凶星の残火③~帰還~
2025.10/14 更新分 1/1
衛兵たちの手によってガーデルが捕縛される姿を見届けたのち、俺たちも別のトトス車で城下町に連行されることになった。
その理由は、火傷の手当を受けるためと、事情聴取を受けるためである。
城門の前で俺たちを襲撃した無法者の一団はアイ=ファとガズラン=ルティムの活躍によって捕縛されたそうだが、あの火矢によって多くの人々とトトスが傷つけられることになったのだ。幸い、死者は出なかったそうだが、城門の鼻先でそのような騒ぎが起きるというのはジェノスの威信に関わる大事件であったのだった。
「ジェノスの威信を守ってくださったのは、あなたがたお二人です。その崇高なる行いには、のちのち然るべき褒賞が下されることでしょう」
治療の場に立ちあった衛兵の中隊長は、しかつめらしい面持ちでそのように語っていた。
「しかし、あやつらの狙いは我々であったのだからな。我々は、降りかかる火の粉を払っただけのことであるし……我々が城下町まで出向かなければ、あの場所で騒ぎが起きることもなかったということだ」
「いえ。ですが首謀者のガーデルは護民兵団の所属であり、お目付け役の三名は近衛兵団の所属であったのです。これで死者でも出していたならば、それこそ兵団の威信は地に落ちていたことでしょう」
そんなやりとりを聞きながら、俺はひたすら治療を受けることになった。
まずは下帯を除くすべての装束を剝ぎ取られて、全身を冷たい水で清められたのち、火ぶくれができた場所に薬を塗られていく。とりわけひどいのは足もとで、すねにも腿にもあちこちに大きな火ぶくれができてしまっていた。
あとは素肌をさらしていた顔や腕ばかりでなく、背中や胸もとにも若干の被害が出ていたが――それでも医術師いわく、痕に残るほどの火傷ではないとのことだ。シルエルが火を放った丸太小屋は炎熱地獄と化していたが、現世の津留見明日太ほどひどい手傷を負うこともなかったわけであった。
そうして薬を塗られた後には保護の織布を固定するために、灰色の包帯をぐるぐると巻かれていく。然るのちに、こちらで準備されていた胴衣と腰巻きとサンダルを装着することになった。
俺が着ていた装束は、胴衣もTシャツも腰巻きも穴だらけになり、革のサンダルも帯が焼け落ちてしまっていたのだ。
「……ごめん、アイ=ファ。親父さんの大切な形見を、台無しにしちゃったよ」
城下町で仕立てたTシャツを除く俺の装束は、みんなアイ=ファの父親の遺品であったのだ。
治療を終えた俺が悲嘆に暮れながら報告すると、アイ=ファは目もとだけで優しく微笑んだ。
「それらの装束は、父ギルの代から何十年も仕事を果たしてきたのだ。お前が気に病むようなことではない」
「うん。だけどこれは、アイ=ファが俺をファの家人として認めてくれた証だったからさ……やっぱり、居たたまれないよ」
「そのような証がなくとも、お前はファの家人だ。だいたい、家にはまだ洗い替えの装束が残されているではないか」
そう言って、アイ=ファは俺の胸もとを小突こうとしたが、途中で取りやめた。装束の下にも火傷があるのではないかと慮ってくれたのだろう。
「それよりも、まずは自分の身を案ずるがいい。手足の傷は、痛むのか?」
「うん。ちょっとひりひりするぐらいだな。痕になるほどではないっていう話だから、心配はいらないよ」
「そうか。しかし、お前のそのように痛々しい姿を見ているだけで、私ははらわたが煮えくりかえりそうだ」
と、アイ=ファの優しい眼差しに、怒りの激情がちらりと閃く。
すると、出番を待っていた武官がおずおずと語りかけてきた。
「そ、それではアスタ殿のお言葉をうかがってもよろしいでしょうか? 罪人たちに然るべき罰を下すために、被害者たるアスタ殿の証言をいただかなければならないのです」
「はい。承知しました」
医術院なる施設の別室に移動した俺たちは、そこであらためて事情を聴取されることになった。
俺はなるべく誇張も過小もないように、正確な事実だけを伝えられるように努める。俺はガーデルを憎む気持ちを持ち合わせていなかったが、そうであるからこそ、その罪を正しく裁いてもらわなくてはならなかった。
そして俺は、その場でアイ=ファたちの行動についても知ることになった。
