レイの婚儀⑥~縁~
2025.9/7 更新分 1/1
・明日は2話同時更新です。読み飛ばしのないようにご注意ください。
敷物で一杯の汁物料理をたいらげたのち、俺たちはあらためて広場に繰り出すことになった。
俺とアイ=ファ、レム=ドムとドム分家の女衆という四名連れだ。このような組み合わせで祝宴を楽しむのは初めてのことであったので、なかなかに新鮮な心地であった。
「ああ、アスタ。本日は屋台の商売をおまかせしてしまった上に宴料理でも力を添えていただき、本当にありがとうございました」
と、最初に訪れた簡易かまどでは、いきなりレイナ=ルウに頭を下げられることになった。
そんなレイナ=ルウが受け持っていたのは、ダドンの貝の炒め物である。鉄板の上で焼きあげられている内容に目を走らせたドム分家の女衆が、鋭い声音でそれを指摘した。
「レイナ=ルウが、ギバを使っていない料理を担当されているのですね。少々意外な気がしますが……それはやはり、ダドンの貝の扱いの難しさを考慮してのことでしょうか?」
「ええ。ダドンの貝を実際に扱った経験のある人間は、ルウの血族でもごく限られていますので。万が一にも不備が出ないように、わたしが受け持つことにいたしました」
きりりと引き締まった面持ちで、レイナ=ルウはそのように答えた。そんなレイナ=ルウも、もちろん絢爛なる宴衣装の姿である。
「ただし、こちらの料理ではわずかながらにギバ肉も使われています」
「え? そうなのですか?」
「はい。細かく挽いたギバ肉を、具材として使っているのです。ですが本当にささやかな量ですので、ギバ料理ではなくダドン料理と称するべきなのでしょうね」
これは以前の研究期間で考案されつつ、次点で送別の祝宴には持ち出さなかった献立であった。あえて名前をつけるとしたら、『ダドンとチャンのミソ玉炒め』とでも称するべきであろう。アワビのごときダドンの貝とズッキーニのごときチャンを主体として、炒り卵とギバの挽き肉を合わせているのだ。味の基調はミソであり、そこに砂糖やタウ油やホボイ油や、ミャームーやケルの根なども添加していた。
ダドンの貝の扱いが難しいというのは、熱を通しすぎると身が固くなる点である。水で戻したダドンを炒め物で使うとなると、身が固くなる寸前でひきあげるのがベストのタイミングとなるのだ。こればかりは、研究期間の常連メンバーにしか受け持てない作業であった。
それだけの苦労をかけた甲斐あって、こちらの料理も素晴らしい出来栄えである。
ドム分家の女衆はきわめて神妙な顔をしており、そのかたわらのレム=ドムは気安く「大したものね」と言い放った。
「これは確かに、ギバ肉を脇に追いやるほどの味わいなんでしょう。まあ、こんな料理ばかりが並んでいたら、頑固な男衆が黙っていないのでしょうけれどね」
「ええ。晩餐でしたら、副菜として扱うのが相応なのでしょう。この他にギバ肉を脇に追いやるような献立は存在しませんので、ご安心ください」
そのように応じるレイナ=ルウは、ますます凛々しい面持ちだ。レム=ドムは苦笑をこぼしながら、肩をすくめた。
「あなたといいアスタといい、料理に関しては狩人のような気迫よね。あなたもせいぜい精進しなさいな」
そのように呼びかけられた相手は、もちろんドム分家の女衆だ。ドム分家の女衆もまた、真剣きわまりない面持ちで「承知しています」と応じた。
「レイナ=ルウは大役続きで、大変だったね。明日の商売は、本当に大丈夫かい?」
俺もレイナ=ルウに声をかけてみると、気合の入った声で「はい」という返事が返ってきた。
