狭間の日
2025.10/15 更新分 1/1
その夜――俺は、泥のように眠りこけることになった。
フェルメスと密談し、その帰り道でガーデルに襲われて、森辺に帰りついてからはユン=スドラたちを迎えてともに晩餐を囲んだ夜のことである。悪夢の恐怖から解放された俺は前日に一睡もしていなかった影響もあって、晩餐を終えた後にすぐさま寝入ってしまったのだった。
そうして明け方に目を覚ますと、俺の手はしっかりとアイ=ファに握られていた。
俺は全身に軽度の火傷を負っていたため、アイ=ファも抱きつくことは自重したのだろうか。しかし、その手の先の温もりだけで、俺には十分以上であった。
それでもアイ=ファの顔が目の前に迫っていたため、俺は衝動に負けて、その額に自分の額をこつんとぶつける。すると、アイ=ファのまぶたがゆっくりと持ち上げられた。
「もう朝か……傷の具合は、どうだ?」
「うん。ちょっとひりひりするぐらいだよ。痛みで目を覚ますこともなかったしな」
「そうか……」と幸せそうに微笑んでから、アイ=ファは優美な猫のように半身を起こした。
そしてその青い瞳が、あらためて俺の顔を見つめてくる。するとその目に、いっそう明るい輝きが灯された。
「お前の活力は、昨日からまったく変わっていない。完全に、悪夢の呪縛から解放されたようだな」
「うん。それも、みんなのおかげだよ」
俺も半身を起こして、アイ=ファと間近から見つめ合う。
すると今度は、アイ=ファのほうから額に額をぶつけてきた。
「では、朝の仕事だな。そしてその前に、まずはその頭だ」
「ああ、確かにちょっと焦げた匂いがするな。お世話をかけるけど、よろしく頼むよ」
俺を散髪するのは、いつもアイ=ファの役割である。アイ=ファはごつい短刀ひとつで、実に見事に髪を整えることができるのだ。どうやらそれは、父親の面倒を見ることで身についた手腕であるようであった。
サチとラピもしぶしぶ起床したので、まずは寝具を片付けてから寝室を出る。そして、小屋で待ちかまえていた面々を表に開放したのち、散髪の準備が整えられた。
といっても、俺は屋外で木箱に座り、てるてる坊主のように一枚布を首から下にかけるだけだ。アイ=ファは寝起きの気怠さを見せることなく、颯爽とした手つきで短刀を抜き放った。
「こうして見ると、思っていた以上に深くまで焦げている箇所があるな。そちらに合わせるとなると、ずいぶん短く整えることになりそうだ」
「うん。こっちは坊主頭だってかまいはしないさ。アイ=ファの好きなようにやってくれ」
俺の背後に回り込んだアイ=ファは「では」と宣言しつつ、俺の髪のひとふさをつまみあげる。こうしてアイ=ファに散髪をされるのは、俺にとって至福のひとときであった。
「……なあ、アイ=ファ。王様からの申し出についてなんだけど……俺なりに、答えを出すことができたんだ。どうか、それを聞いてもらえるか?」
「うむ。そのようにあらたまる必要はない。そして、お前が道を間違えぬ限り、私が邪魔立てすることはないぞ」
「うん。アイ=ファにそれを、判断してもらいたいんだ」
そうして俺は、語り始めた。
昨日の帰り道から晩餐の間まで、ずっと頭の中でこねくり回していた内容である。俺はこれこそがもっとも正しい道であるという結論を出していたが、今は新たな自分を見出したことで熱情が有り余っているため、どこかに勇み足があるのではないかという不安もなくはなかった。
「なるほど……それでお前は、城下町の料理人まで呼びつけることになったわけか」
「うん。そのときには、まだ考えも固まってなかったんだけどな。ただ、俺がこの三年余りで成し遂げたことを、王様に伝えたい一心だったんだ」
「うむ。あとはこの話を、西の王とダッドレウスがどのようにとらえるかだな」
「いや、それより前に、アイ=ファの意見を聞かせてくれよ」
俺の問いかけに、アイ=ファは忍び笑いをこぼした。
「お前が道を間違えぬ限り、邪魔立てはせぬと言ったはずだ。そして、お前の言葉は正しいように思う」
「うん。だけど、もし王様たちが納得しなかったら――」
「いいのだ」と、アイ=ファはやんわりと俺の言葉をさえぎった。
