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異世界料理道  作者: EDA
第九章 青の終わり
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③帰路

2015.2/21 更新分 1/1

「……アイ=ファはさ、あの組立屋の親父さんが話していたことをどう思ってる?」


 荷車を引くギルルの手綱を持ち、ともに道を歩みながら、俺はアイ=ファの背中にそう呼びかけてみた。


 宿場町から森辺の集落へと帰る途上である。

 この道は、細い上に傾斜がきつく、なおかつ左右には背の高い樹木も立ち並んでいて見通しが悪いため、無理をせずに徒歩で進んでいるのである。


 かつては商団に扮したカミュアたちも通った道であるからして、そこまでの悪路ではないのであろうが、さすがにトトス乗り初心者の俺がうかつに荷車を走らせてしまったら、あちこちの枝葉に幌をぶつけてしまいそうだ。なので、そういった障害物もアイ=ファの持参してくれた鉈で始末しながらの、きわめてのんびりとした帰り道であった。


 毛皮のマントをなびかせて先頭を歩きながら、アイ=ファはけげんそうに横顔を見せてくる。


「どう思っている、とはどういう意味だ? べつだんあの西の民の言葉におかしな点などは感じなかったが」


「うん、おかしいどころか、森辺の民に対してはずいぶん好意的な言い様だったと思うよ。自分でも言っていた通り、普段の生活では森辺の民とは接点なんてなかったから、そこまで多くのことを望んでいないってことなんだろうな」


 なるべくギルルの歩調が速まらないよう手綱を調節しつつ、俺はそう返した。


「だけどさ、表通りで商売をしている人たちなんかは、もっと厳しい目で森辺の民を見ているわけだろ? テイ=スンたちの騒ぎのおかげで、ずいぶん風通しがよくなった感じはするけど、根本的な問題が解決したわけではないんだし」


「根本的な問題とは何だ?」


「え? それはだから――」


 真正面からそう問われてしまうと、俺も言葉に詰まってしまう。


 町の人々が知ったのは、森辺の民のすべてが悪辣な無法者なわけではないようだ、ということと、森辺の民もきわめて苦しい生活を強いられているらしい、ということと――あとは、ジェノスの権力者による森辺の民への不当な優遇も、ついに終わりを迎えたらしい、ということぐらいだろう。


 しかもそれらも確たる情報ではなく、テイ=スンと森辺の民のやりとりからそう察せられた、というだけの話なのだ。


 だからこそ、人々は探るような目で森辺の民を見るようになったのだと思う。


 本当にこいつらは法を法とも思わない蛮族ではないのか?

 本当にそこまで不当な扱いを受けていたのか?

 不当な扱いを受けていたなら、それを恨みに思ったりはしていないのか?

 城の人間は、今後はきちんと森辺の民でも正当な裁きを行っていくつもりがあるのか?


 そういったことを、見極めようとしているのだろう。


「今までは、宿場町の人たちもぴったり心を閉ざしていたんだと思うんだよ。森辺の民は凶悪だ、関わり合いになればロクなことにならない、どうせ城の人間もグルなんだから、あんなやつらは放っておけ――みたいな感じでさ」


「ふむ」


「それがこの前の騒ぎで色々なことが明るみになって、ちょっと考えが変わってきたんだろう。言ってみれば、ぴったりと閉ざしていた扉を少しだけ開いて、こっそりこちらを観察しているような感じかな」


「……まるでリミ=ルウのようだな」


 想像してしまい、俺はちょっと笑ってしまった。

 しかし、笑ってばかりもいられない。


「だけどさ、森辺の民はそれに対して、今まで通りに振る舞ってるだけじゃないか? ……いや、もう町で悪さをするような人間はいないんだから、そうやって普通に振る舞ってるだけでも、いずれ身の潔白は証明できるんだろうけど――でも、何か他に打てる手はないのかなあ?」


「よくわからんな。我々はスン家の人間のように悪辣な真似はしない、と大声でわめきながら町を練り歩くべき、とでも言うつもりか?」


「うーん。それでは説得力に欠けるよな……宿場町に町長でもいれば、それと森辺の族長が会談したりっていう手も打てるんだけど」


 しかし、そのようなものは存在しないということを、俺はすでにミラノ=マスから聞いていた。


 宿場町を統括しているのはあくまでジェノス城であり、「宿場町の長」に該当するのは、けっきょく城下町に住まう貴族である、という話であるのだ。


「アスタよ。いささか気を回しすぎではないのか? そのようなことを思い悩むのはドンダ=ルウたち族長の仕事だ。お前の仕事は、美味い料理を作って宿場町の民との縁を繋ぐことであろうが?」