「前日の下ごしらえができなかった分、料理の数は半分ていどになってしまいますが……なんとしてでも、やりとげてみせます。重ねがさね、アスタにはお世話をおかけしてしまって申し訳ありません」
「下ごしらえに関しては余所の氏族が頼りだから、俺の苦労なんて大したことじゃないさ。みんな、喜んで引き受けてくれたしね」
明日はルウの屋台が料理の数を絞る分、ファの屋台で不足分を補うのである。なおかつ、明日は城下町の屋台も営業日であるため、そちらも合計すると今日と同程度の作業量であった。
「それじゃあ、他の料理も味わわさせていただくよ。レイナ=ルウも、頑張ってね」
「はい。そちらはどうぞ、祝宴をお楽しみください」
そうして簡易かまどの前を離れると、レム=ドムがさっそく皮肉っぽい声をあげた。
「婚儀の話なんて、ひとかけらも出なかったわね。レイナ=ルウは、よほどレイのお二人と縁が薄いのかしら?」
「うん、まあ、それほど親密なおつきあいではなかったようだね。ただでさえ、レイナ=ルウは料理に集中しちゃう気質だしさ」
「まあ、宴料理に血道をあげれば、それも祝福の一環と見なせるのかしら。それでももう少し、お祝い気分を感じさせてほしいものね」
そんなレム=ドムの思いは、次なるかまどの手前で達成されることになった。そちらには大きな敷物が敷かれて、ルティムとドムの面々およびミダ・ルウ=シンが大騒ぎをしていたのだ。
「おお、レム=ドムはアスタたちと一緒におったのか! それでこちらには参じなかったわけだな!」
昼間にも顔をあわせたダン=ルティムが、ガハハと笑い声を響かせる。いっぽうガズラン=ルティムはゆったりとした笑顔、長老のラー=ルティムは厳格なる面持ちだ。
ひさびさに家族と輪をつくったモルン・ルティム=ドムは満面の笑みであるし、ディック=ドムもくつろいだ姿を見せている。だけどやっぱり特筆するべきは、ヤミル=レイのかつての家族たち――ディガ=ドムとドッド、ミダ・ルウ=シンとオウラ=ルティムであった。
「あれ? ツヴァイ=ルティムはいないんですか?」
「ツヴァイなら、こちらで縮こまっておるぞ! おおかた泣き腫らした目をさらすのが気恥ずかしいのであろうよ!」
ミダ・ルウ=シンの巨体の陰から、「やかましいヨ!」というキンキン声が響きわたる。そして、ツヴァイ=ルティムが纏っている宴衣装のヴェールの生地がちらりと覗いて、かがり火の明かりを反射させた。
「涙をこぼさなかったのは、俺とオウラ=ルティムだけだったみたいだな。なんだか、誇らしい気分だぜ」
ディガ=ドムがおどけた声をあげると、オウラ=ルティムは「まあ」と穏やかに微笑む。《青き翼》を招いた晩餐会でも集結していた顔ぶれであったが、やはり本日は温かい空気ばかりがあふれかえっていた。
かつてスン本家の家人であった人間の中で、婚儀を挙げるのはヤミル=レイが初めてであったのだ。それはきっとミダ・ルウ=シンたちが氏を授かったときや、ディガ=ドムが一人前の狩人に認められたときと、同じぐらいの祝い事であるのだろう。あくまで血の縁を絶たれた身であっても、心の底からわきでる喜びの思いは抑制できないはずであった。
「今はディガ=ドムたちに、リフレイアたちの言葉を伝えていました。リフレイアとアラウトは、ヤミル=レイの婚儀をたいそう喜んでくれていましたので」
と、ガズラン=ルティムがそのように告げてくる。ガズラン=ルティムは昼の広場で、トトス車にこもっていたリフレイアたちと言葉を交わしていたのだ。
「リフレイアやアラウトにとっては、見過ごせない話でしょうからね。わざわざ城下町から出向いてきたのも、納得です」