アイ=ファはギルルを荷車から解放しようと試みたが、荷車が横転していたために留め具がギルルの巨体の下敷きになっていて、すぐにはどうにもできなかったのだそうだ。それで、ギルルを火矢から守る役割をアイ=ファが受け持ち、ガズラン=ルティムは無法者のひそむ茂みのほうに突撃して――そのタイミングで、ガーデルが俺の身をかどわかしたのだという話であった。
ガーデルはトトスに乗っていたため、さしものアイ=ファも走って追いかけることはできない。それに、その場を離れたら、ギルルの身が危うくなってしまうのだ。アイ=ファは怒りと焦りに身もだえながら、遠ざかっていく俺たちの姿を見送るしかなかったようであった。
そうしてガズラン=ルティムが無法者の一団を眠らせたのち、二人がかりで荷車を起こし、ギルルを解放して、ようやく俺の身を追う準備が整った。そこで衛兵たちも合流して、ともに街道まで繰り出したのだそうだ。
ガーデルが逃げたのは、宿場町に通じる主街道の北方面である。まずはトゥランの領地を左手に通りすぎ、そろそろ闘技場が見えてくるかという頃合いで、アイ=ファは西側の雑木林に踏み荒らされた箇所を発見したとのことであった。
「トトスを駆けさせながらあのような痕跡に気づくというのは、さすが森辺の狩人でありますな」
事情聴取に同席していた中隊長は感心しきった面持ちで、そのように語っていた。
それで、衛兵の半数はそのまま北上していき、残りの半数とアイ=ファおよびガズラン=ルティムは雑木林に踏み込んだ。しかし、そちらの雑木林は広大である上に、途中でトトスが乗り捨てられていた。初めて足を踏み入れる雑木林で人間の足跡を辿るというのは決して簡単な話ではなく、アイ=ファたちもずいぶん足取りが鈍ったようであったが――そこで、雑木林の奥からおかしな音が聞こえてきた。
「あれはおそらく、お前が壁に椅子や樽を叩きつけていた音であったのだろう。ちょうど逆風で煙の匂いをとらえることもできない位置取りであったため、あの音だけが危急を知らせる合図となったのだ」
武官に向かって語っていたアイ=ファは、俺に向きなおって優しい眼差しを届けてきた。
「つまり、お前が生きようとあがいたことで、活路が開けたのだ。その強き心を、誇るがいい」
そんな風に言ってもらえると、ぶざまにあがいていた俺の心も救われた。
そして、あらためてぞっとする。もしもこれが、フェルメスと語らう前であったならば――俺は諾々と、破滅の運命を受け入れていたかもしれないのだ。半日前の俺であれば、それこそ炎の中で朽ちることが正しい運命であると誤認してしまいそうなところであった。
「あとは、衛兵の皆々も見届けた通りだ。……ガーデルは、どれほどの罪に問われるのであろうか?」
アイ=ファに鋭い眼光を向けられた武官は、たちまち背筋をのばした。
「それを決するのは審問官となりますが……たとえ死者を出していなくとも、これは大きな罪となりましょう。死罪か、あるいは苦役の刑か……それを下回ることはないかと思われます」
「そうか。では、苦役の刑が科されることを願うとしよう」
アイ=ファの厳しい声音に、武官は首をすくめる。苦役の刑というのは、死罪よりも苦痛に満ちみちた最上級の刑罰と見なされているのだ。
しかしアイ=ファは、ガーデルに苦しみを与えたいと願っているわけではない。
その苦しみで、罪を贖ってほしいと願っているのだ。俺がアイ=ファの真情を見誤ることはなかった。
「アスタ殿! 大丈夫かい!?」
と、事情聴取があらかた完了したタイミングで、ポルアースが室内に飛び込んできた。
さらに、見慣れた面々が続々となだれこんでくる。それは、プラティカ、サンジュラ、アラウト、サイという顔ぶれであった。アラウトたちも、まだジェノスに滞在中であったのだ。
「いやぁ、事件の報告を聞いたときには、生きた心地がしなかったよ! まさか、ベヘットに追いやられていたガーデルが、こんな真似をするだなんて……ああ、なんて痛々しい姿だろう! 生命に別状はないという話だったけれど、本当に大丈夫なのかい?」
「はい。ちょっと火傷を負ったていどです。ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした」
「謝罪するのは、こっちだよ! メルフリード殿やデヴィアス殿も直接おわびしなければと煩悶していたのだけれど、あちらは事後処理が山積みだからね! ベヘットにも、人をやらなければいけないしさ!」
そんな風に言ってから、ポルアースはほっと息をついた。
「でも、アスタ殿が元気そうで何よりだよ。その姿は痛々しくてならないけれど、むしろ昨日よりも元気に見えるぐらいだね」
