エピローグ ~真情~
2025.9/8 更新分 2/2
・今回は2話同時更新です。読み飛ばしのないようにご注意ください。
・今回の更新はここまでです。更新再開まで少々お待ちください。
俺たちは十分ばかり家人水入らずの会話を楽しんでから、ラウ=レイたちのもとに向かうことにした。
まだ広場の中央は大層な人だかりであるが、もうひと通りの挨拶は済んだ頃合いであろう。俺たちも、とりあえずはひと声かけて、のちのちゆっくりおしゃべりをさせてもらおうかと考えていたのだが――その目論見は、すぐさま潰えることになった。
「おお、アスタにアイ=ファ、ようやく来てくれたな。お前たちを待っていたのだぞ」
まずは屈託のない笑顔でそう言ってから、ラウ=レイは周囲の人々を見回した。
「ちょっとファの者たちと、話があるのだ。しばし時間をもらえるか?」
人々はいくぶんけげんそうにしていたが、ラウ=レイはこれまでにも二度ほどファの家に長期滞在したことがあったので、俺たちに対する執心は知れ渡っているのだろう。最後には、文句も言わずに引き下がっていった。
しかしどれだけ下がっても、人口密度はそれなり以上である。ラウ=レイは「ふむ」と思案してから、親指で背後のやぐらを指し示した。
「これだけの賑わいだと、落ち着いて言葉を交わすこともできそうにないな。あの上でくつろぐことにするか」
「え? 俺たちが勝手にのぼっちゃって大丈夫なのかい?」
「すべての儀式は終わったのだから、問題あるまい。誰かに文句をつけられたら、下りればいいだけのことだ」
落ち着いた面持ちをしていても、やはりラウ=レイはラウ=レイである。そしてヤミル=レイも無言のまま追従したので、俺はアイ=ファと目を見交わしてから追いかけることにした。
そちらに向かう道中で、ラウ=レイは横合いから差し出された果実酒の土瓶をひっつかむ。そうして俺たちは、一列になってやぐらをのぼることになった。
やぐらはせいぜい二メートルていどの高さであるが、そこから広場を見回すとなかなかの壮観であった。
普段は祝宴が始まる寸前にお邪魔するので、広場もこうまで賑わっていないのだ。かがり火に照らしだされる人々は誰もが喜びの思いをあらわにしており、とてつもない熱気であった。
「すごいね。婚儀を挙げる人たちは、こんな光景を見下ろしながら二人きりの時間を過ごすのか」
「うむ。アスタたちも早々に婚儀を挙げれば、今日の俺たちと同じ喜びを噛みしめることがかなうぞ」
「あはは。ファの家にこんなたくさんの血族はないし、こんな立派な席を準備するのはルウぐらいなんじゃないのかな」
そんなやりとりを交わしてから、俺たちはやぐらの上で着席した。
ラウ=レイとヤミル=レイが横に並び、俺とアイ=ファが相対する格好だ。ラウ=レイは土瓶の果実酒をひと口あおると、それを俺に差し出してきた。
「まずは、飲んでくれ。アスタたちと酒杯を交わす瞬間を、心待ちにしていたのだ」
これは酒杯ではなく、土瓶である――などという野暮な指摘はさておいて、俺は「うん」と土瓶を受け取った。
土瓶の中身は、赤ママリアの果実酒だ。こちらはおそらく赤ワインと同程度のアルコール量であるので、俺はいつも水や果汁で割っている。しかしこの場にそんな準備はなかったので、むせないように気をつけながらひと口だけいただいた。
さらに、アイ=ファとヤミル=レイも同じように口にして、土瓶はラウ=レイのもとに舞い戻る。ラウ=レイはもうひと口飲んでから、あらためて白い歯をこぼした。
「さて。まずは、礼を言わなければならんな。あの祝いの料理は、アスタが作ってくれたそうではないか」
「うん。ラウ=レイのご家族と一緒に作りあげたんだよ。気に入ってもらえたかな?」
「うむ。俺としては、もっと辛みが強くてもいいぐらいであったが……あれ以上辛いと、ヤミルが舌を痛めてしまいそうだからな。俺とヤミルの両方を思いやってくれたことを、心から感謝している」
ラウ=レイは、やっぱり穏やかな表情だ。
ただその水色の瞳は、星のようにきらめいている。それで俺も邪念なく、「うん」と笑顔を返すことができた。
「宿場町の広場でも、アスタにはずいぶんな手間をかけさせてしまったからな。そして俺たちは婚儀を挙げる前から、さんざんファの家の世話になっていた。それに関しても、礼を言っておきたかったのだ」
「お前にしては、しおらしいことだな。お前たちをファの家に招いたのはずいぶん昔の話であるのだから、今さら取り沙汰する甲斐はないように思うぞ」
