⑤東の民、森辺に来たる
2015.2/23 更新分 1/1 2016.10/1 誤字を修正
「私、サイクレウス卿、あまり知りません。商売の話、いつも、従者、していました」
商売の後、森辺への帰還の途上である。
晴れてルウ家の客人と認められたシュミラルは、女衆らとともに荷車に揺られながら、そのように説明してくれた。
「サイクレウス卿、2回、会いました。会話、少ないです。……でも、油断ならないご老人、思っていました。そうしたら、約束、破られました」
「そうですか。約束を破った上に、文句があるなら通行証を取り上げてやろうだなんて、何とも悪辣な手口ですね」
「はい。だから、サイクレウス卿、商売、終わる、悔しくありません。悪い縁、絶ちたい、思います」
縁を絶てる間柄なら、それが何よりだろう。
しかし森辺の民としては、気に食わないからといって縁を切ってしまうわけにもいかない。城の人々との会談は、ついに明日に迫っているのだ。
カミュアやメルフリードはサイクレウスの旧悪を暴くために何やら策を講じているらしいが、いまだ決め手は見つからぬようだし、そもそも彼らとは志を同じくしているわけでもない。森辺の民にとってもサイクレウスという人物が『敵』であるということが確定すれば、共闘の可能性は残されているものの――いまだサイクレウスはスン家を利用していた「かもしれない」というグレーゾーンの存在に過ぎないのである。
そして、そういう話を抜きにして考えるならば、サイクレウスとはジェノス城の支配層の代表者であり、スン家であった39名の身柄を引き渡すよう言いたてている相手でもあるのだ。
森辺においても罪人と認められたズーロ=スンはもちろん、ディガやドッドも、ミダやヤミルも、ツヴァイやオウラも――さらにはトゥール=ディンやその父親といった分家であった人々までをも罪人としてジェノス城に引き渡すべしと、サイクレウスは主張しているのである。
(まあそっちの問題は明日の会談の結果を待つしかないけど……よりにもよって、サイクレウスと繋がりのある人間が屋台のお客になっちゃうなんてなあ……)
鉄具屋の娘を名乗る、少女ディアル。
聞いたところによると、彼女は商団の長である父親のそばについて商いの手練を学んでいる最中であるらしい。
で、その父親というのはかなりの豪商で、もう何年も前からジェノスの城下町と取り引きがあり、前回の来訪でついに有力貴族たるサイクレウスとの商談を取りつけることがかなったのだそうだ。
今回は、サイクレウスから請け負った商品――サイクレウスがシュミラルとの約束を反故して依頼した調理刀など――を携えての来訪で、ジェノスに到着したのは3日前の夜。
明けて翌日に、自由時間を得たディアルはお供のラービスを従えて宿場町に足をのばし、俺の店を発見したのだという。
話を聞いた限りでは、これといって胡散臭いところもなかった。
俺の店は宿場町の最北端に位置しているから、北側にある城下町からやってきた人々の目にはとまりやすい立地でもあるのだ。
しかし――この出会いが偶然であろうとなかろうと、俺としては適切な距離を取って、折り目正しく対応するしかないだろう。
問題は、ディアルの側にそういった穏便な考え方が備わっているかどうかだ。
ギルルの運転に集中しつつ、やはり俺としては溜息を禁じえない。
「アスタ、元気ない。私、心配です。サイクレウス卿、どうしましたか?」
「ええ、まあ、ちょっと……森辺の民にとっても、サイクレウスという人物は少なからず縁のある相手だったのですよ」
「縁? 城の貴族、森辺の民、縁ですか?」
ここは「はい」とだけ答えておくことにした。
あまり内情を明かしてしまうと、シュミラルをおかしな騒ぎに巻き込むことにもなりかねないと思えたのだ。
しばしの沈黙の後、シュミラルは「そうですか」と低く言い、それ以降はずっと口をつぐんでいた。
そうこうしている内に、ルウの集落が見えてきた。
広場の入口で荷車を止めて御者台から降りると、他のみんなも荷台の後部から降り始める。リィ=スドラとは町で別れているので、シュミラル、レイナ=ルウ、ララ=ルウ、シーラ=ルウの4名だ。
香草を干している者や、ギバの毛皮をなめしている者、薪を割っている者など、ルウの集落では実に数多くの女衆や子どもたちが森辺の仕事に励んでいた。シュミラルの来訪はすでに伝えられているのだろうから、これといって騒がれることもない。
ただし、シュミラルに向けられる視線は、決して温かいものではなかった。
特別に冷ややかであったり、敵意に満ちているわけではないものの、どうして東の民などが森辺の集落に――という疑念には満ちみちている。
普段、トトスや荷車の来訪などでは歓声をあげる子どもたちも、それは同様だ。
好奇心と、それを上回る不審感、不安感。敵ではないが味方でもない異人に向けられる猜疑の瞳である。俺もアイ=ファから森辺の装束を授かるまでは、これと同質の視線を近所の家の人々から向けられていた。
