星無き民①~一縷の望み~
2025.9/26 更新分 1/1
その夜――俺は、一睡もすることができなかった。
俺は心身ともに疲れ果てていたというのに、うとうとと意識を失いそうになるたびに、猛烈な不安感に襲われて跳び起きることになったのだ。
眠りに落ちたならば、また同じ夢に見舞われるかもしれない。
そんな風に考えるだけで、俺は背筋が寒くなってしまった。夢の中で、親父や玲奈たちはとても幸せそうに過ごしていたが――今の俺には、それを祝福することもかなわなかったのだった。
そうして俺が跳び起きるたびに、隣のアイ=ファも一緒に目を覚ましてしまう。
それでまた、俺はとてつもない罪悪感と自己嫌悪にとらわれることになった。
「俺にかまわず、アイ=ファは眠ってくれよ。もう手を繋がなくても大丈夫だから……」
「馬鹿を抜かすな。それほどに苦しんでいるお前を放っておけるものか」
アイ=ファは怒った声で言い、半身を起こしていた俺を寝具の上に引き戻した。
そして、握っていた手を離すや、俺の身をふわりと抱きすくめてくる。その突然の行いに、俺はいっそう心臓を騒がせることになった。
「もう悪夢の正体は見定めたのだから、こうして身を寄せてもかまうまい。たとえ眠れずとも、とにかく横になっておけ。それだけで、回復の度合いはずいぶん違ってくるはずだからな」
「う、うん。でも、アイ=ファは眠っておいたほうが……」
「私はひと晩ぐらい眠らずとも、力を振るうことができる。森辺の狩人を、侮るなよ」
口では勇ましいことを言いながら、アイ=ファは母親のように優しく俺の身を抱きすくめてくる。
その温もりに、俺は――どうしようもなく、涙をこぼしてしまった。
「今日だけは、お前の不甲斐なさを許してやる。だから何も考えずに、身を休めよ。そうして、明日という日に立ち向かうのだ」
そうして俺は、アイ=ファのやわらかい髪に顔をうずめ――一睡もできないまま、ただアイ=ファの温もりにひたって一夜を明かしたのだった。
◇
そうして朝がやってきたならば、フェルメスとの約束の刻限まではいつも通りの日常である。
しかし俺は、十全に仕事を果たすことができなかった。眠れぬ一夜を過ごしたことで心身からいっそうの力が失われて、調理刀を扱うこともままならなかったのだ。
こんな状態でかまど仕事に臨んでも、周囲に迷惑をかけるばかりである。
俺は恥をしのんで、ユン=スドラに取り仕切り役をお願いするしかなかった。
「アスタのお力になれるのでしたら、光栄な限りです。どうぞ安心して、わたしにおまかせください」
ユン=スドラは力強い表情でそのように語っていたが、その目には昨日以上に懸念の光が瞬いていた。
そして今日に至っては、すべての女衆に不調を知られることになってしまった。かまど仕事に取り組めないなどというのは、もはや病人同然であるのだ。眠れぬ一夜を過ごした俺は、自分でわかるぐらい頬の肉が落ちてしまっていた。
きっと俺は、さぞかし陰鬱な眼差しになっているのだろう。
どれだけ空元気を振り絞ろうとしても、心の真ん中にあいた穴からするすると逃げていってしまう。気力が萎えれば体力が落ち、体力が落ちれば気力も萎えるという、俺は救いのない負のスパイラルに陥ってしまっていた。
それでも俺はかまど小屋に身を置いて、みんなの働きぶりを見守っていたのだが――その光景は、昨日以上に遠く感じられてならなかった。
俺と世界を隔てている見えない壁が、いっそうの分厚さに膨れあがってしまったようだ。俺はそれこそ、客席の暗がりから華やかな舞台を見上げているような心地であった。
(世界を舞台のように見るなんて……まるで、ガーデルみたいだな……)
ガーデルも、こんな虚ろな気持ちを抱えて生きているのだろうか。
自分などが生きていてもしかたがない。自分などが世間に関わるのは申し訳ない。――かつてはまったく理解できなかったガーデルの言葉が、とてつもない重さで俺の心にのしかかってきた。
(でも……ガーデルはジェノスを離れておいて、正解だったな……)
今ごろガーデルは三名のお目付け役に見守られながら、隣町のベヘットで療養しているのだ。俺が王宮の料理番に指名された一件は答えが出るまで公表しないという話であったが、もしもガーデルがその話を耳にしてしまったら――国王を相手に、とんでもない騒ぎを起こす危険があった。