「うん、だけど、そのドンダ=ルウたちがそもそも宿場町には無関心だからさ。……無関心っていうのは、拒絶の一形態だと思わないか? スン家のやらかした悪行とは別に、そういう態度も町の人たちとの溝を深めた一因であると思うんだけど……」


「興味のないものに興味を持てと言っても無為であろう。だいたい、ドンダ=ルウやグラフ=ザザなどが町に下りたら、それだけで大抵の者は肝を冷やしてしまうのではないか?」


 それはもちろん、その通りだ。

 そもそも宿場町への買い出しなどは女衆の仕事なので、男衆は滅多に町に下りることもない。それゆえに、宿場町の人々は森辺の魁夷なる狩人たちに対してほとんど免疫を有していないのだった。


 森辺の狩人は、野生の獣のごとき生命力にあふれている。ドンダ=ルウどころか、アイ=ファやルド=ルウのように見目の柔らかい者たちでさえ、やっぱり町の人々とは身に纏う空気が異なるのだ。

 そんな彼らがギバの毛皮を纏い、刀を下げて歩いていれば、威圧感が生じてしまうのも道理である。


「でもさ、ドーラの親父さんやターラなんかは、女衆だけじゃなくルド=ルウやシン=ルウにも肝を冷やさなくなったじゃないか? だからきっと交流の場さえあれば、打ち解けることはできると思うんだよ。森辺の生まれでない俺だって、ここまで打ち解けることはできたんだから」


「……お前には危険を察知する能力が欠けすぎている。宿場町の者たちはお前ほど呑気には出来ていないと思うがな」


「それでもさ、森辺の民は掟や法を守ろうって気持ちがすごく強いじゃないか? だから、ドンダ=ルウみたいに気性の荒い男衆だって、町の人たちにとっては決して危険な存在じゃないんだ。それなら、時間さえかければ何とかなりそうじゃないか?」


「だから、今がその時間をかけている最中なのではないのか?」


 アイ=ファは少し歩調をゆるめて、俺の隣りに並んできた。

 そうして、真剣な眼差しを俺に向けてくる。


「アスタ。カミュア=ヨシュの言葉を忘れたのか? 宿場町との縁を繋いでいたのは、おそらくお前なのだ。……お前と、それにルウの女衆たちだな。お前たちが毎日のように宿場町に下りて、森辺の民が悪辣な人間ばかりでないということを証し立ててきた。それがなければ、たとえテイ=スンの起こした騒ぎを経ても、今のような状況にはならなかったと思える。――いやむしろ、町には森辺の民に対する恐怖心しか残らなかったのではないだろうか?」


「うん。その理屈もよくわかる。だけど――アイ=ファだってさっき、組立屋の親父さんに気安い口をきかれただろう? 最初はけっこう警戒した感じだったのに、あんな風に打ち解けてくれたのは、たぶんアイ=ファの魅力があってこそだと思うんだよな」


「…………」


「いや、足を蹴る前に聞いてくれ! 決して茶化してるわけじゃないんだ! 俺が言いたいのは、森辺の民の気性そのものが町の人たちに忌避されてるわけじゃないと思うってことなんだよ。たとえばガズラン=ルティムやダリ=サウティみたいな人たちだったら、割とあっさり打ち解けられそうな気がしないか? ダン=ルティムに至っては、誰とでも楽しくお酒を酌み交わせそうだし」


「……そうだからと言って、用事もなく男衆が町に下りることなどありえぬだろう」


「うん、でもさ、このままだと森辺の民にとってスン家っていうのはどういう存在であったのか、とか、それに対してどのような気持ちを抱き、どんな風にその罪を受け止めようとしているか、とか、そういう大事な話もなかなか町の人の耳には入りそうもないじゃないか? 俺にはそれが、ちょっともどかしく感じられてしまうんだよ」


 答えながら、俺も自分の疑念が何に根ざしているのかが、はっきりと見えてきた気がした。


「つまりな、ジェノスって一口に言っても、城下町と宿場町じゃ全然別物みたいじゃないか? 森辺の民がジェノスと正しい縁を結ぶには、その両方と正しく接していかなきゃいけないと思えるんだ」


