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異世界料理道  作者: EDA
第九十八章 新星
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銀の獅子②~面談~

2025.9/23 更新分 1/1

 宿場町における商売を終えた後、俺たちは城下町に向かうことになった。

 人数は、六名。俺とアイ=ファ、ルド=ルウによって森辺から呼びつけられたドンダ=ルウ、ガズラン=ルティム、族長代理のゲオル=ザザ、ディック=ドムという顔ぶれである。


「いきなり刀を向けられることはあるまいが、東の王子の例もある。如何なる事態にも対応できるように、気を引き締めておけ」


 ドンダ=ルウは重々しい声音でそのように言いつけていたが、アイ=ファたちは最初から狩人の気迫をみなぎらせていた。


 ギルルの荷車だけを残して、他なる荷車は森辺に戻っていく。その際にも、トゥール=ディンたちが心配そうに励ましてくれた。


「ア、アスタ、どうかお気をつけてください。森辺で無事なお帰りをお待ちしています」


「うん。トゥール=ディンたちも、気をつけてね。何事もなかったら、俺も勉強会に参加させてもらうからさ」


 そうしてトゥール=ディンたちはルド=ルウたちに護衛されながら、森辺へと帰っていった。

 そしてこちらが城門に向かうと、道中でユン=スドラたちの荷車と行きあう。その際には、護衛役のバルシャからドンダ=ルウに報告が届けられた。


「あっちの広場でも、王都の一団のことは取り沙汰されてたよ。なんでもそいつらは、最初の年と同じぐらいの兵士を引き連れてるって話だね」


「最初の年というと、監査官のことだな。では、二百名もの兵士を連れているということか」


「ああ。ただしそいつらも、丸ごと城下町に引っ込んだみたいだね。こっちの屋台にも、あやしげなやつが近づくことはなかったよ」


「承知した。集落に辿り着くまで、気を抜かぬようにな」


「うん。そっちも頑張っておくれよ。あんたに何かあったら、リミ=ルウたちが黙ってないからね」


 バルシャは不敵な笑みを残して、荷車に戻っていく。

 そして俺は、荷台から心配げな顔を覗かせているジルベに笑いかけた。


「ジルベも、お疲れ様。家でのんびり待ってておくれよ」


 ジルベは「くうん」と力ない声をこぼす。やっぱり俺が復調していないことは、ジルベに筒抜けであるようであった。

 そして、本日の当番であったユン=スドラとラッツの女衆、レイナ=ルウとマァムの女衆も俺の顔をじっと見つめている。その中で、本日初めて顔をあわせるレイナ=ルウが心配げな声をあげた。


「確かにアスタは、目から力が失われているようです。そのおつらさを肩代わりすることはできませんが……どうか、無事に戻ってきてください」


「うん。必ず無事に戻ると、約束するよ。レイナ=ルウたちも、気をつけて帰ってね」


 俺は誰に対しても、同じような言葉を繰り返すことしかできない。しかし、その場その場で真情を振り絞り、すべての相手と全力で向き合っているつもりであった。


 俺が俺として生きていけるのは、これまでに出会ったすべての人々のおかげであるのだ。それを二の次にしてしまったら、それこそ俺はこの世に生きる意味を失ってしまうはずであった。


「何があろうとも、我々が守る。お前は、強く心を持つのだぞ」


 荷車が歩を再開させると、アイ=ファが真剣な面持ちで詰め寄ってきた。ギルルの手綱は、ディック=ドムが預かってくれたのだ。俺はめいっぱいの気合で「うん」と答えたが、アイ=ファの鋭い眼差しににじむ憂慮の影は消えなかった。


 やがて城門に到着すると、そちらには立派なトトス車が待ちかまえている。

 御者はお馴染みである初老の武官で、王都の兵士らしき人間の姿はない。また、そちらの武官もいつも通りの朗らかさであった。


「到着するなり森辺のお歴々を呼びつけるとは、このたびの外交官殿はずいぶん性急な御方であるようですな。みなさんも決して短慮を起こさず、どうぞ穏便な関係をお目指しください」