(王の正体は、絶対の秘密だけど……最初の会談の場では、同じ部屋に従者が控えてたもんな。城下町で噂が広まるのは、時間の問題なんだろう)
その前に、俺は然るべき決断を下さなければならない。
しかし今の俺は頭も心も乱れきっているため、まずは自分を律さなければならないのだ。そのために、俺はフェルメスに助力を願ったのだった。
(『星無き民』についてよく知れば、俺が見た夢の意味をきちんと理解できるかもしれない……俺は最初から、そうするべきだったのかな……)
何を考えても、今は後ろ向きな思考になってしまう。
それぐらい、俺の心は崖っぷちに追い込まれていたのだった。
「アスタよ、ライエルファム=スドラが来てくれたぞ」
と、女衆が下ごしらえに励むさなか、かまど小屋の外からそんな言葉が届けられた。
俺が意識的に背筋をのばして戸板をくぐると、そちらでアイ=ファとともに待ちかまえていたライエルファム=スドラが難しい顔で「なるほど」と首肯する。
「これは確かに、ただならぬ様子だ。ユンから聞いていた以上だな」
「うむ。昨晩はまともに眠ることもかなわなかったため、いっそう力を落としてしまったようであるのだ」
ライエルファム=スドラが相手であるため、アイ=ファも何も包み隠そうとはしない。ライエルファム=スドラは音もなく進み出て、俺の二の腕にそっと触れてきた。
「アスタは悪夢というものに、そうまで心を蝕まれてしまったのだな。かなうことならば、俺が悪夢の中まで乗り込んでやりたいほどだ」
「ありがとうございます。でも、こればかりは自分でどうにかするしかありません。心配をおかけして、本当に申し訳なく思っています」
「心配など、いくらでもかけるがいい。喜びも苦労も分かち合うのが、森辺の同胞であるのだからな」
そう言って、ライエルファム=スドラはくしゃっと笑った。
「本当はチムたちも様子を見にいきたいと願っていたのだが、あまり大勢で押しかけては迷惑であろうと思い、俺が代表として参じたのだ。何があろうとも、俺たちがついているからな」
「……はい。ありがとうございます」
俺が心の虚ろさに耐えながら答えると、ライエルファム=スドラは笑みを消して真剣な眼差しになった。
「そうか。今はそんな励ましの言葉も、アスタの負担になってしまうようだな。余計な心労を負わせてしまい、申し訳なかった」
「い、いえ、とんでもありません。それは、俺のほうがおかしいのですから……」
「うむ。今のアスタは、明らかに正しき道を見失っているようだ。しかし、それしきのことでアスタを見放したりはせんぞ」
俺の腕をつかむ手にわずかな力を込めながら、ライエルファム=スドラはそう言った。
「フェルメスとの語らいでアスタの懸念が晴れれば何よりだが、それでも無理ならば俺たちがともに解決の道を探ろう。六百名からの同胞が頭をひねれば、何らかの道を見いだせるはずだ」
「あ、ありがとうございます……こんな言葉しか返せない自分が、情けなくてしかたがありません」
「アスタはこれまで、数えきれないほどの同胞を救ってきたのだ。今は存分に、同胞を頼るがいい」
最後にまた子猿のような笑顔を見せてから、ライエルファム=スドラはアイ=ファのほうに向きなおった。
「それで今日は、誰が城下町に出向くのだ? もはや護衛役は必要ないという話であったが……それは確かな話であろうか?」
「うむ。あちらが荒事に及ぼうという気配は、一切ない。王からの申し出を正式に断ったならば、また風向きが変わるやもしれんがな」
厳しい表情で、アイ=ファはそう言った。
「よって今日は、私とガズラン=ルティムだけが同行することにした。語らう相手はフェルメスであるのだから、それ以上の護衛役は必要あるまい」
「そうか。了承した。いつでも護衛の役を受け持てるように、俺はしっかり仕事を果たしておくとしよう」
「うむ。それで実は、折り入って相談があるのだが……もしもスドラの狩り場が落ち着いているようであれば、ファの狩り場を預かってもらえないだろうか?」
