レイの婚儀⑤~宴の始まり~
2025.9/6 更新分 1/1
「それでは、レイ家の婚儀を開始する。……儀式の火を!」
ドンダ=ルウが重々しい声を張り上げると、レイの若い男衆らが薪の塔に火を灯した。
黄昏刻の薄闇が、巨大な炎によって退けられていく。そして広場の外周でも、次々にかがり火が焚かれていった。
「婚儀を挙げる両名を、ここに!」
とある分家の母屋の戸板が開かれて、新郎と新婦が姿を現す。その瞬間、静寂に包まれていた広場に大歓声がわきたった。
半数以上の人々はこの場で初めて婚儀の衣装を目にしたのだろうし、すでに目にしている人間でも感嘆の思いに大きな違いはないだろう。少なくとも、俺は日中に二人と相対したときよりも、さらに胸を高鳴らせることになった。
それはきっと盛大な炎と、その向こう側に黒く広がる森の威容が、さらなる彩りとなっているためであるのだ。
カルスは豪奢に着飾った二人の姿が、宿場町の町並みに不似合いであるなどと評していたが――今の俺には、その言葉が痛いぐらいに理解できた。やはり森辺の民たる両名には、森こそが一番似合っているのだ。
そして、激しく燃えさかる炎が、二人の美しい姿をいっそう絢爛に照らし出している。俺は本当に、武神と美神の婚儀でも目にしているような心地であった。
ラウ=レイは相変わらず穏やかな面持ちであり、ヤミル=レイは静謐な表情だ。
それを先導するのは十歳前後の少年と少女であり、同伴しているのはラウ=レイの母親と長姉のみだ。ヤミル=レイもまた本家の家人であるため、どちらの付き添い人も同じ家の家族になるようであった。
そして、儀式の火の前でドンダ=ルウとともに待ちかまえているのは、日中にも見た父方の叔父と、長姉の婿たる若い狩人のみとなる。前者は厳粛なる表情、後者は安らかな笑顔であった。
広場をゆっくりと横断した六名は、儀式の火の前に立ち並ぶ。
そうすると、ヤミル=レイが纏った玉虫色のヴェールとショールがいっそうのきらめきを帯びて、人々に感嘆の声をあげさせた。
「本日婚儀を挙げるレイの家長ラウ=レイと、本家の家人ヤミル=レイである。……両名と供の家人は、婚儀の席に進むがいい」
六名は一礼して、儀式の火の裏側に回り込む。婚儀の席たるやぐらは、本家の母屋の前に設置されていた。
やぐらの高さは二メートルていどであり、六名がその天辺に座すと、ちょうど儀式の火の上に浮かび上がる格好となる。シュミラル=リリンとヴィナ・ルウ=リリンの婚儀のときと同様に、それは神話のワンシーンのように壮麗な光景であった。
「それでは、婚儀を挙げる両名に祝福を捧げよ」
そのように語ったドンダ=ルウ自身が、レイ家の二名とともに婚儀の席を目指す。古きの時代には日中に血族の家を巡って祝福を授かっていたが、今ではこうして婚儀の場でひとりずつ祝福を捧げるのが通例になっていた。
客の身分である俺たちは最後の順番となるため、まずは待機である。
すると、同じ場所に留まっていたレム=ドムがこっそりアイ=ファに呼びかけた。
「さすがレイの家長の婚儀ともなると、盛況なものね。あらためて、この血族の数にもびっくりよ」
「うむ。いずれの氏族においても、ギバ狩りや病魔で魂を返す人間は格段に減ったという話であるからな。眷族の多い氏族ほど、家人の数は増すいっぽうであるのだろう」
日を重ねれば、四歳であった幼子が五歳になり、祝宴に参加できる人数が上昇するのだ。なおかつ、今日はすべての血族が招集される祝宴であるため、過去最大の人数になっているはずであった。
(だから今回は、あんまり大勢の客人を招くことができなかったわけだ)
その場の熱気に胸を高鳴らせながら、俺はぼんやり考えた。
俺がルウの集落で婚儀を見届けるのは、これで四回目となる。最初の婚儀はガズラン=ルティムとアマ・ミン=ルティム、その次はダルム=ルウとシーラ=ルウ、そして最後がシュミラル=リリンとヴィナ・ルウ=リリンである。その中で、シュミラル=リリンとヴィナ・ルウ=リリンの婚儀だけは七割ていどの家人しか集められない中規模の祝宴であったため、多数の客人を招くことがかなったのだった。
