研究の日々①~初日~
2025.7/21 更新分 1/1
・今回の更新は全7話です。
「なんだ。それじゃあけっきょく、その日も屋台の商売を休むことになるんだな」
残念そうな面持ちでそう言ったのは、建築屋のメイトンであった。
東の王都の使節団を迎えた翌日、青の月の十二日である。昨日の吟味の会はどうであったかと質問されたので、その流れで送別の祝宴についても語ることになったのだ。
「使節団がやってきたならばそういう役目を負わされるだろうと、あらかじめ聞かされていたではないか。何を今さら、うだうだと抜かしておるのだ?」
バランのおやっさんがうろんげに問い質すと、メイトンは頭をかきながら答えた。
「いや、そいつはもっと先の話だと思い込んでたんだよ。まさか、六日やそこらで出立するとは思ってなかったからさ」
「ふん。たったそれだけの期間で新しい食材を使いこなせと命じられた、こいつの苦労を慮るのが先であろうが」
と、おやっさんは仏頂面で優しいことを言ってくれた。
「送別の祝宴とやらは、十六日と言ったか? であれば、屋台も五日は開くことになるのだから、以前と同じ日取りではないか」
「うん、まあ、それはそうなんだけど……どうも今回はこれまで以上に、日が過ぎるのを早く感じまってさ。一日でも多く、アスタたちの料理を口にしたいんだよ」
と、メイトンもメイトンで嬉しいことを言ってくれる。
けっきょく建築屋の面々は、誰もが俺の胸を温かくしてくれるのだ。
「俺も気持ちは一緒ですよ。あと二十日足らずでお別れなんて、残念でなりません。でも、最終日にはまた盛大に祝宴を開きますからね」
「ありがとよ。嬉しいやら寂しいやらだな」
と、メイトンははにかみながら、おやっさんに小突かれつつ青空食堂に立ち去っていった。
それと入れ替わりで、《銀の壺》の面々が来店する。傀儡の劇の影響で中天前にずれこんだラッシュのさなか、俺はラダジッドに「いらっしゃいませ」と笑いかけた。
「昨日は何事もなく、使節団の方々にご挨拶ができました。そちらの晩餐会の日取りは決まりましたか?」
「はい。本日、城下町、招かれています。貴族、多数、同席するようで、緊張、否めません」
などと言いながら、本日も沈着で穏やかなラダジッドである。
「使節団の方々は、六日間しか滞在しないそうですよ。それでもラダジッドたちを晩餐会に招いたということは、ずいぶん《銀の壺》のことを気にかけているようですね」
「はい。ジギ、代表のごとき、扱いで、恐縮です」
「あはは。《銀の壺》は、それだけ立派な商団ですからね。俺も誇らしく思っています」
ラダジッドは微笑をこらえるように、口もとをわずかに震わせる。そして、後ろのお客にせっつかれるようにして、青空食堂へと消えていった。
それからほどなくして、リコたちの傀儡の劇が開始される。
十日間の特別公演の、ついに最終日だ。そのためか、食堂と道端にはいつも以上の見物客が集まっているように感じられた。
ちなみにリコたちも、これから城下町に出向くらしい。使節団の面々に『森辺のかまど番アスタ』をお披露目してほしいと依頼されたのだそうだ。ソムたちは短い期間をフル活用して、ジェノスのことを知り尽くそうとしているようであった。
そうして傀儡の劇が終了したならば、ラッシュの再開だ。
この変則的な混雑具合も、ひとまずは今日までである。それもまた、何だか物寂しいところであった。
その混雑が一段落したところで、お客ならぬ面々が登場する。
ユーミ=ランとジョウ=ランの若夫婦である。町用のショールとヴェールを纏ったユーミ=ランは、気さくに「やあ」と笑いかけてきた。
「今日も頑張ってるね。この辺りだけ、熱気が違ってるみたいだよ」
「うん。傀儡の劇の影響で、混雑する時間がずれこんだからね。……それにしても、ずいぶん早かったね?」
「うん。お屋敷に向かう前に《西風亭》に顔を出せばいいって、家長たちが気をつかってくれてさ」
