レイの婚儀①~出陣~
2025.9/2 更新分 1/1
翌日の、青の月の二十日――ついにやってきた、ラウ=レイとヤミル=レイの婚儀の当日である。
悪夢に見舞われることなく健やかな目覚めを得た俺は、その日も朝から大忙しで立ち働くことになった。
とはいえ、俺自身が受け持てる作業量に変わりはない。増えた作業は、追加した人員におまかせするしかないのだ。俺が特別に成すべきは献立の設定と作業の段取りを整えることであるため、そういった苦労は昨日の内に終了していた。
せめてもの救いは、一日置きに営業している城下町の屋台が休業日であることであろう。何せ本日はルウ家がすべての商売を休む分、可能な範囲で料理を補填しなければならないのだ。ルウ家は独自に三台もの屋台を出しているので、それを肩代わりするというのは並大抵の話ではなかった。
まあ、普段であればそこまで躍起になる必要はないのだが、今日はレイ家の婚儀の祝いであるのだ。名目上は主街道における商売を広場に移すだけの話であったが、祝いの場で普段よりもささやかな量しか料理を準備できないというのは、あまりに物寂しい話であった。
そこで奮起してくれたのが、トゥール=ディンである。
なんとトゥール=ディンは普段の倍ほどの菓子を準備して、屋台ひとつぶんの穴を補填すると言ってくれたのだ。
なおかつ、二台の屋台で同じ菓子を売るというのは興ざめであるため、わざわざ異なる種類の菓子を準備してくれるという。文字通り、普段の倍になる作業を受け持ってくれたのだった。
「で、ですがそれも、血族の助けあってのことですので……族長グラフ=ザザからの了承を取りつけてくださった、スフィラ=ザザのおかげです」
トゥール=ディンはそんな風に語っていたが、実務を取り仕切るのはトゥール=ディン自身であるのだ。誰が何と言おうとも、ザザの血族でもっとも大変な苦労を負うのはトゥール=ディンであるはずであった。
(トゥール=ディンは、ヤミル=レイに強い思い入れを持ってるだろうからな。きっとそれで、いつも以上に奮起することになったんだ)
そんなトゥール=ディンのおかげもあって、本日は普段と寸分変わらぬ質量の商品を準備することができた。
ファの家で屋台二台分、ディンの家で屋台一台分の増量を達成して、屋台八台で商売することが可能になったのである。ファの家は四台の屋台を六台に増やすことになるので、ちょうど五割増しの仕事を担うわけであった。
「これはきっと、城下町での商売の経験が活きたんだろうと思うよ」
朝方の下ごしらえの場において、俺はユン=スドラにそう打ち明けた。
「城下町での商売の経験といいますと……やはり、下ごしらえに関してでしょうか? ふだん城下町のための下ごしらえを受け持っている方々に、そのまま仕事をお願いすることができましたものね」
「うん。あとは、場所の確保もね。人員だけ集めても、作業場がファのかまど小屋ひとつじゃどうにもならないからさ」
以前も同じようなシチュエーションが訪れたとき、俺はラッツのかまど小屋を作業場として借り受けることになった。今回も同じ手際でもって、屋台六台分の下ごしらえを二ヶ所で同時に進めることがかなったのだった。
そしてフォウのかまど小屋では通常通り、トゥランの分の下ごしらえをお願いしている。今日のそちらの責任者は、アウロとダゴラの女衆だ。両名もトゥランにおける商売を終えたならば、すぐさま広場に駆けつけるつもりだと言っていた。
そうして無事に下ごしらえを終えたならば、ルウではなくラッツの集落に出陣である。そちらでは下ごしらえを受け持ってくれたかまど番たちばかりでなく、ラッツの若き家長も待ちかまえていた。
「待っていたぞ、アスタよ! そちらの荷物を運んだのちは、荷車を借り受けていいのだな?」
「はい。下りの三の刻までは、自由に使ってください。こちらはその時間まで、広場に居残る予定ですので」
「了承した! では、荷車を持ち帰る男衆を同行させていただくぞ!」
本日はラッツの血族も、大勢が婚儀の祝いを見届けようという考えであるのだ。それでも荷車の数には限りがあるため、復活祭さながらのピストン輸送が敢行されるわけであった。