「お前がどのような道を選び取ろうとも、私はお前とともにある。これが間違った道であったならば、私も同じだけの苦労を背負おう」
「……本当に、それでいいんだな?」
「なんだ? よもや、自分ひとりで苦労を背負おうと考えていたわけではあるまいな?」
と、アイ=ファは優しく俺の髪を引っ張ってきた。
その甘い痛みとともに、俺は幸福な気持ちを噛みしめる。
「そういうわけじゃないけど……アイ=ファに了承してもらえるかどうか、心配だったんだよ」
「無用の心配だな。私たちは、二人きりの家族であるのだぞ? どのような喜びも苦しみも、ともに背負うのだ」
そんな風に言ってから、アイ=ファはくすりと笑った。
「……しかし、人ならぬ家人であれば、この数だ。これだけの数がそろっていれば、どれほどの苦労もさしたる重さではあるまい」
俺たちの目の前では、ジルベや子犬たちが仲良く遊んでいる。俺が復調したために、ジルベも昨晩からご機嫌の様子であった。
ブレイブとドゥルムアとラムは少し離れた場所でそのさまを見守っており、ギルルはひとり樹木の葉をついばんでいる。サチとラピは屋内に居残りつつ、開け放しである戸板の向こうで上がり框にちょこんと丸くなり、それぞれ俺たちの様子をうかがっていた。
俺はアイ=ファばかりでなく、こんなにも愛おしい家族を八名も授かることができたのだ。
いまだ情緒が安定しきっていない俺は、その事実だけで涙ぐんでしまいそうだった。
「よし、終わったぞ。やはり、ずいぶん短くなってしまったな」
そんな言葉とともにアイ=ファが身を引いたので、俺も一枚布にかかった髪を払いながら身を起こした。
そうして頭をまさぐってみると、確かに手応えが軽やかだ。俺の頭はアイ=ファの手腕によってずっと同じ長さを保持していたが、今はその半分ぐらいの長さしか残されていないようであった。
「こんなに短くしたのは、生まれて初めてかもな。……似合ってるか?」
俺が横合いのアイ=ファを振り返ると、思いも寄らないほど温かな眼差しを返された。
「まったくもって、似合っておらん。早急に、これまで通りの長さまで髪をのばすがいい」
「あはは。どうすりゃいいかわからないけど、善処するよ」
そうして俺たちは、朝もやの漂う広場で微笑みを交わし――おたがいの気持ちを確認しながら、それぞれ覚悟を固めることになったのだった。
◇
そうしてアイ=ファの了承を得られたならば、次はユン=スドラたちの番だ。
俺が考案した作戦は、みんなの協力がなければ達成できないのだった。
「えっ……アスタたちは、本当にそれでよろしいのですか?」
朝方の仕事を片付けて、下ごしらえのためにたくさんのかまど番が集結したところで、俺は大々的に自分の思いを伝えた。
ユン=スドラ、マルフィラ=ナハム、レイ=マトゥア、ラッツの女衆、フェイ・ベイム=ナハム、リリ=ラヴィッツ――それに、ヴィンやミームの女衆などだ。ガズの女衆は城下町の当番であるため、本日はフォウの集落で下ごしらえをお願いしていた。
「うん。俺とアイ=ファで相談して、そう決めたんだ。あとは、ダッドレウスたちの返答次第だけど……みんなにも、協力してもらえるかな?」
女衆たちは、困惑の面持ちで顔を見交わす。
その中から、ユン=スドラが真っ先に声をあげた。
「アスタとアイ=ファはこれまでに何度となく、森辺の民に進むべき道を示してくださいました。そんなお二人が決めたことなのですから……わたしは、そのお言葉に従います」
ユン=スドラは穏やかな表情であったが、その目は狩人のように強く激しい光をたたえていた。
きっと彼女も、俺やアイ=ファと同じ覚悟を固めてくれたのだ。
俺が精一杯の思いを込めて「ありがとう」と伝えると、他のみんなも口々に賛同を示してくれた。
「ちょっと不安な部分もありますけれど、きっと大丈夫ですよね! 母なる森と父なる西方神が、正しい運命を下してくれるはずです!」
「は、は、はい。わ、わたしもアスタとアイ=ファの決断を信じます」
「お二人こそ、相当の覚悟を振り絞ったのでしょうねぇ。その勇気に、賞賛を捧げさせていただきますよ」
俺は深く心を満たされながら、そのひとりずつに感謝の言葉を返すことになった。
