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異世界料理道  作者: EDA
第九十八章 新星
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星無き民②~フェルメスの考察~

2025.9/27 更新分 1/1

「まず、大前提として……アスタ自身も感じたという通り、アスタと夢の中の人物は別人なのだろうと思います」


 フェルメスのいきなりの宣言に、俺は心から打ちのめされることになった。

 そんなことは百も承知であったのだが、第三者に断言されたことで、俺の心が一気にかき乱されてしまったのだ。それに気づいたアイ=ファが俺の手を握りしめながら、鋭い声を放った。


「しかしアスタは、アスタとしての記憶を持っているのだ。しかし、夢の中の火傷を負った何者かも、まぎれもなくアスタそのものの存在として父親や幼馴染と過ごしていたのだという。これは、如何なる事態であるのだ?」


「そうですね。その前に、まずは呼称を定めましょう。アスタが夢の中で見た人物は、『夢のアスタ』と呼ばせていただきます」


 フェルメスは落ち着いた声で、そう言った。

 もはや俺を心配している様子はなく、その瞳には期待の光ばかりが躍っている。フェルメスは俺との絆を深めるために制御していた知的好奇心を、完全に解き放ったようであった。


「まず、『夢のアスタ』はニホンという異国で生まれ育ちました。それは大陸アムスホルンの名が伝わらないほどの遠方に位置する島国で、文化も風習もまったく異なっており……異世界と呼ぶしかないほど様相の異なる地であるという話でしたね?」


「……はい。その通りです」


「しかし、この大陸アムスホルンで目を覚ましたアスタは、最初から現地の人間と問題なく言葉を交わすことができました。なおかつ、アスタはあくまでニホンという国の言葉で語っているつもりであり、アムスホルンの言語を習得した覚えもない――それで、間違いありませんね?」


「……はい。間違いありません」


 フェルメスは満足そうにうなずきながら、白魚のような指先を腹の上で組んだ。


「ですが、現在のアスタが口にしているのは、まぎれもなくアムスホルンの西の言語です。それもまた、アスタが『夢のアスタ』と別人であるというひとつの証になるでしょう」


 すると、この部屋に入ってからずっと無言でいたガズラン=ルティムが初めて声をあげた。


「お待ちください。そのように決めつけるのは、早計なのではないでしょうか? アスタの故郷と西の王国では、たまたま似たような言葉が使われていたという可能性も――きわめて低いながら、絶対にありえないとは言い切れないように思います」


「はい。もちろん検証もなしに決めつけるのは、あまりに乱暴なのでしょうね。ですが僕は以前から、その一件に関してもずっと考察を進めていたのです」


 ガズラン=ルティムの反論をむしろ喜んでいる様子で、フェルメスはそのように答えた。


「たとえば、簡単な例をあげますと……アスタは以前に、『わふう』という言葉を使っていました。『わ』とはアスタの故郷を指し、『ふう』は雰囲気を指す言葉であるそうです。つまり、ジェノスのような雰囲気であるという意味の『ジェノス風』という言葉の『風』と同じ意であると……アスタは、そのように語っていましたね?」


