序 ~紅蓮の真実~
2025.9/22 更新分 1/2
・今回の更新は全8話で、初日に2話分を公開いたします。
・9/19に『ドラゴンと山暮らし』の書籍版第2巻が刊行され、コミカライズの決定が告知されました。コミック版は9/30から『マンガUP』で連載スタートしますので、ご興味を持たれた御方はよろしくお願いいたします。
悪夢の中で、俺は終わりのない苦痛にさらされていた。
真紅の業火で全身を焼かれて、最後には粉々に打ち砕かれる。そんな絶命の記憶を永遠に繰り返される、地獄そのものの苦痛である。
だが――俺はそれが夢であることを、はっきり認識していた。
苦痛の度合いに変わりはないが、それを高みから俯瞰しているもうひとつの意識が存在したのだ。それこそが、アイ=ファの手を握りながら眠りに落ちた恩恵であるはずであった。
世界は暗闇に閉ざされているが、あちこちにぼんやりとした金色のきらめきが感じられる。
まるで、曇天の日の星空のようだ。そしてそのきらめきは、アイ=ファの美しい金褐色の髪を連想させてやまなかった。
(今日こそ……今日こそ俺は、この悪夢を乗り越えてやる……)
終わりのない苦痛にさらされながら、俺の心にはそんな思いが渦巻いていた。
暗闇の向こうに、白い何かが霞んでいるのだ。俺は前回もその靄の向こう側を覗き込み、すべての真実を見届けたはずであった。
しかし俺はそれと同時に目を覚まして、すべての記憶を失ってしまった。
おそらくは、眠りながら俺の身に抱きついてきたアイ=ファの温もりが、俺を覚醒させてしまったのだ。これまでも、アイ=ファはいつもそうして俺を悪夢から救ってくれたのだった。
やはりアイ=ファの存在というのは、俺にとって救いそのものであったのだ。
そんなアイ=ファのためにも、俺はこの悪夢を乗り越えなければならなかった。
(俺は、何かを忘れている……それがどんなに恐ろしい記憶であったとしても、絶対に乗り越えてみせるんだ……)
そんな決意を胸に、俺は暗闇の底を這いずった。
その間も真紅の炎は容赦なく俺の身を焼き、目に見えない衝撃が凄まじい圧力で押し潰してくる。しかし、俺の身は木っ端微塵に砕け散ると同時にまた再生されるので、ナメクジのようにのろのろと前進することができた。
あの靄の向こうに、すべての真実がひそんでいるのだ。
俺を恐怖させる、謎の人物――右の頬に火傷の傷痕を持つ何者かも、あの靄の向こう側で微笑んでいるはずであった。
俺がその人物についてわずかなりとも思い出すことがかなったのは、《ギャムレイの一座》の一員たるナチャラのおかげである。
彼女が施してくれた不思議な術式によって、俺の深層心理からその存在が引きずり出されたのだった。
俺は過去に、その人物と相対しているはずだという。
しかし俺には、まったく心当たりがない。少なくとも、顔に火傷の傷痕がある知り合いなどは存在しなかったのだ。だから俺は、その人物に関する記憶を失っているのだと考えるしかなかった。
それ以降、その謎の人物は悪夢にも現れるようになった。
ナチャラに術式を施されてから初めての悪夢においては、ずっと暗闇の中に浮かびあがってにこにこと微笑んでいたのである。
(でも、もしかしたら……あいつは最初から、夢の中に現れていたのかもしれない……ただ俺は、恐怖のあまりに目をそらし続けて……認識できなかったのかもしれない……)
真実は、どうだかわからない。
しかし何にせよ、あの何者かも白い靄の向こう側に存在するはずであるのだ。
あの何者かと相対するのかと思うと、俺は恐ろしくてたまらなかったが――それでも、ここで逃げることは許されなかった。俺が真なる安息を得るためにはこの恐怖を乗り越えなければならないと、俺の本能が告げていたのだった。
(俺はもう二度と、アイ=ファたちのことを心配させたくないんだ……どんな恐ろしいものを見せつけられたって、そんなものに負けてたまるもんか……)
そんな決意をよすがとして、俺は暗闇の底を這いずった。
そして――ついに、白い靄が目の前に迫ってきた。
俺はアイ=ファの面影を心に刻みつけながら、覚悟を振り絞る。
そして、何度目かの業火に五体を焼かれて、ぐしゃぐしゃに押し潰されて、また肉体が再生すると同時に、白い靄の向こう側を覗き込んだ。
その瞬間――
深い安堵と喜びの思いが、俺の心にあふれかえった。
前回の悪夢でも、俺はそんな思いに見舞われたのだ。
俺は、忘れていた記憶を取り戻した。
俺はあのときも、この光景を見ていたのだ。俺は、心の片隅にずっと疼いていた傷口が優しく癒やされていくのを感じた。
(そうか……そういうことだったのか……)
白い靄の向こう側に隠されていた、その光景――
それは俺にとって、とても見慣れた光景であった。
ただし、この三年余りは目にしていない。
それは、俺の故郷――食堂で働く、俺たちの姿であったのだ。
俺たちとは、すなわち俺と親父と玲奈のことである。
そこは食堂の厨房で、俺と親父が調理に励んでいる。そして、菓子作りしか得意でない玲奈はエプロン姿で、カウンター越しに俺たちへと笑いかけていた。
幼馴染である玲奈は、ときどきこうして《つるみ屋》を手伝ってくれていたのだ。