「それじゃあ、こちらは出発します。またのちほど」
「うむ! 危険なことはなかろうが、油断のないようにな!」
豪放に笑うラッツの家長に見守られて、俺たちはあらためて出発した。
本日は、屋台の当番もほとんど総動員であるのだ。八台の屋台で商売するのみならず、食堂のない広場では食器の回収が困難であるため、そちらでも増員する必要があったのだった。
しかしけっきょくどの氏族からも、不満の声があげられることはなかった。家長会議の場でも語られていた通り、当番の女衆はもっと出勤日数を増やしてほしいと願っているぐらいであったのだ。そしてさらには、数多くの人間が仕事仲間であるヤミル=レイの花嫁姿を見届けたいと願っているはずであった。
「夜の祝宴にお招きされたのは、ファとドムの方々だけですものね! でもこれで、アスタたちを羨まずにすみます!」
レイ=マトゥアも期待に頬を火照らせながら、そんな風に言っていた。
今回は、俺とアイ=ファとドムの面々だけが特別に招待されることになったのだ。
ドムに関しては、ドムとルティムが血族であることと、ディガ=ドムおよびドッドがヤミル=レイのかつての家族であったことが考慮されて、特別な措置が取られた。いっぽう俺とアイ=ファに関しては、ラウ=レイがめいっぱいの熱情でドンダ=ルウを説き伏せてくれたのである。俺としては、ありがたい限りの話であった。
そうして宿場町に到着したならば、屋台を借り受ける八名だけが下車して、残る面々は『エイラの広場』に直行する。今日は勝手が異なるため、責任者の俺とトゥール=ディンは直行の組に加わった。
主街道では森辺の民が行列をなして闊歩するのも毎日のことであるが、ひとたび横合いの街路に踏み込んだならば、たちまち好奇の目を向けられてくる。森辺の一団が主街道を外れて宿場町の街路をうろつくというのは、そうそうある話ではないのだ。ユーミ=ランたちの婚儀の際も、俺たちはこうして存分に人目を集めながら広場を目指すことになったのだった。
「ああ、今日は広場で屋台を出すって話だったか。婚儀の話はよくわからんが、俺もあとで覗かせていただくよ」
街路ですれ違った常連客の男性は、笑顔でそのように告げてきた。そんな人々も、広場でヤミル=レイの花嫁姿を目にすれば驚嘆に打ちのめされるはずであった。
「ヤミル=レイは、古くから屋台で働いていたひとりですものね。それに、あれだけ美しいのですから、誰でも見覚えているはずです」
「そうですよねー! 何せ、わたしたちよりも古くから働いているのですから!」
俺が手綱を握ったギルルの荷車の荷台からは、ミームの女衆とレイ=マトゥアの弾んだ声が聞こえてくる。彼女たちは最初の雨季から屋台の当番に加わった世代であり、ヤミル=レイのほうが半年ばかりも先んじているはずであった。
(ヤミル=レイは、トゥラン伯爵家にまつわる騒乱が終わってからすぐに手伝ってもらうようになったんだもんな。トゥール=ディンと同時期なんだから、そりゃあ指折りの古株さ)
しかし、そんなヤミル=レイも婚儀を挙げるからには、いつ身を引くことになるかもわからない。さらに古株であるヴィナ・ルウ=リリンやリィ=スドラやアマ・ミン=ルティムも、懐妊したために身を引くことになったのだ。フェイ・ベイム=ナハムなどは婚儀を挙げてからもう半年ばかりも元気に働いてくれているが――こればかりは授かりものであるので、いつ退陣の日がやってくるかは予測もつけられなかった。
(屋台の当番は、そうやって少しずつ世代交代していくんだろう。きっと五年後ぐらいには、ほとんどの人間が入れ替わってるんだろうし……十年後には、総入れ替えかもしれないな)
そして、唯一の男衆である俺だけは、その頃にもまだしぶとく生き残っているのかもしれない。
あるいは誰かに責任者の座を譲り、森辺でひっそりと勉強会でも行っているのか――何にせよ、森辺のかまど番でいられるだけで、俺にとっては幸福な行く末であった。
「ああ、来たか。こんな騒ぎは、あれっきりと思っていたのにな」
『エイラの広場』に到着すると、本日も出入り口で衛兵の小隊長マルスが待ちかまえていた。ユーミ=ランたちの婚儀の祝いでも、俺たちは守衛を務める彼に呼び止められたのだ。
