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異世界料理道  作者: EDA
第九十七章 朱と緑の契り
1659/1695

幕間~狭間の日~

2025.9/1 更新分 1/1

・今回は全8話です。

 家長会議の翌朝――俺が目を覚ますと、その日もアイ=ファの優しい眼差しが待ち受けていた。


「ようやく起きたか。……今日も安らかな眠りを得られたようだな」


「うん……いい夢も悪い夢も見ないで、ぐっすりだったよ……」


 右手の先にアイ=ファの温もりを感じながら、俺は夢見心地で答えた。

 ここは、スンの分家の寝所である。俺とアイ=ファは手を握ったまま眠る必要があったため、祭祀堂の雑魚寝ではなく寝所を借り受けることになったのだ。これは先日の家長会議でも、同様の措置が取られたのだった。


 前回、悪夢に見舞われた際、俺はおそらくアイ=ファの身に触れたまま寝入っていたために、悪夢のその先を垣間見ることになったのだ。そこに何が待ち受けていたのかは、まったく記憶に残されていなかったが――きっと俺があの悪夢を乗り越えるには、その最果てに待ち受けるものをしっかり見届けなくてはならないのだ。それで俺たちは、毎晩手をつないで眠ることになったのだった。


 他のみんなにそんな裏事情を打ち明けるのは気恥ずかしい限りであったが、幸いなことに笑われることはなかった。現在は、誰もが俺の悪夢に対して小さからぬ懸念を抱いているのだ。この近年は俺が悪夢に見舞われるたびにとんでもない災厄に見舞われていたので、それも致し方ないのだろうと思われた。


 ともあれ、普段通りの健やかな目覚めを授かった俺たちは、早々に出立の準備を整えることになった。

 今日はこれから、屋台の商売なのである。昨日の会議と三日前の祝宴で臨時に休業することになったので、可能な限りは屋台の商売に励まなければならなかった。


 屋台の手伝いを受け持つ人間もそれは同様であるので、おおよその氏族は朝一番で帰宅していた。

 そうしてファの家に戻ってみると、すでに下ごしらえの当番である女衆たちが働いている。そちらにお礼を言ってから、俺とアイ=ファはラントの川に直行だ。どんなに忙しくとも、身を清めることをおろそかにしないというのがファの家の鉄則であった。


 その帰り道ではフォウの集落に立ち寄って、預けていた家人たちを連れ帰る。一日ぶりの再会となるジルベたちは、喜びをおさえきれない様子で尻尾を振っていた。


「今日は城下町の商売もあるからな。ジルベも、よろしくお願いするよ」


 俺がそのように呼びかけると、ジルベは心から嬉しそうに尻尾を振りながら「わふっ」と答えてくれた。


 そうして下ごしらえを進めていると、屋台の当番である女衆も続々と到着する。その半数は、朝方に別れたばかりの相手だ。これで明日はレイ家の婚儀であるのだから、常勤組は本当に大変な苦労であった。


 しかしもちろん、それでへこたれるような人間はいない。忙しければ忙しいほど意欲が上昇するという、森辺のかまど番の本領が発揮されていた。


 やがて下ごしらえが完了したならば、いざ宿場町に出発だ。

 城下町の当番であるレイ=マトゥアとスフィラ=ザザはひと足早く出発しているし、トゥランの当番であるガズとミームの女衆はフォウの集落で下ごしらえのラストスパートだ。俺はユン=スドラを筆頭とする精鋭を引き連れて、まずはルウの集落におもむいた。


「よー、アスタもお疲れさん。家長会議の次の日ってのは、ほんとに慌ただしいよなー」


 と、ルウの集落ではルド=ルウが待ち受けていた。

 さまざまなイベントで引っ張り出されるルド=ルウも、家長会議だけは出番がないのだ。ルド=ルウが家長会議に出向いたのは、ドンダ=ルウからの秘密の指令でスン家の悪だくみに備えた日のみであるはずであった。


 あの日はルド=ルウがシン・ルウ=シンと二人がかりで、俺をテイ=スンから守ってくれたのだ。

 たしかルド=ルウなどは、その戦いで頭から大量出血していた。今にして思うと、ルド=ルウとシン・ルウ=シンを相手にそのような真似ができるテイ=スンというのは、とてつもない実力者であった。