そしてその後は、アイ=ファとともにルウの集落に移動だ。二日連続でユン=スドラに取り仕切り役をお願いするのは申し訳ない限りであったが、ダリ=サウティとグラフ=ザザがルウの集落に留まっている内に話を通しておきたかった。
「……なるほど。それが、アスタたちの出した答えか」
ルウの集落の空き家にて、すべての話を聞き終えたダリ=サウティは困惑することなく微笑んでくれた。
「相手が西の王とあっては、こちらも相応の覚悟を振り絞るしかないのであろうな。俺は、アスタたちの決断を尊重するぞ」
「ふん。それで余計な怒りを買わないことを、祈るばかりだな」
グラフ=ザザは内心の読めない重々しい声で、そう言った。
そして、ドンダ=ルウである。
ドンダ=ルウは獅子のごとき眼差しで俺とアイ=ファの姿を見比べたのち、にやりと勇猛な笑みをたたえた。
「話には聞いていたが、貴様もすっかり本来の力を取り戻せたようだな。どのような結末になっても、俺たちが骨を拾ってやろう」
「はい。お世話をかけますが、どうぞよろしくお願いします」
今のところは、誰もが俺とアイ=ファの決断を受け入れてくれている。それは何よりありがたく、そして心強いことであった。
なおかつ、族長たちはフェルメスが語った『星無き民』の論と、そこから導きだされた俺の正体についても聞き及んでいるはずであったが――俺を見る目には、なんの変化も生じていない。やはり過去にとらわれない森辺の民は、俺がどれだけ素っ頓狂な出自であっても頓着することなく、今この瞬間を重んじてくれるようであった。
「では、この一件もすべての氏族に話を回すべきでしょうね」
ダリ=サウティたちとともにルウ家で一夜を明かすことになったガズラン=ルティムもまた、普段通りの沈着なる面持ちでそう言った。
「ただやはり、今のところは森辺の内に留めるべきでしょう」
「そうですね。宿場町の方々には、ただでさえ心配をかけてしまったので……すべての決着がつくまでは、隠しておこうかと思います」
そうして族長たちの承諾を得たならば、今度は個人的な報告だ。アイ=ファはジバ婆さんのもとに、俺は本家のかまど小屋で下ごしらえに励むレイナ=ルウたちのもとに向かうことになった。
「……なるほど。アスタはそのようにして、この苦難を乗り越えようというのですね」
レイナ=ルウはきりりと引き締まった面持ちで、そう言った。
「承知いたしました。わたしもアスタから大きな力を授かったかまど番のひとりとして、力を尽くしたく思います」
「ありがとう。他のみなさんも、よろしくお願いします」
猛きルウの血族たる女衆らは、誰もが力強い面持ちでうなずいてくれた。
そんな中、ひとり笑顔のリミ=ルウがちょこちょこと近づいてくる。
「きっと、うまくいくよ! リミも頑張るから、アスタも頑張ってね!」
「うん。アイ=ファと一緒に、頑張るよ」
リミ=ルウは不安の思いをあらわにすることなく、おひさまのような笑顔を見せてくれた。
それからかまど小屋を出て表のほうに回ってみると、ちょうどアイ=ファが母屋から出てくるところである。そしてその後から、サティ・レイ=ルウとコタ=ルウも姿を現した。
「わたしたちも、お話をうかがいました。わたしには、何の力を添えることもできませんが……お二人の覚悟が報われるように祈っています」
「ありがとうございます。でも俺は、サティ・レイ=ルウからもお力を借りていますよ。森辺のすべての同胞が、俺にとっては心の支えなんです」
そして俺は、じっと無言で見上げているコタ=ルウにも笑いかけた。
「コタ=ルウも、心配しないで待っててね。何があろうとも、俺は魂を返すまで森辺のかまど番だからさ」
コタ=ルウは昨日と同じくあどけない顔で、「うん」と笑ってくれた。
そんな二人にも別れを告げて、俺とアイ=ファは慌ただしくギルルの背中にまたがる。そうしてファの家に戻ってみると、早くも城下町の当番は出発する刻限であった。
「ユン=スドラから、お話はうかがいました。本当にそれで大丈夫なのかと、いささか心配していたのですが――」
と、今日の当番であったスフィラ=ザザは俺の顔を食い入るように見据えてから、ふっと口もとをほころばせた。
「アスタはすっかり復調したようですし、きっとそれが正しい答えであるのでしょう。わたしは黙って、見守らせていただきます」
