凶星の残火②~真相~
2025.10/13 更新分 2/2
毒草の甘い香りで眠りに落ちた俺は、別なる異臭で意識を引き戻されることになった。
何かが饐えたような、悪臭だ。それで俺が不快なあまりに「うう……」と声をあげると、薄暗がりの中で大柄な人影が立ちすくんだ。
「目を覚ましてしまいましたか……申し訳ありません、アスタ殿……」
ガーデルの虚ろな声が聞こえてくる。
俺はそちらに向きなおろうとしたが、首しか動かすことができなかった。俺の身は、両腕ごと椅子にくくりつけられていたのだ。
「ガーデル……本当にガーデルなんですか……? どうしてガーデルが、こんな場所に……?」
「……申し訳ありません……俺には、こうするしかなかったのです……」
先刻は勇ましく声を張っていたガーデルが、ぼんやりとした声に戻ってしまっている。そしてそれは数日前に出会ったときと同様の、生気の欠片も感じられない声音であった。
俺はかすむ目をまばたかせながら、首だけでもガーデルのほうにねじ曲げる。
ここは古びた丸太小屋の中で、あちこちにガラクタや木材が転がっている。その中に立ち尽くしていたガーデルは、顔に巻いていた赤い布切れを首まで引きおろしており――そして、その手に巨大な樽を抱えていた。
「ガ……ガーデルは、何をしているのですか……?」
ガーデルは何も答えないまま、樽の中身を足もとにぶちまけた。
悪臭の根源は、そのどろどろとした液体である。どうやらそれは、腐りかけた油であるようであった。
「こ、答えてください。ガーデルは、ベヘットで療養していたんでしょう? お目付け役のバージたちは、どうしたんですか?」
「それを説明しても……アスタ殿は、ご不快に思うだけでしょう……」
ガーデルの虚ろな返答に怒りを覚えた俺は、それでまた頭をはっきりさせることができた。
「ふざけないでください。俺を縛って、どうするつもりなんですか? まさか、その油で俺を焼き殺すつもりなんですか?」
「……俺には、こうするしかなかったのです……」
「そんなの、意味がわかりませんよ。きちんと俺の目を見て、説明してください。ガーデルは何のために、こんな真似をしているのですか?」
ガーデルは残っていた油を壁にぶちまけると、空になった樽を足もとに放り捨てた。
その足もとも四方の壁も、すでに油でしとどに濡れているようである。その悪臭で俺は嘔吐しそうであったが、それをこらえてガーデルの姿をにらみ据えた。
「もしかして、さっきの騒ぎもガーデルの仕業だったんですか? 賊たちは、ガーデルを矢で狙おうとしませんでしたよね。その赤い布切れが、賊の仲間である目印だったんじゃないですか?」
「はい……さきほどの連中は、俺が銅貨で雇いました……本当は、屋台の商売の帰り道で襲う手はずだったのですが……アスタ殿は、城下町に参ずると聞き及びましたので……あちらで、待ち受けていたのです……」
そんな言葉を垂れ流しながら、ガーデルが俺の正面に回り込んできた。
髪も髭ものび放題で、もとの人相もまったくわからない。ただ、長い前髪の隙間からは、暗く陰った双眸が覗いていた。
さっきのあの、妄執に燃える眼差しは――毒草の影響で見た幻覚か何かであったのだろうか。
俺は悪寒と悪臭に耐えながら、さらに問い質した。
「それじゃあ、バージたちはどうしたんです? ガーデルがおかしな真似をしないように、手練れの剣士が三人も同行していたんでしょう?」
「はい……バージ殿たちも、シムの毒草で眠ってもらいました……俺が自由に動けるなどとは、バージ殿たちも予想していなかったのでしょう……」
「そんなの、俺だって予想できませんでしたよ。左肩の傷は、どうしたんですか?」
「これも、シムの薬草のおかげです……まあ、肉体に無理を強いるために、寿命を縮めてしまうそうですが……もう俺には、寿命など必要ありませんので……」
俺は動かせない腕の先で拳を握りしめながら、さらに追及した。
「すべては計算ずくであったわけですね。とにかく、最初から話を聞かせてくださいよ。ガーデルは、どうしてこんな真似をしでかしたんですか?」
「これが……これが俺の、運命だったのです……俺はすべての物事から目をそらして、何も成し遂げずに魂を返そうと考えていたのですが……運命が、俺を許してくれなかったのです……」
棒のように立ち尽くしたまま、ガーデルは訥々と語り始めた。