「ああ。あのお二人は、俺の祝いにも駆けつけてくれたもんな。そうまで気にかけてくれて、ありがたいこったぜ」
ディガ=ドムは朗らかに笑いながら、頭にかぶったギバの頭骨を撫でさする。彼が初めてそれをかぶる姿を、リフレイアたちは北の集落で見届けたのだった。
(それにしても……みんな、本当に嬉しそうだな)
皮肉なことに、彼らは血の縁を絶たれて罪を贖ったことで、初めて家族らしい絆を結ぶことがかなったのだ。今はヤミル=レイが不在であり、ツヴァイ=ルティムは隠れてしまっているが、残る面々だけで家族団欒とでも言いたくなるような温かい空気が形成されていた。
しかしまた、彼らの大部分は新たな血の縁で結ばれている。ルティムの両名などは、ドムともシンともレイとも血族であるのだ。シンとレイの両名は、残念ながらドムと血の縁を持たない身であるが――ミダ・ルウ=シンはそんなことを気にしている様子もなく、もっとも幸せそうな眼差しでぷるぷると頬を震わせていた。
「アスタたちは、もうこの料理を食べたんだよ……? とってもとっても美味しかったんだよ……?」
「いや、こっちはまだふた品の料理しか食べてないんだよね。そんなに美味しかったんなら、期待しちゃうな」
「うん……オウラ=ルティムとツヴァイ=ルティムが作った料理なんだよ……?」
「取り仕切ってたのは、マイムだヨ! アタシらはあいつの手足になってただけサ!」
ツヴァイ=ルティムは、いつも以上にけたたましい。しかし、その隠れ蓑にされているミダ・ルウ=シンは、とても嬉しそうだった。
「それじゃあ俺たちも、そちらの料理をいただいてきます。また後で、ゆっくり語らせてください」
「うむ! 儀式の後でかまわんので、アスタともゆっくり酒杯を交わしたく思うぞ!」
そんなダン=ルティムのありがたい言葉と笑顔に見送られて、俺たちはすぐそばの簡易かまどへと歩を進める。そちらで働いていたのは、まさしくマイムの一家であった。
「マイム、お疲れ様。その料理はとても美味しかったって、ミダ・ルウ=シンが喜んでたよ」
「ほ、本当ですか? 恐縮です」
と、マイムは嬉しそうにはにかんだ。
ミケルは相変わらずの仏頂面、バルシャは大らかな笑顔だ。そしてかまどの裏手では、ジーダも当然のように立ち尽くしていた。
マイムたちが配っていたのは、煮込み料理である。ベースは豆乳であるようだが、香草の刺激的な香りも漂っている。ギバ肉のみならず、野菜の朱色や緑色も覗いていて、外見的にはクリームシチューによく似ていた。
「こちらでは、豆乳の煮込み料理にレミュの香草を使ってみたんです。それほど目新しい味わいではないかと思いますが……レイナ=ルウが、宴料理に選んでくださいました」
「きっとレイナ=ルウは、新しい食材を使った献立を優先してるんだろうね。でも、マイムも忙しかっただろう? よく新しい献立を考案する時間があったね」
「い、いえ。以前から取り組んでいた豆乳の煮込み料理に、試しにレミュの香草を使っただけなんです」
マイムは恐縮しながら、料理を取り分けてくれた。
レミュは交配育種で開発された新種の香草で、ペッパー系とトウガラシ系と複数の香草の風味が入り交じっている。辛みは強いが風味は繊細であるため、取り扱いにはそれなりの配慮が必要な品であった。
しかしこちらの煮込み料理では、レミュの香草の繊細な風味が上手い具合に活かされている。豆乳の甘やかで香ばしい風味と絡み合い、流麗な雰囲気さえ感じられるほどであった。
「うん、美味しいね。これなら、ミダ・ルウ=シンも喜ぶはずだよ」
「……アスタも本当に、そう思ってくださいますか?」