「ありがとうございます。明日の晩餐会は、スフィラ=ザザもよろしくお願いします」
「ええ。新たな外交官ダッドレウスとも、正しき絆を紡いでみせましょう」
すると、スフィラ=ザザの相方であるガズの女衆もおずおずと微笑んだ。
「わ、わたしもちょっと不安な部分がありますけれど……でも、アスタたちの決断と、母なる森を信じます。母なる森が、きっとわたしたちの思いに応えてくれるはずです」
「うん。どうもありがとう」
俺は多くを語らないまま、ガズの女衆にも笑顔を返した。
俺たちは森の子であると同時に、西方神の子でもあるのだ。西の王たるカイロス三世の言葉から端を発したこの騒ぎが、いったいどのような形に落ち着くのか――そこには、西方神の導きが大きく関わってくるはずであった。
しかし、実際にこの世を生きているのは、俺たち人間である。
俺は神々にすがることなく、自らの力と思いでもっとも正しい道をつかみとりたいと願っていた。
「アスタ、お疲れさまです。こちらの準備も、もう間もなくですよ」
俺がかまど小屋に舞い戻ると、ユン=スドラが力強い笑顔で出迎えてくれた。
かまど小屋には、普段通りの熱気が渦巻いている。復調した俺は、二日ぶりにその熱気をしっかり堪能したかったところであるが――出発の時間は、もう目前であった。
「そういえば、城下町に向かう明日も、屋台の商売は休まないのですよね?」
「うん。明日は祝宴じゃなく、晩餐会だからね。商売を終えた後でも、十分に間に合うはずさ。かなり大急ぎになっちゃうけど、今日の商売を終えたら明日の献立を決定しよう」
「承知しました。どうぞよろしくお願いします」
そのように応じるユン=スドラは、やはり力強い笑顔だ。
そうして下ごしらえを終えたならば、ついに出勤の刻限である。俺たちが荷物を積み込んでいると、アイ=ファがスドラの狩人たちを引き連れてやってきた。
「アスタよ。今日はスドラが休息の日取りであるため、宿場町に同行してくれるそうだ」
「え? だけどもう、危険はないんじゃないか?」
「うむ。しかしお前は、手負いの身であるからな。私はファの家長として、ライエルファム=スドラの申し出をありがたく受け入れることにした」
「……それじゃあ、アイ=ファは森に出るのかな?」
俺の問いかけに、アイ=ファは「うむ」と優しく目を細めた。
その身に纏っているのは、以前に使用していた父親の形見である狩人の衣だ。そちらはずいぶん年季が入ってところどころ毛がすりきれていたが、それでもアイ=ファの勇壮なる美しさに変わりはなかった。
「今のお前を心配する甲斐はなかろう。しかし、手傷についてはいささか心配な面もあるので、ライエルファム=スドラの厚意はありがたく思う」
「うむ。アスタが傷の痛みで働けなくなろうとも、俺たちでは手伝うこともままならんがな」
そう言って、ライエルファム=スドラはくしゃっと笑った。
「しかし、肉体の傷はいずれ癒える。アスタの心が本来の力を取り戻したことを、嬉しく思っているぞ」
「はい。昨日は心配をおかけして、本当に申し訳ありませんでした。心のほうは、もう大丈夫です」
「うむ。アスタはこれまでよりも、さらに力にあふれかえっているように見えるぞ。その頭も、なかなか似合っているではないか」
ライエルファム=スドラの優しい言葉に目頭を熱くしながら、俺は「あはは」と軽くなった頭をかき回す。すると、チム=スドラがむすっとした顔で進み出た。
「家長の言葉に異存はないが、俺はその痛々しい姿に腹が立ってならん。あのガーデルなる者は、とんでもない真似をしでかしてくれたな」
「うん。俺もガーデルがあんな秘密を隠し持ってたなんて、まったく想像できなかったよ。……いつかはガーデルとも、わかりあいたいものだね」
「ふん。これであやつが魂を返してしまったら、腹立たしいままだからな。俺も目の前で文句を言ってやらんと、気がすまんぞ」
そんな怒りをあらわにするチム=スドラもまた、俺の心を深く満たしてくれた。
そうしてトゥール=ディンたちとも合流したのちにルウの集落まで出向いてみると、そちらでも大層な騒ぎが待ち受けていた。昨日の夕刻にはまだ森から戻っていなかった狩人の一団が、この時間を狙って集結していたのである。