宿場町では森辺の民がうろんな目で見られるのと同じように、森辺においては町の人間こそがこのような目で見られてしまう。
これでもまだ事前に通達があったぶん、穏便なほうなのだろう。カミュア=ヨシュなどは折り悪く仕事前で気の立っていた男衆らと遭遇してしまったものだから、いきなり刀を突きつけられたりもしていたのだ。
相互理解の道は、まだまだ遠い――これが、厳然たる事実なのだった。
「あれ? ダルム兄だ?」と、ララ=ルウが調子っ外れの声をあげる。
まさしくその人物が、正面にあるルウの本家から出てきて、こちらにゆっくりと歩み寄ってくるところであった。
狩人の衣を纏い、大小の刀を下げた、狩人の姿だ。
収穫祭を終え、ルウの集落では休息の期間に入った。これから半月は森に入るのを少し控えて、酷使した肉体を休めるのだという。
そうであるにも拘わらず、ダルム=ルウは狩人の装束に身を包んでいる。ララ=ルウたちがけげんそうな顔をしているのは、そのためなのだろう。
「どうしたの? 刀なんて下げてどこに行くのさ?」
俺たちとの距離が3メートルほどにまで詰まったところで、ダルム=ルウは立ち止まった。
そのいつでも底光りしている目が、家族と、家族ならぬ異国人をゆっくり見回してくる。
「……ザザの集落だ。今日から数日間、ズーロ=スンたちを見張るために、ルウやサウティからも人手を貸すことになった」
「えー!? それでまたダルム兄が駆り出されちゃったの? ダルム兄はこの前スンの集落から戻ってきたばっかじゃん! 分家の男衆とか、ルティムとか、レイとか、人手は他からも出せるでしょ!?」
「ルティムやレイからも1名ずつ選ばれている。ルウからは俺が出ることに決まっただけだ」
「だから、どうしてダルム兄なのさ! ドンダ父さんも荒事をダルム兄にばっかり押し付けすぎじゃない?」
ララ=ルウは、たいそう不満そうな面持ちであった。
レイナ=ルウもとても心配そうな顔をしているし、シーラ=ルウも――誰より悲しそうな顔になってしまっている。
ダルム=ルウは、いくぶんけげんそうに首をひねってから、ひたひたと近づいてきた。
足音のしない、狩人の歩き方だ。
「親父は関係ない。俺が自分で望んだことなのだから、わめくな」
「自分から? どうしてさ! 半月ぶりに戻ってきて、まだ3日も経ってないのに! ……あたしの生誕の祝いの日にだって家にいてくれなかったしさ」
思いの他、ララ=ルウはこのぶっきらぼうな次兄になついているようだった。
ダルム=ルウはうるさそうに眉をひそめつつ、それでも妹の赤い髪にぽんと手を置く。
「今回は、それほど長い仕事にはならないだろう。明日の会談とやらがうまくまとまれば、だがな。……とにかく俺は、ザザ家に用があるんだ」
「ザザ家に? 何で? 北の一族に知り合いなんていないでしょ!?」
「いちいちうるさいやつだな。俺はただ――スン家のぼんくら息子どもの顔を拝みたくなっただけだ」
そう言い捨てて、ダルム=ルウはシーラ=ルウのほうを見た。
しかし、すぐに目をそらし、「じゃあな」と歩きだしてしまう。
とても気は進まなかったが、俺は「待ってください!」と声をあげておくことにした。
「用事があるって、ディガとドッドになんですか? それはいったいどういう用向きなんでしょう?」
ララ=ルウたちとは違う意味で、俺は心配になってしまったのだ。
ドムの家から逃げた罪で、再び虜囚の身となってしまった、ディガとドッド。今さら彼らと顔を合わせて、ダルム=ルウに何の益があるというのか。今ひとつ内心の読み取りにくいダルム=ルウだけに、俺はむやみに不安感を煽られてしまったのだった。
「……貴様には関係のないことだ、ファの家のアスタ」
ダルム=ルウは、振り返らなかった。
俺はいっそう不安になってしまい、ギルルの手綱を誰かに託してその後を追おうかとも考えたが、それよりも早くそっと腕を押さえられてしまった。
俺を止めたのは、シーラ=ルウである。
シーラ=ルウは、俺の耳もとに口を寄せ、言った。
「行かせてあげてください。ダルム=ルウには、きっと必要なことなのです」
「シーラ=ルウは、その理由を知っているんですか?」
ララ=ルウたちの視線を気にしつつ、俺も囁き返してみせる。
しかし、シーラ=ルウは悲しげな表情のまま首を横に振った。
「わたしなどには、ダルム=ルウの苦しみはわかりません。ですが、あの宴の夜、ダルム=ルウは言っていたのです。自分は弱い、と――肉体ばかりでなく、心が弱い。この弱さは、もしかして家の大きさにすがって堕落し果てていたスン家の男衆たちと同じものなのかもしれない――ダルム=ルウは、そのように言っていました」
だから、ディガやドッドと会いたくなった、ということなのだろうか。
自分の弱さを、見つめなおすために――?