しかし今日はあの日のように、入場制限は設けられていない。あの日は公的に婚儀の祝いと定められていたが、本日はあくまで屋台が特別営業を行うのみであるのだ。もちろんレイの両名が婚儀の衣装を披露することも許されているが、広場にやってくる一般人を規制する理由はどこにも存在しなかった。
「前回と同じように、こちらで定めた場所に荷車を保管して屋台を開くのだ。あまりにひどい騒ぎになったら、遠慮なく取り締まるぞ」
「承知しました。できればマルスもお客としてお招きしたかったので、残念です」
「やかましいわ。案内の人間をつけるので、さっさと進むがいい」
仏頂面のマルスにせきたてられて、俺たちは歩を再開させた。
案内役である衛兵の指示に従って、広場の片隅に荷車を置かせていただく。数百名を収容できる広場は、それほど混雑していなかった。
(まあ、ラウ=レイたちがやってくるのは、中天ぐらいだしな)
そういった話も、馴染みのお客には可能な範囲で告知している。中天まではまだ一刻半ばかりもあるので、二人の姿を見届けたいと願っている人々は中天の前後にやってくるはずであった。
屋台を借り受けた面々が到着したならば、粛々と商売の準備を開始する。
そうして荷下ろしが完了したのち、おおよその荷車はラッツの男衆の手によって持ち帰られた。ラッツの血族のみならず、さまざまな氏族の人々がそれらの荷車を活用してこちらにやってくるのだ。それだけでも、『エイラの広場』は常ならぬ騒ぎに見舞われるはずであった。
「アスタ、お疲れ様です」
と、屋台の準備をしているところに、三名の見慣れた面々がやってきた。プラティカとニコラとカルスの料理人トリオである。
「どうも、お疲れ様です。ずいぶん早くから来てくださったのですね」
「はい。混雑、避けるためです。レイの両名、心置きなく、祝福するため、料理の吟味、事前、完了させます」
いつも通りの引き締まった面持ちで、プラティカはそんな風に告げてきた。ニコラは相変わらずの仏頂面で、カルスはおどおどと目を泳がせている。誰もが、使節団の送別の祝宴以来の再会であった。
ユーミ=ランたちの婚儀の祝いでは、セルフォマとカーツァがプラティカに案内をされていたのだ。
そんな両名は、今ごろ帰路を辿るトトス車に揺られていることだろう。彼女たちが無事に故郷に辿り着けるように、俺はあらためて祈っておくことにした。
「けっきょく今日は、八台の屋台で商売できることになりました。その内の二台はトゥール=ディンの菓子の屋台で、あとは《キミュスの尻尾亭》も屋台を出しますよ」
「承知しました。では、通常通り、配分します」
プラティカがそのように答えたとき、別なる一団がどやどやとやってきた。誰かと思えば、ベンとカーゴを筆頭とする宿場町の若衆である。
「よう、アスタ! ついつい、こんな早くから集まっちまったよ!」
「ああ。おかげさんで、ルイアとも会えたしな」
カーゴの隣で、ルイアもおずおずと微笑んでいる。それは俺にとって、予想外の来訪であった。
「やあ。ルイアも来るとは知らなかったよ。ヤミル=レイたちとは、そんなに交流があったんだっけ?」
「い、いえ、そういうわけではないのですが……ポルアース様が、特別に休暇をくださったのです。旧友が集まるのだったら、わたしも顔を出せばいいと仰って……」
「はい。それで、わたしどもと同行したのです」
仏頂面のまま、ニコラが補足してくれた。彼女たちは、同じダレイム伯爵家で働く身であるのだ。それで気をきかせたポルアースが、二人まとめて休暇をくれたようであった。
まあ、ニコラは料理の修練も仕事の内であるため、休暇という扱いではないのかもしれない。何にせよ、ポルアースの寛容さがうかがえる一幕であった。
「ラウ=レイは俺たちのために、無理を通してくれたんだもんな! 今日はめいっぱい祝いたおしてやるぜ!」
「ああ。衛兵にしょっぴかれないていどにな」
ラウ=レイたちと親交が深いベンたちは、すっかりはしゃいだ姿を見せている。すると、広場をうろついていた人々も少しずつこちらに集まり始めた。