「はい。それも、ポルアースのおかげです」
俺たちがフェルメスと密談するには、ジェノスの貴族から通行証をいただく必要があったのだ。よって、通行証を発行してくれたポルアースにだけは、フェルメスのほうから密談の一件を打ち明けられているはずであった。
「うんうん。フェルメス殿も、さぞかしやきもきしていることだろう。でも、ちょうど現在はダッドレウス殿と引き継ぎの業務のさなかであったからさ。外務官の補佐役である僕だけは、なんとか抜け出すことがかなったのだよ」
「はい。そして、僕やリフレイア姫にもお声をかけてくださったのです」
その双眸に熱情をたぎらせながら、アラウトが進み出た。
「僕もリフレイア姫も、怒りのあまりに悶死しそうなところでありました。しかも、ガーデルはシルエルの隠し子であるなどと自供しているそうですが……それは、事実なのでしょうか?」
「はい。本人は、そのように語っていました。ちょうど今、それに関しても詳しく説明したところです」
「そうですか……シルエルを討ち倒したガーデルがシルエルの隠し子であるなどというのは、まったく道理が通りません。僕もしっかりと、真相を見定めさせていただきます」
そういえば――その一件が真実であれば、リフレイアとガーデルは従兄妹の関係ということになるのである。
ひとつの懸念に行き当たった俺は、アラウトに負けない勢いで身を乗り出すことになった。
「ガーデルの証言だけで、その事実が公的に認められることはないかもしれません。でも、リフレイアの立場からすると……またご自分の血筋というものに、あらぬ不安を抱いてしまうかもしれません。ガーデルの素性がどうあれ、罪に血筋などは関係ありませんから、どうか気にしないようにと伝えていただけませんか?」
アラウトはハッとした様子で俺の顔を見返してから、深くうなずいた。
「はい。アスタ殿のお言葉には、心から賛同いたします。罪を犯すのは本人であり、血筋などは関係ありませんからね」
「ええ。ガーデルがシルエルの影響で罪を犯したのだとしても、それは二人だけの問題です。リフレイアには、関係ありません」
「ありがとうございます。この後は、またサンジュラ殿とともにリフレイア姫のもとまで戻ることにいたします」
アラウトに熱情的な笑顔を向けられたサンジュラは、内心のつかめない柔和な笑顔でそれを見返した。
その瞳も、淡い茶色をしている。しかし、シルエルやガーデルのように怨念をたたえることはない。彼もまた、ガーデルにとっては従兄弟になるのかもしれないが――それは、それだけの話であるはずであった。
「それにしても、こんな時期にこんな騒ぎが起きるなんてねぇ。二日後の晩餐会は、延期していただこうか?」
ポルアースが心配げに声をあげたので、俺はそちらに「いえ」と笑いかけた。
「指には怪我も負っていませんので、支障はありません。苦労を先延ばしにするのは性に合いませんので、よければ予定通りにお願いします」
「そうか。アスタ殿がそう言うなら、おまかせするよ。……アスタ殿は本当に、これまで以上に活力をみなぎらせているように感じられるね」
と、ついにポルアースも笑顔を見せてくれた。
俺はまだ、新たな自分を見出した熱情をたぎらせているのだ。シルエルの怨念もガーデルの暴挙も、俺にもたらしたのは数日で消えるていどの火ぶくれのみであった。
「晩餐会、話、聞きました。私、指名されたこと、栄誉、思っています」
と、無言でこちらの様子をうかがっていたプラティカも、鋭い声を投げかけてくる。
「ああ、もうプラティカにまで話が通っていたのですね。ポルアース、ありがとうございます」
「いやいや。お礼を言われるほどのことではないよ。他の皆々にも、くれぐれも力を尽くすようにと伝えておいたからね」
「ありがとうございます。俺も力を尽くして、なんとかこの試練を乗り越えてみせます」
しかしまた、俺の考えはまだ固まりきっていない。俺を王宮の料理番として召し抱えたいという国王カイロス三世の要望に、どのような答えを返すべきか――それをじっくり思案しようとしていたところで、この騒ぎに見舞われてしまったのだ。少なくとも、俺は今日の内にしっかりと思案をまとめなければならなかった。
「では、僕たちはそろそろおいとましようかな。帰りは、こちらで車を準備したからね。しっかり警護役の人間もつけたので、どうかゆっくり身を休めておくれよ」
「うむ。ポルアースの厚意に、感謝する。しかしこちらもトトスがいるのだが、そちらはどうしたものであろうな」