やっぱり俺には、今ひとつ理解し難い心情だ。
ともあれ、使命をおびてザザ家におもむくダルム=ルウを止める手立ては、俺にはない。
何とも釈然としない気持ちを抱えこんだまま、俺たちも足を進めるしかなかった。
本家の前で荷車を止め、そこから解放したギルルは、家の脇の木につなぎとめさせてもらう。
そうして家の前の立ち、レイナ=ルウが戸板を引き開けると、意想外の人物が飛び出してきた。
「おお、ようやく戻ったか! 待ちくたびれたぞ、女衆にアスタよ!」
「ダ、ダン=ルティム!? いったい今日はどうしたんですか?」
それは、まさかのダン=ルティムだった。
家の入口をふさいだ格好で、ダン=ルティムはガハハと笑う。
「なに、今日は珍しい客人が来るとのことであったから、野次馬をしに出向いてきただけだ! どうせその後は明日の会談に向けて話し合う予定であったからな!」
「そ、そのお役目はガズラン=ルティムが受け持つのではなかったんですか? こういうとき、家長と跡取りはどちらかが家に残る習わしなのでしょう?」
「夜には家に戻るから問題ない! 狩人の仕事もないので、俺は退屈だったのだ!」
ゴーイングマイウェイという言葉が具現化したかのようなダン=ルティムは、俺の指摘など意にも介さず豪快に笑い続けた。
そして、つるつるの禿頭をなでさすりながら、「ふむふむ」とシュミラルのほうに目を向ける。
「お前さんが東の民の客人か! うむ! シム人などを見るのはひさかたぶりだが、相変わらず真っ黒だな! 髪は老人のように真っ白だが!」
ゴーイングマイウェイというか、傍若無人の極地である。
俺は頭痛を起こしそうになったが、シュミラルのほうは毛ほども動揺していなかった。
「東の民、《銀の壺》の長、シュミラル=ジ=サドゥムティーノです。今日、来訪、許し、ありがとうございます」
「俺はルウの眷族たるルティムの家長ダン=ルティムだ! 俺は部外者だから何も固くなる必要はないぞ、お客人!」
部外者ならば部外者らしい慎しみというものが生じたりはしないものだろうか。
まあ、そのようなものが発動されるわけもなく、ダン=ルティムは「上がれ上がれ」と大きな声をあげながら、ようやく家の中に引っ込んだ。
その中で待ち受けていたのは、家長ドンダ=ルウと、その嫁たるミーア・レイ母さん、そしてジザ=ルウとガズラン=ルティムである。
「家長ドンダ、東の王国の客人シュミラルをお連れしました」
一同を代表して、レイナ=ルウが静かに声をあげる。
そして、レイナ=ルウはシュミラルのほうに手を差しのべた。
「客人シュミラル。道中でお話しした通り、鋼を預からせていただけますか?」
「はい」
シュミラルは、まずその長身に纏っていた皮の長マントに手をかけた。
その下に纏っているのは、森辺の装束にもよく似た、渦巻き模様の布の服である。
首や腕には金属や石の飾り物をたくさんつけており、腰には三日月のように湾曲した刀剣を下げている。その刀剣と、隠し袋に鉄針やら鉛筆のように細い小刀やらが仕込まれたマントをレイナ=ルウに託してから、シュミラルは室内に一礼した。
ダン=ルティムよりも長身でありながら、骨格自体は華奢でほっそりとした東の民である。
しかし、長い手足にはしっかりと筋肉もついており、姿勢も正しいせいか、ひ弱な感じはまったくしない。危険な長旅に耐えうるだけの腕力や体力は備えた、商団の長たるシュミラルであるのだ。森辺の民としても特筆するべき力を有するルウとルティムの狩人たちを前に、シュミラルはまったく物怖じする気配も見せてはいなかった。
「おあがりなさい、東の客人。まずはあたしたちと縁を結んでくださいな」
広間の上座から、ミーア・レイ母さんがにこやかに微笑みかけてくる。
俺はシュミラルとともに履物を脱いで室内に上がり、案内をしてきた女衆たちは、預かった刀とマントを家長の脇に置いてから、薪集めの仕事に励むべく家を出ていった。