「はい。ちょっと記憶はおぼろげですけれど……べつだん、訂正が必要な内容ではないと思います」


「そうですか。しかしアスタは、『ふう』と『風』をまったく同一の言語であるように語っていたように感じました。それについては、如何でしょう?」


 俺はたちまち、質問の意味がわからなくなってしまった。


「ちょ、ちょっと待ってください。フェルメスが何を言っているのかわからないのですが……和風でもジェノス風でも、『ふう』は『ふう』でしょう?」


「やはり、アスタにとっては同一の言語であるのですね。ですが、僕たちにとって『ふう』と『風』は異なる言葉です。発音にも、まったく似たところはありません」


 俺は混乱して、思わず左右を見回してしまった。

 アイ=ファも理解が及んでいない様子で、眉をひそめている。しかし、ガズラン=ルティムは――鋭い鷹のごとき眼差しになっていた。


「では、この場でもっと実際的な検証に取り組んでみましょうか」


 魂を吸い込むような眼差しで俺を見つめながら、フェルメスはそう言った。


「東の言葉遊びで、このような節が存在します。『トトス・トットス・トットティス』……アスタはこの言葉を、どのように思いますか?」


「どのようにと言われても……それは、言葉遊びなのですよね? それじゃあ、似たような言葉を並べているということですか?」


「そうです。西の言葉に翻訳すると、『トトス・丘陵・無礼者』という意味になりますね。言葉の内容は関係なく、ただ似た発音である言葉を並べて遊んでいるに過ぎません」


 そのように語るフェルメスの瞳が、いっそうのきらめきを渦巻かせた。


「それでは……『棍棒・斜め・耳飾り』……この言葉は、どのように思いますか?」


 俺はフェルメスの眼差しに捕らえられたまま、生唾を呑み下した。


「何も……何も思いません。ただ、関係のない言葉を適当に並べているようにしか……」


「『棍棒』と『斜め』と『耳飾り』は、とても発音が似ています。西の言葉が覚束ない東の民が『棍棒』と『耳飾り』を取り違えるなどという小話が存在するぐらいであるのですよ。……ガズラン=ルティムは、どのように思われますか?」


「……はい。先刻の東の言葉と同程度には、似ている言葉であるように思います」


 いくぶんの緊迫をはらんだ声音で、ガズラン=ルティムはそのように答えた。

 しかし俺は、フェルメスのヘーゼルアイから目を離すことができない。


「もう一点、実生活に根差した例を挙げてみましょうか。……アスタの故郷における氏は、『トゥルミ』でしたね?」


「……いえ。正確には、津留見つるみです」


「なるほど、ツルミ。僕は東の言葉をたしなんでいるために、注意を払えば発音することも難しくはありませんが……西の言葉しか扱えない人間には、ちょっと慣れが必要な発音になるでしょう。アスタも早い段階でそれを実感したために、氏を名乗ることを取りやめたのではないですか?」


「ま、待ってください。俺はフェルメスの前で、氏を名乗ったことがありましたか?」


「申し訳ありません。それは僕が、勝手に調べあげた案件です。ただし僕の知る限り、アスタの氏を知るのはリミ=ルウただひとりであり……彼女もまた、正しく発音することができないようでした」


 それは、アイ=ファも同様である。最初に出会ったアイ=ファとリミ=ルウが二人そろって難渋していたため、俺は苗字を名乗ることを取りやめたのだった。


「無論、アスタの苗字が西の言語で発音しにくいこと自体は、何の不思議もありません。何せそれはまぎれもなく、異国の言葉であるのですからね。むしろ、アスタという名が発音に不自由のない言葉であったことを幸いと思うべきでしょう。では、ここでひとつ質問させていただきますが……西の民にとって発音しにくいのは、『ツル』という言葉です。アスタは他に何か、『ツル』という文字を含む言葉をご存じではないですか?」


「ツル……? 俺の故郷には、そういう名前の鳥もいましたけれど……蔓草の蔓だとか、つるつる滑るだとか、それぐらいしか思いあたりません」


「なるほど。ガズラン=ルティム、如何でしょうか?」


「……はい。蔓草という言葉は、日常でも使う機会がありますが……とぅるみというアスタの氏は、いささか口にしにくいようです」


 ガズラン=ルティムの返答が、俺の心をいっそうかき乱していく。

 そんな中、フェルメスの声がゆったりと響きわたった。


「これだけ検証を重ねれば、もう十分でしょう。アスタが口にしているのはニホンという国の言葉ではなく、大陸アムスホルンにおける西の言葉です。ただ、自分ではニホンの言葉を使っていると思い込んでいるだけであるのです。なおかつ、置き換えのできない固有名詞はそのままの発音で語られるため、こういった齟齬が生じるわけですね」


「ま、待ってください……それは、おかしいです。だって、アイ=ファは……以前に『舞踏』と『武闘』を取り違えていました。それは、日本語だからありえる現象であるはずです」


 それはもう遥かなる昔日、俺たちが初めてダレイム伯爵家のお屋敷に招かれた際のことである。侍女のシェイラが舞踏会にお誘いしたところ、武闘会と聞き違えたアイ=ファが了承してしまったのだ。