「ええ、そのつもりです」と、ガズラン=ルティムが如才なく答えると、初老の武官はいっそう安らいだ笑みを浮かべた。

 彼はきっと、森辺の民の器量というものを信じてくれているのだろう。俺たちはこれまでにもさまざまな相手から呼びつけられて、そのたびに新たな絆を紡いできたのだ。


 なおかつ、その中で不穏であったのはふた組のみとなる。

 すなわち、西の王都の監査官と、東の王家たるポワディーノ王子である。それ以外の面々は、のきなみ森辺のかまど番の手腕に期待をかけて呼び出していたに過ぎなかった。


(その中で……フェルメスだけは、やっぱりちょっと特別だったな)


 フェルメスは『星無き民』というものに執着していたがゆえに、俺に絶大なる関心を向けていたのだ。ポワディーノ王子はそこに救いを求めていたが、フェルメスに至っては純然たる知的好奇心であったのだった。


 それでフェルメスは西の王都において俺にあらぬ疑いをかけられたとき、知略の限りを尽くして擁護してくれたらしい。そしてついには、ジェノスの外交官という身分を手にしたのだ。それもひとえに、俺が本物の『星無き民』であるかを見定めるためであるはずであった。


(フェルメスだったら、俺の疑念に何かヒントをくれるんだろうか……アイ=ファは嫌がるかもしれないけど、機会があったら相談させてもらおう)


 そんな思いを最後に、俺は暗い疑念を心の奥底に沈め込んだ。

 俺はこれから、新たな外交官と面談するのだ。その人物が如何なる思惑を秘めていようとも、俺は健全な関係性を求めなければならなかった。


 そうして俺たちが案内されたのは、いつも会合で使用している会議堂である。

 監査官たるドレッグたちや外交官たるフェルメスに呼びつけられたときも、俺たちはまずこの場所に案内されたのだ。俺は呼吸を整えながら、そちらの立派な扉をくぐることになった。


「こちらでお待ちください」と通されたのは、ひときわ大きな部屋である。

 会議室と呼ぶのに相応しい様相で、三十人ぐらいは余裕で収容できそうな規模だ。俺たちは備えつけの椅子に座して、貴族の入室を待ち受けた。


 部屋の入り口で刀と外套を預けたため、ゲオル=ザザやディック=ドムも素顔をさらしている。

 部屋の真ん中には横長の卓が三脚並べられており、十五名ずつの人数で向かい合える配置だ。俺たちは手前の席の中央寄りに、俺とアイ=ファを真ん中にして座していた。


 ここまでは、いつも通りの扱いである。

 入室する人数に制限をつけられることはなかったし、目に入る武官はすべてジェノスの人間だ。ドレッグやポワディーノ王子を迎えたときのような物々しさは存在しなかった。


 そうして数分ばかりが経過すると、ついに貴族の入室が告げられる。

 俺たちが起立すると、横合いの扉が開かれて見覚えのある面々が入室してきた。


 ジェノス侯爵家の当主マルスタイン、その第一子息メルフリード、サトゥラス伯爵の当主ルイドロス、ダレイム伯爵の当主パウド、トゥラン伯爵家の当主リフレイア、後見人のトルスト、いつもお馴染みの外務官、外務官の補佐役たるポルアース――ジェノスの基盤を支える、錚々たる顔ぶれである。その最後に、優美な姿をしたフェルメスがふわりと足を踏み入れた。