「東の民、《銀の壺》の長、シュミラル=ジ=サドゥムティーノです。今日、来訪、許し、ありがとうございます」
下座に膝をつき、シュミラルはさきほどと同じ口上を述べる。
「あたしの隣りでふんぞりかえってるのが、ルウの家長ドンダ=ルウ。その向こう側にいるのが、長兄ジザ=ルウ。あんたを出迎えたルティムの家長ダン=ルティムに、その長兄ガズラン=ルティム。それであたしは家長の嫁のミーア・レイ=ルウさ。……今日はあたしと家長の娘ヴィナ=ルウのために足を運んでもらってありがとうね、東の客人シュミラル。それに、アスタも」
俺はシュミラルとともに黙礼を返した。
ミーア・レイ母さんはにこにこと微笑んでいるが、ドンダ=ルウは相変わらずその眼光だけで恐ろしげな感じであるし、ジザ=ルウも内心を読ませてはくれない。この際は、恵比寿様のように福々しく笑っているダン=ルティムと、いつでも沈着かつ穏やかなガズラン=ルティムの存在が何よりも心強かった。
「で、最初にはっきりさせておきたいんだけどさ、どうしてあんたはそこまでヴィナの身を案じてくれているんだい、客人シュミラル? レイナにも聞いていると思うけど、ヴィナの怪我なんて大したことはないんだ。うまくいけば明後日ぐらいには町にも出れるはずなんだよ?」
「ですが、明後日、確実ない、聞きました。私、3日後、ジェノス、発ちます。次、戻ってくる、半年の後です。……明後日、会えない、半年、会えない、です」
「それであんたにどういう不都合があるってのさ? あんたたちは、べつだん深い縁を結んだ間柄でもないってんだろう?」
「不都合、ありません。……ただ、会いたい、思っただけです」
シュミラルは膝をそろえて座したまま、真っ直ぐミーア・レイ母さんを見つめていた。
ミーア・レイ母さんよりも楽しげな顔をしていたダン=ルティムが、そこでまたガハハと大笑いする。
「森辺の女衆に執心する町の人間などがいるとは思いもよらなんだ! 要するに、お前さんはヴィナ=ルウを嫁に迎えたいということなのかな、東のお客人よ?」
なかなか聞いているこちらが冷や汗をかいてしまいそうな直截さである。
シュミラルは、自分の気持ちを見定めたいかのように、少しだけ目を細める。
「嫁――難しい話です。私、ヴィナ=ルウ、神、異なります。私、シムの子、ヴィナ=ルウ、セルヴァの子です」
「ほうほう。ならば、同じ神の子であれば迷いなく嫁取りを申し込んでおったということかな?」
「その仮定、無意味です。ヴィナ=ルウ、不思議な女性、シムの国、いません。ヴィナ=ルウ、魅力、きっと、森辺の民、ゆえです」
「ふむふむ。まああれほど見目の整った女衆は森辺でも珍しいからな! 異国人のお前さんが魅了されても不思議はないだろうさ!」
「見目?」と、シュミラルは小首を傾げる。
「見目、魅力、関係ありません。ヴィナ=ルウ、魅力、きっと、心です」
「ほーう? 俺はそれほどあの娘とは言葉を交わしておらんから、心のほうはよくわからんな! しかし、見目が麗しいという事実に変わりはなかろうが?」
「麗しい……ヴィナ=ルウ、見目、麗しいですか?」
俺は、しこたま驚くことになった。
しかし、シュミラルの瞳は真剣そのものである。
「シムの民、細さ、麗しい、思います。ヴィナ=ルウ、細い、ないです。シムの民、ヴィナ=ルウ、麗しい、思いません」
「なんと! それは確かに細いとは言い難い体型だが、女衆としては理想的な肉づきであろうが! あれほど色気にあふれた女衆はそうそういないはずだぞ、お客人よ!」
「ちょいと、やめておくれよ、ダン=ルティム。古馴染のあんたにそんなことを言われたら、あたしや家長はどんな顔をすりゃいいのさ?」
「案ずるな! 俺の気持ちは死んだ妻にすべて捧げてしまったからな! 今さら新しい妻を娶る気はない!」
ダン=ルティムは呵呵大笑し、ミーア・レイ母さんは「そういう問題じゃないんだけどねえ」と溜息をつく。