マイムの眼差しに、ちょっと真剣な光が入り交じる。
彼女は俺よりも鋭かった舌の味覚が、鈍ってしまったという話であったのだ。しかし、もともとがずいぶんな鋭さであったため、現時点でも人並み以上であるのだろう。そんな思いを込めて、俺は「うん」と笑顔を返した。
「確かにそこまで主張の強い味わいではないけど、多くの人に喜ばれる出来栄えだと思うよ。屋台で売りに出してもいいぐらいなんじゃないのかな」
「……ありがとうございます」と、マイムは目は細める。今にもそこから涙がこぼれ落ちそうな目つきであったが――しかし、そのような事態には至らなかった。彼女はたとえ鋭い味覚を失っても、森辺のかまど番として力を尽くそうと決意した身であるのだ。これから十三歳になる彼女の人生は、まだまだ始まったばかりであるのだった。
「ところで、あなたがたはレイ家のお二人とさしたる縁もないのかしら?」
同じ料理を食しながら、レム=ドムはミケルたちに問いかける。
まずはミケルが、不愛想な声音で「そうだな」と答えた。
「ヤミル=レイとは祝宴や勉強会などで時おり顔をあわせるぐらいで、特別な縁はない。レイの家長のほうは、それこそ言葉を交わしたのも数えるていどであろうな」
「これだけ血族が多ければ、それも不思議な話ではないわよね。しかもあなたたちは、もっとも新参の家人なのですものね」
「うむ。なおかつ、俺たちがルウ家の世話になる頃にはスン家の騒動も終わっていたので、ヤミル=レイに対しては良くも悪くも特別な感情はない。……俺は我が身かわいさに、騒動のさなかは森辺の民と距離を取っていたのでな」
するとバルシャが「何を言ってるんだい」と、ミケルの肩を小突いた。
「アスタがトゥランの姫さんにさらわれたとき、ジーダに居所を教えたのはミケルだろ? それがなかったら、アイ=ファたちだって身動きが取れなかったんだろうからね」
「あれもジーダのほうから俺に近づいてきて、屋敷の場所を問うてきただけのことだ。俺自身は、何もしていない」
「それは我が身じゃなく、マイムを思いやってのことだろう? そうじゃなくっても、そんな古い話で卑屈な物言いをする必要はないさ」
バルシャは愉快げに笑いながら、レム=ドムのほうに向きなおった。
「いっぽうあたしはサイクレウスたちと対決した場で、初めてヤミル=レイと出くわしたんだよ。あの頃から、こいつはただもんじゃないなって思ってたもんさ」
「ああ、スン本家の連中が城下町に集められた日のことね。そうか、あなたはシルエルの罪を暴くための生き証人だったのよね」
「うん。ヤミル=レイたちがあいつらの言いなりになってたら、いっそうややこしい話になってただろうさ。他のみんなも立派だったけど、ヤミル=レイはひときわだったよ」
「……そこまでの話は、ディックからも聞いていないわね」
と、レム=ドムは俺とアイ=ファの顔を見比べる。黙々と煮込み料理を食していたアイ=ファが、それに答えた。
「ディック=ドムは、建物の外で護衛の役目を担っていたからな。ヤミル=レイらが語る姿は、目にしていないのだ」
「ふうん。それはいったい、どんな有り様だったのかしら?」
「確かにあの場では、スン家の全員がシルエルたちの申し出をはねのけていた。しかしその中でもっとも弁が立つのは、やはりヤミル=レイであろうからな。ヤミル=レイが言葉を重ねれば重ねるほどに、シルエルは狂乱していたものだ」
「ふふふ。わたしはけっきょくシルエルという大罪人とも顔をあわせる機会がなかったのだけれど……後ろ暗い身であのヤミル=レイと言い争いなどをしたら、それこそ平静ではいられないのでしょうね」