(まああの頃は、ルド=ルウたちもまだ成長過程だったんだろうけどな)


 俺がそんな風に考えていると、ルド=ルウが「なんだよー」と口をとがらせた。


「そんな、子供を見るような目で見るなよなー。アスタのくせに、生意気だぞー」


「あはは。そんなつもりはなかったんだけどね。そういえば、宿場町の件はどうなったのかな?」


「あー、それをアスタに伝えるために、待ってたんだよ。朝一番で、リーハイムの使いが集落に来たみたいだぜー。明日の屋台の商売は、広場を使ってもいいんだとよ」


『エイラの広場』でレイ家の婚儀のお披露目をすることが、サトゥラス伯爵家に了承されたのだ。これでファの家も、明日は特別編成で出陣することが決定されたわけであった。


「わかった、どうもありがとう。あと、レイナ=ルウは大丈夫そうかな?」


「おー。帰ってくるなりかまど小屋にこもって、今度は明日の宴料理で何を出すかって頭を悩ませてるよ。ルウのかまど番で一番いそがしいのは、間違いなくレイナ姉だなー」


 レイナ=ルウは昨日大役を果たしたばかりであるのに、もう明日に備えなくてはならないのだ。献立の設定とその下準備を今日一日で完了させるというのは、何をどのように考えても荒行であるはずであった。


「しかも明日は、血族のすべてをお招きする大がかりな祝宴だもんね。レイナ=ルウは、本当にすごいと思うよ」


「そうだなー。ま、レイナ姉の代わりに宿場町の商売を受け持つアスタだって、同じぐらい大変なんだろうけどよー」


 俺たちがそんな風に語らっていると、本日の取り仕切り役であるマイムが「お待たせしました」とやってきた。


「ちょっと準備に手間取ってしまいました。お待たせしてしまって、申し訳ありません」


「まだ時間にゆとりはあるはずだから、大丈夫だよ。それじゃあ、出発しようか」


 今日はララ=ルウとリミ=ルウも集落に居残って、レイナ=ルウのサポートを務めるのだ。屋台の取り仕切り役もすっかり板についてきたマイムは、気負うことなく純然と意欲をみなぎらせていた。


 ルド=ルウに別れを告げた俺たちは、あらためて宿場町に出立する。

《キミュスの尻尾亭》では、レビがそわそわしながら待ちかまえていた。


「待ってたぜ、アスタ。明日の婚儀の件は、どうなったんだ?」


「うん。広場でお披露目することが了承されたそうだよ。これで俺たちも、明日は広場で営業だね」


「そうか。そいつはよかったよ。ラウ=レイの婚儀は、しっかり祝福してやらないといけないからな」


 レビは、ほっとした様子で笑みくずれた。ルウの集落における祝宴に招待するのは難しいと告げられたとき、レビはとても残念そうにしていたのだ。ラウ=レイが宿場町で絆を結んだ相手の中でも、今回の婚儀にもっとも強い思い入れを抱いているのはレビであるはずであった。


(何せ、身を引こうとするレビを後押ししてテリア=マスとの婚儀を実現させたのは、ラウ=レイなんだもんな)


 その折には、ラウ=レイとレビが一発ずつ相手を殴りつけることになった。それで口の内側を切ってしまったラウ=レイは、顔がぱんぱんに腫れあがった状態で婚儀の場に参ずることになったのだ。あれは、俺にとっても忘れ難い思い出であった。


「ベンやカーゴたちも、さぞかし喜ぶだろうな。もちろん、ユーミ=ランも来られるんだろ?」


「うん。ランの家長が、了承してたよ。ラウ=レイの宿場町の友人っていうのは、ほとんどユーミ=ランの友人だしね」


「交流会ってのはユーミ=ランがおっぱじめたことなんだから、当然の話だな。まあ、俺なんかは早々に抜けちまったけどよ」


 当時のレビは父親のラーズが事故で足を負傷してしまい、そのぶんまで働いて家計を支えていたのだ。さらに大地震に見舞われた後はラーズがいっそうの大怪我を負った上に住む場所まで失ってしまい、それ以降は遊ぶ時間も作れなくなってしまったのだった。