こちらの広場で森辺の民の屋台が出されることは、正式な告知も回されているのだろう。常連客と思しき顔ぶれの中に、見慣れない顔も入り交じっている。ふだん主街道まで足をのばす用事がない人々が、これ幸いと集まったのかもしれなかった。
(これなら、売れ残りの心配はないのかな? それなら、幸いだ)
ラウ=レイが懇意にしている若衆は十数名であったので、それ以外は婚儀と関係ないお客が頼みであるのだ。主街道ぞいで働いている人々にとってはここまで足をのばすだけでも相応の労力であるため、どれだけの客足を期待できるかは未知数の部分が多かった。
「……アスタ、いちおう、伝えておきます」
と、ベンたちの騒ぎも余所に、プラティカが屋台の内側に首をのばしてくる。もともと鋭い紫色の目に、真剣な光がたたえられていた。
「先刻、ガーデル、出立したそうです。見守り役、三名、同行です。いずれも、名のある剣士、聞いています」
「……そうですか。やっぱりメルフリードたちも、ガーデルの動向には用心しているのですね」
「はい。暴走、危険、ありますので、用心、必要でしょう」
とはいえ、ガーデルはいまだに左肩の深手が癒えていない身であるのだ。そんなガーデルに三名ものお目付け役をつけるという行いが、メルフリードたちの用心深さを物語っていた。
(まあ、新しい外交官と悶着を起こしたら、一大事だもんな。ガーデルには、ゆっくり休んでもらって……その間に、俺は新しい外交官としっかり絆を深めさせてもらおう)
アイ=ファのおかげで気持ちをあらためた俺は、気落ちすることなく屋台の準備に邁進することができた。
そうして四半刻も経った頃には、準備が完了する。俺は普段よりも念入りに、自分の足で他の屋台を見回ることにした。
六台の屋台の責任者は、ユン=スドラ、マルフィラ=ナハム、フェイ・ベイム=ナハム、ラッツ、ガズ、ミームの女衆という顔ぶれになる。菓子のほうは、トゥール=ディンと古参であるリッドの女衆だ。それらに一名ずつの相方がついて、実に錚々たる顔ぶれであった。
そして、食器の回収と洗浄のために七名もの人員を準備しており、こちらの責任者はレイ=マトゥアだ。迫力満点であるドムとジーンの女衆もこちらの班であるので、レイ=マトゥアの物怖じしない人柄を頼らせていただいた次第であった。
「そろそろ商売を開始するけど、そっちは大丈夫かな?」
「はい! 最初は食器の回収に四人を回して、様子を見てみます! ユーミ=ランたちのときと同じぐらいの賑わいでしたら、これで問題ないはずですので!」
「わかった。何かあったら、すぐに声をかけてね。こっちが忙しそうにしていても、遠慮は無用だよ」
「はい! おたがい、頑張りましょう!」
頼もしいレイ=マトゥアに笑顔を返してから、俺は最後に《キミュスの尻尾亭》の屋台へと足を向けた。
そちらでは、旧友のベンたちが寄り集まっている。俺が近づいていくと、レビが苦笑を浮かべた顔を向けてきた。
「よう。思わぬ邪魔が入っちまったけど、こっちも準備は万端だよ」
「何が邪魔だよ! 宿屋に婿入りしたくせに、客の扱いをわかってねえな!」
ベンたちは、心から楽しそうに笑っている。そちらにも笑顔を返してから、俺は自分の屋台に舞い戻った。俺の本日の相方は、フェイ・ベイム=ナハムと交代で間遠に出勤しているナハム分家の女衆だ。
「それじゃあ、商売を開始するよ。何も慌てる必要はないから、いつも通りの調子で頑張ってね」
ナハムの女衆は、「は、はい」と緊張気味の顔でうなずく。ラヴィッツの血族の女衆は、総じてつつましい気性をしているのだ。唯一の例外であるのはリリ=ラヴィッツで、こちらの女衆もずいぶん繊細そうな人柄であった。
ただし彼女も、キャリアはそれなり以上である。屋台の当番は間遠の日取りであっても下ごしらえにはしょっちゅう参加しているし、かまど番としての力量も申し分ない。今日のように特別な日であっても、心配なく相方を任せることができた。
「お待たせしました。それでは、商売を開始します」
俺たちの屋台の前に陣取っていたのは、プラティカの一行だ。俺がそちらに料理を受け渡すと、遠巻きに見守っていた人々もわらわらと近づいてきた。