しかしまた、あれはシュミラル=リリンの特殊な出自が考慮された結果なのである。町の人間――しかも、東の民であったシュミラル=リリンが森辺で婚儀を挙げるということで、ジェノスの貴族やゲルドの貴人や宿場町の友人たちまで招かれることになったのだ。さらには、見届け人として他なる族長筋の人間も招待され、もののついでで小さき氏族の人間も多数参席することが許されたわけであった。
しかし本来婚儀というものは、血族のみで執り行われるものであるのだ。
今回もファとドムで八名の客人が招かれていたものの、やはり血族だけで百六十名を超えるというのは圧巻であったし――そして、この場には血族ならではの熱気が渦巻いているように思えてならなかった。
(俺にとっては、大切な友人の婚儀だけど……ルウの血族にとっては、レイの家長の婚儀なんだもんな)
ルウには七つもの眷族が存在するが、その中でもっとも古くから血の縁を持つのはレイとルティムであるのだ。なおかつ、レイとルティムはその座に相応しい力を持つ氏族であるため、血族の中でもひときわ重んじられているはずであった。
そんなレイの家長が婚儀を挙げるとあっては、血族をあげての祝祭となるのが道理である。
さらに、個人間の親愛の念までもが付加されて、現在のような熱気と活力があふれかえるのだろうと思われた。
「おいおい。めでたい席なんだから、泣くんじゃねえよ」
ディガ=ドムの言葉に振り返ると、ドッドが「うるせえな」と手の甲で目もとをぬぐっていた。
そしてこちらでは、アイ=ファが俺の顔を覗き込んでくる。
「うむ。このたびも、涙はこぼしておらぬようだな」
「ああ。俺だって、毎回涙腺を刺激されるわけじゃないさ」
などと言いながら、シュミラル=リリンの婚儀では祝福を捧げる際に呆気なく落涙してしまった俺であるが――あれはまあ、シュミラル=リリンとヴィナ・ルウ=リリンに対する特別な感情があってのことだ。俺は今も存分に胸を高鳴らせていたが、涙腺を刺激される気配はなかった。
(なんていうか……シーラ=ルウやシュミラル=リリンのときとは、感覚が違うんだよな)
それはおそらく、ラウ=レイの人柄が関係しているのだろう。シーラ=ルウやシュミラル=リリンはつつましい立ち居振る舞いの裏側に熱い思いを押し隠していたが、ラウ=レイはいつでもあけっぴろげであったのだ。俺はラウ=レイに対して感傷的な気持ちを抱くことなく、純然たる喜びの思いだけをかきたてられていた。
いっぽう、ヤミル=レイのほうは――内心を隠すのが巧みすぎて、現時点でも心境のほどはさっぱりわからない。これではこちらも感傷の抱きようがないというのが、正直なところであった。
(でも……)
それでも感慨深さにおいては、シーラ=ルウやシュミラル=リリンのときと違いはなかった。かつてはスン家の大罪人として魔手をのばしてきたヤミル=レイが、これで本当にすこやかな生を授かることができるのかと思うと、胸を揺さぶられてならないのである。
そもそもヤミル=レイが長きにわたってラウ=レイとの婚儀を拒み続けてきたのも、その出自が問題であったのだ。
自分のような人間は、レイの家長の伴侶に相応しくない――ヤミル=レイは常々そう言っていたし、血族の中でもそう考える人間は存在したのだろう。ずっと厳粛な顔をしているラウ=レイの叔父も、たしかそのひとりであるはずであった。
そんなヤミル=レイが、ついに婚儀を挙げる決断を下したのである。
それは、他の如何なる婚儀とも異なる感慨を俺にもたらしてやまなかった。
「そろそろみんなの順番だよー!」
と、リミ=ルウが宴衣装をひるがえしながら駆けつけて、アイ=ファの腕を抱きすくめた。
俺たちは儀式の火を迂回して、婚儀の席へと近づいていく。するとそちらでは、ミダ・ルウ=シンが幅のせまい階段をおっかなびっくり下っているさなかであった。
「あ……ディガ=ドムとドッド、やっと会えたんだよ……?」
と、こちらに気づいたミダ・ルウ=シンが、瞳を輝かせる。
そしてその輝きは、涙によって増幅されていた。
「なんだ、お前も泣いてたのかよ」