ユーミ=ランは《西風亭》からの要請で、新たな食材のお披露目会に出向くことになったのだ。その開始の時刻まで、まだ一刻以上は残されているはずであった。
「これぐらいの仕事は、ビアひとりでどうにかできるだろうにさ。ま、ビア本人が不安がってるっていうから、しかたないけどね」
「うん。だけどまあ、ユーミ=ランが出向けば《西風亭》とラン家の両方に食材の情報を届けられるからね。それなら、一石二鳥じゃないか」
「いっせきにちょー? よくわかんないけど、責任も倍増ってことかな」
などと言いながら、ユーミ=ランは本日も朗らかな笑顔だ。ひさびさに実家に顔を出せるならば、それだけで喜ばしいことだろう。森辺に嫁入りしてひと月半ていどが過ぎて、ようやくこれが二度目の里帰りであるのだ。
「よう、こっちに挨拶はなしかよ、若夫婦さん」
と、隣の屋台からレビがからかうように声をかける。
ユーミ=ランもまた、笑顔で「うっさいなぁ」と振り返った。
「黙って順番を待ってなよ。あんたは婚儀を挙げたのに、ちっとも腰が据わらないね」
「お前にだけは、言われたくねえよ。ジョウ=ランの苦労が偲ばれるな」
そんな舌戦も、悪友ならではの気安さであろう。それに、俺の目から見れば、どちらも婚儀をきっかけにして大きく成長していた。
「この後は、いよいよ新しい食材のお披露目会だな。アスタから聞く限り、なかなか使い勝手は悪くないみたいだぜ?」
「ふーん? でも、ちょっとばっかり値が張りそうって話じゃなかった?」
「まあ、これまでの食材より安くはないだろうって話だな。ってことは、きっちり使いどころを考える必要があるってこった」
「まったく、難儀なこったね。こんなにドカドカ新しい食材が増えるのは、ありがた迷惑って気もしてきたよ」
と、大きく成長した両名であるが、この組み合わせになるともともとの気安さが強く表面化するようだ。
しかし、それはそれで微笑ましい光景である。ジョウ=ランも、とても嬉しそうな面持ちで二人のやりとりを見守っていた。
「じゃ、母さんたちが待ってるだろうから、そろそろ行くね。レビは、また後で。アスタたちも、頑張ってね」
「ありがとう。そっちも、気をつけてね」
ユーミ=ランとジョウ=ランも、往来の向こうに消えていった。
すると今度は、デルスとワッズがやってくる。屋台ではこうして順番にお客を迎えるのが常であったが、今日はひときわ波状攻撃めいていた。
「いらっしゃいませ。今日はゆっくりでしたね。傀儡の劇は、もう終わってしまいましたよ」
「こっちは商売で出向いておるのだから、そんなもんは二の次だ。それよりも、俺たちまで送別の祝宴なんぞというものに招かれてしまったぞ。これは、どういう冗談なのだ?」
と、デルスは不機嫌そうな面持ちでまくしたててくる。
しかしそれは俺も初耳の話であったので、何とも答えようがなかった。
「送別の祝宴って、東の王都の使節団のですか? どうしてデルスたちまで招待されることになったのでしょうね」
「だから、こっちがそれを聞いておるのだ。あいつらは、いったい何を企んでおるのだ?」
「いやぁ、俺にもさっぱりです。昨日の集まりだって、デルシェア姫は同席していませんでしたよ。……あ、でも、使節団の責任者の御方は、美食家であるそうです。それで、ミソを開発したデルスに関心を持ったのかもしれませんね」
「いやいやあ」と、隣のワッズが大きな手の平を振った。こちらは相変わらずの、呑気そうな笑顔だ。
「ミソだの美食だのは、関係ねえよお。なんせ、デルスの兄貴たちまで招待されてるんだからなあ」
「え? おやっさんたちが? そんなことは、ひと言も言っていませんでしたよ?」
「そいつはまだ、話が通ってないんだろうぜえ。俺たちはさっきまで宿の食堂に居座ってて、そこに貴族様の使者が参上したんだからよお」