俺が本日受け持っているのは、日替わり献立である『ギバの揚げ焼き』だ。
それ以外には、『ギバ・カレー』『ギバまん』『ギバの玉焼き』というお馴染みのラインナップに、『ギバと海鮮の豆乳スープ』『ギバのミソ煮込み』という献立を追加している。そして、下ごしらえに手間のかかる『ギバまん』は半分の数量で、残る半分は『ケル焼き』であった。
いっぽうディンの屋台は、『簡易クレープ』と『アロウまん』だ。トゥール=ディンはこれまでにも『あんまん』や『チョコまん』で大きな人気を博しており、そこに例のストロベリーチョコレート風味であるアロウの特製クリームが持ち込まれたわけであった。
プラティカやベンたちが退いても、客足が尽きることはない。
ただ――普段ほどの勢いではないようだ。常の屋台では開店と同時に最初のラッシュが開始されるが、今日はほどほどの混雑といったていどであった。
(やっぱり場所を変えると、普段のお客も来にくくなっちゃうのかな)
本日も主街道では宿屋の関係者による屋台村が開かれているので、広場まで足をのばすことのできないお客はそちらに集まるはずだ。宿場町では誰もが仕事の合間に食事を楽しんでいるのであろうから、昼の休憩時間には制限が存在するはずであった。
しかし俺もそれぐらいのことは予測していたので、慌てることはない。それもあって、今日は下りの三の刻まで居残る予定を立てていたのだ。普段の終業時間から一刻も延長すれば、それなりの売り上げが見込めるはずであった。
(それでも売れ残るようだったら、夜の祝宴でふるまうだけだ。それで損が出たって、ラウ=レイたちへのご祝儀さ)
俺はそういう考えであり、アイ=ファからも了承を得ることができた。そんなリスクを背負ってでも、俺はラウ=レイたちの婚儀をめいっぱい盛り上げたいと願っていた。
「なんだ、想像していたよりも静かなものだな」
と、屋台の裏から大柄な人影が近づいてくる。それは、ゲオル=ザザとジーンの長兄であった。
「どうも、お疲れ様です。そちらはずいぶんお早かったですね」
「ふん。こちらは、ギバ狩りの仕事があるからな。あいつらの浮かれた姿を見届けたら、すぐに戻る手はずであるのだ」
二日前が家長会議であった関係から、そのように取り計らう狩人が多いのだ。定期的に休息の日を入れるようになった昨今でも、わずか一日でまた休息するというのは森辺の流儀と合致しないのだった。
「そちらは、家長の姿が見えんな。もしや、最初から参じない心づもりか?」
「はい。夜には祝宴に招かれているので、昼のお披露目は遠慮するとのことでした」
「ふふん。ディック=ドムと、同じ考えか。まあ、家長たるものはそれぐらいの気概を見せんとな」
そんな言葉を残して、ゲオル=ザザたちはトゥール=ディンの屋台のほうに移動していった。
いったん客足が途切れたため、俺は火鉢の火加減を調節しつつ、息をつく。アイ=ファに限っては、明日に備えて今日の仕事をおろそかにしなかったという事情も存在するのだ。
明日は、西の王都の一団が到着するのである。
そしてジェノス城からは、屋台の商売の後に俺を呼び出す可能性があるので予定を空けておいてほしいと通達されていた。それでアイ=ファも、明日は半休の日にするしかなかったのである。
(さすがに族長たちはギバ狩りの仕事があるから、不確定な話で予定を空けろとは言われなかったけど……俺には、断る理由がないもんな)
そうして俺が招集される可能性があるのならば、アイ=ファも予定を空けざるを得ない。アリシュナの星読みとは関係なく、俺をひとりで貴族のもとに向かわせないというのはアイ=ファの一貫した信念であった。
(これで明日じゃなく明後日にでも呼び出されたら、アイ=ファに申し訳ないな。普通はそうやって一日ぐらいは空けるものだけど……マルスタインたちも、万事に備えてるわけか)
そのとき、いきなり背後から「やあ!」と呼びかけられて、俺は跳びあがってしまった。
「ついつい気が急いて、このように早い刻限からやってきてしまったよ! 存外、アスタも気楽にやっているようじゃないか!」