 しかしレビたちは、その前からルウの祝宴にお招きされる立場であったのだ。最初の年の復活祭で大きな喜びを分かち合ったからこそ、今の関係が成立しているわけであった。


「若いお人らの婚儀ってのは、いいもんでさあね。俺も陰から、こっそり見守らせていただきまさあ」


 ラーズも顔をくしゃくしゃにしながら、そんな風に言っていた。

 そうしていっそうの意欲を胸に、俺たちは露店区域を目指す。そちらでは、本日もたくさんのお客が待ちかまえてくれていた。


「す、す、すごいですね。い、いつも以上の賑わいなのではないでしょうか?」


 隣の屋台の責任者であったマルフィラ=ナハムが、てきぱき働きながらおずおずと呼びかけてくる。そちらに向かって、俺は「そうだね」と笑顔を返した。


「昨日と三日前を臨時休業にしちゃったから、その分まで集まってくれたのかな。今日から青の月の終わりまでは、なるべく毎日営業したいところだよ」


 今日はすでに、青の月の十九日であるのだ。

 明日はレイ家の婚儀、明後日は西の王都の一団の到着予定日であるが、どちらも屋台の営業は敢行する。そしてその後もおかしな騒ぎが起きない限り、月の終わりまで突っ走りたいところであった。


 俺がそのように考える理由の大部分は、建築屋と《銀の壺》のためである。彼らはどちらも青の月いっぱいで、ジェノスを離れる予定であるのだ。

 本日も中天のピークを過ぎた頃、それらの面々が大挙してやってきた。


「よう、お疲れさん。昨日の家長会議ってのも、問題なく終わったのかい?」


「はい。想像していた以上に、有意義な時間を過ごすことができました」


「そうかそうか。俺たちも屋台の料理を我慢した甲斐があったよ」


 建築屋の副棟梁であるアルダスは大らかに笑いながら、そんな風に言ってくれた。


「で、明日の話も、無事にまとまったみたいだな」


 と、メイトンが屋台の正面に張られた張り紙を指し示す。そちらには、『明日、広場で営業』という告知の文章が記載されていたのだ。


「はい。レイの婚儀のお披露目をする了承が取れました。みなさんも、是非お越しくださいね」


「アスタたちの屋台があるなら、どこだって駆けつけるさ! それに、ヤミル=レイの花嫁姿も拝んでおかないとな!」


「ああ。あんな別嬪さんが着飾ったら、とんでもないことになりそうだな。口をつぐんでおくのが大変だぜ」


 建築屋の面々は、どちらかというと屋台の当番であるヤミル=レイのほうが馴染みが深い。しかし二回にわたる復活祭や数々の祝宴ではラウ=レイともしっかり交流を深めているはずであるので、このたびの婚儀はとても楽しみにしていた。


 そして、大切な同胞をルウの血族に送り出した《銀の壺》のほうも、思い入れのほどでは負けていない。建築屋に続いて屋台にやってきたラダジッドたちは、無表情のまま瞳を輝かせていた。


「森辺の婚儀、わずかなりとも、体感できる、至上、喜びです。明日、なるべく、長い時間、広場、留まりたい、思います」


「はい。シュミラル=リリンもいらっしゃるはずですので、どうぞ一緒に喜びを分かち合ってください」


「はい。胸、高鳴ります」


 建築屋に《銀の壺》、それに宿場町の若衆が駆けつけるだけで、賑やかさには事欠かないだろう。そして、屋台の料理が目当てで広場に参じた人々も、否応なく二人の立派な姿を見届けることになるのだ。ラウ=レイやヤミル=レイに思い入れを持たない人々でも、森辺の婚儀の衣装を目にすれば大きな感銘に見舞われるはずであった。