アイ=ファもまた、穏やかな声でそのように応じる。
するとラウ=レイは同じ表情のまま、「いや」と首を横に振った。
「話は、それだけではない。そもそもスン家の罪を最初に暴いたのは、アスタであったのだからな。アスタの機転がなければ、今日という日もなかったということだ」
「それこそ、三年以上も前の話じゃないか。それにあれは俺だけじゃなく、みんなの力があってのことだよ」
「……でも、スン家が森を荒らしていることに気づいたのはあなただけよ、アスタ」
と――ヤミル=レイが、初めて口を開いた。
内心のわからない、クールな声音だ。そして、玉虫色に輝くヴェールに包まれたその顔もまた、いっさいの内心をうかがわせなかった。
「それに、スン家の罪を裁く際にも、あなたの言葉が重んじられていたわ。あなたの言葉がなければ、わたしは魂を返すことになっていたかもしれない。わたしをこの世に留まらせた責任の一端は、あなたにあるはずよ」
「はい。そんな責任なら、俺は喜んで背負わせていただきますよ」
俺が真っ向からそのように答えると、ヤミル=レイはうっすらと微笑んだ。
だけどやっぱり、内心は隠されたままである。
「以前のわたしだったら、あなたの責任を追及していたかもしれないわね。何せわたしは、あの場で魂を返す覚悟であったのだから……罪を暴かれた後で生き永らえることなんて、まったく想定していなかったのよ」
「ええ。ヤミル=レイは、家族の分まで罪を背負おうと考えていたのでしょうね。でも、森辺の公正な裁きが、そんな真似を許さなかったということです」
するとラウ=レイが、「ほう」と感心したように声をあげた。
「アスタは最初から、ヤミルの思惑を見抜いていたのか? 俺など、そんなことは考えつきもしなかったぞ」
「それはね、ヤミル=レイが俺の前でほんの一瞬だけ本音をこぼしたからだろうと思うよ」
あのとき――すべての罪が暴かれて、スン本家の面々がそれぞれ惑乱していたとき、ヤミル=レイがひそかに語りかけてきたのだ。
「スン家に、滅びをありがとう」
ヤミル=レイは、そう言っていたのである。
つまりヤミル=レイは最初から、スン家を滅ぼすために俺たちにちょっかいをかけていたということであるはずであった。
スン家は、もう取り返しがつかないぐらいの罪を重ねていた。よって、責任のある一部の人間たち――先代族長のザッツ=スン、族長のズーロ=スン、実際に悪さをしていたディガ=スンとドッド=スンとテイ=スン、そして次代の族長と見込まれていたヤミル=スンの六名だけで、すべての罪を贖おうと画策したのだ。
「だったら最初から、俺に打ち明けておけばよかったではないか。俺はヤミルが根っからの性悪女だと思っていたから、ずいぶん厳しくしつけてしまったのだぞ?」
と、ラウ=レイが子供っぽく口をとがらせた。
ずっと穏やかな面持ちであるラウ=レイが、ひさびさに彼らしい顔を見せたのだ。俺はそれを嬉しく思いながら、「ごめんごめん」と笑顔を返した。
「でも、何も確証のある話ではなかったし……ラウ=レイは最初から、ヤミル=レイと真っ直ぐ向き合っていただろう? だから、俺が口を出す必要はないだろうって思ってたのさ」
「ふん。おためごかしで、そんな言葉を抜かしているのではなかろうな?」
「もちろんだよ。だってラウ=レイは、自分からヤミル=レイをレイの家に引き取ったんじゃないか」
「そうよ」と、ヤミル=レイも静かに声をあげた。
「すべての罪が裁かれた後も、わたしだけは行き場所が定まらなかった。だから、サウティあたりで罪人として捕縛しておこうかという話になりかけたとき、あなたが余計な世話を焼いたのよ、家長」
「ふん。血の縁を絶つことで罪を裁いたのに、その後も罪人のように扱うなど道理が通らないではないか。誰もがお前の迫力に怯んでいるというのなら、俺が存分にしつけてやろうと思いたっただけのことだ」
「そう。だから、魂を返すはずだったわたしに生きる道を与えてしまったのは、あなたとアスタということよ」
ヤミル=レイはわずかに頭をもたげて、何もない虚空に視線を飛ばした。
「当時のわたしは、困惑するばかりだったわ。こんな生き恥をさらして、どのように生きていけばいいのか……家の仕事なんて手をつけたこともなく、正しい心なんてひとつも持ち合わせていなかったわたしが、森辺の民としてどんな風に生きていけばいいのか……いっそ適当な悪さでも働いて、罪人としての立場を取り戻したほうが楽なんじゃないかと考えたこともあったぐらいであるのよ」