どうやらデルスたちは、《南の大樹亭》の食堂で商談に励んでいたらしい。それで使者は主人のナウディスに、おやっさんへと言伝を頼んでいたとのことであった。
「さっぱりわけがわかりませんね。ただ、《銀の壺》の方々は晩餐会に招待されたそうなので……とりあえず、市井の人間に関心が強いのでしょうね」
「だからといって、南の民まで呼びつける必要はなかろうが? まったく、迷惑な話だな」
デルスはかつて商売上で貴族に痛い目を見させられた経験があるため、警戒心が強いのだ。いつもふてぶてしく笑っているデルスが、今日ばかりはおやっさんに負けない仏頂面であった。
そんなデルスたちも屋台の料理を買いつけて、青空食堂に引っ込んでいく。
そして、デルスの持ち込んだ謎が解けたのは、デルスたちが食堂から立ち去ったのちのことであった。
「ああ、どうも送別の祝宴ではデルシェア姫に参席していただく兼ね合いから、ジャガルの方々にお声をかけているご様子ですね」
そんな解答をもたらしてくれたのは、侍女のシェイラである。本日はアリシュナにカレーを届ける日取りであったため、俺の屋台に立ち寄ってくれたのだ。
「おそらくそれは、デルシェア姫が肩身のせまい思いをしないようにというご配慮であるのでしょう。使節団の団長であられるソムという御方は、とても公正なお人柄のようですね」
「なるほど。それじゃあそれは、ソムからの提案だったんですね?」
「もちろんです。ソム様のご要望に応えるために、ポルアース様が力を添えておられる格好となります」
ポルアースの侍女であるシェイラがそう言うなら、確かな話であるのだろう。
それに、ソムのころんとした姿を思い出すと、いっそう納得できる気がする。やっぱり彼は公正なだけでなく、アルヴァッハやダカルマス殿下に通ずる豪気さを持ち合わせているのかもしれなかった。
(まあ、おやっさんたちにも宴料理を食べてもらえるなら、俺にとっては願ったりかなったりだしな)
というわけで、俺もソムの判断に感謝の思いを捧げることにした。
そうして屋台の商売を終えたならば、森辺に帰還である。
いちおう事情を通達しておくべきかと考えた俺はその日の取り仕切り役であったララ=ルウに同乗を願い、帰り道でその役割を果たした。
「へえ、バランやデルスたちが祝宴に招かれたんだ? ほんと、ダカルマスみたいなことをするね」
「うん。ソムってお人は完璧に無表情だから内心がわかりにくいけど、けっこう大胆なお人なのかもね」
「リクウェルドなんかはすっごく真面目で、王国の掟に関しても厳しそうだったからなー。同じ外務官でも、人それぞれってことか」
俺は東の王都の民でも人それぞれという印象であったが、ララ=ルウはさらに細分化しているらしい。それもまた、彼女の外交気質のあらわれなのであろうと思われた。
「でもそれなら、《銀の壺》も招かれるのかもねー。アスタとしては、大満足でしょ?」
「そうなったら嬉しいけど、どうなのかな。これはあくまで、デルシェア姫に対する配慮だっていう話だしね」
「でも、晩餐会に招かれるぐらいなら、祝宴にも招かれるでしょ」
そんなララ=ルウの言葉が正しいことは、ルウの集落に到着した時点で判明した。こちらにも、城下町の使者から連絡が入っていたのだ。
「城下町の祝宴について、おおよそ内容が決まったそうだよ。アスタたちはちょうど忙しそうにしていたから、屋台には立ち寄らなかったらしいね」
ミーア・レイ母さんは大らかに笑いながら、そんな風に告げてきた。
「今回は、貴族じゃない東や南の民にも声をかけるんだとさ。それで、《銀の壺》のラダジッドなんかも招くから、ついでにシュミラル=リリンもどうだいって話だったね」
「ほら」と、ララ=ルウは白い歯をこぼす。
俺は内心で喜びを噛みしめながら、白旗をあげることになった。
「それはなかなか、予想外の展開でした。シュミラル=リリンも、参席が許されるんでしょうか?」