 アイ=ファはしばし口をつぐんでから、やがて小さく溜息をついた。


「アスタよ、お前の言葉は正しいのであろうとも思えるが、やはり気を回しすぎているのではないか? 族長らは、これから城の者たちを相手取ろうとしているところなのだ。まずはそちらを片付けなければ、なかなか他のことにまでは手も頭も回るまい」


「うん? ああ、やっぱり俺がこんな風に気を回すのは分不相応なのかな」


「分不相応というか――何か焦っているように感じられる」


 歩きながら、アイ=ファがぐいっと顔を近づけてくる。

 ちょっと鼓動が速くなってきてしまう距離感だ。


「森辺の民が町の者たちに忌避されているのは、80年もの昔から続いてきたことだ。ザッツ=スンらは、この十数年ばかりで、そこにさらなる毒を注いだに過ぎん。たとえザッツ=スンらが滅んだとしても、それだけで何もかもが解決するなどとは、私には思えぬのだが」


「うん、でもザッツ=スンたちの滅び方が衝撃的だったから、これは町の人たちとの関係性を一気に改善させる好機になるような気がしちゃったんだよな」


「だから、それが焦っているように感じられると言っているのだ」


 と――アイ=ファはそこで、いきなり唇をとがらせた。

 この奇襲攻撃に、俺はまたちょっと動揺してしまう。


「普段は誰よりも呑気たらしくしているくせに、お前は時おりそのように急いた姿を見せるときがある。私は、それが気に入らん」


「き、気に入らないのか?」


「大いに気に入らん。……それはお前が、自分が消えてしまう前に厄介事を片付けようとしているのではないか、と思えてしまうからな」


 すねた口調で言いながら、アイ=ファは俺の着ている腰あての布地をぎゅうっとつかんできた。


「ファの家の目的は、町でギバの肉を売り、森辺に豊かな生活をもたらすことであるはずだな、アスタ」


「う、うん、その通りだよ」


「そのためには、町の者たちがもっとたくさんのギバ肉を求めるようになる必要がある。そうでなくては、森辺のすみずみにまで豊かさが行き届くことにはならぬであろう」


「そうだよ。もちろんその通りだ」


「そうであるからこそ、森辺の民とジェノスの民は、今よりも友好的な関係を築かなければならない。そのためにお前が腐心するというのは、正しき行いなのであろう。……しかし、それを成し遂げるには気の遠くなるほどの歳月が必要となるはずだ」


 アイ=ファは唇をとがらせたまま、さらに顔を近づけてくる。


「だからお前は、気の遠くなるほどの歳月、ファの家の人間としてこれまで通り宿場町の仕事に励むべきなのだ。そんなに易々と仕事を片付けられると考えるな、うつけ者め」


「いや、だけど、早期解決がはかれるなら、それに越したことはないだろう?」


 俺の返答によって、アイ=ファは不満そうに押し黙ってしまった。

 それから、逆の手で俺の肩をつかんできそうな素振りを見せ――すぐにその手を下ろしてしまう。


 そうしてアイ=ファは、今度は上目づかいで俺をにらみつけてきた。


「……私がそのような言葉を求めているとでも思っているのか?」


「いや、あの、だから――」


「どうしてお前は私を不安にさせようとするのだ?」


 俺の言葉は、自分の意図せぬところでアイ=ファの気持ちをかき乱してしまったらしい。


 俺は慌てて首を振り、「そんなつもりはなかったんだよ」と答えてみせた。


 自分が消えてしまう前に、森辺とジェノスの抱える問題を解決してしまいたい――そこまで大それたことを考えていたわけではないのだ。


 ただ、この結末を見届ける前に、わけもわからぬまま消えてしまったりはしたくないという、そんな思いが無意識の内に俺を焦らせていたのだろうか。


「ごめん。俺はただ――物事がもっと良い方向に進めばいいと願ってるだけなんだ。そのためにはどうするべきか、なけなしの知恵を絞ってるだけなんだよ」


「…………」


「そんな簡単にジェノスとの関係が丸く収まるとも思っていないし、地道に、慎重に話を進めていくべきだってのもわかってる。……うん、一気に関係性を改善させるなんてのは虫がよすぎるし、危なっかしい考え方だよな。それは俺の考えが足りてなかった。反省する」


