「いいんだよー! アスタだって、こーんなに元気になったもんねー!」
と、リミ=ルウはおひさまのような笑みをこぼした。
二日前に再会したときは、落ち着いた様子でジバ婆さんやコタ=ルウをエスコートしていたものであったが――あれは懸命に、感情を抑えていたのであろうか。リミ=ルウはただ無邪気なばかりでなく、ここぞという場面では大人顔負けの思慮深さを発揮させるのだ。それで今はその反動で、このように朗らかさが爆発しているのかもしれなかった。
「もとをただせば、みんな俺のせいだからね。謝るのは、俺の役割だよ」
「だから、もういいんだってばー! こうやって、また楽しく働けるようになったんだからさ!」
そしてリミ=ルウは、明日からもこの楽しい日々が続くと信じているのだ。
俺としては、何としてでもその期待に応えたいところであったが――問題は、カイロス三世やダッドレウスが俺の主張をどのように受け取るかであった。
「……うむ? 誰か、参じたようだぞ」
アイ=ファがそのようにつぶやくと、すぐさま厨の扉がノックされる。
そこから顔を出したのは、デルシェア姫とカルスに他ならなかった。
「あ、あれ? どうも、お疲れさまです。そちらの準備は、もう大丈夫なのですか?」
デルシェア姫も、本日の晩餐会で料理を準備するようにお願いしたひとりであったのだ。デルシェア姫は満面の笑みで、「うん!」とうなずいた。
「わたしの担当は、菓子だったからねー! ちょっとぐらい時間が経っても味が落ちることはないから、みんなが来る前に仕上げておいたんだよー! それより、アスタ様! その腕に、その頭! もー、どこからつついていいのかわかんなくなっちゃうよー!」
そうしてひとしきり騒いでから、デルシェア姫はリミ=ルウにも負けない無邪気な笑みを浮かべた。
「でも、すっかり元気になったみたいだね! わたしは元気のない姿を見る機会もなかったけど、すっごく心配してたんだよー?」
「はい、どうも申し訳ありませんでした。みなさんのおかげで、すっかり復調することができました」
「わたしは、なんにもしてないけどね! もー、西の王陛下がアスタ様を召し抱えたいだなんて、本当に困っちゃうよねー!」
そう言って、デルシェア姫は俺の顔を下から覗き込んできた。
「南の王都から西の王都まで出向くには、海路しかないからさ! さすがにそれはこっちの王陛下に許してもらえそうにないから、どうにかジェノスに居残ってほしいなー!」
「はい。俺もそのように望んでいますけれど……俺の言い分に、納得してもらえるかどうかですね」
「アスタ様なら、大丈夫さ! なんか、今まで以上に頼もしく感じられるしね!」
そう言って、デルシェア姫は明るく笑ってくれたが――俺にはあまり、多くを語ることができなかった。俺の真情を伝えるには、たくさんの言葉が必要であるのだ。もちろん森辺の同胞にはあらかじめすべてを伝えておいたが、それ以外の人たちには晩餐会の終わりを待ってもらう他なかった。
「カルスも、お疲れさまです。もしかしたら、デルシェア姫の作業を手伝ったのですか?」
「い、い、いえ。ぼ、僕なんかが出しゃばっても、料理の質を落とすだけですので……」
カルスも素晴らしい才覚を秘める料理人であるが、その思考や発想に手先の技術が追いついていないのだ。それで俺もこのたびは、城下町の陣営に指名することを取りやめたのだった。
「今日はちょっと、味見の分まで準備する時間がないのですよね。いつか森辺に来てくださったら準備しますので、どうかご容赦ください」
「と、と、とんでもありません。で、でも、今回の騒ぎが一段落したら、また森辺にお邪魔させていただきたく思います」
と、カルスももじもじしながら、笑ってくれた。
その間も、レイナ=ルウたちは無言で作業を進めている。きっと、これ以上もなく集中しているのだろう。その鋭い横顔に好奇心を刺激されたらしく、デルシェア姫は瞳を輝かせながらそちらに近づいていった。
俺もまた、さまざまな相手と言葉を交わしつつ、手だけは止めていない。
すると、俺個人の助手であるクルア=スンがひそやかに呼びかけてきた。
「実は昨日、アリシュナのもとまでおもむいたのです。あまり詳しくは聞きませんでしたが、アリシュナもアスタが力を取り戻したことを心から喜んでいるご様子でした」
「うん。アリシュナも、俺の心の支えだからね。……クルア=スンこそ、体調は大丈夫かい?」
本日、クルア=スンは目もとに玉虫色のヴェールを掛けていたのだ。それはクルア=スンが調子を崩し、勝手に他者の星を見てしまうことをふせぐための措置であった。
「はい。アスタが悪夢に見舞われて以来、わたしも心が落ち着かないのです。きっと、ジェノスを取り巻く星図が乱れているためであるのでしょう」
「そっか。クルア=スンとフェイ・ベイム=ナハムのどっちに助手をお願いするか、迷ったんだけど……事前に確認しておくべきだったね」
「いえ。病魔を患ったわけではありませんので、心配はご無用です。こうしてアスタのお手伝いをできるのは、光栄でなりません」
と、クルア=スンは静かに微笑んだ。
玉虫色のヴェールの効果か、神秘的に見える微笑みである。俺はデルシェア姫がレイナ=ルウの手腕に夢中になっているのを横目で確認してから、かねてより気になっていたことを尋ねてみた。
「ところであの、ガーデルはああいう結果になっちゃったけど……クルア=スンは、大丈夫かな?」