「おお、アスタ! これは、なかなかの姿だな! しかし、中身のほうは力がみなぎっているようで、何よりだ!」
まずはダン=ルティムが、ガハハと笑い声をあげる。
そして、ラウ=レイも白い歯をこぼしながら顔を寄せてきた。
「本当にな! 俺と顔をあわせていない間に力を落としたり力を取り戻したり、まったくもって慌ただしいことだ!」
「ああ、ラウ=レイも来てくれたんだね。わざわざありがとう」
「ふふん。俺たちは、昨日も参じていたのだぞ。祝宴の礼をしようと思っていたのに、まさかアスタが屋台の商売を休むとは思っていなかったわ」
そんな風に語りながら、ラウ=レイはかたわらを振り返る。
そちらに控えていたのは、ヤミル=レイだ。二人が三日前に婚儀を挙げてから、これが初めての対面であった。
ラウ=レイの伴侶となったヤミル=レイは、胸あてと腰巻きの装束を一枚布の装束にあらためている。そしてその髪も、ばっさり短く切られていたが――彼女は細かく編み込んでいた髪をほどくと豪奢に波打つ髪質であるため、その時点で印象が一変する。派手にウェーブするその髪は肩に届かない長さでも十分に豪奢であり、彼女をさらに美しく彩っていた。
「ヤミル=レイも、お疲れさまです。屋台の当番は、明日から復帰の予定でしたよね?」
俺がそのように呼びかけると、ヤミル=レイは妖艶なる面持ちでくすりと笑った。
「ずいぶん呑気な物言いね。明日は、城下町で晩餐会なのでしょう?」
「はい。でも、方針は固まりましたので、あとは力を尽くすだけです」
「その方針も、聞いたわよ。まあ、短慮な家長が爆発しないで、何よりだったわ」
「わはははは! 立ち向かう相手が誰であろうと、アスタたちの器量を上回ることはあるまい! アスタとアイ=ファであれば、どんな苦難でも乗り越えるであろうよ!」
それはずいぶんな過大評価であったが、俺も一緒に笑うことにした。
俺は、国王に盾突くつもりはない。ただ、相互理解に努めたいのだ。その末に、どのような結末が待っているかは――明日という日を待つしかなかった。
「ったく、ずいぶんな騒ぎになったもんだよなー。昨日も一昨日も、アスタにひっついておけばよかったぜ」
と、頭の後ろで手を組んだルド=ルウは、いつも通りの呑気な顔であった。
「ま、アスタが元気になったんなら、どうにかなるだろ。荒事にならねーように、せいぜい気をつけるこった」
「うん、ありがとう。明日も護衛役に選ばれるようだったら、よろしくね」
誰に対しても話は尽きないが、早々に出発しなければ開店の刻限に間に合わない。ダルム=ルウ、シン・ルウ=シン、シュミラル=リリン、ギラン=リリン、ジィ=マァム、ディム=ルティムなどなど――俺はたくさんの人々に見守られながら、出立することになった。
そうして宿場町に到着したならば、また大層な騒ぎである。ガーデルの犯した罪については、宿場町にも布告が回されていたのだった。
「なんだ、その姿は? 昨日の騒ぎで、森辺の民に大きな被害はなかったという話であったはずだぞ」
まずは《キミュスの尻尾亭》の、ミラノ=マスである。手足に包帯を巻いた俺の姿に、ミラノ=マスは眉を吊り上げてしまった。
「すみません。見た目ほど、ひどい怪我ではないんです。塗った薬が落ちてしまわないように、包帯を巻いているだけなのですよ」
「両手両足に薬を塗るなど、只事ではあるまい。いったい、何があったのだ?」
どうやら宿場町においては、無法者の一団が城門の前で火矢を仕掛けたことと、首謀者のガーデルが俺をさらおうとしたという内容しか知らされていないようであった。
「話せば長くなるのですが、火事に巻き込まれてしまったんです。でも、痕が残るほどの火傷ではありませんので――」
「火事だと? 宿場町でも、火つけは大罪だぞ」
いよいよ怒りをあらわにするミラノ=マスのもとに、テリア=マスが駆けつけてきた。
「と、父さん。アスタに怒ったって、しかたないでしょう? アスタはひどい目にあわされた側なのだから、ねぎらってあげないと……」
「ふん! そんな姿で呑気な顔をさらしているやつを、どのようにねぎらえというのだ」