「俺に最後の運命をもたらしたのは……やはり、あの星読みであったのでしょう……俺はもう、破滅するしかなかったのです……」
「どうしてですか? ガーデルは俺に対する執着を捨てられそうにないから、思い切って縁を切るんだと言っていたじゃないですか。あれも、嘘だったんですか?」
「半分は、本当です……やっぱり俺は、アスタ殿に対する思いを捨て去ることができなかったのです……」
ガーデルの虚ろな双眸に、ちらりと暗い光がよぎった。
「西の王都の新たな外交官が、アスタ殿によからぬ真似をするかもしれない……そんな妄念に取り憑かれた俺は こうする他ありませんでした……だから、この日に備えて準備を進めていたのです……夜中にこっそり兵舎を抜け出して、裏通りの酒場でシムの商人から薬草と毒草を買い求め……ベヘットに向かったのちには、バージ殿たちを眠らせて……それから、無法者の一団を雇うことになりました……東の王子のおかげで、銅貨には不自由しませんでしたので……」
ガーデルは東の賊の毒矢で深手を負ったため、ポワディーノ王子から多額の御見舞金を受け取ることになったのだ。
俺はポワディーノ王子の厚意すらもが踏みにじられたような心地で、歯噛みした。
「また、城下町で働く侍女や小姓にも銅貨を渡して、情報を流してもらいました……俺が妄想していた通り、あいつらはアスタ殿を西の王都に連れ去るつもりであったのですね……だから、俺は……最後の手段に踏み切ることになりました……」
「それが、わかりません。どうしてそれで西の王都の方々ではなく、俺を襲おうと思い至ったんですか? 俺を殺して、ガーデルに何の得があるっていうんです?」
「俺は……アスタ殿の生命が尽きるまで、その輝かしき生を見守っていたかったのです……それがかなわないというのなら……ともに魂を返す他ありません……」
「つまりは、無理心中ということですか? これまでは、そんな真似をしようとはしなかったじゃないですか」
「それは、自分を抑えていたのです……」
そんな風に言ってから、ガーデルはゆるゆると首を振った。
「いや、そうじゃなくて……むしろ、自分の思いを優先していた……? 申し訳ありません……俺の粗末な頭では、もはや判別がつかないようです……」
「これから俺を殺そうとしているのに、そんな適当な言葉で片付けないでくださいよ。そんなに俺を殺したいなら、はっきり理由を説明してください」
「だからそれは、もともと俺の考えではなく……父の命令であったのです……」
「……父?」
「はい……俺は、大罪人シルエルの隠し子ですので……」
俺は今度こそ、愕然と息を呑むことになった。
「ちょ、ちょっと待ってください。そんなこと、ありえないでしょう?」
「いえ……それが、真実です……」
「いや、そんなわけがありません。だってガーデルは、シルエルと一緒に悪さをしていた武器商人の屋敷で生まれ育ったんでしょう? そして、護民兵団に入隊した後は、シルエルの手駒であった大隊長の部隊に組み込まれて……それでシルエルの大罪が暴かれたときには、ガーデルも入念に身元調査をされたはずです」
そのように語っていたのは、カミュア=ヨシュである。しかも、身元調査の責任者はメルフリードであったのだ。あのメルフリードが、シルエルの隠し子などという大物を見逃すとは思えなかった。
「身元調査なんて、役には立ちません……俺はシルエルと、なんの関わりも持っていませんでしたので……」
「そ、それはどういう意味ですか? たった今、自分はシルエルの隠し子だって仰ったじゃないですか」
「はい……俺がそれを知ったのは、深手を負ったシルエルと対峙したときです……それまでは、俺もそんなことは夢にも思っていなかったのです……」
東の民よりも感情の欠落した声で、ガーデルはそのように言いつのった。
「あの日……シルエルが《颶風党》を引き連れて、森辺で騒ぎを起こした日……隊長殿の命令でシルエルの身柄を捜索していた俺は、ひとりきりでシルエルと相対することになりました……崖から身を投じたというシルエルは、すでに深手を負っていましたが……それでも息絶える様子もないまま、滔々と語り始めたのです……この場で俺と巡りあえたのは、邪神のもたらした運命である、と……」
「じゃ、邪神? どうしていきなり、邪神が出てくるんですか?」