そこで新たに声をあげたのは、ジザ=ルウだった。
「東の客人よ。ならば、貴方はなぜ我が妹ヴィナ=ルウに執心するのか? 縁も薄く、嫁に娶るような魅力も感じていないなら、そこまで執心する理由はないように思えるのだが」
「魅力、感じます。ヴィナ=ルウ、不思議です。外見、麗しい、違うのに、ヴィナ=ルウ、可憐です」
感情はまったく見せないまま、シュミラルは淡々と言葉をつづっていく。
「いえ、外見、それも魅力、あるのでしょう。ヴィナ=ルウ、瞳、綺麗です。笑顔、綺麗です。声、綺麗です。……嫁取り、難しい。でも、ヴィナ=ルウ、魅力、感じます」
「魅力を感じても、嫁取りや婿取りにつながらぬ男女の縁に意味はあるまい。町ではどうだかわからぬが、森辺においてはそれが真実だ」
「ふむ! 珍しく意見が合ったな、ジザ=ルウよ! 俺もそれは同感だ! まあ稀有なる例として男衆と女衆の友誼というものも存在するのやも知れぬが、お前さんはヴィナ=ルウに何を求めているのかな、お客人よ?」
下顎の髭をしごきながら、ダン=ルティムが身を乗りだしてくる。
「ヴィナ=ルウを嫁に娶るつもりもなく、お前さんが森辺に婿入りするつもりもない、というのならば、縁を深めることに何の意味がある? お前さんはヴィナ=ルウの友となりたいのか? それとも一夜の恋を成就させたいという心づもりか?」
シュミラルは、初めて言いよどんだ。
そして、「わかりません」と応じる。
「ただ、会いたい、思いました。ただ、会わないまま、ジェノス出る、苦しい、思いました。それだけです。……考え、浅い、恥ずかしいです」
「考えは浅いな! 気持ちは深いようだが!」
そう言って、ダン=ルティムは心底愉快そうに笑い声をあげた。
「そのような形の定まらぬ気持ちに衝き動かされて、町の人間が森辺にやってくるなどとは驚きだ! お前さんの娘の魅力は底なしだな、ドンダ=ルウよ!」
「べらべらとうるせえぞ。貴様だって客人だろうがよ。ちっとは分をわきまえやがれ」
と――初めてドンダ=ルウが口を開いた。
その青い火のような目が、じっとシュミラルをにらみすえる。
「東の民よ。この80年で、森辺の民が同胞ならぬ人間と血の縁を結んだ例は1度としてない。東の民はもちろん、西の民とも、な」
「はい」
「そして、森辺においては一夜の恋なんぞというふざけた真似は許されていない。男衆と女衆の間で許されているのは、婚姻の絆だけだ」
「はい」
「それがわかっているなら、好きにしろ」
そう言って、ドンダ=ルウはゆらりと巨体を起こした。
「娘の身を案じ、このような場所にまで足を運んできた儀については、ルウの家長として礼を述べておく。……ファの家のかまど番よ、貴様もヴィナのために出向いてきたのか?」
「は、はい」
「ふん。……おい、部屋まで案内してやれ。俺はサウティやザザの連中が来るまで、ひと眠りしておく」
最後の言葉は、ミーア・レイ母さんに向けられたものだ。
ミーア・レイ母さんは、伴侶の究極的に不機嫌そうな顔を見上げながら、「了解したよ、家長」と、にっこり微笑む。
「何だ、眠ってしまうのか? お前さんは本当に眠るのが好きなのだな! その間、誰が俺たちをもてなすことになるのだ、ドンダ=ルウよ?」
「うるせえ」と言い捨てて、ドンダ=ルウは広間の右側の奥に伸びる通路のほうへ消えていった。
その大きな背中を見送りつつ、ミーア・レイ母さんも腰をあげる。
「客人シュミラル。娘の部屋に案内するよ。ジザはしばらくダン=ルティムたちのお相手をよろしくね」
そうして俺たちは、ドンダ=ルウが消えていったのとは逆側、左の通路に向かうことになった。
ジバ婆さんの寝所もたしか右側であったので、こちらに足を運ぶのは初めてのことだ。かつての記憶と同じように、通路は真っ直ぐ10メートルばかりも続いており、中心側の壁に3つの扉が等間隔で並んでいる。
