凶星の残火①~異変~
2025.10/13 更新分 1/2
・今回の更新は全11話です。初日は2話同時更新いたします。
「それでは僕は、そろそろジェノス城に戻らなくてはなりません」
フェルメスのそんな言葉によって、貴賓館における秘密の会合は終わりを迎えることになった。
「フェルメス、今日は本当にありがとうございました。くれぐれも王陛下の不興を買わないように、お気をつけください」
「ええ。ですが僕は、王都で立身出世を願っているわけではありませんからね。今日の密談を隠し通そうと腐心しているのも、アスタの立場が悪くならないようにと考えてのことです」
そう言って、フェルメスはふわりと微笑んだ。
「ですが、もうそのていどのことでアスタの立場が揺らぐことはないでしょう。アスタはどうぞご自分の才覚でもって、進むべき道を切り開いてください」
「はい。それが可能になったのも、フェルメスのおかげです。しつこいようですが、本当にありがとうございました」
そして俺は、ほとんど口をきく機会もなかったアリシュナにも頭を下げた。
「アリシュナも、ありがとうございました。俺たちは星読みを頼ることもできませんが、アリシュナの存在は大きな支えになっています」
「はい。アスタ、復調、心より、喜ばしい、思っています。……二日後、晩餐会、立ちあえないこと、無念です」
「ああ、王陛下は占星師を毛嫌いされていますもんね。アリシュナの立場は、何か悪くなったりしていませんか?」
「はい。私の存在、黙殺されています。西の王、私の姿、目に入ることすら、厭うているのでしょう」
「それはそれで、ひどい話ですね」と答えてから、俺は今さらながらの疑問に思いあたった。
「あれ? そういえば、アリシュナは王陛下のことをご存じなんでしたっけ?」
「ええ。この密談の場で王陛下の存在が取り沙汰されることもあるかと思い、事前にお伝えしておきました」
フェルメスは涼しい顔で、そんな風に言いたてた。
「この世の平穏を願うアリシュナが、このような話を世間に触れ回る恐れはないでしょうからね。星図を乱す銀の獅子がカイロス陛下に他ならないと知って、アリシュナは心から納得したようです」
「はい。ポワディーノ王子殿下、藍の鷹、上回る、大きな星、何者かと、疑念、抱いていました。西の王、納得です」
「ちなみにマルスタイン殿は、メルフリード殿にのみ打ち明けたそうです。さすがのマルスタイン殿も、ご自分の胸ひとつに収めておくことはできなかったのでしょう」
「そうですか。こちらでは、アイ=ファとガズラン=ルティムとドンダ=ルウと……あと、他の族長たちにも伝えられるんだっけ?」
「うむ。今日にもダリ=サウティとグラフ=ザザを集落に呼びつけるつもりだと、ドンダ=ルウが語っていたではないか。やはりお前は、何も頭に入っていなかったのだな」
そのように語るアイ=ファが愛し子を見守る母親のような眼差しになっていたため、俺はどうしようもなく心臓を揺さぶられてしまった。
「では、次は二日後の晩餐会ですね。アスタの勇躍を期待しています」
「はい。そちらもどうぞ、お気をつけて」
そんな挨拶を最後に、俺とアイ=ファとガズラン=ルティムはアリシュナの部屋を出た。
そうして階段を下りて玄関口に向かってみると同じ侍女が立ち尽くしていたため、御者の武官に取り次ぎをお願いする。やがて控えの間から参上した初老の武官は、「おお」と顔をほころばせた。
「アスタ殿も、憑き物が落ちたようなお顔でありますな。よほど調子を崩していたのかと、ずっと心配していたのですぞ」
「心配をおかけして、申し訳ありません。おかげで、気持ちに整理がつきました」
「それは何よりのことですな。では、出発いたしましょう」
俺たちはトトス車の座席に乗り込み、城門を目指す。
すると、ガズラン=ルティムが澄みわたった面持ちで微笑みかけてきた。
「あらためて、アスタが復調したことを心から喜ばしく思います。やつれた顔に変わりはありませんが、目の輝きはこれまで以上であるようです」
「はい。ガズラン=ルティムにも、ご心配をおかけしました。アイ=ファも――」
「くどくどと、同じような言葉を重ねる必要はない。力を取り戻したのならば、今度こそ試練に向かい合うのだ」
厳しい言葉を述べたてながら、アイ=ファの眼差しはとても安らいでいる。それがまた、俺の復調した心をいっそう温かくくるんでくれた。