ディガ=ドムが優しい声を投げかけると、ミダ・ルウ=シンは「うん……」とぷるぷる頬肉を震わせた。
「でも、泣き声はあげなかったんだよ……? だから、アイ=ファも叱らないんでほしいんだよ……?」
「いつの話をしているのだ。お前が粗相しても、もはや叱るのは私の役割ではあるまい」
アイ=ファもまた、優しい眼差しでそう言った。かつてミダ・ルウ=シンがスン家の家族と引き離されて号泣していたとき、それをたしなめたのがアイ=ファであったのだ。
しかしアイ=ファも、ミダ・ルウ=シンが喜びの涙を流したところで叱りつけることはないだろう。それで叱られるのは、俺の役割であった。
「シンの家人も、祝福を捧げた。次は、客人らの番だ」
やぐらのそばに控えていたシン・ルウ=シンが、そのように告げてくる。その周囲に控えているのは、リャダ・ルウ=シンやタリ・ルウ=シン、それにディグド・ルウ=シンといった面々だ。どうやらシン家はもっとも新しい眷族であるため、血族の中では最後に祝福を捧げたようであった。
「まずは、ルティムの血族たる俺たちからだな」
ディック=ドムを先頭にして、ドムの六名が階段を上がっていく。
すると、ミダ・ルウ=シンがもじもじしながらシン・ルウ=シンのほうを振り返った。
「ここでディガ=ドムたちを待つのは……森辺の習わしで許されるのか、わからないんだよ……?」
「ドムの六名は、客人だ。客人を歓待して咎められることはあるまい」
シン・ルウ=シンが穏やかな面持ちで応じると、ミダ・ルウ=シンはまた嬉しそうに頬肉を震わせた。
そんなさなか、こちらにはディグド・ルウ=シンが近づいてくる。
「日中の宿場町も、大層な騒ぎであったようだな。余計な客人を招かずに済んで、幸いなことだ」
「ふむ。宿場町の友を余計よばわりするのは、如何なものかと思うが……我々が余計と思われていないのなら、幸いなことだな」
「ふふん。お前たちは、収穫祭や最長老の生誕の日にまで出張っているではないか。いまさら文句をつける気にはなれんな」
古傷だらけの勇猛な顔で、ディグド・ルウ=シンはにやりと笑った。
「前にも言ったかと思うが、俺は森辺の外に興味がない。しかし、それでは正しき道を進むこともならんと、家長会議で定められたのだ。不心得な俺の代わりに面倒な役目を果たしてくれているお前たちには、感謝しているぞ」
「そうか。私とて、不心得な人間の部類であるのだがな。ラウ=レイやヤミル=レイなどは私と比較にならないぐらい大きな役目を果たしているのだろうから、まずはそちらに感謝するがいいぞ」
「ふん。森辺にこもっていると、そういう姿も見えにくいものなのでな。まあ、あやつらは森辺の変わり種同士で、お似合いだろうさ」
それだけ言い残して、ディグド・ルウ=シンは家族のもとに戻っていく。
そして、婚儀の席からはドムの面々が下りてきた。
「行くぞ」とアイ=ファにうながされて、俺も階段に足をかける。
二メートルほどの高さをのぼると、そこにラウ=レイたちが待ち受けていた。
「アスタにアイ=ファ、ずいぶん待たせてしまったな」
毛皮の敷物の上であぐらをかいたラウ=レイが、朗らかな笑みを向けてくる。その隣に座したヤミル=レイは、やはり静謐な雰囲気だ。
ラウ=レイの母親はゆったりと微笑んでおり、長姉は相変わらずの挑むような顔つきをしている。レイの分家と思しき少年少女はギバの牙や角が山積みにされた草籠を手に、可愛らしく頬を火照らせていた。
「二人の婚儀を、祝福する」
ヤミル=レイの前に膝をついたアイ=ファが、立派なギバの角を捧げる。
ヤミル=レイは「ありがとう」とだけ言って受け取り、それを草籠の上に積んだ。
「なんだい、どっちも愛想がないねぇ。あんたたちは、三年来の仲なんだろ? しかも、とんでもない悪縁を乗り越えて絆を深めたんだから、もうちょっと語る言葉があるんじゃないのかい?」
ラウ=レイの母親がおかしそうに笑いながら口をはさむと、アイ=ファはいくぶん眉を下げながらもじもじとした。
「我々は普段から、そうまで言葉を交わす間柄ではないのだ。しかし、過去の悪縁にとらわれているわけではないので、どうか心配はしないでもらいたい」