ミーア・レイ母さんは、その1番手前の扉を手の甲で叩いた。
「ヴィナ、家長の許しが出たんで、客人シュミラルを案内してきたよ。アスタも一緒だけど、入れてもらえるかい?」
沈黙。
約10秒ほどの沈黙が続き、ミーア・レイ母さんがもう1度手を上げかけたところで、戸板は勢いよく横側にスライドされた。
「よお、アスタ! 客人ともども親父にぶん殴られなくて何よりだったな!」
ヴィナ=ルウならぬ、ルド=ルウである。
しかもその手には、何故かジザ=ルウの愛息たるコタ=ルウが抱かれている。
黒みをおびた純真なる瞳が、不思議そうに俺とシュミラルの姿を見比べた。
「ほい、コタは預けておいたほうがいいよな?」
「そうだね。コタ、今度は婆と遊ぼうか」
ミーア・レイ母さんは笑みくずれつつ、その手に受け取ったコタ=ルウに頬ずりをした。
コタ=ルウは、嬉しそうに「あぶー」と声をあげる。
「あー、確かにそのジバ婆みたいに真っ白な髪には見覚えがあんなあ。客人、俺はルウ家の末弟ルド=ルウだ。よろしくな」
「私、シュミラル=ジ=サドゥムティーノです。私、あなた、見覚えあります」
「ああ、俺もけっこう長いことシン=ルウたちと宿場町には下りてたからな。……でさ、あらかじめ言っておくけど、親父はあんたの言葉を信じて、ヴィナ姉と会うのを許した。この信頼を裏切ったら、俺はあんたを始末しなくちゃならなくなるんだ」
言いながら、ルド=ルウは自分の腰のあたりをポンポン叩いた。
テイ=スンとの一件で買い換えることになった新品の小刀が、そこには下げられている。
「あんたもそこそこ腕は立つみたいだけど、俺の敵じゃない。でも、シム人は毒を使うって噂もあるからな。ちっとでも妙な動きをしたら、遠慮なく斬らせてもらう。……とりあえず、ヴィナ姉に手の届く距離には近づかないって約束してもらえるか?」
「はい。約束、守ります」
「うん、頼んだよ。俺も家を血で汚したくねーから。……あと、アスタに妙な真似をしようとしても、おんなじだからな」
そんなことは、ありえない――と考えつつも、これは必要な措置なのだろうと思っておくことにする。
もしも俺の目が節穴で、シュミラルにルウ家を害する気持ちがあれば、みすみすヴィナ=ルウを危険な目にさらす羽目になってしまうのだ。ドンダ=ルウたちにしてみれば、これでも相当にシュミラルを信用した上での措置なのだろう。
「それじゃあ、入ってくれ。もともとヴィナ姉たちの部屋だから、女くせーのは覚悟しとけよ?」
ルド=ルウが引っ込んで、俺たちもようやくその部屋に足を踏み入れることがかなった。
女くさいことはない。
ただし、花の芳香が室内には満ちていた。
ジバ婆さんの寝室と同じく、6畳ていどの広さである。
調度らしい調度は、壁の一面を占める大きな棚ぐらいしか見当たらない。が、そこは女衆の部屋らしく妙に華やいだ雰囲気で、俺を落ち着かない心地にさせた。
壁という壁には、綺麗な色合いの布が張りめぐらされている。
さらにその上に何種類もの生花が飾られて、そこには馥郁たる香りがあふれていたのだ。
棚に飾られているのは、女衆の飾り物である。
きっと、宴衣装で使うものだろう。遠目にも、金属や石のきらめきが見てとれる。玉虫色に輝いているのは、きっと頭や腰に巻きつけるヴェールやショールだ。
それに、壁に掛けられているのも装飾用の一枚布ばかりでなく、渦巻き模様のひらひらとした布地――おそらくは、女衆がふだん着ている服の洗い替えであるようだった。
ここはきっと、他の姉妹との相部屋なのだろう。その洗い替えの服だけで、けっこうな数である。
で、形状としては下着や水着に近くても、それはもともと人目にさらされている森辺の装束であるのだから、こちらが気恥ずかしくなる道理もないのだが――やはり、禁断の園に踏み込んでしまったような感覚はぬぐいきれない。