「ふん。まさか森辺の民が、宿場町で婚儀のお披露目とはな。ずいぶん愉快なことになったものだ」


 そんな風に告げてきたのは、レイ家の両名にさしたる思い入れを持っていなそうなデルスである。ただしそのかたわらでは、相棒のワッズがにこにこと笑っていた。


「でも、ヤミル=レイってのはあの屋台で働いてる別嬪さんだろお? あの娘さんが着飾るところを見られるだけで、広場まで足を運ぶ甲斐はあるだろうさあ」


「ふん。つい三日前にも、大層な姿を見せつけられているがな」


「ああ。だけど城下町の祝宴はすげえ人出で、じっくり拝見できなかったからよお。こいつは楽しみなこったなあ」


 こちらの両名も使節団の送別の祝宴に招待されていたので、そちらでヤミル=レイたちの艶やかな姿を目にしているのだ。しかし、森辺の花嫁衣裳はティカトラスが準備する立派な宴衣装よりも、ヤミル=レイをいっそう光り輝かせるはずであった。


(本当に、明日が楽しみだな。昼も夜も参席できる俺は、恵まれてるよ)


 そうして俺は、ひどく満たされた心地で本日の商売に取り組むことができていたのだが――そこに突如として、暗雲がたちこめた。

 そろそろ料理の残りもわずかとなった刻限に、思いも寄らぬ人々がやってきたのだ。なおかつ彼らは屋台に並ぼうとせず、裏からひっそりと接近してきたのだった。


「アスタ殿、仕事の最中に、ちょいと邪魔するぜ」


 そのように呼びかけてきたのは、ガーデルのお目付け役であるバージである。

 そして――そのかたわらには、フードつきマントで人相を隠した大柄の人物が悄然とたたずんでいた。


「あ、あれ? まさかそちらは、ガーデルですか? ガーデルは、まだ外に出られないはずじゃあ……」


「ああ。だけど、どうしてもアスタ殿に挨拶する理由ができちまったんだよ」


 近衛兵団の特務部隊というものに所属しているバージは、どこか無法者のように崩れた印象のある個性的な人物である。いつも身体が斜めに傾いていて、立派な武官とは思えないほど人を食った態度であるのだ。


 しかし、東の王家の騒乱でガーデルが深手を負ってからは、すっかり元気をなくしており――今日は何か、懸命に虚勢を張っているような雰囲気であった。


 そして、ガーデルである。

 いまだに心身が不調でお見舞いすら受けつけないと聞いていたガーデルが、いきなり宿場町にやってきたのだ。これはどう考えても、ただごとではなかった。


 さらにガーデルは、外見からして普通ではなかった。

 フードつきマントで人相を隠しているが、その上からでも変貌のさまが見て取れる。まず彼は肉厚の立派な身体がひと回りもしぼんでおり、フードの陰からは浮浪者のように伸び放題の髭面が覗いていた。


 マントの下では、きっと左腕を吊っているのだろう。シムの暗殺者が放った毒の矢によって左肩の古傷が再発してしまったガーデルは、もう何ヶ月も寝込んでいたのだ。別人のように痩せ細ったその姿は、あまりに悲壮であった。


「い、いったいどうしたというんです? 身体のほうは、大丈夫なんですか?」


 俺は屋台の商売を相棒の女衆におまかせして、ガーデルたちと相対した。

 ガーデルは百八十センチを超える長身であるため、フードをかぶっていても多少は人相が見て取れる。しかし、目もとにはもしゃもしゃの巻き毛が覆いかぶさり、鼻から下は褐色の髭に覆われているため、どのような表情をしているかもわからなかった。


「……お騒がせしてしまって、申し訳ありません……すぐに退散しますので、どうかご容赦ください……」


 くぐもった声で、ガーデルはそう言った。

 もともと内気でたどたどしい口調であるガーデルであるが、今はその声にいっさいの生気が感じられない。力を落としているというよりも、どこか寝ぼけているような声であった。