「ふん。お前はどんなに悪人ぶっても、正しき心を持っているのだ。そんな馬鹿げた真似ができるとは思えんな」
「……あなたは自分が善良すぎるから、善良でない人間の心を理解できないのよ。そんなあなたの子供めいた期待も、わたしには苦痛でしかなかったわ」
ヤミル=レイの声が、わずかに妖しい響きを帯びる。
しかしラウ=レイはいくぶんむくれた顔のまま、「ふん」と鼻を鳴らした。
「それでお前が苦しんだのなら、それもまた贖いだ。苦しい思いをして正しき心を取り戻せたのなら、何よりであったな」
「ほら、これだもの。わたしがどんな悪態をついても、家長はその善良さと強靭さですっぽり呑み込んでしまうのよ」
ヤミル=レイは、くつくつと咽喉で笑った。
だけどやっぱりヴェールのきらめきで、内心は隠されている。俺は黙って、その言葉を聞くしかなかった。
「それもまた、わたしにとっては試練でしかなかったわ。こんなに真っ直ぐな人間のそばに置かれていたら、自分がどれだけ歪んでいるかを思い知らされるだけだもの。わたしなんかに、森辺の民は務まらない……そんな思いを、何度となく味わわされたというわけね」
「それで正しき心を取り戻せたのなら――」
「ああもう、いいわよ。家長は、黙っていてちょうだい」
ラウ=レイが皮肉っぽい笑いを含んだ声で言うと、ラウ=レイはしかたなさそうに口をつぐんだ。
そして、虚空に向けられていた目が、俺の顔を見つめてくる。
「最初に言っておくけれど、わたしの心は歪んだままよ。ディガ=ドムやドッドと違って、わたしは最初から歪んだ人間であったの。それを真っ直ぐのばすことなんて、どこの誰にも不可能なんでしょう」
「いや、だけど――」
「あるいは、幼い内からザッツ=スンと接していたために、こんな人間に育ってしまったのかしらね。何にせよ、わたしは物心がついた頃からこういう人間であったのだから、本来の自分を消し去ることなんてできないのよ」
俺の言葉もさえぎって、ヤミル=レイは言いつのった。
「でも……今はもう、誰もわたしを恐れたりはしない。わたしはまともな人間のふりをしているだけなのに、誰も文句をつけようとはしないのよ。これはいったい、どういうことなのかしらね」
「それはきっと、ヤミル=レイが本心から真っ当な人間でありたいと願っているからじゃないですか? ヤミル=レイが上っ面を取り繕っているだけだったら、森辺のみんなが見過ごすわけがありませんからね」
俺は心を乱すことなく、そんな風に答えることができた。
「たぶんそれは、俺も同じことなんです。俺なんて、十七年間も違う場所で過ごしてきたんですからね。本当の意味で、森辺の民みたいに純真になることはできません。でも、森辺の同胞として恥ずかしくないように、必死でみんなを見習おうとしているんです。だから、森辺のみんなも俺やヤミル=レイのことを受け入れてくれたんじゃないですか?」
「ああ……」と、ヤミル=レイは切れ長の目をまぶたに隠した。
「そう……そういうことなのね」
「そうですよ。きっとシュミラル=リリンやユーミ=ランやジーダたちも、同じなんです。俺たちは心の底から森辺の民になりたいと願って、懸命にみんなの背中を追いかけているんです。ヤミル=レイはもともと森辺の民ですけれど、歪んだ環境のせいで森辺の民らしい心を育むことができなかったから……俺たちと同じ思いに行き着いたんじゃないですか?」
ヤミル=レイは口を閉ざしたまま、しばらく動こうとしなかった。
その顔から皮肉っぽい表情は消え去って、また静謐な無表情に戻っている。まぶたを閉ざしているせいか、それはまるで美しい彫像であるかのようであった。
「だから……」
と、ヤミル=レイがふいに声をあげた。
「……だから、わたしたちは結ばれなかったというわけね」
「え? な、なんですか?」
「わたしもあなたも、それぞれ森辺の異端者だわ。だから、わたしとあなたが結ばれるべきなのじゃないかって考えたこともあったのよ」
「じょ、冗談はおやめください」
「冗談なんかじゃないわよ。そもそもわたしは、それが目的であなたに裸身をさらしたのだしね」
すると、ラウ=レイがむくれた顔で「おい」と口をはさんだ。
「おかしな冗談口で、人を惑わせるな。それもお前の、悪い癖だぞ」
「だからわたしは、性根が歪んでいると言っているのよ」
そんな風に語りながら、ヤミル=レイはようやくまぶたを開いた。
その目には、愉快げな光が瞬いているようである。