「はあ……それは俺にも、よくわかりませんでしたが……シルエルはすべての神々と縁を切ったので、自分に幸いをもたらすとしたら邪神しかありえないだろうと笑っていました……」
確かにシルエルは俺の目の前で、すべての神々を捨て去ると宣言していたのだ。
もしかしたら――その時点で、シルエルは四大神の子としての資格を失っていたのかもしれなかった。
「そこでシルエルは、俺の出生について語り始めたのです……もともと俺の母は、トゥラン伯爵家とゆかりのある男爵家の屋敷で働いており……そこで、シルエルに見初められたのだそうです……それで俺を身ごもりましたが、父親の素性を明かすことができなかったために、屋敷から追い払われて……シルエルの命令を受けた武器商人の主人が、身もとを預かったのだそうです……」
「で、でも、ガーデルはその屋敷で迫害されていたのでしょう?」
「はい……それも、シルエルの命令であったそうです……俺がシルエルの隠し子であることを隠匿するために、あえて邪険に扱わせたのだという話でした……」
「そ、そんな真似をして、いったい何になるっていうんですか? だったら最初から、武器商人に保護させなければいいじゃないですか?」
「いえ……俺は隠し子であると同時に、隠し玉であったそうです……いざというときに、シルエルの助けになれるように……そしてそれまでは、シルエルとの繋がりが露見しないように……そのために、常に俺を目の届く場所に置きながら……あえて、近づかなかったのだそうです……」
俺は悪臭と関わりなく、吐き気をもよおしそうだった。
「それは、本当の話なんですか? 逃亡中に発見されたシルエルが、ガーデルをだましたんじゃないですか?」
「いえ……シルエルは、俺の足の裏にある古傷のことを知っていました……それはシルエルの子である証として、赤ん坊の頃に刻まれたのだそうです……そういう隠し子が、俺の他に何人も存在するそうですよ……」
俺がひそかに身を震わせる中、ガーデルはかまわずに語り続けた。
「でも、もうシルエルが父親として名乗りをあげることはできませんので……その者たちは真実を知ることもなく、生涯を終えるのでしょう……ただ、俺だけはシルエルと巡りあってしまったのです……」
「で、でも……それでシルエルが、俺を殺せと命令したっていうんですか? そもそもシルエルにとどめを刺したのは、ガーデルなんでしょう?」
「はい……それもまた、シルエルの命令であったのです……シルエルを殺めれば、森辺の民には大恩人として感謝されるだろうから……アスタ殿の寝首をかくことも容易だろう、と……どうせシルエルは深手を負っていて逃げきれないので、最後に自分の生命を使って復讐を果たすのだと笑っていました……」
俺は全身に力を込めて、悪寒に耐えなければならなかった。
もう二年も前に魂を返したシルエルの怨念が、再び俺の身に降りかかってきたのだ。ようやく悪夢から脱した俺は、新たな悪夢に見舞われた心地であった。
「すべてを語り終えた後、シルエルは俺に襲いかかってきました……俺が深手を負えば、いっそうあやしまれることもないだろうと言って……それこそ、傀儡の劇に出てくる邪神のような顔で笑いながら、俺に斬りかかってきたのです……だから俺も、無我夢中で刀を振るい……シルエルを、殺めることになりました……」
「……シルエルは、まともじゃありません。あんなやつの命令に従う理由はないはずです」
「はい……俺も最初から、シルエルの命令を聞く気などありませんでした……どんな話を聞かされても、俺には他人事だとしか思えませんでしたので……アスタ殿と巡りあうまでは、シルエルの存在など忘れていたぐらいであったのです……」
それもまた、まともな人間の言い草ではない。
しかしガーデルは、シルエルによって人生を狂わされたのだ。しかもそれは、俺たちが考えていたよりも、遥かな昔年から――ガーデルがこの世に生まれ落ちた瞬間から始められていたのだった。
「だけど俺は、アスタ殿に巡りあい……シルエルの言葉を思い出しました……それでもシルエルの命令に従う気持ちなど、まったくありませんでしたが……ただ、アスタ殿の存在に興味をひかれてしまったのです……シルエルにはあれほどまでに憎悪されて、世間では英雄のように扱われているアスタ殿が、いったいどのような存在であるのかと……それで……アスタ殿の輝きに、魅了されてしまったのです……」
そこでガーデルは、うっとりと目を細めた。