「……俺は、ジェノスを出ることにいたしました……それで、アスタ殿にひと言だけでもお別れの挨拶をさせていただきたかったのです……」


「ええ? それは、どういうことですか? どうしていきなり、ジェノスを出るなんて……」


「……俺は、そうするしかないんです……」


 そこでガーデルが口をつぐむと、バージが親指で荷車の駐車スペースを指し示した。


「こいつは往来の連中に聞かせられない話なんでね。申し訳ないけど、場所を変えてもらえるかい?」


「は、はい。わかりました。それじゃあちょっと、人を呼びますので――」


 俺がそのように言いかけたとき、青空食堂の当番であったラヴィッツの女衆がこちらにやってきた。リリ=ラヴィッツと交代で当番を受け持つ、若い女衆である。


「失礼いたします。ユン=スドラから、アスタの屋台を手伝うように申しつけられました」


「そ、そっか。それじゃあ、よろしくお願いするよ」


 ユン=スドラはすでに屋台の料理を売り切って、青空食堂に移動していたのだ。それでガーデルたちの姿に気づき、気を回してくれたのだろうと察せられた。


 俺はガーデルとバージをともない、ギルルがくつろいでいたスペースに移動する。

 そちらに到着すると、バージは皮肉っぽい表情で内心を押し隠しながら語り始めた。


「まず最初に、この話は森辺の外にもらさないようにお願いするよ。こいつは俺の上官たるメルフリード殿、ひいてはジェノス侯の言いつけでもあるんで、くれぐれもよろしくな。きっと今日中には、ルウの集落にも使者がやられるだろうからよ」


「わ、わかりました。それで、ガーデルがジェノスを出るというのは……?」


「そいつはな、あのアリシュナって占星師の星読みが関係しているのさ」


 俺はいっそう混乱して、バージとガーデルの姿を見比べる。

 しかしガーデルはうつむいたまま黙して語らず、バージが滔々と言いつのった。


「もうすぐジェノスがおかしな騒ぎに見舞われるって託宣は、アスタ殿たちも耳にしてるんだろう? そいつは数多くの人間の運命を翻弄するって話らしいが……このガーデルも、そのひとりなんだとよ」


「え? まさか、星読みの結果に従って、ジェノスを出るっていうんですか?」


「まずは、話を聞いてくれ。……あの占星師は、前々からガーデルのことを気にかけてたろう? まあ、言いだしっぺは森辺の娘さんだが、占星師もそれに同意していた。このままだと、ガーデルは破滅するだろうってな。今回の一件が、そのガーデルの破滅ってやつに大きく関わってくるんだとよ」


 予想外の話を聞かされて、俺は思わず言葉を失ってしまう。

 それにはかまわず、バージは語り続けた。


「もちろんジェノスのお偉いさんがたも、星読みの結果を絶対だなんて思ってるわけじゃない。しかしそんな不吉な託宣を聞かされたからには、黙っちゃいられないだろう。それでガーデルに事情を通達したところ……こいつはまんまと、我を失っちまったのさ」


「……星読みの結果に、恐怖してしまったんですか?」


「いや、ちょっと違うな。星読みの結果を伝えるにあたって、西の王都のご一行についても説明することになったんだよ。時期が時期だけに、一番おっかないのはその連中だからな。新しい外交官殿がアスタ殿にちょっかいをかけて、錯乱したガーデルが無礼を働くってのが、一番厄介な事態だからよ」


 ガーデルは、以前もそれでティカトラスに食ってかかることになったのだ。マルスタインたちにしてみれば、そういった状況に懸念を覚えるのが当然の話であった。


「それでガーデルは、まんまと錯乱しちまった。アスタ殿におかしな真似をするやつは、絶対に許さないってよ。……その一団がアスタ殿にちょっかいをかけると決まったわけじゃねえし、そもそもそいつらはまだジェノスに到着もしてねえってのに、剣を握って飛び出しそうな勢いだったのさ」


「で、でも……それはガーデルが怪我のせいで、気が弱っているためなんじゃないですか?」


「だけどこいつは東の王家の一件でも、さかのぼれば飛蝗の騒ぎの一件でも、同じように暴走した。アスタ殿たちはあれこれ世話を焼いてくれたが、こいつの性根はまったく変わってなかったってこった」


 すると、ガーデルがぼんやりとした声でその後を続けた。


「それに……俺は竜神の民の商団というものについても聞かされて……そこでも、心を乱してしまったんです……アスタ殿は、海の外からやってきたという話でしたので……その一団が、アスタ殿を連れ去ってしまうのではないか、と……」