「しかし、晩餐会では何を目論んでいるのだ? わざわざ城下町の料理人を呼びつけるということは、何らかの算段を立てているのであろう?」
「うん。それはさっきも言った通り、俺がこの三年余りで成し遂げてきたことを理解してもらおうと考えてるんだよ。それで、その後は……俺もしっかり考えを固めないといけないから、整理がついたら説明するよ」
「うむ。それを信じて待つことができるというのは、幸いなことだな」
アイ=ファはやわらかく目を細めて、俺の頭を小突いてくる。
それからしばらくして、トトス車が停車した。
「お待たせいたしました。みなさんのトトスと荷車を引き取ってまいりますので、こちらで少々お待ちください」
俺たちが表に出てみると、すでに初老の武官の姿はなく、トトスの預かり所の関係者が代わりに手綱を握っていた。
城門で車を乗り換える際には、いつもこうしてこちらのトトスと荷車を預かってもらっているのだ。時刻はいまだ昼下がりであったので、城門にはたくさんの人々が行き交っていた。
その賑やかな様相も、俺の心と身体を心地好く温めてくれる。昨日の朝から纏わりついていた透明の壁は綺麗に消え去って、俺はこれまで以上に世界の眩しさを鮮明に知覚できるようになっていた。
何だか本当に、生まれ変わったような気分である。
俺は、この地で生きていくことを許されたのだ。たとえ神々の思惑で生み落とされた、異世界の住人の模造品であろうとも――この三年余りの喜びと幸福が、俺の存在をしっかりと支えてくれていた。
(森辺に戻ったら、みんなにもお礼を言わないとな。今日はどこで勉強会をやってるんだっけ? リミ=ルウなんかは、昨日から顔をあわせてない気がするし……ああ、そうだ。今日は屋台を休んじゃったから、おやっさんたちも心配してるだろうなぁ)
昨日の朝からの一日半で、俺はいったいどれだけの相手に心配をかけてしまったのか。それを思うと申し訳ない限りであったが、そうであるからこそ、一刻も早くみんなと顔をあわせたかった。
「お待たせいたしました。こちらのトトスと荷車で間違いありませんでしたな?」
と、笑顔の武官がギルルを引き連れて戻ってくる。ギルルは相変わらずのとぼけた顔で、「クエッ」と鳴いた。
「うむ。こちらで間違いない。このたびも、世話になった。ポルアースにも、よろしくお伝え願いたい」
「ははは。ポルアース殿とお言葉を交わすのは、小官に指示を出す上官の役割ですぞ。では、退場の手続きも済ませておきましたので、帰り道もお気をつけください」
自分のトトスの手綱を受け取った武官は、最後まで笑顔で立ち去っていく。
そしてこちらでは、笑顔のガズラン=ルティムがアイ=ファのほうに手を差し出した。
「よろしければ、私が手綱をお預かりしましょう。森辺に帰りつくまで、ゆっくりお過ごしください」
「うむ……では、ガズラン=ルティムの厚意に甘えるとしよう」
ガズラン=ルティムに手綱を託したアイ=ファは、しなやかな足取りで荷台に乗り込む。俺がその後に続くと、荷台で腰を落ち着けるなり頭を小突かれた。
「お前は何やら、浮足立っているように感じられるぞ。試練に立ち向かうのはこれからであるのだから、少しは心を引き締めるがいい」
「うん、ごめん。どうしても、幸せな気分が先に立っちゃってな。でも、頭は冴えまくってるつもりだよ」
あぐらをかいたアイ=ファは立てた片膝に頬杖をつきながら、「そうか」と言い捨てる。いかにもワイルドな所作であったが、やっぱりその眼差しは優しかった。
荷車はゆったりと進み始めて、まずは城門をくぐる。御者台に乗って勢いよく走らせることが許されるのは、跳ね橋を越えてからだ。そのわずかな時間で、俺はアイ=ファに真情を告げることにした。
「アイ=ファ、しつこいようだけど、本当にありがとう。あんな話を聞かされても俺が幸せな心地でいられるのは、最初にアイ=ファが俺をかくまってくれたおかげだよ」
「ふん。『星無き民』が神の意志でこの世に遣わされたというのなら、それすらも定められた運命の通りであったのやもしれんな」
「あはは。でも、運命を紡ぐのは人の意志と行いだろう?」
そんな言葉を俺たちに伝えてくれたのは、シュミラル=リリンだ。シルエルの凶刃によって深手を負ったティアを看護してくれた折に、シュミラル=リリンがそんな言葉を語ってくれたのである。
それ以来、シュミラル=リリンの言葉は俺の大きな支えであったし――『星無き民』の正体を知った後では、さらなる重みが生じていた。