「そいつを決めるのはドンダだけど、ことさら断る理由はないだろうね。あと、祝宴の人数と料理の品数に関しても話があったよ」
祝宴に関しては、そちらが本題であるのだ。
それで話を聞いてみると、祝宴に招待するのは二百五十名であり、ちょっと人数がかさんでしまったため、俺ひとりで担うのが難しい場合は不足分をダイアが引き受けるという話であった。
「たとえばアスタが半分ていどの量しか準備できないようなら、残りの半分をダイアってお人が引き受けるってこったね。返事は祝宴の二日前……つまり、明後日の朝方にお願いします、だとさ」
「なるほど。それならこちらも、安心して取り組めます。しっかり配慮していただいて、ありがたい限りですね」
「こんな短い期間で新しい食材を使いこなせってんだから、それぐらい配慮するのは当然だろうさ。それで、森辺の民は三十名まで祝宴にお招きしたいって話だよ」
では、かまど番は十五名に厳選するか、それで足りなければ別室で晩餐を食してもらうということだ。現時点では献立も決定していないので、なんとも判断はつかなかった。
「それじゃあ、祝宴に向けて準備を進めるとします。かまど小屋をお借りしますね」
「ああ。さっき明日の下準備が終わったところだから、レイナもじりじりしながら待ちかまえてるはずだよ」
本日はよりぬきのメンバーで、新たな食材の研究を進める手はずであったのだ。俺が本家のかまど小屋に出向くと、まさしくレイナ=ルウが気合をみなぎらせながら待ちかまえていた。
「お待ちしていました、アスタ。準備は整っていますので、さっそくお願いいたします」
「うん。そっちも、お疲れ様」
明日は城下町の屋台もある日取りであり、現在はルウ家がトゥランの商売を受け持つ日程であったので、朝からみっちり下準備に取り組んでいたのだろう。かまど小屋には強い熱気が残されていたし、レイナ=ルウの熱情はそれ以上であった。
勉強会に参加するのは昨日のお披露目会に参加した八名と、ララ=ルウおよびミケルである。経験上、今日と明日で食材の特性をきっちりと把握して、具体的な献立の設定にまで進まない限り、四日後の祝宴に間に合わせることは難しいはずだった。
作業台には、新たな食材がどっさり準備されている。
送別の祝宴を任されている俺には、ひときわ大量の食材が無料で配分されたのだ。まあ、そうでなければこんな短期間で新しい食材を使いこなすことは不可能であった。
「ミケルたちも、もう味見をしているのですか?」
俺がそのように問いかけると、ミケルは仏頂面で「ああ」と応じた。
「ダドンの貝やらいうやつ以外は、昨日の晩餐で口にした。べつだん、使い勝手は悪くないようだな」
「ああ、ダドンの貝は下ごしらえに時間がかかりますからね。あれも使い勝手は、他の食材に負けていませんよ」
俺がそのように答えると、レイナ=ルウがすかさず身を乗り出してきた。
「確かにこれらの食材は使い勝手がいいので、さしたる手間もなく料理に仕上げることがかなうのでしょう。そうして手軽に扱える反面、一線を画した出来栄えを目指すのは困難であるという面があるのかもしれません」
「ああ、それはそうかもね。まあ、気負わずに楽しみながら、頑張ろう」
それはレイナ=ルウ本人ではなく、トゥール=ディンやマルフィラ=ナハムが委縮しないようにという配慮であった。
(まあ、マルフィラ=ナハムはどんなに目を泳がせても、そこまで萎縮はしないだろうけどな)
ともあれ、食材の研究である。
明日にはセルフォマも顔を出してくれるという話であったので、今日のところはこのメンバーで最善を尽くすしかなかった。
「ダドンの貝は明日じっくり取り組むとして、まずはヴィレモラがらみの三種かな。あらかじめ、俺の印象を伝えておくと……ヴィレモラの身は選択肢が多くて迷う感じ、魚卵は使いどころが難しい感じ、ヒレは未知数な部分が多いって感じかな」