「で、ですが、《青き翼》の方々は、とっくにジェノスを出立していますよ」


「はい……そういう一団が自分の知らないところでアスタ殿と出会っていたと聞いただけで……俺は、身を焦がすような思いにとらわれてしまったのです……」


 なんの感情もこもっていない声音で、ガーデルはそう言った。


「森辺のみなさんも仰っていた通り、俺はアスタ殿のもとから離れるべきなのです……アスタ殿の風聞が届かないぐらい、遠い地に移り住めば……きっと誰にもご迷惑をかけずにすむのでしょう……ですから、ジェノスを出ることに決めた次第です……」


「そ、それはでも……俺たちは、ガーデルと正しい絆を結びたいと願っているんです」


「いえ……俺にそのような価値はありません……もっと早くその事実に気づいていれば、こんな目にあうこともなかったんです……」


 ガーデルの言葉はぼんやりとくぐもっていたが、その内容だけで俺を黙らせるには十分であった。


「みなさんから忠告を受けた際に、ジェノスを出ていれば……こんな苦しい思いをせずにすみました……すべては、俺が愚かであったことが原因です……どうか、俺のことは忘れてください……俺も、すべてを忘れることにします……」


 ガーデルはうっそり頭を下げると、俺の返事も待たずにきびすを返した。

 俺がそれを呼び止めようとすると、バージがすかさず耳打ちをしてくる。


「今のあいつに、何を言っても無駄だよ。それに、俺の仕事はまだ終わっちゃいない。占星師の言うおかしな騒ぎとやらが収まるまで、俺はあいつにぴったりとくっついておく。だからアスタ殿は、心置きなく新たな外交官殿と仲良くやってくれ」


「で、でも……」


「アスタ殿の言う通り、あいつは怪我のせいで余計に気が弱ってるんだ。身体が元気になりゃあ、また気持ちも変わるかもしれない。それまで、気長に待っててくれよ」


 そうしてバージは彼らしい不敵な笑みを最後に見せてから、のろのろと歩くガーデルを追いかけていったのだった。


                  ◇


「……なるほど。そういう話であったのか」


 その夜の、ファの家の晩餐である。

 すべての事情を聞き終えたアイ=ファは、凛然とした面持ちでそう言った。


「了承した。確かにバージの言う通り、ガーデルはもともと弱い気がいっそう弱ってしまっているのだろうな」


「うん……今日のガーデルはいつも以上にぼんやりしてて、取りつく島もなかったよ」


 俺は溜息をこらえながら、そのように報告を締めくくった。

 ルウの集落にはメルフリードからの使者が届けられて、いっそう詳しい事情が伝えられたのだ。それもあわせて、俺はアイ=ファに報告を済ませたところであった。


 なんとガーデルは、明日の内にジェノスを出てしまうらしい。

 そしてまずは北方の隣町であるベヘットに腰を落ち着けて、バージたちに見守られながら療養するのだそうだ。そうして身体があるていど回復したならば、さらに遠き地に旅立つのだという話であった。


 その最終的な目的地は、ジェノスから荷車でひと月の距離にある、アブーフという地であるらしい。《ランドルの長耳亭》の主人ランディのかつての故郷――そして、すでに魂を返しているマルスタインの伴侶の故郷でもある、西の王国の北の最果てだ。ガーデルはそちらで入営して、マヒュドラとの戦いに身を投じようという心づもりであったのだった。


「まあ、ガーデルが兵士として働けるようになるまでは、長い時間がかかりそうだから……その間に気持ちが変わることを祈るばかりだよ」


「うむ。まさかアリシュナの星読みが、このような形で影響を及ぼそうとはな」


 あくまで毅然たる面持ちで、アイ=ファは豆乳鍋の煮汁をすすった。


「しかしやっぱり星読みというのは、受け取る人間の心持ちが重要であるのであろう。おかしな託宣を下されたのならば、心を静謐に保ちつつ変事に備えようと考えるのが普通であるように思うのだが……ガーデルは、不吉な運命から逃げると決めてしまったのだな」