 そしてその後に、見慣れぬ面々が入室してくる。

 そちらの人数は、五名だ。


 先頭を歩くのは、見るからに厳格そうな顔つきをした壮年の男性であった。

 西の民としては彫りの深い顔立ちで、せり出た眉の下に目が落ちくぼんでいる。その炯々たる眼差しには、断固たる意志の力が感じられた。

 がっしりとした鼻の下には立派な口髭をたくわえており、眉間や目の下には深い皺が刻みつけられている。その身に纏っているのはゆったりとしたベージュ色の長衣で、刺繍の具合などは如何にも上質であったが、飾り物の類いはいっさい身につけていなかった。


 その後に続くのは、立派な武官のお仕着せを纏った若者だ。

 こちらも厳しく引き締まった顔をしており、長くのばした褐色の髪を首の後ろで結んでいる。まだ二十代の前半ぐらいに見えたが、眼光の鋭さは最初の男性に負けていなかった。

 そして武官のお仕着せの胸もとには、銀色の糸で獅子の紋章が刺繍されている。

 たしか以前にやってきた千獅子長のルイドも、同じようなお仕着せを纏っていたはずだ。俺に剣士の力量を見抜く眼力はなかったが、迫力のほうもルイドに負けていなかった。


 そして、残る三名であるが――そちらはいささかならず、奇妙な風体をしていた。

 こちらも武官のお仕着せ姿であるが、室内でも立派な兜をかぶっており、そして仮面で素顔を隠しているのだ。

 鈍色に輝く金属の仮面で、鼻のあたりはくちばしのようににゅっとのびている。それはルイドの配下であった百獅子長イフィウスの仮面を思い出させるデザインであった。


 ただしイフィウスの仮面は、鼻と上顎の欠損を隠すための細工である。よって、隠しているのは鼻の周囲だけで、目もとや下顎はさらしていたのだ。しかしこちらの三名は顔の前面をすっぽり覆い隠しており、瞳の色すら陰に隠れて判然としなかった。


 伯爵家の面々と外務官たちは座席の左右に寄り、中央にはマルスタインとメルフリードとフェルメス、そして鋭い眼光をした老若の二名が着席する。仮面をかぶった三名は、その背後を守るように立ち並んだ。


「待たせたな。そちらも、楽にしてもらいたい」


 マルスタインの穏やかな声に呼びかけられて、俺たちも着席する。

 俺の正面に位置するのは、見知らぬ壮年の貴族だ。その落ちくぼんだ目は、最初から俺の姿を凝視していた。


「まずは、紹介いたそう。こちらが本日ジェノスに到着した新たな外交官ダッドレウス殿で、その隣は護衛部隊の指揮官たる千獅子長のアローン殿だ」


 予想通り、壮年のほうが外交官であり、若いほうが千獅子長であった。

 そしてマルスタインは、背後に立ち並ぶ三名を指し示した。


「そして、こちらは……いささか説明が難しいのだが、いずれもアローン殿の指揮下にある武官となる」


「では、小官がご説明いたしましょう」


 と、千獅子長のアローンが声をあげた。

 その風貌に相応しい、鋭い声音だ。そしていくぶん、神経質な感じがした。


「これなる三名は小官直属の武官であり、『鷲の眼』と名付けられた部隊の構成員となる。その主たる任務は、諜報活動である」


「諜報活動」と、ガズラン=ルティムが静かな声で反復する。

 アローンはそちらを一瞥してから、さらに言いつのった。


「如何なる戦においても勝利を収めるのは、情報を制した側となる。そのために、小官は『鷲の眼』を設立したのだ。『鷲の眼』の部隊員は市井にまぎれて諜報活動を行う必要も生じるため、公的な場において素顔や名前を秘している。よって、これ以上の紹介には及ばない」


「つまり、ポワディーノ殿下の臣下たる『王子の眼(ゼル=カーン)』と『王子の耳(ゼル=ツォン)』を兼任しているようなものだ。彼らがこの場で発言することはないという話であるので、どうか捨て置いてもらいたい」