たとえ『星無き民』が大陸アムスホルンの発展のために遣わされた存在であるとしても、俺は自分の意志を持つ一個人であるのだ。俺がどのような末路を辿るかは、俺自身の行いにかかっているはずであった。
(シムのために大きな役割を果たしたミーシャは、王族の娘に懸想したために都を出ることになったんだっけ……本当に、なんて切ない話だろう)
俺がそんな想念にとらわれたとき、ぎしぎしと軋んでいた地面が本来の頼もしさを取り戻した。跳ね橋を越えて、城門の外の地面に達したのだ。
そうして、ガズラン=ルティムが御者台に足をかけようとした瞬間――アイ=ファがいきなり、俺の身に覆いかぶさってきた。
俺はわけもわからないまま、荷台の床に押し倒される。
そして外からは、人の悲鳴とトトスの鳴き声が交錯し――荷台に、凄まじい衝撃が生じた。
アイ=ファの温もりに包まれたまま、俺の身は空中に放り出される。
そして今度は、アイ=ファごしに衝撃が伝えられた。空中で身をよじったアイ=ファが体勢を入れ替えて、クッションの役目を果たしたのだ。
「アスタ、大事ないか!?」
と、俺の身に押し潰されたアイ=ファが即座に半身を起こして、俺の肩をつかんでくる。
俺たちが倒れ込んでいるのは、革でできた幌の上だ。荷車が横転したために、本来は側面である幌が足もとに移動したのだった。
「アイ=ファ、危険です! 荷台から出て、身を伏せてください!」
喧噪の隙間から、ガズラン=ルティムの雄々しい声が響きわたる。
するとアイ=ファは俺の身を横から抱きかかえつつ表に飛び出し、そして一緒に倒れ込んだ。
荷台の外は――阿鼻叫喚である。
何台もの荷車が横倒しになって、人々やトトスが逃げ惑っている。そして、いくつかの荷車からは火の手があがり、黒煙をくすぶらせていた。
「あちらの茂みから、火矢を仕掛けられています! 荷台の陰に隠れてください!」
このいきなりの変転に、俺は呆然とするばかりである。
すると、アイ=ファの力強い腕に引きずられて、横転した荷車の陰に追いやられた。
そしてアイ=ファは左手で俺の身を抑えつけつつ、荷車の陰からガズラン=ルティムの声があがった方向を覗き込む。
それと同時に荷車が激しく揺れたため、俺は「うわっ」と情けない声をこぼすことになった。
別の荷車が、こちらの荷車に衝突したのだ。そしてその荷車も横転して、人の悲鳴とトトスの悲しげな声が飛び交った。
「火のせいで、トトスたちも自制を失っているのだ。ガズラン=ルティムは刀で矢を払い、ギルルを守ってくれている」
青い瞳を爛々と燃やしながら、アイ=ファはそう言った。
地面にへたりこんだ俺は、まだ頭の整理が追いつかない。城門を出るなりこのような騒乱に巻き込まれるなど、本来はありえない話であった。
「倒れた荷車が邪魔になり、衛兵たちも身動きが取れんようだ。そして、この矢の勢いは……賊は、ひとりやふたりではあるまいな」
「ぞ、賊? こんな明るい内から、盗賊団でも押しかけてきたっていうのか?」
「わからん」というのが、アイ=ファの簡潔な返答であった。
「しかしこれでは、身動きも取れん。あとひとりでも狩人がいれば、矢を払いながら賊のもとに向かうこともできるのだが……」
「お、俺が重荷になってるのか? だったら、アイ=ファは好きに動いてくれよ」
「馬鹿を抜かすな。お前を放って、この場を離れられるものか」
「で、でも、このまままだとギルルやガズラン=ルティムも危ないんじゃないか?」
アイ=ファは、ぎりっと奥歯を噛み鳴らした。
「これしきのことで、ガズラン=ルティムが手傷を負うことはなかろう。しかし、ギルルは……危ういかもしれん」
「だ、だったらせめて、ギルルを助けてやってくれ。俺のせいでギルルにもしものことがあったら、耐えられないよ」
「……わかった。ギルルを荷車から解放して、こちらに連れてくる。さすれば、ガズラン=ルティムも自由に動けるはずだ」
アイ=ファは大刀を抜き放ち、燃える眼差しで俺を見据えてきた。
「よいか。決して、この場を動くのではないぞ」
「わかった。ギルルをよろしく頼む」
アイ=ファは俺の胸もとを小突いてから、荷車の向こうに躍り出た。
俺は荷台の陰でめいっぱい身を縮めながら、視線を周囲に巡らせる。アイ=ファはこの場を動くなと言っていたが、またトトスや荷車が暴走してきたら、そうも言っていられなかった。
(でも、この騒ぎは何なんだ? まさか、王様たちが関係しているのか?)