そして、その禁断の園の主人は、部屋の奥で優雅に寝そべっていた。
寝床用の敷布を何組も重ね合わせて、その上に艶っぽい肢体を横たえた、ヴィナ=ルウである。
右手で頭を支えて、俺たちのほうに身体の正面を向けた、寝釈迦の体勢だ。どうということのないポージングであるのに、ボディラインの起伏が尋常でないので、それだけでむやみに色っぽい。
その目は相変わらず眠たげにとろんと細められており、口もとには表情らしい表情もない。
そして、負傷したという右の足首には灰色がかった布きれが巻きつけられている。その下には薬草の類いでも塗りつけられているのか、足を進めると花の香りとは異なる清涼かつ刺激的な香りが少しだけ匂う気がした。
「だらしない格好でごめんなさぁい……ずっと座った体勢でいたら、おしりが痛くなっちゃったのよぉ……」
「いえ、おかまいなく。このたびは災難でしたね、ヴィナ=ルウ」
俺は部屋の中央あたりで腰を下ろさせていただいた。
シュミラルも俺の隣りに座し、ルド=ルウはもう少しヴィナ=ルウに近い位置で、俺たちのほうを向く格好で座る。
「ヴィナ=ルウ。突然、訪問、申し訳ありませんでした」
シュミラルが静かに頭を垂れる。
ヴィナ=ルウは、答えなかった。
心なし、不機嫌そうな目つきではある。
やはり、シュミラルを歓迎している雰囲気ではない。
で――その後は、しばし静寂が漂った。
シュミラルもヴィナ=ルウも、おたがいを見つめたまま、口を開こうとしないのだ。
かたつむりが這っていくようにじんわりと時間は過ぎていき、やがてその沈黙に耐えかねたようにルド=ルウが声をあげる。
「あのさあ、あんた、何か用事があってヴィナ姉に会いに来たんじゃねーの? この後はザザやサウティの連中も来るから、俺もあんまり長々とはつきあってられねーんだけど」
「時間、ないですか?」
「いや、まだもうちょっとは大丈夫だけどさ」
「貴重、時間、ありがとうございます」
で、また沈黙である。
次に発言したのは、ヴィナ=ルウであった。
「ねぇ……用事がないなら、お引き取り願えないかしらぁ……?」
やっぱりヴィナ=ルウにしては冷ややかな声音だ。
シュミラルは、不思議そうに首を傾げる。
「用事、今、果たしています」
「何よそれぇ……黙りこくってわたしの姿を眺めるのが、あなたの用事なのぉ……?」
「はい。私、3日後、朝、ジェノス、去ります。その前、ヴィナ=ルウ、目、心、やきつけたい、思いました」
それが流暢な言葉づかいであったら、ずいぶん気取った言い回しに聞こえたかもしれない。
だけど俺には、誠実でひかえめなシュミラルが、精一杯に真情を伝えようとしているかのように聞こえてならなかった。
しかし、ヴィナ=ルウの表情は不機嫌そうなままだ。
「ふーん。だけどさ、ヴィナ姉もだいぶひとりで歩けるようになってきたから、明後日ぐらいには町に下りられるんじゃねーの? そしたら、今日のこれも無駄足じゃん」
無言の姉に代わってルド=ルウがそう言うと、シュミラルは満足そうに目を細めた。
「明後日、また会えれば、嬉しいです。怪我、治ること、望んでいます」
「意味がわからないわよねぇ……嫁取りの話だったら、それを断れば済む話だけど、こういう場合にはどうしたらいいのかしらぁ……」
ヴィナ=ルウは、空いた左腕で栗色の髪をかきあげる。
「嫁取りの話でもない、一夜の恋のためでもない、友誼の絆を結ぶためでもない……それだったら、あなたは本当に何のためにやってきたのかしらぁ……?」
あれ? と、俺は座ったまま、つんのめりそうになった。
しかし、シュミラルの様子に代わりはない。
シュミラルは、ヴィナ=ルウのほうに視線を定めたまま、右の手首に巻きつけられた飾り物のひとつを外し始めた。
「ヴィナ=ルウ、贈り物、迷惑ですか?」
「…………」
「災厄、遠ざける、守護の石です。ヴィナ=ルウ、健やかな生、願います」