 マルスタインがそのように補足すると、ドンダ=ルウは無言のままうなずいた。

 マルスタインはゆったりと微笑みながら、森辺の民の紹介を開始する。


「右から順に、ドムの家長ディック=ドム、ザザの族長の世継ぎたるゲオル=ザザ、ファの家長アイ=ファ、ファの家人アスタ、ルウの家長にして族長のドンダ=ルウ、ルティムの家長ガズラン=ルティムです」


「なるほど……これは、聞きしにまさる迫力ですな」


 と、ダッドレウスが初めて声をあげた。

 そちらも風貌に相応しい、力強い声音だ。その鋭い目は六名の森辺の民を見回したのち、また俺のもとで固定された。


「それに、いささかならず物々しく感じられますな。我々が面談を求めたのは、ファの家人アスタのみであったはずですぞ」


「ええ。ですが、森辺の民にとっての城下町というのはまだまだ未知なる部分が多いため、こういった折には複数の見届け人を同行させるのが通例となっています」


「ふん。我々がかつての監査官タルオン殿のように不始末をしでかすのではないかと、警戒しているのでしょうかな」


 そう言って、ダッドレウスはいっそう眼光を鋭くした。


「まず、最初に忠告させていただく。我々は素性に不確かな部分のあるファの家人アスタと面談するために、招集させていただいた。他なる面々は、余計な差し出口を遠慮してもらいたい」


「承知しました。必要のない限り、発言は差し控えるとお約束いたします」


 ガズラン=ルティムが穏やかな声音で答えると、ダッドレウスもそちらを一瞥してから、さらに言葉を重ねた。


「まず、これまでの事情に関しては、のきなみ前任者たるフェルメス殿がしたためた報告書によってわきまえている。その上で、ファの家人アスタにいくつかの質問をさせていただきたい」


 俺は気を引き締めながら、「はい」とだけ答えた。


「では、まず……其方の素性についてである。其方は海の外からやってきたと申し述べているそうだが、それは事実であろうか?」


 ダッドレウスの言葉に、俺の心臓がバウンドした。

 普段であれば、どうということもない言葉であるが――今の俺にとっては、もっとも揺らいでいる部分に刃物を突き立てられたようなものであるのだ。俺はたちまち乱れそうになる心を懸命になだめながら、また「はい」と答えた。


「正確に言いますと、大陸アムスホルンではないどこかの島国ということになります。ただ、自分がどうやってこの場所まで辿り着いたのかは、さっぱりわかりませんので……もしかしたら、記憶違いを起こしているのかもしれません」


「ふん。そのように考えるのが、妥当であろうな。其方が異国の生まれであったならば、そう易々と西の言葉を扱えるわけがあるまい」


 俺の顔を真っ直ぐ見据えながら、ダッドレウスはそう言った。


「しかし其方は異国の民として、西方神に神を移す洗礼を執り行った。もしも其方が最初から西の民であった場合は、神聖なる洗礼の場で虚言を吐いた罪により、死したのちに魂を砕かれることになろう。そのような恐れを抱えながら、よくも洗礼の場に臨めたものであるな」


「はい……たとえ記憶違いであったとしても……俺にとっては、それが真実でしたので……あらぬ疑いを晴らすためにも、洗礼に臨む決断をしました」


 そのように答えながら、俺の心臓はいよいよおかしな感じに高鳴っていく。

 当時の俺に迷いはなかったが、今の俺は――根源の指針を見失ってしまっているのだ。俺はまぎれもなく津留見明日太としての記憶を持ちながら、決して津留見明日太本人ではありえないのだった。


(俺は……いったい何者なんだ?)