「…………」


「……俺の心情は、昨晩にも伝えてあるよな?」


 俺もお前のそばにいたい。

 そんな台詞を吐きながら、俺はアイ=ファの身体を力いっぱい抱きすくめてしまったのだ。


 胸の鼓動がいよいよ速くなってきて、このままでは身体に触れてもいないアイ=ファにさえそれが伝わってしまうのではないか――とまで思えたとき、アイ=ファはふいに俺の腰あてから手を放し、スタスタと前のほうに歩いていってしまった。


「……わかっているなら、それでいいのだ」


 低くひそめられたアイ=ファの声が、風に乗ってゆるゆると耳に届いてくる。


 俺は何か気のきいた返事ができないものかと頭を悩ませたが、妙案がひらめくよりも早く、森辺の集落に到着してしまった。


 といっても、情景にそれほど変化が見られるわけでもない。ただ、土の地面が平坦になって、少しばかり太くなっただけだ。


 俺たちが通ってきた道はT字路の下部分で、いきあたった森辺の道は南北に長く伸びている。ここから5分ばかりも南に下ればルウの集落で、1時間ばかりも北に上ればファの家だ。


「よし。それじゃあここからはいよいよ荷車に乗ってみよう」


 つとめて明るい声をあげると、アイ=ファも「うむ」と、いつもの調子で答えてくれた。


 内心で胸を撫でおろしつつ、俺は御者台に這いあがる。

 アイ=ファはいったん荷台に上がってから、そこから身を乗り出し、御者台の背もたれに手をかけてきた。


「ずいぶん不安定な体勢だな。それで大丈夫か?」


「こうしなければ、お前の手綱さばきを確認できぬであろうが?」


 そんな風に答えるアイ=ファは、だいぶご機嫌を取り戻しているように見えた。

 きっと初めての荷車搭乗に昂揚しているのだろう。

 そのちょっと幼げに和んだ顔を見上げながら、今日はもう堅苦しい話をふっかけるのはやめておこう、と俺は思うことができた。


「基本的に、運転の仕方はトトスに直接乗るときと大差はないらしいんだよ。手綱の扱いも変わらないから、足で叩く動作を鞭で叩くのに変えるだけなんだな。で、よほど乱暴に発進させたり停止させたりしない限りは御者台から落ちる心配もないし、素人にとってはトトスに直接乗るよりはうんと簡単であるらしい。――と、レイトが言っていたよ」


