エピローグ 別れの挨拶
2025.7/27 更新分 2/2
・今回は2話同時更新ですので、お読み飛ばしのないようにご注意ください。
・今回の更新はここまでです。更新再開まで少々お待ちください。
ようやくティカトラスたちから解放されたのち、俺たちはしばし大広間の片隅で身を休めることになった。
今日の主役のひとりであるセルフォマが、そのように希望したのだ。リミ=ルウとルド=ルウ、ジルベとサチだけをともなって壁際に身を移すと、アイ=ファがいくぶん厳粛な面持ちで声をあげた。
「さきほどのラウ=レイという男衆は婚儀が決まった喜びに、いささかならず浮かれてしまっているのだ。決してセルフォマたちのことを軽んじているわけではないので、容赦を願いたい」
「い、いえ。わ、私は食材の検分にすべての力を注いでおりましたので、森辺の方々にお気をかけられるいわれはありません。ど、どうぞお気になさりませんように。……と、仰っています」
しばしの休息を願ったセルフォマであるが、その優美なたたずまいに変わりはない。それでもやっぱり内心では、ティカトラスたちの騒がしさに辟易しているのかもしれなかった。
壁際に寄り集まった俺たちは、しばし口をつぐんで大広間の賑わいを見守る。
大広間には参席者たちのさんざめきがあふれかえり、もはや楽団の演奏の音色もかき消されている。そろそろ祝宴の開始から一刻ぐらいは経っているので、宴もたけなわといったところであろう。城下町の祝宴でもじわじわとつつましさが減じていくのはいつものことであったが、それでもやっぱり今日はひときわの熱気であるように感じられた。
(まあ、リーハイムたちの婚儀の祝宴も、最後はこれぐらい盛り上がってたのかな)
今にして思えば、あれも長い雨季が明けてからの初めての祝宴であったのだ。
城下町では雨季の祝宴を控える傾向にあったので、ポワディーノ王子がらみの祝宴ぐらいしか開かれていなかったはずだ。俺がこの熱気に懐かしさのようなものを覚えるのは、雨季の期間から祝宴が間遠であったためであるのかもしれなかった。
(次はきっと、外交官を歓迎する祝宴か何かに引っ張り出されるんだろう。……それとも新しい外交官は、そういう催しを受け入れないのかな)
俺がそんな想念に耽っていると、ふいにセルフォマの声が響き始めた。
東の言葉は独特の抑揚を持っているため、呪文の詠唱や歌のように聞こえるときがある。セルフォマの声音はしっとりと艶やかな響きを持っているため、その傾向がいっそう顕著であった。
「こ、この三ヶ月近く、私はアスタ様を筆頭とするさまざまな方々に支えられることで、きわめて充実した日々を送ることができました。あ、あらためて、アスタ様に感謝の言葉を捧げさせていただきたく思います。……と、仰っています」
「ああ、セルフォマたちがいらっしゃってから、もうそんなに日が過ぎているのですね。でも、あっという間の三ヶ月であったように思います。こちらこそ、セルフォマのおかげで楽しい日々でした」
「で、ですが、私はご迷惑をおかけするばかりで、ろくにご恩もお返しできませんでした。い、いずれ王城の調理の指南書をお届けすることがかなっても、まだまだ足りていないことでしょう。……と、仰っています」
「そんなことはありませんよ。もちろん、もっとセルフォマの手腕を拝見したかったという思いはありますが……それでも、セルフォマの存在は刺激的でした。俺だけじゃなく、数多くのかまど番が同じ思いであることでしょう」
すると、セルフォマが立ち位置を変えて、俺を真正面から見据えてきた。
その切れ長の目には、とても澄みわたった光がたたえられている。そしてその奥には、隠しきれない熱情の光もちらついており――それはプラティカともアリシュナとも異なる、セルフォマならではの魅力的な眼差しであった。
「しょ、正直に申しまして、私はジェノスにおもむくという任務を不本意に思っていました。で、ですが、異国で学ぶのは大きな糧になるはずだと、父や料理長が背中を押してくれたのです。わ、私がラオリムに戻った折には、父と料理長に心からの感謝の言葉を捧げることになるでしょう。……と、仰っています」
「そうですか。ジェノスで過ごした日々がセルフォマの糧になるのでしたら、俺も嬉しく思います」
俺が心からの笑顔を返すと、セルフォマはゆったりとした所作でうなずき――それからにわかに、その場にひざまずいた。
「アスタ、かんしゃ、しています。アスタ、すこやか、ぜんと、いのります」
セルフォマは、自分自身の口でそう言った。
アルヴァッハの幼き甥っ子であるピリヴィシュロを思い出させる、たどたどしい言葉づかいである。思いも寄らないセルフォマの行動に、俺はめいっぱい胸を詰まらせてしまった。
「あ、ありがとうございます。どうか顔を上げてください、セルフォマ」
カーツァがその言葉を通訳すると、セルフォマは何事もなかったかのように身を起こした。
「じ、自分の口で感謝の気持ちを伝えたかったので、カーツァから西の言葉を学ぶことになりました。つ、拙い言葉で恐縮ですが、不備はなかったでしょうか? ……と、仰っています」
「はい。セルフォマのお言葉もお気持ちも、しっかり伝わりました」