 そんな疑念が黒い触手に変じて俺の身を絡め取り、地の底に引きずり込もうとしているかのようだ。

 そんな中、ダッドレウスの声が粛然と響きわたった。


「其方のその行いによって、ひとまず他国の間諜であるという疑いは晴れた。また、其方はすでに三年以上の歳月をジェノスで過ごしているが、如何なる戦とも連動している気配はない。そうして長きの時間を潜伏することで周囲の信用を得ようという策謀である可能性は捨てきれないが……しかし、如何なる戦とも無縁であるジェノスにおいてそこまで入念な諜報活動に及ぼうとも、得られる益はごくわずかであろう。よって我々も、其方がいずれかの勢力の間諜であるという可能性はひとまずないものと見なしたのだ」


「……はい」


「しかしまた、其方の素性に不明な部分が多いことに変わりはない。其方の容姿はいかなる竜神の民とも共通する部分が少なく、最初から西の民であったと考えるのがもっとも妥当であるのだ。その点に関して、其方自身はどのように考えているのであろうかな?」


「……わかりません。自分の中には、この地と異なる場所で生まれ育ったという記憶しかありませんので……」


 しかし今は、その記憶すら信じることができずにいる。

 俺が額に浮かんだ脂汗を手の甲でぬぐうと、ダッドレウスは眉間の皺をいっそう深くした。


「其方は調子を崩しているように見受けられる。何か病魔でも患っているのであろうか?」


「いえ……ただちょっと、今日は調子が悪いみたいで……お見苦しい姿をお見せしてしまい、申し訳ありません」


 俺はそんな風に答えながら、左右から送られる視線の圧力を痛いぐらいに感じていた。

 きっとアイ=ファたちが、俺のことを見つめているのだ。しかし俺は、どうしてもそちらを振り返ることができなかった。


「では、其方の容態が悪化する前に、こちらの話を片付けさせていただこう。……其方は先日、シムの第七王子たるポワディーノ殿下から料理番として召し抱えたいというお言葉を賜ったそうだな。どうしてそれを、無下に断ったのであろうか?」


「どうして……? 自分は森辺のかまど番として生きていくと決めた身ですので、どんなお誘いも受ける気持ちはありませんでした」


「なるほど。森辺における生活というものは、其方にとってそれほど理想的なのであろうか?」


「……はい。その通りです」


「ふむ。森辺の民に、それを強要されているわけではない、と?」


 俺は気力を振り絞り、「はい」と答えた。


「そんな疑いがあるのでしたら、断固として否定します。俺は自分の意志で、森辺を第二の故郷だと決めたんです。それを受け入れてくれた森辺のみんなには、感謝の気持ちしかありません」


「なるほど。それでも森辺の集落はジェノスの領地であり、つまりは西の王国の領土であるからな。今の其方はまぎれもなく、西方神の子たる西の民であるということだ」


 ダッドレウスは厳しい表情を崩すことなく、そう言った。


「そして其方は森辺の内に留まらず、まずは宿場町で屋台の商売を始めて、ついには城下町に招かれるほどの料理番に成り上がった。ゲルドの貴人に南の王族、さらには東の王族までもが其方を求めて、ジェノスを訪れることになったのだ。これほど華々しき経歴を持つ料理番は、西の地においてもそうそう存在するまいな」


 俺には、「……そうですか」としか答えようはなかった。

 ダッドレウスは「うむ」とうなずき、部屋の隅にと視線を送る。すると、そちらに控えていた従者が楚々とした足取りで進み出て、その手に携えていた筒を差し出した。


 赤地に銀の刺繍が施された、立派な筒である。

 ダッドレウスがその蓋を開くと、中から丸められた羊皮紙のようなものが取り出された。


 さらにその羊皮紙めいたものは紐でくくられており、結び目は蝋で封印されている。ちょっとこれまで目にしたこともないぐらい、厳重に封印された書簡であるようだ。ダッドレウスはその立派な書簡をマルスタインたちのほうにかざしながら、驚くべき言葉を口にした。