その甲高くて陽気な声から、正体は知れている。俺が背後を振り返ると、デギオンとヴィケッツォを引き連れたティカトラスがからからと笑っていた。
「どうも、お疲れ様です。昨日は城下町で過ごされたそうですね」
「うん! ジェノス侯に、晩餐に招待されてしまってね! いよいよ新しい外交官の到着が近づいて、さしものジェノス侯も落ち着かない心地であるのかな!」
そんな風に述べてから、ティカトラスはきょろきょろと周囲を見回した。
「ところで、アイ=ファはいないのかい?」
「はい。俺たちは夜の祝宴に招待されているので、アイ=ファは森に入るそうです」
「そうか、それは残念な限りだ! たとえ着飾っていなくとも、アイ=ファの美貌を目にするだけでわたしの心は満たされるのにね!」
ティカトラスは長羽織のようにふくらんだ袖をぱたぱたとそよがせながら、そう言った。
「まあこの後はヤミル=レイの花嫁姿を目にできるのだから、それで満足するとしよう! いやぁ、アイ=ファの次にわたしの心を惑わせたヤミル=レイが他の誰かと婚儀を挙げてしまうというのは、嬉しいやら寂しいやらだよ! まあ、ヤミル=レイに限っては側妻に迎えようとしたわけでもないので、わたしが文句をつける筋合いはないのだけれどね!」
「はあ……それじゃあ、もしもアイ=ファが婚儀を挙げるとしたら、ティカトラスは文句をつけるのですか?」
「あっはっは! それも筋違いの話だろうけれども、アイ=ファの鋭い眼光を欲するあまりに、ついつい余計な口を叩いてしまうかもしれないね!」
相変わらず、独特の価値観で生きているティカトラスである。
その間に新たなお客がやってきたので、俺は衣を纏わせたギバ肉を鉄鍋に投じたが――ティカトラスは、なおも語りかけてきた。
「ところで、新しい外交官については聞いたかな? やっぱりわたしが第一候補としていた人物であったね!」
「え? ティカトラスは、もうどなたがやってくるのかご存じなのですか?」
「うん! 先ぶれの使者が届けた書簡に、きちんと署名されていたよ! 新たな外交官は外務官のダッドレウス殿で、護衛隊の責任者は千獅子長たるアローン殿であったね!」
そんな風に述べてから、ティカトラスは鉄鍋に向かう俺の耳もとに口を寄せてきた。
「以前も話した通り、ダッドレウス殿は融通のきかない堅物だ。面白みはないけれどたいそう有能なので、王陛下からの覚えもめでたい傑物だよ。さらにアローン殿というのは、次代の十二獅子将と見込まれている名うての武人だね」
「十二獅子将? それは、初めて聞く気がします」
「そうなのかい? 十二獅子将は、王都の軍の頂点に立つ存在だよ。遠征兵団長、防衛兵団長、五大公爵家の騎士団長と、重責のある任務はすべて十二獅子将が拝命するのさ」
「はあ……以前にいらしたルイドというお人も千獅子長という役職であったと思いますが、それよりも凄い御方なわけですか?」
「ああ、ルイド殿も武勲を重ねれば、十二獅子将を狙える立場であるかもね。まあ、現段階ではアローン殿が三歩優勢といったところかな。……何せ、アローン殿というのは王陛下の懐刀とも呼ばれているお人だからねぇ」
くすくすと笑いながら、ティカトラスはそう言った。
「そんなアローン殿に護衛隊長を任せるということは、やっぱり王陛下もジェノスのことを軽んじていないということだ。ゆめゆめ油断のなきようにね」
「はい。ジェノス城にも森辺にも、油断している人間はひとりもいないはずですよ」
「うんうん。わたしは王都の貴族だけれども、森辺の面々がすこやかな行く末を迎えられるように心から祈っているよ」
そうして『ギバの揚げ焼き』に熱が通った頃、ティカトラスの声が遠ざかっていった。
「それじゃあわたしもヤミル=レイたちが到着する前に、腹を満たしておこうかな! アスタの料理も、のちのち買わせていただくよ!」
ティカトラスの高笑いが、俺の背後から遠ざかっていく。
俺は木皿にティノの千切りを盛りつけながら、ひそかに苦笑を噛み殺すことになった。
(なんだかんだ言って、やっぱりティカトラスは親切だな)
しかし、すべては明日のことである。
今日は余念なく、ラウ=レイとヤミル=レイの婚儀にすべての力を尽くさなければならなかった。