「ああ、アイ=ファは昨日も狩人の仕事を休んだのだったな。しかし、レイの婚儀の日には仕事を果たしたのであろう?」
「うむ。しかしその二日前は家長会議であったし、その二日前は城下町の祝宴であったからな。明日以降も、どうなるか知れたものではないし……ギバに狩り場を荒らされる前に、手を打っておきたいのだ。もしも難しいようであれば、せめてブレイブたちをそちらの狩り場で使ってもらいたい」
「ファの猟犬を借り受けられるのは、ありがたい限りだな。こちらはそろそろスンの狩り場にでも出向こうかと思案していたところであるので、問題はないぞ。フォウとランにも声をかけて、手の空いている狩人でファの狩り場を預かるとしよう」
「ありがたい。ライエルファム=スドラの温情に、心よりの感謝を捧げよう」
そうしてアイ=ファは目礼をすると、俺のほうを振り返り――そして、きゅっと眉をひそめた。
「アスタよ、また目が陰っているぞ。今日は宿場町に出ず、家で身を休めるべきであろうな」
「い、いや、大丈夫だよ。どうせフェルメスと会うのは、屋台の商売が終わってからなんだから……」
「そのような状態で、まともに仕事を果たすことはできまい。また、バランやラダジッドたちを心配させるだけであろうな」
そんな風に言われては、俺も二の句が告げなかった。
そこでライエルファム=スドラが、「うむ?」と視線をさまよわせる。
「何者かがファの家にやってきたようだな。この気配は……シュミラル=リリンか」
「うむ。森辺の狩人として特異な立場にあるシュミラル=リリンは、独特の気配を身につけつつあるようだな」
やがてトトスの手綱を引いてかまど小屋のほうにやってきたのは、まさしくシュミラル=リリンであった。
そしてその目が俺の姿をとらえるなり、心配そうな光を瞬かせる。シュミラル=リリンは手綱を木の枝に結びつけるよりも早く、俺の手を握りしめてきた。
「アスタ、聞いていた以上、深刻です。どうか、身、休めてください」
「うむ。ついにシュミラル=リリンまで駆けつけてしまったか。アスタを気にかけてくれて、感謝するぞ」
「はい。アスタ、友ですので、当然です」
シュミラル=リリンの切れ長の目が、食い入るように俺を見つめてくる。
俺はその情愛を受け止められるように、なんとか頭をもたげ続けた。
俺の不調はそうまで知れ渡っていないはずであるのに、こうまでさまざまな相手が駆けつけてくれるのだ。
それなのに、俺の心は正しく反応してくれない。俺などに、そんな価値があるのか――と、そんな不毛な想念が先に立ってしまうのである。
こんな俺が、フェルメスとの対話だけで真っ当な心持ちを取り戻すことがかなうのか。
それはまったく想像もつかなかったが――今はとにかく、フェルメスの見識に一縷の望みをかけるしかなかった。
◇
そしてその後はユン=スドラに助けられながら代役のかまど番に連絡をつけて、俺はその日の商売を休むことになった。
しかし家に居残っても、なすべき仕事などは残されていない。俺はアイ=ファの言いつけで母屋に引きこもり、ジルベやサチたちの温もりに囲まれながらぼんやりと過ごすしかなかった。
ブレイブとドゥルムアはライエルファム=スドラに引き取られたので、家に居残っているのはジルベとラム、サチとラピ、そして三頭の子犬だけだ。なおかつ今はアイ=ファがラムと子犬たちを外で遊ばせており、俺を囲んでいるのはジルベとサチとラピの三名のみであった。
ジルベはとても心配そうに耳を垂らしながら、俺の身に頭をすりよせている。
いっぽうサチはいつも通りのすました面持ちであったが、俺の膝の上から動こうとしない。俺よりもアイ=ファに懐いているラピはいくぶん所在なさげにしつつ、俺の手が届く場所で丸くなっていた。
今の俺にとっては、他者との会話すら負担になってしまうのだろう。口をきけないジルベたちに囲まれていると、ずいぶん心を安らがせることができた。
そうして時には、うとうとと微睡むこともあったが――意識が途絶えそうになると、得も言われぬ不安感に見舞われて覚醒してしまう。そして、いっそう心配げな眼差しになったジルベに顔や手の甲を舐められることになった。
しばらくすると、アイ=ファが小屋に通ずる戸板のほうから顔を覗かせる。その向こう側には、遊び疲れてごろごろと寝転ぶ子犬たちの可愛らしい姿が見えた。