ミラノ=マスは、ぷいっとそっぽを向いてしまう。テリア=マスはとても申し訳なさそうな顔であったが、俺にとってはチム=スドラのときと同様に心を満たされるばかりであった。
「でも、本当にひでえ姿だな。まさかアスタがそんな目にあってるとは思ってもいなかったよ」
裏の倉庫で合流したレビは、露店区域に向かう道中でそんな言葉をかけてきた。
「しかも犯人は、あのガーデルってやつなんだろ? アスタを英雄みたいに扱ってたやつが、なんでそんな真似をするのかねぇ」
「ガーデルは不幸な環境で育ったから、心がきちんと育たなかったんだろうね。あれは幼子みたいなもんだって、森辺のみんなは口をそろえて言ってるしさ」
「あんな馬鹿でっかい図体をした幼子なんて、ぞっとしねえな。でもまあ、アスタが元気そうで何よりだったよ。昨日はアスタが休んじまったもんだから、東や南の人らもずいぶん心配してたんだぜ?」
その言葉は、すぐに実感することになった。所定のスペースまで出向いてみると、朝一番から建築屋および《銀の壺》の面々が集結していたのである。
「おいおい! なんだよ、その姿は! ずいぶんひでえ有り様じゃねえか!」
「本当だよ! そんな姿で働いて、本当に大丈夫なのか?」
まずは直情的なる建築屋の面々が、矢継ぎ早に言いたててくる。
しかし、バランのおやっさんは厳しい面持ちで黙りこくっており、アルダスに至ってはすぐに大らかな笑みをたたえた。
「でも、中身のほうは一昨日よりも元気そうに見えるよ。一昨日は傷ひとつなかったのに、なんだか病人みたいな目つきだったからなぁ」
「はい。中身は元気そのものです。この手足も、見た目ほどの怪我ではないのですよ」
「だけど、顔や首にもうっすら火ぶくれが浮いてるじゃねえか!」
「その怪我は、火傷なのか? まさか、火矢をくらっちまったのか?」
メイトンや若い衆がやいやい騒ぐと、ついにおやっさんが「やめんか」と発言した。
「お前たちが騒いでいては、屋台の準備もままならんではないか。それで開店が遅れたら、他の連中からひんしゅくを買うことになるぞ」
「何を言ってるんだよ! アスタを一番心配してたのは、おやっさんだろ!」
「……ふん。何だか知らんが、もう一段落したのだろうさ」
と、おやっさんはふいにやわらかく目を細めた。
「たった一日で、ずいぶん貫禄がついたではないか。その頭のせいで、ようやく年齢相応の見てくれになったようだな」
「ありがとうございます。アイ=ファには、不評でしたけれどね」
「ふふん。お前さんはちょっと頼りないぐらいのほうが、可愛がられるのかもしれんな」
おやっさんのそんな物言いが、また俺の目頭を熱くさせた。
そうしておやっさんやアルダスの言いつけで建築屋の面々が引っ込んでいくと、今度は《銀の壺》の一団が近づいてくる。こちらも十名の団員が勢ぞろいしていた。
「アスタ、怪我、心配です。……ですが、確かに、中身、充実しているようです」
「はい。昨日や一昨日は、ご心配をおかけしました。もうすっかり復調しましたので、どうかご安心ください」
「はい。その言葉、信じられる、幸いです」
と、ラダジッドは微笑をこらえるように口もとを引き締める。
そして、もっとも年老いた団員がひっそりと近づいてきた。
「私、心、落ち着かなかったため、星、読みました。他者の運命、盗み見ること、控えていますが……ジェノス、星図、大きな乱れ、驚かされました」
「はい。でも、明日を境に落ち着くんじゃないかと期待しています」
俺の返答に、その団員は「そうですか」と微笑むように目を細めた。
「であれば、安心です。私、去就、見守ります」
「はい。どうぞおまかせください」
俺は気負うことなく、そんな風に答えることができた。
俺を支えてくれているのは、森辺の同胞だけではない。これまでに出会ったすべての人が、俺にとっては生きた証であり、俺の礎となる存在であるのだ。それは最初からわきまえていた話であったが、『星無き民』の正体を知ったことでいっそうの重みを増したのだった。
だから俺は全身全霊で、西の王たるカイロス三世と向き合わなければならないのだ。
それでどのような結末が訪れるかは――すべて、明日次第であった。