「よければ、こちらで手綱を預かるよ。森辺のトトスにまたがったなどというのは、武官にとっても自慢の種だろうしね」
と、最後には彼らしい朗らかな笑顔を見せて、ポルアースは部屋を出ていった。
プラティカたちもそれに続いたので、俺はあらためてアイ=ファを振り返る。
「もしかして、俺たちの荷車は壊れちゃったのか?」
「うむ。ファの荷車は倒れた際に車輪が外れた上に、底の部分を火矢で燃やされてしまった。もはや使い物にはならなかろうな」
本日使用していたのは、俺たちが宿場町で最初に購入した荷車である。
俺は、「そうか」と天井を仰いだ。シルエルの怨念は俺の身に火ぶくれを残すに留まらず、アイ=ファの父親の形見の装束と荷車をも奪っていったのだった。
だけど、俺たちから奪えるのはそこまでだ。
この苦しみを乗り越えて、ガーデルと再び相対したとき――俺たちは、シルエルの怨念から完全に解放されるはずであった。
「それでは、森辺に帰りましょうか」
ガズラン=ルティムの穏やかな声に従って、俺たちは医術院を後にした。
表はすでに、夕暮れ刻だ。ばたばた騒いでいる間に、二刻以上は経過しているのだろうと察せられた。
俺は着慣れない城下町の装束姿で、ギバの首飾りも外している。首の後ろにも若干の火ぶくれが生じていたため、アイ=ファからプレゼントされた首飾りをさげるだけで精一杯であったのだ。あとはゲルドの短剣や革の物入などもひとつの袋にまとめてもらい、俺の代わりにアイ=ファが運んでくれていた。
そしてアイ=ファは毛皮のマントを纏っておらず、ずっと手にさげている。
医術院の外に準備されていたトトス車に乗り込みながら、俺はアイ=ファに語りかけた。
「なあ。もしかして、その狩人の衣も駄目になっちゃったのか?」
「うむ。半分がた、毛が焼け落ちてしまったのだ。雨風をしのぐのに不都合はなかろうが、あまりに見すぼらしいかと思ってな」
そう言って、アイ=ファは目もとだけで微笑んだ。
「しかし、この狩人の衣のおかげで、私もお前も深手を負わずに済んだのだ。きっとサリス・ラン=フォウたちも、容赦してくれよう」
この狩人の衣はアイ=ファの生誕の日に、サリス・ラン=フォウを筆頭とするフォの女衆から贈られた品であったのだ。
シルエルの怨念に奪われたリストに、また新たな品目が加えられてしまったが――アイ=ファの強さと優しさが、俺の心を慰めてくれた。
それに、アイ=ファ自身は傷ひとつ負っていない。
その美しさも、力強さも、俺が知っている通りのアイ=ファだ。むしろ、俺が復調したことで、その輝きが増したかのようであった。
「……家に戻ったら、その頭をどうにかせねばな」
と、アイ=ファが優しい眼差しのまま、俺の髪に触れてきた。
「頭? 俺の頭が、どうかしたのか?」
「あちこちの毛先が、焦げて縮れてしまっているのだ。そのような頭で出歩いては、行く先々で心配をかけることになろうな」
「そっか」と、俺は笑顔を返した。
もうここまでだと心中で豪語してから、次々に奪われた品目が増えていく。しかしまた、毛先の数センチぐらいはどうということもなかった。
(これで本当に、おしまいだ。あとはしっかり、王様の一件を考えないとな)
そうして俺たちは、城下町のトトス車でまずルウの集落を目指したわけだが――そちらでは、大変な騒ぎが巻き起こっていた。ルウの血族のみならず、ユン=スドラやレイ=マトゥアやマルフィラ=ナハムといった馴染み深い女衆も集合していたのである。
「アスタ! お帰りをお待ちしていました!」
「ひ、ひ、ひどいお姿ですね。ほ、本当に大丈夫なのですか?」
「でも、お顔はとても元気そうです! もう目の輝きからして、違っていますもの!」
車を降りるなり包囲されて、俺は目を白黒させてしまった。
「ど、どうしてみんなが、ルウの集落にいるのかな?」
「どうしてって、アスタが心配だったからに決まっているじゃないですか!」
ユン=スドラが可愛らしく頬をふくらませると、ララ=ルウがひょっこり顔を覗かせた。
「事情はみんな、城下町の使者さんが伝えてくれたよ。それでこっちも何人かの狩人が居残っててくれたから、すぐさま集落中にトトスを走らせたってわけさ」
「そうだったのか……また心配をかけちゃって、申し訳なかったね。見た目ほどひどい怪我じゃないから、みんな安心しておくれよ」
俺が頭を下げると、おおよその人々は笑顔になってくれた。