しかし、アイ=ファやガズラン=ルティムもカイロス三世たちに危険はないと判じて、護衛役を最低限の人数に絞ったのだ。俺にしてみても、西の王都の面々が荒事に及ぶ理由は思い当たらなかった。
では、次に考えられるのは、カイロス三世やダッドレウスこそがターゲットであるという可能性であるが――こんな城下町のすぐ外で騒ぎを起こしたところで、陽動作戦にもならないだろう。何をどのように考えても、この騒ぎを西の王都の一団と結びつけることはできそうになかった。
(でも、ただの偶然とは思えない。フェルメスの運命論を持ち出すまでもなく、そんな偶然はそうそうありえないんだ)
俺がそんな風に思案しかけたとき、目の端に奇妙な光景が浮かびあがった。
トトスに乗って疾駆する、何者かの姿である。それは、アイ=ファが向かった先とは反対の側から出現した。
トトスに乗っているのは、フードつきマントを纏った大柄の男性だ。
そして、その男性もトトスも、顔に赤い布切れを巻きつけていた。
(なんだ、あれ……どうしてあいつは、矢で狙われないんだ?)
俺の頭の中で、危険信号が明滅する。
その騎影は、真っ直ぐ俺のほうに向かっているのである。
俺は生唾を呑み下しながら、アルヴァッハから授かったゲルドの短剣に手をかけた。
(あれは、まさか……)
ひとつの疑念が、俺の脳裏に浮かびあがる。
その頃には、目の前に騎影が迫っていた。
「アスタ殿! こちらに!」
その人物が、トトスの上から手を差し伸べてくる。
それは、赤い布切れで顔を隠していたが――まぎれもなく、ガーデルであった。
隣町のベヘットで療養しているはずのガーデルが、俺に手を差し伸べている。
しかも、差し伸べているのは、左手だ。ガーデルは左肩の古傷が再発したため、まだ左腕を吊った状態であるはずであった。
何かもかもが、理屈に合わない。
それで俺が呆然としていると、ガーデルが地面に降り立った。
「ど、どうしてガーデルがここにいるのですか? それに、その左腕は……それに、バージたちは……?」
「それには、事情があるのです。こちらをご覧ください」
いつになく毅然とした調子で答えながら、ガーデルは左手をマントの下に差し入れた。
そこから取り出されたのは、灰色の織布だ。そこから何か、不吉な甘い香りが漂っていた。
「待ってください! 俺は――」
俺は、短剣を抜くことを躊躇った。
その間隙に、ガーデルが左腕をのばし――灰色の織布で、俺の鼻と口もとを覆った。
とたんに、俺の視界がぼんやりと霞む。
俺は、この感覚を知っていた。三年前の、家長会議の夜――俺はこれとよく似た不吉な香りを嗅ぎ取って、真夜中にひとり目を覚ますことになったのだ。
(いや……ダン=ルティムも、それで目を覚ましたんだっけ……)
そんな思いも、急速に薄らいでいく。
これは人を眠りへといざなう、催眠の毒草の香りであるのだ。
そうして俺の身が倒れかかると、ガーデルの左腕が力強く抱きとめた。
もはや短剣を抜く力もない俺は、決死の思いでガーデルの姿を見上げる。
赤い布切れを巻いたガーデルの顔は、目もとしかあらわにしておらず――そして、妄執の炎を燃やすその色の淡い瞳は、俺にひとりの大罪人を思い出させた。
(……ガーデルが、どうして……?)
そうして俺の意識は、散り散りになり――最後に俺の心に刻まれたのは、「アスタ!」というアイ=ファの悲痛な声であった。