「それは、踊りを意味する『舞踏』と戦いを意味する『武闘』のことでしょうか? それらの発音はよく似ていますので、聞き違えても不思議はありませんね」


「そ、それなら――」


「それはたまたま、ニホンの言葉でも西の言葉でも似通った発音であったのでしょう。西の言葉は古語を含めると百万以上の単語が存在しますので、そんな偶然もひとつやふたつは生じるものと思われます」


 フェルメスは腹の上で組んでいた手をほどくと、その華奢な指先を可憐な唇にあてがった。


「まだ納得がいかないのでしたら、僕の口もとをしっかりご確認ください。アスタが頭で解釈している発音と唇の動きは、正しく一致していますか? 僕は西の言葉で語っているのに、アスタはそれをニホンの言葉として受け取っているだけなのではないですか?」


 フェルメスの言われるがままに唇を注視した俺は、いきなりぐにゃりと視界が歪むのを感じた。

 そしてそのまま椅子から落ちそうになったため、隣のアイ=ファが支えてくれる。そしてアイ=ファは、怒りに震える声を振り絞った。


「フェルメスよ、あなたは何をくどくどと述べたてているのだ? それで本当に、『星無き民』の正体が知れるのか?」


「どのような論においても重要であるのは、前提条件です。僕はまず、アスタが『夢のアスタ』と別人であるという証を立てる必要があるのです」


 フェルメスはいっかな心を乱した様子もなく、そのように言いつのった。

 アイ=ファの腕に支えられながら、俺はもはや青息吐息である。俺は自分の素性を見失ったばかりでなく、自分が語っている言葉についても真実を見失ってしまったのだった。


「ニホンで生まれ育った『夢のアスタ』がただ何らかの力で大陸アムスホルンに身柄を移されただけならば、いっさい言葉は通じなかったはずです。ですがアスタはこの大陸アムスホルンで生きていくために、西の言語を操る力を与えられているのです。それはまさしく、『星無き民』としての力であるのでしょう」


 俺の苦悩など歯牙にかけることもなく、フェルメスはそのように言いつのった。


「そして、言語というのはもっともわかりやすい一例にすぎません。きっとアスタは――いえ、『星無き民』というものは、大陸アムスホルンで生きていくのに相応しい肉体を授かっているはずです。これは検証の方法もない推論に過ぎませんが、『夢のアスタ』をそのまま大陸アムスホルンに放り出したら、そのまま絶命する危険すらあるはずです」


「……それは、何故でしょう?」


 口をきけない俺やアイ=ファに代わって、ガズラン=ルティムが先をうながす。

 それでまた嬉しそうな表情を垣間見せながら、フェルメスは言葉を重ねた。


「例をあげるならば、『竜神の民』です。大陸アムスホルンの外で生まれ育った『竜神の民』は『アムスホルンの息吹』を幼少期に発症していないため、大陸アムスホルンにうかうかと足を踏み入れると生命を落とす危険が生じます。船で気軽に行き来できるていどの距離でも、それほどの危険が生じるのです。これが異世界と呼べるほど遠方の地に生まれ育った人間であったならば……水や空気すら、毒に変ずる恐れが生じます。人も獣も長きの時間をかけて世界に順応してきたのですから、異なる世界でそう簡単に生きていけるはずがないのです」


「…………」


「ですから、アスタは『夢のアスタ』と同一人物ではありません。アスタはこの地で生きていくことを許された、『星無き民』であるのです」


「それじゃあ……」と、俺はかすれた声を振り絞った。


「『星無き民』とは……いったい何なんですか……? 俺はいったい何のために……いや、どうして俺は、この世に存在するのですか……?」


「それは、推論に推論を重ねるしかありません。そして、その一端はすでにお伝えしています。僕は『星無き民』こそが現代に生まれ落ちた聖人なのだろうと仮定しているのです」


 いよいよ晴れやかな面持ちで、フェルメスはそのように言いたてた。

 ジェムドとアリシュナはずっと無言のまま、俺たちのやりとりを見守っている。どちらも無表情であるために、内心はまったく知れなかった。


「ですから、『星無き民』を知るには、聖人を知るしかないでしょう。みなさんは、聖人のことをどれだけご存じなのでしょうか?」


「私たちが知るのは、『聖アレシュの苦難』に登場したアレシュという人物についてのみです。その人物こそが、四大王国に鋼の武器をもたらしたのだ、と……そういう話でありましたね」