「そろそろ中天だな。ユン=スドラたちが食事を準備してくれたので、それで腹を満たすとしよう」
「ああ、うん……それじゃあ、俺が温めなおすよ」
「いいから、お前は待っていろ。汁物料理を温めなおすぐらい、私にもできる」
そんな風に言ってから、アイ=ファはやわらかく微笑んだ。
「こうしてお前の世話を焼いていると、二年前の雨季を思い出すな」
「ああ、うん……あのときも、アイ=ファにお世話をかけちゃったよな」
「家人の危機に力を尽くすのは、当然の話であろう。……今のお前はあのときに劣らぬほど、危機的な状況であるのだろうしな」
そんな言葉を残して、アイ=ファは小屋から外に出ていく。
広間に残された俺は、またもや涙をこぼしてしまったが――やがてかまど小屋から戻ってきたアイ=ファは俺が目を赤くしていることを指摘しようともせず、ただ優しい眼差しで見守ってくれた。
そうして時間は、ゆるゆると流れすぎていき――下りの一の刻の半に達したところで、俺たちは母屋を出た。
ジルベは最後まで心配そうな眼差しであったが、本日は留守番だ。アイ=ファは多くを語ろうとしなかったが、どうやらダッドレウスたちの注意をひかないように取り計らっている様子であった。
ギルルの荷車で出立し、ルウの集落に到着すると、そちらではガズラン=ルティムが待ち受けている。
荷台でガズラン=ルティムを迎えた俺は、また頭を下げることになった。
「ガズラン=ルティムは、三日連続で狩人の仕事を休むことになってしまったんですよね。本当に申し訳ありません」
「いえ。私もつい先刻までは森に入り、罠を仕掛けた場所を巡っていました。収獲をあげることはできませんでしたが、多少の力にはなれたかと思います」
果てしなく優しい面持ちで、ガズラン=ルティムはそんな風に言ってくれた。
「それよりも、今はご自分のことを優先してください。我々とて、アスタを失うことはできないのですから……これはまさしく、ジェノスそのものを巻き込む大きな試練でありましょう」
俺なんかに、そんな価値はない――半ば無意識にこぼれそうになった言葉を、俺は慌てて吞み下すことになった。
周囲の人々にとって、俺の素性など関係ないのだ。俺は最初からわけのわからない素性を申し述べていたのに、誰もがそれを受け入れてくれたのである。よって、俺の素性がいっそう不可解なものに成り果てたことに気を病んでいるのも、俺ひとりであるわけであった。
(俺は頭を打つか何かして正気を失っているのかもしれないなんて、そんな苦しまぎれの言い訳をすることもあったけど……自分の記憶が頼りにならないっていうのは、こんなに不安な心地だったんだな……)
そんな思いを噛みしめながら、俺は荷台で揺られ続けた。
やがて宿場町に到着しても、どうしても外の様子をうかがおうという気持ちになれない。きっと今の俺は屋台で働くみんなの姿を見ても、疎外感しか覚えることはないだろう。俺の心にあいた穴はどんどん大きく広がっていき、このままではすべてを食い尽くされてしまいそうだった。
「お待ちしておりました。連日、ご苦労様ですな」
城門の前まで到着すると、そんな声が聞こえてきた。昨日も送迎の役目を担ってくれた、初老の武官である。
「本日は、ポルアース殿から三名分の通行証をお預かりしております。どうぞ、こちらの車にお乗りください」
ガズラン=ルティムとともに荷台を降りた俺は、「あれ……?」と小首を傾げることになった。初老の武官が、お仕着せではなく普通の装束を身に纏っていたのである。
「本日は、人目をはばかる送迎というお話でありましたからな。このような大役をおまかせされて、光栄の限りですぞ」
そう言って、初老の武官はにこりと微笑んだ。
準備されていたのも、一頭引きの小さな車である。粗末なわけではないが上等すぎることもなく、城下町ではごく一般的な質であろうと思われた。
「フェルメスもポルアースも、王都の者たちの注意をひかないように腐心してくれたのであろうな」
「ええ。とりわけフェルメスは、アスタに肩入れすることを許されない立場なのでしょうからね」