「ふん。ならばお前でも、多少は人並みに操れることができるかもしれんな」


 わずか5日で手足のようにギルルを操れるようになった我が家長殿は、和やかなお顔でそのように仰っしゃられた。


 ちなみに俺のほうは、何とかぎりぎり落馬ならぬ落鳥することなくゆっくり歩かせるぐらいはできるようになった、という段階である。


 そんな俺に、どれぐらいこの荷車というやつを巧みに運転することができるのか。いざ挑戦だ。


「よし、行くぞ。たぶんそれなりに揺れるだろうから、落ちないように気をつけてな?」


 言いながら、俺は革鞭を取り上げた。

 とたんにアイ=ファが「アスタ」と呼びかけてくる。


「……くれぐれもギルルを痛がらせるなよ?」


「了解であります」と応じつつ、俺はぺしんとギルルの足の付け根を打った。


 ギルルはいつも通りにのそのそ歩きだす。


 革鞭を握ったまま、俺は右手でも手綱をつかんだ。

 まずは通常の歩行スピード。トトスの歩みは人間の倍ほどの速度であるから、およそ時速10キロといったところか。


 予想通り、このていどでもなかなかの振動である。

 御者台には、クッション代わりに何か敷いたほうがいいかもしれない。あまり長時間乗っていると、尻の皮がすりきれてしまいそうだ。


「うん、だけどこいつは気持ちがいいな」


 スピードは時速10キロでも、転落の心配がないというのはいいものだ。

 それに、御者台の位置はトトスの背と変わらないぐらいの高さに設計されているので、見晴らしの良さはトトスに乗っているときと変わらない。


 しかし、頭の上からはアイ=ファの不満そうな声が降ってくる。


「気持ちがよいなどと言えるほどの速度ではあるまい。あまりのんびりとはしていられないのではないか、アスタ?」


「うん、まあ確かに。普段だったらとっくに家に帰って仕事を始めてる頃合いだもんな。……それじゃあちょっとだけ速度を上げるぞ?」


 左手だけで手綱の張り具合をキープして、再度ギルルの胴体に鞭を当てる。


 常歩(なみあし)から速歩(はやあし)にシフトチェンジだ。

 鞭の加減に問題はなかったようで、ギルルの速度が5割ほど増した。

 荷車と人間2名を引っ張っているのに、その足取りの力強さに変化は見られない。


「揺れ具合いは、それほど変わらないな。アイ=ファ、大丈夫か?」


「大事ない」というアイ=ファの声が、さきほどよりも近い位置から聞こえた気がした。


「それよりも、アスタ、また右腕に力が入っているのではないか? いささか手綱の張り具合いに歪みがあるようだぞ」


「ええ? そうかなあ」


 これはたびたびアイ=ファに指摘されるポイントである。

 それでもギルルは真っ直ぐ走ってくれているのだが、「それは道が真っ直ぐだから、ギルルは少し迷いながらも真っ直ぐ進んでいるだけだ」と、アイ=ファは語る。

 で、その迷いはきっとギルルの心に少しずつ疲れを蓄積させていくだろうから、きちんと正しく手綱を扱えと仰るのだ、アイ=ファ教官殿は。


 アイ=ファだってギルルとのつきあいは俺と同じ長さしかないはずなのに、その言葉は妙に説得力に満ちみちているのだった。


「お前は右腕のほうが力が強いのだろう? それならば、右腕の力を少し抜かねば均等にならぬのが当たり前ではないか」


「いやあ、これでも均等にしているつもりなんだけどなあ」


「まず、腕の高さからして間違っているのだ。右の肘はもう少し下げろ」


 いっそう近づいてきたアイ=ファの声とともに、褐色の指先が俺の右手首をそっとつかんできた。

 ついでに右の耳に柔らかい髪が触れてきて、俺の心臓をバウンドさせる。


「これぐらいだな。それで、力ももう少し抜いてみろ」


 もはやその声は顔の真横から感じられる。

 まだ接触はしていないのに、右の首や肩のあたりに、アイ=ファの体温まで感じてしまう。


「わ、わかったわかった。これぐらいかな? うん、いい感じじゃないか?」


「……何を惑乱しているのだ、お前は」


「いや、だって……って、説明できるかよ、馬鹿」


「誰が馬鹿だ」と、こめかみのあたりを頭でぐりぐり圧迫されてきた。

 ぐりぐりが好きなやつだな、本当に!


「これは必要な措置であろうが? お前はこのようなときにまで、私と肌が触れ合うのを厭うのか?」


 と、アイ=ファの声がどんどん不機嫌そうな響きを帯びていく。


「お前は家人が相手であっても肌が触れ合うのは気色が悪い、と考える人間であることは私もわきまえている。だから先刻も、私はお前を不快にさせないよう注意を払っていたのだ」


 いや、その認識からして、少なからず齟齬があるのだが。


「しかし、昨晩はお前のほうだって私の身体を抱きすくめてきたではないか?」


 だから、そういう言葉を口にするものではありません!


「……私だって、お前を不快にさせたいわけではない。しかし、手綱さばきを教えるのは必要な措置であるはずだ。それすらも厭うというのは、あまりにも――私の心情をないがしろにする行為ではないか?」


 アイ=ファの声の調子が、少しだけ変わった。

 頭も指先も俺から離れて――ただその声と体温だけを間近に感じる。


 ゆるいカーブを道なりに進むギルルに合わせて手綱の力加減を調節しつつ、俺は小さく息をついた。


「わかった。それじゃあ根本的な誤解を解いておこう。……あのな、お前に触られたりして俺が動揺しちまうのは、不愉快だからじゃなく、その、気恥ずかしいからなんだよ、アイ=ファ」