それは銀細工の鎖でできていて、その何箇所かに小指の爪ぐらいの大きさをしたピンク色の石が埋めこまれていた。
俺がアイ=ファに贈った青の石の首飾りと、鎖の感じが少し似ている。
「……どうすんだよ、ヴィナ姉? 受け取るなら、俺がいったん預けるけど」
答えぬヴィナ=ルウの姿を横目で見つつ、ルド=ルウがそう言った。
ヴィナ=ルウは、さきほどのドンダ=ルウと同じような雰囲気で、ゆらりと身を起こす。
そうして横座りの姿勢になり、ヴィナ=ルウは低い声で言った。
「どうしてぇ……? ろくな縁も結んでいないあなたに、そんな贈り物をいただくいわれはないはずだけどぉ……?」
「ヴィナ=ルウ、健やかな生、願いたいだけです。私、去った後、ヴィナ=ルウ、また怪我する、悲しいです」
「…………」
「見返り、不要です。ヴィナ=ルウ、幸福、願います」
「ま、もらえるもんはもらっとけばいいんじゃねーの? いらなくなったら、捨てりゃあいいんだし」
いくぶんこの展開に飽きてきた様子のルド=ルウが、あくびまじりにそう発言した。
ややうつむき加減のヴィナ=ルウは、長い髪ごしにシュミラルの姿をねめつける。
「……あなたは、わたしをからかってるのかしらぁ……?」
シュミラルは、何回かぱちぱちと瞬きをした。
「からかう? わかりません」
「どうしてわたしなんかの幸福を願うのよぉ……? 太い女は、ご趣味じゃないんでしょぉ……?」
やっぱりか! と、俺は思った。
ルド=ルウは黄色っぽい髪をかき回しながら、「何だ、バラしちゃうのかよ」と、つぶやく。
きっとこの仲良し姉弟は、さきほどの広間での顛末を盗み聞きしていたのである。
「どうせわたしは太いわよぉ……それでわたしはこのまま誰に娶られることもなく、力自慢の大年増になっちゃうんだわぁ……」
「いや、嫁取りを願いでる男衆を片っ端から断ってたのはヴィナ姉じゃん」
「そうよぉ……だからもう、わたしのことなんて放っておいてよぉ……」
ヴィナ=ルウは、後方の壁にぐんにゃりともたれかかる。
その姿を見て、ルド=ルウは「ふーむ」と、つるつるの下顎をなでさすった。
「そろそろ限界っぽいな。客人、悪いけど、このあたりでお開きにしてもらえるか?」
「はい」と、シュミラルは目を伏せて、その手の飾り物をきゅっと握りしめた。
そうして立ち上がり、無言でヴィナ=ルウに一礼してから、背を向ける。
「悪いな。昨日はちょいと熱も出ちまったし、そうでなくても2日も家に閉じこもってたせいか、ヴィナ姉も気持ちが弱りきってんだよ。……ま、もともとひ弱な性根なんだけどな」
そんな風にルド=ルウが述べたのは、部屋を出て戸を閉めた後のことだった。
「特に、色事の問題に弱くてさあ。あんな見かけだから、ヴィナ姉は昔っから何十人もの男衆に言い寄られてたんだよ。……で、そいつを断るたんびに死ぬほど落ち込んで、しまいには男衆を寄せつけないおかしな女衆になっちまったんだよな」
たいそう不幸なヴィナ=ルウの過去を語りつつ、ルド=ルウはにっと白い歯を見せる。
「だけど、あんたみたいにヴィナ姉の外面を綺麗じゃない、麗しくない、なんていう男は初めてだったから、怒ってるんだか悲しんでるんだか、立ち聞きしてるときからもう頭が破裂しそうになってたんだよ。だから今日は、これでもう限界だ」
「……はい」
「それ、俺からヴィナ姉に渡しておいてやろうか?」
ルド=ルウが、シュミラルの握りこんだ右拳に目を落とす。
しかしシュミラルは「いえ」と首を横に振った。
「明後日、ヴィナ=ルウ、渡します。会えない時、あきらめます」
「そっか。あんたは面白い男だな、シュミラル」
そう言って、ルド=ルウはシュミラルの胸もとを軽く小突いた。
「あんたが森辺に婿入りしてきたら面白いんだけど。ま、無理なんだろうな。……でも、あんたがヴィナ姉の幸福ってやつを本気で考えてくれてるんなら、何がどうなってもあんたを恨んだりはしねーよ。それじゃあ、またな」