「でも、はぐれもの同士で結ばれたって、何も生まれないものね。だから、あなたにはアイ=ファが必要であり……わたしには、家長が必要であったのよ」
「は、はい。ヤミル=レイとラウ=レイが結ばれて、俺は心から嬉しく思っています」
「わたしは、戦々恐々だけれどね。伴侶になってしまったら、ついに家長にもわたしの本性が理解できてしまうかもしれないもの」
そう言って、ヤミル=レイはラウ=レイのほうに向きなおる。
その横顔には――なんだか、とてもあどけない表情が浮かべられていた。
「でも、ひとたび婚儀を挙げたならば、どちらかが魂を返すまで縁を絶つことはできないのですからね。どんなに後悔したって、もう遅いのよ?」
「後悔など、するものか。お前にまだ性悪な部分が残されていたら、しつけなおしてやるだけのことだ」
ラウ=レイもまた、彼らしい無邪気で力強い笑みを浮かべる。
思えば――今日の昼から数えても、ラウ=レイとヤミル=レイが正面から視線を合わせたのは、これが初めてのことであった。
ラウ=レイの水色の瞳は、相変わらず強く明るい光をたたえている。
そして、ヤミル=レイの切れ長の目は――玉虫色のヴェールの向こう側で、とても穏やかに瞬いていた。
婚姻の儀式からずいぶん長きの時間を経て、彼らの心はようやくしっかりと結び合わされたのだ。
それを確信した俺は、ようやく心から安堵することができた。
きっとヤミル=レイは自分でも言っている通り、いまだに森辺の民らしからぬ性根をしているのだろう。俺自身、ヤミル=レイの人柄には大きな魅力を感じていたが、そこに森辺の民らしい純真さなどはいっさい感じていなかったのだ。
たとえばヤミル=レイは、最初から貴族の社交界で上手に立ち振る舞うことができていた。もしかしたら、それはヤミル=レイが貴族の社交術に類する手腕で世間を渡り歩いているという証拠であるのかもしれなかった。
だが――それもまた、今の森辺の民には必要な手腕である。
森辺の民は、外界の人々と正しい絆を紡いでいこうと決めたのだ。世の中には、ただ純真なだけでは乗り越えられない相手も存在するはずであった。
それでも森辺の民には、森辺の民らしさを失ってほしくない。
そんな中で、森辺の外で生まれ育った俺やシュミラル=リリンたちのような人間にも、果たせる役割があるのではないか――俺は常々、そんな風に考えていた。だからこそ、俺はシュミラル=リリンやユーミ=ランたちが森辺の同胞になってくれたことを、心からありがたく思っていたのだ。
もしかしたら、ヤミル=レイもそのひとりであるのかもしれない。
森辺の民でありながら森辺の民らしからぬ人柄と才覚を持ち合わせたヤミル=レイは、他の同胞とは異なる形で森辺に繁栄をもたらすかもしれない。そして、そんなヤミル=レイが森辺でも屈指の力を持つレイの家長の伴侶になりおおせたならば、いっそうの影響を与えるのかもしれなかった。
(森辺の民なら、それをいい形に昇華できるはずだ。……何せ、俺みたいに素っ頓狂な存在でも、まるごと受け入れた上で望ましい力にかえてくれたんだからな)
俺がそんな思案にふけっていると、やおらラウ=レイがこちらに向きなおってきた。
「ところで、アスタとアイ=ファはいつ婚儀を挙げるのだ? まったく今さらの話だが、やはり婚儀というのはいいものだぞ」
ずっと無言で見守っていたアイ=ファは、わずかに頬を染めながら「やかましい」と言い返した。
「お前は婚儀に関して、余人に干渉する気はないと申していたではないか。自分が婚儀を挙げるなり、その言葉をひるがえすつもりか?」
「うむ。俺も周りにせっつかれるのが煩わしかったため、余人にも口出しするべきではないと考えていたのだ。しかしこのたびは、グラフ=ザザたちにせっつかれたおかげでヤミルと結ばれることがかなったからな。大切な友たるお前たちにも、早くこの幸せを味わってもらいたいのだ」
「だから、やかましいと言っている。こちらには、こちらの事情があるのだ」
アイ=ファは、つんとそっぽを向く。
そのはずみで、隣の俺と視線をぶつけることになり――いっそう顔を赤くしたアイ=ファは、罪のない俺のこめかみを拳でぐりぐりと蹂躙してきたのだった。
その拳の温もりに心を満たされながら、俺はラウ=レイとヤミル=レイに笑いかける。
ラウ=レイは無邪気に笑っており、ヤミル=レイは――どこか、取りすました面持ちだ。ただ、玉虫色のヴェールに半ば隠されたその目には、とても満足そうなきらめきがたたえられているように思えてならなかった。