「そんな心配はしちゃいないよ。ただ、愛想がないって言ってるだけさ」
ラウ=レイの母親は屈託のない笑顔であるが、アイ=ファはいっそうもじもじしてしまう。斯様にして、アイ=ファはこちらの女性に対して特別な感情を抱いているのだった。
「それじゃあ俺が家長の分まで、愛想をふりまくべきなのかな?」
俺はおどけた口調で言いながら、ラウ=レイの前で膝を折る。
ラウ=レイは水色の瞳を強く明るく輝かせながら、のんびり笑っていた。
「何も気にせず、いつも通り振る舞えばいい。今日はあれこれ手間をかけさせてしまい、感謝しているぞ」
「二人の婚儀のためなら、どうってことないさ。あらためて、おめでとう。二人の幸せな行く末を祈っているよ」
俺がギバの牙を差し出すと、ラウ=レイは笑顔で「うむ」と受け取った。
「この後は、しばらく動けないのでな。のちのちゆっくり語らせてもらいたく思うぞ」
「うん。俺もそのときを楽しみにしているよ。……ヤミル=レイも、またのちほど」
ヤミル=レイは、「ええ」としか答えない。それでも俺は温かな気持ちのまま、腰を上げることになった。
やはり、涙腺を刺激されたりはしない。ラウ=レイが妙に穏やかなたたずまいであるためか、俺も感化されているのかもしれなかった。
そうして俺たちが階段を下りると、そこにはレム=ドムとドム分家の女衆だけが待ち受けている。
しかし俺たちが声をかけるより早く、レム=ドムは儀式の火の方角に向かって腕を振る。それを確認したドンダ=ルウが、大きくうなずいた。
「すべての祝福を終えたので、婚儀の祝宴を開始する! ラウ=レイとヤミル=レイに、祝福を!」
「祝福を!」の声が、凄まじい勢いで合唱された。
もともと広場にあふれかえっていた熱気が、いっそうの勢いで渦を巻く。俺がそれに圧倒されていると、レム=ドムが不敵な面持ちで笑いかけてきた。
「家長たちはミダ・ルウ=シンともども、ルティムの人間を探しにいってしまったわ。せっかくだから、わたしたちはお二人にご一緒させてもらえないかしら?」
「うむ? べつだん、かまわんが……しかし今さら、ルウの血族に臆する理由はあるまい?」
「今も昔も、ルウの血族に臆したことなんてないわよ。ひさしぶりに、愛しのアイ=ファと絆を深めたいだけよ」
「うむ。その気色の悪い物言いをつつしむのならば、了承しなくもないぞ」
「ありがとう。こちらの女衆も、大喜びだわ」
「べ、べつにわたしは……」と、分家の女衆はまた頬を染めてしまう。いつも毅然としている彼女が、今日は年齢相応の可愛らしさであった。
「そういえば、リミ=ルウはどこに行ったんだろう?」
「リミ=ルウは、しばらくかまど仕事があるそうだ。菓子を出す頃合いで仕事が終わるので、その後に同行を願われているぞ」
アイ=ファとリミ=ルウは一緒に着替えていたので、その際に打ち合わせを済ませていたらしい。俺たちは心置きなく、ドムの両名と広場を巡ることになった。
そして、俺たちが語っている間にラウ=レイの母親たちも階段を下りてきて、やぐらの裏側に位置する本家の母屋に引っ込んでいく。きっとそちらで、幼子の面倒を見るのだろう。
いっぽうラウ=レイとヤミル=レイは婚姻の儀式が行われる時間まで、二人きりで過ごすのだ。そこでいったいどのような言葉が交わされるのかは、想像することも難しかった。
「まずは、ジバ婆に挨拶をするべきであろう」
アイ=ファの断固たる主張に従い、俺たちは儀式の火へと近づいていく。そちらの手前に敷物が敷かれて、大勢の人々が座したところであったのだ。
「失礼する。族長と最長老に挨拶をさせていただきたい」
アイ=ファが粛然と声をあげると、ジバ婆さんは顔をくしゃくしゃにして微笑んだ。
「ああ、アイ=ファにアスタ、よく来てくれたねぇ……アイ=ファは今日も、立派な姿だよ……」
「うむ、まあ、婚儀の祝宴であるからな」
アイ=ファは照れくさそうに目を細めつつ、敷物に膝をつく。俺とドムの両名も、それにならった。