しかしその瞳は、目の前の俺を見ていない。彼が見ているのは、傀儡の劇で活躍する『ファの家のアスタ』の姿であった。
「俺は心から、アスタ殿の輝かしい生涯を見届けたいと願いました……俺はそのために生まれてきたのではないか、と……そんな妄念に見舞われてしまったのです……」
「そ、それが妄念だとわかっているのなら、今からでも考えをあらためるべきです」
「でも、俺にとってはそれがすべてであるのです……アスタ殿の存在を、自分から切り離してしまったら……俺には、何も残らないのです……」
虚空に視線を漂わせながら、ガーデルはそう言った。
「だから俺は、どうしてもアスタ殿の存在を手放すことができませんでした……隊長殿やバージ殿や森辺の方々が、あれだけ熱心に説得してくれたのに……それだけは、どうしても我慢がならなかったのです……俺からアスタ殿を奪おうとする存在は、許すことができません……でも……今回ばかりは、どうしようもないでしょう……?」
「そ、それはどういう意味ですか?」
「アスタ殿は、東の王子の願い出すら断りました……でも……西の王からの願い出を断るなんて、できるわけがありません……」
「そ、そんなことはありません。それは王からの命令ではなく、あくまで提案でしたから、最後の判断は俺自身にゆだねられているんです」
「でも、新しい外交官という御方は、それを決して許さないだろうという話でしたし……それに……」
「……それに?」
「……それに、俺には見えるんです……西の王都でこれまで以上の栄光を築きあげる、アスタ殿の姿が……きっとアスタ殿は、西の王都でも数々の偉業を成し遂げるのでしょう……アスタ殿には、それだけの力が備わっているのです……」
虚空をさまようガーデルの目が、ふいに俺のほうに突きつけられる。
虚ろで生気のない瞳に、じわりと激情の火がよぎった。
「でも、俺は……それをこの目で見届けることもかないません……俺が王都までついていくことなど、誰も許しはしないでしょう……俺はこれまでにもさんざん迷惑をかけてきたのですから、それが当然です……でも……でも、俺には耐えられないのです……俺はもう、アスタ殿の輝きから目を離すことができないのです……」
「でも、だからと言って――」
「そのとき……初めて、シルエルの言葉が蘇りました……」
俺の言葉をさえぎって、シルエルはひび割れた声を振り絞った。
その瞳に、ふつふつと激情が煮えたぎっていく。それで俺は、自分が見たものが幻覚でなかったことを知った。
ぐしゃぐしゃと渦を巻く前髪の隙間から覗く、ガーデルの双眸――それは、シルエルさながらの妄執をたたえていた。
なおかつガーデルは、色の淡い茶色の瞳をしている。それは、それぞれ容姿に似たところのないトゥラン伯爵家の人々の唯一の共通点であった。
サイクレウスも、シルエルも――リフレイアも、サンジュラも――俺が知るトゥラン伯爵家の当主の血筋の人間は、みんな同じ瞳の色をしているのだった。
「シルエルは、アスタ殿を殺せと命じました……そして俺は、アスタ殿の存在を手放すことができません……あれから二年もの日が過ぎ去って……ついに、俺と父の思いが重なってしまったのです……これも、邪神の導きなのでしょうか……?」
「邪神なんて、関係ありません! 運命を切り開くのは、自分自身です! 大事な決断の場で神の存在を持ち出すのは、ただの責任逃れです!」
「そうですか……でも、俺にはこうするしかないのです……」
ガーデルは狂った獣のように双眸をぎらつかせながら、マントの内側をまさぐった。
そこから取り出されたのは、嫌というほど見覚えのある小さな葉――マッチのように便利な、ラナの葉であった。
「アスタ殿には、本当に申し訳なく思っています……死の苦しみをやわらげるために、眠りの毒草を使いましょうか……?」
「冗談じゃありません! そんなこと、やめてください!」
無駄と知りつつ、俺はそのように叫んだ。
ガーデルはゆるゆると首を振り、革のマントにラナの葉をこすりつける。それだけで、ラナの葉は瞬時に燃え上がった。
ガーデルは、ぴったりと閉められた扉のほうに燃えるラナの葉を放り捨てる。
たちまち炎が渦を巻き、四方の壁から天井まで駆け巡った。
世界が、真紅と黄金の色彩に包まれる。
まるで――俺が見る悪夢のようだ。
炎の中で生まれ落ちた俺は、炎の中で朽ち果てる運命であるのだろうか?