レム=ドムは小気味よさそうに、くつくつと笑った。
「バルシャはその姿を見て、ヤミル=レイに一目置いていたというわけね。それなら、納得だわ」
「ああ。でも、ルウの集落に住みついてからは、そうそう言葉を交わす機会はなかったよ。あっちはアスタの屋台の手伝い、あたしは集落で薪割りざんまいだったからねぇ。だけどまあ、毒蛇みたいな迫力もなりをひそめて、可愛らしく落ち着いたもんだと感心していたよ」
「あなたぐらいの齢を重ねれば、ヤミル=レイさえ可愛く見えるものなのかしらね。……それじゃあ、ラウ=レイはどうなのかしら?」
「あたしはそんなに、ルウ以外のお人らと言葉を交わす機会がなかったんだよ。ラウ=レイだったら、一番懇意にしていたのはジーダだろうねぇ」
母親に笑いを含んだ眼差しを向けられたジーダは、ぶっきらぼうに答えた。
「俺はラウ=レイと取っ組み合うばかりで、さして口をきいた覚えもない。アイ=ファなら、わかるはずだ」
「うむ。お前たちは、たびたびファの家にも訪れて修練を積んでいたな。しかし、そういった場で騒ぐのはラウ=レイとルド=ルウの役割であったように記憶している」
そんな風に応じてから、アイ=ファは穏やかに目を細めた。
「しかし森辺の狩人というものは、強き相手に敬意を払うものであるからな。お前もラウ=レイも、おたがいに敬意を払っていたはずだ」
「……それを言うなら、俺もラウ=レイもアイ=ファやライエルファム=スドラにはまったくかなわなかったがな」
と、ジーダは口をへの字にする。彼も分家の家長としてめっきり貫禄がついてきたので、そんな子供っぽい顔を見せるのはひさびさのことであった。
「実はわたしもラウ=レイとは、それほど言葉を交わしたこともありません。でも、ラウ=レイがどれほど純真な御方であるかは、わきまえているつもりです」
と、マイムが遠慮がちに発言した。
「ですから、今日の婚儀もとても喜ばしく思っているのですけれど……レム=ドムは、そういう話をお聞きになりたいのでしょうか?」
「まあ、そうね。ラウ=レイはあんなに目立つ人間なのに、あんまり評判が聞こえてこないのよ」
「はい。もしかしたらラウ=レイは、身内よりも外の方々に興味が強い御方なのかもしれません。ファの方々だとか宿場町の方々だとか、そちらとご縁を深めることに熱心であったようですから」
そう言って、マイムはにこりと微笑んだ。
「でもレム=ドムの仰る通り、ラウ=レイはとても目をひく御方ですので……血族の間でも注目されていますし、そして信頼されていると思います」
「ふん。レイの家長としては、あまりに破天荒だがな。ダン=ルティムが家長であった時代は、ドンダ=ルウもずいぶんな苦労をしたのだろうと思うぞ」
ジーダがぶすっとした顔で口をはさむと、マイムは「あはは」と楽しそうに笑った。
「責任のある方々には、また違った見え方がするのかもしれませんね。でも、わたしが真っ先に思い出すのは、強い相手に真っ向から立ち向かっていく勇ましい姿や、幼子たちと一緒になってはしゃいでいる姿などですので……とても好ましく思います」
「ふうん。あなたももう少し齢を重ねていれば、ヤミル=レイに対抗できたかもしれないのにね」
レム=ドムが意地悪なことを言うと、マイムはいくぶん頬を赤らめつつ「いえ」と首を振った。
「ラウ=レイのように元気のあふれかえっている御方を受け止められるのは、ヤミル=レイのように落ち着いた御方だけなのでしょう。わたしなどには、とうてい務まりません」
「あらそう。まあ、あなたは落ち着いていて愛想のない男衆のほうがお似合いなのでしょうね」