「はい。ヴィレモラの身は、ジョラの油煮漬けで学んだことを活かせそうですね。さらにこちらは身がほぐされていないので、団子に仕上げるまでもなくさまざまな料理で扱いやすいということですか」
「うん。ギバとの相性まで考えると、あれこれ時間がかかりそうだけど……それは、森辺の民としての課題だからね。まずは今回の祝宴に相応しい献立の開発に集中しようと考えているよ」
「ヒレの未知数な部分が多いというのは、どういう意味なのでしょう? もう少し詳しくお願いいたします」
やはりまずは、レイナ=ルウがぐいぐいと切り込んでくる。その積極性は、勉強会を大いに活性化させているはずであった。
「ヴィレモラのヒレは無味無臭で、煮汁の味わいをたっぷり取り込めるって話だったよね。でもやっぱり、あの独特の食感との相性はあるだろうからさ。あと、油分の強い煮汁でも同じように吸収するのか、後掛けの調味料だとどんな味わいになるのか、色々と試行錯誤が必要になるんじゃないかな」
「ああ、確かに……煮汁を吸わせた上で後掛けの調味料まで使うとなると、さらに選択肢が増えてしまいますね」
「うん。あとこれは、菓子にも応用できるんじゃないかな?」
俺が視線を向けると、トゥール=ディンは「は、はい」と背筋をのばした。
「甘い味をしみこませたら、菓子に仕上げることも可能であるのでしょう。ただ、それで好ましい味わいになるかどうかは……まだちょっと想像がつきません」
「うん。あの食感を、上手く活かせるかどうかね。でも、トゥール=ディンだったら素晴らしい菓子に仕上げてくれそうだなぁ」
「と、とんでもありません。今回は、べつだん依頼も受けていませんし……」
「うん。無理をする必要はないからね。もし祝宴に間に合うようだったら、よろしくお願いするよ」
もちろん祝宴にはオディフィアも招待されるのだろうから、トゥール=ディンは懸命な面持ちで「はい」とうなずいてくれた。
「あとは、魚卵ですね。やはり、ジョラやフォランタの魚卵と同じような使い道を考案するべきなのでしょうか?」
「うん。俺の故郷では、ちょっと別枠の食材っていう印象だったけど……そんな固定概念にとらわれる必要はないだろうからね。まずはそこを足がかりにして、色々と試してみようと思うよ」
そうして事前のディスカッションを終えたならば、いざ試食の品の調理である。
まずは、ヴィレモラのヒレにはどのような煮汁が相応しいかを見定めるために、さまざまなスープを作りあげる。同時進行で、ヴィレモラの身と各種の油の相性も確認しておくことにした。
「ヴィレモラの身は淡白な味わいだから、どんな油でもそこそこ調和すると思うんだよね。その中で一番好ましいのはどの油か、確認してみよう」
「ふん。その相性も、味付けひとつでひっくり返るのだろうがな」
それは、ミケルの言う通りである。また、使い勝手がいいがために、いっそう選択肢は広がるのだろうと思われた。
「それにしても、ダドンの貝というのは取り扱いが難しいですよね! 下ごしらえだけで一日半もかかるなんて、びっくりです!」
と、圧力鍋でギバ骨の出汁を取っていたレイ=マトゥアが、蓋に設置された呼び鈴の動きを見守りながら発言した。
「おかげで、今日の勉強会には間に合いませんでしたし……もしも祝宴で使うとしたら、明後日にはもう下ごしらえを開始しないといけないわけですよね? だったら、明日一日しか研究の時間がありません!」
「うん。それで無理が出るようだったら、すっぱりあきらめるしかないね。見込み発車で、二百五十名分の下ごしらえは始められないからさ」
しかしまた、ダドンの貝は単体で素晴らしい味わいであると同時に、熱を通しすぎてはならないという制限があるのだ。それらの特性を考慮して、簡素な料理に焦点を絞れば、一日で素晴らしい料理に仕上げられる可能性は残されていた。
「さっきレイナ=ルウも言っていた通り、使い勝手がよすぎて心配になるぐらいだね。あまりに簡単な料理に仕上げたら、ソムに失望されちゃいそうだしさ」