そんな想念にとらわれかけた俺は、即時に自分の弱気をねじ伏せた。
俺はついさっき、この地で強く生きていこうという思いを新たにしたのだ。
これしきのことで――二年も前に魂を返したシルエルの怨念などに、屈するわけにはいかなかった。
足までは縛られていなかったので、俺は椅子ごと立ち上がる。
そして、腰を曲げたぶざまな格好で燃える壁まで近づいて、背中の椅子を叩きつけた。
「およしください、アスタ殿……たとえ捕縛が解けようとも、ここから脱することはかないません……」
ガーデルの言葉を黙殺して、俺は何度となく椅子を壁に叩きつける。
炎が舞って、俺の手足に熱い痛みが跳ねあがったが――俺はかまわず、同じ行為を繰り返した。
その何回目かで、ついに俺の身を縛っていた荒縄が焼け落ちる。
俺は床に落ちた椅子を拾い上げ、今度は両手で燃える壁に叩きつけた。
しかし、壁はびくともしない。古びてはいるが、頑丈な丸太小屋であるのだ。それでも俺が執拗に繰り返すと、椅子のほうがバラバラになってしまった。
俺は舌打ちをしながら、燃える壁から遠ざかる。
しかしガーデルは、足もとにも油をまいていたのだ。もはや、まともに立っていられる空間はほとんど存在しなかった。
「ここは、雑木林の奥深くに打ち捨てられていた狩猟小屋です……屋根の上にもたくさんの枝が覆いかぶさっていましたので、煙がたちのぼることもないでしょう……誰かが俺たちを追ってきていても、気づかれる恐れはありません……」
そんな風に語りながら、ガーデルは大きく両腕を広げた。
「もしもお怒りでしたら、どうぞ俺を殺めてください……アスタ殿に殺められるなら、本望です……」
俺の腰には、ゲルドの短剣が残されたままであったのだ。
しかしもちろん、そんな真似をするつもりはなかった。俺は、生きのびたいだけであるのだ。この場でガーデルを殺めても、俺には何の得もなかった。
しかし、四方は火の海である。
これでは炙り焼きを待つばかりであるし――その前に、ぼうぼうとわきたつ黒煙が俺の呼吸を奪いつつあった。
俺はTシャツを引っ張り上げて鼻と口もとを覆い、身を屈めながら視線を巡らせる。
しかしどこにも、脱出の糸口は見当たらない。すでに壁中が炎に包まれて、どこに扉があったかも判然としなかった。
そんな中、ガーデルは両腕を広げて立ち尽くしている。
その瞳からは、いつしか激情の火も消え去って――今は、硝子玉のように虚ろであった。
(これが……こんなものが、あなたの思い描いた理想の結末なんですか?)