車中では、アイ=ファとガズラン=ルティムが小声でやりとりをしていた。
そしてどちらも、むやみに俺に語りかけてこようとはしない。今の俺には雑談さえもが重荷であると察してくれているのだ。俺はありがたさよりも申し訳なさがつのってしまい、恥じ入るばかりであった。
そうして車は、貴賓館に到着する。
こちらは庶民の居住区域に位置しており、貴族たちが過ごす区域から遠く離れているため、密談の場に選ばれたのだろう。俺たちが地面に降り立つと、初老の武官がにこやかに笑いかけてきた。
「では、わたしは車を預けたのち、控えの間で待機しておりますぞ。お帰りの際は、屋敷の人間にその旨をお伝えくだされ」
「うむ。あなたの親切と助力に、心よりの感謝を捧げよう」
「なんのなんの。我々とて、同じジェノスの民なのですからな。余計な気づかいは無用ですぞ」
そのように語る武官に見送られて、俺たちは建物の入り口をくぐった。
普段はシェイラなどが待ちかまえているが、本日は貴賓館で働く侍女に出迎えられる。どうやらそちらは森辺の民に免疫がないらしく、いくぶん動揺の気配を漂わせていた。
「よ、ようこそ貴賓館に。森辺の民の三名様でございますね? どうぞ、ご案内いたします」
本日は厨に向かうわけでもないので、浴堂に案内されることもない。かつてトゥラン伯爵家の私邸であった堅牢なる回廊を踏み越えて、俺たちは二階の一室まで案内された。
「し、失礼いたします。お約束のお客様がご到着されました」
侍女が呼びかけると、扉の向こう側から「どうぞ」という声が聞こえてくる。
ただしそれは、女性の声であり――そして、俺には聞き覚えのある声であった。
「お待ちしていました。アスタ、アイ=ファ、ガズラン=ルティム、お迎えできること、光栄です」
部屋に入って扉を閉めると、予想通りの相手がしずしずと近づいてくる。
それは東の占星師、アリシュナに他ならなかった。
「……そうか。お前はこちらの屋敷で寝起きしているのであったな」
「はい。密談の場、選ばれたこと、光栄です。お客人、あちら、お待ちです」
夜の湖のように静謐な眼差しをしたアリシュナは、ほっそりとした腕で通路の奥を指し示す。そうしてともに歩を進めると、アリシュナは俺のほうに切れ長の目を向けてきた。
「アスタ、憔悴、想像以上です。私、胸、張り裂ける思いです」
「す、すみません。アリシュナにまでご心配をかけてしまって……」
「いえ。アスタ、力、添えられること、嬉しく思います」
完璧なまでの無表情で語りながら、アリシュナは突き当たりに現れた部屋の扉を開いた。
そちらは窓に帳が下ろされていて、とても薄暗い。そして、とても清涼なお香の香りで満たされており――その奥で、フェルメスとジェムドが座していた。
「お待ちしていました。無事に到着されて、何よりです」
フェルメスが身を起こして、ゆったりと微笑みかけてくる。しかしすぐさま、その秀麗なる眉が下げられた。
「アスタはこの一日で、さらに力を落としてしまいましたね。それほどまでに、大きな苦悩を抱えているのでしょうか?」
「……はい。今回ばかりは、それを否定することもできません」
「僕でよければ、助力は惜しみません。まずは、楽になさってください」
俺とアイ=ファとガズラン=ルティムは、フェルメスと向かいの椅子に着席する。そしてアリシュナは、フェルメスのかたわらに腰を下ろした。
「このたびは、アリシュナにも助力を願いました。もしも『鷲の眼』が目を光らせていたとしても、アスタが東の占星師を頼ったと報告されるだけでしょう。僕とジェムドが参じていることは気づかれていないはずですので、ご安心ください」
そんな風に言ってから、フェルメスはくすりと笑った。
「とはいえ、アスタが僕などを頼ったと露見しても、立場が悪くなるのは僕ひとりでしたね。これは、余計な言葉を語ってしまいました」
「うむ。それでもアスタの申し出を了承してくれたこと、心より感謝している」
「それはあまりに、水臭い物言いです。アイ=ファとしては不本意かもしれませんが、僕もアスタの友であるつもりなのですからね」
「何も不本意なことはない。あなたと確かな絆を結べたことを、私は心から得難く思っている。……ガーデルとの関係がこじれている今は、なおさらにな」