 ガズラン=ルティムの返答に、フェルメスは「その通りです」と首肯した。


「ですがアレシュは、『創生の十六聖人』のひとりに過ぎません。四大王国は、十六名に及ぶ聖人の力によって国としての基盤を築きあげたのですよ」


「十六名? 聖人とは、それほどの人数が存在したのですか?」


「はい。ですが、不思議なことはないでしょう? 六百余年の昔、魔術文明を失った大陸の民たちは無の状態から新たな文明を築くことになったのです。むしろ、わずか十六名の助力でよくも立て直すことができたものだと、感心させられるほどです」


 どこか陶然とした眼差しになりながら、フェルメスは虚空に視線を飛ばした。


「みなさんも、どうか想像してみてください。大地の魔力が枯れ果てて、魔術の恩恵を失った哀れなる人々の姿を……場所を移動するのに道を築く必要もなく、火も水も風も大地も自由に扱うことができる、それが魔術の文明です。それらの恩恵を失った人々は、自らの知恵と力で自然の世界を切り開き、家を建て、畑を耕さなければならなかったのです。なまじ高い知性と豊かな生活の記憶を持っていたがために、それは途方もない苦悩であったことでしょう。そんな人々の絶望を救うために、天から遣わされた異能の民たち……それこそが、『創生の十六聖人』であるのですよ」


 もはや、ガズラン=ルティムも口をはさむことができない。

 そして俺も言葉の濁流に押し流されながら、フェルメスの声をぼんやり聞いているに過ぎなかった。


「『創生の十六聖人』は、さまざまな技術を大陸にもたらしました。土木、治水、農耕、狩猟……鋼の錬成を始めとする金属加工も、そのひとつに過ぎません。ただし、文明の変遷期には妖魅が存在したため、それを討ち倒すために鋼の武器が必須であったのでしょう。それで、鋼の技術を西の王国にもたらした聖人アレシュは、物語の主人公に祀りあげられたのでしょうね」


「…………」


「十六名の聖人は、四大王国に四名ずつ割り振られました。西の四聖人、アレシュ=ノヴァチェク、ミカエル=ヴェニゼロス、バート=スティグソン、ヘラルド=バジェス――東の四聖人、ユーハオ=ワン、リュウタロウ=ヨシザキ、アサド=ハッラーク、ディエゴ=モンテス――北の四聖人、ケヴィン=ブリンクマン、ルスラン=トロシュキン、ヴィルップ=レフラ、ヤコブ=ゲード――南の四聖人、クリフ=ブラックスミス、ヘルマン=カールソン、グスタフ=ムドラ、ティモ=アイヒホルン――これを合わせて、『創生の十六聖人』。大陸アムスホルンに新たな文明の礎を築いた、伝説の偉人たちです」


「…………」


「アスタの故郷にも、さまざまな国が存在したようですが……この中に、同郷だと思えるような名前はありましたでしょうか?」


 俺は無意識の内に、「はい……」と答えていた。


「リュウタロウ=ヨシザキというのは……たぶん、日本人だと思います……」


「そうですか。それもまた、僕の仮説を裏付けてくれる証言です」


 あらぬ方向を見上げたまま、フェルメスは自らの身を抱きすくめる。

 すると、アイ=ファが押し殺した声をあげた。


「それで……その事実は、何を意味しているのだ?」


「はい。やはり『星無き民』というのは、現代に遣わされた聖人であるのでしょう。シムは聖人たちの尽力もむなしく、百年ていどで石と鋼の文明を失ってしまいましたが、『白き賢人ミーシャ』によって復興が成されました。ミーシャことミヒャエル=ヴォルコンスキーもまた、『星無き民』であり……そして、現代に遣わされた聖人であったのです」


「ですが」と、ガズラン=ルティムも声をあげた。


「アスタがもたらしたのは調理の技術で、その恩恵を授かったのは森辺の民です。シムにおける第二の王朝を築いたというミーシャとは、比べるべくもないのではないでしょうか?」