俺はそんな疑念をぶつけてやりたかったが、無駄に酸素と体力を使うわけにはいかなかった。
しかしそれは、破滅の先延ばしにすぎないのだろう。俺はすでに全身が焼けただれるような痛苦を覚えていたし、酸欠状態で思考もままならなくなっていた。
そうして炎の責め苦に苛まれていると、ますますあの日の恐ろしい記憶が鮮明に蘇ってくる。
あの日――俺は親父が大切にしていた三徳包丁を救出するために、炎上する《つるみ屋》の中に飛び込んだのだ。
その後に、俺がどのような形で津留見明日太と切り離されたのかはわからない。
俺が覚えているのは、生きながら五体を焼かれて瓦礫の山に押し潰される記憶のみであり――そのときの苦痛が、ずっと悪夢の中で繰り返されていたのだ。
あのときの痛みと苦しみが、俺の心を圧迫してくる。
だけど俺は、あきらめないと決めたのだ。
自分の人生をあきらめかけるなんて、一度体験すれば十分だ。昨日も今日も不甲斐ない姿をさらし続けてきた俺は、その分まであがきぬこうという覚悟であった。
俺はガーデルの足もとをすり抜けて、炎の影にわだかまる物体をつかみ取る。
それは、空になった樽であった。
口のあたりに付着した油に、炎が燃え移っている。それに触れないように気をつけながら、俺は最後の力を振り絞って、樽を壁に投げつけた。
派手な音色とともに、樽は木っ端微塵になる。
そして、燃える壁は――やはり、微動だにしていなかった。
(こうなったら……体当たりするしかない)
どれだけ頑丈な丸太の壁でも、これだけ炎に蹂躙されれば強度も落ちるはずだ。
あとは――俺の生命とどっちが先に燃え尽きるかであった。
俺は、丸太をぶつけた場所に照準を絞り、ぐっと腰を屈める。
そして、炎上する床を蹴ろうとしたとき――目の前で、炎が爆散した。
俺は「うわあっ!」と悲鳴をあげて、倒れ込む。
ガーデルも、無言のまま倒れ伏していた。
そして、炎がいっそうの渦を巻き――その向こう側から、救いの天使が舞い降りた。
アイ=ファである。
ギバの毛皮を頭からかぶったアイ=ファが燃える壁を突き破り、炎の海に飛び込んできたのだった。
アイ=ファの青い瞳には、さまざまな激情が渦巻いている。
安堵と怒り、喜びと緊迫――しかし、その美しいきらめきに変わりはなかった。
アイ=ファは無言のまま、俺の身を毛皮の内側に引き入れる。
そうして俺の身を抱き起こしながら、背後の壁に向きなおる。アイ=ファがあけた大穴も、すでに炎で閉ざされていた。
アイ=ファは毛皮の内側で俺の腰を抱き、ぐっと跳躍の姿勢を取る。
そこで俺は、足もとを指し示した。
そこに横たわっているのは、ガーデルだ。
ガーデルの身はすでに半分がた炎に包まれていたが、その虚ろな目はぼんやりとアイ=ファの姿を見上げていた。
瞬間、アイ=ファの瞳に瞋恚の炎が燃えあがり――
そしてアイ=ファは、倒れたガーデルの右足をわしづかみにした。
裂帛の気合とともに、アイ=ファは全身の筋肉を躍動させる。
そうしてガーデルの身は、アイ=ファに右腕一本で持ち上げられて――炎の渦に叩き込まれた。
そして俺たちも、それを追いかけて炎に飛び込む。
身体のあちこちに、熱い痛みが跳ねあがったが――それが過ぎ去ると同時に、清涼な空気が俺たちの五体を包み込んだ。
俺は地面にへたりこみ、ぜいぜいと息をついて欠乏状態であった酸素を取り込む。
すると、すぐさま身を起こしたアイ=ファの手によって、全身にギバの毛皮を叩きつけられた。きっと衣服に燃え移った炎を消してくれているのだ。
「あいててて……た、多分もう大丈夫だよ……」
俺がかすれた声を振り絞ると、今度はアイ=ファ自身が覆いかぶさってきた。
横合いから抱きすくめられた格好で、こめかみのあたりを額でぐりぐりと蹂躙される。ついでに肋骨もみしみしと軋んだが、俺の心はアイ=ファの温もりで満たされた。
「ありがとう、アイ=ファ……おかげで、助かったよ……」
「よいのだ」と、アイ=ファは俺の頭を抱え込んだ。
「やはり、お前から目を離すべきではなかった。お前にこのような苦難をもたらしてしまったのは、私の責任だ」
「そんなことはないよ……俺ひとりじゃ、どうにもできなかったからさ……」
俺は右手を持ち上げて、アイ=ファの肩にそっと添える。
その手の甲や前腕には、若干の火ぶくれが生じていたが――火傷の痕になるほどではないだろう。てっきり俺は現世の津留見明日太と同じような火傷を負うのではないかと想像していたのだが、まったくの的外れであったようであった。