「それではこれより、恐れ多くも王陛下からお預かりした書簡の内容を伝えさせていただく」


「王陛下からの書簡?」と、マルスタインが身を乗り出した。


「それは、如何なるお話でありましょうか? 我々は、何も聞いておりませんでしたが」


「ですから、この場でお伝えしているのです。どうぞご清聴ください」


 時計職人のごとき繊細な手つきで蝋の封印を破ったダッドレウスは、しかつめらしく書簡の内容を読みあげた。


「ジェノス領に住まいし希代の料理人ファの家のアスタを、銀獅子宮の料理番として迎えたく思う。これを了承するならば、このたびジェノスに参じた千獅子長アローンの部隊とともに王都アルグラッドまで参ずるべし。大陸歴六〇二年、緑の月十五日、セルヴァ国王カイロス三世、記す。……以上となります」


 俺は愕然と、言葉を失うことになった。

 そして、アイ=ファが座っている方向から熱い殺気のようなものを感じ取ったが――それよりも早く、フェルメスが発言した。


「お待ちください、ダッドレウス殿。カイロス王陛下がアスタを料理番として迎えたいというのは……いったい如何なるお話でしょうか?」


「如何なるも何も、すべては文面の通りでありましょう。どこに補足の必要がありましょうか?」


「そもそも王陛下は、美食に一切のご興味を持たれていないはずです。そんな王陛下がアスタを召し抱える理由は、どこにもありませんでしょう」


「恐れ多くも王陛下のお言葉に疑念を呈するなど、臣下にあるまじき不敬でありますな。ですが、べつだん不可解なことはないでしょう。これなるアスタはジェノスにおいて、それだけの勇躍を果たしたのです。東と南の王族から手腕を認められる料理番など、生半可な存在ではありますまい。それを王都で庇護したいと願うのは、至極自然なお考えではありませんでしょうか?」


 ダッドレウスは厳格な面持ちのまま、丸めた書簡を筒に戻した。

 しかし、フェルメスは黙らない。そちらも優美なる面持ちのままであったが、そのヘーゼルアイにはさまざまな光が渦巻いているように感じられた。


「しかし東の王家の一件では、あれほどの騒ぎが起きることになったのです。いまやアスタというのはジェノスで随一の名料理人であるのですから、それを奪うとあっては多くの人間から不興を買うことになりましょう」


「ふむ。市井の人間を王宮の料理番に召し抱えようという王陛下のありがたきお言葉が、不興を買うと仰るか。それもまた、ずいぶんと不敬な仰りようでありますな」


 ダッドレウスは鋭い眼差しで、フェルメスの白い面を見据えた。


「無論、アスタにとって第二の故郷たる森辺の集落を離れるというのは、小さからぬ痛みをともなう行いであるのやもしれません。ですが先刻も申し上げました通り、アスタもれっきとした西の民であるのです。異国たるシムに連れ去られるならまだしも、王都アルグラッドに居を移すことに何の不都合がありますでしょうかな?」


「ですが――」


「なおかつこちらの書簡は命令書ではありませんので、すべてを決するのはアスタ自身です。文面にも、『これを了承するならば』と記載されていたはずですな?」


「……王国の一領民たるアスタが王陛下の願い出を固辞したならば、それこそただでは済まないのでは?」


「王陛下は、そのように非道な御方ではありません。どうもフェルメス殿は、臣民としての心得をすっかり忘却し果ててしまったようですな。やはり、外交官としての任期が二年近くにも及んでしまったことが、悪しき影響を及ぼしたのでしょう」


 それだけ言って、ダッドレウスは俺に向きなおってきた。


「では、返答は如何に?」


 俺はとっさに、答えることができなかった。

 もちろん、西の王都などに出向くつもりはない。しかし、まがりなりにも王の言葉を無下にして、周りの人々に迷惑がかかったりはしないのか――そんな思いが、俺の心を縛ったのだ。