「ふん。いっぺんぐらい失望されたほうが、お前さんも苦労が減るのではないか?」
ミケルの言葉に、レイナ=ルウが愕然とした面持ちで振り返る。
それに気づいたミケルは、仏頂面のまま溜息をついた。
「ただの軽口に、そうまで眉を吊り上げる必要はあるまいよ」
「い、いえ。ミケルの軽口というのは、珍しいので……あくまで軽口であり、本意ではないのですよね?」
「俺はお前さんほど、貴族からの評価を重んじていないということだ。それが森辺のかまど番として不心得だというのならば、本家の人間として存分に説教するがいい」
「あはは。同じ本家の家人として言わせてもらうなら、レイナ姉が入れ込みすぎなんだよ」
と、ララ=ルウが笑顔で取りなした。
「だけどまあ、アスタの手腕で外来のお偉方をもてなすっていうのは、すっかり通例になっちゃったからね。それってけっこうな重責のはずだから、ミケルは心配になっちゃうし、レイナ姉は入れ込みすぎちゃうんだろうね」
「ふん。当人は、いたって呑気にしておるがな」
「うん。アスタがそれを苦にしていないから、ポルアースたちも気兼ねなく頼めるんだろうね」
と、ララ=ルウは笑顔のまま俺のほうを見つめてきた。
「あたしは貴族とたくさん交流するようになってから、アスタの影響力ってやつをものすごく実感しちゃったんだよ。たぶんアスタはマルスタインに勲章をもらってもおかしくないぐらい、ジェノスに貢献してるんだと思うよ」
「あはは。俺は楽しんでやってるだけだから、そんなもんをもらっちゃうのは恐縮の限りだね」
「うん。ただあたしは、占星師の気持ちもわかってきちゃったよ。アスタは本当に、ジェノスの運命を左右するような大仕事を果たしてるんだろうからね。それが『星無き民』とかいうやつの役割だっていうんなら、それこそ御伽噺の主人公が目の前で動いてるような気分なんじゃないかな」
あくまで無邪気な笑顔のまま、ララ=ルウはそう言った。
勉強会のさなかにそんな話題が持ち上がるのは、きわめて珍しい話である。他の面々などは、おおよそきょとんとしていた。
「それでララは、何が言いたいのー? そーゆー話は、アイ=ファがいやがると思うよー?」
リミ=ルウが真正面から問い質すと、ララ=ルウは深刻ぶることなく肩をすくめた。
「あたしはただ、アスタのことが誇らしいだけさ。それなら、アイ=ファも怒ったりしないでしょ?」
「うん。それだけなの?」
「それだけだよ。あたしらはアスタにめいっぱい感謝してるし、めいっぱい尊敬してるつもりだけど、実は全然足りてないんじゃないかって思えるぐらいさ。アスタはそれぐらい、すごいことをしてるからね」
そんな風に言ってから、ララ=ルウはにっと白い歯をこぼした。
「ただ、それをあんまり突き詰めると、フェルメスやガーデルみたいになっちゃいそうだからさ。アスタのことを気安く小突くぐらいで、ちょうどいいのかもね」
「まったくだよ。みんながフェルメスたちみたいになったら、俺は身の置きどころがなくなっちゃうからね」
俺もまた、笑顔でそんな風に答えることができた。
「でも、ララ=ルウに誇らしいなんて言ってもらえるのは、嬉しいよ。どうもありがとう」
「そりゃどうも」と、ララ=ルウはまた気安く肩をすくめる。
それもまた、話が深刻にならないようにという配慮であるのだろう。『星無き民』やガーデルのことまで引っ張り出すということは、きっとララ=ルウも深刻なレベルにまで俺のことを考えてくれたのだ。
その上で、ララ=ルウはララ=ルウらしい笑顔を浮かべてくれている。
きっとあれこれ思案した上で、俺のことを英雄みたいに扱うのは間違っているという判断を下したのだろう。俺はララ=ルウの聡明さと純真さに、心から感じ入ることになった。
そうして時にはそんな常ならぬ話題に興じながら、俺たちは新たな食材の研究を進めることに相成ったのだった。