俺の言葉をカーツァから伝え聞いたセルフォマは、微笑むように目を細めて――また自分の口で、「ありがとうございます」と言った。
「で、では、カーツァも今の内に自分の気持ちをお伝えするべきでしょう。……と、仰っています」
「あはは。それはカーツァに向けた言葉なのでしょうから、俺たちに伝える必要はないんじゃないですか?」
「い、いえ。す、すべてのお言葉を伝えるのが、私の仕事ですので……」
そんな風に言ってから、カーツァはわたわたと頭を下げた。
「わ、私がこのような場で出しゃばることは許されませんが、ひとつだけお伝えさせていただきます。わ、私はラオリムに戻ったら、リクウェルド様のもとで学ばせていただき……い、いずれは外務官を志そうかと思います」
「外務官? それじゃあ、リクウェルドと同じ道を志すということですね」
「は、はい。わ、私のように性根の据わらない人間に、そんな大役は務まらないと考えていたのですが……み、みなさんのおかげで、覚悟を固めることがかないました」
「俺たちのおかげで?」
「は、はい。ジェ、ジェノスで過ごす日々が、私に勇気を与えてくれたのです」
そうして、カーツァが面を上げると――その目には、大粒の涙が浮かんでいた。
「み、見知らぬ異国に取り残されて、私はずっと不安な心地でした。で、でも、セルフォマ様の通訳として働く内に、私は外界の方々と親交を結ぶ大切さを思い知らされたのです。そ、そして、みなさんと過ごす日々は……とても、楽しかったのです」
そのように語るカーツァの目から、涙がこぼれ落ちた。
ただその幼い顔には、こらえようのない微笑がたたえられている。
「わ、私は故郷の小さな村落と、ラオの立派な王城しか知らずに育ってきました。で、でも、リクウェルド様のおかげで、世界がこんなにも広いことを知り……そ、そして、みなさんのおかげで、世界がこんなにも豊かであることを知ったのです。わ、私はリクウェルド様やソム様のような立派な外務官を目指して、もっともっと世界のことを知りたいと思います」
「へー。じゃ、しばらくしたら、今度はお前が使節団を率いることになるのかもなー」
と、ルド=ルウが横からひょこりと割り込んだ。
「ま、知ってるやつのほうが、こっちも気楽だしなー。喜ぶやつは、多いんじゃねーの?」
「うん! みんな、カーツァのことが大好きだからねー!」
リミ=ルウが元気に声をあげると、おすわりをしていたジルベも「わふっ」と追従した。
「あ、ありがとうございます。わ、私がこんな風に考えられるようになったのも、みなさんのおかげです」
カーツァは涙ながらに、そのように言いつのった。
もちろんその中には、セルフォマの存在も含まれているのだろう。なかなか内心を見せないセルフォマであるが、随所ではカーツァに対する優しさを垣間見せていたのだ。かつてカーツァがファの家の晩餐で真情をこぼしたのも、セルフォマの後押しがあってのことであったのだった。
「カーツァであれば、目指す道に進むことがかなおう。私も森辺で、カーツァの志が成し遂げられることを祈っているぞ」
アイ=ファが優しく声をかけると、カーツァは「あ、ありがとうございます」と頭を下げてから、気恥ずかしそうに微笑んだ。
「ま、まずは、表情の動きをつつしむことから始めなければなりません。こ、これではとうてい、外務官は務まりませんので」
「うむ。そしてその前に、まずは涙をふくがいい」
「は、はい。お、お見苦しいところをお見せしてしまい、申し訳ありませんでした」
カーツァは懐から取り出した織布で、顔をぬぐう。
すると、何も通訳されないままに、セルフォマがすうっと進み出た。
「お、お時間を取らせてしまって、申し訳ありませんでした。こ、この後は本来の役割に立ち戻り、宴料理の検分に注力させていただきたく思います。……と、仰っています」
「はい。あと口にしていないのは、ダイアの菓子ですね」
俺の言葉をカーツァが伝えると、セルフォマはゆったりと首を横に振った。
「か、菓子の検分は後にして、アスタ様の料理をもうひとたび味わわさせていただきたく思います。さ、さきほどの試食の場では味見ていどの量しか口にできませんでしたので、ずっと物足りなく思っていたのです。……と、仰っています」
「あはは。それじゃあ今度は念入りに、ご感想のほうもお願いします」
俺が笑顔を届けると、セルフォマはまたこらえかねた様子で目を細めた。
カーツァも笑みを引っ込めようと苦心しているが、まだまだ十全ではない。そして二人は、ふいにおたがいの姿を見つめ合い――それでまた、いっそうの感情をこぼしてしまった。
俺は二人が帰国する前にきちんと挨拶をしたいと考えていたが、あちらも同じ心情であったのだ。
もしかしたらセルフォマとはこれが今生の別れになるかもしれないし、カーツァとも再会できるかどうかはわからない。たとえ彼女が立派な外務官に就任しても、ジェノスに向ける使節団の一員に任命されるかは定かでないのだ。
しかしそれでも、俺たちが彼女たちのことを忘れることはないし――きっとそれは、彼女たちも同様であるのだろう。
そんな風に信じられることを幸福に思いながら、俺は再び祝宴の熱気に身を投じることになったのだった。