 すると、卓の下でアイ=ファが俺の手を握りしめてきた。

 そしてその口が、俺の耳もとに寄せられてくる。


「お前の身は、私が守る。お前は、心のままに答えるがいい」


 俺は唇を噛みしめて、アイ=ファのほうを振り返る。

 アイ=ファは青い瞳に激情の炎を燃やしながら、俺の顔を見つめていた。


 ただその奥底には、俺に対する情愛がありありとたたえられている。

 俺は惑乱の極みにありながら、アイ=ファの強さと優しさにすがるしかなかった。


「俺は……森辺を離れたくありません。なんとか王陛下に納得していただくことはできないでしょうか?」


 俺がかすれた声で伝えると、ダッドレウスは「ほう」と目を細めた。

 その隣では、アローンがきつく眉をひそめている。そちらは明らかに、不快感をあらわにしていた。


「其方はそうまで、この地に執着しているのであるな。いったい何が、其方の心を縛っているのであろうか?」


「……それは、この地に住むすべての人々と、この地を訪れるすべての人々です。俺は何も持たない身であったので……この地で出会った人々との絆が、俺にとってのすべてなんです」


 その言葉は、これまで以上の重みで俺の心にのしかかっていた。

 俺の過去の記憶は、間違っているのかもしれない。もしも俺が、津留見明日太でないのだとしたら――本当に、この三年余りが俺にとってのすべてとなるのである。それを失ってしまったら、俺は本当に空っぽになってしまうはずであった。


「……其方は今年で二十歳になったのだという話であったな。それで己の行く末を閉ざしてしまうのは、あまりに早計なのではないだろうか?」


 厳しい声音のまま、ダッドレウスはそう言った。


「かくいうわたしも出自はバルドだが、二十五の齢でアルグラッドに居を移したのだ。そしてわたしの人生は、前王陛下にお仕えすることで真なる始まりを迎えた。バルドで学んださまざまなことは、すべてこのためにあったのだ、と……そんな真理に目覚めたのだ。其方はジェノスで大きな勇躍を果たしたが、王都においては真なる目覚めを得るやもしれんぞ」


 ダッドレウスの言葉もまた、俺の心に重くのしかかった。

 きっと彼はきわめて厳格な人柄でありながら、きわめて誠実な人柄でもあるのだろう。今の俺の精神状態では確たることも言えそうになかったが、その言葉には何の悪念も感じられなかった。


 それに対して、俺が抱いているのは――アイ=ファを筆頭とする、これまでの生活に対する執着のみである。

 この幸せを、手放したくない。俺が願っているのは、その一点であるのだ。西の王都でどんな人生が待ち受けていようとも、今よりも幸せであるはずがなかった。


 だが――俺は、どうするべきであるのだろう?

 今の俺は、自分が何者であるかも見失ってしまっているのだ。自分が誰なのか、自分は何のために存在しているのか、自分はどうしてこの世に存在しているのか――すべてを見失ってしまった俺は、何が正しい行く末であるのかもわからなくなってしまっていた。


「……どうやら其方も、ずいぶん惑っているようであるな」


 と、ダッドレウスが厳粛なるたたずまいでそう言った。


「わたしも其方には、もっとも正しき道を選んでもらいたいと願っている。そのために、場所を移して話を詰めさせていただこう」


「場所を移す? とは、何処に?」


「こちらの会議堂を検分した折に、目ぼしい部屋を見つけておりました。マルスタイン殿にも、ジェノスの領主として同席していただきましょう」


 俺が惑乱している間に、どんどん話が進められていく。

 俺は卓の陰でアイ=ファに手を握られながら、それを呆然と見守ることしかできなかった。

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― 新着の感想 ―
これはタイミングが悪すぎるな。 まさかこう来るとは。
マルスタインも把握してない謎の書簡が出てきて『星なき民だから王命に従わないなら処刑する』とかもっと踏み込んで『王都にくればお前の本当の正体を教えてやる』とか書いてあってアスタが従わざるおえない内容だっ…
確かに厳格で正しい人なのだろうな、王陛下の思惑の方が気になる。もちろん王陛下だけの考えでのことではないと思うけれど。
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