懐かしさのあまり、俺は嗚咽をこぼしてしまいそうだった。
だが――
何かが、違っている。
それは俺の心に刻みつけられた大切な思い出でありながら、どこか細部が異なっていた。
安堵と喜びの思いで満たされていた俺の心に、黒々とした不安感がたちのぼってくる。
俺はその恐怖をねじふせながら、決死の思いで目を凝らした。
玲奈はショートヘアーであった髪をのばして、頭の後ろで簡単にまとめている。
親父は椅子に座った状態で、長ネギが何かを刻んでいた。
そして、俺は――
俺は、右の頬に大きな火傷を負っていた。
いや、右の頬だけではない。
俺は白い調理着の下に黒いタートルネックのインナーシャツなどを着込んでいたが、その襟や袖から覗く首や手の甲にも赤黒い火傷の傷痕が見て取れた。
それでも俺は、楽しそうに笑っている。
親父や玲奈と歓談しながら、痛々しい火傷の傷痕が覗く手で、ダイコンか何かを刻んでいるのだ。
それはまぎれもなく、俺――津留見明日太であるはずであった。
しかしそれは、俺ではなかった。
痺れきった頭の片隅で、俺はそのように確信していた。
何故ならば――『彼』は、今の俺とまったく異なる姿をしていたのだ。
俺はこの三年余りで、六、七センチばかりも背がのびた。森辺にやってきた頃は百七十センチジャストであったが、今ではドーラの親父さんやポルアースに追いつくぐらいの背丈になっていたのだ。
それに俺は身長の増加にともない、骨格も逞しくなっていた。森辺におけるそれなりの重労働と規則正しい生活によって、すくすく成長したのである。また、ジェノスの厳しい陽射しによって肌もこんがり焼けたため、もはや誰にも「生白い小僧」などとは呼ばれない風体に変貌していたのだった。
然して――『彼』は、そんな成長を果たしていなかった。
どちらかといえば華奢な体格で、いつも厨房にこもっているものだから肌も白い。なめらかなラインを描く頬などは、ちょっと中性的に感じられるほどだ。俺は常々、玲奈から「かっこいいというよりは可愛いタイプ」と称されていた。
だからあれは、俺の未来の姿ではありえない。
見慣れぬ火傷を負っているのだから、もちろん過去の姿でもありえない。
あれは――本来の世界で生き続けている、津留見明日太その人であった。
この食堂も、俺が知っている《つるみ屋》ではない。
《つるみ屋》とよく似た店構えであるが、細かい部分は違っている。《つるみ屋》は火事で全焼したのだから、それが当然の話であった。
そんな中、長ネギの始末を終えた親父がひょこりと身を起こす。
そして親父は刻んだ長ネギをボウルに移すと、壁に立てかけていた松葉杖を手にとって、ひょこひょこと移動し始めた。
親父は軽トラックにひき逃げをされて、両足を複雑骨折したのだ。
今はようやく松葉杖を使って歩けるぐらいに回復したようであった。
そんな親父が笑いながら、通りすぎざまに『彼』の肩を小突く。
その身長差は、やっぱり俺の記憶にある通りであったが――そんなことは、今さら確認するまでもない。ひとたび逞しくなった骨格が縮むことなどはありえないのだから、あの華奢な体格をした『彼』は俺と異なる人間であるはずであった。
(そうか……そういうことだったのか……)
俺は最初とまったく異なる感覚で、深く理解した。
俺が忘れていた光景は、これであったのだ。
俺が忘れていたのは、俺自身であった。頬に火傷の傷痕を持つ謎の人物というのは、俺自身――津留見明日太であったのだ。
俺は、すべてを理解した。
そして、その理解が新たな謎を生みだした。
深い安堵に包まれていた心が、暗雲のごとき疑念に覆い尽くされる。
そうして俺は、恐怖の絶叫を振り絞り――それと同時に、純白の輝きに意識をからめ取られたのだった。
◇
「アスタ、しっかりせよ! 何も危険なことはないぞ!」
アイ=ファの愛しい声が、恐怖におののく俺の心をくるんでくる。
そして、俺の身もアイ=ファの温もりにくるまれていた。
「アイ……ファ……」
俺がぼんやりとつぶやくと、アイ=ファの温もりが遠ざかっていく。
しかしその手は、俺の手をしっかり握りしめたままであった。
「大丈夫か? お前がいきなりただならぬ声をあげたので、取り急ぎ起こしたのだ。……ついに、悪夢を見たのだな?」
俺の視界を埋め尽くしたアイ=ファが、真剣な面持ちで問うてくる。
俺は寝具に横たわっており、アイ=ファが上から覆いかぶさっている格好だ。薄闇の中で、滝のように流れ落ちる金褐色の髪が美しくきらめいていた。
「お前は、望む通りの結果を得られたのか? お前が恐怖する相手とは、何者であったのだ?」
そのように言いつのるアイ=ファは、青い瞳に狩人の炎を燃やしている。
ただその奥側には、俺の身を案ずる懸念の思いがどうしようもなく渦巻いていた。
やはりアイ=ファは、俺の救いそのものだ。
アイ=ファの存在を身近に感じているだけで、俺の心は深く満たされていく。
だが――今は心の一部分に、ぽっかりと空洞があいていた。
その空洞から吹きすさぶ木枯らしのようなものが、俺の声帯を震わせた。
「俺は……俺は、誰なんだ?」
それが、俺の中に生まれた新たな謎であった。