 フェルメスはうっとりと目を閉ざしながら、「ですが」という言葉をお返しした。


「実際に、アスタは国をも動かしています。ジェノスの貴族たちに手腕を認められるばかりでなく、東と南の王族をも魅了して……ついには、西の王をも動かしたのです。世界に与えた影響という意味において、決して小さなものではないでしょう」


「それはそうかもしれませんが――」


「そして僕は、聖域の民ティアとの邂逅にも着目しています。もしもこのさき大地の魔力が蘇り、聖域の民が新たな魔術の文明を築いたならば、四大王国は大きな決断を迫られます。聖域の民と手を取り合うか、あるいは敵対するか……その際にアスタとティアの絆が何らかの影響を及ぼしたならば、それはかつての聖人たちにも引けを取らない偉業なのではないでしょうか?」


「…………」


「そして、鋼の武器を使いながら森の中に住み、外界の民と交わっても純真な心根を失わない森辺の民は、王国の民と聖域の民の架け橋になりえます。僕は森辺の民のことを知れば知るほどに、モルガの森辺こそが『星無き民』たるアスタが降臨するのに相応しい地であるのだろうという確信を抱くことになりました」


 フェルメスは恍惚とした顔になり、今にも随喜の涙を流しそうなほどであった。


「だから僕は、書物でしか目にすることのできなかった伝説そのものに立ちあっているような心地であるのです。どれだけみなさんの不興を買おうとも、この思いだけは留めることがかないません。僕は魂の奥底から、アスタの存在を……そして、それを受け入れてくれた森辺の民の存在を祝福しているのです」


「それで……」と、アイ=ファが押し殺した声を放った。


「それでけっきょく、『星無き民』とは如何なる存在であるのだ? 我々が知りたいのは、その一点であるのだ」


 フェルメスは自らの身を解放し、閉ざしていたまぶたを開いた。

 そして、光の躍る瞳を俺たちに向けてくる。


「『星無き民』とは、すなわち聖人です。そして聖人たちの故郷においては、大陸アムスホルンと比べ物にならないほど文明が発展しているのでしょう。その技術の一端を手中にしたことで、四大王国は文明の礎を築くことがかなったのです」


「では、誰がどのようにして聖人とやらを大陸アムスホルンに招いたのだ? そして、アスタの見た夢にはどのような意味が含まれているのだ?」


「それに関しては、人の身で解明することもかなわないのでしょう。ですが僕は古代の書物から、二つの糸口をつかんでいます。そのひとつは、みなさんもご存じである『聖アレシュの苦難』ですね」


 そうしてフェルメスは、かつて俺たちが目にした演劇のワンシーンを美麗なる声音で語り始めた。


                  ◇


 幾多の苦難を乗り越えたアレシュは、ついに屍の邪神ギリ・ラァと対峙した。

 アレシュは決死の形相で、創国の聖剣たる『あけ灼炎しゃくえん』を握りなおす。そんなアレシュを見下ろしながら、屍の邪神は怨嗟の念に満ちみちた声をこぼした。


「この世に不浄をもたらした、忌まわしき罪人よ……いまこそ、魂を返すがよい……」


「何を抜かすか! 邪神であるお前こそが、不浄の存在だ! 我が聖剣の前に、ひれ伏すがいい!」


「我々を闇に追いやったのは、貴様たちだ……貴様たちが、我々から光を奪ったのだ……」


 屍の邪神は腐り果てた巨体を蠢かせながら、嘲笑した。


「それに貴様は、どこに帰ろうというのだ……? 貴様に帰るべき場所などは存在しない……貴様はそのようなことすら、忘れてしまったのだな……」


「そのようなことはない! わたしは――!」


 邪神の言葉に打ちのめされたアレシュは、力なく膝をついた。


「わたしは……わたしは何処に帰るべきであるのだ? わたしの家族は、何処に消えてしまったのだ?」


「貴様には、故郷など存在しない……家族など存在しない……貴様は不浄の炎より生まれ出た、不浄の罪人であるのだ……」


 屍の邪神はおぞましい喜悦に巨体をよじりながら、アレシュの身に覆いかぶさろうとする。

 そのとき、世界が白き光に包まれた。


「……邪神に惑わされてはならぬ……其方はこの世に、光をもたらした……魔なるものが世界を統べる時代は終わったのだ……其方の鍛えし鋼の聖剣が、この世に新たな道を切り開くことになろう……」