 何と間の抜けた解説であろうか。

 しかし、俺たちは異世界で生まれ育った者同士であるのだ。その常識や価値観にズレがあるなら、理詰めで修正していく他ない。


「……気恥ずかしいの意味がわからん」


「わからないかな? だって、俺とお前は同じ家の家人だけど、血が繋がっているわけではないだろう?」


「……だからこそ、お前は肌が触れ合うのを厭うのであろう? 私だって、家人でもない人間などに触れられるのは不愉快だからな」


 ああ、だからこそ、アイ=ファは俺の反応によそよそしさを感じてしまっているのか。

 俺は必死に思考を巡らせる。


「えーと、でも、お前はきっとリミ=ルウやジバ婆さんと触れ合うのは嫌じゃないんじゃないかな、アイ=ファ?」


「当たり前だ。リミ=ルウとジバ婆は……その、大事な友だからな」


 後半部分の声が小さい。

 それこそ気恥ずかしい台詞を吐かせてしまい、申し訳なく思う。


「それじゃあ、男衆の友とかができたら、どうなんだろう? いくら友でも、男衆がリミ=ルウみたいに抱きついてきたら嫌だろう?」


「当たり前だ。しかしそれは、リミ=ルウが子どもだからであろうが? 男衆でもリミ=ルウのように小さければ、べつだん不愉快ではない」


「うん、でも大人になったリミ=ルウに抱きつかれても、不愉快に感じたりはしないんじゃないかな?」


「そんな子どもじみた行動に出る大人はいない」


「そうかなあ? リミ=ルウだったら、ありうると思うけど」


 沈黙。

 きっと、「ありうる」という結論がアイ=ファの頭にも浮かんだことだろう。


「それじゃあ質問だ。たとえばシン=ルウの弟みたいに小さな男の子がアイ=ファの友になったとして、その子が17歳ぐらいに育っても抱きついてきたりしたら、どうだろう? 不愉快というよりは、気恥ずかしい心地になったりしないか?」


「それは……そうかもしれないが……しかし、お前は私の友でなく家人だ、アスタよ」


「うん、だけど、俺の暮らしていた世界では、家族同士でもあるていど育ったら、そうそうおたがいに触れ合うこともないんだよ」


 言いながら、何かデジャブを感じた。

 その答えは、右耳のすぐそばから提示される。


「その言い分は、以前にも聞いた。あれはたしか、宿場町で商売を始める前――ルティムの本家で宿を借りたときのことだな。あのときもお前は同じようなことを言っていたぞ、アスタ」


「うわ、懐かしいな。でも確かにそんな会話をしたような気がするよ」


「うむ。あの時は寝床についての論議であったな」


 ひと月以上も前の話なのに、よくそこまで覚えているものだ。

 などと感心していたら、いきなり横合いから首をつかまれた。

 目線は正面から動かせないが、たぶんヘッドロックをされている。


「そしてそのときも私は言ったはずだ。ここはお前の故郷ではなく、森辺の集落だ、とな。森辺の民となったからには、森辺の流儀に従うのが正しき道であろう、アスタよ」


「そ、それは確かにその通りだろうけど! 森辺の家族って、そんなに普段からべたべたひっついたりはしてないだろう? 俺はそんな光景、見たこともないぞ?」


「よその家のことなど知らん。家の流儀は家で決めるのだ」


 何だかちっとも論理的に感じられないのは、俺の気のせいなのだろうか。

 それはともかく、首と右肩が、異様に熱い。

 今までは風に流されていたアイ=ファの甘い香りが鼻腔をくすぐってくる。


「あ、危ないって! そこらの木に突っ込んじまうぞ!?」


「ギルルはそこまで間が抜けてはいない」


 そんな言葉とともに、熱い感触が頬にひたりと吸いついてきた。

 想像しただけで心臓に悪いのだが、このすべすべの感触は、たぶんアイ=ファのほっぺただ。


「……お前は不快な思いをしていたわけではないのか、アスタよ」


「え? な、何? あの、本当に事故りそうなんだけど!」


「気恥ずかしいの意味はやはり今ひとつわからんが、お前が不快な思いをしていないというのなら、それは嬉しい」


 ぎゅうっと首を圧迫されて、頬にもいっそう頬をおしつけられる。

 それと同時に、右の手首をまたつかまれた。


「また力加減がおかしくなっているぞ。心を乱すな、未熟者め」


 笑いを含んだ、アイ=ファの声。

 こんな状況で心を乱さない人間なんているものか、と俺は内心でわめいておくことにした。


 そんな中、ギルルは何も知らぬげに、力強く、かつ軽妙に、森辺の道をひたすら速歩で駆けていくのだった。

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[一言] なんで女を男と間違えただけで殴られないといけないんだ?不当な暴力じゃないか、これがドラマでも小説でも未だに蔓延る旧態依然とした腐った価値観か
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