ただそれはどちらかというと、俺が復調したことに起因しているのだろう。たとえ包帯まみれであっても、俺は朝方よりも遥かに元気に見えるはずであった。
「……まさか、ガーデルがこのような騒ぎを起こすなどとは、夢にも思っていなかったぞ」
と、大柄の人影が近づいてくる。それは、普段通りの大らかな笑みをたたえたダリ=サウティであった。
「あ、ダリ=サウティもいらしていたのですね」
「うむ。今日は三族長で会合をする予定であったからな。早めに仕事を切り上げてルウの集落に来てみたら、この騒ぎだ」
そう言って、ダリ=サウティはいっそう笑みを深くした。
「しかし、昨日の段階ではアスタがずいぶん力を落としているという話であったからな。フェルメスとの語らいで憂慮が晴れたのなら、何よりだ」
「はい。そちらの面でも、ご心配をおかけしました。もう悪夢に関しては克服しましたので、あとは王都の一件に集中します」
「うむ。いつでも自由に動けるようにと、昨日や今日はあえて森に入っていたのだが……もはや、俺の出番などないやもしれんな」
そのように語りながら、ダリ=サウティはガズラン=ルティムのほうを振り返った。
「しかしそれでも、族長としてすべてをわきまえておかなくてはならんからな。フェルメスとの会談の内容も含めて、じっくり聞かせていただくぞ」
「はい。私もドンダ=ルウから同席するように言いつけられています。……アスタとアイ=ファは、どうなさいますか?」
「うむ。ガズラン=ルティムがそちらの役目を担ってくれるならば、ひとまず家に戻ろうかと思う。家には、家人たちを残しているのでな」
すると、レイ=マトゥアが笑顔で進み出た。
「でしたら、晩餐の準備はわたしたちが受け持ちます! 途中で家に寄っていただければ、了承はもらえるはずですので!」
「うむ? しかし、そうまで皆々の手をわずらわせるわけには……」
「でも、そんなお姿をしたアスタにかまど仕事をおまかせするのは、気の毒でしょう?」
アイ=ファは俺の姿を見やってから、小さく息をついた。
「……そうだな。今日だけは、皆の厚意に甘えるとしよう」
「はい! 腕によりをかけて、準備しますからね!」
ということで、俺たちは女衆の一団を引き連れてファの家に戻ることになった。
しかしその前に、まずはルウ家の面々にご挨拶だ。俺は昨日からの一日半で、さまざまな相手に心配をかけていたのだった。
「アスタも元気になられたようで、本当によかったです。宿場町やトゥランの商売にも問題はありませんでしたので、どうかご安心ください」
「それより、その手足は本当に大丈夫なの? 大した傷じゃないって聞いてたのに、ずいぶん仰々しいじゃん」
「本当に、大変な目にあわれましたね。アスタが無事に戻られて、心から安堵することができました」
レイナ=ルウやララ=ルウやシーラ=ルウが、そんな声をかけてくれる。シーラ=ルウは大切なドンティ=ルウを他の女衆に託してまで、俺を出迎えてくれたのだ。
そして、薄暮の向こう側から小さな人影がちょこちょこと近づいてくる。
それは、ジバ婆さんとコタ=ルウの手をひくリミ=ルウであった。
「アイ=ファにアスタ……よくぞ無事に戻ってくれたねぇ……また元気な二人と会えるようにって、なんべんも森に祈ってたんだよ……」
「うむ。心配をかけて、すまなかった。しかし、私もアスタも、もはや心配は不要だ」
アイ=ファは膝を折り、ジバ婆さんとリミ=ルウにやわらかく微笑みかける。
そして俺は膝を曲げると多少の痛みが生じたため、腰だけを曲げてコタ=ルウの頭を撫でることにした。
「コタ=ルウにも、心配をかけちゃったね。でも、俺は大丈夫だよ」
「うん」と、コタ=ルウははにかんだ。
「コタも、しんぱいだったけど……アスタはすごくげんきそうにみえるよ」
「うん。みんなのおかげで、色んな悩みが解決したんだ。俺は、明日からも頑張るよ」
俺は気張らずにそんな言葉を口にしたが、それは大いなる決意表明のつもりであった。
城下町からの帰り道でも、俺の心はひとつの方向に突き進んでいたのだ。カイロス三世からの要望に、どのような返答をするべきか――ガーデルの起こした騒乱によって、俺はまた一歩答えに近づいていたのだった。
あとは本当にこの答えが正しいかどうか、頭がすりきれるほど思案して――そして、アイ=ファにも了承をもらえるかどうかである。
もっとも正しい道を選び取るために、俺はこれまでで最大の覚悟を振り絞る必要があるはずであった。