(まあ……俺たちは、いまや別人なんだもんな……)
その結論に満足しながら、俺は視線を巡らせた。
ここは昼なお暗き雑木林の中であり、俺たち以外にも複数の人間が立ち並んでいる。それらはすべて、革の甲冑を纏ったジェノスの衛兵たちであり――そして、ガズラン=ルティムの足もとにはガーデルの身が横たえられていた。
きっとガーデルの身を包んでいた炎は、ガズラン=ルティムが消し止めてくれたのだろう。ガズラン=ルティムは手もとに抱えていた毛皮のマントを大きく払うと、それを我が身に纏いつけた。
ガーデルは髪や装束が焼け焦げていたが、それほどの火傷は負っていないようだ。
そして――ガーデルは仰向けに横たわったまま、俺とアイ=ファのほうに首をねじ曲げてきた。
「どうして……どうして俺まで、助けたのです……? 俺は……アスタ殿を、殺めようとしたのですよ……?」
ガーデルが力ない声を振り絞ると、アイ=ファは物凄い勢いでそちらに向きなおった。
その横顔はこれ以上もなく厳しく引き締まり、青い瞳には怒りの炎が燃えている。
そしてアイ=ファは、鋼の鞭のごとき声音で答えた。
「お前を罰するのは、王国の法だ。如何なる処罰が下されるかは知れたものではないが、おのれの罪深さをしかと噛みしめるがいい」
「でも……俺は、シルエルの子なのですよ……?」
アイ=ファの眉がうろんげにひそめられたため、俺が取り急ぎ説明することにした。
「どうやらそれは、本当の話みたいだ。シルエルが死ぬ間際に、そんな事実を明かしたらしい」
「……そうか。しかし、誰が父親であっても、関係ない。お前の罪は、お前が贖うのだ。そして、死罪を免れたならば、再び私のもとを訪れるがいい」
その言葉に、ガーデルは愕然と目を見開いた。
「そ……それは、どういう意味でしょう……? まさか……アスタ殿を殺めようとした俺を、許すというのですか……?」
「罰を下されて罪を贖った人間を、憎んではならない。それが、森辺の習わしであるからな」
あくまで厳しい声音で、アイ=ファはそう言った。
その眼光にも、遠慮や妥協の色はない。それはまるで、憤怒の形相で断罪の刀を振り下ろす不動明王のごとき迫力であった。
「再び姿を現したとき、お前が正しき心を育んでいたならば、また最初から絆を結びなおす他あるまい。そしてお前が、悪しき人間に成り果てていたならば……私が、この手で討ち倒してくれよう」
「だ、だったら……今、この場で討ち倒すべきでは……?」
「今のお前には、そんな価値もないということだ」
鋭い声音で、アイ=ファはガーデルの泣き言を断ち切った。
「これだけの大罪を働いてもなお、お前からは一切の悪念が感じられない。けっきょくお前は、道理のわかっていない幼子も同然であるのだ。幼子には善も悪もなく、思いのままに振る舞うことしかできないのだから……今のお前を討ち倒すのは、悪戯をした幼子を斬り捨てるも同然の行いであろう」
「…………」
「しかしお前は、罪を犯した。罪には、罰が必要であるのだ。森辺の大罪人ズーロ=スンは罰を受けることで人としての心を取り戻すことがかなったが、シルエルはさらなる罪に手を染めることになった。どちらの道を選ぶかは、お前自身だ。罰を受けて、善と悪を知り、おのれの進むべき道を定めるがいい。……それでお前は、ようやくこの世に生まれ落ちることがかなおう」
そこでアイ=ファが言葉を切ると、ガーデルは嗚咽を振り絞った。
焼け焦げた無精髭に覆われた顔で、それこそ幼子のように泣きじゃくっている。ガーデルが俺たちの前で涙を見せたのは、これが二度目のことであり――そして、最初の際にもガーデルと語らっていたのはアイ=ファであった。
アイ=ファは何も、心を偽っていない。次にガーデルが悪人として現れたならば容赦なく斬り捨てて、善人として現れたならば――かつて俺を殺めようとしたことに憤懣を抱きつつ、ぶちぶちとぼやきながら世話を焼くのだろう。それが、アイ=ファという人間であるのだ。
(ガーデルを破滅から救うのは、アイ=ファ……やっぱり、アリシュナの星読みの通りだったな)
そして星とは、運命とは、人の行いを映す鏡であるのだ。
ガーデルの泣きじゃくる声を聞きながら、俺はアイ=ファと出会えた喜びを何度となく噛みしめることになったのだった。