レム=ドムが流し目でジーダのほうを見やると、そちらも仏頂面のまま頬を赤くしてしまう。するとアイ=ファが遠慮なく、レム=ドムの頭を引っぱたいた。
「お前もずいぶん落ち着いたようなのに、また悪い虫が騒いでいるようだな。我々は客人の身であるのだから、少しは身をつつしむがいい」
「何よ、もう。小突くのは、愛しいアスタの頭だけにしてもらえるかしら?」
「そういう物言いを、つつしめと言っているのだ」
アイ=ファは頬を赤らめることなく、再び腕を振りかざす。レム=ドムは素早くかわそうとしたが、その逃げる先にスイングされた手の平によってこめかみを引っぱたかれた。
「す、すごいですね。レム=ドムに手をあげる人間を目にしたのは、初めてです」
と、ドム分家の女衆は目をぱちくりとさせている。レム=ドムはこめかみをさすりながら、「もう」と不満の声をもらした。
「わたしの威厳が台無しじゃない。……でも、なんだか懐かしいわね」
「うむ。出会った当時は、何度お前の頭を叩いたかも知れぬからな」
レム=ドムはちょっと甘えたような目つきになり、アイ=ファは苦笑をはらんだ眼差しで見返す。二人がそんな乱暴なスキンシップに励んでいたのも、三年近く昔の話であったのだった。
(でもそう考えると、俺たちはレム=ドムよりもミケルたちのほうが早く出会ってるんだよな。かろうじて、マイムが同時期ぐらいか)
しかしその理由は、歴然としている。ミケルたちは、トゥラン伯爵家の大罪人を打倒するための同志であり――マイムやレム=ドムは、その騒乱が終結したからこそ行動の自由を得たのだ。そしてヤミル=レイは騒乱の中心人物であったため、出会った時期によって印象が大きく変わるはずであった。
そしてまた、ミケルたちが俺と出会ったのは、スン家の罪が暴かれたのちのことである。よって、大罪人ヤミル=スンの存在を間近から見た人間は、いっそう限られるわけであった。
(ラウ=レイだって、家長会議で初めてヤミル=レイと顔をあわせたんだろうしな。それで、あの頃は……ヤミル=レイの性根を叩きなおしてやるって奮起してたんだ)
その矛先が俺に向いて、ヤミル=レイに調理の手ほどきをすることになったのである。言ってみれば、俺とヤミル=レイの絆を深めさせたのはラウ=レイに他ならなかった。
(屋台の商売だって、ヤミル=レイを俺の手伝いに使うようにラウ=レイがしつこくお願いしてきたんだもんな。あれがなかったら、ヤミル=レイはルウの屋台を手伝ってたか……もしくは、レイの集落でひっそりと過ごしていたはずだ)
婚儀を挙げるのはラウ=レイとヤミル=レイであるが、俺とヤミル=レイを深く結びつけたのはラウ=レイであるということだ。その錯綜した三角関係が、俺に特別な感慨をもたらすのかもしれなかった。
「ああ、ようやく会えたわねぇ……ほらぁ、お待ちかねのアスタよぉ……」
と、いきなり聞き覚えのある眠たげな声が響きわたり、俺を驚かせた。
俺が慌てて振り返ると、ヴィナ・ルウ=リリンがゆったりと微笑んでいる。その隣のシュミラル=リリンも穏やかに微笑みながら、発言した。
「私、日中、アスタ、相まみえています。よって、アスタ、求める気持ち、ヴィナ・ルウ、まさっている、思います」
「うふふ……どうせ宿場町では、大して言葉を交わす時間もなかったんでしょう……? ことアスタに対する情熱にかけて、あなたにかなうわけがないわぁ……」
二人が屋外でこのように語らう姿を目にするのは、実にひさびさのことである。
それで俺が目を白黒させていると、ヴィナ・ルウ=リリンはくすくすと笑った。