「……はい? 大丈夫かとは、どういった意味においてでしょう?」
「うん。クルア=スンは、ガーデルの破滅の相を読み取っただろう? それで実際に、ガーデルはああいう目にあったわけだから……」
俺の言葉に、クルア=スンはいっそう静謐な微笑を浮かべた。
「ガーデルの破滅とは、すなわち死を意味していました。それでガーデルは魂を返すことなく、罪人として捕縛されたのですから……きっと、破滅の相を回避したということなのでしょう」
「ああ、うん。俺もきっとそうなんだろうとは思ってるんだけど……」
「それに、わたしが星を読もうと読むまいと、運命に変わりはありません。また、ガーデルは星読みを頼ろうというお気持ちもありませんでしたので、わたしには力を添える機会もありませんでした。であれば、黙って見守ることしかできませんので……ガーデルの去就に心を痛めても、詮無きことでしょう」
やはりアリシュナから星読みの何たるかを学んでいるクルア=スンは、俺よりもよほど覚悟が決まっているようであった。
「そっか。見当違いの心配をして、すまなかったね。あと、西の王都の人たちは星読みを嫌ってるだろうけど、クルア=スンのことは何も知らないはずだし、顔をあわせることもないはずだから、心配しないでね」
「はい。お気遣い、ありがとうございます。……新たな外交官という御方も、星読みの技を忌避しているのでしょうか?」
「個人的な心情はわからないけど、ダッドレウスは王様に心からの忠誠を誓っているようだからね。きっと王様の方針に従って、星読みの技を忌避するんじゃないかな」
「そうですか……では、アリシュナも今後は祝宴や晩餐会に招かれる機会が減ってしまいそうですね。それだけが、残念です」
と、クルア=スンは切なげに息をつく。こういう日には、いずれヴィナ・ルウ=リリンやヤミル=レイのような大輪に成長するだろうという気配が倍増するクルア=スンであった。
「それならそのぶん、森辺の祝宴や晩餐にでも招待してあげたいね。アリシュナの体調さえ悪くなければ、きっといくらでも機会はあるんじゃないかな」
「……そうですね。アリシュナのために、ありがとうございます」
と、クルア=スンは本来の純真さをにじませて、にこりと微笑んだ。
気づけば、周りもそれなりに騒がしくなっている。リミ=ルウやルティムの女衆はアイ=ファやルド=ルウと元気に語らい、デルシェア姫も辛抱が切れた様子でレイナ=ルウに質問を飛ばしまくっているのだ。そうすれば、レイナ=ルウも気合の入った面持ちで応じるのが常であった。
人数そのものはひかえめであるが、森辺のかまど小屋に負けない熱気と活力だ。
城下町で過ごすこんなひとときも、いまや俺にとっては大切な時間のひとつである。この幸せな生活を守るためであれば、俺はどのような苦労も惜しむつもりはなかったし――そして今日に限っては、それをも上回る覚悟を固めているつもりであった。
(今ごろは、カイロス三世も語らいの場を見物してるのかな)
なおかつ、今日のメンバーの中でカイロス三世の正体をわきまえているのは、ダリ=サウティただひとりとなる。それでもダリ=サウティは気負うことなく、普段通りの沈着さでダッドレウスたちと語らうはずであった。
そのさまを見て、カイロス三世は何を思うのか――そもそも彼は、どのような心持ちで西の王国を治めているのか――王という身分にある人間の心境など、俺には想像することも難しかった。
(たしかカイロス三世は、十七歳で戴冠したんだもんな。それで、その戴冠の祝典に参席するために、マルスタインとメルフリードは西の王都まで出向いて……その道中の案内人だか護衛役だかを受け持ったカミュアと縁を結んだんだっていう話だったっけ)
それからもう、五、六年は経過しているのだろうか。何にせよ、カイロス三世はまだ二十代の前半という若さであるはずであった。
そんな若さで玉座に座り、マヒュドラやゼラド大公国との戦にも取り組んでいる。やっぱりそれは、想像も及ばない人生であった。
しかしまた――あちらだって、俺の人生には想像も及ばないはずだ。
十七歳までは異世界の住人としての記憶を持ち、そこから三年余りはジェノスの地で料理人として名を馳せる――そんな人生をリアルに想像できるのは、同じ境遇にある『星無き民』のみであるはずであった。
それでも俺たちは、相互理解に努めなければならない。
森辺のかまど番アスタと西の王カイロス三世は、自分たちにとってもっとも正しい運命をつかみとらなければならないのだ。俺はそのように信じていたし、そのためにすべての力を振り絞ろうという覚悟であった。
(俺が自分の星を持っていたら、星読みの力にすがりたいなんていう気持ちになっていたのかな)
そんな思いを込めてクルア=スンのほうを振り返ると、「どうかしましたか?」と笑顔を返された。
神秘的な気配が薄れて、いつも通りの純朴さが強まった笑顔だ。その表情に心を和まされながら、俺は「いや」と笑ってみせた。
「なんでもないよ。それじゃあそろそろ、こいつを火にかけようか」
「はい。それでは、薪の準備をしておきます」
クルア=スンは一礼して、かまどのほうに向かっていく。
そのタイミングで、下りの四の刻に達したことを告げる鐘が鳴らされた。
晩餐会の開始まで、残すは一刻半である。
運命の瞬間は、もう間近に迫っていた。