アイ=ファが真剣な面持ちで語ると、フェルメスは悪戯小僧のように目を細めた。
「僕がアスタを研究の対象としてしか見ていなかったならば、ガーデルと同じ末路を辿っていたかもしれませんね。まあ、僕には荒事に及ぶ力もありませんし、そもそもアスタの人生に余計な干渉をする心づもりもありませんので、おのずと異なる道を辿るのでしょうが……ともあれ、危急の際に頼っていただけるのは、光栄な限りです」
「うむ。それではさっそく、相談に乗ってもらえようか?」
「相談」と、フェルメスは噛みしめるように繰り返した。
「それは光栄の限りですが、どうして僕などを頼ろうと考えたのかがわかりません。アスタはいったい、如何なる苦難に見舞われてしまったのでしょうか?」
「俺は……アリシュナが予見していた通り、悪夢を見ることになったのです」
そうして俺は、悪夢の内容を語って聞かせた。
俺の言葉を聞く内に、フェルメスのヘーゼルアイがどんどん輝きを増していく。そして彼はそれを隠したいかのように、目を細めた。
「それが、アスタの悪夢の正体だったのですね……故郷で幸せそうに過ごす、もうひとりの自分……なるほど……」
「フェルメスであれば、その夢の意味を正しく読み取ることがかなうのであろうか?」
アイ=ファが身を乗り出すと、フェルメスはジザ=ルウのように目を細めたまま微笑んだ。
「僕はただの学士あがりですので、夢の意味を読み解く作法などは持ち合わせていません。ただ……僕が知る『星無き民』の情報と照らし合わせれば……何らかの答えは出せるように思います」
「ではどうか、それを我々に教示してもらえようか?」
アイ=ファがそのように言いつのると、フェルメスは同じ面持ちのまま「よろしいのでしょうか?」と反問した。
「それは僕に、アスタの存在を研究材料のように扱えと言っているようなものです。かつての僕は、それでアスタやアイ=ファの不興を買ってしまったのですよね?」
「うむ。しかし、あの夢が『星無き民』というものに関わっているのならば……我々は、その意味を探らなくてはならないのだ」
膝の上で両方の拳を固めたアイ=ファは、フェルメスに向かって頭を垂れた。
「かつてあなたの行いを否定していた我々がこのような願い出をするのは、きわめて不遜であるのだろう。それでもどうか、助力を願いたい。アスタはこの試練を乗り越えるために、本来の力を取り戻さなくてはならないのだ」
「……ですが、『星無き民』の真実を知ることで、いっそうの苦悩を抱える可能性もあるのではないでしょうか?」
心地好いチェロの音色を思わせる声で、フェルメスはそう言った。
「二年前のあの日、アスタは『聖アレシュの苦難』の内容を知ることで、心を乱してしまいました。そして今回は悪夢によって、さらにその先を知ることになり……そうして、これほどに憔悴してしまったのです。真実に近づけば近づくほど、アスタの苦悩はつのってしまう可能性があるはずです」
「しかし、立ち向かうべき真実の全容が知れなければ、戦うこともままなるまい」
面を上げたアイ=ファは、鋼のような声でそう言った。
「そして、敵の全容さえ知れれば、アスタは全力で立ち向かえるはずだ。私は、そのように信じている」
「そうですか。……アスタも異存はありませんか?」
俺はとてつもない不安感に見舞われながら、それでも「はい……」と答えてみせた。
「どんな話を聞かされようとも、今より状況が悪くなるとは思えません。フェルメスが何かご存じなのでしたら、すべてを知りたいと……思います」
「承知しました」と、フェルメスは細めていた目を見開いた。
その緑色と茶色が入り混じったヘーゼルアイは、星のようにきらめいており――それでいて、底知れぬブラックホールのごとき吸引力をも備え持っている。弱りきっていた俺の魂は、すぐさまその輝きの渦に呑み込まれてしまいそうだった。
「それでは、僕が知る限りのことをお伝えいたしましょう。しょせんは机上の空論に過ぎませんが……それでも、真実の一面ぐらいはとらえているだろうと思います」
そうして俺たちはお香の漂う薄暗い一室で、『星無き民』の真実について語らうことになったのだった。