 それはアレシュをこの世に遣わした、偉大なる西方神の声に他ならなかった。


                  ◇


「……以上です。この物語を目にしたアスタは、大きく心を乱してしまい……そして僕は、アスタたちの信頼を失ってしまったわけですね」


「……ええ。今にして思えば、アスタが見た悪夢と符号する部分も多いようです」


 ガズラン=ルティムが言う通り、『聖アレシュの苦難』の内容はあのときよりも遥かな重圧をともなって俺の心にのしかかってきた。


「そして、僕がつかんだもうひとつの糸口は……名も知れぬ詩人が残した、名もなき詩の一節です。その短い一節に、西の四聖人たるミカエル=ヴェニゼロスの名前があったのです」


 フェルメスは、歌うようにしてその内容をそらんじた。


 私は聖人などではない!

 私は英雄などではない!

 私はしょせん、まがいものだ!

 神の気まぐれで生み出された、模造品に過ぎないのだ!

 私などは、しょせん『こぴー』だ!

 さもなければ、『くろーん』だ!

 まがいものの私には、もはや故郷も家族も存在しない!

 私はこの得体の知れない蛮族どもに知恵を授けるだけの、神の道具にすぎないのだ!


「……以上の言葉が、聖ミカエルの嘆きの言葉として記されていました。アスタであれば、『こぴー』や『くろーん』といった言葉を理解できるのでしょうか?」


 俺は、返事をすることができなかった。

 アレシュとミカエルの言葉が――そして、邪神と西方神の言葉が、俺の中でひとつの答えを組み上げ始めたのだ。


「それが……それが、『星無き民』の正体なのですね?」


 俺が無意識の内につぶやくと、フェルメスは静かに「はい」と応じた。


「無論、文献に残された言葉は糸口に過ぎません。そこから真実を導き出すのは、今を生きる人間の役割であるのです」


 俺は、きつくまぶたを閉ざした。

 しかし、それではとうてい抑えきれない熱いものが、頬の上にこぼれ落ちる。とたんにアイ=ファが、「アスタよ!」と俺の身に取りすがってきた。


「お前は、何を泣いているのだ? 『星無き民』が何であろうと、お前は――」


「うん……俺にはやっと、『星無き民』の正体がわかったような気がするよ……『星無き民』は……不浄の炎から生まれた、不浄の罪人だったんだ……」


 アイ=ファの力強い指先が、俺の腕をぎゅっと握りしめてくる。

 しかし、その力がすぐにやわらげられた。おそらくは、俺の表情に気づいてくれたのだ。

 俺は涙を流しながら、笑っているはずであった。


「……不浄という言葉を使ったのは、屍の邪神です」


 フェルメスの穏やかな声に、俺は「はい」と応じてみせる。


「邪神というのはもともと正しい神であったのに、大神アムスホルンともども闇の向こうに追いやられたのだという話でしたよね。それを崇めるのは聖域の民であり、魔術を禁じた四大王国においては邪神として扱うしかなかった、と……そんな風に、ジェムドから聞きました」


 俺がそれを耳にしたのは、モルガの聖域においてのことだ。四大王国において邪神と見なされているのは、すなわち聖域においてひそかに語り継がれていた眠れる小神の名であったのだった。


「滅びゆく魔術文明の側からしたら、新たな勢力である石と鋼の文明は、不浄と見なすしかなかったんでしょう。ティアだって、鋼の武器を不浄の存在だと言い張っていましたからね。だから聖人は、不浄の炎から生まれた罪人……魔術文明に引導を渡す、最後のとどめだったんでしょう」


「はい。それは、僕の解釈とも一致します」


「そのために、聖人は異世界から引っ張り出された……新たな文明に必要な知識と技術を持つ人間が選ばれて、そして……コピーやクローンのような模造品が作られたんでしょう。そんな真似ができるのは、やっぱり神様なんでしょうね」