敷物に座しているのは、ジバ婆さんにドンダ=ルウ、ミーア・レイ母さんにティト・ミン婆さん、それにミンやマァムの家長たちなどなどだ。若い人間は出払っているらしく、なかなかに風格のある顔ぶれであった。
「今日はドムから六名も招いてもらって、感謝しているわ。最後まで身をつつしむつもりなので、どうぞよろしくね」
レム=ドムは、ドンダ=ルウへと呼びかける。
土瓶の果実酒をあおっていたドンダ=ルウは、「ふん」と鼻を鳴らした。
「婚儀の祝宴では、余興の力比べに興じる習わしもないからな。貴様も家長を見習って、つつましく振る舞うがいい」
「ええ。その一点だけが残念なところだけれど、それはまた後日の楽しみとさせていただくわ」
誰が相手でも、レム=ドムの不敵な立ち居振る舞いに変わりはない。しかしやっぱりドンダ=ルウに対しては、ある種の敬意を払っているのだろう。ミンやマァムの家長たちも、落ち着いた面持ちで両者のやりとりを見守っていた。
「あ、アスタ。こちらにいらしたのですね。今日はどうも、お疲れ様でした」
と、横合いから近づいてきた女衆が、朗らかな声を投げかけてくる。それは屋台の商売の重鎮になりつつある、ルティム分家の若い女衆であった。
「ちょうど今、アスタたちが準備してくださった宴料理を運んできたのです。よろしかったら、ご一緒に召しあがりませんか?」
「あ、そうなんだ? アイ=ファ、どうする?」
「うむ。では、不調法やもしれんが、その一杯だけはこちらでいただくとしよう」
と、アイ=ファはひそかに瞳を輝かせる。おそらくは、俺の料理で今日の晩餐をスタートさせられることが嬉しいのだ。
そうして俺がアイ=ファの内心を見透かすと、あちらもこちらの内心を見透かしたようで、こっそり肘鉄をくらわせてくる。これぞ、以心伝心の連鎖であった。
「あたしが頼んで、アスタの料理を運んでもらったんだよ……これはなかなか、辛そうな料理だねぇ……」
「はい。でも、五歳の幼子でも口にできるように調節したつもりですので、きっと問題なく召し上がっていただけるかと思います」
俺が本日準備したのは、タラパを主体にしたギバと海鮮のスープである。さらには豆板醤のごときマロマロのチット漬けも使用しているため、真っ赤な上に刺激的な香りであった。
しかしそれ以上の香草は使っていないので、アイ=ファやジバ婆さんでも舌を痛める心配はないはずだ。本日の主役であるラウ=レイは辛い料理を好んでいるため、多少ながらそちらに寄せた献立であるつもりであった。
「これは……ダドンの貝を使っているのですか?」
と、ドム分家の女衆が鋭い眼差しを向けてくる。
「うん、そうだよ。食べる前から、よくわかったね」
「ダドンの貝は他の貝と異なる形をしていますので、見ればわかります。ですがこちらは、汁物料理に適していないという話ではありませんでしたか?」
「うん。ダドンの貝は熱を通しすぎると、身が固くなっちゃうからね。だからこれは、汁物料理を仕上げた後に加えたんだよ」
「ああ、そういうことですか」と、ドム分家の女衆は納得した様子でスープをすする。するとたちまち、その目にまた鋭い光が閃いた。
「煮汁に、ダドンの風味を感じます。後から身を加えただけで、これほど風味がしみわたるのですか?」
「いや、ダドンの貝は、まず水で戻すだろう? その水を煮詰めて、煮汁に使ってみたんだよ。上手い具合に、出汁が取れたみたいだね」
「なるほど……でも、そのような使い方はこれまでされていませんでしたよね? 戻した水を使うだけでこれほどの風味を出せるのなら、きわめて有効なのではないでしょうか?」
「うん。でも、これだけの風味を出すにはかなりの量が必要なんだよ。今日はレイナ=ルウが煮物で使った分の戻し汁ももらえたから、これだけの出汁が取れたわけだね」
「……一昨日は家長会議だったのに、そんな打ち合わせをする時間があったのですか? ダドンの貝を水で戻すには、一日半もかかるのでしょう?」
「そうだね。ただ、俺もレイナ=ルウも今日の祝宴でダドンの貝を使いたいって考えてたからさ。城下町で特別に準備してもらった分を、のきなみ水で戻しておいただけのことさ」
「家長会議をこなすかたわらで、そのような作業にも取り組んでいたのですか……」