「わたしが出歩いているのが、そんなに珍しいのかしらぁ……? わたしだって、ずっとエヴァの面倒を見ているわけではないのよぉ……?」
「そ、そうですよね。でも、こうやって広場で出くわすのはひさしぶりだったんで、ずいぶん驚いてしまいました」
「うん……実は、レイのみんなに追い出されちゃったのよぉ……まあ、追い出されたなんて言ったら、人聞きが悪いけれど……儀式の時間はわたしたちに幼子の面倒をお願いしたいから、今はそのぶんまで祝宴を楽しんでこいって、追い払われちゃったわけねぇ……」
そんな真似をするのは、もちろんあの三姉妹であろう。俺もようやく、心から納得することができた。
「でしたら、ぞんぶんに祝宴を楽しんでください。……シュミラル=リリンも、あと十日ていどで出立ですもんね」
「うふふ……そのぶん家では甘えているから、心配はご無用よぉ……」
そんな言葉を語る際にも、ヴィナ・ルウ=リリンはとてもやわらかい面持ちである。通りいっぺんのノロケではなく、心の奥底からの情愛があふれかえった冗談口であった。
「いきなり空気が甘ったるくなってしまったわね。そういえば、あなたはヤミル=レイと対立していたのじゃなかったかしら?」
レム=ドムが不敵な笑みを届けると、ヴィナ・ルウ=リリンは「対立……?」と小首を傾げた。
「ダイだかレェンだかの男衆が、こともあろうにあなたとヤミル=レイに婚儀を持ちかけたというのでしょう? 当時はずいぶん険呑な空気だったと聞いているわよ」
「ああ……そんなのは、ルウとスンの確執があってのことよぉ……ヤミル=レイの立ち回りのおかげで、べつだん大ごとにはならなかったしねぇ……」
それは、俺が森辺にやってくるよりも前の逸話である。そんなそら恐ろしい真似をしでかしたディール=ダイなる男衆も、現在は伴侶を持つ身であった。
「それでヤミル=レイが初めて屋台にやってきたときは、ヴィナ・ルウ=リリンがすごく警戒していたんですよね。それも懐かしい思い出です」
「そんなことも、あったわねぇ……でも、わたしが屋台でヤミル=レイと出くわしたのはせいぜい二回ぐらいだったし……その後すぐに家長会議だったから……わたしとヤミル=レイの間に悪縁を育む時間なんてなかったわぁ……」
それは確かに、その通りなのだろう。そして、家長会議を終えたのちには、ヴィナ・ルウ=リリンがシュミラル=リリンから愛の告白をされることになり――それ以降はそちらの話で頭がいっぱいになってしまったのか、ヤミル=レイが屋台で働き出してもさしたる関心は向けていなかったように記憶していた。
(まあ、シュミラル=リリンの一件がなくても、ヤミル=レイはもう改心してたからな。誰とも悪縁は結んでいないはずさ)
そんな思いを胸に、俺はレム=ドムを振り返った。
「当時はむしろ、レム=ドムやスフィラ=ザザのほうがヤミル=レイやツヴァイ=ルティムを警戒していたように思うよ。まあ、ザザの血族としてはしかたのない心情だったんだろうけどさ」
「あら、意地悪なことを言うのね。アイ=ファの前じゃなかったら、おしおきをしているところよ」
「……まさか、私のおらぬ場でアスタに不埒な真似をしているのではなかろうな?」
「そんなわけないじゃない。……ちょっと、何よその目は? あなたのアスタびいきも、大概ね」
レム=ドムがドム分家の女衆を盾にすると、ヴィナ・ルウ=リリンやバルシャたちが笑い声をこぼした。
何が原因で騒いでも、けっきょく祝宴のおめでたさに呑み込まれてしまうようだ。俺もまた、アイ=ファの怒った横顔を微笑ましい心地で見守ることになり――その代償として、むこうずねを優しく蹴り飛ばされたのだった。