「はい。聖人を大陸アムスホルンに遣わせたのは、四大神です。父なる大神アムスホルンが目覚めるまでは、四大神がこの地を守らなければならなかったのですからね」


「それなら俺は、やっぱり西方神の子です。俺は、津留見明日太という人間を原材料にして生み落とされた、まったくの別人であったわけです」


 それが、俺の組み上げた答えであった。

 それが事実であるかどうかを検証するすべはない。人間に、神の御業を解き明かすすべなどは存在しないのだ。このフェルメスは、おのれの才覚ひとつでその禁断の真理を追い求めているわけであった。


「……アスタは、なぜ笑っているのでしょう? 自分が模造品であったことを、むしろ喜んでいるようにすら感じられます」


 涙でぼやけた世界の中で、フェルメスがそんなつぶやきをこぼした。

 俺は心のままに笑いながら、「はい」とうなずいてみせる。


「フェルメスが仰る通り、俺は喜んでいます。自分が津留見明日太の偽物であるということが確信できて……とても嬉しいんです」


「……それは、何故でしょう?」


「たとえ偽物であろうとも、俺は津留見明日太として過ごしてきた十七年間の思い出を備え持っています。そんな俺にとって、親父や幼馴染の存在は……アイ=ファと同じぐらい、大切な存在だったんです」


 そのアイ=ファの温もりを腕や肩に感じながら、俺は真情をぶちまけた。


「だから俺は、ずっと自分の行いを苦に思っていました。包丁一本のために、燃える家の中に飛び込んで……そうして呆気なく生命を落として、親父や幼馴染を悲しませてしまったことを……そんな馬鹿な真似をした自分のことが、どうしても許せなかったんです」


 そのように語りながら、俺は肩をつかんだアイ=ファの手に自分の手を重ねた。


「しかも自分は何事もなかったかのように生き返って、二度目の人生を歩むことになりました。そうして、アイ=ファと出会ったことで……またとない幸せをつかむことができたんです。親父や幼馴染に悲しい思いをさせておきながら、自分だけが幸せになるなんて……そんなことが許されていいのかと、そんな思いに苛まれることになりました」


 それが、俺がずっと心の奥底に隠し続けてきた傷だった。

 一生消えることはないだろうと覚悟していたその傷が、とろとろと溶け崩れていく。その得も言われぬ感覚が、俺の心を打ち震わせていた。


「でも、本物の津留見明日太が生き残って、親父や幼馴染と楽しく暮らしているのなら……俺は、自分を許すことができます。だから俺は、嬉しいんです」


 あの悪夢の中で真実を最初に目の当たりにしたときに抱いた、深い喜びと安堵感――それが数十倍の質量をともなって、俺の心を満たしていた。


 俺は、あのときの思いを重んずるべきであったのだ。

 自分が何者であるかを見失ったことで、俺は親父や玲奈の幸せを祝福することもできず、ひとりうじうじと思い悩んでいたのだ。やっぱり俺は、どうしようもないほど不出来な人間であった。


「……ごめんな、アイ=ファ。俺にも、ようやくわかったよ。俺は……他の誰でもない、ファの家のアスタだったんだ」


 そのように語りながら、俺はアイ=ファのほうを振り返ろうとした。

 しかしそれよりも早く、アイ=ファのしなやかな両腕で抱きすくめられてしまった。


 人の目をはばかるゆとりもなく、アイ=ファは渾身の力で俺の身を抱きすくめる。

 その怪力にしぼられるようにして、俺はさらなる涙をこぼすことになったのだった。

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― 新着の感想 ―
アイデンティティの喪失というのは本当に恐ろしいことですよ。 俺は逆にアスタがここまで吹っ切れるのが早かったことに驚いています。普通こんな簡単に吹っ切れるわけがない。 そして、それを成したのはこの世界で…
前話の感想に書いた通りの内容だったなという所感。 この章のアスタに気持ち悪さを感じているのが自分だけではないと知ることができて良かった。 今までの積み重ねが本当に意味なかったレベルでアスタが精神弱すぎ…
そうそう、向こうを気にしなくていいのは祝福足り得るんだよね、吹っ切れて良かったよ 途中の似た思想に挙げられたガーデルとの交流もまた楽しみになってきたねぇ
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