ドム分家の女衆は、しみじみと息をつく。
そして、その横顔を観察していたレム=ドムが笑いを含んだ声をあげた。
「あなたもすっかり、いっぱしのかまど番ね。まったく、心強い限りだわ」
「……なんですか? べつだん、咎められる理由はないかと思いますが」
ドム分家の女衆が挑むような眼差しを返すと、レム=ドムは気安く肩をすくめた。
「わたしは心強いと言っているだけよ。族長や最長老の前でも遠慮なく料理の話に没頭できるなんて、レイナ=ルウさながらですもの」
ドム分家の女衆は顔色をなくしながら、その場の面々の姿を見回す。すると、アマ・ミン=ルティムの父親たるミンの家長が柔和な笑顔でその視線を受け止めた。
「何も礼は失していないので、心配には及ばぬぞ。それに俺も、お前の見識には感じ入っていた」
「うむ。ドムの女衆は、雨季の前後から屋台の手伝いを始めたのであろう? それでも着実に、力をつけているようだな」
マァムの家長もしかつめらしく、うなずいている。ドム分家の女衆は大柄の身を縮めながら頬を赤らめつつ、レム=ドムのことを恨めしげににらみつけた。
「何よ? 並み居る家長たちの賞賛も、わたしにとっては誇らしい限りよ。その調子で、これからもかまど仕事に励みなさいな」
そういえば、俺はレム=ドムが同じドムの女衆を相手に語らう姿をあまり目にしたことがなかったのだ。こちらの女衆はレム=ドムよりも年少であるため、ちょっと意地悪なお姉さんが可愛い妹をからかっているような風情であった。
(レム=ドムだって、同性に人気が出そうなタイプだもんな。案外、集落ではちやほやされてそうだ)
俺が微笑ましい心地でそんな風に考えていると、ジバ婆さんが「ああ……」と満足げな吐息をこぼした。
「こいつは、美味しいねぇ……あたしもダドンの貝っていうのは、好みに合うように思うよ……」
「そうですか。ジバ=ルウにも喜んでいただけたら、嬉しいです。ギバはバラ肉でよく煮込んでいるので食べにくいことはないかと思いますが、もし大きい身が入っていたら匙でほぐしてからお食べください」
「ありがとうねぇ……きっとアスタやレイナは、そういう優しさがかまど番としての力になっているんだろうねぇ……」
「食べていただく相手のことを考えるのは、基本中の基本ですからね。……最初の頃はその基本を踏まえていなかったせいで、ドンダ=ルウにお叱りを受けてしまいましたけれど」
「いつの話をしているのだ」と、ドンダ=ルウは眉間に皺を刻んだ。俺はジバ婆さんのためにハンバーグをこしらえて、ドンダ=ルウに「毒」と切って捨てられたのだ。それはもう、三年以上も昔の話であった。
(でも……いつの話をしているのだ、か)
さっきはアイ=ファが、ミダ・ルウ=シンに同じ言葉を返すことになった。やっぱり俺やミダ・ルウ=シンは今日という日を迎えるにあたって、何らかの感傷にとらわれているのかもしれなかった。
親しい相手が婚儀を挙げる際には、どうしても過去の思い出に心を飛ばされてしまうのだ。ミダ・ルウ=シンにとっては生まれた頃からそばにいたヤミル=レイの婚儀であったし――俺にとってもラウ=レイとヤミル=レイは、三年以上のつきあいであったのだった。
(俺がラウ=レイと出会ったのは、三年前の家長会議で……俺はその夜に、ヤミル=レイからひどい目にあわされそうになったんだもんな)
そして、それを救ってくれたのは、ドンダ=ルウの手配で待機していたルド=ルウとシン・ルウ=シン――そして、自力でスン家の罠から脱したダン=ルティムであったのだ。本日は、その全員がこの場に集っているわけであった。
なおかつ、ラウ=レイもその罠にはまったひとりである。ヤミル=レイの指示で動いていたディガ=ドムとドッドとテイ=スンが、祭祀堂で眠る家長たちに催眠の毒草を嗅がせたのだ。
そんなラウ=レイとヤミル=レイが婚儀を挙げて、ディガ=ドムたちは参席者としてやってきている。三年余りという月日が、それだけ運命を動かしたのだ。
今さらスン家の罪を取り沙汰する必要はなかったが――やっぱり俺は、深い感慨にとらわれずにはいられなかった。