「うん。それを責める気はないけど……やっぱり、残念だよ」


「それはガーデルの決断であるので、致し方があるまい。私はバージの言う通り、時期を待つしかないと思うぞ」


 と、アイ=ファは厳しい眼差しに優しい温もりをにじませながら、そう言った。


「ジェノスを見舞うおかしな騒ぎとやらが収まって、ガーデルの肉体が力を戻したとき、あやつがどのような道を選び取るかだ。そこでジェノスに戻る道を選ぶことを願う他あるまい」


「うん。やっぱりアイ=ファも、ガーデルのことは放っておけないよな」


「当たり前だ。あやつはこれまでの騒ぎの中で、ただひとり正しき絆を結べなかった相手であるのだからな」


 そういった話は、ファの家でもしょっちゅう交わされていた。ガーデルの運命がねじ曲がったのは、大罪人シルエルとの戦いで深手を負ったことに起因しているのだ。


 あの日、ガーデルがシルエルと出くわしていなければ、きっと俺たちがガーデルと出会うこともなかったのだろう。

 しかしその場合は、シルエルがまんまと逃げおおせていたかもしれない。シルエルを討ち倒したガーデルは、まぎれもなく功労者であるのだ。そんなガーデルが不本意な末路を辿ることを、俺たちが看過できるわけがなかった。


「あきらめなければ、道は開ける。我々は、ガーデルを信じて待つしかあるまい」


「うん、そうだな。アイ=ファのおかげで、俺もようやく腹が据わったよ。……やっぱり、アイ=ファにはかなわないなぁ」


 俺が心からの笑顔を届けると、アイ=ファはむしろ不思議そうに小首を傾げた。


「何か言いたげな顔つきだな。思うところあるならば、包み隠さずに語るがいい」


「うん。実は俺は、アイ=ファが気落ちするんじゃないかって心配してたんだよ。ほら、クルア=スンやアリシュナが、ガーデルを破滅から救うのはアイ=ファだろうって言っていたからさ」


 それもまた、星読みの結果である。

 しかしアイ=ファは、まだ理解が及んでいないようであった。


「それでどうして、私が気落ちしなければならんのだ?」


「だって、ガーデルがジェノスを出ていっちゃったら、救うもへったくれもないじゃないか。そうじゃなくても、アイ=ファはガーデルのことを気にかけてたから……こんな結果は不本意に感じるだろうと思ったんだよ」


「……それは実に、浅はかな考えだな」


 アイ=ファは苦笑をこぼしたのち、腕をのばして俺の頭を小突いてきた。


「結果など、まだ何も出ていないではないか。これしきのことで気落ちなどしていたら、何も成し遂げられまい」


「うん。だから、アイ=ファはすごいって思ったんだよ」


「ふん。お前のほうこそ気落ちして、見当違いの懸念を抱くことになったのであろう。本来のお前であれば、これしきのことで惑いはしないはずだ」


 と、アイ=ファはとても優しい眼差しでそんな風に言ってくれた。


「やはりガーデルは特別な存在であるため、お前も心を乱されてしまうのであろうな。繰り返すが、あきらめさえしなければ必ず道は開ける。お前はもっと、自分の力を信じるがいい」


「俺の力なんてたかが知れてるけど、アイ=ファの力は信じているよ」


「そうか。では、お前の分まで私がお前を信じてやることにしよう」


 アイ=ファの手が再びのばされて、今度は俺の指先を握りしめてきた。

 そうしてその日も、最後には安らかな時間が訪れて――俺たちは気持ちも新たに、レイ家の婚儀を迎えることに相成ったのだった。

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― 新着の感想 ―
森辺の民みたいな真摯かつ誠実な人達はガーデルと絆結びにくいではなく、ガーデル本人がそもそもどう結ぶのもわからないから結びようもないでしょうね。そこを諦めないのはやはり森辺の民、アスタとアイ=ファ達今ま…
もういいよ、ガーデルは。 反省できるだけ初期よりは多少マシだけどさ。 このキャラクターはどうしようもないし、ここまで、頑ななら出来ることないんじゃないの?見てて気分が悪い。ほんとにいつまで引っ張るの?
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